Posted on 2015/02/9
2007年の久石譲インタビューです。
インタビュー掲載当時の紹介プロフィールをご覧いただくとその時期の音楽活動内容も垣間見ることができます。ちょうどオリジナル・アルバム「Asian X.T.C」を発表した時期です。
「作家で聴く音楽」 JASRAC会員作家インタビュー
– PROFILE –
1950年長野県生まれ。国立音楽大学在学中から現代音楽に興味を持ち、コンサート、演奏、プロデュースを数多く行う。1982年、ファーストアルバム「INFORMATION」を発表し、ソロアーティストとして活動を開始。以降、「Piano Stories」、「My Lost City」、「地上の楽園」、「WORKS」、「Shoot The Violist」、「ENCORE」、「ETUDE~a Wish to the Moon~」、「Asian X.T.C.」など多数のソロアルバムを生み出す。
映画「風の谷のナウシカ」以 降、宮崎駿監督の「となりのトトロ」、「もののけ姫」や、北野武監督の「HANA-BI」、「菊次郎の夏」など50本以上の映画音楽を担当し、これまで数度にわたる日本アカデミー賞音楽賞最優秀音楽賞をはじめ、第48回芸術選奨文部大臣新人賞(大衆芸能部門)、淀川長治賞など、数々の賞を受賞。また、サントリーCM「伊右衛門」の音楽で第45回ACC広告大賞の最優秀音楽賞を受賞するなど、CM音楽の分野でも活躍している。
1998年に開催された「長野パラリンピック冬季競技大会」式典・文化イベントでは、プロデューサーとして総合演出を担当。2001年には「Quartet カルテット」で自らも映画監督としてデビュー。音楽・脚本(共同)をも手がけ、高い評価を受けたほか、同年に福島県で開催された「うつくしま未来博」でもメインイベントの総合演出を手がけ、日本初のフルデジタルムービー「4MOVEMENT」を監督第2作目として発表するなど、多方面にわたりその才能を発揮している。
2004年には、“新日本フィル・ワールド・ドリーム・オーケストラ”の初代音楽監督に就任。現在までに4回の全国コンサートツアーを敢行している。また近年は、韓国映画「トンマッコルへようこそ」での音楽監督、香港映画「A Chinese Tall Story」での音楽監督、中国映画「叔母さんのポストモダン生活」、「The Sun Also Rises」の音楽を担当するなど、アジアでの活躍も多彩。
最近では、公開中の映画「マリと子犬の物語」、宮崎駿監督作品「崖の上のポニョ」(2008年夏公開予定)、キム・ジョンハク監督による韓国ドラマ「太王四神記」の音楽制作を手がけるなど、その活躍はとどまるところを知らない。
「千と千尋の神隠しBGM」で2003年JASRAC賞金賞、「ハウルの動く城BGM」で2007年JASRAC賞金賞を受賞。1980年3月からJASRACメンバー。
作曲家を志すまで
僕は信州中野の出身です。信州中野は、作曲家の中山晋平さんや、作詞家としても知られる国文学者・高野辰之さんなどを輩出した土地なのですが、音楽教育が特に熱心な土地というわけではないと思います。僕の場合、たまたま「鈴木慎一バイオリン教室」が近くにあったので通い始めたんです。4歳の頃でしたから詳しいことは憶えていませんが、おそらく自分から言い出したんだと思います。
音楽をやっていこうというのは、その頃から思っていましたね。考えるというよりも、それが当然だと。ただ、中学生くらいになって、具体的に音楽でどの道に進もうかと考えたときに、自分は演奏に興味があるほうではなかった。トランペットは結構上手かったんですけどね(笑)。でも、トランペットを演奏して誉められるよりも、下手なアレンジでも一生懸命譜面を書いて、それをみんなに聴かせるときのほうがずっと楽しかった。それで、中学2年生くらいのとき、作曲家になろうと思ったんです。
尖っていた大学時代
上京して東京の音大に進んでからは現代音楽にのめり込み、武満徹さんやクセナキス、シュトックハウゼンなど様々な作家の作品を聴きあさりました。また、自分の曲を発表する場をつくるため、5、6人の作曲家の新作展みたいなものを自分でプロデュースして開いたりもしていましたね。学生とはいえ、発表会程度で済ませるのは絶対に嫌でした。ちゃんとしたホールで、一流の演奏でコンサートを開きたいと思って、有名な作曲家に作品を依頼したり、すごく安い謝礼でNHK交響楽団の人たちに演奏をお願いしたりしていました。大学の先生が売り込みに来たこともありましたよ。「次は僕の曲をやってほしい」とか(笑)。まあ、そんなやり方をしていたから学校では目立っていたし、傍から見たら尖った学生だったと思いますね。
知的な興奮のない音楽には興味がない
大学在学中に、現代音楽の新しいジャンル、ミニマル・ミュージックに出会いました。ミニマル・ミュージックとは、非常に短いフレーズをわずかに変化させながら繰り返すことで、微細な変化がとても重大な変化に感じられるようになる、いわゆる前衛音楽です。僕はこの音楽に魅せられ、20代の大半はミニマルの作曲家として活動していました。小規模の映画やテレビの仕事のほか、レコードのアレンジなどはしていましたが、メインは現代音楽でしたね。30代前半くらいからはポップスの領域にもフィールドを広げて今に至るわけですが、僕のベーシックな部分は、驚くほど当時と変わっていません。映画音楽などを手がけるようになったことで、作品にメロディという要素が加わりましたが、基本的に自分は現代音楽の作曲家だと思っています。知的な興奮のない音楽には興味がないんですね。ですからクラシックに凝り固まるのも好きではないし、単にポップスっぽいものにも何だかあまり興味がない。自分のスタイルを模索していく中で、表現したい音楽に近い方法を選んできたということです。
1枚のCDを介したリスナーとのコミュニケーション
若い頃は、文化に立ち向かうような気持ちで、客が誰もいないところで前衛音楽をやっていましたから(笑)、もっと尖っていきたい、もっとアートに突っ走ってしまいたいという欲求は今でも持っています。ただ僕は、久石譲のそういう側面を理解してくれている人たちのためだけに音楽をつくっているわけではありません。僕の音楽を聴いてくれる人たちには、『風の谷のナウシカ』や『となりのトトロ』から入った人もたくさんいるわけです。それは言わば、久石譲の全国区的な、NHK的な側面ですよね。そういった一般の人たちに「あれ?」って思わせてしまうのは失礼かな、という思いはある。ですから、尖りすぎたアルバムをつくった後には比較的わかりやすいものをつくるとか、その辺りのリスナーとのコミュニケーションの取り方というのは常に考えてアルバムを制作しています。
そういう意味では、昨年リリースした『Asian X.T.C.』は、方法論として良かったのかどうか、まだ自分の中で結論が出ていない作品です。この作品では、ちょっとポップス寄りのメロディアスな作品と、ミニマルの攻撃的な姿勢の作品を、昔のレコードのようにA面とB面で完全に分けてしまうという方法をとりました。音楽家の意図としては非常に明快ですし、作品としてもすごく納得しているつもりなんですが、あのような形式が本当にリスナーとコミュニケーションを取れる方法だったのか。それを考えると、まだちょっとクエスチョンマークが付いていますね。
本当に気に入った作品を、まだ書いていない
納得がいく作品というのはなかなかないんですよ。例えば、1本の映画で30曲ほど書くわけですが、メインテーマについてたとえ皆が「すごくいい」と喜んでくれたとしても、その30曲のうち5、6曲は「こんなはずじゃなかった」という気持ちがある。弦の書き方とか、メロディラインにインパクトが少ないとか、いろいろ引っかかるんですね。ソロアルバムを制作しても、収録した10数曲の中にはそういう曲が何曲かあって、でもまあいいかと思って入れてしまったものが、やっぱり自分の中で引っかかっていたりします。あるいはアルバムのコンセプト自体、もうちょっと尖ればよかった、ちょっと迎合しちゃったかな、とか。そうすると、できなかったことを次の仕事で確実にクリアしたいという思いが強くなる。でも、それをクリアすると、また別の課題が出る。どんな場合でも満足することがないから、次の可能性に向けてチャレンジができるんです。経験したり勉強することで身につくことが必ずありますから、表現するということは一にも二にも勉強だと思います。
納得のいく作品をあえて挙げるとすれば、1992年に発表した『My Lost City』というソロアルバムと、2003年の『ETUDE』というピアノのソロアルバムでしょうか。この2枚は、世間での評価とは関係なく、あのときにあの作品ができたことがすごく良かったと思える作品ですね。
映画監督を経験してわかったこと
映画音楽は今までたくさん手がけてきましたが、2001年に、弦楽四重奏団を題材にした映画『カルテット』を自分で監督したときには、映画を撮るということはこんなに怖いことかということを痛感しましたね。映画監督の場合、例えば主人公が何を着るのかまで全部決めなければなりません。いくつか選択肢がある中で、自分が選んでいるものというのは、結局自分が好きなものなんですよ。黒いTシャツに黒めの服とか、気づいたら普段自分が着るものなんです。音楽というものは抽象的ですから、作品を聴いてもその音楽家の人格まではわかりませんが、映画の場合、いいと思うことを素直にやっていくと、そのままの自分が出てしまう。「これはいやだな」と思いましたね(笑)。おそらくプロの監督の方だったらまた違うんでしょうけれども。撮影はとにかく大変でしたが、映画監督を経験して得たものは、その後の映画音楽の制作にも非常に役立っています。
音楽家にとって日本人であることとは
僕の音楽は、宮崎駿さんや北野武さんの映画に使われていることもあり、世界中で流れていますし、たくさんの国から作曲のオファーが来ます。仕事をするうえで、日本を背負っているという意識はありませんが、日本人であることの誇りは持っていますね。ただ、音楽家にとって重要なのは国籍ではなく、“どういう曲をどういうレベルで書けているか”ということ。ですから、日本の映画音楽を1本手がけるとしても、そこで書く音楽、たとえば弦の書き方は、それ自体は絶対にジョン・ウィリアムスには負けたくない、負けちゃいけないという志を持っています。クラシックの作曲家のスコアを見てもわかるとおり、弦の書き方ひとつとっても、精度を極めた緻密な書き方が世の中にたくさんあるわけです。自分はそれと比べ、どのくらいのレベルに達しているか。そういうことはすごく考えますね。そして、考え抜いていった先の個性という段階で、自分が日本で生まれ育ったという、この環境で育まれた良さがきっとあるだろうと考えます。ですから、自分が日本人であるとかアジア人であるというのは非常に深い部分で出てくるべきことであって、安易にアジアのエスニック楽器を使ってしまうとか、そういうようなレベルでの仕事のし方は良くないと思っています。
とはいえ、近年はアジアでの仕事も増え、以前よりも自分がアジア人であることを意識するようになりました。日本人は、長い間欧米を見習いながらやってきましたから、殊に音楽の面では、アジアは遠い存在になっているところがある。けれども、自分たちがアジア人であることは間違いないわけですから、そこでのアイデンティティのあり方というのは大いに考える必要があると思っています。
国によって違う著作権の意識
著作権法は国によって微妙な違いがありますよね。日本で上映されることを前提に制作した映画音楽が外国で使われた場合、どちらの国の著作権の考え方を適用するかなどでは、僕は外国とも結構闘ってきたつもりです。宮崎駿さんの映画以前には、邦画が海外で本格的に上映されることはほとんどありませんでしたから、そうした権利主張をしたのは、おそらく僕が最初だったのではないかと思います。そうした経験から言えば、もうちょっと世界で統一されたルールがあればいいな、とは思います。ただ、日本の法律の考え方を曲げてまで、中途半端に外国に媚びを売る必要はない。「日本はこうやって作家を保護している」というやり方があるなら、それをきちんと主張していくべきだと思いますね。
アジアの国々の「著作権の意識の低さ」もよく指摘されるところです。でも、ついこの前まで日本も同じようなものでしたから、偉そうなことは言えないと思いますね(笑)。著作権というのは、オリンピックを開催する頃から意識が高まってくるんです。オリンピックを成功させるためには、スポーツだけではなく、知的な部分も含めたコミュニケーションを世界的に図れる体制をつくらなければいけませんから。韓国が著作権について意識しだしたのはソウルオリンピックの頃だと思いますし、日本だって、新しい著作権法が施行されたのは東京オリンピックの後でしょう。来年は北京ですから、中国に関しては少しずつ良くなっていくのではないでしょうか。
北京などでは、僕のCDは数年前に発売されたばかり。ところが、去年コンサートを開いたところ、チケットは即日完売で、ものすごい人なんです。しかも、全員僕の曲を知っているんですよ。発売されていないものまでインターネットで聴いている。だったら、「聴くな」という統制をするのではなく、きちんと流通させたうえで著作権を保護した方がよほどいい。人々の「聴きたい」という気持ちに歯止めをかける理由はどこにもないですよね。
僕にとって音楽とは
一般の方は、作曲家というのはルーティンワークからは一番縁遠い職業のひとつだと思っているでしょうが、僕などはむしろ、サラリーマンの方より規則正しい生活をしているかもしれません。サラリーマンの方とは6時間くらいずれていますが(笑)、それはもう判で押したような生活ですね。朝起きてシャワーを浴びて、食事をとる。13時くらいから曲づくりを開始して、夜中まで。帰ってきて、ちょっとお酒を飲んで寝る。こんな日常の中で、ルーティンワークのように延々と同じことを繰り返していると、やっぱり苦しくなって、逃げたくなるときはありますよ。それでも音楽を続けるのは、僕にとって音楽は、生きることそのものだから。今までずっと、僕は音楽を通して世の中を見て、音楽を通して生きるということを考えてきました。そして、これからもそうするでしょう。「音楽」というのは、イコール「生きること」なんです。僕にとってはね。
(「作家で聴く音楽」 JASRAC会員作家インタビューより)