Blog. クラシック音楽の洗礼 ~クラシックプレミアムを終えて~

Posted on 2015/12/30

注)
長編になってしまいましたが、結びは久石譲で締めています。久石譲音楽・久石譲コンサートの新しい楽しみ方も!? どうぞご辛抱のほど。

 

2014年1月に創刊したCD付きマガジン「クラシック・プレミアム」(全50巻)も、2年間をかけて2015年12月最終号にて完結しました。2週間に1巻のペースで刊行、毎号読んで聴いて楽しませてもらいました。

小中学校の音楽授業で必ず聴くクラシック音楽ですが、それですべてがわかるはずもなく。余談ですが、小学生がベートーヴェンの「運命」やドヴォルザークの「新世界より」を聴いてそれと答えられるのは日本人くらいだそうです。それだけ明治教育改革時に西洋音楽が教育現場に流れこみ、今日まで習慣として残っている現れとも言えます。

広く浅くしか扱えない音楽の授業で、表面的にクラシック音楽と接し、第一印象で距離をおいてしまう要因のひとつにも。日常生活で小学生が聴いているアニメソングやポップスとはあまりにもかけ離れた音楽。なにが良いのかわからないけれど、すごいと言われているからすごいんだろう、と触れることなく遠くから眺めるだけの骨董品のよう。

 

久石譲がここ数年クラシック音楽の指揮をすることで作曲家としての新たな次元へと試みているという点からも、やはり久石譲を語るうえである程度のクラシック音楽は知っておいたほうがいい、久石譲から飛び出すキーワード(作曲家、作品、用語など)を知っているいないでは、その真意の理解度も変わってくる、などの最もらしい理由もありますが、直感的には「久石譲エッセイ」が毎号読める楽しみということが大きなきっかけであったことは間違いありません。

そのことは最終号のクラシックプレミアム・レビューにて少し述べています。

 

そして見事に『クラシック音楽の洗礼』を受けました。

なんでこんなにクラシックってとっつきにくいんだろう?と考えたときに、古典である、膨大な作品群、演奏時間の長さ、そのわりに一聴して印象に残るキャッチーさの少なさ、、こういったところが一般的だと思います。もっと言えば、約1時間聴かないと作品の全体像はわからず、さらに聴いた後にはスッキリどころかハテナな難解さしか残らない消化不良な感じ。明らかにポップスをはじめとした約4-5分で完結する今日の大衆音楽とは両極に位置する芸術音楽、それがクラシック音楽です。

乗り越えるためには、どれかひとつの作品でもお気に入りを見つけられると、それが突破口となり開けていくのですが、クラシック音楽を宇宙にみたてたときに、ポーンとその広い無限空間に放り出されて、手探りしようにもどこを彷徨ったらいいやら、そんな感覚におそわれます。

 

ここからは、クラシック音楽を日常的に聴くことになった2年間、クラシック宇宙空間で彷徨いながら目の前に立ちふさがった洗礼の数々。整理のために書き留めておくことがテーマです。

 

クラシック音楽の洗礼 其の一「指揮者」

名指揮者と呼ばる人だけでも何人いるのかというくらい指揮者はたくさんいます。フルトヴェングラー、カラヤン、ワルター、ラトル、バレンボイム、バーンスタイン、挙げればきりがない。そして指揮者の個性は一番色濃く作品に反映されると言ってもいいくらい、鳴る響きも印象も大きく変わってきます。全体の構成、テンポ、どの楽章やパートに重点を置くか、どの楽器を際立たせるか、など。最も大切で核の部分「指揮者の作品解釈」です。

 

クラシック音楽の洗礼 其の二「演奏者」

世界にはたくさんのオーケストラ楽団やプレイヤーがいます。演奏技術に得意分野、お国柄や風土、継承された歴史や楽器、それらすべてのバックボーンが音として具現化される、大きな違いが生まれます。ウィーン・フィルとベルリン・フィルがよく比較されますがそれと同じです。シンプルなピアノ曲であっても、奏者によってまったく違う音楽世界を作りだします。

 

クラシック音楽の洗礼 其の三「録音時代」

「指揮者」と「演奏者」に注目して、それを手がかりにと思った矢先に待っていたのが録音時代。同じ指揮者/演奏者の組み合わせでも、50年代に録音したもの、70年代に録音したもの、まったく演奏が違う。録音環境という点は後述に置いておいて、その時代ごとの指揮者の「作品解釈」が変わっているということ、オケの団員構成(成長期/円熟期)や指揮者との関係性も影響が出ていたりする。

考えてもみれば指揮者が同作品を度々取り上げるということは、作品への想いや作品解釈が変化した、指揮者としての成長、今イメージする音楽世界を再表現したいということですから、演奏が変わってしかり。同じカラヤン/ベルリン・フィルならどの時代の録音でも大差ないだろうと構えていたら大間違い、大目玉を食らうことになります。

 

クラシック音楽の洗礼 其の四「録音環境」

レコーディング用のセッション録音か、コンサートを収めたライヴ録音か。緻密にレコーディングされ完成度を追求した前者のほうがいい仕上りとして当然と思いきや、ライヴ盤の一期一会の演奏にはかなわないといった名盤も数多く存在します。ただ「このライヴ盤はすごい!」と感動の逸品に出会えたとしても、録音もよかったとしても、聴衆の咳など雑音が入ったりすることの多いのが難点ではあります。

 

 

ここで一呼吸です。

ひとつの作品に名盤はたくさん存在します。「新世界より/ドヴォルザーク」で調べると、クラシック・ファンの多くの作品レビューが参考になります。でも実際に聴いてみると、なんか違う、そんなにいいかな、と自分にはしっくりこないことが多々出てきます。そこで上記「指揮者/演奏者/録音時代/録音環境」これをひとつの自分のベンチマーク(ものさし)として持っておけばいいのかと。

この指揮者は好きだな相性がいいかも、このオケは低音が響きすぎて他の管弦楽が聴こえにくい、音の細部まで聴きたいからセッション録音ものを探そう、わりと新しめの80年代以降が音質はいいかも。

そういった条件を精査していって自分なりに探していく。もちろん予想の当たり外れはありますが、むやみに自分のものさしもないままに、、、撃沈してしまう。第一印象が悪かったせいで作品の良さを理解できぬまま、結果その作品からもクラシック音楽からも離れていってしまう、なんて要因にもなりかねません。それは避けたいもったいない。

 

ここからは少し細かくなっていきます。

 

クラシック音楽の洗礼 其の五「年版/改訂版」

作曲家自身による同一作品の何年版や改訂版。当然作品構成が変化していますので、その完成版はそれぞれに異なります。楽器編成をかえて新たに再構成する場合もあります。作曲家自身によるピアノ版、弦楽四重奏版、など。

 

クラシック音楽の洗礼 其の六「編曲版」

クラシック音楽にももちろん編曲は存在します。編曲を経てクラシック(古典)となっている作品も多いです。ピアノ版、管弦楽版、弦楽四重奏版などと表記して区別しています。また「年版/改訂版」(作曲家)とは異なり、他者による再構成の場合をさすことが多いです。

例えば、「展覧会の絵/ムソルグスキー」はもともとピアノ曲です。オーケストラ用に編曲された管弦楽版のほうに馴染みがある場合もあります。その管弦楽版もラヴェル編曲、ストコフスキー編曲など幾多存在します。CD紹介に「展覧会の絵/管弦楽版(ラヴェル編)」とあれば、それとわかりますが、明記されていないものは聴く前にわからないこともしばしば。上の二者編曲版がそれぞれ有名ですが、はたしてこれまで自分が聴いてきて好きだと言っていたのは、どちらの編曲版をさしていたのか、実は知らなかったりなんてこともあるかもしれません。

 

クラシック音楽の洗礼 其の七「補筆版」

作曲家が生前に完成できなかった作品、もしくは完成しているはずだけれどオリジナル譜が保存されていない。やむを得ず他者が補筆することがあります。

例えば、モーツァルトの「レクイエム」、大きくは二人の弟子による2つの補筆版がありますが、これは「編曲」以上に聴く前には情報としてわからない場合が多い。「レクイエム/モーツァルト(XX補筆版)」なんてCD表記はあまり見たことありません。未完作品の補筆であれば、作品構成や楽器構成は大きく変わってきます。書き足された旋律や楽章も発生します。名盤といわれるものでも、どの補筆版を採用しているか、それは指揮者の判断に委ねられています。同じ指揮者で異なる補筆版を使い分けることはないのかもしれない、そのくらいの指標は成り立つのかもしれません。

 

クラシック音楽の洗礼 其の八「スコア版」

「補筆」に近いですが、オリジナルスコアの保管状態が良くなかったり、完全に採譜されていなかった作品などに対して、複数のスコア版が存在します。これによってどこに違いがでてくるのかは、正直理解不足なのでわかりません。スコアが異なっても結果演奏する響きは変わらないのかもしれませんし、主題などの繰り返し(コーダ)があるか否かや、パート楽器への細かい演奏指示表記かもしれません。「補筆」ほど作品構成に大きな差異が生じるものではないだろうことは確かです。当時の資料や自筆譜の発見や研修をすすめるなかで、修正されていくこともあるでしょう。

 

 

ここでひと呼吸です。

ひとつの作品にはひとつの完成版しか存在しない(楽器編成が同一の場合)、「指揮者や演奏家」によって表現方法と響きの違いを見極めれば、、と思っていたところに、様々な要因で複数の解釈版が存在するという洗礼を受けることに。これらが作品に与える影響は少なくなく、印象や感想も何版に触れるかで変わってくる、ますます迷路の深みにはまっていきます。

 

 

クラシック音楽の洗礼 其の九「楽器時代」

何百年前のクラシック作品を、現代の楽器で演奏することが今日の主流です。ところがある時代を境に、作曲家が作曲した時代、演奏した時代の楽器で演奏することを尊重する風潮が生まれました。古楽器(ピリオド楽器)と言われるものです。

弦楽器も管楽器も、ピアノも、時代とともに進化して現行楽器があります。それらを使って古典を演奏するのか、楽器も時代をタイムスリップさせて、当時の楽器で演奏することで、より作曲家の意思や意図する作品に近づけようとするのか。

とりわけ管楽器などは見た目の形状すら大きく変化していてすぐにわかり、音色としての響きも、現行楽器と弾き比べれば明らかに違うとわかるものもあります。楽器の出せる音域の幅が変化した楽器もあります。有名なモーツァルトのクラリネット協奏曲など、単一楽器に耳を澄ませらせる作品はわりと比較しやすくはなります。

CD紹介で、ピリオド楽器を使用しているのか、通常の現行楽器なのかは、作品レビューなど聴者コメントを参考にしないとわからない場合が多いです。もちろん古楽器演奏での普及に貢献した指揮者などがいますから、そこも切り口のひとつにはなります。

 

クラシック音楽の洗礼 其の十「楽器配置」

作曲者が指定している場合もあれば、指揮者の解釈によるものもある、演奏するときの主に管弦楽の楽器配置です。現在のスタイルは、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが同セクションとしてステージ向かって左側に集合しています。一方、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンを左右対称に分ける配置もあります。「対向配置」や「古典配置」と言われるものです。そのほかにも現行スタイルなら、一番右端にコントラバスがきますが、対向配置においては、第1ヴァイオリンの奥、左奥に位置していることもあります。

これがなにを意味するのか。作品構成、作品解釈、ホールの響き、演奏会ごとに試行錯誤されていることも。配置いかんでその集合体となる管弦楽の響きは変わってきます。現行スタイルでは、弦楽器が集合している(高音から低音へ、左から右へ、1st/2nd Vnからbassへ)ため、弦の響きがまとまる効果があります。一方第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが旋律をかけあう作品など、対向配置のほうがそれぞれの旋律が埋もれることなく際立つという効果があります。

また「古典配置」と言われるくらいですので、古典派・ロマン派時代は「対向配置/古典配置」が主流でした。よって作曲家も対向配置を想定して作品を書いていたことになります。現行スタイルが主流となったのは20世紀以降です。これは録音環境を優先し、管弦楽の配置全体を高音から低音へ、左から右へと流したほうが録音に適していたからと言われています。

もうひとつ、楽器の配置は演奏機会の時代変化も影響しています。演奏場所がどんどん広くホールが巨大化したときに、大きな音の塊やうねりとなる現行スタイルのほうが向いています。さらに言うと、楽器セクションごとのコミュニケーションやアイコンタクトという奏者にも影響がでてきます。対向配置をとる場合は、より指揮者がそれぞれのパートに的確な指示やひっぱっていくことが求められます。

……

これを知っている醍醐味は、やはり実際に演奏会に足を運ぶことでしょう。楽器配置とは、言わば指揮者/オーケストラの作品解釈の見える化です。どういう音を響かせたいか、どういう作品をつくりあげたいか、唯一視覚として聴衆が確認できる演奏者の意思表示、とも言えます。

これがDVD映像ならともかくCDを聴いてわかるのか、対向配置が生かされた響きになってるな、なんてわかる人はすごい耳です。後述しますが、録音技術とトラック編集によってバランスは調整できますので、、やはりCDではわからないことのほうが多いのではと。逆に言えば、19世紀でも21世紀でも、一期一会の演奏会では、楽器配置は重要なポイントだとも言えます。

 

クラシック音楽の洗礼 其の十一「録音場所」

「録音環境」では、セッション録音かライヴ録音かを述べましたが、それに加えて、どんな場所で演奏された録音なのかということです。セッション録音(レコーディング用)であれば、ホールもあれば教会を使用することも多く、ライヴ録音(コンサート演奏)であれば、ホールが一般的となってきます。空間が異なるため、反射した音の響きや残響は変わってきます。作品によって適した音響や空間の広さなどもあるでしょうし、編成によって小規模ステージでは収まらないといった場合も出てきます。

 

クラシック音楽の洗礼 其の十二「録音技術」

技術の進歩に左右されることが多く録音時代で異なってきます。アナログ録音、デジタル録音、モノラル録音、ステレオ録音といった具合です。

ただし最先端の新しい技術のほうがより優れているかといったら、そうではない場合もあります。アナログ録音時代にしか活躍していなかった名指揮者もたくさんいますし、音質や音響はいいけれど、なにか物足りない、きれいにまとまりすぎて何か訴えかけてくるものがない、ということも。

また過度の編集でエコーを効かせすぎて音粒や輪郭がぼやけてしまう、高音が鳴りすぎる、低音が歪んでる、楽器配置の意図を無視して勝手に左右を動かしてしまう。はたまた、明らかに右側か左側か一方スピーカーでしか鳴らないように極端に音を振ってしまう(パンを振ると言ったりします)。生演奏ではあり得ない、客席に座って右の耳からしか聴こえない音があるなんてこと。このあたりが録音技術者の能力やセンスに影響されてしまうのはもったいないことです。指揮者や演奏者と聴衆のあいだに、ひとつフィルターをとおしてしまう、大切な役割です。

 

クラシック音楽の洗礼 其の十三「周波数」

「国際標準ピッチ」というものがあります。440Hz(ヘルツ)の周波数です。ところが実際には国によって一般的となっている周波数が異なります。その経緯や良し悪しは複雑な諸事情があるとして、高いピッチのほうが「緊張感を与える、輝いて華やかに聴こえる」効果があるそうです。日本国内ホールのピアノは442Hzで調律されていることがほとんどで、同じく演奏会では440Hzよりも少し高いピッチ、442~445Hzくらいで演奏されています。取り上げる作品にもよるでしょう。

たとえばバロック時代ピッチは低めだったため落ち着いて聴こえ、ベートーヴェン時代にはかなり上がっていたとも言われています。時代ごとの作品に触れてその印象が違うのも、各国オーケストラ団体によって華やかに聴こえたり、土着的に聴こえたりするのは、こういった微細な影響もあるのかもしれません。これは聴いてわかることというよりも、無意識に心理的に影響する感覚的なものです。

 

 

「クラシックの洗礼 全十三ヶ条」(2015年版)を整理して。

答えは見つかったのか、ものさしはでき上がったのか、と言われるとまだまだ辿り着くには程遠い道半ばです。やはり作品に数多く触れることしかないんですね。そして作品の経緯や特徴を、上の条件に照らし合わせながら好みに合う愛聴盤を探していく。この繰り返しです。そうやって自分のものさしと耳を磨いていく繰り返し。

いろいろな条件を書いてきたので、そんな数ある条件をクリアした愛聴盤。クラシック宇宙空間でめぐり逢えたCD名盤の数々。そのいくつかを紹介したいと思いながらも、これ以上書き進めるボリュームに耐えられないと思い直し。また別の機会があれば。(久石譲音楽で肥やした耳が納得した!?愛聴盤なので、共感していただける人はいるかもとは思いながら…)

そもそもでいうと。

音楽という無形芸術に対して、19世紀までは楽譜に残すことしか「カタチ」にできなかった。音そのものを「カタチ」に残せなかった、元祖「オリジナル版」が存在しえない。おそらく作曲家が意図していたことはこうなのではないか、そこに向き合ってきた多くの音楽家たち、それが「カタチ」となった無数の盤。永遠に答えのない「オリジナル版」を追求しつづける作業と言えるのかもしれません。

 

 

いろいろな視点でクラシック音楽にのめりこむことで、いい発見もありました。

最後はもちろん久石譲で締めようと思います。

クラシック音楽の洗礼 其の一「指揮者」
指揮者:久石譲、ゆえに作品解釈は作曲家:久石譲の意図がそのまま反映される。オリジナル版にして唯一無二。

クラシック音楽の洗礼 其の二「演奏者」
日本国内のみならず海外屈指の一流オーケストラ団体との演奏録音。目指す作品世界によって、演奏団体や奏者を選別している。楽器編成や編成規模、メロディアスやミニマル、大衆作品やソロ作品、選別条件は多岐にわたる。それは作曲家:久石譲の意思や創りあげたい世界観がそのまま反映される。ピアノにおいて、久石譲作品にはピアニスト:久石譲の演奏こそ唯一無二。

クラシック音楽の洗礼 其の三「録音時代」
1990年代、2010年代など同一作品でも複数録音が存在する。ほぼ同一構成(楽器編成、アレンジ)が前提とした場合、年輪のようみ刻み込まれる時代ごとの演奏変化こそ、味わう醍醐味であり、幾重にも記録された録音の存在価値となる。

クラシック音楽の洗礼 其の四「録音環境」
セッション録音(レコーディング用)、ライヴ録音(コンサート演奏)と存在する。近年ではどのどちらをも兼ねそなえたような最新画期的な録音方法も試みている。(作品『WORKS IV』ほか)

クラシック音楽の洗礼 其の五「年版/改訂版」
改訂版、新版、第2組曲などが存在する。ピアノソロ、オーケストラ版、アンサンブル版などが存在する。いずれも作曲家自身による。

クラシック音楽の洗礼 其の六「編曲版」
一部映画サウンドトラック盤などでは存在するが、基本的にはほぼない。楽曲のオーケストレーションが他者の場合はある。アレンジ(編曲)とオーケストレーション(管弦楽法)は区別して捉えられていて、CDライナーノーツ末の制作クレジット頁に明記されている。いずれにせよ作曲家:久石譲の意思は反映された範囲、プロデュースし監修された範囲を超えることはない。(カバー作品などは趣旨を異にする)

クラシック音楽の洗礼 其の七「補筆版」
現役作曲家、現在進行形の活動のため、あり得ない。数々のオリジナル譜やオリジナル音源も保管維持に充分な現代文明社会でもある。

クラシック音楽の洗礼 其の八「スコア版」
作曲家:久石譲によるスコア監修がすなわち完全版である。オリジナル・スコアにして、唯一無二。

クラシック音楽の洗礼 其の九「楽器時代」
現代の作曲家、ゆえに現行楽器を前提として創作され、同じく現行楽器で演奏される。作品のために必要な独奏楽器・時代楽器や電子音を使用することもある。

クラシック音楽の洗礼 其の十「楽器配置」
コンサートでは現行スタイルよりも対向配置を採用していることが近年多いように思う。自作/古典クラシック作品においても。レコーディング作品では解説やメイキング映像などがない限りわかりようはない。ただし、演奏会に足を運びその後ライヴ盤CDとなった場合は、それがいかなる楽器配置だったかは知ることができる。緻密なオーケストレーション(管弦楽法)、主旋律と対旋律が交錯する久石譲作品だけに、興味は尽きない。

クラシック音楽の洗礼 其の十一「録音場所」
管弦楽など生楽器を使用した録音は、レコーディングであれコンサートであれ、ホール録音が近年多い傾向。映画音楽収録でもオリジナル作品でも。またピアノ1本の作品にホールを何日間もおさえるといった渾身作ピアノ・ソロアルバムもある。本来はオケであれアンサンブルであれピアノソロであれ予算的にもスタジオ録音が一般的であり、過去作品はこちらに属するものも多い。特に指揮活動をはじめて以降、追求したい音の響きが変化してきたという見方もできる。無人のコンサート会場を貸し切って、ライヴ盤でもないホールレコーディングという贅沢な響きである。

クラシック音楽の洗礼 其の十二「録音技術」
最先端技術を駆使していることはもちろん、ほぼパートナーとなっている技術者にミックスを託していることが多い。トラックダウン(最終編集)は必ず自身が監修している。演奏から、編集による微調整、盤に残すところまで、作曲家:久石譲の意思が忠実に反映されている。

クラシック音楽の洗礼 其の十三「周波数」
レコーディング、コンサート、わかるすべはない。ただしいずれにおいても意図しているピッチで臨んでいるであろうことは確か。コンサートDVDやライヴ盤CDを聴いたときに、レコーディング音源以上に、緊張感や臨場感、華やかな響きに感じるとするなら、それは周波数の影響なのかホール音響からくるものなのか、はたまた一期一会な演奏ゆえか。周波数を計測できる機器やソフトで判明できる場合もあるかもしれない。

 

いかに恵まれていることか。

久石譲(作曲)の、久石譲による(指揮・演奏)、久石譲による(録音・パッケージ化)

絶妙な演奏技術と録音技術、とりわけ『WORKS IV』(2014)を引き合いに出してもそうですが、全体を構成する太く広がりある管弦楽の線、細部を忠実に響かせる楽器パートとステレオ配置のバランス、圧巻の臨場感にダイナミックレンジ。しかもこの作品は、ライブレコーディング+リハーサルテイク計6回をミックスしていますので、高音質・最高クラスの臨場感と緻密性の両極を兼ね備えた盤という点でももっと特筆されていいほどの完成度です。

 

私たちは久石譲が納得した完成版を、久石譲が求めた音や響きとほぼ同等なものとして、CD作品などで味わうことができる。それになんの不思議ももたなかったことが、古典クラシック音楽と向き合い、いかにして愛聴盤にめぐり逢える大変さを身をもって体験したときに、ここに跳ね返ってきました。

過去の名指揮者/名門オケが、それぞれの作品解釈により、自信をもって残してきた盤を、現代聴衆は自分のフィルターで取捨選択する必要がある。一方、現代に生きている作曲家が、自信を持って送り出したその一枚の盤(オリジナル版)を安心して手に取りさえすれば得ることのできる感動。

時代をオーバーラップさせ見つめてみたときに、そのことに気づけたと言えるのかもしれません。そしてこれからもクラシック音楽の洗礼を繰り返し受けながら、まだまだ彷徨いつづけます。その過程で培ったものや磨きをかけた耳で、さらに久石譲音楽を楽しめていけたらと思っています。

 

 

久石譲音楽を十三ヶ条で整理してみると。

正直もっともっとと欲が出てしまうところもあります。これだけの恩恵・音楽的価値があるからこそ、もっとCDやDVDというパッケージに残していってほしいという。

音楽史を過去・現在・未来で俯瞰的にみたときに、『作品をきちんとカタチに残すことの大切さ』が一点。クラシック音楽はオリジナル版がないからこそ、解釈から演奏まで多岐にわたる開かれた音楽ジャンルとも言えます。一方で録音技術があれば、偉大な作曲家年表・名鑑は変わっていたかもしれません。

もう一点は、『久石譲という稀代な音楽家が作品を残していくことの価値』です。これは未来に対して揺るがないと確信しているほどです。

でも今は、ないものねだりや欲しがるばかりでなく、今まで届けられてきた久石譲のCDやDVD、改めてその価値を見つめなおすところから始めてもいいのかもしれません。創作家が作品を残すことも大切ですが、その価値を未来へつないでいけるのは聴衆だからゆえです。

 

当たり前と思っていたことに立ち止まって少しでも感謝できたなら。新しい発見があります。感動や幸福感は二倍三倍にもなります。大量商業化された音楽CD、決して安くはないコンサートチケット。値段という価値は万人に同じであっても、受け取り方や聴き方、背景や知識で、喜びも豊かさも変わってきます。

聴衆が価値を変えることもできる。価値創造は、聴衆にもできる。

 

クラシックプレミアム表紙

 

Blog. 「過去は忘れる」久石譲と「過去に区切りをつけたい」聴衆

Posted on 2015/12/27

よく久石譲はインタビューで、「過去は忘れる。過去の作品はあまり覚えていない」、もっとしたときには「過去の作品には興味がない」とまで言いのけてしまう始末。

 

えっ!?
なんだとーっ!?

 

第一部 尊重

「過去は忘れる」発言に憤慨し、そんなに過去の作品を軽視しているのか?! と落胆したことを覚えています。そんな想いがずっとあったなか、時間の経過とともに少しずつ受け止め方も変わっていきました。

宮崎駿監督がとあるドキュメンタリー映像で、「トトロ2が観たい!トトロ2作ったら? とか言われるけど、そんなもの「トトロ」があるからいいじゃん、てね…」そんな発言をされていたことがあります。

ここが核心のような気がします。

創作家にとって過去の作品に固執する、縛られることほど苦痛なものはないのかもしれません。それは今の自分が過去の自分を超えられていないということを、認めてしまうことにもなりかねない。

 

久石譲にも同じようなことが言えるのでは。

「またシンセバリバリで作ってほしい、あのXXみたいな曲がまた聴きたい!」と言うのは、素直な願望とは裏腹に、一歩間違えば今の現在進行形のアーティストに対しての発言としては、失礼にあたるのかもしれないと。

「だったらあの曲聴いておけばいいじゃない、もうあるから」と言われても致し方ない。

いやいや、そういうことじゃなくて、あの曲が好きだから、ああいうテイストのものがまた聴きたいと、前のめりになるかもしれません。それでも、「だからあのテイストの曲はあの作品で完成されているから、あの曲を聴いてください」と言われてしまえば、グーの音も出ないこと。

宮崎駿作品も久石譲音楽も、あれだけ数多くの名作・名曲があるなかで、作品をまたいで類似しているものがないということはすごいことです。創作性とオリジナル性はそれぞれの作品に唯一無二。例えば『千と千尋の神隠し』を見て、「ナウシカに似てたね」なんて印象を持つ人はそうそういないと思いますが、それは映像だけでなく音楽にも言えることです。

 

宮崎駿監督は別のインタビューでも、「一番好きな作品は『ルパン三世カリオストロの城』です、と言われるとムカっとくる。それ以降の作品はなんなんだと」と笑って答えられていましたが、そういうところにも通じます。

創作家とは常に反応が気になる職業、上の発言は、「あなたの最高傑作は『ルパン三世 カリオストロの城』ですよ。その後の作品は…」と作り手のフィルターで受けとめてしまいショックや自己嫌悪に陥ってしまう可能性もあるのではと。…私はあの時をピークに止まっている…私と大衆と時代がリンクしていたのはああいう作品性だけなのか…(心の声)

これは受け手に大きく左右されます。作品に触れた時代、思い出などと一緒に鮮明に刻み込まれているからこそで、「作品として一番の出来」と言っているわけではなく、「思い入れのある私にとっての特別な作品」としての位置づけです。

だからそれ以降の作品はダメ、そんなことを言っているわけではない自由な発言なのですが、創作家は内なる自分と常に対峙していますので、デリケートにひっかかってしまうのも事実なのかもしれません。もちろん宮崎駿監督の発言は、そんな受け手のことも理解しているでしょうし、それが「心ある発言か心ない発言か」はすぐに見分けがつくでしょう。

 

創作家自らが二番煎じをすることはない、と大衆には釘をさし、自らには課した信念。

自らが納得する範囲やテーマ性で類似させる、作られた時代・時代性で似てくる、受け手へのサービス精神として、そもそもどれも同じよう、、「作品をまたいでの共通点」には、いろいろな角度からの意見もあるとは思います。でもそれを言い出してしまったら、まず出発点は”ひとりの創作家による創作性”なわけですから、話が迷走します。

これにケリをつけるならば、例えば「久石譲の音楽が好き」ということは、いろいろなタイプの作品があって、それぞれカラーも印象も違うけれど、根っこの部分で久石譲音楽を感じるからこそ好き、ということになるのではないかと思います。

 

話を戻して。

そういった経緯と思いもあり、当サイトでは同様の発言はしないように気をつけています。「またああいう曲聴きたい、あの頃がよかった」なんて口にしたことも書いたこともありません。ひと言で言えば”現在を否定する”ことにつながる発言はしていません。それは今の久石譲音楽が好きですし、現在進行形の創作活動を楽しく待っているからです。

もちろん過去の「思い入れのある私にとっての特別な作品」は指折り足りません。でも、それを引き合いに出して世に送り出される新曲・新作と比較することも天秤にかけることも、それは意味がありません。そもそも同じ土俵にあげるものではありません。その作品に親しんできた時間的尺度も違います。

「あの名曲のシンフォニック・バージョンを聴いてみたい」などと言うことはあるかもしれません。いや、あったと思います。これは過去を経て今の久石譲によって再構築・昇華してほしいという願いです。過去と現在、どちらも肯定しているからこそなのですが、、そこは書き手にしかわからない微妙なニュアンスなのかもしれません。

 

約35年です。

約35年も音楽の第一線で走り続けていることがすごいこと。どんな音楽ジャンルにおいても30年以上も活躍しているアーティスト、創作しつづけている作曲家、そうそういるものではありません。

そうなれば、その時代ごとに久石譲音楽に接してきた人はさまざまで、どの時代がとりわけ鮮明ともあり、どの時代で久石譲音楽が止まっている、いろいろな人がいて当然です。考えてみてください、35年です。人に置き換えたら10歳の小学生と35歳の社会人、これだけの時間の流れがあります。

作り手も受け手も常に変化するなか、約35年間の久石譲音楽を受け入れている人は、根っからの久石譲ファンということなのかもしれません。音楽性においても使用楽器においても、1980年代と2010年代の久石譲音楽は大きく変化しています。それと同じく聴き手としても変化しつづけ、ついて行っているということになりますから。

 

創作性と創作活動において、「過去は忘れる」という発言は尊重に値する、という結論です。過去にこだらわないとするその姿勢は、むしろ現役バリバリ、創作意欲のたえない現在進行形の挑戦として賞賛すべきことだと結論に至りました。

極論、「過去(の作品)を忘れている」わけではないはずです。自分が生んだ作品です。そこにいつまでもとどまりたくない、止まっていたくない、過去の栄光にすがることは自分の成長や創作性の進化をとめてしまう。だから「過去は忘れる」と前提条件をつくってしまう、既成事実としてしまう。これは大衆に向けてでもあり、自らに課した信念や軸なのだろうと。

 

 

休憩

「過去は忘れる」作曲家:久石譲がいたときに、、

過去の作品にこだわらないことと、作ったけど世に出していないことは、わけて考えるべきかもしれません。前者は上の結論づけてきた流れで納得できますし尊重できることですが、後者は…。

 

 

第二部 願い

一度世に送り出したもの、演奏会で披露したもの、つまり一度聴衆に向けて響かせた久石譲音楽たちは、せめてパッケージ化(CD)して残してほしいとも切に願うところです。

コンサートでの演奏・改訂を繰り返すことで完成版にもっていこうとする未だ過程な作品もあるとは思います。それとは別に映画、TVCM、施設提供など、すでにオリジナル版が完成され、お茶の間に浸透している作品も数多くあります。

依頼主との契約で、いついつまではCDにはしないでほしい、など契約や諸事情もあるのかもしれません。そこは推測の域を出ず大人の事情はわかりようもありません。パッケージ化を危惧するよりも、パッケージ化した先の聴衆をイメージしてほしい、その楽しみ方を信じてほしいとすら思います。

 

やはり好きな音楽は日常生活の中で溢れ響かせたいと思うのは、すごく純粋な欲求です。

作り手は作って一旦の完成をみた時点で解放されるかもしれませんが、受け手はその作品を聴いて、自分のなかに溶け込むくらい聴いて、日常的に聴ける環境にその音楽がなければずっと消化不良状態のままです。つまり作品化してもらわなければ、ずっとその断片だけが脳裏をさまよい、記憶や印象を消さないように努め、結果それが受け手としての過去への固執になってしまいます。

受け手が過去から解放されるひとつの手段がパッケージ化だと思っています。そうすることで安心して過去と対峙し、過去の作品として向き合って聴き続けられるわけです。

結論はここにあります。CD作品化、パッケージ化することで、聴衆ははじめてその「過去に区切りをつける」儀式をむかえられるということです。

 

当サイトでは、様々な集計もリアルタイムで表示しています。

作品アクセスランキング(週間)

orbis,dream more,JAL,Runner of the sprit,Untitled Music

直近の表示をキャプチャしたものです。一週間でのアクセス集計をリアルタイムに自動更新しているものですが、CD作品化されていない楽曲が数多く並んでいます。

 

作品アクセスランキング(累計)

JAL,搭乗,久石譲,NHK,世界遺産,みずほ,CM

週間集計の下に表示されている、当サイト設立時から今日までの累計集計。週間と異なり大きく変動しにくいランキングです。ただ、ここでもそのほとんどが未だパッケージ化されていないリストといってもいいラインナップです。(累計にして、今年2015年発表作品「Dream More」がTOPになっていることもすごい結果)

このふたつは操作もできない純粋な統計です。久石譲ファンの関心の見える化であり、ファンの要望、しいてはファン投票としてのひとつの指標ともいえる、潜在的声だとみることもできます。

 

音楽=無形芸術だからこそ。

音楽にはカタチがありません。無形芸術です。過去クラシック音楽の時代から、音楽史においてその特徴は変わりません。だからこそ文明社会となった20世紀は、多くの音楽家がパッケージとして残すことに力を注いできました。そのひとつの功績が、今日聴き続けられ演奏され続けているクラシック音楽です。風化することなく化石となることなく、今も生命が吹き込まれている音楽。

モーツァルトもベートーヴェンも、発表直後は埋もれてしまい、後に再発掘された名作も数多くあります。保管状態がよくなく時を経て再発掘・再演時に手直しされ、書き換えられた作品もたくさんあります。

それでも譜面に残すことで”無形芸術”をカタチにし、それを演奏することで引き継いできた音楽家たちがいる。プラス、現代社会には音そのものをカタチに残すことができるパッケージ化という技術がある。

記録すること、音を封じ込めることで、音楽遺産として未来に引き継がれていきます。おそらくモーツァルトやベートーヴェンが今の時代を見たら、素直にうらやましがるんじゃないかな、と思います。自分の作品が納得のいく完成版として演奏され、それが記録されている。以後脚色や書き換えられることとは別に、オリジナル版として未来永劫担保される音楽遺産、それがCD音源やDVD映像などとしてのパッケージ化です。

 

100年以内の話に引き戻したとしても、名指揮者の1950年代の録音音源、1980年代のコンサートライブ映像、このような貴重な記録を残してくれたおかげで、2010年代の私たちが音楽タイムスリップして楽しむことができることこそ、パッケージ化の進歩です。

同一作品であっても年代ごとの演奏やコンサート映像が記録されてる。むやみに乱立させることへの良し悪しこそあれ、年輪のように刻み込まれる時代ごとの演奏の変化は、聴き手としては醍醐味です。

同じ作品がその時の解釈(演奏)でまったく違う顔をのぞかせる。それだけ作品に深みがある証拠です。音楽が無形芸術ということは、常に変化することの許されている貴重な芸術ともいえます。そういった変化や成長を、瞬間を封じ込めることができる、それがパッケージ化です。

 

わかりやすい話、今20代の人がカラヤンに興味を抱いたとして、もう亡くなった名指揮者の演奏会に行くことはできず、それは映像でしか体験できません。なにが名指揮者たらしめているのかわからないなら風化してしまいます。映像であっても疑似体験、自分の目や耳で体感できるということは、証拠(映像・音源)をとおして実感する、その個人体験の連鎖が大衆化の波となり未来へ引き継がれていく。

わかりやすい話、今生まれていない人は、過去の音楽遺産に触れたいとき、そこに音源や映像がないものには、興味があっても触れたくてもどうしようもない、カタチがないものには。もっと言えば、過去には無形芸術として存在していたかどうかさえわからない、なんてことも起きてくるでしょう。存在がわからない、そもそも存在した音楽なのかすら不明、というなんとも口惜しいことに。

 

パッケージ化の危惧と警鐘。

安易なパッケージ化は創作家やその創作作品を過剰に消耗してしまい、創作家の継続的創作性が担保されない。パッケージ化への価値やありがたみ、創作家への尊厳を軽視してしまう大衆。

一枚のCDとしてカタチに残すだけでも、そこにかけた時間やお金、演奏者、機材、設備、録音場所など、莫大な投資が発生しています。そしてなによりも、カタチに残すことで自らを削った創作性。

今の時代、「音楽家なら作った作品をCD化することは当然」と当たり前に思っている感覚、なかば前提条件のようになってしまっている風習を、少し見直す必要もあるのかもしれません。

 

海外ではひとつの映画作品をつくるに企画段階でまずは多くの投資を募ると言います。そうやって集めたお金で作品をつくる、つまりその作品を期待する大衆が、先に投資するという流れです。予算が集まらなければ製作がスタートできない、ゆえに作品は誕生しない。これを音楽業界に置き換えたら、「CDを作ってほしいなら、そう思ってる人達が資金集めてよ、そしたらパッケージとして完成版を残すから」 こんなこと言われてしまったら……。いや、今のような風潮、音楽業界の不景気、尊重されない創作家からの反逆として、起こり得てくる現象かもしれません。

だからこそ、聴衆としても見つめなおすべきところは改め、要望すれば届くかもしれない今の時代に感謝し、CDやコンサートにお金を払うことが、知らずのうちに次の創作活動への投資であり支援である、という尊い循環サイクルになっていけばいいなと思います。

 

 

言わなくてもいい蛇足。

ここではダウンロードやストリーミングという手法にはふれませんでした。話がややこしくなるため。ただそういった最新デジタル技術が、パッケージ化の解決策になるとも思ってはいません。費用は安価に”音楽の配信”はしやすいのは事実です。でもそれがパッケージ化かと言われると、ややこしくなります。CDやDVDが音楽記録媒体、カタチある有形媒体で、一方はデータで無形のまま。そういうことを言っているからではありません。CDでもDVDでも有形媒体ではありますが、再生機器がないと意味をなさないとするならば、CDでもデータでも同じことになります。だからここに触れるとややこしいのでやめました。

ゲーム業界もソフトと本機、アプリとケータイ、同じように媒体としてのくくりがややこしくなります。唯一、メディア媒体として単独で機能できるのは、例えば新聞・雑誌・書籍などの活字媒体なのかもしれず(楽譜もそうですね)、そこにも電子書籍などとまたややこしい話となってくるわけです。ひいては《無形、有形、カタチ、パッケージ、メディア、媒体》という定義が非常に難しいことではあるのです、この現代文明社会においては。

 

……

じゃあ何を語ってきたんだ、となってはいけない。

切望している願いは「音楽遺産として、未来に残していける音そのもの音楽そのもののカタチ化、そのカタチ化されたものが大衆に享受されること、現代社会において老若男女が一般的に受け取りやすい方法、保管維持しやすい媒体」です。なので盤としてのCDやDVDに絞って話を進めてきました。

 

 

アンコール 未来へ

ファンは簡単にやめることができます。プロはそんなことはできません。常に時代と向き合い、大衆と向き合い創作活動を続けていく。一生のうちにあの人のファンだった時期もあったなは通用しても、プロの世界では通用しません。創作家は死ぬまで創作し続ける宿命を背負っています。時代が求めた人たち、使命をもって選ばれた人たち、それが一流のプロ、生涯のプロフェッショナル。

だからこそ、ある一点やある一時代にフォーカスして意見してしまうよりも、点ではなく線で、道を一緒に歩み続ける(ことはおこがましいとしても)、応援しつづけ、見守りつづける。

作り手も受け手も、双方が過去に固執せず、過去に後ろ髪ひかれることなく、お互いが同じ未来を向いている。今響く音楽のみに集中にて耳を傾けわかちあう。パッケージ化とは、カタチにしてしまったことで縛られるものではなく、創作活動における通過点のひとつにして、次のステップへの重要な線引き、区切りです。

ということは、「過去を忘れる」(作曲家)と「過去に区切りをつけたい」(聴衆)は、結果交錯しながらも一本の線につながってくるように思います。お互いが現在をわかちあうことのみに集中し、その連続連鎖が未来をつくっていくならば。

 

同じ音楽を聴いて共感しあい、わかち合うなにかが生まれる。これこそが聴衆にもたらされる一番の喜びです。その感動のかたまりが創作家にも届くなら、同時代性としてこんなに尊い幸せなことはありません。

きっと大きな価値を見いだす聴衆はそこにいますし、仮に現代にいなかったとしても、未来にはきっと埋もれていても掘り起こしてくれる真の聴衆がいるはずです。カタチとして残していてくれたならば。

 

好きだからこそ尊重したい(第一部)、好きだからこそ欲も出る(第二部)。信じてたのに裏切られてがっかりする(これは自分の都合のいいように信じて、結果勝手に裏切られたと思ってしまう心理なのですが)。この喜怒哀楽の波をコントロールすることが非常に難しい。「好きなればこそ」の一人相撲をとってしまう感覚といったらいいでしょうか。それもまた幸せなことなのかもしれません。一途に、夢中になれる、ことがある。

 

 

最後に。

現時点でも数多くある久石譲未作品化の名曲たちをご紹介します。過去に区切りをつける儀式を迎えられるよう、いつの日か叶う願いを込めてカテゴライズしたものです。

そっと差し出します。

久石譲 未発売(未CD化) | Unreleased Work

 

Live 2015

 

Blog. 「読響シンフォニックライブ」2015年12月放送 久石譲インタビュー内容

Posted on 2015/12/26

10月29日、東京芸術劇場で公開収録を行った「読響シンフォニックライブ」の模様が、12月・1月とプログラムを2つに分けて放送されます。今回は12月に放送された内容および久石譲インタビューをご紹介します。

 

日本テレビ系「読響シンフォニックライブ」
放送日時:12月26日(土)午前2:55~4:25(金曜深夜) 日テレ 90分拡大版
放送日時:1月2日(土)午前6:30~8:00 BS日テレ 90分拡大版

出演
指揮:久石 譲
ソプラノ:森谷真理
テノール:高橋淳
バリトン:宮本益光
合唱:武蔵野音楽大学合唱団(合唱指揮:栗山文昭)
児童合唱:東京少年少女合唱隊(合唱指揮:長谷川久恵)
管弦楽:読売日本交響楽団
司会:松井咲子

曲目
ジョン・アダムズ:
ザ・チェアマン・ダンス
※2013年8月28日東京芸術劇場

カール・オルフ:
〈カルミナ・ブラーナ〉
《カルミナ・ブラーナ》
運命、世界の王妃よ
第1部「春に」
草の上で
第2部「居酒屋にて」
第3部「求愛」
ブランツィフィロールとヘレナ
運命、世界の王妃よ
※2015年10月29日東京芸術劇場

 

補足)
2013年8月28日収録分は「オーケストラストーリーズ となりのトトロ」「風立ちぬ」などを披露した演奏会で、同2曲はすでに2013年11月に放送されている。今回は当時放送されなかった「ザ・チェアマン・ダンス」(ジョン・アダムズ)が放送される。

 

 

久石譲番組内インタビュー

作曲家として活躍する久石 譲が指揮者として登場!

今回は読響と様々な音楽活動で共演している作曲家・久石譲さんが指揮者として登場。番組MCの松井咲子さんがお話を伺いました。

読響との初共演時の印象は…?

松井:
久石さんと読響の初共演は3年半前ですが、今でも印象に残っていることはありますか?

久石:
ショスタコーヴィチの交響曲第5番などを演奏したのですが、作曲家の僕が指揮をするということで、読響の皆さんに助けていただき、とてもいい演奏になったということを覚えています。その他にも、初共演の翌年、2013年には宮崎駿監督作品、「風立ちぬ」の映画音楽レコーディングに読響が参加。読響にとってスタジオジブリの映画音楽を演奏するのは初めての経験でした。また、その直後に読響と久石さんは2度目の共演を果たし、オーケストラストーリーズ「となりのトトロ」(語り:樹木希林)、ベートーヴェン・交響曲第7番、そしてジョン・アダムズ作曲の「ザ・チェアマン・ダンス」を演奏しました。

現代音楽への思いとは…?

松井:
読響と2度目に共演された時、ジョン・アダムズ作曲の「ザ・チェアマン・ダンス」を演奏されていましたが、よく知られた音楽の中に現代曲を演奏されたということには何か狙いがあったのですか?

久石:
自分は作曲家なので、もちろん映画音楽も書きますが、やはり作品(純音楽)も書いています。なので、Up to date(最先端の)という感じで作られているものを紹介していくというのは自分の義務でもあるというか、自分がやれるならやっていこうと思いました。

松井:
現代曲を書かれているときと、となりのトトロのような映画音楽を書かれているときに、二面性といったものは何か意識していたりしているのですか?

久石:
確かにあります。ですが、もう一歩下がって考えると「曲を作る」という行為は一緒ですよね。非常に複雑な五十段ぐらいの真っ黒になった譜面を書くことと、16小節ぐらいのシンプルなメロディで、人に良いなと感じてもらおうとすること、どちらが難しいかというと、16小節の方が大変かもしれないです。誰でも出来てしまうことを「それでも久石である」と言わせる曲を書こうとするならその方が大変ですよね?

今回、一曲目にお送りしたのはジョン・アダムズ作曲のザ・チェアマン・ダンス。この曲の魅力を久石さんにお伺いしました。

久石:
リズムがはっきりしていて、とても分かりやすい曲です。ですが、非常にシンフォニックに作られていて、理屈っぽくない。聴いていてもオーケストラの醍醐味を全て味あわせてくれる曲です。

 

ジョン・アダムズ作曲:ザ・チェアマン・ダンス
ジョン・アダムズのオペラ「中国のニクソン」晩さん会の場面で演奏される曲の管弦楽版。ミニマル・ミュージックの中でも代表的な作品となる。

 

そして、2曲目にはカール・オルフ作曲「カルミナ・ブラーナ」をお送りしました。気持ちが高まるような、壮大なオープニングから始まるこの曲について久石さんにお話を伺いました。

久石:
この曲は「世俗カンタータ」と言われています。要するに一般の民衆の持っている力、例えば「夏になったらみんなで酒飲もうよ」とか、「あの人が好きだ」というようなことを歌っています。言葉自体にはそれほど深い意味はないけれども、結果そこから出てくる人間の持つエネルギーや「生きることは大変なことだけれども、どんなに素晴らしいんだろう」という人間に対する賛歌。それはこの曲の底辺にものすごく強い力として持ってると思います。

 

カール・オルフ作曲:〈カルミナ・ブラーナ〉
19世紀の初めにドイツ南西部の修道院で発見された詩歌集に基づいて作曲された世俗カンタータ。人間の持つエネルギーや人々に対する賛歌などが歌われている。

 

今後の読響と久石さんの関係性は?

松井:
改めて、久石さんにとって読響はどんな存在ですか?

久石:
日本を代表する素晴らしいオーケストラで、皆さん一生懸命に演奏してくれます。なので、この関係性は長く続けていきたいと思いますし、より大きなプロジェクトが出来るような、点ではなく、線になる活動を今後もできるといいなと思っています。

(2016年5月開館予定、久石譲が芸術監督をつとめる長野芸術館、そのこけら落とし公演を読売交響楽団との共演にて記念コンサート開催予定)

松井:
一読響ファンとしてとてもうれしいです!久石さんと読響の中がより深まっている気がします。そして、次回の読響シンフォニックライブでは久石譲さんが書き下ろした新作、コントラバス協奏曲の世界初演の模様を放送!

「音がこもりがちになる低域の楽器をオケと共演させながらきちんとした作品に仕上げるのはハードルが高かったです。僕は明るい曲を書きたかったので、ソロ・コントラバス奏者の石川滋さんには今までやったことないようなことにもチャレンジしていただく必要もありました。」とこの曲について語ってくださった久石さん。どんな作品になったのかは、次回の放送をお楽しみに!!

(公式サイト:読響シンフォニックライブ より編集)

 

読響シンフォニックライブ 2015

 

Blog. 「キネマ旬報 2003年1月下旬号 No.1372」 久石譲インタビュー内容

Posted on 2015/12/21

雑誌「キネマ旬報 2003年1月下旬号 no.1372」に掲載された久石譲インタビューです。

 

 

フロント・インタビュー 32

久石譲(音楽家)

未来へ - 音楽家・久石譲の挑戦

映画「壬生義士伝」の宣伝素材には、原作者、監督に並んで、音楽担当の名前が大きく記されている。久石譲。宮崎駿、北野武両監督作品の音楽担当者として功名成って久しい彼だが、幕末京都守護職の武士をめぐる物語は単なる名義貸出の場ではない。久々となる本格派時代劇の仕事に対して、希代の人気音楽家はまた新たな創作意欲に燃えていたのだ。そして、その前後を眺望するならば、ここ2、3年で大きく変化を見せ始めている素顔も鮮明に浮かび上がってくる。映画音楽の作曲家として、ピアニストとして、指揮者として、そして会社経営者として…。さまざまな表情に富む現代日本映画音楽の第一人者に、今後の展望も併せて訊いてみた。

インタビュアー 賀来タクト

 

ハリウッドで言えば「グラディエーター」

「これはやっておかなければならない。そう思いましたね」

表情が引き締まる。映画「壬生義士伝」の音楽依頼を受諾した理由の一つとして、久石譲から出た答え。そこには真摯に映画に携わろうとする人間の決意が、まず鮮やかに浮かんだのだった。

「自分のためにも、恐らく日本の映画音楽のためにも、これはやっておくべきだと思いましたね。幸い十分な音楽制作費も出していただきましたから、なおのこといいものを作ろうという腹が決まりました。そういうことを雑にしている映画がまだ多いと思うんです。その意味ではうれしかったですね」

自分のために、という点では、長く映画音楽に関わってきた者としての誇りがそこにある。

「ハリウッドでいえば『ブレイブハート』や『グラディエーター』ですよね。日本で古典活劇をやるとするなら時代劇ですから、当然、音楽家としてはチャレンジしておきたいジャンルですし、それをきちんとこなせる日本人でいたいと思いましたね。音楽の持つダイナミズムを、映像に乗せてこれだけ表現できるんだぞってね」

もちろん、滝田洋二郎という映画監督の存在も大きかった。

「大人の対応をされる方でしたね。美術や撮影を含めて、現場のプロへのリスペクトがきちんとあって、久しぶりに王道を行く本格的な映画音楽を思い切り書けたという満足感がすごくあります。音楽も大切に扱ってくださいました」

音楽について踏み込むなら、義に身を殉じた新撰組隊士の物語は感動的だが、そういう情感に溺れることは決してなかったという。

「主人公の吉村貫一郎って、とにかく魅力的なんですよ。エンドロールに流れるテーマ曲は、いわばあの時代に生きた人々への鎮魂曲です。でも、映画の音楽って、あまりドラマに共感しても実はダメなんです。僕の場合、あまり共感していない。むしろぐっと対象化しています。この映画でも醒めた意識を持って取り組んだからこそ、全体がしっかり見えたと思うんです。映像では出演者がガンガン泣いていますけど、僕としてはそこから少し距離をとって高潔な感じで包み込むようにしました。本来ならもう少し情緒を盛り込むところを、今回は吹っ切って作ってるんですね。それがやり甲斐であり、大きな課題でもありました」

ここ数年の動きに目を移すなら、一昨年に初監督作品「カルテット」を発表。以来、映画に対する視野が広くなっている気配がある。

「確かに、僕の中に”映画にしかできないことって何だろう”というのが付いて回ってますね。前よりも強く。今、映画的なことを本気でやってる人って誰なんだろうって考えると、例えば宮崎駿さんや北野武さんなどが筆頭に挙がると思いますが、実際、宮崎さんとの仕事は3年くらいかかります。ジブリ美術館の短編『めいとこねこバス』などは、去年で一番緊張した仕事でした。だからといって今、映画音楽を完成させようとかいう発想はない。音楽家としてどうするかが一番で、その一分野として映画音楽があって、ピアノやソロアルバム、コンサートもある。自分が大きくなれば、映画音楽も自ずと大きくなっていく。そういう捉え方ですね」

 

久石譲の多面性が集約される時

久石譲という男は単なる「作曲家」ではない。音楽家として実に多面的な顔を持っている。アーティストという横顔一つをとっても、もはやピアニストと断じることは難しい。ここ2、3年で音楽を担当した映画を眺めるなら、例えばオーケストラへの傾倒が見える。

「すっごく傾いてますね。音楽活動をしていて一番興奮する瞬間って何かといえば、今まではピアノを弾いているときが一番上り詰められたんですよ、ステージの上で。じゃ、80人というオーケストラを前に指揮をとるとなると、これまた相当にビビるわけです(笑)。演奏しているのは耳の肥えた音大出身者ばかりで、音に厳しい。そういう人たちをいかに説得して受け止められるかという、パワーと精度が自ずと必要になってくるんですね。そういう意味での楽しさってある。ピアニストの自分も大切だけど、これからは指揮活動も増やしていきたいと思ってます。今、ジムに通って指揮用の筋肉を鍛えている最中なんです(笑)」

久石譲はピアノに始まりピアノに帰す、という拙論は過去のものになりつつあるようだ。

「変わったといえば、これまで手書きだったスコアも、最近はコンピューターを使うようになりました。手書きの微妙なニュアンスはまだ出せないですが、何よりも時間的な問題がクリアできますね。例えば『壬生義士伝』の場合、オーケストレーションでとれた時間って3~4日しかない。そういう問題をどう解決して量産態勢を敷いていくかも今後重要なんです」

量産態勢という言葉の背景には、自社スタジオの管理、運営を含む、会社経営者としての一面がにじむだろう。自社レーベル「ワンダーランド・レコード」の立ち上げも最近の目立った動きといえる。

「会社(ワンダーシティ)といっても、僕が音楽家として必要なものを求めていった一つの結果に過ぎませんが、例えば宮崎さんの場合ですと、スタジオジブリをどう生かすかが活動の原動力になっている感じがありますね。僕も同じです。うちには20人の社員がいて、3つのスタジオがありますが、斜陽になっているレコード業界で、会社の生きる道と僕自身のやりたいことが一致する道はないのかという模索の末生まれたのが、ワンダーランド・レコードなんです。これを始めたら社員が元気になりましてね。うれしかったなあ」

さても映画ファンが気になるのは、以前より何かと伝わってきていた監督最新作の行方だろう。

「もう一本は作ってみたいと思っています。素直に言って。でも、音楽家である自分を犠牲にしてまで撮ろうとは思っていませんよ。毎日がカオスだし、音楽家としてまだまだ過渡期にいると思います。けれど、仮に映画監督をやるとしたなら2005年くらいかな」

その言葉は、2005年までに音楽家としての「もがき」にケリをつけるという決意にも映る。

「2004年には二つのビッグな企画があるんです。まだ正式な発表はできませんが、ヒントはこのインタビューに出ていますからね(笑)。ぜひ楽しみにしていてください」

(「キネマ旬報 2003年1月下旬号 no.1372」より)

 

 

 

Blog. 「NHK『トップランナー』の言葉 仕事が面白くなる!」 久石譲 インタビュー内容

Posted on 2015/12/20

1998年NHK「トップランナー」に久石譲が出演しました。各界著名人を招いてのトーク番組は長年TV放送され、「トップランナー vol.1-7」書籍化もされています。久石譲出演回は単行本「トップランナー Vol.7」に文字起こしされています。(1997年宮崎駿監督出演回は同Vol.1に収載)

そこから”仕事が面白くなる!”をテーマに、ゲスト28人の「心を奮い立たせる“熱い言葉”」を再編集して文庫化された本「NHK『トップランナー』の言葉 仕事が面白くなる!」(2008年8月20日発売)。久石譲収載もTV番組および書籍化されたVol.7から選りすぐられた部分になります。

 

 

1回でもつまらない仕事をしちゃえば、そこで終わりですね。

久石譲(作曲家)

 

感情を”盛り上げない”音楽

1997年、ベネチア国際映画祭の公式上映会はスタンディングオベーションにわきかえった。

10分以上にわたり鳴りやまなかった拍手が讃えたのは、北野武が監督し、久石譲が音楽を担当した『HANA-BI』。この作品が『羅生門』『無法松の一生』に続く邦画史上3本目のグランプリ受賞作となるであろうことを、強烈に印象づけた瞬間であった。

作曲家としての久石を語るとき、決して忘れてはならない人物が二人いる。北野武と宮崎駿両監督である。とりわけ「北野映画ならでは」と表される静かな音楽世界は、久石の設計が支えていると言っても過言ではない。

北野作品の音楽づくりについて、久石はこう語る。

「曲の雰囲気などの打ち合わせをすることもたまにはありますが、実はそれほど深いものでもちゃんとしたものでもないんです。『HANA-BI』のときも、『今までずっとうまく行っているんだからそのままでイイじゃないの』なんて北野監督から軽く言われてしまったりして。

でもね、音楽っていうのは、映像にかぶせると実はとっても怖いんですよ。だって映像がものすごく丁寧に、きめ細かくその世界をつくったところに、音楽がどんとペンキを塗るように重なってくるわけですから。

特に北野監督の映像というのは、エモーショナル(感情的)な部分、例えば俳優が汗を垂らして演技しているような部分を削っていってしまうんですね。セリフも極力少なくしてあるし。そんな映画で音楽がトゥーマッチになると、しらけてしまう。それで音楽も極力引いた形でつけたいんだけど、生の弦(楽器)などをつけると、どうしてもエモーショナルになってしまうんです。それが北野監督の世界を壊してしまうのではないかと、すごく怖いんですよね」

北野作品の音楽を設計した者だけが経験する葛藤。そんな中久石が悟ったのは、「格調」という言葉だったという。

「格調のある音楽。つまり感情を変に盛り上げるのではなく、一歩引いたところから格調高い、しっかりとメロディがある音楽をつくり上げる。その一点をどうにかすればどうにかなる。それが北野映画を通して学んだことと言えるかもしれない」

 

「自分自身で逃げ道がないようにした」

一方、もう一人のパートナー、宮崎駿作品への取り組みにも、学ぶべきことが多かったという。

宮崎作品に対して久石は、1984年の『風の谷のナウシカ』以来、6作にわたり多大な貢献をしてきた。特に1992年『紅の豚』から5年ぶりに公開された『もののけ姫』では、わずか1分半の曲に2週間をかけるほど、音づくりに悩むことがあったという。

「『もののけ姫』に対しては、本当に正面から取り組んだんです。自分自身で逃げ道がないようにした。何でもそうですが、正面切って自分の逃げ道がないようにすると、気負いが先に立って逆にうまくいかないことってありますよね。だからわざと斜に構えて取り組むようなこともあります。そうするとかえっていいスタンスで良い仕事ができることがある。

でもこれ(『もののけ姫』)に関しては宮崎監督の熱意に圧倒されちゃって、こちらも防御を張っている間もないうちに引きこまれてしまった。そうなると、こちらとしてもやることはただ一つ。フルオーケストラでいいものをつくることだけだった。これはキツかった。でもうまくいってよかったと思います」

しかし、あの不朽の名作ともいえる『もののけ姫』のテーマ(歌)が誕生した瞬間について久石は、ファンには意外とも驚愕とも思える証言をする。

「あれにかけた時間は20分か30分ぐらいかなあい。だって全体のテーマ曲とは思ってもみませんでしたから。

実はいつものイメージアルバムづくりのやり方だと、宮崎さんからこういうイメージです、と10個ぐらい言葉をいただくんですよ。その言葉に対してこちらもイメージを広げて曲を書いていくんです。でも『もののけ姫』に関して言えば、来る言葉がすべて『たたり(神)』とか『もののけ(姫)』とかでしょ。どうしても暗くなってしまって、明るいアルバムはまずできない。

宮崎さんもこれはマズイと思ったらしくて、珍しく1曲1曲に対して内容をしっかり書いた手紙をいただいたんです。その中の『もののけ姫』のところに、『はりつめた弓のふるえる弦(つる)よ 月の光に』というポエムような一節があって、これは歌になるなと素直に思って、ささっとつくってレコーディングしちゃった。それがテーマ曲になったという経緯ですね」

 

だから一生勉強する

宮崎監督との間で産まれたそんな絶妙のパートナーシップは、一見、入りこむ隙すらないような最高のコンビネーションだ。だか久石は極めて冷静である。

「いや、コンビではないですよ。毎回、宮崎監督は、『どこかにいい作曲家はいないか?』と探していると思いますよ。そのたびにたまたま、『やっぱり久石がいいや』と思って使ってもらっているだけだと思います。だから1回でもつまらない仕事をしちゃえば、そこで終わりですね

この厳しさ、プロ対プロのクールな関係は、北野監督との場合でも同じだという。

「僕ら、すごくハッキリしているのは、仕事の場でしか会わないんです。普段一緒に飲みに行くようなことも一切しません。映画のたびに、『今度はこういう映画ですが、どうですか?』『では一緒に』というスタンスです。

だからもう、本数を重ねるにつれてすごく苦しくなってきます。ほんと、苦しいですよ。だって同じ手は使えませんから。だから同じように一生勉強していかないと。だって『この前やったのとまた同じじゃない』と言われたら終わっちゃいますから。そう考えると、本当に、すごく厳しい現場なんです。音楽の現場というのはね」

1998年3月6日放送(MC大江千里、益子直美)

(NHK「トップランナー」の言葉 仕事が面白くなる! より)

 

 

なお、書籍「トップランナー TOP RUNNER Vol.7」(1998年刊行)ではTV番組文字起こし忠実に約35ページに及び掲載されています。

目次(抜粋)

映画音楽の第一人者 久石譲

パラリンピック総合プロデューサー
■演出に初挑戦
■総合プロデューサーをひきうけた理由

映画音楽はこう作る
■北野映画の音楽
■真正面から取り組んだ『もののけ姫』
■二人の監督との関係
■ソロ活動

ドクサラ型音楽家人生
■現代音楽との出会い
■ポップス音楽に移った理由
■ポップスフィールドでの覚悟と戦略

人生道場 俺の演奏が世界一

新しいチャレンジ
■久石音楽は変わり続ける
■基礎体力、基礎精神力をつけろ

ファイナル・ソート ”音楽家”久石譲 大江千里

 

 

内容すべては紹介できませんので、文庫化では収載されなかったけれども特に印象的だった「基礎体力、基礎精神力をつけろ」項から一部抜粋してご紹介します。

 

久石:
「とにかく、うまくいかないのは当たり前のことだから、メゲないってことですね。もし二勝一敗ペースで物事をこなしていけたら、これはもうとんでもない勝率です。つまり、自分たちが大事だと思うことも三回に一回はコケてもいいわけですよ。問題はむしろ、コケたときにそれを自分でどう受け入れるか。コケそうになる前に、そういう大変なところへ自分を追い込むのをやめて引いちゃったりしてしまうケースがすごく多いような気がするんだけど、結果をしっかり受け止めるっていう気構えができていたら徹底的にやれるし、やった分だけ…勝ったにしろ負けたにしろ、成功したにしろ思い通りにいかなかったにしろ、残ってくれるものの厚みがどんどん変わってくる。そういう意味では、もう一度言いますけど、負けることをどう受け入れるか、それを意識すると人生ってずいぶん変わるんじゃないかな。負けることにメゲない基礎体力、基礎精神力をつけていくといいんじゃないかなっていう気がします。」

(トップランナー TOP RUNNER Vol.7より)

 

 

 

 

 

 

Blog. 「ストレンジ・デイズ 2015年12月号」 久石譲 MF Vol.2 コンサート紹介

Posted on 2015/12/19

2015年10月21日発売 雑誌「ストレンジ・デイズ 2015年12月号 No.193」

2015年9月24、25日開催「久石譲プレゼンツ ミュージック・フューチャー Vol.2」コンサート・レポート記事が掲載されていました。執筆家によるプロ目線でのそのレポート内容をご紹介します。

 

 

コンテンポラリー・ミュージック
MUSIC FUTURE VOL.2

「JOE HISAISHI presents MUSIC FUTURE VOL.2」というコンサートがよみうり大手町ホールで、2015年9月24日(木)、25日(金)、2日にわたって行われた。演奏されたのは以下の5曲。

スティーヴ・ライヒ 《エイト・ラインズ》 (1983)
ジョン・アダムズ 《室内交響曲》 (1992)
ブライス・デスナー 《Aheym》 (2009)
久石譲 《Single Track Music 1》 (2014-15)
久石譲 《室内交響曲》 (2015)

久石譲が映画の音楽で知られた人物であることは、あらためて言うまでもないだろう。北野武の作品や宮崎駿のアニメーションで特に多くの人びとに記憶されているし、ほかにもフランス映画『プセの冒険 真紅の魔法靴』(監督:オリヴィエ・ダアン)、香港映画『海洋天堂』(監督:シュエ・シャオルー)、中国映画『スイートハート・チョコレート』(監督:篠原哲雄)といった海外作品にも参加している。

わたしにとっては、しかし、映画の音楽は後からのものだ。「久石譲」と名のる以前、本名の藤澤守での作品を70年代、記憶が間違っていなければ、ふれたことがある。そしてアルバム『MKWAJU』(81年)のインパクトは、赤ーとオレンジのあいだくらいの色だろうか?ーとグリーンとがコントラストをなす色鮮やかなジャケット・デザインとともに、大きい。すでに上記のライヒやフィリップ・グラスなどの「ミニマル・ミュージック」が、都会的な洗練とシステマティックなつくりになったことに対し、アフリカの大地に根差したような力強さを回復する、というようなことが謳われていたのではなかったか。一度デジタル・マスタリングされ再発してはいるが、そちらは手にしていないので、確認してはいないのだけれども。

久石譲のオフィシャル・サイトをみると、81年の『MKWAJU』が「初の作曲・プロデュース作品」としてある。そして翌82年がファースト・アルバム『INFORMATION』、83年が映画公開に先がけてのイメージ・アルバム『風の谷のナウシカ』とつづく。そして以後、数々の映画の音楽が年ごとに並ぶことになる。そしてそれぞれのなかには『MKWAJU』で響いていた音色が、反復される音型が、いつも、というわけではないかもしれないが、垣間みられた。特にその親しみやすいメロディの背景に。

話をMUSIC FUTUREに戻す。

久石譲はここで、新たに自らが同時代と感じ、親しみを持ってきた音楽を、自らの手であらためてプログラミングしている。それは、映像とともにある音楽とは別の、映像がないことで成りたつ、音楽のみでのコンサートで体験される音楽であり、それはヨーロッパ由来ではあるかもしれないが、現在は世界に広がっている「コンサート音楽」だ。そして、久石譲自身とほかの作曲家の作品が、照応されるべく、組みたてられている。

確かに作曲家たちは親近性のある作品を自ら企画するコンサートで並べてきたし、いまでもそういうことは多い。だが、それが多くの聴き手を集めることは難しい。たとえどれかの作曲家に興味があっても、情報そのものがその聴き手まで届かないことだってありうる。おそらく、ライヒやアダムズ、デスナーを並べて2回のコンサートを開き、聴き手を集めることができる人物はけっして多くない。久石譲が「presents」してこそこれだけの人びとが集まると言ってもいいだろう。それは大きな意味がある。わざと意地悪な言い方をするなら、もしかしたら聴き手のなかにはそれぞれの作曲家の名は知らない人がいるかもしれない。それぞれの作品が持っているいろいろなテクニカルだったり思想的だったりすることはぴんとこないかもしれない。それでも、そこで響く音楽は、いわゆる「難解な現代音楽」ではなく、それなりにノれ、楽しめることがわかる。久石譲が企画するコンサートで名を知ることになって、それが少しずつでも、広まっていくかもしれない。

コンサートのことだけではなく、久石譲の作品についても紹介しておこう。「VOL.2」で初演された2作品は、楽器編成も構成も大きく異なっている。

《Single Track Music 1》はサクソフォン・クァルテットとパーカッションのための作品だが、全5人の演奏者がいて、同時に音を発しながらも、和音というか重音というか、になることがなく、タイトルどおり、響いている音は「シングル」。だから、聴く側からすると、何が起きているのかはっきりと耳で追っていくことができる。だが同時に、ホケット(=分奏)とみなすなら、それは初期ライヒの作品にあったような、音の受けわたし、メロディの生成するプロセスそのものが音楽作品化しているのであり、また、奏者同士の音を「聴きあう」ものとして提示されている。似たような試みは清水靖晃の『ペンタトニカ』に見いだすことができるけれども、ここではパーカッションによる音色の変化やアクセントが加えられるおもしろさもある。

《室内交響曲》は、作曲者自身が「エレクトリック・ヴァイオリンのための協奏曲」と呼ぶべきかもしれないとMCで語っていたもので、6弦のエレクトリック・ヴァイオリンが小編成のアンサンブルにソロとして加わる(ソロは西江辰郎)。この楽器は通常のヴァイオリンの音域よりも低い方が広くなっていること、また、アンプリファイアとして、シーケンサーのような「重ね」方が可能になっている。アンサンブルの書法として特に珍しいことではないけれど、金管楽器の3人はところどころでマウスピースだけを楽器本体からはずし、声を重ねることで特殊な効果を生みだしもする。

久石譲のコンサートは、もちろん映画の音楽を演奏するコンサートもあるし、それらをもとにしながら別のかたちに組みかえた『WORLD DREAM ORCHESTRA』のコンサートがあり、《第九》を指揮するものもある。より多くの聴き手を動員できるコンサートに隠れ、ともすれば「MUSIC FUTURE」は地味に、また「色もの」のようにみてしまう人もいるかもしれない。だが、これらを全体を見渡してみたときにこそ、現在の、久石譲の方向性が浮かびあがってくる、あるいは、より広い音楽の世界のなかでのこの音楽家の位置がみえてくる、のではないだろうか。

小沼純一

(雑誌「ストレンジ・デイズ 2015年12月号 No.193」より)

 

ストレンジ・デイズ 2015年12月号

 

Blog. 「クラシック プレミアム クラシック プレミアム 50 ~ガーシュウィン/バーンスタイン~」(CDマガジン) レビュー

Posted on 2015/12/10

クラシック・プレミアム第50巻は、ガーシュウィン / バーンスタインです。

アメリカを代表するジャズとクラシックを融合した作曲家たち。バーンスタインは名指揮者としても有名です。

 

【収録曲】
ガーシュウィン
《ラプソディ・イン・ブルー》
ルイ・ロルティ(ピアノ)
ロバート・クロウリー(クラリネット)
シャルル・デュトワ指揮
モントリオール交響楽団
録音/1988年

《パリのアメリカ人》
小澤征爾指揮
サンフランシスコ交響楽団
録音/1976年

バーンスタイン
《ウエスト・サイド・ストーリー》より 〈シンフォニック・ダンス〉
小澤征爾指揮
サンフランシスコ交響楽団
録音/1972年

《キャンディード》 序曲
デイヴィッド・ジンマン指揮
ボルティモア交響楽団
録音/1996年

 

 

「久石譲の音楽的日乗」第48回は、
音楽はどこに行くのだろうか?
世界はどこに向かうのだろうか?

いよいよ最終号です。

(全50号中2回は編集部によるコンサート・ルポルタージュのためエッセイ全48回です)

2014年1月創刊「クラシック・プレミアム」も全50巻をこの号で終え、2年間にわたる久石譲のエッセイもここに完結です。しかも最終回は予想もしていなかったうれしいプレゼント、いつもの倍、見開き2ページにわたるぎっしりと詰まった言葉たち。

”久石譲によるエッセイ連載”、久石譲の日常や音楽制作の進捗などがわかるかも!ということで読むことをライフワークとしてきましたが、改めて全号とおしていい内容だったなあと思います。久石譲の音楽制作過程なども垣間見れましたし、コンサートの準備段階から終演後の想いなども。もちろん「音楽の進化」というテーマを掲げた音楽講義は非常に難しいものでしたが、一度で理解できるものではありません。自分の中に理解できないまでもストックして記憶しておくことで、いつかどこかで「ああ、あの時のあのことか」と繋がることもあるのではと思っています。

なによりもここまでクラシックにどっぷりハマる日常生活もなかなかなかったですから、音楽的懐がとても広がったようが気がしています。さらに久石譲が発するキーワード(クラシック作品、作曲家、指揮者、映画、アーティストetc)から数珠つなぎで興味が広がり、同時に久石譲を形成しているバックボーンに少し近づけたような思いです。好きな作曲家の音楽だけを愛するよりも、その人の奥深い背景を少しでも知ったほうが、より作品の聴き方が変わってきますし、新しい響き方を体感することができます。

さて、さすがにその多くは書ききれない今号の内容です。前半「音楽の進化」、中盤社会的メッセージ、後半結びとあとがき、という構成になっているのですが、ここで取り上げるのは一部冒頭と後半のみにします。特に中盤では現在の社会情勢をふまえて、世界や日本で起こっているさまざまな事柄に警鐘を鳴らし、具体的に自分の意見をはっきりと述べていることも珍しいかもしれません。これまでももちろんありますが、その事象が多岐にわたっているという点で。ただ、あくまでも作曲家であり社会を論する評論家ではありません。なので、ここで書いてしまってその一部分だけが抜粋されて四方に泳いでいってしまうのは本意ではありませんので、読者の特権ということで胸に秘めておきます。

そんなに過激は発言をしているわけではもちろんなく「久石譲の意見」として、多くの人に知ってもらいたい、考えてもらいたいからこそ、ご本人は書いてるとは思うのですが、それを広めるのはこの場でなくてもいい、ということです。

最終号です、見開き2ページです、そのほかにも(こっちが本題)人気のあるガーシュウィンやバーンスタインの音楽。久石譲も作品化している「パリのアメリカ人」や、直近で”音楽としてのアメリカ”を語っている久石譲にもつながる、アメリカ発クラシック音楽です。その空気感、たしかに「室内交響曲」などにも通じるものがあるなあと聴きながら。ぜひ最終号記念として手にとってみてください。

一部抜粋してご紹介します。

 

「音楽の3要素でるメロディーと和音にアフリカ系のリズムが加わることで、ポピュラー音楽は20世紀を席巻した。一方、クラシック音楽の分野ではもう調整のあるメロディーは書き尽くされた、と多くの作曲家は考え(実際、過去の偉大な作曲家のメロディーを超えることは難しい)わかりやすいメロディーを書くことを止めた。それはより複雑化した和音とも関係するのだが、その和音(調性)も十二音音楽で捨てた。また20世紀の音楽の幕開けにふさわしいストラヴィンスキーの《春の祭典》のようなバーバリズム(原始主義)のリズムも、わかりやす過ぎるせいか捨てた。」

「つまりシェーンベルク一派が始めた十二音音楽以降の音楽は、弟子であったウェーベルンの点描主義(音がポツポツと鳴るだけでどこにもメロディーは出てこない)やそれの影響を受けたピエール・ブーレーズ、シュトックハウゼンなどのいわゆる現代音楽の道に繋がっていくのである。それらの多くはメロディーも無く、和音も無く(不協和音という和音ではあるのだが、むしろ特殊奏法を含む響きとして捉えたほうがいいかもしれない)、拍節構造(4/4拍子などの)も意味を持たなくなり、リズムも消えた。メロディーとリズムで多くの聴衆を獲得したポピュラー音楽と、音楽の3要素を否定していった現代音楽。結果は一目瞭然、聴衆は難解で作家の観念の世界(自己満足)に陥った現代音楽を捨てた。それでもまだ時代がよかった。」

 

「話を戻して、音楽も混迷している。いつの時代も”時代の語法”があった。バロック、古典派、ロマン派、十二音音楽、セリー、クラスター、ミニマル・ミュージックなどそれぞれの時代にそれぞれの作曲の語法があった。むろんそれを否定する人、無視する人などさまざまだが、少なくとも時代をリードする語法はあったが、この21世紀にはない。多くの作曲家は自分の殻に閉じこもり、自分独自と思い込んでいる作風に執着している。これもオンリーワンである。そして聴衆不在の音楽(聴き手のことを考えない)が聴衆不在の場所(そういうものを好むいつも同じ面子はいるらしい)で粛々と行われている。だが、考えてみてほしい。モーツァルトだってベートーヴェンだってもっと作曲は日常的な行為だったはずだ。生活の糧だったともいえる。それが作曲と社会が繋がる唯一の道なのである。だからモーツァルトに至ってはオーボエの協奏曲を別の楽器の協奏曲にすぐ手直ししたりする。時代が違うと言えばそれまでだが、絶対忘れてはいけないことがある。作曲したものはそれだけでは意味が無く、それを演奏する人がいて、聴き手がいなければ成立しないということである。聴いてもらうということが大切なのである。作曲という行為は単独では成立しない、このことを作曲家は肝に銘じなければならない。」

「音楽はどこに行くのだろうか?世界はどこに向かうのだろうか?」

「1人の作曲家としてこの時代に何ができるのだろうか? いつも自分に問うてはいるのだが、答えは出ない。ただ言えることがある。自分は作曲家である。まだ、はなはだ未熟で作品の完成度は自分が満足するには至らず、日々精進して少しでも高みに登る努力をしているのだが、同時に今までの経験を生かし、現代の音楽(現代音楽ではなく)を紹介し、新しい新鮮な体験をする場を提供し、そして過去から現代、現代から未来に繋がる音楽がどういうものなのかを聴衆と分かち合い一緒に作っていきたい、そう考えている。2年にわたるこの連載はこれで終わる。まだ書きたいことはいろいろあるがそれはいずれどこかで。」

勝手なあとがき

「いやー、勝手なこと小難しいことなど色々書いてしまいました。本当はですます調で優しく書きたかったのですが、なぜか最初に、「である」とか、「なのだ!」の断定口調になったため、随分偉そうな書き方になりました。この2年、2週ごとに原稿を書かねばならなかったのは大変苦痛でした。というのは作曲の締め切りなどのピークと原稿の締め切りがほぼ一致し、何日も寝ていない日の明け方にこの原稿を書かなければならなかったことが多かったからです。昔流行ったマーフィーの法則と一緒ですね。」

「特に後半は作曲の量が半端ではなく、また指揮する楽曲の難度も凄まじく、生きた心地がしなかった(苦笑)。ざっとみると《Single Track Music 1》約6分、《The End of the World》全5楽章約30分、《Untitled Music》3分半、《交響詩 風の谷のナウシカ》改訂完全版約30分、《室内交響曲 for Electric Violin and Chamber Orchestra》約30分、《コントラバス協奏曲》約30分などの作品を書き、その間CMなどのエンターテイメントの音楽の作曲も行った。わずか半年である。また指揮もシェーンベルクの《浄められた夜》やアルヴォ・ペルトの《交響曲第3番》、ジョン・アダムズの《室内交響曲》、カール・オルフの《カルミナ・ブラーナ》など難しい楽曲や大規模な作品を振らせていただいた。」

「その間の原稿はあまりに余裕が無く、ひたすら「音楽の進化」について書き続けた、日乗に触れたら本当にしんどいのが実感してしまうから。だが、まだきつい日々は続く。もうすぐベートーヴェンの《第9交響曲》と共に演奏する自作《オルビス》の第2楽章も書かなければならない。やれやれ。」

「それでも本当はこの原稿を書くことによって、自分の考えをまとめることができ、かつ音楽の本質を考えることで自分の立ち位置、自分の中の音楽観をまとめることができたことを深く感謝している。人間は言葉で考える。だから文章を書くことがいかに大切か実感した。」

「あれ、いつのまにか断定口調に戻っている。やっぱりこれが自分の言葉なのか(笑)。古代ギリシャのピタゴラス派が考える音楽観についても書くつもりでいたが本当に紙面が尽きた。機会を与えていただいた小学館の河内さん、読んでいただいた皆さんにも心から感謝、今度はコンサートで会いましょう。」

 

クラシックプレミアム 50 ガーシュウィン バーンスタイン

 

Blog. 「月刊ぴあの 2015年12月号」 久石譲 インタビュー内容

Posted on 2015/12/6

11月20日発売「月刊ぴあの 2015年12月号」に久石譲のインタビューが掲載されました。

今年の活動の総決算として、8月に発表した新作「ミニマズム2」のこと、1年間の多種多彩なコンサート、TV・CM音楽のこと、日常生活リズム、これを読めば久石譲の凝縮した一年間がわかる、そんな内容になっています。来年に届けられるであろうCD作品のことも。(個人的感想も、いっぱい書かせてもらいました)

 

 

曲を書き続けていないとわからないことがある。
ある時、パッと何かが吹っ切れる瞬間がくるんです。

アルバム『ミニマリズム』から約6年を経て、『ミニマリズム 2』を発表した。久石にとってミニマル・ミュージックは、国立音楽大学在学中に興味をもち、現代音楽の作曲家として活動を始めるきっかけにもなった音楽だ。改めてその魅力、そして今後の活動について語ってくれた。

 

現在のミニマルは無限の可能性があるんです

-『ミニマリズム 2』は約6年ぶりのミニマル・ミュージックのアルバムですね。ミニマルを作り続けることは久石さんにとって重要なことなのでしょうか。

久石:
「学生時代から30代前半まではミニマルをベースにした現代音楽をやっていましたからね。そのあとはずっと映画音楽やCMなどエンタテインメントの世界でいろいろ書いてきましたけど、オーケストラの指揮をするようになって、自分の中で、もう一回クラシックというものを見つめ直し始めたのです。学生時代には前衛音楽に傾倒していて、純粋なクラシック音楽には見向きもしなかったのですが(笑)。でも、指揮をするからには、ベートーヴェンの「運命」や、ドヴォルザークの「新世界より」などといった作品もちゃんと振ってみたほうがいいだろうと思って。実際に振ってみると、作曲家がどうやって作っているのかがよくわかります。クラシックにきちんと取り組むからこそ、まずは、自分のベースになっている、ミニマルに立ち返ってもう一度作ろう、と思ったのです。」

-アルバムを聴いて、改めて、ミニマルのおもしろさを感じました。マリンバ2台の曲「Shaking Anxiety and Dreamy Globe for 2 Marimbas」は、元々はギター2台のための曲だったんですよね。

久石:
「ギターで演奏すると、この曲はすごくエモーショナルになるんです。でも、ミニマルはリズムが命ですから、打楽器で演奏しても成立するなと思って書き直したんです。ミニマル・ミュージックの作業というのは元々、スティーヴ・ライヒ、テリー・ライリー、フィリップ・グラス、ラ・モンテ・ヤングの4人だけ。あとは、全部ポストミニマルや、ポストモダン、ポストクラシカルなどと呼ばれる(次世代の)音楽で、ある意味、まったく違う表現になっていったんです。現在のミニマルは、表現の形が広がっていて、無限の可能性がありますね。」

-現在、ポストミニマルの最先端にはどんなアーティストたちがいるのでしょうか。

久石:
「今、アメリカの30代前半の若い作曲家が、ミニマルの影響を受けた新しいスタイルを作り出しています。クロノス・カルテットがずっと委嘱している元ロック・ミュージシャンのブライス・デスナー、そしてビョークと共演したり、メトロポリタンのオペラを書いたりしているニコ・ミューリーとかね。彼らはいわゆるポストクラシカルの作曲家で、僕の姿勢と同じなんです。ミニマルをベースに、新しく、表現することに対して、ジャンルというものにこだわっていない。彼らの世代は日常的に聴いてきた音楽でもあるから、あえて”ミニマル”なんて言う必要もないんです。」

-久石さんご自身もミニマルをやり続けながら、若いアーティストの紹介もすることで、新たなリスナーが増えそうですね。

久石:
「彼らのことは日本ではまだあまり知られていない現状があるので、僕が伝えていく役目かなとも思っていて。今年の9月に「ミュージック・フューチャー」という、ミニマル、ポストクラシカルの先端を紹介するコンサートシリーズの2回目を行ったんです。さきほどの作曲家のほかにジョン・アダムズや僕の書き下ろしの曲、6弦のエレクトリック・ヴァイオリンのための「室内交響曲」も初演しました。このシリーズは続けていきたいですね。」

 

毎年、正月に宮崎駿監督に曲を届けています

-今回のアルバムの中の「WAVE」という曲は三鷹の森ジブリ美術館でも流れていますし、「祈りの歌 for Piano」はだれもが聴きやすい、美しい曲です。ミニマル・ミュージックだという意識は特別必要なく、だれもが楽しめる曲が多い印象を受けました。

久石:
「宮崎駿監督とはもう長い付き合いですからね。年に一回、宮崎さんのために正月に曲を書いて持って行くんです。持って行かない年は1年を通して調子が悪くて(笑)。ゲン担ぎみたいなものですね。「祈りの歌 for Piano」は今年の正月に持って行った曲です。正月の3日に作って、4日にレコーディングしてその日に持って行って。なんだか出前みたいですけど(笑)。この年頭の習慣が、意外と大事なんですよ。お正月だから、暗い曲を持って行くことはしないし(笑)、新年最初に心休まる曲を一曲作る、というのは、すごくいいなと思っていて。ジブリ美術館では、僕の曲を今でも使ってくれているみたいですね。」

-今後は、8月に行ったワールド・ドリーム・オーケストラのコンサートのライヴ盤がリリースされる予定だそうですね。

久石:
「はい。「The End of the World」という曲は5、6年前に作った曲で、全楽章合わせて20分くらいの長さだったものを、今回新たに全部書き直し、楽章を増やして、30分近い曲に完全にリニューアルしたのです。これは音源として残さなくてはと思って録音しました。あと「風の谷のナウシカ」も徹底的に交響作品として作り直しました。今回のナウシカは、譜面として、どこのオーケストラも演奏できるように、スタンダードなスコアとして出版する予定なんです。当然、海外でも出す予定ですよ。」

-純粋にご自分の作品を作る割合と、映画音楽などのエンタテインメント作品を制作する割合はどれくらいなんですか?

久石:
「年によって比重が変わります。今年はどちらかというと、自分の作品が多いですね。でも、CMやゲーム音楽も作っていますね。あとは五嶋龍君が司会になった『題名のない音楽会』の新テーマ曲も書かせてもらいました。この「Untitled Music」という曲は自分でもすごく気に入っています。テーマ曲というだけでなく、作品としても聴いていただけると思うのですが、リズムが相当難しくて、絶対に自分では振りたくないなぁ(笑)と思ったくらい(実際は初回放送時に五嶋と共演)。でも、あの曲を書いたことで一つ吹っ切れたところがありました。」

-何が吹っ切れたのでしょうか?

久石:
「それは書き続けていないとわからないことだと思います。何かを求めて求めて、でもなかなか上手くいかなくて、ちょっと上手くいったと思ったら、またダメだったり、それを繰り返す中で、パッと吹っ切れる瞬間がくるんです。自分でも、僕の生活はどうなっているんだ(笑)と思うようなスケジュールですけど、大量に仕事をこなしている中で、あの曲を書いた時に、何か、吹っ切れた。ハードな毎日があるからこそ、できた曲ですね。立ち止まってしまうとわからないんですよ、そういうのって。」

-年内の今後のご予定は?

久石:
「今年も12月にベートーヴェンの「第九」を演奏します。「第九」に捧げる序曲として書いた「Orbis」も楽章を足すつもりなんです。すごくいい曲だというお声をいただいているんですけど、10分くらいの長さなので、もう終っちゃうの?とオケの人も物足りなく感じるみたいで(笑)。「第九」の前に演奏するのにちょうどいいくらいの尺に仕上げようと思っています。」

-ジャンルの幅が広く、本当に膨大な仕事量ですが、普段はどのようなペースで取り組まれているのでしょうか?

久石:
「作曲のスタイルは、統一していますからね。あれ風、これ風、というのはまったく考えていなくて、自分のやりたいことを自分のやり方のまま、その範疇にエンタテインメントの要素もミニマル的なものもあると思うので。基本は、昼の2時から夜10時頃まで作業して、ご飯を食べたあとに明け方の6時頃までクラシックの勉強。ひたすらスコアを読んでいます。そんな感じがずっと続いていますね。しんどいですけど、ある程度、自分を追い込まないと新しいものは出てこないから。今までの語法にのっとって仕事をこなす、みたいになってしまうと、2、3年はそれでもつかもしれないけど、そのあと何も生まれてこなくなりますよ。気晴らし?夜中に観るアメリカのテレビドラマ(笑)。あとはジムで体を動かしたり、泳ぐことかな。」

(「月刊ぴあの 2015年12月号」より)

 

 

いろいろと今年の活動内容のことが触れられています。

これなんのことだろう?と気になる事柄もあるかもしれません。ただ、ここでなぞって振り返って説明すると足りないので、バイオグラフィーにて年表からその項目を紐解いてみてください。

 

補足をふたつ。

宮崎駿監督に持って行っているという年1回の楽曲。これは宮崎駿監督の誕生日が1月5日で、それに合わせてのプレゼント・献呈というのが事の始まりです。それが結果、年1回、一年の始まりに、ジブリ美術館BGMに、という流れになって現在に至るまで習慣化されているというわけです。その日にレコーディングにしてその日に届ける。なんとも贅沢でうらやましい限りです。

ジブリ美術館関連のBGM情報に関しては下記まとめています。

Disc. 久石譲 三鷹の森ジブリ美術館 展示室音楽 *Unreleased

 

補足ふたつめ。

「Shaking Anxiety and Dreamy Globe for 2 Marimbas」について。

たしか久石譲はいつかのインタビューにて、「ミニマル・ミュージックはプロの演奏家でも難しい」「ミニマル・ミュージックがわかっているいないでの演奏は全く異なる」そんなことを言っていたと記憶しています。だからこそ、リズムが肝となるミニマル・ミュージックにおいて、あえてギターのための作品を打楽器マリンバのために書き直したのだと思います。

ギター版はたしかにエモーショナルです。でもリズムを刻む以外にも音の強弱(弦を弾くタッチ)や、奏法ゆえの一つ一つの音の長さや残響にムラが生じます。弦の上で指をスライドさせて演奏することが基本のため音の均一化は難しく(音程や何弦を使い分けるかにもよる)、弦のスライド音も発生します。もちろんそれがギターの生き生きとした楽器としての実演の強みでもあります。

ただし、規則正しい音型・音価・リズムを刻んでこそ、そこから意図的に微細にズレていく音楽がミニマル・ミュージック。その核心があったうえで、それを具現化しやすい、マリンバという楽器を選んだということなのでしょうか。別の機会でのインタビューでも、自分の作品において、「ミニマル色に欠かせないのはハープ、マリンバ、グロッケンなど…」そんなことを言っていたとも思います。

あとは…詳しくないので中途半端に触れたくない触れていはいけないのですが、倍音構造がちがうはずです。残響音やユニゾンから発生する倍音がちがう。ギター版とマリンバ版、同じ楽曲とは思えない印象を受けるのは、楽器の音色そのものだけでなく、その倍音の響きも影響しているのでは、と。久石譲は初期(それこそMKWAJU作品など)から、マリンバは自分の作品を作るうえでの武器として熟知していますので、おそらく、、そういうことではないのかなぁと、、。マリンバの倍音構造は、同じ音を弾く際にも、叩く場所によってその音の倍音の鳴りやすい音が違うそうです。

例えば、基本ドの音の倍音は、2オクターヴ上のドとその上のミの音とのこと。なので基本ドをずっと叩きつづけるとその倍音も自然と響いてくることになります。さらに基本ドの叩く場所が違うと、2つの倍音のうち2オウターヴ上のドの音が鳴りやすくなる、もしくはその上のミの音が鳴りやすくなる、ということになります。しかも、この楽曲では「2台のマリンバのための」となっていますので、よりユニゾンによる倍音効果は発揮されるはずで、、うーん、奥が深いですね。

以前にも一度だけ「倍音」については触れたことがあると思うのですが(クラシックプレミアム・レビューにて)、久石譲音楽のひとつの核心に迫れるキーワードなのかもしれない、と最近よく思っています。なぜ、一聴して久石譲音楽と気づくのか、説明がつかない感情的に残るひっかかり、旋律や楽器の音色だけではない、直接耳もしくは脳に訴えかけてくる響き。いつか研究してみたい項目です、蛇足でした。ひとつの聴き方・とらえ方として、聞き流してください。

 

最後に。

食い入るようにインタビュー内容を何度も読み込み、久石譲の言葉じり(ちょっとしたキーワードや言い回し方)を、透けるくらい凝視し心理を推測するような感じで、…結果、やはり今後は”作品”を手がけていくつもりなのだろう!という結論です。

宮崎駿監督の長編映画引退に伴う、4-5年に1度続けてきたジブリ音楽制作が一旦休止。宮崎作品を手がけることとそこで完成された音楽は、自身音楽活動のエポック的な位置づけとしてきていました。宮崎駿×久石譲のコラボを繰り返すことで、同じように久石譲音楽もどんどん次の次元にという過程においても。そのマイルストーン的通過点がない今、自分の作品に向き合うのは自然な流れです。

そして、今年の活動のなかでも、いろいろな「発注されて作った作品」があります。それはいわば断片でしかない楽曲群です。単発ものですから、”今の久石譲”の一部は透けてみえたとしても、そこには大きな作品としてのテーマとまでは完成できない。

だからこそ、「室内交響曲 for Electric Violin and Chamber Orchestra」「Untitled Music」「コントラバス協奏曲」などを通過して、おそらく全体として統一された作品を作っていくのではないかと。これらを1枚のアルバムにまとめるということではなく、あるいは延長線上にある別の新作なのかもしれません。

 

さらに突っ込む!

もうひとつは、そのような作品の創作活動において、いい意味で”もうミニマルにはこだわらないんじゃないか”とも推測しています。上記インタビューで語っている、とある箇所が印象的でした。

 

「クラシックにきちんと取り組むからこそ、まずは、自分のベースになっている、ミニマルに立ち返ってもう一度作ろう、と思ったのです。」

「現在のミニマルは、表現の形が広がっていて、無限の可能性がありますね。」

「ミニマルをベースに、新しく、表現することに対して、ジャンルというものにこだわっていない。彼らの世代は日常的に聴いてきた音楽でもあるから、あえて”ミニマル”なんて言う必要もないんです。」

 

……

無限の可能性がある、かつ、一方で一般的にも浸透しきった、それがミニマル・ミュージックだとしたときに、もう”ミニマル・ミュージック”を謳い文句として前面に押し出すことも、ミニマル・ミュージックのなかの一部の表現方法に固執することも、今はナンセンスだ、そういう括りはもう必要ない段階にきている、そんなことをご本人は思っているのではないかと…。

久石譲が自作を創作するうえで、どんな作品になろうともそこには必ず多かれ少なかれのミニマル・エッセンスが盛り込まれます。だからこそミニマル・ミュージック=リズムを基調に、楽曲全体を統一して構成するというところから、一歩先の”普遍的な作品”への追求段階に入ったのではないかと。それが少し垣間見れたのが、上の3つの作品群です。第1主題、第2主題、提示部、展開部、コーダ、楽章…よりクラシックの語法にのっとった形式にて楽曲構成していく。リズムの動きを止めるパートを配置した緩急ある作品構成。

つまりは、ミニマル・ミュージックという狭義のジャンルや語法を突き詰める段階から、より広義なクラシックの語法を用いた普遍的な作品を目指す段階に入った。個人的に辿り着いた答えはそこでした。あくまでも一個人の勝手な見解と受け止め方です。いちファンとして、日常会話的表現方法で言うならば、「ミニマリズムは2で終っちゃうんじゃない?!次は別の新シリーズが!?」そんな言い回しがわりとわかりやすく伝わりやすいのかもですが、意図しているところとしては、そういうことです。

あえて言うまでもなく、これは、シンセサイザー、アンサンブル、オーケストラという楽器編成の変化を経ながら、その時代ごと楽器編成ごとのミニマル・ミュージックを突きつめ極めてきた。今日ではシンフォニックで構成するミニマル・ミュージックまで昇華した久石譲だからこその、次への道という自然な流れだとも思っています。

”自然な流れ”と表現してしまうと、成り行きのような軽い印象を受けてしまいそうですが、それは久石譲のあくなき創作性と新しい次元への挑戦の流れである、と補足しておきます。

 

本インタビューを読んで読んで読んで、ひっかかりをもった部分を自分の中で幾重にも迷走したうえでの一解釈ですので、当たっていなくても、、すいません。

やはり「Untitle Music」はお気に入りの渾身作か!とか、やはり「The End of the World for Vocalists and Orchestra」は録音を残しておきたいほどの完成度か!とか、そうでしょうそうでしょう!と頷きながら読みふけ。

 

2015年の久石譲音楽に感謝するとともに、2016年の久石譲音楽も期待が膨らむばかりです。少し長い時間軸で少し離れて俯瞰的に見るよう努めて…2016年ではないかもしれませんが、着実に久石譲の次のステージの音楽が待ち構えている!その片鱗が見え隠れしだした2015年だった!そう確信している(したい)ところです。

今年最後の目玉「新orbis ~混声合唱 オルガンとオーケストラのための~」新たに第2楽章が書き下ろされ改訂されたその演奏を聴いた日には、さらに確信に近づくかもしれません。(12月3公演にて初演予定)

シンプルにひとつわかっている一大企画!

2014年からスタートしたジブリ作品の交響作品化シリーズがあります。「交響詩 風の谷のナウシカ」改訂完全版で華々しく幕を開けた同企画。音楽担当したジブリ全11作を交響曲や交響詩として作品化することを始動させています。次は順当に「ラピュタ」がくるとも限りません。どの作品であってもどういう交響作品になろうとも、楽しみでしかありません。

今年の久石譲音楽活動の総括は、このインタビュー記事に関連して、派生してしまいしたので、これにて。

久石さんの誕生日にお祝いと感謝の気持ちを込めて 記

 

そういえば昨年2014年は『WORKS IV』に関連して一年を総括していました。一年ぶりに読み返してみて、当たっているところもあるような、ないような。そのときの思考や想いをまとめておくことに意義があると思っているのでご愛嬌ということでお許し下さい。

Blog. 久石譲 新作『WORKS IV』ができてから -方向性-

 

月刊ピアノ 2015 12月号 1

 

Blog. 『スタジオジブリの歌 -増補盤-』発売に思う「音楽:久石譲」の凄み

Posted on 2015/12/3

2015年11月25日『スタジオジブリの歌 -増補盤-』CDが発売されました。

内容説明を一気に言いますと、

スタジオジブリ設立30周年記念!ジブリ映画24作品の主題歌/挿入歌を網羅した究極のアニバーサリー盤。2008年リリース「崖の上のポニョ」までのを網羅したオムニバス『スタジオジブリの歌』から、以降公開された「借りぐらしのアリエッティ」「コクリコ坂から」「風立ちぬ」「かぐや姫の物語」「思い出のマーニー」の5作品を追加した30周年増補盤にして完全版。高音質のHQCDとして登場。全ての世代に愛されるスタジオジブリの永久保存版として一家に一枚。同内容のオルゴール盤『スタジオジブリの歌オルゴール -増補盤-』も同時発売。

早期購入特典や早期同時購入特典(歌盤とオルゴール盤)もありますが、いつまで入手可能かどうかはショップにてご確認ください。特典内容や詳細はディスコグラフィーにて収載しています。

 

Disc. V.A. 『スタジオジブリの歌 -増補盤-』
Disc. V.A. 『スタジオジブリの歌オルゴール -増補盤-』

 

【収録楽曲】

[DISC.1]
01. 風の谷のナウシカ(風の谷のナウシカ) 安田成美
02. 君をのせて(天空の城ラピュタ) 井上あずみ
03. さんぽ(となりのトトロ) 井上あずみ
04. となりのトトロ(となりのトトロ) 井上あずみ
05. はにゅうの宿(火垂るの墓) アメリータ・ガリ=クルチ
06. ルージュの伝言(魔女の宅急便) 荒井由実
07. やさしさに包まれたなら(魔女の宅急便) 荒井由実
08. 愛は花、君はその種子(おもひでぽろぽろ) 都はるみ
09. さくらんぼの実る頃(紅の豚) 加藤登紀子
10. 時には昔の話を(紅の豚) 加藤登紀子
11. 海になれたら(海がきこえる) 坂本洋子
12. アジアのこの街で(平成狸合戦ぽんぽこ) 上々颱風
13. いつでも誰かが(平成狸合戦ぽんぽこ) 上々颱風
14. カントリー・ロード(耳をすませば) 本名陽子
15. On Your Mark (On Your Mark) CHAGE and ASKA
16. もののけ姫(もののけ姫) 米良美一
17. ケ・セラ・セラ(ホーホケキョとなりの山田くん)山田家の人々ほか
18. ひとりぼっちはやめた(ホーホケキョとなりの山田くん) 矢野顕子

[DISC.2]
01. いつも何度でも(千と千尋の神隠し) 木村弓
02. 風になる(猫の恩返し) つじあやの
03. No.Woman, No Cry (ギブリーズepisode2) Tina
04. 世界の約束(ハウルの動く城) 倍賞千恵子
05. テルーの唄(ゲド戦記) 手嶌葵
06. 時の歌(ゲド戦記) 手嶌葵
07. 海のおかあさん(崖の上のポニョ) 林昌子
08. 崖の上のポニョ(崖の上のポニョ) 藤岡藤巻と大橋のぞみ
09. The Neglected Garden [荒れた庭](借りぐらしのアリエッティ) セシル・コルベル
10. Arrietty’s Song (借りぐらしのアリエッティ) セシル・コルベル
11. 夜明け~朝ごはんの歌(コクリコ坂から) 手嶌葵
12. 上を向いて歩こう(コクリコ坂から) 坂本九
13. さよならの夏~コクリコ坂から~ (コクリコ坂から) 手嶌葵
14. ひこうき雲(風立ちぬ) 荒井由実
15. いのちの記憶(かぐや姫の物語) 二階堂和美
16. わらべ唄(かぐや姫の物語)
17. 天女の歌(かぐや姫の物語)
18. Fine On The Outside (思い出のマーニー) プリシラ・アーン

 

 

圧巻の主題歌・挿入歌完全網羅となっています。

久石譲にフォーカスします。

宮崎駿監督作品全10作+高畑勲監督作品1作の、計11作品にて音楽を担当している久石譲。ですが、上の収録楽曲全36曲中、久石譲が作曲(編曲)したのは7曲。なんとも少ないという印象です。太文字になっている楽曲が該当曲ですが、「世界の約束」(ハウルの動く城)は編曲のみの担当です。『かぐや姫の物語』挿入歌「わらべ唄」「天女の歌」作曲は高畑勲監督です。それが久石譲作曲の劇中音楽と絶妙に織り重なって構成されているのですが。

全11作品中、7曲しか歌曲がないということは、当たり前ながら本編音楽は担当していても主題歌は別作曲家によるもの、ということになります。それなのに…なんで久石譲=ジブリというイメージが強いんだろう?それは簡潔かつ決定的に言ってしまえば、本編で流れる久石譲の劇中音楽が強烈に印象に残っているからです。

 

これまた当たり前のことだと言われてしまいそうですが、いやこれは一般的に考えてもすごく稀で特筆すべき点です。今でこそ映画音楽というジャンルは確立され一定の立場として扱われていますが、その功績の一因として数えられるのが、間違いなくジブリ音楽です。

 

”ナウシカ”と聞いて浮かんでくるメロディーは?

「海の見える街」「あの夏へ」という曲で浮かぶ映画は?

「人生のメリーゴーランド」の華麗なワルツはどの作品?

 

曲名を聞いてピンとこなくても、そのメロディを聴いた瞬間に、すぐにどのジブリ映画か即答できる人は少なくないと思います。主題歌や挿入歌ではない、歌詞や歌声のない、楽器だけが奏でるインストゥルメンタル楽曲で、強烈な印象を残すことは容易なことではありません。

一般的に記憶している楽曲を思い出して歌えるのは、メロディーに歌詞が乗っているという言葉の力による記憶補佐も大きいと思います。だから鼻歌でもなんとなくメロディを口ずさめる。それをピアノやオーケストラが奏でる旋律を、同じように鼻歌で歌えるほど人の記憶にインパクトを与える旋律の力。

久石譲コンサートでも「ナウシカが聴けた!」「千尋をやってくれた!」と大満足な感想をさしているその楽曲は、もちろん主題歌ではなく劇中音楽です。これが結構な大多数の人に認知されている、それこそがジブリ映画の『音楽:久石譲』たる凄みだと思っています。

ジブリ映画の音楽が担う役割の比重、ジブリ映画はTV放送など鑑賞回数が多い、そんな他の要因ももちろんあるかもしれませんが、…でも『耳をすばせば』という映画作品が好きだったとして、「カントリー・ロード」以外に、思い浮かぶ劇中音楽やメロディがあるか、と言われればなかなか難しいかもしれません。

 

今回発売された『スタジオジブリの歌 -増補盤-』それ自体ももちろん素晴らしいです。ここまで正規に・公平に・正統に網羅されるベスト・アルバムはどんなジャンルにおいてもなかなかありません。まさに出し惜しみしないスタジオジブリの真摯な姿勢が現れているというところでしょうか。

収録楽曲を聴いても、各々ジブリ映画の世界へと一気に誘ってくれます。プレゼントにも喜ばれている逸品のようで、まさに世代を越えた、老若男女に愛されるジブリソングがぎっしり詰まっています。映画のために書き下ろされた楽曲がほとんどで、そこにもスタジオジブリの歌や音楽に対する力点を感じますし、そういった楽曲たちが後のスタンダード曲となって引き継がれていくんだろうなあと改めて思います。

「ここまで網羅するなら3枚組にしてBGMを集めた音楽集もつけてほしかった」そんなコメントもちらほら見かけるほどで、やはりそこには久石譲音楽がジブリ作品と切っても切れないほどお茶の間に浸透している証拠なのではと思います。

 

今回はたまたま本作品の発売に際して、収録楽曲のラインナップを眺めていて思った、いや再認識した「音楽:久石譲」の凄みについてでした。

残念ながら、今企画と同類の純粋な「スタジオジブリ サウンドトラック ベスト・アルバム」のような作品は発売されていません。それでも『ジブリ・ベスト ストーリーズ』(2014)というベストアルバム作品はあります。同作品は、久石譲名義で初のジブリ・ベスト盤ですが、全曲サウンドトラック盤からではなく、久石譲が音楽作品として再構成した自身のソロ・アルバムに収録された楽曲群です。詳しいレビューは下記ご参照ください。

Blog. 久石譲 初ジブリベスト 宮﨑駿 x 久石譲 30周年 CD発売決定!
Disc. 久石譲 『ジブリ・ベスト ストーリーズ』

 

入門編としては太鼓判の作品です。もっと奥深くジブリ作品「音楽:久石譲」の世界へとのめり込みたい方は、ディスコグラフィーにてカテゴライズしています。イメージアルバム、サウンドトラックから、久石譲がオリジナル・ソロアルバムで再構成したもの、ピアノ・ソロ、オーケストラ。映画公開から数年~数十年の時が流れ久石譲によるジブリ音楽は今もなお進化しつづけていることがわかります。

ちょうど2014年久石譲はジブリ作品の交響組曲化を始動させ、記念すべき第1弾「交響詩 風の谷のナウシカ」完全版が同年コンサートでお披露目されました。久石譲が現在においても30年以上の時を越えて手を加えて、さらに完成度の高い音楽作品へと昇華する活動をしている。裏を返せば、30年以上の時を越えて、今でも聴かれつづけている、聴きたい聴衆がいつづける、色褪せることのない新鮮な魅力を保ちつづけている。ジブリ映画のおける「音楽:久石譲」はすでに未来へのスタンダード軌道に入っているのです。

Studio Ghibili ディスコグラフィー

 

スタジオジブリの歌 増補版

スタジオジブリの歌 オルゴール 増補版

 

Blog. 久石譲×今井美樹 極上コラボレーションの軌跡

Posted on 2015/11/29

久石譲と今井美樹。

90年代に一緒に仕事をしている二人ですが、なぜ今このタイミングで取り上げるかというと、「季節 ~冬~」と「オールタイムベスト盤発売」というふたつです。

最初に結論を言ってしまうと、”ぜひ「遠い街から」という隠れた名曲をこの冬聴いてください!”

 

 

出会い編

1987年公開映画「漂流教室」(監督:大林宣彦 音楽:久石譲)

この作品の劇中音楽を担当していたのが久石譲です。そしてその主題歌を歌ったのが今井美樹です。

「野性の風」
作詞:川村真澄 作曲:筒美京平 編曲:久石譲

今井美樹の2作目のシングルにしてなんとも豪華な制作陣です。ちなみにサントラ盤に収録されていたとも思いますが、今井美樹は同楽曲を英語(劇中)、日本語(エンドロール)で歌っています。

 

 

プロデュース編

そして満を持して久石譲x今井美樹のコラボレーションが実ったのが7枚目のアルバム「flow into space」(1992)です。

今井美樹オフィシャルサイトでの、作品コメントには、

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「全く新しい今井美樹」を探して、久石譲プロデュースで、東京とロンドンで録音。人気曲「The Days I Spent With You」「amour au chocolat」の2曲は布袋寅泰さんから初めての楽曲提供でした。「Blue Moon Blue」での美しいストリングスアレンジや、「かげろう」「雪の週末」など個人的にも大好きな楽曲がいっぱいです。
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とあります。

 

 

収録楽曲
1.Blue Moon Blue Re-mix (4:31)
作詞:岩里祐穂 作曲:上田知華 編曲:久石譲
2.amour au chocolat (5:25)
作詞:今井美樹 作曲:布袋寅泰 編曲:久石譲
3.素敵なうわさ (5:13)
作詞:岩里祐穂 作曲:柿原朱美 編曲:浦田恵司
4.The Days I Spent With You (5:47)
作詞:岩里祐穂 作曲:布袋寅泰 編曲:久石譲
5.かげろう Re-mix (5:48)
作詞:今井美樹 作曲:MAYUMI 編曲:久石譲
6.永遠が終わるとき (5:26)
作詞:川村真澄 作曲:久石譲 編曲:久石譲
7.雪の週末 (5:04)
作詞:岩里祐穂 作曲:柿原朱美 編曲:久石譲
8.flow into space (3:52)
作詞:今井美樹 作曲:上田知華 編曲:浦田恵司
9.遠い街から (5:24)
作詞:今井美樹 作曲:久石譲 編曲:久石譲

今井美樹 flow into space

 

久石譲が作品プロデュースを担当し、収録全9曲中、作曲2曲、編曲7曲と、久石譲カラーが強くでています。今井美樹の音楽方向性においても大きな分岐点となった作品と言われています。より透明感のある大人な女性、そして布袋寅泰との共同作業へ。

「Blue Moon Blue」はシングル曲なので、聴いたことある方もいるかもしれません。アコースティック・サウンドでとてもお洒落な仕上がりです。久石譲寄り目線で見るならば、間奏の久石譲によるピアノの旋律が、同時期作品「ぴあの」(NHK朝の連続テレビ小説 主題歌)を彷彿とさせ、聴いているだけでニンマリしていしまいます。

 

 

そしてなんといっても隠れた名曲といえば、

 

「遠い街から」

アルバムの最後を飾る「遠い街から」です。

イントロのピアノの調べから、徐々に重なりあうストリングス、透きとおった歌声。今井美樹による歌詞も遠く恋人を待ちわびる女性と冬の情景が広がる世界。久石譲プロデュース作品としては、このアルバム1作のみで、その後シングルとしてもコラボレーションは現在に至るまでないです。それだからこそ、1992年のこの作品を残してくれたことが素晴らしいの一言に尽きます。楽曲提供をしたうちのひとつになるので、久石譲としては忘れているとしても致し方ないのですが、

……

なんと2007年に久石譲自身のコンサートで取り上げています。「久石譲&新日本フィル・ワールド・ドリーム・オーケストラ There is the Time」全国7公演中、3公演プログラムにて、ヴォーカルは林正子さん。忘れていなかったんですね、名曲を。

 

 

オールタイム・ベスト

2015年10月7日発売
「Premium Ivory -The Best Songs Of All Time-」 今井美樹

今井美樹デビュー30周年目のアニバーサリーイヤーに、彼女のシンガーとしての足跡を辿る全レーベルの垣根を越えたオールタイム・ベストアルバムをリリース。

数々の大ヒット曲はもちろん最新作「Colour」からも選曲、これまでとこれからの代表曲を選りすぐったCD2枚組で全31曲を収録。全曲新たにリマスタリングを行い、エンジニアには日本音楽界の至高・オノセイゲン氏を迎え、ジャケット写真には巨匠・篠山紀信氏の撮り下ろしが決定。

通常盤はCD2枚組で2,980円(税抜)というスペシャル・プライスを設定。コアファンからライトユーザーまで完全に網羅したパッケージで発売。まさにアニバーサリーイヤーを飾るに相応しい、究極のプレミアム・ベスト。 【通常盤/2CD】

(Amazon商品説明より)

●DISC 1
1. PIECE OF MY WISH
2. 瞳がほほえむから
3. Miss You
4. 遠い街から
5. Goodbye Yesterday 6. PRIDE
7. 卒業写真
8. 春の日
9. Blue Moon Blue
10. 愛の詩
11. 陽のあたる場所から
12. 雨のあと
13. 野性の風
14. 夕陽が見える場所
15. 太陽のメロディー (New Recording)

●DISC 2
1. Anniversary
2. ふたりでスプラッシュ
3. SATELLITE HOUR
4. 彼女とTIP ON DUO
5. オレンジの河
6. Boogie-Woogie Lonesome High-Heel
7. FLASH BACK
8. 氷のように微笑んで
9. ホントの気持ち
10. 夏をかさねて
11. 汐風
12. 夢
13. 中央フリーウェイ
14. 微笑みのひと
15. DRIVEに連れてって
16. 幸せになりたい

今井美樹

 

 

30周年という長い音楽活動の総決算でもありますから、おそらく候補曲もシングルからアルバムと多かったと思います。久石譲関連作品としては、「野性の風」「Blue Moon Blue」「遠い街から」の3曲が収録されています。先の2曲はシングル曲としても、「遠い街から」は過去アルバム収録曲の1曲です。30年という時間を越えて選ばれた!名曲たる所以が証明されたのではないでしょうか。

選ばれたことがうれしいというよりも、正直なところ一番おいしいのは何と言っても音質の向上です。1992年オリジナル盤と2015年オールタイム・ベスト盤、久石譲作品3曲を聴き比べもしましたが、新たにリマスタリングされたその音質のクリアさは素晴らしい!まさに甦る名曲たち!です。

約20年を経ての音響技術の進歩はすごいです。原曲が加工されるということではなく、より制作当時の、制作陣たちが聴いて作っていた音、つまりマスターテープの音質に近い音響で聴くことができる。作り手と聴き手の耳に響くサウンドがより近くなる。

この点においては、パッケージ化しておくことの、現代社会、技術発展の恩恵のひとつではとも思います。久石譲寄りばかりで申し訳ないですが…久石譲のピアノも、ほどこしたアコースティックな編曲も、すべてが生き生きと透明感たっぷりに堪能できます。もちろん、久石譲全面プロデュースによる「flow into space」を1枚まるまる聴いてみてほしいところもありますが、そのきっかけとしても、この最新オールタイム・ベスト盤は一聴の価値ありです。

そして当サイトのディスコグラフィーには、オリジナル盤「flow into space」を収載していますので、このオールタイム・ベスト盤はラインナップから外れる、ということもあり、ブログにて紹介させていただきました。

 

 

番外編

1990年代は、久石譲がJ-POP界でも活躍していた時代です。初期のアーティスト楽曲提供や編曲担当ともまた違い、どっぷりと腰を据えて、アーティスト・プロデュースをしていた時代です。今井美樹のほかにも、純名里沙、西田ひかる、本名陽子 etc…

そのほとんどは今井美樹などと同じく、自らが音楽を手がけた映画やTVドラマなどでの出会いがきっかけです。そういった『久石譲プロデュース』および『久石譲楽曲提供』はディスコグラフィー内にカテゴリーあります。ぜひご覧ください。

久石譲 プロデュース | Produce Work

 

 

「野性の風」も「Blue Moon Blue」も、久石譲のアレンジ極意をたっぷりと味わうことができます。やっぱり久石譲だな、久石譲の音だと思った、と。作曲ではないのに、編曲だけでそう思わせてしまう、やはり強烈な音楽性なのだと思います。今井美樹の歌声も素敵です。

これから寒くなる12月に聴く「遠い街から」も、クリスマスを目前に聴く「遠い街から」も、一番寒さのきびしい1-2月に聴く「遠い街から」も、温かいサウンドとぬくもりに包まれる名曲です。いつしか、シンフォニック・インストゥルメンタル・ヴァージョン、夢のまた夢で聴いてみたいと願いをこめて。