Blog. 「クラシック プレミアム 41 ~リヒャルト・シュトラウス~」(CDマガジン) レビュー

Posted on 2015/7/29

クラシックプレミアム第41巻は、リヒャルト・シュトラウスです。

 

【収録曲】
交響詩 《ツァラトゥストラはかく語りき》 作品30
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音/1983年

交響詩 《ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら》 作品28
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音/1972年

交響詩 《ドン・ファン》 作品20
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音/1973年

 

 

「久石譲の音楽的日乗」第40回は、
譜面の発達 - ポリフォニー音楽の時代

今回もとても難しい講義でした。何度も読みながら少しずつ理解できていくのかなという印象です。

一部抜粋してご紹介します。

 

「前回書いたピエール・ド・ラ・リューという人がポリフォニー音楽を創始したわけではない。その時代には何百、何千人(あるいはもっと大勢か)の作曲家が存在し、時代の潮流として多発的に新しい方法論としてポリフォニー音楽に行き着いた。しかもそれはある日突然始まったものではなく、前後100年くらいの糊しろ、重複期間があった。つまりポリフォニーとかバロック時代という時代区分は後付けでしているだけで、どの時代にも先進的な方法をとる人も、ブラームスのような前からの方法論に固執する人もいてはっきり特定することはできない。ポリフォニー音楽はだいたい中世~ルネサンス時代に盛んだったとされているが、実際にはもっと前にそういう方法で書いていた人がいてもおかしくない。それどころか紀元前の古代ギリシャには和音があったというのだから、モノフォニー(単旋律の音楽)の時代が本当に単旋律だったかどうかさえわからなくなってくる。」

「ついでにいうとグレゴリオ聖歌も、ある旋法に即して作られたものではない。後の時代に研究者がたくさんのメロディーを分析し、ドリア、ヒポドリア旋法などに分類したにすぎない。だからどの旋法にも当てはまらない聖歌は多数存在する。つまりはっきりした音源なり、譜面がないから歴史的資料を踏まえた推定なのである。ここで重要なことは「理論は後からついてくる」ということである。これは覚えておいてほしい。」

「さてポリフォニー音楽は即興的に演奏するのでは成立しない。なんらかの意図を持っていくつものパターンを吟味し、精査し、音を選んでいかなければならない。つまり作曲である。作曲は頭の中だけではできない。構想を練ることはできるが、吟味精査は無理である。ではなぜ可能になったのか? 譜面の発達である。」

「モノフォニー音楽の時代は言葉だけ、あるいは言葉の上下に波のような曲線がまるで小節回しのように書いてあるだけだったが、徐々に横に線が数本引かれ、音符のような黒い物体が音程らしきメロディーの起伏にそって置かれるようになった。後のネウマ譜(グレゴリオ聖歌の記譜法)である。この段階ではまだ4線譜面なのだが、譜面はさらなる進化を遂げていく。そうすると音楽は視覚化され、さまざまな組み合わせを考えるようになる。そして即興的なものと作曲は別のものになり、作曲家が誕生したわけだが、もちろん専業というわけではない。」

「実際、クリスマス・ミサ曲《幼子が生まれた》のオリジナル(というのもはっきりしているわけではないが)は4線譜なのだが、先ほどのラ・リューの残した同曲中〈キリエ〉のテノール・パートの譜面は5線譜になっており、小節線こそないが音程や音の長さははっきりわかる。つまり400~500年かけて表記が発達し、音楽の精度が向上していった。」

「ここはまったく個人的な考えなのだが、ポリフォニー音楽の原点は繰り返す、ということにあったと思っている。つまりカノン(輪唱)だ。人があるフレーズを歌ったとする。それを聞いて遅れて同じフレーズを他の人が歌う。また新たなフレーズが歌われた、それをまた真似て歌う。最もシンプルなポリフォニー音楽だが、同時にこれは世界中の民謡や、祭事の音楽の原点でもある。この繰り返す、ということが今日のミニマル音楽に繋がると言ってしまうと手前味噌か(笑)。」

「ついでにいうと繰り返すのではなく、一つの旋律を複数の声部が歌いながらズレていき、多声部化する音楽がある。日本の声明(しょうみょう)や民族音楽に多く見られるのだが、これはヘテロフォニーといってポリフォニー音楽とは別のものだ。」

「とにかく、このカノンは後のハーモニー(ホモフォニー)時代でも、モーツァルトの交響曲第41番《ジュピター》の第4楽章を持ち出すまでもなく、多くの作曲家が技法の一つとして使用し、十二音音楽のウェーベルンの後期作品でもかなり重要な要素になるのだが、話を戻そう。」

「最初はただ遅れて繰り返していたのだが、そのうち言葉の問題などもあり、音程やリズムが微妙に変化していった。やがてそれらは独立した別の声部として歌われるようになった。もちろんそれはネウマ譜によって記録されていくのだが、この単体から複数になることはものを考える上で大変重要だ。」

「つまり一つのものを提示されたとき、人はそれを受け入れるか否か、あるいは興味の対象外かの反応しかない。要するに好きか嫌いか無関心である。だが、2つ提示されるとそれぞれの関係性や意味などを考えなければならない。そこに、あーなればこうなる、といった論理性が生まれる。論理は時間軸の上で成り立つがそれを俯瞰するためにも空間的な視点が必要だ。いや、逆か。ポリフォニー音楽という立体的(空間的)表現をするためにも、譜面という時間軸を基準とした書き物でその因果関係を確かめる……なんだか難しくなってきた。続きは次回で。」

注)
ポリフォニー音楽:複数の声部が独立して動く音楽。
ホモフォニー:主旋律の声部と伴奏の和音をなす声部からなる音楽形態。

 

 

とても難しく、頭の中が聞きなれない言葉でグルグル回っています。モノフォニー…ポリフォニー…ホモフォニー…さらにはヘテロフォニー…??

実際に「この曲はポリフォニーです。これはヘテロフォニーです。」などと、音楽を例に聞きながらではないと違いがいまいち楽典だけではわかりません。そして読み進めながら気になった箇所(ばかりではありますが)が、

「ついでにいうと繰り返すのではなく、一つの旋律を複数の声部が歌いながらズレていき、多声部化する音楽がある。日本の声明や民族音楽に多く見られるのだが、これはヘテロフォニーといってポリフォニー音楽とは別のものだ。」

 

今回の内容をさらに一層奥深く難しくする箇所だったのですが。これを読みながら浮かんだのが、『かぐや姫の物語 ~女声三部合唱のための~』という楽曲です。詳しい曲解説は、ディスコグラフィーをご覧いただくとして。

Disc. 久石譲・高畑勲 『かぐや姫の物語 ~女声三部合唱のための~』

かぐや姫の物語 ~女声三部合唱のための~

 

楽曲レビューには、「まさに日本語による”ミニマル合唱” “ミニマルコーラス” “ミニマルクワイア”という新しい息吹きが吹きこまれた楽曲である。」なんて書いていたのですが。この楽曲はミニマル手法が施された楽曲であることは間違いありません。

そのうえで、上のエッセイ内容に照らしあわせたときに、この曲はポリフォニーの分類されるのか、はたまたヘテロフォニーなのか。。。そんなことを悶々と考えておりました。

 

映画『かぐや姫の分類』の公開から1年後に新たに誕生した合唱版。そのいきさつや想いも語られていない作品ではありますが、ぜひ楽典的にもどういうアプローチをした作品だったのか、そんなことを久石譲ご本人からいつの日か聞ける日を夢見て。

 

クラシックプレミアム 41 リヒャルト・シュトラウス

 

Blog. 「クラシック プレミアム 40 ~シューベルト2~」(CDマガジン) レビュー

Posted on 2015/7/15

クラシックプレミアム第40巻は、シューベルト2です。

第10巻にて、シューベルト1として、交響曲 第7番 《未完成》 第8番 《ザ・グレイト》が収録されていました。今号では歌曲集となっています。

 

【収録曲】
ピアノ五重奏曲 イ長調 D667 《ます》
スヴャトスラフ・リヒテル(ピアノ)
ボロディン弦楽四重奏団団員
ゲオルク・ヘルトナーゲル(コントラバス)
録音/1980年

歌曲 《魔王》 D328
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)
ジェラルド・ムーア(ピアノ)
録音/1958年

歌曲集 《美しい水車屋の娘》 D795 より
〈さすらい〉 〈小川の子守歌〉
イアン・ボストリッジ(テノール)
内田光子(ピアノ)
録音/2003年

歌曲集 《冬の旅》 D911 より 〈菩堤樹〉 〈あふれる涙〉
歌曲集 《白鳥の歌》 D957 より 〈セレナード〉
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)
ジェラルド・ムーア(ピアノ)
録音/1962年

歌曲 《野ばら》 D257
イアン・ボストリッジ(テノール)
ジュリアス・ドレイク(ピアノ)
録音/1962年

歌曲 《アヴェ・マリア(エレンの歌 第3)》 D839
バーバラ・ボニー(ソプラノ)
ジェフリー・パーソンズ(ピアノ)
録音/1994年

 

 

「久石譲の音楽的日乗」第39回は、
音楽の始まり - 古代ギリシャからグレゴリオ聖歌へ

前号では、「倍音」に関する中身の濃い講義のような内容でした。今号では音楽の起源までさかのぼって綴られています。そして久しぶりの近況報告もあり。今久石譲が何をしているのか、今後お披露目されるであろう水面下の制作。エッセイならではの久石譲活動をのぞけてうれしい限りです。

一部抜粋してご紹介します。

 

「音楽はいつ、どこで始まったのか? そしてどう進化し続けるのだろうか? 未来の音楽は? そんなことばかり考えていると何もできなくなるから、とりあえず目先の作曲に専念する。」

「今書いているのは秋に初演するエレクトリックヴァイオリンと室内オーケストラの作品で、約25分の長さの僕にとっては大作なのだが、そのスケッチはできた。これから夏のW.D.O.(ワールド・ドリーム・オーケストラ。あと1ヶ月半しかないのだが1ヶ月前には譜面を渡したいから実質半月!)の演目の仕上げをして、その後、コントラバス協奏曲のスケッチを書かなければならない。その間に他の仕事もするから、エレクトリックヴァイオリンの仕上げは夏の終わりか秋口か……やれやれ。」

「話を戻して、音楽は人類が始まってからずっと人々の身近にあった。例えば生まれたばかりの赤ん坊が音に関心を示すだけではなく、音楽にも敏感に反応することから、DNAのどこかに音楽的シナプスが組み込まれているのではないかとさえ思える。つまり音楽は人間にとってあるべき自然なものなのだ。」

「その音楽の起源はわからない。が、古代の遺跡などから人間との関わりを推察することはできる。例えば歌っている人のレリーフだったり、笛や太鼓、ハープなどの楽器が発見されたり、壁画、あるいは象形文字などで音楽を演奏する記述が残っている。はるか昔、紀元前3500年頃のメソポタミア、古代エジプトなど、それぞれの時代に彼らがどんな音楽を演奏していたのか? 実際の音は残っていないからわからないのだが、想像するだけで楽しい。」

「だが、古代ギリシャに関しては、西洋文明の発祥の地でもあり、音楽が盛んだったと言われている。音階やリズム、そして和音まであって音楽が理論化されていたらしい。実際デルポイにある石碑に、当時の楽曲がギリシャ文字とギリシャの音楽記号で書かれているものが発見されている。またピタゴラスやプラトンなどの哲学者は、宇宙の調和の根本として音楽を研究していた。特にプラトンの音楽に関する考えは今日の音楽状況に対しても通用する鋭い啓示になっているのだが、これはいつかまとめて書きたい。なぜそこまで知っているか、あるいはこだわるかと言えば、実は映画の監督をすることになったとき、プラトンの考えを題材にするために調べたからである。」

「グレゴリオ聖歌は単旋律(モノフォニー)、つまり一つのメロディーを独唱したり斉唱したりするのだが、前回書いた倍音から導かれた音階は、ここで教会施法という形になった。この音階と施法は混同しがちなのだが、音階は倍音に基づいた音のステップ、あるいは階段で、施法は中心音などそれぞれ役割を持った音の順列だ。あれ、ややこしくなってきた。音階というとハーモニー理論が確立された後の長音階や単音階だと思われる方も多いと思うが、そうではない。半音階もあれば、全音階もある。詳しく知りたい人はインターネットや音楽理論書を読んで下さい、ますますわからなくなるかも知れないけど(笑)。」

「この協会施法にはドリア、ヒポドリア、フリギア施法などあるのだが、これは講義ではないから割愛する。」

「さて一般の生活の中にも音楽はたくさんあった。結婚式から葬儀、演劇や人々が集い踊るときの舞曲、フォークソング(民謡)など社会的な活動と密接に繋がっていた。そしてその音楽は単旋律、もしくはそれにリズムがつく程度だったのではないかと考えられる。音楽を伝える楽譜はまだ無く、多くは口伝であり、定形の言葉はあるが多分に即興的な要素が強く、人々が持ち寄った笛や太鼓がこれも即興的に色を添える。そう、この時代、音楽は即興的なものが主流だった。」

「さて、グレゴリオ聖歌にクリスマス・ミサ曲《幼子が生まれた》という曲がある。おそらく最も古い聖歌お一つだと思われる。とてもシンプルで厳かな曲だ。もちろん単旋律なのだが、15世紀の後半、ピエール・ド・ラ・リューというフランドルの作曲家が同じ曲を多声部の音楽として作曲した。本当に心が洗われる美しい響きの曲だ。時はルネサンス、ポリフォニー音楽の時代が来たのである。」

 

 

さて、クラシックプレミアムも全50巻、このエッセイ連載も残すところあと10回ほど。ということで音楽の始まりから、歴史を追うように、順序だててクライマックスへと筆が向うのかな、そんな印象です。

そして冒頭の久石譲近況報告!

「今書いているのは秋に初演するエレクトリックヴァイオリンと室内オーケストラの作品で、約25分の長さの僕にとっては大作なのだが、そのスケッチはできた。これから夏のW.D.O.(ワールド・ドリーム・オーケストラ。あと1ヶ月半しかないのだが1ヶ月前には譜面を渡したいから実質半月!)の演目の仕上げをして、その後、コントラバス協奏曲のスケッチを書かなければならない。その間に他の仕事もするから、エレクトリックヴァイオリンの仕上げは夏の終わりか秋口か……やれやれ。」

【8月のW.D.O.コンサートツアー】
なるほどまだオーケストレーションが終わっていないのか(エッセイ執筆時)

【エレクトリックヴァイオリンと室内オーケストラ作品】
9月開催予定の「久石譲プレゼンツ ミュージック・フューチャー Vol.2」にて久石譲待望の新作にして世界初演の「室内交響曲」が演奏プログラムに入っているのですが、まさにそのことでしょうか。エレクトリックヴァイオリンといえば、同コンサート企画Vol.1にて、ニコ・ミューリー作曲:《Seeing Is Believing》という楽曲を取り上げています。6弦エレクトリック・ヴァイオリンによる協奏曲作品です。それを経て、Vol.2では自らの新作にエレクトリック・ヴァイオリンをフィーチャーした室内オーケストラ作品…楽しみですね!

【コントラバス協奏曲】
これはまさに未知の情報です。なにかの委嘱でしょうか?コントラバスとはまた珍しい楽器編成だなと思います。これに関しては新しい情報を待つのみですね。それにしても8月発売予定、待望のオリジナル・アルバム「ミニマリズム2」しかり室内楽の響きがこれから続きそうな予感です。

 

 

クラシックプレミアム 40 シューベルト2

 

Blog. 「クラシック プレミアム 39 ~ドビュッシー~」(CDマガジン) レビュー

Posted on 2015/7/5

クラシックプレミアム第39巻は、ドビュッシーです。

 

【収録曲】
交響詩 《海》 - 3つの交響的素描
ジャン・マルティノン指揮
フランス国立放送管弦楽団
録音/1973年

《牧神の午後への前奏曲》
アラン・マリオン(フルート・ソロ)
ジャン・マルティノン指揮
フランス国立放送管弦楽団
録音/1973年

《夜想曲》
ジャン・マルティノン指揮
フランス国立放送管弦楽団・合唱団
録音/1973年

《映像》
第1集より 第1曲 〈水の反映〉、第3曲〈動き〉
第2集より 第2曲 〈荒れた寺にかかる月〉、第3曲〈金色の魚〉
ミシェル・ベロフ(ピアノ)
録音/1970~71年

 

 

「久石譲の音楽的日乗」第38回は、
音楽の進化 - 倍音の発見

今回の講義、いやエッセイは難しかったですね。国立音楽大学でも定期的に講義を行っている久石譲ならでは。ある種そういう話がこのエッセイで聞けることは贅沢です。

一部抜粋してご紹介します。

 

「アントン・ウェーベルンは自身の講義で「あらゆる芸術は、それゆえ音楽も、合法則性に基づいている」と述べている。そしてゲーテの『色彩論』を引用しながら「自然科学者が自然の基礎となっている合法則性を見つけようと努めるように、私たちはそのもとで自然が人間という特別な形で生産的であるところの法則を見つけようと努力する」と語っている。そしてここが最も重要なところだが、「音楽は耳の感覚にかんする合法則的な自然である」と結論づける。」

「ではその合法則的な自然とは何か? そのことを僕たちが日頃接する音楽と照らし合わせながら「音楽の進化」を一緒に考えていこうと思う。」

「まず音の問題。音とは空気の振動である。もう少し厳密にいうと、空気の圧力の平均(大気圧)より高い部分と低い部分ができて、それが波(音波)として伝わっていく現象である(『音のなんでも小事典』日本音響学会編)。まあ太鼓を叩くとそれが振動し、周りの空気も振動し、それが我々に伝わるということだ。」

「そして楽音を含め自然界の音はすべて倍音というものを持っている。それも限りが無いくらい。」

「では実験。今あなたはピアノの前に座っている。ちょうどおへその辺りにあるドの鍵盤を右手で音が出ないように静かに押さえる。そしてオクターヴ低いドの音を左手で強く弾いて、あるいは叩いてみよう。すると、あら不思議!強くて低いドの音が消えた後に弾いていない上のドの音がエコーのように聞こえるではないか!これは下のドの音に含まれている倍音と上のドの音が共鳴したために起こることである。つまり下のドの音には、第2倍音としてのオクターヴ上のドの音、第3倍音のオクターヴと5度上のソなど、限りなく色々な音が鳴っているのだ。もちろん上に行くほど音は小さくなり音程の幅も小さくなる。」

「実は人類はこの倍音を長い年月をかけながら発見していくのだ。例えば真ん中のドの音を男の人と女の人がユニゾンで歌うと、この段階でもうオクターヴ違うのであり、先ほどの第2倍音の音を歌ったことになる。これは整数比で1対2だ。そして500年くらいかけて(という人もいるが定かではない)人類は第3倍音であるソを発見する(整数比で2対3)。」

「このように人類は次々に倍音を発見していくのだが、第8倍音辺りまで見ていくとこれはコードネームでいうC7(ド・ミ・ソ・シ♭)ということになる。だが実際は第7倍音のシ♭はそれよりも低くてちょうどラとシ♭の間くらいが本来の倍音音程である。」

「ここから面白いことが起こる。西洋社会はこれをシ♭と解釈して今日の西洋音楽を築き、例えばアフリカやアジア、日本などはラととらえてきた。ドミソラ、つまり五音音階の原型である。「ソーミラソーミ、ソーミラソーミ」のフレーズはアフリカにもアジアにも日本、南米にもある最もポピュラーなフレーズなのだが、これほど倍音の理にかなっているものはない。このことをもっと知りたい人はレナード・バーンスタインによるハーヴァード大学の講義DVD(『答えのない質問』)をご覧あれ。」

「またこのことは純正律、平均律の問題も絡んでいるのだが、今回はパス、近々に触れる。なんだか講義のようになってきた(実際に国立音楽大学の作曲科の学生に倍音を元にして作曲をする課題を出したこともある)。」

「さてこのように人類は倍音を発見してきたのだが、特に重要なのはドとソの5度音程だ(完全5度という)。これはあまりにも響きが共鳴しすぎてかえって硬く聞こえる。が、この完全5度はあらゆる音楽の基本になるのだが、日本では4度が基本だ。これもまたいつか触れるが、ドとソが表の5度だとすると、ドと下の5度、すなわち裏5度のファが発見された段階で、あるいは人類が聞こえた段階で(長い年月がかかったのは言うまでもない)、このトライアングルは鉄板の音楽基礎を作った。それぞれの倍音を総合すると音階の7つの音がすべて含まれている。」

「この段階まで人類はなんの作為も無く、音楽はウェーベルンのいう合法則的な自然であった。」

 

 

うーん、かなり突っ込んだ講義でした。「倍音」がキーワードになっていた今号のお話ですが、結構この話題に関しては日常的にも取り上げられたりしています。

それぞれ人の声にもこの倍音というものがあります。それがその人の声質や特徴となっています。倍音には大きく整数次倍音と非整数次倍音の2種類があります。

【整数次倍音】
整数次倍音とは2分の1、3分の1、4分の1という整数の波長を持つ音のこと。声や、弦楽器や管楽器の音の中に、自然に含まれているもの。

「整数次倍音」を聞くと、荘厳な雰囲気を感じたり、自然を超えたもの、普遍性、宇宙的なもの神々しさ、宗教性を感じる傾向があるよう。

声:タモリ 黒柳徹子
歌手:美空ひばり 稲葉浩志 浜崎あゆみ

 

【非整数次倍音】
音の振動が均一ではなく様々な長さの振動が折り重なっている音。ギターの弦をこすったときのギーッという音、雨、風の音、虫の鳴き声など自然の音など。

「非整数次倍音」にはガサガサとした雑音が混じり、人間の感情に訴えかけてくるのが特徴。非整数次倍音の声は親密性や情緒性に富んで、やさしい印象を与える。日本語においては「重要である」という意味を伝える印象。

声:ビートたけし 明石家さんま
歌手:森進一 桑田佳祐 宇多田ヒカル

 

倍音ダイアグラム

この表をみて興味ある方は下記コラムがとてもわかりやすく倍音解説されています。

参考:PRESIDENT online タモリ、黒柳徹子を人気司会者にした「整数次倍音」の秘密

 

 

まさに天性による天声と天職ということになるわけです。

ちょっと話はそれますが、シンセサイザーの登場によって、倍音を簡単に作り出せるようにもなりました。なので、歌手によっては、なんかエコーかかったように聴こえる、声を幾重にも重ねている(ユニゾン)、シーケンサーやサンプリングによって声を加工しています。

これによって天声として持っていない、または楽曲の世界観などのために意図的に倍音を作り出しているわけです。一昔前の小室ファミリーと呼ばれる歌手たちを想像するとわかりやすいかもしれません。もちろんあの特徴的で耳に強烈に残る小室哲哉自身のバックコーラスも小室サウンドの核ですが、それもまた数十にも声を重ねて作り出しているわけですね。

 

倍音は、このように日常生活にも知らずに触れ、溢れていて、それはビジネスやコミュニケーションの世界でも注目されています。そういった関連書籍もたくさんあります。一番わかりやすいのは、「あの人の声ってお経を聞いているみたいで眠くなる」これは整数次倍音の効果となるわけですが、プレゼンや講義など訴えかける場においてはマイナスに働いてしまう。

久石譲が真面目に音楽講義をしたなかで、あまりにも程度の低い余談となってしまいました。少しでも「倍音」を身近なものとして感じてもらえればなと思います。

 

 

最後に、音楽的な話を補足します。

ラヴェル「ボレロ」は、同じメロディーが楽器構成を変化させ、繰り返され徐々に盛り上がりクライマックスへむかう名曲です。この楽曲にも倍音効果を巧みに意図したオーケストレーションが施されているとなにかで読んだことがあります。

もちろん久石譲も自身のことは語っていないですが、おそらく倍音はかなり意識していると思います。そう考えると、作曲家としてどのような旋律と持続音・余韻音で…編曲家とし楽器編成やオーケストレーションによって……かなり緻密に論理的に計算された音楽が、空気にのって響いたときに、人に感動を与えていることか。唸る想いです。

どなたか専門的な方が、久石譲作品の「倍音」構造について、さまざまな楽曲を取り上げて解説していただけると、とてもありがたい!そういう結論に行き着いた今号の内容でした。

 

クラシックプレミアム 39 ドビュッシー

 

Blog. 「味の手帖 2015年6月号」 久石譲 対談内容

Posted on 2015/6/27

6月1日発売 「味の手帖」2015年6月号 巻頭対談

オリックス シニア・チェアマン宮内義彦氏のゲストとして久石譲が登場しています。対談風景を収めた写真もまじえながらの全16ページにも及ぶロングものとなっています。

音楽通同士の多彩な音楽話は、あらゆる角度・視点・時代背景から、興味深い音楽のお話が飛び交っています。久石譲も、常に語っているクラシック音楽のこと、自身が目指す「アーティメント」のことなど読み応え満点です。久石譲の今を知るというよりも、久石譲の音楽知識人としての顔も垣間見ることができます。

 

 

宮内義彦対談:
久石譲 《今の時代に必要な「現代の音楽」を届けたい》

久石 譲(作曲家・指揮者・ピアニスト)

音楽大学在学中よりミニマル・ミュージックに興味を持ち、現代音楽の作曲家として活動を始めた久石譲さん。現在は、作曲家・指揮者・ピアニストと、ジャンルにとらわれない独自のスタイルを確立し、国内外で活躍されている。先人たちが生み出したアートを未来へと繋げるために、今の時代に必要な「現代の音楽」を演奏していきたいと語る。

 

宮内:
ようこそおいでくださいました。

久石:
お招きいただきまして、ありがとうございます。

宮内:
以前、「オリックス劇場」と、そこに隣接するタワーマンションからなる街区「大阪ひびきの街」の素晴らしいテーマ曲を作っていただきまして、ありがとうございました。おかげさまでとても好評でした。

久石:
2012年、『Overture -序曲-』という曲でしたね。オリックス劇場でコンサートをやらせていただきましたが、公園があってホールがあって、あの辺りは文化的な一画になりましたね。あそこは、もとは大阪厚生年金会館でしたね。

宮内:
旧厚生年金会館の大ホールをリノベーションしたのです。当初はなくなる予定だったのですが、残して良かったと思っています。

久石:
とても雰囲気が良くなりました。

宮内:
久石さんは、長野のご出身でいらっしゃいますか。

久石:
はい。長野市から車で北に40~50分ほど行ったところにある中野市です。長野は鈴木鎮一さんのヴァイオリン教室が盛んでしたので、小さい時に少し習っていました。

宮内:
音楽はそこから始められたのですか。

久石:
そうです。

宮内:
学校は作曲科を出られたのですか。

久石:
国立音楽大学の作曲科でしたが、当時は、現代音楽の一番尖ったことに夢中になっており、大学のほうはあまり一生懸命行っていなかった気がします(笑)。

宮内:
現代音楽から入られて、映画音楽を含め、今やっておられる曲を考えると、ずいぶん飛躍されましたね。

久石:
自分はメロディーメーカーだと思ったことはなかったのです。大学を出てからも、しばらくは「ミニマル・ミュージック」(現代音楽の一ジャンルで、同じパターンの繰り返しから成る音楽)をずっとやっていたのですが、たまたま映画音楽はどうしてもメロディーが必要になりますから、必要に迫られてという感じなのです。

 

日本の交響楽団

宮内:
現代音楽でお金を稼ぐのは大変でしょう。

久石:
そうなのです。ですから、大学を出る時に大概の人は教職課程をとるのですが、僕はとりませんでした。最初からずっと、映画やテレビの仕事をやりたいと思っていたのです。ただ、20代の頃は本当に食べられませんでした。

例えば、一大学から作曲家が15人ぐらい出るとすると、音楽大学や教育大学、専門学校なども合わせて、全国で150~200人の作曲家が毎年出てくることになります。10年間で、1500~2000人です。フルート奏者も一大学で4、5人以上、時によっては10人卒業し、日本全国だと年間200人近い人が出るわけです。ところが、各オーケストラにフルート奏者は3、4人いますが、いったん入団すると、よほどのことがないかぎり定年までそのままいます。毎年200人近い人がどんどん出てくるけれども、就職場所がないのです。これは不思議ですよね。

宮内:
聞いた話によると、音楽大学を出た若い人のレベルはどんどん高くなっているのに、就職場所がないといいますね。

久石:
時代と共に技術は上がっていますから、若くて優秀な人は大勢います。ただ、やはり経験は必要ですから、例えば、一つのオーケストラにオーボエが三管編成で3人いるとすると、まずトップの人がいて、三番目のポジションに若い人が入って、だんだん実力を付けていく中で、中堅どころが音楽性をサポートしながら教えていく、こうした循環が一番うまくいくのではないでしょうか。

宮内さんは、「新日本フィルハーモニー交響楽団」の理事長をずっとなさっていますね。

宮内:
久石さんにも、いろいろお世話になっております(笑)。ありがとうございます。

私どものグループ会社にプロ野球のチームがありますでしょう。野球をやっている人はとても多いですが、プロ野球まできている人は本当のトップですよね。しかも一年契約で、今年駄目なら来年は使ってもらえないし、成績が良ければ給料は上がります。高い・安いは別としても、プロフェッショナルとして実力主義というのはなるほどと納得できるわけです。しかし、新日本フィルは一度入団すると定年制ですね。プロの世界がこれでいいのかなという感じはします。

久石:
毎日一緒に音を出していると、例えば「彼の音は浮いているね」とか、そういったことが自然に出てくることもある。でも、辞めてくださいとは言えないわけです。みんな一国一城の主で、高い技術を持った一人ずつの集団ですから、オーケストラを扱うのはとても難しい。そういった話はよく聞きます。

編集部:
海外のオーケストラには必ず日本人の方がいますね。コンクールで良い成績をおさめる日本人も多い気がしますが、日本人は器用なのでしょうか。

久石:
コンクールに受かるという目標を立てると、日本人は勤勉で練習もよくしますし、そこまでは非常に頑張るので、良い成績をとるのです。多くの場合、問題はその後です。本当は、どういう音楽をやっていくかという目標を立てて、その過程でコンクールを受けるべきなのです。ところが、コンクールに受かるという目標を立てて、達成した後に自分の音楽をやっていかなくてはならないわけですが、それがわからずにはたと立ち止まるというケースが非常に多い。日本の大学受験と同じですね。大学に入ることが目標になって、そこまでは頑張るのです。

この間、ヴァイオリニストの五嶋みどりさんとお会いした時に、二人でこんな話をしました。小学校の段階でベートーヴェンの『運命』やドヴォルザークの『新世界より』などを知っているのは日本人の子どもくらいで、日本の音楽教育はとてもレベルが高い。でも、これだけ早いうちに教育を受けているのに、その人たちがそのまま音楽を聴く層になっているのかというと、実はあまりなっていないと。継続しないのですね。

宮内:
確かにその通りですね。

久石:
宮内さんは、よくコンサートホールでお会いしますが、クラシックは昔からお好きなのですか。

宮内:
子どもの頃に合唱をやっていまして、その経験からだんだんクラシックを聴くようになったのです。

久石:
コンサートは年間どのくらい行っておられるのですか。

宮内:
割とよく行きます。今週は3回。少々行き過ぎですが(笑)、週に1回くらいは行きたいですね。

久石:
それはすごいです(笑)。

 

二時間のシンフォニー

宮内:
映画音楽というのは、映画がまだ完成していない時からお作りになるのですか。

久石:
同時進行です。まず脚本を読み、どういう世界観なのかを掴んで監督とお話をして、撮り終えたラッシュ(未編集の状態の映画のポジフィルム)をいくつか見せていただくのです。というのは、ドアを開けて入って椅子に座るという動作だけでも、それをさっと撮る方とじっくり撮る方と、監督によってテンポが違うのです。その監督のテンポや人柄、そして、その作品の中で監督が何をやりたいのかを考えながら曲を作っていきます。

映画は、最近は少し長くて二時間半ぐらいのものもありますが、基本的には二時間ですから、「二時間のシンフォニー」を書くつもりで作ります。音楽を入れるところも大切ですし、逆に音楽を抜くところも大切ですから、それを頭から最後までテーマがうまく構成されるように作るという方法をとっています。

宮内:
それを制作期限の間に考えながら作っていくわけですね。

久石:
締切はそんなに遠くないところにあります(笑)。曲を書きだすと永久に終わらないので、締切が命です。映画は公開日が決まっていますし、コンサートも公演日が決まっていますから、いついつまでに仕上げてくださいと言われて、そこまでになんとか漕ぎ着けます。締切日がないと、完成できませんね。モーツァルトもそうですし、作家はみんな同じだと思います。締切日もないのに書いたのは、シューベルトとプーランクくらいでしょうか。プーランクは日常作曲家のようなもので、気が向いたら書くというようなタイプで、シューベルトは、曲を書いては仲間うちのサロンで発表していたようです。

宮内:
モーツァルトにも締切日があったのですか。

久石:
発注を受けて書く、あるいは、後期はあまり恵まれていませんでしたから、自分で書いたものを売り込むとか、そういった状況だったようです。美術もみんなそうではないでしょうか。

ショスタコーヴィチやシェーンベルクも、映画音楽を手がけていますね。

宮内:
シェーンベルクの映画音楽もあるのですか。

久石:
はい。コンサートで聴いたことがありますが、こんなふうに書くのだなと思って、とても良かったです。視覚と音楽が結びついたオペラなど、いろいろなものはもともとあったわけですから、もう少し前の時代に映画という産業がきちんとあれば、ショパンやラフマニノフなどもみんな書いていたと思います。映画は二十世紀に入ってから発展したものなので、その時代の人は結構書いていますね。日本ですと、武満徹さん(1930~96)もたくさん書いていらっしゃいます。武満さんはメロディーメーカーだった気がします。現代音楽でも、間が東洋的といいますか、聴きやすくて、とても良い歌曲があります。

宮内:
映画音楽を作っていて、これはとても良くできたなというものを、クラシックの組曲にしたり、別の作品にされることもあるのですか。

久石:
これはいけるなと思うものは、後でオーケストラ曲に書き直すこともあります。

宮内:
作曲されるのは夜ですか。

久石:
僕は昼間に書きます。やはり、根が作曲家なので、一日の一番良い時間を作曲に使いたいのです。ですから、朝11時頃に起きて、起きてから2、3時間後が一番頭が冴えるので、昼の1時半~2時頃から始めて、夜の10時~0時頃までオフィスで作曲をして、その後自宅に帰って、明け方の4時、5時頃までクラシックの勉強をしています。それから寝ると、起きるのは必然的に11時ぐらいになりますね。そして、また昼の1時半とか2時頃から作曲をすると。今は書かなければならない作品がずいぶん溜まっています(笑)。

宮内:
作曲というのは孤独な作業ですね。

久石:
そうですね。クラシックの指揮をする場合、スコアは見た分だけ勉強になってはかどるのですが、作曲は良いアイデアが浮かばないとまったく何もできないです。

宮内:
ピアノで作曲されるのですか。

久石:
ピアノも使いますが、今は量をこなさなければならないので、コンピュータを使うほうが多いです。

宮内:
コンピュータでオーケストラの音が出るそうですね。その影響で、音楽家がずいぶん失業したという話を聞いたことがあります。

久石:
それはありますね。以前、シンセサイザーは2600万円ぐらいでした。僕もそうですが、年収よりもはるかに高いその楽器をなんとか手に入れて曲を作っていました。でも今は、そう高くない金額でコンピュータが手に入り、デジタルを使えばあまりお金をかけなくても音楽が作れますし、音質も悪くないのです。誰でも家で簡単にコンピュータで作ることができますから、そうした人たちの音楽がどんどん出てきて、エンターテインメントに関していうと、プロとアマのレベルの差がなくなってきています。CDが売れなくなったなど、今あるいろいろな問題も、そういった影響がとても大きいと思います。

 

「アーティメント」の実現

宮内:
クラシックファンは若い人が少なくて、年配の方が多いですね。

久石:
観客が高齢化しているのは事実ですが、僕のコンサートの場合は、宮崎駿監督作品の音楽をやらせていただいたこともあって、最近は20代、30代の方が多くなっています。オーケストラを聴くのは初めてだという方も結構来られるので、そういった方々がクラシックを聴くきっかけになればいいなと思います。

宮内:
クラシックファンの啓蒙という点で、久石さんは、新日本フィルと「ワールド・ドリーム・オーケストラ(W.D.O.)」を結成して指揮をされたり、素晴らしい活動をなさっていますね。

久石:
ありがとうございます。今年は、「W.D.O.」の8年ぶりの全国ツアーが決定しまして、8月に、東京(サントリーホール・すみだトリフォニーホール)・大阪・広島・名古屋・仙台の6カ所で公演をします。終戦七十周年となる今年は、「祈り」をテーマにしたオリジナルプログラム『The End of the World』 『祈りのうた』のほか、『風の谷のナウシカ』のオーケストラ組曲などの初披露曲を盛り込む予定です。「W.D.O.」は、クラシックだけではなく、ジャンルにとらわれず魅力ある作品を多くの方々に聴いていただこうという想いで、僕と新日本フィルが2004年に立ち上げたオーケストラで、こういった機会をいただけるのは大変ありがたいです。

僕は、「アーティメント」というものを広げていきたいと思っているのです。これは僕が考えた造語で、「アート」と「エンターテイメント」を組み合わせたものです。作曲家が世に生み出したアートを、神棚に上げないで日常化させてエンターテイメントにする「アーティメント」をオーケストラでも実現していきたいなと。

現代音楽でいうと、聴く機会もあまりないし、解釈が難しそうといったイメージが先行しがちですよね。でも、僕がやりたいのは、現代音楽ではなく、今の時代に必要な「現代の音楽」を演奏していきたいなと。クラシック音楽を古典芸能にして、そこに留まってしまうのではなく、過去から今に繋がって、ここから先の未来に行くためには「現代の音楽」を人々が聴くチャンスを作らなければなりません。ですから、僕が指揮をさせていただくクラシックのプログラムを作る時は、新しい曲を入れるようにしているのです。

宮内:
日本はクラシックとクラシック以外の音楽に画然たる区別がありますね。

久石:
ありがたいことに、僕は映画を含めエンターテイメントもやらせていただいていますので、クラシックとクラシック以外の音楽、それぞれの良いところとちょっと良くないかなというところの両面を客観的に観ることができます。ですから、その辺をうまく橋渡ししていけたらいいなと思っているのです。

 

味の手帖 久石譲

 

日本人に合う『第九』

宮内:
日本では、年末になると『第九』を聴きに行きますね。あれは日本独特のもので、海外にはないですよね(笑)。

久石:
おっしゃる通りです。あれは何なのでしょうね(笑)。『第九』はコーラスの方が100人ぐらいいますから、それぞれの家族や親戚だけで400~500人が聴きにくるでしょう。ですから、団員の餅代を稼ぐのが目的で始まったとも、一説ではいわれています。年を越して新しい年を迎えるための餅代を稼ぐには12月にこれをやるしかないということで始まったと。

もし、その話が本当で始まったとしても、これだけ定着するというのは何なのだろうなと思っていたのですが、自分で初めて『第九』を指揮した時にわかったのは、日本人のメンタリティーに合うのかなと。日本人というのは、耐えに耐えて待ったあげくのカタルシス(心の中に溜まっていた感情が解放され、気持が浄化されること)のようなものに非常に弱いのではないでしょうか。例えば、赤穂浪士もそうで、ずっと我慢して我慢して、最後に討ち入りをして日本人はほっとしますね。『第九』も、聴きやすいかどうかは別として、一、ニ、三楽章はとても良くできていますが、そこまでを耐えに耐えて聴いた後に、四楽章で「フロイデ!」とコーラスが始まった瞬間すっとカタルシスがあって、おそらく、その快感が日本人に大変合っているのですね(笑)。

宮内:
なるほど、そうかもしれませんね。それを年末に味わいたいと(笑)。

久石:
僕の指揮の先生が、秋山和慶さんなのですね。僕は65歳になりますが、この年でもレッスンを受けているのです(笑)。

宮内:
秋山先生は今年、指揮者生活五十周年を迎えられましたね。先生は、今おいくつですか。

久石:
74歳です。つい2、3日前にもレッスンを受けたのですが、その秋山先生は『第九』を振って、すでに400回を超えているのです。それだけでもすごいのに、毎回新しい発見があるとおっしゃっていて、驚嘆しています。

宮内:
新日本フィルでも『第九』は毎年やりますが、やはりあれは餅代になるのでしょうね。日本の交響楽団はどこも経営的に大変ですから。

久石:
2000~2500人のキャパのコンサートホールに、独唱者が4人、コーラスを入れて100人ぐらいの人たちが出演して、採算ベースでは成立しませんから、海外ではめったに演奏されませんね。

 

文化に対する意識のあり方

宮内:
そうでしょうね。本来、文化というのはみんなでサポートしなければならないのですが、日本で寄付を集めるのは本当に苦労します。

久石:
アメリカですと、ボランティアとか社会還元というのは常識としてありますが、日本はあまりそれがないのでしょうか。

宮内:
一つは、税制の問題でお金を出しにくいというのがあります。もう一つは、意識の違いです。欧米の場合、バブリック(公共的)なことはパブリックがサポートするものだという考え方ですが、日本人は、パブリックなことは全部官があるものという考えがあるのでしょうね。また官のほうも、我々が全部やりますからということでこれまでやってきた。本当の意味の市民社会になっていないのだと思いますね。

久石:
日本は文化を育てるという意識が少ないような気がしますね。

宮内:
アメリカは、どんどん開拓して国を作りましたから、官がまったく追いつかないし、国民もそれがわかっていてあまり期待しなかったのでしょう、自分たちでやるしかないという精神が自然にできていったのかもしれませんね。一方、日本の場合は明治以来、国民は全部国が面倒をみましょうというふうになって、それが逆効果になっているのかなと思います。

久石:
僕もよく考えるのですが、明治になった瞬間、いったん文化が分断されましたよね。その時に、文化に対する意識のあり方が少し変わったのではないかという気がします。文化というのは誰かが育てていかないとなかな定着しませんから。

宮内:
そのうちに邦楽は消えていくかもしれませんね。邦楽の音階は西洋のドレミとは微妙に違いますよね。ああいった感覚を持つ人がどんどん減っていくのかなと思います。

久石:
例えば、中国と日本を照らし合わせてみると、中国から伝来した五弦琵琶は、中国にはもうないのですが、奈良の正倉院には世界で唯一現存する古代の五弦琵琶がおさめられていますね。中国では、私はこうする、私はこちらのほうが良いと、みんなどんどん自分の意見で手を加えて変化させてしまうのです。それはそれで、ある意味では良いのですが、古典的なものをそのまま伝統として残していくという考え方は少ない気がします。一方、日本の場合、雅楽のように、海を渡ってきたあちらのものが見事にそのまま残るのです。伝統的なものはそのまま残していくという考え方と、自分が良いと思ったら変えてしまうという考え方、この民族性の違いはあるのでしょうね。どちらもそれぞれ大切で、この辺がとても難しいなといつも思うのですが。

宮内:
能と歌舞伎もそうですね。武士の上流階級が能や狂言へ行き、歌舞伎は大衆が観る。その両方が残っていますね。

久石:
クラシックの歴史を見ると、王侯貴族や協会のために演奏されていた高貴なものだったのが、一般市民が楽しむ大衆音楽へと変わっていった。文化の構造というのは、大概そういうふうになっていますね。

日本は、歌舞伎がありながら能もありますし、極彩色のものもあれば、片やあらゆるものを削ぎ落したものもある。必ず両方あるというのは、日本人を考える時に結構良いヒントになります。

宮内:
日本人は贅沢ができるわけです。日本文化と西洋文化、どちらも素晴らしいものを楽しむことができるという点で、とても恵まれていますね。私は時々歌舞伎も観に行きますが、日本というのはいろいろなものがあって、なかなか忙しいですよ(笑)。

久石:
そうですね(笑)。最近鑑賞された中で良かったのは何でしたか。

宮内:
2月に行きました「山田和樹 マーラー・ツィクルス」(Bunkamuraオーチャードホール)は良かったですね。山田和樹さん指揮による日本フィルハーモニー交響楽団の『交響曲第三番ニ短調』は素晴らしかったです。

久石:
山田和樹さんは指揮がきれいでうまいです。僕は1月に『交響曲第一番ニ長調「巨人」』を聴きました。2月に第二番、第三番の公演がありましたが、行かれた方がとても良かったとおっしゃっていました。九回シリーズで、マーラーの番号付きの交響曲九曲を、一年に三曲ずつ番号順に、今年、来年、再来年と三年かけて全曲を演奏するという、コンセプトが明解ですよね。しかも、マーラーの交響曲の前に武満徹さんの作品を組み合わせるという発想は、僕らのような作曲家が考えるべきことで、指揮者があのようなプログラムを組まれるのは素晴らしいです。

僕が行った時の武満作品は『オリオンとプレアデス』でしたが、宮内さんが行かれた時は何を演奏されましたか。

宮内:
三つの映画音楽(訓練と急速の音楽『ホゼー・トレス』より/葬送の音楽『黒い雨』より/ワルツ『他人の顔』より)でした。かなり短い曲でしたが面白かったですよ。次回のチケットもよく売れているらしいですね。

久石:
やはり評判が良いのですね。

宮内:
久石さんは、指揮はお好きですか。

久石:
はい、好きです(笑)。ただ、分厚いスコアを勉強するのはしんどくて、もうそろそろ嫌だなと思ったり、もう少しやらなくてはなと思ったり、絶えず葛藤している状態です。

宮内:
自分の曲をなさる場合と、クラシックの場合とでは、全然感じが違いますか。

久石:
違いますね。クラシックを指揮する時に暗譜するくらい頭に入ってしまうと、その期間中はまったく作曲ができなくなります。絶えずクラシックの曲が頭の中に流れてしまって、その影響が何らかの形で曲作りに出てしまうのです。例えば、映画音楽を書いている最中に、一方でブラームスの曲の指揮をするという時に、ブラームスの弦の動かし方などが作っている曲の中に無意識に出たりします。「あっ、やってしまった!」というような(笑)。もちろんメロディーまで同じにはしませんが、弦の扱いなどはかなり影響を受けますね。

宮内:
一生懸命、勉強なさっているのでしょうね。

しかし、作曲家、指揮者、ピアニストと、いろいろな面でご活躍ですね。

久石:
ちょっと手を出しすぎているので、気をつけないといけないですね(笑)。

音楽が面白いなと思うのは、どんなに頑張ってもその先にまだ音楽はいますね。音楽というものの内容をもっともっと知りたいと思っていつも取り組んでいるのです。

 

「歌う」ことは音楽の原点

宮内:
この間いただいたCDを聴かせていただきました。女声合唱の曲はとても素晴らしいなと思いました。

久石:
高畑勲監督のアニメ映画『かぐや姫の物語』の合唱曲ですね。

宮内:
私は合唱が好きなので、ぜひ合唱曲をお願いしたいです(笑)。今頃の日本の合唱団は、新しい曲をやるのですが、教訓を賜るというような思想的な曲が多いのです。それよりもっと良い曲があるでしょうと思うのですが、きれいな曲はなかなか出てきません。

久石:
アマチュアの人が音楽に接する一番の近道は「歌う」ことですよね。歌うというのは音楽の原点かもしれません。ですから、合唱ももっと盛んにならないといけませんね。

宮内:
おっしゃる通りです。独唱は好きに歌えばいいのですが、合唱はきっちり合うまで相当時間をかけて練習しなければなりませんから、時間のある人にとっては良い趣味になります。ですから、年配の方の合唱団は、世の中にたくさんありますね。

久石:
例えば、三枝成彰さんが団長の「六男」(ろくだん)(六本木男声合唱団倶楽部)とか(笑)。「六男」からお誘いはきませんか。

宮内:
実は、最初の結成時に「宮内さんは昔合唱をやっていたのだから、入ってくださいよ」と三枝さんから声をかけられまして、一度はお受けしたのですよ。その後しばらくして、「六男」の制服を作るからということで、コシノヒロコさんの事務所から採寸の方がいらっしゃったのですが、家内にこの話をしましたら、仕事も忙しいのにと反対させまして、それでお断りしたのです(笑)。

久石:
そうでしたか(笑)。この間、1月にBunkamuraオーチャードホールで公演をされましたよね。

宮内:
アマチュアの合唱団ながら、なんと『ウェスト・サイズ・ストーリー』というオリジナルミュージカルの公演をしまして、私も出演しました。特別出演で、団員として出たわけではないのですよ。三枝さんと食事をご一緒した時に出演交渉されて、飲んだ勢いでイエスと言ってしまったようです(笑)。

久石:
そういえば、うちの奥さんと娘が観に行って、「宮内さんが出ていらしたわよ」と言っていました。皆さん、うまかったというか、なりきっていたと言っていましたよ(笑)。メンバーには各界の錚々たる方々が名を連ねておられますよね。

宮内:
約140人が所属していて、団員の平均年齢は62歳ぐらい、最長老は83歳です。そのうち半分は女性の役で女装して出ていたのですから、それは相当なものですよ。ミュージカルですから、歌だけでなく踊りもあるでしょう。最初は絶望的だと言われていたものを、一年間相当な時間をかけて特訓して、昨年の夏には合宿までしてなんとか観られるものにしたらしいです。観客の皆さんは何を観せられるのかと思っていたでしょうが、期待値よりも少し上だったのでしょう、極めて好評でした(笑)。

久石:
宮内さんは踊られなかったのですか。

宮内:
私はひょいと出て自分のところを少し歌っただけですよ。

久石:
何を歌われたのですか。

宮内:
『チムチムチェリー』です。三枝さんに、むやみに高い音で歌わされました(笑)。

久石:
それは惜しいものを見逃しました(笑)。

宮内:
あれをご覧になっていたら、今日の対談はお受けいただけなかったと思いますよ。あのレベルの人と音楽の話はできないと(笑)。

久石:
昔と違って、今は年齢は関係ないですね。映画界でいえば、山田洋次監督は83歳ですし、高畑勲監督も79歳ですが、とてもお元気で、しゃきっとしてお仕事されていますから、皆さんすごいなと思います。日本は少子化で人口が減っていますから、年配の方々にもどんどん活躍していただきたいですね。

宮内:
それでは今日はこの辺で。お忙しいところ、ありがとうございまいした。ぜひまたオリックス劇場でコンサートをお願いします。

久石:
こちらこそ、ぜひお願いいたします。今日は楽しい時間をありがとうございました。

(麻布十番・七尾にて)

(味の手帖 2015年6月号 より)

 

味の手帖 2015年6月号

 

公式サイト:味の手帖

 

Blog. 「クラシック プレミアム 38 ~ヴァイオリン・チェロ名曲集~」(CDマガジン) レビュー

Posted on 2015/6/21

クラシックプレミアム第38巻はヴァイオリン・チェロ名曲集です。

まったくの余談ですが、久石譲が初めて習った楽器がヴァイオリン、4歳から鈴木鎮一ヴァイオリン教室に通っていました。ちなみに今やピアニストとしても独特の世界観を響かせていますが、実はピアノをきちんと習い始めたのは30歳を過ぎてから。コンサートなどでの演奏に必要になってきたためという理由からだそうです。意外といえば意外ですね。

 

 

【収録曲】
タルティーニ:ヴァイオリン・ソナタ 第4番 ト短調 《悪魔のトリル》 (クライスラー編曲)
アンネ=ゾフィー・ムター(ヴァイオリン)
ジェイムズ・レヴァイン指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音/1992年

ベートーヴェン:《ロマンス》 第2番 ヘ長調 作品50
チョン・キョンファ(ヴァイオリン)
チョン・ミュンフン指揮
フィルハーモニア管弦楽団
録音/1996年

サン=サーンス:《ハバネラ》 作品83
ジャニーヌ・ヤンセン(ヴァイオリン)
バリー・ワーズワース指揮
ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
録音/2003年

ドヴォルザーク:《ユモレスク》 変ト長調 作品101の7
アルテューユ・グリュミオー(ヴァイオリン)
イシュトヴァン・ハンデュ(ピアノ)
録音/1973年

サラサーテ:《ツィゴイネルワイゼン》 作品20
アンネ=ゾフィー・ムター(ヴァイオリン)
ジェイムズ・レヴァイン指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音/1992年

エルガー:《愛の挨拶》 作品12
クライスラー:《愛の喜び》 《愛の悲しみ》
チョン・キョンファ(ヴァイオリン)
フィリップ・モル(ピアノ)
録音/1985年

カタロニア民謡:《鳥の歌》 (カザルス編曲)
ミッシャ・マイスキー(チェロ)
パーヴェル・ギリロフ(ピアノ)
録音/1987年

シューマン:《アダージョとアレグロ》 変イ長調 作品70 (グリュツマッハー編曲)
ピエール・フルニエ(チェロ)
ラマール・クラウソン(ピアノ)
録音/1969年

フォーレ:《エレジー》 作品24
ミッシャ・マイスキー(チェロ)
セミヨン・ビシュコフ指揮
パリ管弦楽団
録音/1991年

フォーレ:《夢のあとに》
ミッシャ・マイスキー(チェロ)
ダリア・オヴォラ(ピアノ)
録音/1999年

 

 

「久石譲の音楽的日乗」第37回は、
指揮者のような生活

前号では、4月に開催されたイタリアでのスペシャルコンサートのお話でした。前々号で、指揮者ドゥダメルの演奏会のことを記していたのですが、そこからの続きになります。5月に開催された富山コンサートのことにも触れていて、演奏会を聴いて感じていたことが、謎が解けました。そんなお話になっています。詳細は順を追って。

一部抜粋してご紹介します。

 

「先日、一連の指揮活動が終了した。イタリアから始まり、すみだトリフォニーホールでのシェーンベルク《浄められた夜》、アルヴォ・ペルトの交響曲第3番を経て、リニューアルされた富山県民会館でのこけら落としコンサート(日本での演奏はいずれも新日本フィルハーモニー交響楽団)まで、なんだか指揮者のような生活を送ってきた。」

「演奏するのはまあ嫌いではないのだが、前にも書いたようにまったく作曲ができなくなるのは痛い。それはそうだ、頭の中で《浄められた夜》のような凄まじく難しい楽曲が鳴りまくっていたら、自分の音符なんて浮かんで来るわけがない。作曲のために徐々に減らしていこうと思うのだが、夏からまたコンサートが始まる。ありがたいことではあるが……複雑な心境だ。」

「富山ではドヴォルザークの交響曲第9番《新世界より》を演奏した。最もポピュラーなクラシック曲だ。オーケストラのレパートリーとしても演奏頻度が高く、場合によってはゲネプロ(当日の全体リハーサル)のみで、本番に臨むというケースさえあるらしい。だからといって易しいとは限らない。シンプルで力強い美しいメロディーの後ろで、各楽章とも変化に富んでいるうえにしっかり構成されていて、思いのほか手強い。前々回に書いたドゥダメル&ロサンゼルス・フィルでも演奏されていたが、その明確な構成力と躍動感に溢れるリズムに圧倒された。スケジュールが込んでいてなんとなく選んだ《新世界より》がまったく別の楽曲に聞こえ、思わず客席で背筋が伸びた。それから合間を縫って今までの方法を改め、猛特訓、いや猛勉強したのだが、スコア(総譜)を読めば読むほど、スルメのように味が出てくる。ドヴォルザーク本人もそれほどの大作に挑んだ(もちろん45分以上かかる楽曲だから大変な労力を必要とするが)と思っていなかったようだが、だからこそ力が抜けて音たちはとても自由に動いている。このことは重要だ。他の芸術でもスポーツでも思い入れが強すぎたり、気合いが入りすぎると力は発揮できない。指揮でいうと力んだ腕をどんなに一生懸命に振ってもスピードは出ないし、他の筋力を巻き込んで軸がぶれたり、頭を前後に大きく振ったりで、自分が頑張っていると思うほど演奏者には伝わっていない。ゴルフでいうところのヘッドアップと同じだ。力みをとる-あらゆる分野で最も大切で、最もできないことかもしれない。」

「だが、それより重要なことがある。結局のところ、どういう音楽を作りたいか明確なヴィジョンを持つことに尽きる!と僕は考える。」

「NHKのクラシック番組で、パーヴォ・ヤルヴィ指揮、NHK交響楽団の演奏でショスタコーヴィチの交響曲第5番の演奏を聴いた。この楽曲については前にも触れているので多くは書かないが、一応形態は苦悩から歓喜、闘争から勝利という図式になっているが、裏に隠されているのはまったく逆であるというようなことを書いたと思う。パーヴォ・ヤルヴィの演奏はその線上にあるのだがもっと凄まじく、この楽曲を支配しているのは恐怖であり、表向きとは裏腹の厳しいソビエト当局に対する非難であると語っていた。第2楽章がまさにそのとおりでこんなに甘さを排除したグロテスクな操り人形が踊っているような演奏は聴いたことがなかったし、第4楽章のテンポ設定(これが重要)がおこがましいが僕の考え方と同じで、特にエンディングでは、より遅いテンポで演奏していた。だから派手ではないが深い。」

「彼はエストニア出身、小さい頃はソビエト連邦の支配下にあったこの国で育った。父親は有名な指揮者でショスタコーヴィチも訪ねてきたときに会ったくらいだから、この楽曲に対する思いは尋常ではない。明確なヴィジョンを持っている彼にNHK交響楽団もよく応え、炎が燃え上がるような演奏だった。」

「ついでにいうと作曲家アルヴォ・ペルトさんも同じエストニア出身だ。若い時は十二音技法やセリー(音のさまざまな要素を音列のように構築的に扱う作曲技法)で作曲していたがソビエト当局の干渉で禁止され、教会音楽などを研究していく中で今の手法を考えだした。今では世界中で最も演奏される現代の作曲家なのだがCDも多く出ていて、その中で一番おすすめなのがパーヴォ・ヤルヴィだ。同じ国の出身、深い共感が良い音楽を作る。」

「以上数回にわたって指揮活動を中心にした音楽的日乗を綴ってきた。」

「それにしても、クラシック音楽はいい。目の前でオーケストラが一斉に音を出すのを聴いていると(これは指揮者の特権)、人類は偉大なものを作り上げたと驚嘆する。そのクラシック音楽は、いやクラシックだけではなく他の分野の音楽も含めて、我々はどういう進化を遂げてこういう形態に至り、これからどういう音楽を作り上げていくのか考えてしまう。つまり画家のゴーギャン風にいうと「我々はどこから来て、どこへ行くのか!」ということだ。次回からはいよいよ本題「音楽の進化」について書く。」

 

 

補足しますと、指揮者パーヴォ・ヤルヴィさんは、2015年9月からNHK交響楽団の首席指揮者に就任予定です。それもあって2014年あたりから歴代の作品が一気にCD再発売されています。2000年録音のアルヴォ・ペルト:「スンマ」「交響曲第3番」を収めたものなど多数あります。

せっかくなので、久石譲も過去に取り上げたことのある、この「スンマ」「交響曲第3番」が収録された、CDを買って聴いてみたいと思っています。久石譲の解説で俄然興味も湧いたアルヴォ・ペルト(作曲)×パーヴォ・ヤルヴィ(指揮)という組み合わせで。

 

 

もうひとつ。ドヴォルザーク 交響曲第9番 《新世界より》について。5月開催コンサート「久石譲&新日本フィルハーモニー交響楽団 富山特別公演」での演奏を聴いたときに、えらく緩急のメリハリがしっかりした構成になっていたということはレポートで書きました。

こちら ⇒ Blog. 「久石譲&新日本フィルハーモニー交響楽団 富山特別公演」 コンサート・レポート

 

コンサートに臨む前に、予習もかねて名盤と評されているCDをいくつか聴いていたのですが、もちろん久石譲もCD作品化していますが、聴いていたどの盤にもないテンポ感だったので、非常に強烈に印象に残り、レポートにそのことを記した記憶があります。

その後、このクラシックプレミアム・エッセイにてドゥダメル指揮の《新世界より》を聴いてきたという久石譲の話があったので……

こちら ⇒ Blog. 「クラシック プレミアム 36 ~ビゼー~」(CDマガジン) レビュー

 

もしや!と思い、ドゥダメル指揮の同楽曲音源を探しに探して聴くことができたのですが・・やっぱりっ!という結論でした。久石譲も今号エッセイにてはっきりと綴っているので、疑問から推測が確信へと変わりました。ドゥダメル盤新世界よりと、最新の久石譲盤新世界より。

こうやっていろいろなキーワードやパズルのピースのようなものをたよりに、推測したり時系列で整理したりするのは非常に楽しいですね。おかげで「交響曲第9番 新世界より」はここ数ヶ月のあいだに、何十パターン(指揮者違い,オケ違い,録音年違いなど)聴いただろうと思います。そして自分だけのお気に入りの盤を見つけたときの喜びです。

 

ほんとうにクラシック音楽って、指揮者、演奏者、録音年代、録音場所などで、同じ楽曲でもまたと同じものはないというくらい、全然響きも印象も感動も違います。そして一番感動するのは、どんな名盤をCDなどで聴くことよりも、実際にコンサート会場で体感することだな、ということを痛切に感じているのも事実です。

だいぶんクラシック音楽に対する見方が変わってきたのは、このクラシックプレミアムのおかげなのか、久石譲の同雑誌内エッセイのおかげなのか、はたまた久石譲コンサートでクラシック音楽を聴くことが定着したからなのか…全50巻、2年越しの「クラシックプレミアム」も、7-8合目くらいです。

 

 

クラシックプレミアム 38 ヴァイオリン・チェロ名曲集

 

Blog. 「週刊文春 2015年4月30日号」コーナー「時はカネなり」 久石譲 インタビュー内容

Posted on 2015/6/13

雑誌 週刊文春 2015年4月30日号にて「時はカネなり」のコーナーに久石譲が登場しました。巻末カラーということで、愛用の腕時計や財布がエピソードとともに写真紹介されています。

 

 

時はカネなり 22

久石譲(作曲家・指揮者)
日本アカデミー賞の副賞で八度目に巡り合った時計

このジャガー・ルクルトは昨年、『風立ちぬ』で日本アカデミー賞最優秀音楽賞を受賞した際、副賞で頂いたものです。これまでは時計は重くて腕が縛られる感覚が嫌で、ほとんどつけませんでした。でもこれは軽くてシンプル、フェイスもすっきりしていて邪魔にならないので、とても気に入っています。

私は同賞を過去にも受賞していて、この時計は八本目。ほとんどは自宅の机の引き出しなどに入れて保管していたのですが……ある時とてもショックなことが起きました。自宅に泥棒が入り、この副賞の時計が三本も盗まれたんです。さらに腹立たしいことに、僕のCDを一枚も盗んでいかなかった!嘘でもいいから、一枚くらい持っていけよ、と思いました(笑)。

作曲家の時計感覚は独特かもしれません。音楽というものは時間の中に構築する建造物です。例えば、映画音楽は一秒の二十四分の一単位で画面に合わせる。プロなら当たり前にできることではありますが、時間感覚は自然に鋭くなると思います。そのせいか、目覚まし時計が鳴る三分前にはパッと目が覚めます。海外に行っても、時差ボケはほとんどありません。あまり時計を必要としない体なんです。

財布はアイグナーを長く愛用していました。滑らかな革が気に入ってね。それがだいぶ傷んできたなと感じていたところ、ロンドンのヒースロー空港でフライトの待ち時間にふと目に留まったのが、このヴェルサーチの財布です。アイグナーを敢えて買い直そうとは思わなかった。物は”縁”ですから。

そもそも、買いに行く時間がありません(笑)。毎日、昼の一時から二時にスタジオに来て、夜中の十一時まで作曲をします。クラシックコンサートが近い場合は指揮者として、帰宅するとスコアの研究を朝までやる。そんな生活だから、財布を一週間、開かないこともあります。もともと同じ鞄を二十年も使うほど、非常に物持ちがいい。この財布も結局十年も使っていますね。

 

●ジャガー・ルクルト

購入時の価格
日本アカデミー賞 最優秀音楽賞の副賞
(定価は450,000円+税)

愛用年数
約1年

本来ポロプレーヤーのために開発された時計で、ガラスの破損を防ぐためフェイスが反転する。クラシックコンサートのスコア研究のため、自らも手で書き写した楽譜とともに

久石譲 ジャガー・ルクルト

 

●ヴェルサーチ

購入時の価格
覚えていない

愛用年数
10年くらい

平均所持金
7万円

銀行カードはほぼ使わず、奥さまが適宜、現金を補充する。アメックスのブラックカードと、体力作りのために通うジムの会員カード(白)

久石譲 ヴェルサーチ

(「週刊文春 2015年4月30日号」より)

 

 

上の写真にあるとおり久石譲による直筆譜も写りこんでいます。これは5月5日に開催されたコンサート「新・クラシックへの扉・特別編 久石譲 「現代の音楽への扉」」の演目からシェーンベルクの《浄夜》を自ら書き起こした楽譜です。

 

 

 

そしてこの手書き譜面を書き起こす奮闘記は、クラシックプレミアム内連載中エッセイにて語られています。

 

「それで今猛勉強中なのだが、とにかく各声部が入り組んでいるため、スコアと睨めっこしても頭に入ってこない。いろいろ考えたあげく、リハーサルの始め頃は連弾のピアノで行うので、そのための譜面を自分で書くことにした。やはり僕は作曲家なので自分の手で音符を書くことが覚える一番の近道だと考えたのだが、それが地獄の一丁目、大変なことになってしまった。」

「《浄められた夜》は室内楽なので、音符が細かい。例えば4/4拍子でヴィオラに6連符が続くと4×6=24、他の声部もぐちゃぐちゃ動いているので一小節書くのになんと40~50のオタマジャクシを書かなければならない(もちろん薄いところもある)。それが全部で418小節あるのである! そのうえ、4手用なので、弾けるように同時に編曲しなければならない。全部の音をただ書き写しても音の量が多過ぎて弾けないので、どの声部をカットするか? もう無理なのだが、どうしてもこの音は省けないからオクターヴ上げて(下げて)なんとか入れ込もうとかで、とにかく時間がかかる。実はこの作業は頭の中で音を組み立てているのだから、最も手堅い、大変だが確実に曲を理解する最善の方法なのだ。」

「年が明けてから、映画やCMの仕事をずっと作ってきて、台湾のコンサートが終わってからこの作業に入ったのだが、昼間は作曲、夜帰ってから明け方まで譜面作りと格闘した。それでも一晩に2~3ページ、小節にして20~30くらいが限度だった。毎日演奏者に定期便のように送っているのだが、他にもすることが多く、実はまだ終わっていない、やれやれ。」

Blog. 「クラシック プレミアム 35 ~モーツァルト5~」(CDマガジン) レビュー より抜粋)

 

 

週刊文春 久石譲

 

Blog. 「クラシック プレミアム 37 ~ワーグナー 序曲・名場面集~」(CDマガジン) レビュー

Posted on 2015/6/7

クラシックプレミアム第37巻はワーグナーです。

【収録曲】
歌劇 《さまよえるオランダ人》 序曲
歌劇 《タンホイザー》 序曲
ダニエル・バレンボイム指揮
シカゴ交響楽団
録音/1994年

歌劇 《ローエングリン》 第3幕前奏曲 - 〈婚礼の合唱〉
ダニエル・バレンボイム指揮
ベルリン国立歌劇場管弦楽団・合唱団
録音/1998年

楽劇 《ニュルンベルクのマイスタージンガー》 第1幕前奏曲
ダニエル・バレンボイム指揮
シカゴ交響楽団
録音/1992年

楽劇 《ニーベルングの指環》
第1夜 《ワルキューレ》 より 〈ワルキューレの騎行〉
第3夜 《神々の黄昏》 より 〈夜明けとジークフリートのラインの旅〉 〈ジークフリートの死と葬送行進曲〉
ダニエル・バレンボイム指揮
シカゴ交響楽団
録音/1991年(ライヴ)

 

 

「久石譲の音楽的日乗」第36回は、
イタリアで自作のコンサート

前号では、今注目の若手指揮者ドゥダメルの演奏会に行っての感想などが、久石譲ならではの視点(指揮者/作曲家)で興味深く語られていました。今号では、日本ではあまり情報が少なかった久石譲コンサート、4月にイタリアで開催された映画祭でのスペシャル・コンサートについて。

この演奏会の情報は、各媒体を探しに探して少しまとめています。演奏プログラム、写真紹介、記者会見内容など。

こちら ⇒ Info. 2015/04/25 《速報》久石譲 伊映画祭コンサート 演奏プログラム&写真紹介

こちら ⇒ Info. 2015/04/26 《速報》続報 久石譲 イタリア・コンサート 記者会見内容など

そして今号ではご本人による貴重な情報と記録!ということで見逃せません。

一部抜粋してご紹介します。

 

「昨日、イタリアから帰ってきた。ヴェネツィアから北に車で1時間半くらいのところにウディネという人口約10万人の町がある。そこでファーイースト・フィルムフェスティヴァルという映画祭が行われている。イタリアでアジアの映画にスポットを当てた催しとして今年で17回目だから歴史はある。そのオープニングのコンサートとなんとか功労賞というものをいただけるということで出かけていった。本当は前回に続いてグスターボ・ドゥダメル☓ロサンゼルス・フィルのことを書こうと思っていたのだが、状況変転、今関心があることから書いていくことにする。」

「まずは内容だが、コンサートは約1時間半、映画祭なので僕の作曲した映画音楽(もちろんミニマル曲も演奏した)を中心に構成した。およそ1200席のチケットは発売3時間で完売、ヨーロッパ中から観客が訪れたということはやはりネットのおかげだろう。」

「演奏はRTVスロベニア交響楽団が担当した。ウディネの地元のオーケストラは編成が小さいらしく、隣国から呼んできたわけだ。そのためリハーサルの2日間はスロベニアの首都、リュブリャナで行われ、当日のゲネプロ(最後の全体リハーサル)、本番がウディネということになる。短期間での移動が多いのは負担になると思われたが、何故かスロベニアに惹かれ都合5泊7日間の日程で旅に出た。本当はヴェネツィアが近いので久しぶりに立ち寄りたかったが、翌週から小難しい現代曲などのコンサートが控えているため、できるだけコンパクトな日程にした。何だか指揮者みたいなスケジュールだ(笑)。」

「海外のオケの場合はいつもそうだが、打ち合わせどおりには行かない。今回も対向配置(弦楽器の配置で、第2ヴァイオリンが舞台に向かって右に位置する)のはずが普通の並びだったり、マリンバが2台無かったり、アルト・フルートが練習の始めに間に合わなかったりで大変なのだが、指揮者たるものがそんなことで動じてはならない。本来あるべき状況に戻しつつ、何事もなかったかのように(順調のように)進めていった。」

「またいつもどおり初日は音も合わず、間違える人も多いのだが、日を追うごとにうまくなり、フレーズも大きく歌い音楽的に向上していく。日本のオケは初日からうまく、かなりのレヴェルなのだが、日を追うごとに目に見えるような向上はあまり感じられない。国民性なのか?」

「そしてウディネに我々は移動してコンサートに臨んだ。北イタリアのこの小さな町はそれでもサッカー・セリエAのウディネーゼを持つくらいだから、まあ知られた町ではある。ホールも舞台上の汚さはあったが(オペラやバレエも行われている)、壁のポスターを見るとアバド、チョン・ミュンフン、シャルル・デュトワ、あのドゥダメルから辻井伸行さんまで来ているので、ちゃんとしたクラシックのホールなのだろう。ただ音はドライで舞台上はあまり響かない。この場合は音楽全体のテンポを速めに設定し、ソリッドに仕上げるほうがうまく行く、本番は夜の8時半から。昼夜の温度差が激しく、楽屋で寝ていた時、寒気がして激しい頭痛に襲われた。そんな中で舞台に立ったが、膨大な汗をかくことで風邪を退散させ、無事に終了した。観客はおおよその楽曲は知っていて熱狂的に受け入れてくれた。特にアンコールの《ナウシカ》ではどよめきすら起こった。一緒に来た日本人の関係者は目を丸くし異口同音に「久石さん有名なんだね~」。」

「このところクラシックがらみのコンサートしか行っていなかったが、久しぶりの自作のみ、は意外に新鮮で、早く新アルバムを作って日本でツアーを行ってもいいと思えたのは収穫だった。」

 

 

海外での公演、そして海外オケとの共演の苦労と収穫、そんな舞台裏が垣間見れました。このコンサートではオール久石譲作品、そして映画音楽から自作現代音楽までと、昨今の日本国内コンサートではまあお目にかかることのできないセットリスト。贅沢な演奏プログラムです。

そしてエッセイ最後の結びがやはり気になりますよね!「早く新アルバムを作って日本でツアー」ぜひっ!と読みながら強い合いの手を入れてしまいます。「行ってもいいと思えた……」ではなく「行いたいと思った!」と言い切ってほしかったくらいです(笑)。

それでも異国の地で特別功労賞を受賞し、国内とはまた違った気候・環境・オケで久石譲音楽を響かせ、観客の反応をダイレクトに感じ。そんななかから「早く新アルバムを作って日本でツアーを行ってもいい」と思っていただけたのなら、ファンの一人としても、このコンサートが大きな収穫となりこれから先につながることを期待してやみません。

 

クラシックプレミアム 37 ワーグナー

 

Blog. 「クラシック プレミアム 36 ~ビゼー~」(CDマガジン) レビュー

Posted on 2015/5/19

クラシックプレミアム第36巻は、ビゼーです。

 

【収録曲】
《アルルの女》 第1組曲・第2組曲
チョン・ミュンフン指揮
パリ・バスティーユ管弦楽団
録音/1991年

《カルメン》 第1組曲・第2組曲
シャルル・デュトワ指揮
モントリオール交響楽団
録音/1986年

 

 

「久石譲の音楽的日乗」第35回は、
ドゥダメルの演奏会を聴いて

今号では久石譲が聴いた演奏会の話から、クラシック界の新しい風、時代、世界の動き、そして日本。いろいろな角度から俯瞰的に理解することができてとてもおもしろい内容でした。

もうひとつ、個人的に気になっていたことが解決しました。久石譲のコンサートでもその都度替わることのあるオーケストラの楽器配置。対向配置、そんな用語があるんですね。通常の楽器配置と、そうじゃないときがあって、なんでだろう? と不思議に思っていました。

作品や楽曲によってかな?とも思ったのですが、いや、同じ楽曲でも配置が違うコンサートもあります。これが対向配置ということがわかりました。そしてどういう意図や効果があるのか。そんなことも書かれていました。

一部抜粋してご紹介します。

 

「先の週末、2日間にわたってグスターボ・ドゥダメル&ロサンゼルス・フィルハーモニックのコンサートに行った。素晴らしいコンサートだったうえ、いろいろ考えさせられることがあったので今回はそれについて書きたい。」

「演目は初日がマーラーの交響曲第6番《悲劇的》のみ(80分かかるから当たり前だが)。2日目はジョン・アダムズの《シティ・ノアール》とドヴォルザークの交響曲第9番《新世界より》だった。僕としてはむろんジョン・アダムズ(1947~/アメリカの作曲家)がお目当てなのだが、前回書いたシェーンベルクなどの楽曲を演奏するコンサートの直後に、富山で《新世界より》を指揮するのでこれも勉強を兼ねて楽しみにしていた。」

「まずマーラーの交響曲第6番《悲劇的》だが、冒頭のチェロとコントラバスが刻むリズムからして切れが良く、音量もびっくりするほど大きい。そしてどんどん盛り上がるのだが、もともと5管編成で、ホルンは8本という巨大な編成なので音が大きいのは当然なのだ。だが、大きくても正確なリズムのために音が低音まで濁っていない。またこの編成では弦楽器は埋もれがちになるが、金管の咆哮の中でもクリアに響いていた。おそらくその要はリズムにあるのだが、ラテン人特有の鋭いリズム感を持つドゥダメルと5年間音楽を演奏している間に、オーケストラ自体リズムへのアプローチもソリッドになったのだろう。まあフィラデルフィア管弦楽団なども明快だったのでアメリカのオーケストラの特徴かもしれない。ヨーロッパの伝統的なオーケストラはもっと音に込める何か、ニュアンスというか精神というか、日本人が八木節を歌う時の小節回しのようなものに近い何かを大切にするから、リズムはそれほど明快ではない。アメリカのオーケストラはそういうものを無視しているわけではないが、それよりも明快さを優先するように思える。ドゥダメル&ロサンゼルス・フィルはもちろん楽譜に書かれているさまざまなニュアンスは丁寧に表現しているし、音楽の目指す方向もぶれていない。僕としては書かれた音がこれほどクリアに表現されるのならこのほうがいい。なんとなれば伝統を持たない日本人が目指すのはこの方向しかないからだ。ちなみに外国人の歌う八木節を想像してみてほしい。うまく歌っても「?」がつく。ヨーロッパ人が聴く日本のオーケストラもそれに近いのかもしれないと思う。」

「話を戻して、マーラーは第4楽章まで集中力が切れず、終わり直前のフォルティッシモもぴったり合い、余韻のある見事なエンディングだった。驚いたのは皆まだ余力があり、もう一度最初から演奏しそうな勢いだったことだ。やはり体力差か? また対向配置(第2ヴァイオリンが向かって右側にいてコントラバスが左の奥にいる配置。古典派、ロマン派の楽曲はほとんどこの配置を想定して作曲家は書いた)で、左側のコントラバスと右側のチューバが同じ音量で拮抗する演奏を初めて聴いた。やはり対向配置はいい。」

「翌日はジョン・アダムズの《シティ・ノアール》からだったが、これはドゥダメルの就任お披露目コンサートのために書かれた楽曲で彼らの得意な演目だ。ジョン・アダムズはミニマル・ミュージックの作曲家としてスタートして、今はポスト・ミニマルというより、後期ロマン派的な手法まで導入し、表現主義的な方法をとっている。つまりメロディーがあり、和音があり、アメリカ音楽特有のリズム(例えばジャズ)があるので、ある意味わかりやすい。そのため現代音楽好きの人たちは、後ろ向きと批判することもある。彼はオーケストラを知り抜いているためそのスコアは精緻を極め、オケからも人気があり、演奏される機会は世界的に多い。音楽出版社のBoosey & Hawkesの会報を見ると、今年の2月から5月までに演奏されるジョン・アダムズの楽曲はきわめて多い。新作のオラトリオを発表したこともあり、近年に書かれた楽曲が目白押しだ。《シティ・ノアール》の演奏回数も多いのだが、その中でも注目すべきはウィーン・フィルが3月にこの楽曲を演奏していることだ。初演から5年ほど経ち、各地で演奏され、今では世界のスタンダードとして認識されたということだ。日本のオーケストラでは……まだまったく演奏の予定はない、たぶん。 紙面が尽きた、次回に続く。」

 

クラシックプレミアム 36 ビゼー

 

Blog. 「久石譲&新日本フィルハーモニー交響楽団 富山特別公演」 コンサート・レポート

Posted on 2015/5/14

3月に開業した北陸新幹線に乗って。

ゴールデンウィーク終盤5月9日に開催されたコンサート「久石譲&新日本フィルハーモニー交響楽団 富山特別公演」です。富山県民会館リニューアルオープン・開館50周年記念事業、県民ふるさとの日記念事業 という企画コンセプトのもと開催されています。

演奏プログラムおよびアンコールはこちら。

 

久石譲&新日本フィル・ハーモニー交響楽団 富山特別公演

[公演期間]
2015/05/09

[公演回数]
1公演
富山・富山県民会館ホール

[編成]
指揮:久石譲
管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団
混声四部合唱:富山県合唱連盟特別編成合唱団

[曲目]
ドヴォルザーク:交響曲第9番 ホ短調 作品95 「新世界より」
久石譲:室内オーケストラのための「シンフォニア」
I.パルゼーション II.フーガ III.ディヴェルティメント
久石譲:交響変奏曲「人生のメリーゴーランド」
(Symphonic Variation ”Merry-go-round” + Cave of Mind)
久石譲:ふるさとの空 (富山県ふるさとの歌)
(原詞:布村勝志 補作詞:須藤晃 編曲:山下康介)

—-encore—-
久石譲:となりのトトロ (with Chorus)

 

 

まずは、当日会場で配布されたコンサート・プログラムより。

 

【曲目解説】

ドヴォルザーク:交響曲第9番 ホ短調 作品95 『新世界より』
ドヴォルザークの最後の交響曲で、アメリカ時代に作曲されました。音楽院で黒人学生と接したドヴォルザークは、彼らの歌う黒人霊歌に感銘を受け、自分の作品に(そのまま素材として用いるのではなく)その精神を反映させようと考えました。円熟した作曲技法、親しみやすいメロディー、『新世界(=アメリカ)より』という魅力的なタイトルと相まって、最も人気の高い交響曲として世界中で毎日のように演奏されています。

第1楽章 静かな序奏から始まり、ホルンが力強い第1主題を吹奏します。フルートやオーボエが奏でる第2・第3主題も民族色が強く、黒人霊歌やボヘミア民謡との関連がうかがわれます。

第2楽章 最も有名な楽章。イングリッシュ・ホルンによって吹かれるひなびたメロディーは後に歌詞が付けられ、「家路」というタイトルで有名になりました。

第3楽章 活気あふれる民族舞踊的な楽想で、ネイティヴ・アメリカンの踊りから発想したとも、ボヘミアの農民の踊りと共通しているともいわれています。

第4楽章 徐々にテンポを速めていく弦楽による序奏は、鉄道マニアだった作曲者が蒸気機関車の発車を模したという説もあります。ホルンとトランペットによる力強い第1主題は勇壮で、クラリネットが吹く女性的な第2主題とあざやかなコントラストを作ります。

 

室内オーケストラのための《シンフォニア》
2009年に発表された「Sinfonia」は、ミニマル・ミュージックの作曲家として、久石が原点に立ち返って書き上げた弦楽オーケストラ作品。

「第1楽章は、昔、現代音楽家として最後に書いた「パルゼーション」という曲の構造を発展させたものだ。機械的なパルスの組み合わせで構成され、四分音符、八分音符、三連符、十六分音符のリズムが複合的に交差し展開していく。第2楽章は、雲のように霞がかったり消えたりするようなコード進行の部分と、いわゆるバッハなどの古典派的なフーガの部分とで構成されている。これも第1楽章と同じで五度ずつハーモニーが上昇し、全部の調で演奏されて終わる。第3楽章は、2009年5月「久石譲 Classics vol.1」のクラシックコンサートで初演した曲。そのときは弦楽オーケストラだけだったが、管楽器などを加えて書き直した。ティンパニやホルンなどが入ったおかげで、より一層古典派的なニュアンスが強調されて、初演の弦楽オーケストラとは一味違う曲になった。」
(※アルバム「ミニマリズム」より、一部改変して転載)

 

交響変奏曲 「人生のメリーゴーランド」 (『ハウルの動く城』より)
2004年公開、宮崎駿監督作品の映画『ハウルの動く城』より。魔法で老婆に変えられてしまった主人公・ソフィーと魔法使いハウルをとおして、生きる楽しさや愛する歓びを描いた作品です。劇中では、18歳の少女から90歳の老婆に変化するソフィーですが、観る人が同一人物だとわかりやすいようにメインテーマ「人生のメリーゴーランド」のモチーフが、物語の進行に合わせて見事に変奏されていきます。オリジナル・サウンドトラックでは、シーンごとに個別に収録されていますが、その楽曲を紡ぎ合わせ、フル・オーケストラのためのひとつの交響的変奏曲として生まれ変わらせた楽曲です。

 

ふるさとの空 (富山県ふるさとの歌)
「ふるさとの空」は、県民や県出身者が、ふるさとを思い、ふるさとへの愛着を育みながら、みんなで一緒に歌い、心を一つにできる歌を作って欲しいという県内外の多くの方々の声を受け、平成23年8月から「富山県ふるさとの歌づくり実行委員会」で歌づくりが進められました。歌詞については、公募で選ばれた布村勝志さんの原詞を、富山県出身の音楽プロデューサー須藤晃さんが補作、久石譲さんが作曲を担当して、平成24年7月に富山県教育文化会館において発表されました。ふるさと富山の素晴らしさや魅力が盛り込まれた「ふるさとの空」は、子供から大人まで広く歌われています。今回の公演は、大編成の管弦楽と合唱により、久石譲さん本人の指揮で演奏される貴重な公演となります。

(久石譲&新日本フィルハーモニー交響楽団 富山特別公演 コンサート・プログラムより)

 

 

 

少し感想をまじえて。

 

  • ドヴォルザーク:交響曲第9番 ホ短調 作品95 『新世界より』

「久石譲 Classics vol.1」にも収録されている、久石譲が過去に何度か指揮したことのある楽曲です。曲目解説にある第1楽章の第2・第3主題など、とても緩急のある、ゆっくりとその旋律を聴かせる箇所もある、そんな構成になっていました。第3楽章や第4楽章でもその流れは引き継がれ、とてもメリハリのある抑揚起伏に富んだ展開。2009年CDとはまた違った、久石譲の指揮者としての解釈も表現力もパワーアップした演奏を堪能することができました。

[参考作品]

久石譲 『JOE HISAISHI CLASSICS 1 』

久石譲 『JOE HISAISHI CLASSICS 1 』 収録

 

  • 室内オーケストラのための《シンフォニア》

こちらもCD作品よりも第1楽章、第2楽章はややスローテンポ。音をしっかり確かめるように、音の絡み合いやズレをしっかりと表現するような構成になっていました。また第3楽章はティンパニがより強調され、楽曲に躍動感や独特のグルーヴ感を与えていました。

[参考作品]

久石譲 『ミニマリズム』

久石譲 『ミニマリズム Minima_Rhythm』 収録

 

約100名を超える混声合唱団および二管? 三管編成用の奏者が壇上に加わる

 

  • 交響変奏曲 「人生のメリーゴーランド」 (『ハウルの動く城』より)

コンサートではおなじみの人気曲。『WORKS III』(2005年)にて “Symphonic Variation 「Merry-go-round」”として作品化されました。このときはメインテーマである「人生のメリーゴーランド」モチーフの変奏のみでの約14分の大作。その後2008年武道館コンサートなどを経て、「Symphonic Variation ”Merry-go-round” + Cave of Mind」へと発展。『WORSK III』の原型から、少し構成を短縮し、その分中間部に「Cave of Mind」を挿入。映画本編でもクライマックスに近づく印象的なシーンで使われた楽曲で、オリジナル・サウンドトラックでは「星をのんだ少年」という曲名で収録されています。トランペットの優しい旋律が印象的です。

そしてそんな定番曲も新しい試みもありました。「Cave of Mind」から終盤の「人生のメリーゴーランド」メインテーマへと引き継がれる楽曲構成なのですが。通常、ここで久石譲ピアノによる「人生のメリーゴーランド」からテーマがはじまります。オリジナルではほぼ久石譲ピアノ・オンリーという聴かせどころです。でも今回は、ステージ中央にピアノがない。どうなるんだろう?と思っていたら、その箇所をハープやヴィブラフォンなどの楽器に置き換えられていました。ピアノとはまた違った、オルゴール的な響きと雰囲気でした。次の管弦楽が入ったあとのピアノパートは、オーケストラのピアノ奏者の方でした。

※下記CDの9’00” – 10’10” くらいの箇所のことです

[参考作品]

久石譲 『THE BEST OF CINEMA MUSIC』

久石譲 『The Best of Cinema Music』 ライヴ収録

 

  • ふるさとの空 (富山県ふるさとの歌)

もちろんCD作品化もされていない楽曲ですが、公式に聴けるサイトもありますのでぜひ聴いてみてください。(http://www.pref.toyama.jp/sections/1002/furusato/index.html) 管弦楽から吹奏楽、独唱から合唱まで、いろいろなバリエーションで聴くことができます。今回は曲目解説にもあったとおり、1回限りの管弦楽+混声合唱団という特別な編成でのお披露目となりました。久石譲が手がけたご当地ソング、うらやましい限りです。

[参考]

富山県ふるさとの空

久石譲 富山県ふるさとの歌 『ふるさとの空』 作曲 *Unreleased

 

アンコールは「となりのトトロ」主題歌。たしかに混声合唱団の方々も壇上に残ったままですし、この編成だからこそ実現できた合唱付きバージョンです。合唱までをものみ込むような新日本フィルハーモニー交響楽団のすさまじい迫力でした。会場が揺れんばかりのクライマックスの爆発力。そしてわれんばかりの拍手喝采。コンサートならではの体感でした。

そしてここでも中間部の間奏は久石譲のピアノがしっとりと聴かせるパートなのですが、今回は楽団のピアノ奏者が演奏。

※下記CDの2’37” – 3’05” くらいの箇所のことです

[参考作品]

久石譲 『THE BEST OF CINEMA MUSIC』

久石譲 『The Best of Cinema Music』 ライヴ収録

 

 

今回久石譲は「ハウルの動く城」や「となりのトトロ」といった、定番人気曲であっても、ピアノには指1本触れない!?という珍しい内容でした。オーケストレーションをかき替えてまで指揮者に徹したコンサートです。それだけに、久石譲ピアノを聴けなかった残念な想いはあるのもも、指揮者とオーケストラの一心同体という緊張感が終始張りめぐらされ、地響きがするほどのトトロまで行き着けたのだと思います。

コンサートという、楽曲の現在進行形を示す場、進化しつづける解釈や今想うかたちを表現する場。そんなことをあらためて思い、久石譲の今という瞬間、そして久石譲の長い通過点のひとつに立ち会えた喜びでした。

またひとつコンサートのあしあとが刻まれます。

久石譲 Concert 2015-

 

久石譲 富山公演 2015

 

Blog. 久石譲&新日本フィル 「現代の音楽への扉」コンサート・パンフレットより

Posted on 2015/5/10

新日本フィルハーモニー交響楽団が主催する「新・クラシックへの扉」その特別編「現代の音楽への扉」に久石譲が登場しました。事前の雑誌インタビューでは本企画への想いを語っています。

 

「定評ある入門シリーズなので、僕のコンサートが入るのは、新しい形の実験だと思います。今回は、調性の崩壊を促した『トリスタン和音』が使われている、ワーグナー『トリスタンとイゾルテ』前奏曲から始まって、シェーンベルクの『浄夜』、そして現代の音楽であるペルトの交響曲第3番というプログラムを組みました」

(MOSTLY CLASSIC 2015.2 vol.213 より)

 

 

新・クラシックへの扉・特別編 久石譲 「現代の音楽への扉」

[公演期間]
2015/05/05

[公演回数]
1公演
東京・すみだトリフォニーホール

[編成]
指揮・解説:久石譲
管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団

[曲目]
ワーグナー:楽劇『トリスタンとイゾルデ』より前奏曲
シェーンベルク:『浄められた夜』 op.4(弦楽合奏版)
アルヴォ・ペルト:交響曲 第3番

—-encore—-
アルヴォ・ペルト:スンマ、弦楽オーケストラのための

 

 

【楽曲解説】

ワーグナー/ 楽劇『トリスタンとイゾルデ』より第1幕への前奏曲
作曲:1857-59 年
初演:1859 年3月12日プラハ(前奏曲のみ)、1865 年6月10日ミュンヘン(楽劇全曲)

『トリスタンとイゾルデ』は、中世から伝わる有名な悲恋物語 ― コーンウォールの騎士トリスタンとアイルランドの王女イゾルデが誤って媚薬を飲み、愛し合ってしまう ― をドイツの作曲家リヒャルト・ワーグナーが脚色・作曲し、楽劇(オペラ)として完成させた作品です。その内容を集約した第1 幕への前奏曲に関して、ワーグナー自身が次のようなプログラム(標題)を書き残しています。「トリスタンは、叔父の[コーンウォール]王に嫁ぐイゾルデを、王のもとへ連れて行く。トリスタンとイゾルデは、実は[最初から]愛し合っている。最初は抑えることの出来ない憧れをおどおどと訴え、望みなき愛を震えるように告白し、その告白が恐るべき爆発を起こすまで、音楽に込められた感情は、内なる情熱と格闘し続ける絶望的な努力の一部始終を辿っていく。そして、感情は無意識の中に沈み、情熱は死と区別がつかなくなる」(1863年12月27日、ウィーンでの演奏のための解説)。ごく大まかに、曲の最初に3回登場するチェロと木管のモティーフが「憧れ」を表し、管弦楽の強奏の後に出てくるチェロのモティーフが「愛」を表し、この2 つのモティーフが絡み合いながら爆発的なクライマックスを迎え、あたかも死を迎えるように静まっていくというのが全体の構成ですが、特に重要なのは最初の「憧れのモティーフ」。チェロと木管が最初に重なる時、ヘ(F)、ロ(H)、嬰ニ(Dis)、嬰ト(Gis)の4 音からなる和音(俗にトリスタン和音と呼ばれる)が鳴り響くのですが、このトリスタン和音のせいで、音楽がどの調に向かおうとしているのか、曖昧になってしまうのです。トリスタン和音を聴いた19 世紀の作曲家や音楽学者は、長調や短調に基づく西洋音楽の作曲システムが、もはや機能しなくなったと危機感を覚えました(調性の崩壊)。その結果、多くの作曲家が新たな作曲システムを模索するようになります。

[楽器編成] フルート3、オーボエ2、イングリッシュホルン、クラリネット2、バスクラリネット、ファゴット3、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、弦楽5部。

 

シェーンベルク/浄められた夜op. 4(弦楽合奏版)
作曲:1899 年(弦楽六重奏版)、1917 年(弦楽合奏版への編曲、1943 年改訂)
初演:1902 年3月18日ウィーン(弦楽六重奏版)、1918 年3月14日ライプツィヒ(弦楽合奏版)

上に述べた調性の崩壊の後、新たな作曲システムを模索し、現代の音楽への扉を開いていったのが、オーストリアの作曲家アルノルト・シェーンベルクです。彼が24 歳の時に作曲した『浄められた夜』は、リヒャルト・デーメルの同名詩をプログラム(標題)として用い、その内容を(歌うことなく音楽だけで標題を表現した交響詩のように)室内楽で表現する斬新な手法で書かれた弦楽六重奏曲(本日演奏されるのは、コントラバス声部を追加した弦楽合奏版)。この作品で、シェーンベルクはワーグナーのトリスタン和音の方法論をさらに拡大し、半音階を多用することで調性システムの限界に挑みました。曲はデーメルの詩の構成に従う形で作曲され、全体は情景描写(A)― 女の声(B)― 情景描写(A’)― 男の声(C)― 情景描写(A”)の5 つの部分から成り立っています。まず(A)では、暗いニ短調の音楽が恋人たちの重い足取りを表現しますが、その終わり近く、ドキリとするようなピッツィカートが突如として鳴り響き、息を呑むような沈黙のフェルマータを挟んで(B)に移ります。この(B)は、狂おしいまでに揺れ動く女の感情を半音階を駆使して表現した、全曲の中で最も激しい部分です。重い足取りの音楽が再び戻って(A’)の情景描写となりますが、重苦しい音楽が消え行くように静まった後、光が明るく差すようなニ長調の音楽が始まり、(C)となります。『トリスタンとイゾルデ』の愛の二重唱を彷彿させる陶酔的な音楽が展開した後、(C)は虚空の中に消え去り、最後の(A”)が第2 ヴァイオリンのさざ波と共に始まります。この(A”)では、最初の(A)で登場した重い足取りの音楽が美しい長調に変容し、文字通り夜を浄めるようにして全曲が閉じられます。

[楽器編成] ヴァイオリン I, II、ヴィオラ I, II、チェロ I, II、コントラバス。

 

アルヴォ・ペルト/交響曲第3 番(1971)
作曲:1971 年
初演:1972 年9月21日タリン

シェーンベルクが開いた現代の音楽への扉は、無調、十二音技法、セリー主義といった新たな作曲システムへの道を導き、20 世紀の作曲家たちは調性に全く頼ることなく、音楽を作曲することが可能になりました。しかしその反面、音楽があまりにも複雑になり過ぎ、伝統的な長調と短調に馴染んできた聴き手は、理解不能に陥ってしまいます。そうした状況の中で、一種の揺り戻しを試みた作曲家のひとりが、エストニアのアルヴォ・ペルトです。1960 年代に十二音技法やセリー主義の作品を作曲していたペルトは、当時エストニアを併合していたソ連当局から圧力を受けたこともあり、1968 年から新作の作曲を止めてグレゴリオ聖歌や中世音楽の研究に没頭します。交響曲第3 番は、その研究の成果が具体的に現れた作品です。驚くべきことにペルトは、切れ目なく演奏される3 つの楽章のすべてを、全曲の最初に登場するわずか3 つの短いモティーフから生み出すという大胆な試みに挑んでいます(以下の分析はポール・ヒリアー著『Arvo Pärt 』に基づく)。すなわち、第1 楽章の冒頭でオーボエとクラリネットのユニゾンが出すモティーフ(X)、続いて堂々たる金管とベルが出すモティーフ(Z)、その直後に2 本のクラリネットが忙しなく動き回る3 連符のモティーフ(Y)がそれです。このうち、Z のモティーフは、調性システムが確立する以前の中世音楽で頻繁に用いられていたランディーニ終止(音符がシ―ラ―ドと動く終止形)と呼ばれる技法に基いています。交響曲第3 番の作曲後、ペルトは作曲の素材を極度に切り詰めていく手法を開拓していきますが、その音楽は同時代のアメリカ人作曲家(テリー・ライリー、スティーブ・ライヒ、フィリップ・グラスなど)の手法と一括りにして、現在ではミニマル・ミュージック(最小限の音楽)と呼ばれています。そして、日本でいち早くミニマル・ミュージックの作曲に取り組んだ作曲家のひとりが、本日の指揮者、久石譲に他なりません。昨年10月、高松宮殿下記念世界文化賞受賞のために来日を果たしたペルトは、久石と直接対面し、交響曲第3 番の演奏を久石に託しました。本日の演奏は、西洋と東洋をそれぞれ代表するミニマリスト2 人の歴史が交叉する、記念すべきコンサートとなるでしょう。

[楽器編成] ピッコロ、フルート2(アルトフルート持替)、オーボエ3、クラリネット3、バスクラリネット、ファゴット2、コントラファゴット、ホルン4、トランペット4、トロンボーン4、テューバ、ティンパニ、グロッケンシュピール、マリンバ、タムタム、チェレスタ、弦楽5部。

(サウンド&ヴィジュアル・ライター 前島秀国 )

(新日本フィルハーモニー交響楽団 公式サイト プログラムPDFファイルより)

 

 

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久石譲 現代の音楽の扉