Disc. 久石譲 『JOE HISAISHI CLASSICS 1 』

2010年7月28日 CD発売 WRCT-2001

 

「久石譲 クラシックス・シリーズ」第1弾

音楽家 久石譲が作曲家・演奏家としてではなく
指揮者として新しい視点とアプローチでクラシック音楽に挑んだ
選りすぐりのクラシック名曲集。

音楽はこれほどまでに論理的だったのか!
微細(ミニマル)な音までこだわった究極のクラシック

 

 

「誰がために音楽はあるか」

”久石譲クラシックス・シリーズ”のアルバムを発売することになった。

クラシック音楽は、一応音楽大学でモーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、マーラー、バルトークなどの古典を勉強したが……「?」 それよりシュトックハウゼン、ジョン・ケージ、クセナキスといった現代音楽の方にのめり込んだ。

不協和音の複雑な音響とそれぞれの作曲家の思想に当時の今を感じたからだ。当然スコア(総譜)は何連音符も重なり真っ黒でありそこには調性もリズムもなかった。人間が理解する限界を超えた作品も多かった。「誰がこれを聞くのか?」「誰が理解できるのか?」という素朴な疑問も浮かんだその頃は「これが芸術だ」という時代の先端のカッコ良さを感じた。

その後、ミニマル・ミュージックに出会った。ミニマル・ミュージックは1960年代にアメリカで始まった新しい手法(当時は)で最小音型を繰り返しながら微細な変化を聴く音楽である。ここには調性もリズムもあった。僕がそこで取り組んだのは集団即興演奏の今で言うシステム構築に当たる方法の追求である。

次第に譜面は図形化していき丸い円の中にいくつかの音符が存在するという、もう生粋の前衛スタイルになっていた。また繰り返しの音楽は、やはり独特の演奏スタイルが必要なのでプラーナ(古伝書)アンサンブルという演奏団体も作った。誰もいない客席に向かって僕たちは新作を発表し続けた。

また何人かの若手作曲家と共同で新作の発表会も続けた。前衛的な音楽ではその音楽を成立させている思想性が重要になり、そこで流れる音自体はさほど問題ではない。あくまで結果なのである。いきおい仲間内では議論が多くなり、相手を論破することに夢中になる。徹夜の議論を繰り返していくうちに疑問がわいた。「これは音楽をすることなのか?」「これがオレのやりたい音楽なのか?」そして「誰に聞かせたいのか?」

その気持ちが年々強くなっていったとき、フィル・マンザネラやブライアン・イーノのロキシー・ミュージックを聴いた。ロックグループなのだがベーシックなアプローチはミニマル的要素が大きかった。そこには現代音楽が失った自由があった。そしてマイク・オールドフィールドの「チューブラー・ベルズ」(これは映画『エクソシスト』にも使われた)、タンジェリン・ドリーム、テクノ・ポップのクラフトワークなど、ミニマル的アプローチのロックグループが次々に現れてきたのをみて僕は動揺した。そちらの世界がうらやましくなったのだ。そしてオブスキュア・レーベルの一連のロック、ミニマルの融合したアルバムを聴くにおよんで前衛作曲家、ひいてはクラシック音楽の世界と決別し、エンターテインメントの音楽世界に身を投じた。その方が良いミニマル的なアプローチができると思ったからだ。

エンターテインメント音楽は非常に厳しい世界だ。芸術家は自分がある日「芸術家だ」と標榜すれば、あるいはそう思えは芸術家なのである。そしていつの日か認められる(シューベルトなど)ことを信じて生きていくことはできるが、エンターテインメント音楽は自分が決めるのではなく聴衆が決めるのである。つまり支持されないと仕事は来ない。しかも書法のテクニックなど無関係に時代の世相、流行に左右される。ある意味でジャンクフードをうまそうに食べるような逞しさも必要だ。

毎年200名近い人が音楽大学の作曲科を卒業し、その人たちがずっと何十年もたまっているのだから、それはもう数万人規模の作曲科卒とバンド出身の作曲家がいて、そしてそのほとんどの人が映画やテレビの音楽を担当したがっているのである。だから仕事をゲットすることはサッカーのワールドカップ決勝戦のチケットを手に入れることの数万倍、数十万倍難しいのである(この原稿当時ワールドカップが南アフリカで開催されていた)。

などと鼻息が荒くなったが、要は色々苦労してやっと映画音楽や様々な音楽を書く機会に出会えたということだ。もちろんミニマル作家としてのプライドもあり、色々なところにミニマル的要素を織り込んだことは間違いない。

段々規模の大きな作品を担当するようになると、オーケストラを使う機会が多くなった。そこで参考として、いわゆるクラシック作品の楽譜を眺めていると、実に多くのヒントを受けるようになった。

学生時代に授業で受けたスコアリーディングのベートーヴェンは退屈きわまりなかったし、チャイコフスキーに至ってはただしつこく繰り返しながらクライマックスに向かう山師的コザックおじさん、ブラームスはただただ音の分厚い暗い人くらいに思っていたのが(ちょっと誇張しているが)、今では細部の和音の扱い、弦楽器の音域配置、低弦でのリズム処理など恐ろしく知的で、これに行き着くために血みどろの葛藤があったことが読み取れるようになった。僕は感動し、クラシック音楽の前にひざまずいた。まさしく僕にとってクラシックは玉手箱(パンドラの箱)であった。

それは2004年に始めた新日本フィル・ワールド・ドリーム・オーケストラといったプロジェクトでクラシックの指揮をするようになったことにも起因している。作曲家として読む譜面と指揮者で読む譜面はまるで違う。前者は音の組み立てやリズムの構造、全体の構造などモチーフに則した楽曲の成り立ちに主眼をおくし、後者はそこまでの過程は同じでも演奏するための実践的な各パートへの指示などを中心に組み立てていくのである。

そうすると今まで見えていなかった景色が見えて来た。何故金管楽器をここで休ませたか? ここのフェルマータの意味は? 考えていくとすべてが必然であり、すべての指示には意味があった。先人たちの深い知恵に脱帽した。もっと知りたいしこの感動を指揮者として多くの聴衆に伝えたい。

そして「久石譲クラシックス」とうコンサートシリーズを開始した。同時にその思いは諦めたはずの現代音楽の作曲家としての自分を「Minima_Rhythm(ロンドン交響楽団と共演)」というアルバムを作ることで復活させ、今年からは国立音楽大学の作曲科の授業で学生たちとも接することになった。クラシックの世界に戻ったというか、放蕩息子、火宅の人がやっとたどり着くべき我が家に帰ったのに近い感覚だ。

しかしそれまでの回り道も悪くない、「色々な音楽を体験した」のは僕であり、それだからこそわかることもある。自分の生きる原点は音楽にあり、目指す彼方も音楽なのである。だから「誰がために音楽はあるか」の問いに僕は「自分が生きるため」と答えるし、それは多くの人たちの「自分のため」の音楽とリンクしているはずだ。その人たちに向かって僕は発信し続けていく。

そんなことを考えている中で「久石譲クラシックス」のライヴ盤がCD化される。恥ずかしさと同時に今でしか伝えられないこともあると思う。それはシューベルトやドヴォルザーク、ブラームスやモーツァルトなどといった曲は、小・中学校の音楽の授業でも扱うくらい一般的で(もちろん実際クラシックのコンサートでも頻繁に取り上げられているが)おなじみの曲ではあるのだが、実際指揮者として譜面を勉強してみると、何と深く立派な作品であることかと驚く。長い間人々に支持された曲はそれだけで充分名曲なのである。

だが、例えばドヴォルザークの「新世界より」を何十回も振っていたら消えてしまうであろう新鮮さといった類を、そのまま新鮮と感じているうちに、皆さんと共有したい。もちろん素晴らしいオーケストラの団員のサポートがあってこそ成立しているのだが。

またこの機会に今までなじみが無かったクラシック音楽に自分も接してみたいと思う人が一人でも現れたら、このCDの存在意義は達成されると僕は考える。

もちろん歴史的な名曲たちを現代の作曲家の観点からもう一度再構築したいという野望は当然ある。作曲家が頭の中で辿ったはずの曲を作る過程を追体験し、彼らが構築したかったこと、うまくいかなかったこと、こだわったこと、そして何よりも純粋に音の機能と運動性を重視して表現したい、それが西洋の伝統を持たない我々の表現であるし、今という時代とクラシックの唯一の接点であると考える。それは「誰がために音楽はあるか」の答えでもあると僕は考えている。

2010年6月 久石譲

(CDライナーノーツより)

 

 

久石さんの「新世界より」と「未完成」の指揮に寄せて

「個人的な希望だけど、指揮者として『運命』『新世界より』『未完成』を振ってみたい」。3年前の夏、久石さんの口からこんな発言が飛び出した時、ぼくは本当に驚いた。ぼくたちが普段親しでいる”久石譲”と、誰もが一度は耳にしたことがある”学校名曲”が、にわかに結びつかなかったからだ。しかし、本盤に収録された「新世界より」と「未完成」のライヴ録音を聴いて、ぼくは3年前の驚き以上の衝撃を受けた。「楽譜に書かれている音符は、聴衆の前ですべてを明らかにする」という分析的なアプローチを、久石さんが頑なに守り通し、また、それを見事に実践いていたからである。

本盤を手に取られたリスナーは、「楽譜なんか怖くて読んだことがない」と尻込みせずに、ぜひともオーケストラの総譜(ミニチュアスコアが簡単に入手できる)を眺めてほしい。久石さんの指揮を聴きながら楽譜を見ると、音符を目で追うことがとても易しく、しかも楽しく感じられるはずだ。それだけでなく、久石さんの演奏は「新世界より」と「未完成」を何百回となく聴きこんできたリスナーにも、多くの新鮮な発見と驚きをもたらしてくれる。

例えば、「遠き山に陽は落ちて」のイングリッシュホルンの第1主題でおなじみの「新世界より」~第2楽章も、久石さんのタクトにかかると全く違った表情を見せ始める。第1主題を第1ヴァイオリンが受け継ぐ時、第2ヴァイオリンがひそやかに囁くシンコペーションの意味深さ(30小節目から)。あるいは嬰ハ短調の中間部、フルートとオーボエがひなびた歌を奏でている裏で、反復パターンを繰り返す第1ヴァイオリンの木の葉のざわめき(54小節目から)。久石さんは、まるで「細部に神は宿りぬ」と言わんばかりに、どんな小さな音符や音形も見逃さず、すべてを白日の下に晒していく。これら膨大な細部の積み重ねなくして、「遠き山に陽は落ちて」が人々の記憶に残ることはあり得なかった。その厳然たる事実を、久石さんは慎重にメスを執る解剖学者のように明らかにしていくのである。

巨匠風の重々しいテンポで演奏される「未完成」も実にショッキングな演奏だ。その第1楽章、木管が「♯ファーシー♯ラシ♯ド」と吹く第1主題や、チェロが「ソーレーソ♯ファソラー」と弾く第2主題が美しいことは、誰でも知っている。だから久石さんは、それらを必要以上にカンタービレを強調して歌わせることはしない。その代わり、シューベルトの歌謡的な旋律の美しさの影に隠れた”地味”な側面を、久石さんは謙虚に、しかし確信をもって強調していく。第1主題の裏でいつ果てるともなく繰り返しを続ける、ヴァイオリンの16分音符と低弦のリズムのうねり(9小節目から)。あるいは、展開部に入ると弦が刻み続ける、全身を揺さぶるようなトレモロの震え(338小節目から)。これらリズムやトレモロを、久石さんは一音たりとも疎かにせず、まるで階段を一段一段踏みしめていくように、はっきりと、魂をこめて演奏していく。その結果、もはや「未完成」が”学校名曲”のままでいることは、あり得ない。この曲が驚くほど微小(ミニマル)なモザイクの上に築き上げられているという核心的な真実を、ぼくたちは久石さんの指揮を通じて知ってしまったからである。

前島秀国(サウンド&ヴィジュアル・ライター)

(CDライナーノーツより)

 

 

【楽曲解説】

ドヴォルザーク/交響曲 第9番 ホ短調 作品95 「新世界より」

19世紀後半のチェコの偉大な作曲家ドヴォルザークは何といってもクラシックの3大メロディーメーカーのひとりである。勝手に僕が決めているだけなのだが、ちなみに後の二人はビゼーとチャイコフスキーだといっているのだが、それではシューベルトはどうなのかと問われたらもちろん、と答えてしまう程度のタニマチ的ベスト3なのである。

とにかく今で言うところの、最も優れたキャッチーな作曲家である。ブラームスは「彼がゴミ箱に捨てたスケッチでシンフォニーが1曲書ける」というほどドヴォルザークのメロディを評価していた。

が、それだけではなくスコアを追っていくとよくわかるのだが、とても緻密にオーケストラを書いている。色々なモチーフ(音型)を散りばめ、ポリフォニックに構築しながら全体の構成に気を配っている。ところが、幸か不幸か、あまりにもメロディがキャッチーなため、「タータータータータターン(第4楽章の10小節目)」と派手にホルンとトランペットが第1テーマを鳴り響かすと、聴衆の耳はそちらに集中するので、メロディの後ろの緻密さにはなかなか気づかない。

「新世界より」は、ドヴォルザークがニューヨークにある音楽院の学長として呼ばれ、1983年、アメリカで最初に書いたシンフォニーである。初演はカーネギーホールでニューヨーク・フィルハーモニック協会管弦楽団によっておこなわれた。それは一大センセーショナルを巻き起こすほどの大変な成功を収めた。

この楽曲の本質はタイトルから迫ることができるだろう。楽譜を出版する際にドヴォルザーク自身の合意のもとでつけられたのが「新世界(The New World)」ではなく、「From the New World(新世界より)」だった。

ドヴォルザークが異国の地であるニューヨークに滞在したときに一番考えたことは、自分の故郷であるチェコのことではないだろうか。異国の地に長く滞在すると感じる望郷の念を、おそらく彼も人一倍に感じたに違いない。そのうえアメリカの先住民(インディアン)や多種多様なフォークソング(民謡)黒人霊歌に接する機会があり、作曲的なインスピレーションも受けた。だからこの曲に関して言えば、新天地・アメリカと、故郷・チェコのモチーフが、微妙に交じり合い独特な情緒的世界を築いている。

そして、忘れてはならないドヴォルザークのもう一つの大きな特徴は、独特なリズム感にある。我々日本人には到底真似できないほどの複雑なリズム、これは彼のおそらく血の中にあるスラブ的リズムだろう。特に第3楽章では、顕著に現れる。3拍子の速い楽曲なのだが、そのリズムも聴きどころの一つである。

 

シューベルト/交響曲 第7番 ロ短調 D.759 「未完成」

シューベルトは、31歳で亡くなった。が、その若さで、実に膨大な数の曲を書いている。1822年に作曲されたこの「未完成」は、彼が没後45年目に初演されたのだから、生前は一度もこの曲を聴いていないことになる。

だからなのだろうか、実はこのスコアをみると(こんな偉大な先達にこんな言い方は失礼千万なのだが)、これはあり得ないだろうと思う譜面の書き方をしている箇所がある。例えば、クラシックをかじった人ならわかると思うのだが、ソ・シ・レ・ファという和音があると、ソとファの長二度でぶつかる音をそのまま、フルートからオーボエ、クラリネット、ファゴットまで、オクターブユニゾンで書いてある。

実演していたならば、きっと書き直したに違いないと思ったが、実際に僕がリハーサルで指揮をして気づいたことは、そのナタで割ったようなスパッとした書き方が、この「未完成」という曲の独特の魅力になっていることだった。もちろん響きを作るうえでこの「未完成」はとても難しい曲である。オーケストレーションに問題は確かにある。が、美しいメロディの裏側にある激しい感情の起伏をどうとらえるか表現方法は全く異なってしまう。また2つの楽章が同じ3拍子で、楽想も長調と短調の差はあるが極端なコントラストを描いてはいない。実際シューベルトの音楽はこの長調と短調を揺れるがごとく行き来するので、すべての感情は哀しみに包まれるのだが、それゆえ全体の構成が掴みづらいのである。

そのうえ成立しなかった第3楽章のスケッチが残っているのだが、これも確か3拍子であったと記憶している。思いに任せて書き綴っていったが長い交響曲の性格上、これでは構成的ににっちもさっちもいかなくなって先が続かなかった、つまり「未完成」に終わったというのが僕の推理である。が、しかしそれがこの曲を中途半端にしたわけではない。むしろ同じ方向で書くべきことはすべて書き尽くしたから筆を休めたわけで、沢山の曲を平行して作っていったシューベルトは、しかも締め切りは無く思いつくまま作曲していたのだから、またいつかこの曲の神が降りて来てもおかしくないわけで、続きを本当に書くつもりだったのかもしれない。何よりも音楽史上最も魅力的な言葉「未完成」を手に入れたのだから作曲家冥利に尽きる。

シューベルトの最も天才的な部分は、ハーモニー感覚の凄さにある。普通は、ある調からある調に移るには正当な手続きを踏んで転調するように書くのだが、シューベルトはたった一音で次の調に自然に移ってしまう。例えば、第1楽章の38小節目のホルンとファゴットが最後の2音だけで転調してしまうのだ。或いは、第2楽章の後半で、第1ヴァイオリンだけになり、その最後のたった一音で完全に転調してしまう(280小節、295小節など)。これほどの天才は他に見たことがない。

シューベルトは本当に書きたいから書いた。注文を受けて書いたのでも、コンサートがあるから書いたわけでもない。村上春樹氏曰く、ひたすら自分が書きたいから書いた。クラシックの世界での評価は形式がイマイチである、歌曲のメロディのようだといった風評があるが、僕の考えでは、そんな次元の人ではない。本当に書きたいから書いた。湧いて出るから書いた。

最後に音楽評論家吉田秀和氏の言葉を引用しておく。「シューベルトは、社会の中に自分のいる場所がどこにも無いことを発見した、最初の近代音楽家であった。彼のように、他の人間を誰ひとり傷つけることなく、創造一途に生きる人間は、社会からはじきだされるほかなかったのである。誰から注文されたわけもないのに、音楽を書き、いつ演奏されるというあてもないのに音楽を書くということは、モーツァルトにも、ベートーヴェンにも、非常に稀な場合のほかには考えもおよばないことだった。~中略~彼は虚空に向かって、歌を歌った」 虚空に向かって、歌を歌ったシューベルトを僕は表現できたのだろうか……。

久石譲

(【楽曲解説】 ~CDライナーノーツより)

 

 

 

「僕の指揮はメロディーのパートをほとんど振ってなくて、ビオラなど内声を受け持つ人たちに「もっと出して!」って指示している。CDに収録したドボルザークの「新世界より」はその典型だよね。メロディーが有名すぎて、ともすれば他の音の印象が薄くなってしまうけど、それぞれのハーモニーが持っている素晴らしい響きを伝えたかった。作曲する時も同様で、内声をどう書くかで表情が決まる。メロディーの果たす役割は大切だけど、楽曲にとっては全体の一部でしかないんだ。」

「指揮をするにあたり、東洋人がクラシック音楽をやるのはどういうことなのかということを考え続けた。西洋音楽として本格的なものを味わいたければ、ウィーンフィルやベルリンフィルを聴けばいい。しかし、現代音楽の作曲家としてその楽曲をどうとらえるかという観点では、今を生きる自分がやる意味がある。」

Info. 2010/10/13 ベストアルバム「メロディフォニー」を発売 久石譲さんに聞く(読売新聞より) 抜粋)

 

 

 

久石譲 『JOE HISAISHI CLASSICS 1 』

Dvořák Symphony No.9 in E minor Op.95 《From the New World》
ドヴォルザーク / 交響曲 第9番 ホ短調 作品95 「新世界より」
1. I. Adagio-Allegro molto
2. II. Largo
3. III. Scherzo. Molto vivace
4. IV. Allegro con fuoco
Schubert Symphony No.7 in B minor D.759 《Unfinished》
シューベルト / 交響曲第7番 ロ短調 D.759 「未完成」
5. I. Allegro moderato
6. II. Andante con moto

指揮:久石譲
演奏:東京フィルハーモニー交響楽団
録音:2009年3月24日 東京・サントリーホール

 

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