Info. 2023/08/04 米津玄師「地球儀」インタビュー (Web 音楽ナタリーより)

Posted on 2023/08/04

米津玄師「地球儀」インタビュー

「君たちはどう生きるか」主題歌制作の4年を振り返って

米津玄師の新曲「地球儀」についてのインタビューが実現した。

「地球儀」は宮﨑駿監督の新作映画「君たちはどう生きるか」の主題歌として書き下ろされた1曲。米津はかねてからスタジオジブリ作品への思い入れや宮﨑監督への敬愛の念を公言してきたが、長年の思いが実っての制作となった。

7月26日にリリースされたシングルCDには、主題歌制作を追ったドキュメンタリー写真集も同梱されている。4年間にわたる制作の背景とは、どんなものだったのか。米津が宮﨑駿監督作品から受けた影響や、曲に込めた思いなどについて、たっぷりと語ってもらった。

取材・文 / 柴那典撮影 / 木村和平

 

宮﨑駿監督作品との出会い、強烈な原体験

──米津さんにとってのジブリ映画、宮﨑駿監督作品の原体験はどういうものでしたか?

最初に観たのは「もののけ姫」です。1997年、小学1年生の頃でした。その頃自分が過ごしていた地域は映画館がほとんどなく、映画を観に行く習慣もなかったので、映画館で映画を観た原体験と言っても過言ではなくて。「もののけ姫」を初めて観たときのことはめちゃくちゃ記憶に残っていますね。

──どのような衝撃がありましたか?

ものすごくバイオレンスな映画で、腕や首がふっ飛んだり、子供が観たらトラウマになってもおかしくないようなことが繰り広げられていて。「なんてものを観たんだ」という感覚が一番強くありました。そのせいなのかわからないですが、付随する映画館での記憶も残っているんです。父親の車に乗って姉と3人で行ったんですけれど、映画館に入る前にマクドナルドに寄ってハンバーガーを買って、その紙袋を座席の下に置いて観ていたのですが。暗い中スクリーンの光を浴びてその茶色い紙袋がぼんやり見えた光景もすごく覚えていて。それくらい強烈に残っている体験でした。

──「もののけ姫」から始まって、リアルタイムでたくさんの作品を観てきたと思うのですが、中でも特に思い入れの強いものは?

小学校5年生の頃に観に行った「千と千尋の神隠し」が一番思い入れが深いですね。なぜかはあまり言語化できないところがあるんですけど、主人公の千尋が当時の自分と同世代であるということもあっただろうし、日常では到底起こり得ないことが起こってしまうようなファンタジックな空想世界に対する憧れが子供の頃にすごくあって。そこらへんにいるような女の子が、ひょんなきっかけで、どこかわからないところに迷い込んでしまう。それが子供時代の自分にとってリアリティがあって、もしかしたら自分も日常生活の中で道を曲がってどこかの隘路(あいろ)に入っていけば、そういう世界が広がっているんじゃないかという、そういう可能性を提示してくれるような感覚があった。それは自分にとって豊かな体験だったと思います。

──「千と千尋の神隠し」で好きなシーンや、特に記憶に残っている場面はありますか?

ベタですけど、うっすら海に沈んでしまっている線路を子供たちだけで歩いていくというシーンがすごく好きですね。近年の自分のライブではオープニングとエンディングを同じ映像にするということをよくやっていて。それは「千と千尋の神隠し」の影響ですね。最初に見たものと最後に見たものが、その間に見たものを経ることによって感じ方が全然変わってくるという。それは宮﨑さんの言葉が載った書籍を読んで知ったことで。映画というものがトンネルだとするならば、入っていって、出てくるときにはちょっと違う視点になっていてほしい。映画館に来る前と来たあとで、世の中に対する捉え方が、少しでいいから何か変わってほしいという。そういうものを表現するために、最初と最後を同じ絵にするというのが、すごく効果的だということを思っていて。なので、影響を受けたという意味でも「千と千尋の神隠し」が一番大きいかもしれないです。

 

偉大な師匠として、父親のような存在として

──子供の頃の原体験だけではなく、アーティストとして音楽を作るようになってからも、スタジオジブリ作品や宮﨑駿監督の考え方やものの見方を参照することは多かった?

そうですね。自分の人生で一番参照したんじゃないかなと思います。ただ、なんでそうなったのかは自分でもまったく覚えていないんですよ。もちろん子供の頃から宮﨑監督の映画を観ながら生きてきましたけど、そのうえで、何かものを作る立場として参照するようになった大きなきっかけが何だったか、どのタイミングで始まったのかもまったく覚えてない。それくらい自明なものとして、ある種の私淑が始まった感じがあります。

──そうなんですね。

「君たちはどう生きるか」の主題歌を作ることになって、自分にとってジブリ映画、ひいては宮﨑駿さんとはどういう存在なんだろうかと改めて考えてみると、自分には師匠と言えるような存在がいないんですよね。例えば音楽に関しても、絵に関しても、明確に誰かに何かを教えられたという体験がほとんどない。学業もそぞろに生きてきたし、先輩付き合い後輩付き合いとか、上司と部下とか、そういう関係性もほとんど体験していない。年長者に何かを教わって、それが自分の人格に大きく影響を及ぼしているという、そういう体験がすごく希薄だなって、自分の人生を思い返してみて思ったんです。だから、師匠のような存在として宮﨑駿さんを求めていたのかもしれない。偉大な師匠として、もっと言うと、父親のような存在として。彼の映画は祝福にあふれているし、一方で書籍を読むと、すごく辛辣な言葉があふれている。だから、ちゃんと自分のことを否定してくれて、それと同時に「お前は生きていていいんだよ」と教えてもらう。そういう、ある種の父性をどこかで彼に求めていたんじゃないかというのは、最近になって思うようになりました。

──以前のインタビューでは「風の谷のナウシカ」をイメージして「飛燕」という曲を書いたとおっしゃっていました。特にマンガ版の「風の谷のナウシカ」に大きな影響を受けた、それが自分にとっての指針になっているということでしたが、それは改めてどういうものだったんでしょうか。

「千と千尋の神隠し」が幼少期の体験だとすれば、「風の谷のナウシカ」のマンガ版は青年期、18歳くらいの、田舎から出てきて大阪に住んでいろんなものを吸収していく時期に出会った作品で。一番印象深いのは最後のシーンですね。墓の主とナウシカが対面するところで「お前は危険な闇だ」という墓の主の言葉に対してナウシカが「ちがう。いのちは闇の中のまたたく光だ!!」と言う。その「闇の中のまたたく光」というのが、当時の自分にとってものすごい衝撃だったんです。コンパクトに短く、それでいて自分の生き方とも合致するような普遍的な言葉で何かを残せるというのが、すごく大きな体験だったんですよね。本当に、あのひと言があるだけで、ここから先、自分は生きていけるんだろうなと思いました。当時は暗闇の中をもがくような人生を送っていて、光輝けない自分がこの世で生きててもしょうがないんじゃないかという絶望や失望があったんですけれど、「ああ、それでいいんだな」と自分の人生を丸ごと肯定してくれたような衝撃がありました。なので「風の谷のナウシカ」は自分にとって大事なものになりましたね。

──以前のインタビューでは2018年に宮﨑監督と鈴木敏夫プロデューサーに初めてお会いしたときのことを話していました。実際に対面したことで、印象が変わったことはありましたか?(参照:米津玄師「Flamingo / TEENAGE RIOT」インタビュー)

ドキュメンタリーで見ていた宮﨑さんは、苛烈な言葉をスタッフに吐いたりする場面が映っていたり、頑固親父的なイメージがありました。でも、よくよく考えてみれば当たり前なんですけど、初めて会った若造に対してそんな態度なわけもなく、最初に会ったときはニコニコしていて。朗らかなおじいちゃんという印象でした。どこの誰ともわからないような若造に対して「何歳なの?」「27です」「27年なんて、ついこないだだね」と言ってくれて。何気ない言葉だったと思うのですが、ちゃんと言葉を交わしてくれたことが、自分にとってはすごくエポックメイキングな体験でした。

──その頃には宮﨑監督が新作の長編映画を作っているという情報はすでに世に出ていましたね。

「毛虫のボロ」という宮﨑さんが作った短編映画ができあがった頃で、それについてジブリが発行している「熱風」という小冊子のインタビューを受けるという仕事があってジブリに行ったんですね。そのときに「せっかくだから」とスタジオを見させていただいたんです。そのときにはすでに「君たちはどう生きるか」の設定資料や、眞人の顔も壁に貼られていて。「これが次の新作か、どういうふうになるんだろうな」みたいなことを思っていたのを覚えています。

 

光栄であると同時に、やっぱりものすごく恐ろしかった

──主題歌の依頼があったのは宮﨑さんがFoorinの「パプリカ」をラジオで耳にしたのがきっかけだったと聞きました。

「パプリカ」は、子供たちが歌って踊る曲を作るという、自分にとって初めての体験をした作品で。かつ、何らかの応援歌であってほしいという要望もあったんです。本来応援される立場である子供が応援歌を歌うってどういうことなのだろうかと自分の中で悩んだ時期に、宮﨑さんの映画が大きな参照源になったんです。子供にずっと向き合って映画を作り続けてきた人なので、彼がどういうふうに映画を作ってきたかを今一度調べ直しました。そのうえで自分が出したある種の結論が、子供をナメないことだった。「こうしたら歌いにくいかな」とか「この言葉は子供にわかるかな」とか、そうやって子供の精神性や身体性よりも優しいものにするという選択はおそらく子供をナメることにつながるだろう、と。「子供はこういうものだ」という枷を自分で自ら作り上げるんじゃなく、とにかく「こういうものができました、あなたたちはどう思いますか」と、同じ目線に立ってものを作り上げていくことが大事だと考えながら「パプリカ」という曲を作ったんですね。で、その1年後くらいに「ジブリ映画の主題歌どうですか」という話が急にやってきて。驚愕としか言いようがない感じでした。「ええ!?」みたいな。

──話を聞いて、まず驚きがあった。

はい。まず「なんで?」じゃないですか。いろいろ話を聞くと、ラジオで流れていた「パプリカ」を宮﨑さんが耳にしていたそうなんです。ある日、ジブリで運営してる保育園で子供たちがこの曲を歌ったり踊ったりしているのに合わせて、宮﨑さんが一緒に口ずさんでいた、と。それを見た鈴木さんが、これはもうある種の運命だろうということで「この曲を作ってる人に主題歌を作ってもらうのはどうですか?」と聞いたら「それはいいですね」となったということでした。だから、宮﨑さんの映画が大きな礎となって作った「パプリカ」という曲を、宮﨑さんが聴いて、それがきっかけで「君たちはどう生きるか」の主題歌に白羽の矢が立つというのは、なんだかすごく感じ入るものがありました。

──オファーの経緯を聞いて曲を作るということになった、そのときの感覚ってどうでしたか?

あんまり覚えていないんですよね。話が来たときのファーストインプレッションも、実はほとんど覚えていない。自分の記憶に衝撃的に残っていてもおかしくないじゃないですか。でも、そのときの情景もほとんど覚えていない。なんでなのか考えてみると、光栄であると同時に、やっぱりものすごく恐ろしかったと思うんですよね。自分の人生の中で一番の光栄なことであると同時に、自分の音楽家人生が終わるんじゃないかという、うっすらとした不安みたいなものがそこから4年間ずっとあった。だから、あんまり覚えてないというのが正直なところです。

 

余すところなく受け取って帰ろう

──宮﨑監督や鈴木プロデューサーから作品の説明を受けたり、打ち合わせのようなものもありましたか?

まず最初に絵コンテをいただいて、それを読ませてもらって。その後に対面して打ち合わせという形でお話しさせてもらいました。宮﨑さんからは、基本的な理念の話というか、いろいろ映画を作り続けてきたけれども、今回は蓋を開こうと。今までは自分の内にあった暗くドロドロした部分にある意味蓋をしながらずっと生きてきたけれども、今回はそういうものも全部取っ払って、自分が今まで行かなかったところ、後ろ暗い部分も含めてすべて映画にしようと思っていますという話をしてもらいました。

──そうだったんですね。

また、自分が子供の頃に「果たしてこの世に生きてていいんだろうか」という迷いや暗いものを抱えて生きてきたことをすごく覚えている。だから映画を通して、その頃の自分や、今の時代を生きているその頃の自分と同じ世代の子供たちに対して、「この世に生きてていいんだよ」「この世は生きるに値する」ということを伝えたいという話もされていて。この言葉はいろんな書籍とかインタビューでも宮﨑さんがずっと話されてきたことで、自分も聞いたことがあったんですけど、実際それが彼の口から自分の耳に飛び込んできて。宮﨑さんがそれを話しながら感極まってちょっと涙を流されていたんです。それはすごく強く覚えていますね。

──宮﨑監督の子供時代の話もあったんですね。

そうですね。全然関係ない話もいっぱいしました。宮﨑さんが船の絵を描くために、近所の川に木で作った船を浮かべたら草木に引っかかってしまって。それが、いつ行っても同じ場所に留まっているんです。これが呪いのように見えるんですよねと言っていて。最近あったことをただただ話しただけだとは思うんですけど、そういう言葉もすごく印象に残っています。

──制作にまつわる打ち合わせだけでなく、子供の頃の記憶の話をしたり、こんなものを見てこう感じたというようなとりとめのない話をしたりしている時間が、すごく大切なものだった感じがある。

そうですね。こっち側からすると、本当に幼少期から彼の映画に救われて生きてきて。青年期になって、勝手に私淑が始まって。個人的な話ですけど、自分にとって、たぶん一番の師匠なんですよね。その彼と一緒に仕事ができる。面と向かって机を挟んで対面に座っている、彼の一挙手一投足、発言を余すところなく受け取って帰ろう、と。最初はものすごく肩肘を張って、張り詰めていました。

 

古びることもなく新しくもない、長く聴けるようなものを

──実際に曲を作り始めたのはいつ頃のことでしたか。

あまり覚えてないんですけれど、たぶん2年前くらいから作り始めたと思います。ずっと絵コンテを見ながらどういうものがいいのかを考え続けていたんですけど、公開がいつになるかもわからない状態で。その中で自分が手を尽くせる限りいろんな試行錯誤をしたくて、考えたり手を動かしたりしながらも、絵コンテをもらってから2年くらいの間は曲としてまとめ上げることはなくて。ずっと絵コンテと向き合う時間が流れ続けていました。

──曲を作るにあたってはいろんな選択肢があると思うんですけど、この映画の最後に流れるにふさわしいものとなると、必然的にこういう曲調が望ましいであろうというイメージもあったのではないかと思います。米津さんが曲を作るにあたっての出発点になったのはどういうところでしたか?

最初から、土台自体は定めていました。「スコットランド民謡を作ろう」というところから始まって。なんでそうなったのかと言われると非常に難しいところがあるんですけど、自分が宮﨑さんの映画からずっと感じていたのが、スコットランド民謡的な何かだったんですよね。それでいて、素朴なものを作ろうと思いました。いろんな楽器を積み上げてゴージャスに響かせるというよりは、本当に素朴な、ピアノとか最低限の楽器を使って、あとは自分の声で歌う。古びることもなく新しくもない、もっと言うと最初から古い、そういうフォーマットで長く聴けるようなものを作るべきであるという。それは最初のうちから定めていました。

──イントロのバグパイプの音色も印象的ですが、これは?

曲を作っている最中にエリザベス女王が亡くなって、その国葬の映像を観たんです。その中の一節に、毎朝彼女を起こしていた専属のバグパイプ奏者の独奏があった。対称的な画角の中、バグパイプ奏者が演奏をしながらゆっくり奥のほうに進んでいって消えていく。それを観たときに、すごく感じ入るものがあって。そのバグパイプの映像を作っていたデモ音源の上に試しに乗せてみたら、スケールが一致したんですよね。いろいろ調べると、バグパイプという楽器はスケールが何パターンかしかなくて、たまたま作っていた曲のスケールがそのうちの1つに合致した。これはバグパイプを入れるしかないだろうとなって。本当はピアノ1本の弾き語りみたいな形で行こうと思ってたんですけど、その体験があってから、これは何かがあると思って、入れざるを得ないという感じがありました。

──耳を凝らすと聞こえるくらいの音量で椅子が軋むような音も鳴っていますが、このサウンドに関してはどうでしょうか。

今回の曲は1つひとつ丁寧に作っていきたいと思ったので、デモを作るためにプリプロとして、レコーディングスタジオに行って、そこで録音しながらデモを作り上げたものを提示するという段階を経たんです。ただ、ちゃんとレコーディングすると言っても、いろんな楽器をトライしていたので、マイクの録音環境もそんなに決め込まずに録ったんですよね。そしたらピアノのペダルがギシギシいう音までデモに入ったんです。それを意図したわけではなかったんですけど、実際録ってみると、その音がなんだかとってもいいなと思って。それがない、ちゃんとした録音状態でノイズを一切排除したピアノも録ったんですけど、それは物足りなくてしょうがなかった。レコーディングも、いろんな環境で試したんですよ。スタジオも変えて、何台ものピアノを試したし、レコーディングの場所も変えた。ちゃんとしたゴージャスなピアノを試したりもしたんですけれど、やっぱりペダルの音がギシギシいっている最初のピアノの音に勝るものがないという思いがどうしても拭えなくて。

──そのような経緯があったんですね。

最終的に「1回試してみるか」ということで、今回の共同編曲で入ってくれた坂東(祐大)くんの実家のピアノで録ったんです。ごく一般的な家にある、普通のピアノ。特に防音設備が整っているわけでもない、彼が幼少期から暮らしていた部屋にマイクを立てて、彼の母親の代から弾いていた古いピアノで録音しました。定期的にメンテナンスをしていたわけじゃないんですけれど、その感じがやっぱり一番いいなって。

──完璧な防音の環境やリッチなピアノよりも、なんでもない、けれども確実にその人と時間を過ごしてきたピアノの音が一番しっくりきた。

一番しっくりきましたね。そのレコーディングをしているときも同じ部屋に坂東くんのお母さんがずっといて。そもそもそのピアノはお母さんが子供の頃に買ってもらったものなんだそうです。お邪魔したのが正月くらいだったので「帰省した感じがあるね」と言いながら、和気あいあいとやっていて。すごく楽しい体験でした。

 

「僕はこうやって生きてきました」
「僕はこういうふうに生きていきます」

──歌詞についてはどうでしょうか? 書くにあたっての最初の手がかりになったのはどういうものでしたか。

歌詞が一番悩みましたね。どこから始めるべきかっていう。これは「君たちはどう生きるか」という映画を観た人間であればみんなわかってくれるとは思うんですけど、およそ物語に対して当てはめるような作り方では成立しない。今でも覚えているのは、ある程度できあがったラッシュ映像を観せてもらって。そのときに思ったのが象牙の塔ですね。

──というと?

ある程度、観る人のことを考えていないというか、彼が最初のほうの打ち合わせで言った「蓋を開けて、後ろ暗いドロドロしたものを出す」っていう、そこにすべての焦点が当たっている映画だと思いました。だから、この物語自体を要約して曲を作ることは、もう土台不可能だなって。それは最初のうちからわかりきっていたことなんで、じゃあどういうふうに作ればいいのかを考えると、幼少期から彼の映画を観て育って、その映画自体や、それを作る後ろ姿を享受しながら生きてきた自分と宮﨑駿という、この2軸の関係性の曲を作ることでしか成立しないだろう、と。なので「君たちはどう生きるか」というタイトルでもありますけれども、自分が曲を作るスタンスとしては「僕はこうやって生きてきました」で「僕はこういうふうに生きていきます」だという。そういう感覚で宮﨑駿というものを捉え直して音楽にすることでしか作れなかったですね。なので、歌詞もそういう感じにはなっています。もちろん、この曲は決して自分のことを歌ったわけではないんですけれど。映画のために作った曲であるし、主人公のことや物語の中で巻き起こったことを投影した曲ではありますが、それと同時に、宮﨑さん自身や、宮﨑映画を観て育ってきた自分、そういういろんなものが、混濁したまま、紐解かれていて。生まれたところからさかのぼっていって、どういうふうに生きていくかっていう、そういう歌詞になりました。最後の最後まで悩んだのが歌詞で。「僕が生まれた日の空は」で始まる歌詞だから、本当は死ぬところまで入れたかったんです。「僕が死んでいくときの空は」って。そういう言葉も入れたかったんですけど、それをするにはあまりにも不穏なものが残るし、「君たちはどう生きるか」というタイトルの映画に対して、それは蛇足であろうと。なので削ったという経緯はあります。

──この曲は「僕が生まれた日の空は」という歌い出しですが、そこは米津さんがこういう指針で曲を作ろう、歌詞を書こうとなってからはスッと出てきた言葉だった?

そこから始まりました。圧倒的に祝福を感じるようなところから始めたいと思ったんですよね。宮﨑さんが、「この世は生きるに値する」と子供たちに伝えるために、今まで映画を作り続けてきたことも踏まえると「あなたはここで望まれて生まれてきたんだ」というところから出発しないことには曲が成立しないだろうなという確信がありました。

──歌詞を見て個人的に一番グッときたところが「この道が続くのは続けと願ったから」という一節でした。ここに関してはどうでしょうか。「道」という言葉に込めたものは?

いろんなものの連続の上で自分が生きているわけで。それこそ宮﨑駿という人の作ったものを受け取りながら自分は大きくなってきたし、また、それを受け取った自分が作るものに対して、何かを感じてくれていろんなものを作る若い人たちがいて。近年はそういう若い人たちと話す機会も増えたりしていて、自分はそういう連続の上に成り立っているんだなというのを実感できる機会がどんどん増えてきているんです。で、何かものを作ったりするときに、最終的に何が大事なんだろうかと考えたところ、もちろん才覚とか適性とかそういうものも大事だけど、それ以上に、やっぱり熱意とか、意志とか、あとは仲間とか。それがないと始まらないということが、歳をとればとるほど、痛いほどによくわかってくるんですよね。何かを成そう、こうしたい、ああしたいという、そういう意志がまず最初にないと、いくら未曾有の才覚、とんでもない適正や才能みたいなものがあったとしても、始まるものも始まらない。それがなくて崩れていった人たちもたくさん見てきましたし。やっぱり熱意、意志、ある種の祈りみたいなものが根本にある。だからこそ、1つひとつ、ゆっくりと歩くように前に進んでいくことができる。「何かについて願う」ということが、ものすごく本質的な、普遍的な行為なんじゃないか。そういった思いがこのフレーズに色濃く出たんだと思います。

 

いろんな歴史や文脈の上に自分が今生きている

──歌詞には「小さな自分の 正しい願いから始まるもの ひとつ寂しさを抱え 僕は道を曲がる」という一節があります。これは宮沢賢治の「春と修羅」にある「小岩井農場」の一節との関連性を感じるフレーズになっていますが、ここに関してはどういう由来や意図があったんでしょうか。

まず大前提として、「小岩井農場」のその一節がずっと好きなんですよね。10代の頃、自分の目の前に転がっている小さな石につまずいて頭を打って死んじゃうんじゃないかとか、それくらい神経過敏になって衰弱していた頃に、自分を救ってくれる一節だったんです。同時に、宮﨑さん自身も宮沢賢治に対していろいろ思い入れがあり、自分と宮﨑さんの間にある大きな共通点だと思ったんです。これはもう入れないことには成立しないなって。自分の人生というものがあって、その中でいろんなことを経てきた結果、この映画にたどり着いた。それも自分にとって大きな祝福だし、光栄なことであって。じゃあ、なぜ幸運なことになったのかと考えていくと、やっぱりいろんなものに救われて生きてきたという実感があって。特に宮沢賢治の「小岩井農場」の一節があったのとなかったのでは、大きく自分の人生は違っていただろうと思います。あるいはもしかすると、この世に生きていなかったかもしれない。それくらい自分の中で本当に大きなもので。それを無視して曲を作ることは自分にとって不可能でした。最初からここに当てはめるために、この曲を作るために、自分はその一節のことを大事に思って生きてきたんだろうなという、そういうある種の必然的なものを作りながら感じていたのは覚えていますね。

──これは受け取った側の解釈で、「君たちはどう生きるか」は観た人によって何百通りも解釈できる作品ではあると思うんですけど、自分の印象としては、何かを受け渡す、継承するということがテーマの1つになっている映画だと思ったんです。宮﨑監督があとの世代に自分のやってきたことを受け渡すということだけじゃなく、彼自身もまた先人から何かを受け継いだという、ある種の創作にまつわるバトンのようなものが描かれているように感じました。で、この「地球儀」という曲の中に宮沢賢治の一節が入っていることは、宮﨑駿作品に対しての米津玄師による主題歌というだけではなく、もっとその先人からの影響も曲の中に封じ込められてるということを意味するわけで。そういう意味で、映画の主題歌としての強度がさらに増していると思いました。

いろんな歴史や文脈の上に自分が今生きているということはすごく思います。僕はパウル・クレーがすごく好きなんですよ。パウル・クレーが描いた「新しい天使」という絵があって、それについてのヴァルター・ベンヤミンの言葉も。

”「新しい天使」と題されたクレーの絵がある。そこには一人の天使が描かれていて、その姿は、じっと見つめている何かから今にも遠ざかろうとしているかのようだ。その眼はかっと開き、口は開いていて、翼は広げられている。歴史の天使は、このような姿をしているにちがいない。彼は顔を過去へ向けている。私たちには出来事の連鎖が見えるところに、彼はひたすら破局だけを見るのだ。その破局は、瓦礫の上に瓦礫をひっきりなしに積み重ね、それを彼の足元に投げつけている。彼はきっと、なろうことならそこに留まり、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めて繋ぎ合わせたいのだろう。だが、楽園からは嵐が吹きつけていて、その風が彼の翼に孕まれている。しかも、嵐のあまりの激しさに、天使はもう翼を閉じることができない。この嵐が彼を、彼が背を向けている未来へと抗いがたく追い立てていき、そのあいだにも彼の眼の前では、瓦礫が積み上がって天にも届かんばかりだ。私たちが進歩と呼んでいるのは、この嵐である。(ヴァルター・ベンヤミン「歴史の概念について」より)”

そういう言葉があって、それもすごく好きなんです。自分もそれなりに長く生きてきて、年が経っていくにつれて、やっぱり懐かしいものや、自分が見て育ってきたものや、感受性が今より豊かだった時代に過ごしてきたことを思い返しながら日々を生きていくことが増えてきて。そのうちに、今となってはもう取り返しがつかないことや、いなくなってしまった人のことも同時に思い返します。そういう言葉の影響もこの曲にはありますね。

 

小さな地球を作っているような、世界を作っているような感じがした

──「地球儀」という曲名はどういうところから出てきた言葉だったんでしょうか?

これは単純なインスピレーションなんですけれど、「崖の上のポニョ」制作に関するドキュメンタリーを観ていたら、宮﨑さんが地球儀に絵を描いていたんですよ。ジブリの周辺の土地を地球儀に水彩画で描いていて、こうすることによって自分の暮らしている土地が立体的に見えて面白いということをしゃべっていて、そのシーンがすごく記憶に残っていたんですよね。地球儀に対して絵の具を乗せた筆を滑らせていくというのがすごく印象的でした。

──その光景に、曲のモチーフの中心になるようなインパクトがあった。

宮﨑さんは映画というフォーマットで架空の世界を作り出してきたわけですけれど、地球儀に筆を滑らせるのを見て、本当に小さな地球を作っているような、世界を作っているような感じがしました。そこに彼が今までやってきたことの本質的な部分が詰まっているんじゃないかと思ったんです。そこから「地球儀を回すように」という言葉が出てきて、それならタイトルも「地球儀」がいいんじゃないかって、直感的に思いました。

──CDシングルのパッケージには楽曲制作を追った写真集も封入されています。これを見ての印象はどうですか?

宮﨑さんと自分が同じようなアングルで写真になっているところもあって。僭越というか、居心地の悪さも感じます。若輩者がすみませんって感じがします。

──完成の打ち上げの風景の写真もありますね。

初号試写のあと、別日に打ち上げがあったんです。最初に宮﨑さんと鈴木さんが挨拶したんですけれど、その次に久石譲さんと自分が呼ばれたんですよ。2人で登壇して、久石さんからもピアノのペダルの軋みに関してお話頂いたりしたのですが、そのあとに鏡開きをする流れになって。宮﨑さんと鈴木さんと久石さんと一緒に呼ばれて。事前に「もしかしたら登壇するかもしれません」と言われていたんで、右往左往せずにどっしり構えようと思ってたんですけれど、まさか鏡開きまで一緒にするとは思わなかったんで「そんなこと、ある?」って思うくらいの状況にオドオドしてしまって。「せーの!」で振りかぶったんですけれど、宮﨑さんと鈴木さんがパワフルなおじいちゃんたちなんで、一瞬早くて、思いっ切り打ち付けたら、飛び散ったお酒を振り遅れた自分がかぶっちゃって。「げへへ、すいません」みたいな感じになって。もっと堂々としていればよかったなっていう記憶がありますね。

 

出典:音楽ナタリー|米津玄師「地球儀」インタビュー|「君たちはどう生きるか」主題歌制作の4年を振り返って
https://natalie.mu/music/pp/yonezukenshi24

 

 

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