Posted on 2014/11/11
世界的なアニメーション映画の巨匠、宮崎駿監督にアメリカの映画芸術科学アカデミーから「アカデミー名誉賞」が贈られ、2014年11月8日、授賞式が行われました。日本人が受賞するのは、黒澤明監督以来、2人目です。
アカデミー賞 名誉賞 授賞式スピーチ
「私の家内は『おまえは幸運だ』とよく言います。ひとつは、紙と鉛筆とフィルムの最後の50年に私が付き合えたことだと思います。それから、私の50年間に私たちの国は一度も戦争をしませんでした。戦争で儲けたりはしましたけれど、でも戦争はしなかった。そのおかげが、僕らの仕事にとってはとても力になったと思います。でも、最大の幸運は今日でした。モーリン・オハラさんに会えたんです。これはすごいことです。こんなに幸運はありません。美しいですね。本当によかった。どうもありがとうございました。」
記者会見
-受賞の印象と出席した感想について
「ジョン・ラセターの友情に負けて来ました。」
-アニメーション、映画、芸術に関しての自身の貢献について
「あと100年ぐらい経たないとわからないのではないでしょうか。」
-引退の理由と現在の活動について
「紙と鉛筆は手放していません。フィルムがなくなっただけです。今フィルムが世界から消えてしまったんです。ちょうどいい時でした。」
-授賞式の感想
「一番驚いたのは、同じく名誉賞を受賞したアイルランドの女優、モーリン・オハラに会えたこと。94歳です、すごい。だいたい僕は、モーリン・オハラさんが生きているなんて、自分が会えるなんて夢にも思わなかった。これが今日の一番、生きているととんでもないことが起きるんだ、という感想です。」
-オスカー像を持った感想
「重いんですよ。ちょっと持ってみてください。どれだけ重いかわかるから。(手に持ってみる質問者の記者)これしかも箱をくれないんですよ。モーリン・オハラさんが車椅子で出てきたんですけど、これを手に持ったら、金が銀でできてればいいのにと言ってました(笑)」
-受賞したこと、式への出席に関して
「ジョン・ラセターさんの陰謀ではないかと。相当運動したに違いないとか色々思っているんですけど、わかりません(笑)(今回は受賞式に出席したのも)ジョン・ラセターの脅迫です。怖いんですよ。これはもう行くしかないという感じだったんです。それで陰謀説を僕は思ってるんですけども。いや、本当に友情が厚いんです。もうなんでこんなに友情が厚いだろうというふうな男ですね。だから仕方がないと。」
「これ(タキシード)は家内と二人でデパート行って買ってきたんですけど、生涯1回しか着ないもんだけど、まあそういうこともあるだろうということで。初めて蝶ネクタイもして、これホックで留めればいいやつなんですけど、似合うも似合わないもないですね、はい(笑)」
-宮崎監督にとってアカデミー賞というものは
「本当のことを言っていいなら言いますけど、関係ないんです。つまりアカデミー賞ってのはね、モーリン・オハラとかですね、そういう人たちのものであって。アニメーションをやろうと思った時に、アカデミー賞に関わりのあることをやることになるだろうなんて思ってもみないです。それは目標でもないしね、視界に入っていない出来事でしたから。」
-モーリン・オハラさんに挨拶した時のことについて
「とにかく何が驚くって、モーリン・オハラさんに会うなんて、僕はもう本当に思ったこともなかったから。車椅子で来られたんですけど、始まる前に挨拶にちょっと伺ったら、向こうは僕のこと何もわかるはずないですからね、お孫さんが世話をされてて、その方が声をかけてくださったんですけど。振り向いた時にね、こういうふうに(仕草を真似してみせる)、シルエットが昔のまんまなんですよ。ハッ!と思いました。」
「直接やりとりしたというほどのことはないですけど、「『わが谷は緑なりき』のあなたが素敵だった」と僕は言いました。そうしたら、「ジョン・フォードは本当におっかない監督だった」って仰ってましたけど、それ以上とやかく言う時間はないですからね。すごいですね、生きてるといろんなことがあるだと本当に思いました。」
-今後のアニメとの関わりについて
「もう大きなものは無理ですが、小さなものはチャンスがある時はやっていこうと思っています。ただ無理してもダメなんで、もう。だから出来る範囲でやっていこうと思っています。僕らはジブリの美術館があるものですから、お金に関係なしに、つまりどれだけ回収をできるかっていうのをなしに公開することができるんですよ。そうすると、今もう9本できてるのですけど、1本につき1年間に一ヶ月以上やることになるわけです。その時に来てくださったお客さんはみんな見ていってくれますから、けっこうお客さんの多い映画になるんですね。つまり、売れなくていいわけですから、こんなにいいチャンスはないんですね。ジブリ美術館の短編映画は作れる限り作っていこうと思っています。」
-現役であるかについて
「現役じゃないでしょう?現役っていうのはもう少し仕事やると思うんですけどね(笑)あんまり自分を「現役」って叱咤激励してやったところで無駄だから、出来る範囲でやっていこうということでいいと思いますけどね。今日94歳とか87歳とかそんな人ばかりに出会ったものですから、本当に小僧だなと思ってね。僕、73なんですけど、恐れ入りましたという感じでね。リタイアとかなんとかあまり声を出さず、やれることをやっていこうと思いました。」
-ジブリ美術館の短編映画について
「(美術館の展示は)1年で展示替えになるんです。そうすると、もう次のことを考えなきゃいけないんですよね。これもけっこう手間がかかって大変ですね。この次の企画は、もし今はなしている企画が決まるとしたら、あんまりお子様へのプレゼントじゃないですね。(どのような企画かとの質問に)それはまだ発表できないです。だってやるかやらないかまだ決まってないんだもん。」
-創作へのモチベーションについて
「(中継を見ている多くの視聴者から、短編期待しているとの声に)ありがとうございます。されない方が楽なんですが(笑)モチベーションは毎回衰えるんです。それで、ある日突然、こんなことではいかんと力を取り戻そうと思うんですけど、そういうことの繰り返しです。僕の歳になったらそうだと思います。そうじゃない人もいると思うんですけどね。でもまあ、あんまり齢をとって仕事仕事といってるのもみっともないし、あんまりぽーっとしててまわりに迷惑をかけてもいけないから、ほどほどのところで。自分の仕事場に入って、途端に机にかじりつくってよりも、そのまま寝てしまうことのほうが多いから。まあ起きますけどね。疲れが出るテンポが緩やかなんですよ。若い時は半年くらいで疲労がピークを越えて回復に向かうんですけど、それが出てくるのが遅くなる、なおるのも遅くなるという風に、どんどん後ろにずれてきて。歳をとると、たとえば山登りをして、筋肉が二日くらい痛くならないんですよね、なんともないやーなんて思ってる途端に、階段のぼれくなったりするんです。それと同じような感じを今味わっていますね。これは前の作品のせいなのか、今までの悪業の報いなのかわかりませんが。初めてのことだから、やってみないとわかりません。ただ、美術館の展示については、可能な限り噛んでいきたいとは思っていますけども。」
-出席した式の感想を改めて
「鈴木Pはずいぶん面白がってましたね。僕はラセターが横に座ってて、しょっちゅう握手したりハグしたりいろんなことされて、冗談じゃないですよね(笑)あんまり大体得意じゃないんです、そういうものが。でもまあ、できるだけにこやかにやってきたつもりです。氷の微笑みみたいに、こう。(と顔をゆがめてみせる)」
「賞ってね、もらえないと頭にきますよ。でも貰って幸せになるかっていったら、ならないんですよ。なんにも関係ないんです、実は。それで自分の仕事が突然よくなるとかね、そういうことないでしょ。もうとっくに終わっちゃった仕事ですからね。それで、その結果を一番よく知ってるのは自分です。あそこがダメだったとか、あそこは失敗したとか、誰も気が付かないけどあそこは傷だとかね、そういうもの山ほど抱えて映画って終わるんですよ。だから、お客さんが喜んでくれたっていっても、そのお客は本当のことをわかってない客だろうとかね、だいたいそれくらいの邪推をする類の人間なんです僕は。だから、自分で映画は終わらせなきゃいけない。賞をもらえれば嬉しいだろうと思うけど、賞によって決着はつかないんです。むしろ、それなりに翻弄されますから、ドキドキするだけ不愉快ですよね。不愉快って変な言い方ですけど。僕、審査員には絶対ならないつもりなんです。順番は絶対つけない!答えになってないですかね?(笑)」
-ラセターさんや鈴木さんや奥田さんに祝福された時間は楽しかったのでは
「いや、ご飯食べる暇もないですからね。いろんな人が来て、「俺はナントカで、前にジブリに行ったことがある」とかね、覚えてないですよ。それで、しょうがないから握手してどうもありがとうとか言って、そんなことばっかりやってなきゃいけなくて。」
「(ハリー・ベラフォンテは良かったですよね、と鈴木P)ハリー・ベラフォンテさんも受賞されたんです。この人は、87?88で大演説ぶってましたね。人種差別を。人種差別と戦い続けてきた人ですから。それでシドニー・ポワチエが…(87歳、と鈴木P)、80代ですからね、こっちは小僧ですよ。それでなんせ、モーリン・オハラさんが94でいるんですからね、どうしていいかわからないですよね。隅っこの方で小さくなるしかない。」
-モーリン・オハラさんについて
「(記者から、宮崎監督が一番若い受賞者で、受賞者の平均年齢が84歳であるといわれ)モーリン・オハラさんが稼いでるんです(笑)もちろん、年齢がもたらすものを十分モーリン・オハラさんも抱えていたけど、お孫さんがついてて、お子さんたちは既にお亡くなりになっているかなっていないかわからないけどね、そういう齢ですよね。でも、素敵でしたね。僕は堂々とね、こっそり言ったんです、「とても綺麗です」って!本当にそう思ったから。」
(ここで記者、レッドカーペットでモーリン・オハラさんに「今日、宮崎監督が来たのはモーリン・オハラさんに会うためなんですよ」と伝えたら「私も会うのを楽しみにしているわ」と言っていたというエピソードを話す)
「それはもう、大女優をずっと続けてきた人だもんね、それくらいのさばきはできますよ。だってミヤザキなんてわけのわかんない奴、知ってるわけないじゃないですか。あのね、ちょっと会場で映像を流しても、モノクロ時代のスターって本当にスターなんですよ。映画はモノクロ時代は本当にそういう意味を持っていたんですね。それだけでもう、ヤバイですよね。スゴイ!って(笑)」
-1980代の受賞者に会って、また長編を作りたいというパッションは湧いてきたか
「そういう上手な結論にはいきません、話まとめるにはいいでしょうけど(笑)その部分は変わらないです。自分に何ができるかということと、何ならやるに値するのかということ、これなら面白そうだということが一致しないといけない。それから、製作現場を作っていく時に条件がありますから。お金の条件だけじゃないんです、人材の条件もですね。それを満たすことができるかとか、そいうことを考えなければいけませんから。」
「美術館の短編というのは10分ですけども、世界を作るという意味では1本分のエネルギーがいるんです。
ただ、人間が喋らない映画にしたいと思っていますから、台詞がない映画にね。そういう点では楽ですけど。もう年寄りは何やってもいいんですよ。無声映画だってやっていいと僕は思ってるんです。今モノクロでやろうとするとかえって大変だから、それはやりませんけど。」
「自分がやりたいこと、でも同時にスタッフにとっても、一度はやっても意味があるだろうという仕事でなければならないと思ってるんです。なんとなくワーッとやって手伝ってたら終わっちゃったじゃなくね、そういう仕事のやり方や現場が作れないかなとは夢見ますね。そうじゃないと毎日行きたくなくなるもんね。そういうことは思いますけど、なんか時間がかかりそうでヤバイですね(笑)」
「むかし僕はものすごく手が速かったんですよ。だんだん遅くなるんです。1日に14カットの原画をチェックしなきゃいけないっていうノルマを自分で組み立てた時があったんですけど、それがトトロの時に6カットになったんです。1日6カットだけやればいいんだ、なんて楽なスケジュール!って思ったのに、もう全然6カットがいかないんです。中身が変わってくるのと自分が歳をとっていくのでどんどん遅くなるんです。最後の作品では、1日3カットやってればよかったんですけど、3カットができないんです(笑)」
-黒澤明監督以来、2人目の受賞については
「いや僕は、黒澤さんももらいたくなかったんじゃないかなと。今までのことをね、功労しますみたいな賞ってもらったってしょうがないですよ。もっと生々しいものだと思うんですよ、映画をつくるって。作った!見てみろ!でドドッと賞が来たらいいけど、ずいぶん長くやってましたねってこう、ご苦労さん賞みたいなね、そういうのでしょうやっぱり。(オスカー像は)重いですけど。もっと軽いものつくりゃいいのにと思うけど(笑)」
「さっきも言いましたように、賞で何も変わらないんですよ本当に。だからこれはもう、もらう時はありがとうございますって受け取るけど、それからラセターたちの友情は本当に、本当に感動的な、本当に忠実な友というのはこういう人たちを言うんだなと思いますけどね。で、そういう人に出会えたっていうのが幸いだと思うんですけど、もう忠実過ぎて、「これが最後だから俺んち来い、俺の汽車に乗せる、ヨセミテにつれてく」ってもう、チョー辛いなって思ってるんですけど、(鈴木P、日本テレビ奥田Pのほうを見て)あそこらへんも一緒に行く羽目になるから(笑)辛いなって言えないですよもう。「わかった、これが最後だ」って。最後が続くんじゃないかなと思ってるんですけど(笑)それで、ヨセミテ寒いぞって言われたから、防寒具とかいろんなもの持ってきたのに、暑いでしょここ。エアコン入ってるじゃないですか、着るものがなくてね。下着が冬物を持ってきてしまって、今僕も暑いんです。なんだかわけわかんないですね(笑)」
-ラセター氏が、宮崎監督はウォルト・ディズニーに次ぐ人材と言っていたことについて
「まあ、贔屓の引き倒しだと思っていたほうがいいと思いますよ。僕はウォルト・ディズニーという人は、プロデューサーとして優れていると。途中からプロデューサーとして優れている、初めはアニメーターでしたよね。それで昨日、ディズニーランドの中にある…(鈴木P&奥田Pに)あれなんていうクラブでしたっけ?(カーセイサークルと答える両者)カティーサークではないんですね。…というクラブがあって、それは仕事終わった後アニメーターたちが寄れるようなクラブを作りたいと思ってただけらしいんですけど、そのクラブをラセターたちが考えて作って、そこに古い写真を引きのばして飾ってあるんですよ。それを見るとね、本当に若いアニメーターたち、ウォルト・ディズニーも若い。それで打ち合わせしてるんだけど誰も煙草吸ってないから、おかしいなと思ったら、こう手に持ってるのを消してあるんですね、修正で。そんなことありえないですよ、絶対にこうやって(吸ってた)はずなんで、面白かったですね。」
「でも、そこにあるのはね、やっぱりなんか、これから時代を切り開く、というよりも自分たちの時代を作ろうと思ってる、作れるんじゃないかと思っている人間たちが集まってるものが、その写真にありますよ。それで、みんなネクタイ締めてやってる。きちんとしてやってるんですよ。夏はどうしたんだろうと思うんだけど。夏の写真じゃないと思いますけどね。そういう時代が確実にあって、その時にディズニーやウォルトナインズと呼ばれたアニメーターたちが、自分たちは新しい意味あることをやっていると思って仕事をしたんですね。それに対しては、本当に僕は敬意を感じます。企業としてね、ディズニープロダクションがどうやって生き残っていくかっていうことについては、殆ど僕は関心がありませんけど、あの瞬間のあの写真を見ると、ああこれはいい連中だなと本当に思いますね。そういう意味では僕らも共通する瞬間を何度か実際に持っていますから、それから推測するしかありません。」
-式典終わってホッとしているか
「ホッとできないんですよね。明日朝9時に朝食会があって、それからどっかに飛ばされて…だからなるべく早く寝なきゃいけない(笑)ホッと…ホッとはしてませんよ。けっこう感動するところでは感動しているんですよ。モーリン・オハラさんに会ったんですよ!僕、手まで握ってきたんですから!まわりが気が付かないうちに(笑)そういう興奮は本当に残っています。ハリー・ベラフォンテも素敵だったけど、やっぱりあの美女が振り向いた時に…本当にね、シルエットは昔のモーリン・オハラだったんです。僕もうそれを見たときは息をのみましたからね。あとはシワがあろうがシミがあろうが関係ない。そんなの自分にもいっぱいあるからそんなのどうでもいいんですけど。やっぱり大した時代を生きてきた人だと僕は思います。」
-今回のアカデミー名誉賞にあまり価値や意味を見いだせないものか
「あらゆる賞に対して僕はそうなんで、何もこれだからペケだとかそう思ってません。さっきも言いましたように、賞っていうのは相手にされないと悔しいし、もらって幸せかっていうとそれも幸せじゃないんですよ。だから、なきゃ一番いいもんなんです。わかりません?(笑)」
※ここで奥田Pより、宮崎監督の式典でのスピーチ内容について説明がある。
奥さんに、あなたは運がいいと言われた。
1つめ、鉛筆と紙とフィルムの時代の最後の50年に立ち会えたことの幸運。
2つめ、その50年間、日本では戦争が一度もなかったことも幸運だった。戦争で儲けたりはしたけど、戦争はしなかった。
「(戦争で儲けたりたりはしたけど、という点は)プロデューサーがそういう話を来る飛行機の中でしたもんですから、ちょっと付け足さなきゃいけないと思ったんです。正確に言うと、70年近くしてないんですね。それは、なぜそういうことを言うかといいますと、僕らの先輩よりもうちょっと上の、戦前にアニメーションをやりたいと思った人たちは、本当に戦争によってどつきまわされているんです。戦時中に企画が立てられて、桃太郎の…海鷲だっけな荒鷲だっけな、という映画(※「桃太郎の海鷲」と思われる。1943年に公開された日本初の国産長編アニメ)なんかも、これ力作なんですけど、出来た時はもう負けに瀕してる時で、映画を公開してすぐ戦争が終わってしまって、そのままお蔵入りになってしまうというね。それでその後、仕事なくなるという。そういう風な目にあって、「桃太郎の海鷲」を作った人なんかは、結局本に出せなかったけど、アニメーションの入門書のゲラを僕は見せてもらったことがあるんですが、本当にわかってる。こんなにどうしてわかったんだろうというようなことを。アニメーターの勘というのはね、修行じゃなくてものの観察の中から生まれてくるんで、本当にたちまちのうちに理解する人は理解するんですね。それを見てひどく、「この人たちは結局、戦争終わった後アニメ―ションを続けることはできなかった」と。しばらくしてから復活しますけど、本当に巷に仕事がなかったんです。」
「それで、僕にも影響を与えてくださった大先輩は、アニメーションやるって言ったらバカかと言われながらやってきた人間です。大塚康生さんという人が僕の直接のお師匠さんなんですけど、十歳年上ですが、彼は厚生省の役人を27歳までやって、麻薬Gメンで、それでもアニメーションをやりたくて辞めて東映動画っていう会社に入ったんですよね。その結果、給料は1/3になってしまったんです。彼は、やっぱりその何年間かを失っているんです。それは努力もし勉強もしていたかもしれないけども、二十歳から始めていたらね、その7年間て物凄く実りの多い期間だったはずなんです。それはその後も努力をして色々な成果を残してくれた人ですけど、「ルパン三世」を最初にやった人ですよね。だから戦争の影っていうのは、戦時中に大人でなくても、いっぱいいろんなところに影を残してるんです。」
「僕は、ちょうど「鉄腕アトム」が始まった1963年にアニメーターになったんです。アトムをやったんじゃありませんが。1964年にオリンピックです。高度成長経済が始まってる時です。その後ね、色々あってもとにかくアニメーションの仕事を続けてこれたっていうのは、やっぱり日本の国が70年近く戦争をしなかったということは物凄く大きいと思っています。特にこの頃ひたひたと感じます。もちろん、特需で儲けたりとか朝鮮戦争で、それで経済を再建したとかね、そういうことはいっぱい起こってるんですけど、でもやっぱり戦争をしなかったっていうのは、日本の女たちが戦争をしたくないってそういう気持ちを強く持って生きていたこと。だいぶ歳をとって亡くなってる方も多いですけど。それから原爆の体験を本当に子供たちにまで…僕も本当にいっぱい、そのケロイドだらけの人が家を訪ねてきて、物乞いのためにケロイドを見せるというようなことを体験しています。それで、1952年に被爆地の物凄く生々しい最初の写真が出版されるんですけど、(それまで)占領軍が許可しなかったからですね、でもその前に聞いてました。原爆がどういうことになったかというのを。」
「話が飛ぶようですけど、「ゴジラ」というのが出てきたときに、僕はあの時中学生だったのか小学生だったのか覚えてないですけど、怪獣ものを観に行くというような気楽さじゃないんですよ。水爆実験の結果、ゴジラがやってくるというね。ただごとじゃないインパクトを感じていたんです。それで、同時にニュースフィルムでやっていたのはビキニ環礁の水爆実験のフィルムですからね。これは物凄く恐ろしかったです。そういう戦争と原爆から繋がる記憶を持ってたから、やっぱり戦争してはいけないという風に、それが国の中心として定まっていたんだと僕は思いますよ。それが70年過ぎるとだいぶあやしくなって来たってことだと思うんです。それについて今僕はとやかく言いませんけど、やっぱり自分が50年この仕事をずっと続けてこられたのは、日本が色々あっても経済的に安定していたこと、安定していたのはやっぱり戦争をしなかったことだっていう風に、僕は思っています。それを喋ったんです。こんな長くは喋りませんよ。」
奥田P「最後に、3番目はモーリン・オハラさんに会えたことが幸せだったというお話でした」
「今日来て一番嬉しかったは、モーリン・オハラさんにお会いできたことです。やっぱり美しいと思いましたね。怖そうな人ですよね。ああいう人を生身で自分の彼女にできた男は大変でしょうね。ね、鈴木さん。アイルランドの女性ですからね、ピシッとなんか通ってるんですよ。今日の僕の大収穫は、モーリン・オハラさんにお会いできたこと。それを率直に言いました。」
-アカデミー賞の新規会員にノミネートされているが受ける気は?
「あれは黙ってればそのまま立ち消えになるんです。前もそういうことあったんですけど、静かにしてると別に。何千にいるんですよ、だからそういうのいるんじゃないですかね。そういう対応の仕方に迷いはないですから。だってそうなったらいっぱい映画見なくちゃいけないじゃないですか、やですよそんなの。」
-日本の若いアニメーターにエールは何かあるか
「アニメーターだからとかじゃないですね。大事になってしまうからやめますが、えっと…まあ貧乏する覚悟でやればなんとかなりますよ、本当に。僕らはアニメーターになった時に、アニメーターなんて言っても誰にも通じないですよね。漫画映画っていっても、ん?ポパイか?といわれるくらいで。わかんないでしょ?そういう仕事があること自体がまわりが認知してなかったけど。それはですね、画工っていう言葉があるんですけど、それで絵描きっていう風に「草枕」では漱石が使ってますけど、職業で絵を描く人間ですよね。芸術的な何かで絵を描いてるんじゃなくて、職業で絵を描く人間を画工と呼ぶんです。それになるわけですから、目の前に広々とした道なんか広がりっこないんです。そう思ってやると、つまり、アニメの仕事っていう道路があるんじゃなくて、結局何もないところを歩くことになるから、その覚悟を一所懸命持ってやるしかないんだと思いますね。それはいつもそうなんだと思います。大丈夫ですよ、何も安定しないから他の仕事も(笑)そういう時期に来たんだと思いますから。みんな同じだと思っていいと思いますから。」
鈴木Pより質問「宮さん、5年ぶりですよねアメリカ。ポニョ以来、久しぶりに来たんです。どうですかアメリカは?」
「炭酸ガスの問題真剣に感じてないですよね。別に何とも。ホテルでエアコンが効いてる、寒い。外は熱い。なのに外に、煙草吸えるところ見つけたんですけど、暖炉が燃えてるんですよ。壁が凹んでてね、奥に暖炉が作ってあって。いま消せばいいじゃないね。部屋ん中エアコン入れてる時は消せばいいのに。消すくらいならつけといた方が楽だっていう発想でしょ。難しいですね、こりゃ大変だなと…」
鈴木P「オスカーが嬉しくないんですか?」
「鈴木さんは前貰った時うれしかった?」
鈴木P「たぶんね、これ最後になるんですよ。アメリカでこの賞いただくと、もう二度といろんな賞出ませんので」
「いいよそれで。」
鈴木P「いや、そのことが嬉しいんじゃないかなって」
「いや、そんなことじゃなくて。長編を作って物凄くお金をかけてね、今から準備して5年後だってなったら、そりゃ死にもの狂いで回収しなければいけないと思うじゃないですか。そうじゃないから、僕楽なんです(笑)」
-オスカ―像はどこに飾るか?
「飾らないです。一応、家族には見せますけど。鈴木さんの部屋に…」
鈴木P「いやこれは…(笑)最後だから、ちゃんと自分で持っててください。前のやつはね、僕のところにあるんですよ」
「ジブリの美術館に寄付してしまうという手もあるね。」
鈴木P「あ、それがいいですね。それが一番良い案ですね」
「こんなの地震のとき倒れておっこってきたら危ないですよ。」
-生涯アニメを作ると仰っていたが
「ええ、それはそうです。絵を描くのやめましたということにはなんないと思いますよ。だから紙と鉛筆は、絵具も絵筆もねずっと、それから実はペンもインクも含めてなんですけど、やっていくと思います。できなくても、とうとうとやろうとするだろうと思います。そういう風に生きようと決めてますんで。でもそれは仕事としてなるか、ただの道楽になってしまうか、そこらへんはまだ判断つきません。」
「美術館の仕事で、クルミ割り人形について半年くらいバタバタしましたけど。それ仕事かっていわれたらね、仕事でこんなことできるかっていうね。じゃ道楽かっていうと、いや…仕事です…っていうよくわからない領域にあるんです(笑)」
鈴木P「性格ですね。ずっとたぶんね、死ぬまで働くんですね」
「そうすると死ぬのが早くなるだろうと思うんですけど(笑)モーリン・オハラさんくらいまではいけないよね、これは。」
「ちょっと今日は本当に素敵なものを見ましたね、僕は。指、太かったです。本当、大柄なんですよ。」
鈴木P「生活の中で形作られた手足なんですかね」
「うーん…なんちゅう話してるんですかね(笑)そんなこと実現するなんて夢にも思わないじゃないですか。人生何が起きるかわからないですよ本当に。」
鈴木P「というわけで興奮の記者会見でした」
奥田P「オスカー像はジブリ美術館に贈られるということで、宮崎さん本当におつかれさまでした。みなさん、夜遅くまで本当にありがとうございました」
これで名誉賞受賞の記者会見を終わります、おつかれさまでした」(会場、拍手)
(席を立つ宮崎監督、記者たちに)このためにわざわざ、ここに来たんですか?
奥田P「ずっと待っておられたんですよ」
「かわいそうに!飛行機大変ですよね。」
鈴木P「ロス在住の方も多いんで」
「ああそうですか」
奥田P「ちなみに日本から来た方は?」
「(手を上げた記者たちに)来てよかったと思いました?なんかサービスしましょうか?」
鈴木P「どうぞ」
「いや、何をしていいか(笑)あ、ちょっと持ってみてください、どれだけ重いか。」
(以降、各社オスカー像の重さを持って体験、撮影会となり、会見は終了する)