Blog. 「千と千尋の神隠し サウンドトラック」(LP・2020) 新ライナーノーツより

Posted on 2020/12/03

2020年11月3日、映画公開当時はLPでは発売されていなかった「千と千尋の神隠し」「ハウルの動く城」の2作品のイメージアルバム、サウンドトラックに、あらたにマスタリングを施し、ジャケットも新しい絵柄にして発売されました。「千と千尋の神隠し」「ハウルの動く城」各サウンドトラック盤には、前島秀国氏による新ライナーノーツが書き下ろされています。時間を経てとても具体的かつ貴重な解説になっています。

 

 

2020年6月に久方ぶりに劇場で再上映され、3週連続興行成績第1位を記録した『千と千尋の神隠し』のリバイバルを見てきた(2001年の初公開時以来、現在も日本歴代興行成績第1位の座を維持し続けている)。感染症対策で定員が約半分に減らされた座席を埋めていた20代から30代の女性客のほとんどは、おそらく初公開当時は生まれていないか、テレビ放映やDVDなどでこの作品に慣れ親しんできた世代ではないかと思う。その彼女たちが、本編冒頭で流れる《あの夏へ》のピアノのアルペッジョに耳をすまし、食い入るように画面を見つめ始める姿を眺めていると、初公開時の19年前の記憶がいろいろと甦ってきた。この映画が公開されてから2ヶ月後に9・11同時多発テロが発生し、世界はそれまでの日常とは異なる”異界”に突入してしまった。そして今、彼女たちは”異界”の真っ只中に身を置きながら、いわゆる新しい生活様式を日常として受け入れている。19年前と同じように映画館に鳴り響いた《あの夏へ》のリリカルなピアノは、時を越え、彼女たちにしっかりと寄り添っていた──困難な時を生き抜く”千尋の物語”は、昔も今も変わらないと言わんばかりに。

第75回アカデミー賞長編アニメ映画賞受賞や第52回ベルリン国際映画祭金熊賞受賞をはじめ、世界各国で高い評価を受けた『千と千尋の神隠し』は、宮崎監督と久石譲のコラボレーションの中でもひときわ大胆かつ斬新な音楽作りを試みた作品と位置づけることが出来る。久石自身の言葉を借りれば、「スタンダードなオーケストラにないものを音楽の中に持ち込んで、新しいサウンドにチャレンジする」実験である。だからといって、いわゆる現代音楽のような難解な音楽になっているかというとそうではなく、メインテーマ《あの夏へ》をはじめ、親しみやすい歌謡的な要素をスコアの随所に聴き取ることが出来る。それらをすべて一体化させることで、久石は宮崎監督の世界観を巨大な音伽藍として表現したのである。

まず、久石は全体の音楽設計について、本作完成後の2001年7月の時点で次のように筆者に語っている。

「物語自体は、千尋という少女がさまざまな困難に立ち向かっていく話なので、彼女の心情に寄り添うべき部分は、極力静かな音楽で通しました。もともと、キャラクターごとに音楽を作っていくハリウッド的な手法はあまり好きではないのですが、この作品に限って言えば、ハリウッド的な扱い方をしている部分もあります。そもそも、この作品は設定そのものが凄いじゃないですか、湯屋という場所の世界観が。その世界観を音楽で表現するため、通常のオーケストラにはないエスニックな要素をカラフルに加えていくというアプローチをとることにしました」

「千尋の心情に寄り添う極力静かな音楽」に関しては、久石は詩情豊かなピアノのテーマを作曲し、それをスコア全体のメインテーマに据えることで、物語を貫く千尋の視点を明確に打ち出している。このメインテーマは本編の中で計4回流れてくるが(①本編オープニング、②ハクから渡されたおにぎりを千尋が食べるシーン(すぐ後のボイラー室のシーンまで曲は続く)、③ハクを救うべく銭婆の許へ向かうことを決意した千尋が釜爺から電車の切符をもらうシーン、④本編ラスト)、本盤では《あの夏へ》(①のシーンに使用)、《あの日の川》(②③)、《帰る日》(④)にメインテーマの旋律を聴くことが出来る。あたかも10歳の少女が口ずさむような繊細なメロディで書かれた《あの夏へ》は、わかりやすく言えば”千尋のテーマ”の役割を果たしている。

これに対し、千尋以外の登場人物に関しては、久石はそれぞれのキャラクターに特徴的かつ印象的なテーマを与えることで、一癖も二癖もある登場人物たちをバラエティ豊かに表現している。本盤収録曲では《湯婆婆》、《おクサレ神》、《ボイラー虫》、それにハクを表す《竜の少年》などの楽曲がそれらのテーマに当たる。さらに興味深いのは、本編作曲に先駆けて制作されたイメージアルバム収録のヴォーカル曲に由来する楽曲が、やはりキャラクター表現のテーマに用いられているという点だ。本盤収録曲では、湯屋を訪れる神々を表す《神さま達》(イメージアルバムでは《神々さま》)、湯屋の従業員たちを表す《仕事はつらいぜ》(イメージアルバムでは《油屋》)、そして曲名通りの《カオナシ》(イメージアルバムでは《さみしい さみしい》)などが、いずれもイメージアルバムのヴォーカル曲にその原型を見出すことが出来る。

「イメージアルバムにヴォーカル曲が多い理由のひとつは、イメージアルバムとサントラ盤のリリース時期が非常に接近していたという事情があります。つまり、イメージアルバムが発売されてから1、2ヶ月後には、サントラが出てしまうという(注:イメージアルバムは2001年4月発売、サントラは2001年7月発売)。2枚とも似たような内容になってはならないと考えていたのですが、宮崎監督からいただいた映画のための説明内容が、どれも詩的に書かれていたんです。『ならば、これを全部歌詞に用いて、歌にしてしまおう』と。そこでイメージアルバムのほうは、どちらかというと映画と切り離した”歌もの”というコンセプトで作ったんです」

本編のスコアにおいては、当然のことながらイメージアルバムの歌詞は用いられていない。どのテーマも、あくまでもインストゥルメンタル(器楽曲)として登場する。にも拘わらず、たとえ歌詞がなくても《神さま達》を聴くと、湯に浸かる八百万の神を歌った”民謡”のユーモアが伝わってくるし、あるいは《仕事はつらいぜ》を聴くと、いつまでも仕事から解放されない労働者たちが”仕事歌”に込めたボヤキが聴こえてくるだろう。このように、いくつかのテーマは、もともと”歌”として書かれた痕跡をしっかりと残しながら、結果としてスコア全体に”歌謡的”な要素をもたらしている。もう、ほとんど潜在的な”ミュージカル”と呼んでもいいくらいだ(《カオナシ》については後に詳述する)。

そうした”歌謡的”な要素と拮抗あるいは融合する形で登場するのが、本作で久石が試みた実験、すなわち通常のオーケストラにエスニックな音楽語法や民族楽器(のサンプリング)を混ぜていくユニークな手法である。

本編冒頭、久石はオーケストラの管弦楽法を西洋音楽の常識的な用法にとどめておくことで、千尋と我々観客が共有するところの日常的な現実世界を表現する。ところが千尋がトンネルの向こうの不思議な世界、すなわち”異界”に足を踏み入れていくと、オーケストラは常識的な管弦楽法から逸脱し始め、夜の闇のように闖入し始めたエスニックな要素が、次第に幅を利かせるようになってくる。物語の最後、すなわち《帰る日》でメインテーマが回帰すると、オーケストラは再び元の聴き慣れた響きを取り戻す。このような一連の変化を通じて、久石は”日常”と”異界”の違いを明確に描き分けているのである。

「オーケストラの中にエスニックな要素を入れるのは、すでに『風の谷のナウシカ』から始めた手法ですし、特に『もののけ姫 イメージアルバム』では、かなり意識的に邦楽器を使っています。『千と千尋の神隠し』の場合は、”モダニズム”という表現が適切かどうかわかりませんが、日本というものを別の視点から捉え直していくためにエスニックな要素を入れていった感じですね。スコアの中では、五音音階や邦楽器を使っていますが、それらは決して日本そのものを表現しているわけではない。確かに映画の舞台は日本ですが、我々が慣れ親しんでいる日常の日本とはずいぶん違います。むしろ、台湾の夜市に行くと、人が通れないくらい混雑していて、その中で売り子さんたちが威勢よくモノを売っていたり、夜中の1時か2時ごろまで子供がいたりするような感じに近いですね。ああいう”アジアの雑踏”のイメージが非常に強かったので、この映画も”アジアの中にニッポン”という位置づけで、スコアの中にアジアン・テイストを採り入れていったのですが、それを推し進めていくと、東南アジアだけでなく、シルクロードも中近東も同じアジア、つまりユーラシアという大きな文化圏に属しているのだと。そんな風に”アジア”を捉え直すことで、ふだん共存することがあり得ない西洋のオーケストラとエスニックな楽器を対等に鳴らす方向に向かっていきました。はじめから頭で考えて作ったというより、『あれもこれも”アジア”だろう』という感じでどんどんエスニックな要素を足していったと言うほうが正確ですね」

《神さま達》における琉球音楽やケチャのリズム、あるいは《おクサレ神》における雅楽など、文字通り八百万の神のように次から次へと登場してくるエスニックな要素は、枚挙に暇がない。さらに”アジア”の響きに触発されるかのように、いわゆる西洋音楽の要素も通常の表現を逸脱し始め、極端な方向に向かっていく。ピアノの高音域と低音域を同時に鳴らして金属的に響かせる《湯婆婆》などが、その例だ。

そうした音楽的実験の中でも、特にリスナーを驚かせる楽曲が、20世紀前半の新ウィーン楽派もかくやと思わせる重厚なオーケストラと、バリ島のガムランに基づくリズム・セクションが衝突することで凶暴さを際立たせた《カオナシ》であろう。だが驚くべきことに、その《カオナシ》さえも歌謡的な要素を含んでいるのである。イメージアルバム収録の《さみしい さみしい》をすでにお聴きのリスナーなら、異形の響きに満ちたオーケストラの中に《さみしい さみしい》の旋律の呟きを聴き取ることが出来るだろう(つまり、カオナシが抱える孤独と、彼の凶暴性が表裏一体の関係にあることを暗示している)。

このような作曲の方法論は──久石自身の捉え方と異なるかもしれないが──実はグスタフ・マーラーの交響曲の方法論に非常に近いのではないか、というのが筆者の考えである。マーラーは、彼以前の交響曲では用いられなかった珍しい楽器をオーケストラに採り入れることで音色のパレットを拡張し、自身の世界観を巨大な編成の交響曲で余すところなく表現しようとした。しかも彼の音楽の根底には、民謡や彼自身が作曲した歌曲に由来する”歌謡的”な要素が一貫して流れている。同様に久石のスコアにおいても、イメージアルバムの”歌謡的”な要素を踏襲しながら、”アジア”を拡大解釈していくことでエスニックな要素を次々に投入し、”異界”のリアリティを見事に音楽化してみせた。しかも本作の場合は、観客が理解しやすいハリウッド的なキャラクター表現をもスコアに含めることで、普遍的かつ全方位的に宮崎監督の世界観を音楽で表現しているのである。それが、本作の映像表現と音楽表現に対して全世界的な称賛が寄せられた理由のひとつではないかと思う。

最後になるが、本作のスコアにおいて、特に久石の音楽性が美しく刻み込まれた印象深い例を2曲だけ挙げておきたい。ひとつは、千尋が海原電鉄に乗るシーンにおいて、久石がニュアンス豊かなピアノをしっとりと奏でる《6番目の駅》。もうひとつは、千尋とハクが大空を飛ぶシーンで流れる壮麗なオーケストラ曲《ふたたび》だが、イメージアルバムでの曲名《千尋のワルツ》が示しているように、この楽曲はワルツ形式で書かれた事実上の”愛のテーマ”である。《ふたたび》が流れる時、ハクは千尋の記憶によって自分の真の名前をふたたび取り戻す=回復するのだが、このような”回復”という主題をワルツ形式に託して表現する試みは、宮崎監督と久石の次作『ハウルの動く城』のメインテーマ《人生のメリーゴーランド》において、さらに深く掘り下げられていくことになるだろう。

本盤最後に収録された《いつも何度でも》は、覚和歌子が作詞を手掛け、木村弓が作曲・歌・ライアー(竪琴の一種)を担当した主題歌。初公開時には、前述の《あの夏へ》に覚が詞を付けたヴォーカル版(本盤未収録)をカップリングしたマキシシングルとしてリリースされた。

※「」内の久石の発言は、筆者とのインタビューに基づく。

前島秀国 サウンド&ヴィジュアル・ライター
2020/8/5

(LPライナーノーツより)

 

 

 

 

千と千尋の神隠し/サウンドトラック

音楽:久石譲 全21曲

新日本フィルハーモニー交響楽団のフルオーケストラにより、ホール録音されたサウンドトラック盤。 主題歌「いつも何度でも」(歌/木村 弓)も収録。

品番:TJJA-10028
価格:¥4,800+税
※2枚組ダブルジャケット
(SIDE-A,B,Cに音楽収録 SIDE-C裏面には、音がはいっておりません。)
(CD発売日2001.7.18)

 

Blog. 「音楽の友 2020年11月号」ベートーヴェン特集 久石譲インタビュー内容

Posted on 2020/11/21

クラシック音楽誌「音楽の友 2020年11月号」に久石譲インタビューが掲載されました。〈ベートーヴェン生誕250周年記念特集第4弾〉「革新の人 ベートーヴェンーー名曲から探る後世への影響」企画によるものです。

 

 

Interview
現代を生きる作曲家から見るベートーヴェン 久石譲

もっとも豊かな時代の人ベートーヴェン
だからこそ、惹かれてしまうのだと思います

 

クラシック音楽の世界ではライリーやライヒからの影響を受けたポストミニマルの作曲家として知られ、近年は指揮者としても注目される機会が増えてきた久石譲。彼が指揮した『ベートーヴェン:交響曲全集』は『レコード芸術』誌の月評で特選盤を、2019年度第57回レコード・アカデミー賞では「特別部門 特別賞」を受賞し、話題を呼んだ。

 

指揮を通じて拓けたベートーヴェンの新たな世界

久石譲がベートーヴェンの指揮に力を注ぐようになったのにのは、作曲家としての意識が深く関わっているという。

「音楽を木に喩えると、多くの人は葉や花をみて綺麗だと思うけれど、作曲家が追求しなければならないのは幹をつくり、枝をつくる行為。それが音楽の本質であり、未来への可能性を作ることになりますからね。グレゴリオ聖歌以前から音楽の歴史をみてきた上で、いま我々はなにを行わなくてはいけないのか?作曲家はそういう使命をたえず持っているのです」

もともと現代音楽の作曲家として活動していた久石だが、30歳代にポップスの世界へ転身。映画音楽の領域で高い評価を得たが、自身の音楽が徐々にエンターテインメントの枠に収まらなくなってくると、21世紀に変わる頃「本籍地」をポップスからクラシック音楽に戻している。その一環としてクラシック音楽作品も指揮したいと考えるようになり、秋山和慶に師事した。そしてベートーヴェンなどを指揮する経験も積むことにより、新たな世界が見えてきた。

「実際にベートーヴェンをオーケストラで指揮すると、スコアを読んでいるだけでは見えてこなかった、なぜこう書かれているのか、どこに問題があるのか、ということがわかるようになりました。学問のような論理ありきの作曲ではなく、実践に即して観客に聴いてもらう作曲を行う上で、その感覚が非常に役立つのです。そして『ベートーヴェンってここが良いんだ!』という実体験を味わってしまうと、指揮をやめられなくなるのですよ」

 

音楽の骨格が重要視される「絶対音楽」に向き合う現在(いま)

久石を魅了してやまない、ベートーヴェンの魅力とは何なのか。

「ベートーヴェンは、音楽の骨格となる幹と枝を重要視している古典派の時代と、葉や花が重要視されるロマン派の両方にかかっていますよね。音楽表現のもっとも豊かな時代を生きたベートーヴェンだからこそ、惹かれてしまうのだと思います」

だからこそベートーヴェンの交響曲全集の次には、葉と花の部分が魅力的でありつつも、やはり重要なのは幹と枝となるブラームスに取り組んでいるのだ。意外かもしれないがブラームスと同じロマン派でも、標題音楽にはさほど惹かれないというのが興味深い。

「ロマン派になると文学の要素が入ってきますよね。このような音楽は、何を基準に善し悪しを決めるのですか?ムードで決まるのなら、それは一人ひとり違うわけで、好き嫌いの問題ですよね。だとしたら良い演奏とは、美しい音だった、よく歌ったなどそういうことになります。もちろん、それ自体を否定するつもりではないのです」

具体的には、R.シュトラウスの《アルプス交響曲》のような楽曲に対して、「So what?(それがどうした?」と思ってしまうのだという。もう、そうした物語性のある音楽は映画との仕事のなかで充分追求してきたからこそ、クラシック音楽に「本籍地」を戻した現在は、いわゆる絶対音楽に注力しているのだ。そして、もう一つ久石のベートーヴェンを語る際に重要なファクターとなるのがナガノ・チェンバー・オーケストラ(NCO)である。

「開館準備から長野市芸術館の芸術監督を務めることになったのですが、観客の皆さんがホール自体を応援するというのが、あんまり想像できなくて。そこで応援対象になる室内オーケストラをつくろうと思いました。東京フィルハーモニー交響楽団のコンサートマスター近藤薫さんに相談した上で、将来を担う若手を中心に、各オーケストラの首席クラスに声をかけたのです。では、彼らと何を演奏するべきか?オーケストラとしての形ができてから、ベートーヴェンの交響曲に取り組むことも考えたのですが、まずベートーヴェンに取り組み、同時に現代の音楽をプログラムに取り込むことで、自分たちがいまどこにいるのかを確認するべきだと考えたのですね」

 

”現代音楽”をふまえて読んでもリズムの扱いが天才的

クラシックの音楽家にとって、ベートーヴェンの交響曲は常に隣にあるべきもの。こうした考えにより、2016年から2年半かけてベートーヴェンの交響曲を番号順に演奏・録音。これが交響曲全集となった。最大の特徴はリズムにある。

「ドイツ流のスタンダードなベートーヴェンの演奏を、私も秋山先生から習いましたが、室内オーケストラで重々しい演奏をするのは無理があります。でも、古楽のように演奏すればいいかといえば、それもしっくりこない。やっぱり自分はミニマルをベースにしてきた作曲家ですから、スコアに書いてあることを素直に読んで、ミニマルや現代のポップスにも通じるリズムを中心に組み立てようと考えました。そういう観点でベートーヴェンのスコアを読み直してみると、リズムの扱いが本当に天才的だと思いました」

その到達点だと久石が語るのは意外にも、演奏機会の多くない「交響曲第8番」だ。

「『第8番』は本当にすべてが上手くいっていますね。第2楽章一つとっても、あそこまできちんと無駄なく、技術的にも非常に上手く書かれており、なおかつ人を幸せにする音楽は類を見ません」

久石が理想の作品と語る「第4番」「第8番」の録音をお聴きいただければ、スコアを読めないかたにもベートーヴェンがどれほど鋭敏なリズム感覚をもっていたのかが、手に取るようにおわかりいただけるはずだ。

長野市芸術館芸術監督の任期満了に伴い、NCOは本拠地を東京に移し、フューチャー・オーケストラ・クラシックスへと名義を変更した。今後もたびたびベートーヴェンに立ち戻り、汲めども尽きない楽聖の新たな魅力をまた照らしだしてくれるに違いない。

取材・文=小室敬幸

(音楽の友 2020年11月号より)

 

 

目次

特集
ベートーヴェン生誕250周年記念特集第4弾 革新の人ベートーヴェン ――名曲から探る後世への影響
(かげはら史帆/久石 譲/小室敬幸/山田治生/越懸澤麻衣/平野 昭/渡辺 和/七條恵子/飯田有抄/西原 稔/高関 健/高山直也)

ベートーヴェンの描いた音楽が、後世の作曲家にどのように受容され影響を与えたのか、またその作風や技術はどのように作品と結びついているのか……。長年にわたり演奏され続ける名曲の魅力を「ベートーヴェン⇔後世への影響」で紐解き考察します。

and more…

 

 

また、同時期に公開されたWebマガジン ONTOMOでは「久石譲が続けてきた音楽を未来につなぐチャレンジ」、これまでの自身の音楽活動をたっぷり語ったロングインタビューとなっています。

 

 

 

 

 

 

 

Blog. 「KB SPECiAL キーボードスペシャル 1997年9月号 No.152」『もののけ姫』久石譲インタビュー内容

Posted on 2020/11/05

音楽雑誌「KB SPECiAL キーボードスペシャル 1997年9月号 No.152」に掲載された久石譲インタビューです。

映画『もののけ姫』について、たっぷり語られた貴重な内容になっています。

 

 

久石譲
アルバム『もののけ姫』インタビュー

「やり残したことはないです」

(インタビュー by 秋谷元香)

宮崎駿監督の集大成ともいわれる話題作『もののけ姫』が7月から公開中だ。音楽を担当しているのは、84年の『風の谷のナウシカ』以来、今回で6作目の宮崎作品となる久石譲さん。その久石さんに、宮崎監督との”奥深い”制作中のコミュニケーションや音作りの方法について、じっくりお話を伺うことができた。

久石さんが宮崎作品の音楽を担当するのは今回で6作目。宮崎さん自身、プロモーション的な意味合いもあってテレビや雑誌などで、今回の作品に関して発言されていた。制作エピソードの中には、久石さんとの今回の音楽に関することも紹介された。その中で、公開前から話題になっていたのは、やはり、宮崎さん自身の”気合い”。構想16年、制作費や制作期間はこれまでの倍になるというエピソード。原画枚数は『ラピュタ』の8万枚に対して12万枚…。

サウンドトラックが、ベーシックにはオーケストラによる音楽であることは、正統派映画音楽の必須条件だから、この映画のサウンドトラック・アルバムもオーケストラ作品になっていること自体、驚きではない。しかし、完成した映画作品から聞こえるテーマ、歌、音楽、すべてが一体になって視覚にせまり、耳の奥に鳴り続ける。

シーンの中心は室町時代の日本を背景にした、”殺戮”と”戦い”、それを取り巻く”自然”。最後の宮崎作品といわれる、この『もののけ姫』をさらに印象づける久石ミュージックの制作エピソードにせまります。

 

●作曲ツールを一新

ー今回のアルバムはオーケストラは全部生ですよね。

久石:
そうです。東京シティ・フィルハーモニック。『もののけ姫』はオーケストラをベースにするというのは、最初からずっと考えていたんです。でも、基本的には、いつものペースでシンセでほとんど全部作りこみました。それだけでもうCDとして出せるくらいのクオリティだったんですけど、それをあえてオーケストラの部分は別に録りました。また、映画の内容からも”日本”というのがすごく大事なテーマですから、生楽器として和太鼓とか篳篥(ひちりき)という和楽器は相当使いました。

 

ーシンセだけで作り上げる時は、生楽器はやはりサンプラーですか。

久石:
今回はね、今まで僕が使ってきた楽器を一新したんですよ。ふつうだと、こういう大きい仕事をやる時は、使い慣れた方法を取るじゃないですか。でも、今回はどうもそれじゃ違うと思ったんです。今まではフェアライトをベーシックにして全体を組んでいたんだけど、今回からAKAIのサンプラーを5台も買っちゃいました(笑)。全部フル・メモリーの状態にしてね。

でもね、いちばん上はループ用に使っているんですけど、下の3つは全部弦用なんです。しかも、1台にバイオリンとビオラという2つの音色を呼んだら、もう終わり(フル・メモリー)なんですよ。で、その下はチェロとコントラバスで終わり。

 

ー1音色で16MBも使っているんですか!

久石:
サンプラーが5台あるけれども、弦セクションと木管系、ループ用と打楽器系用だけなんです。木管系にはフェアライトのほうがいい音色もずいぶん多いから、両方併用という新たなシステムに切り替えて、今回の『もののけ姫』は臨んだんですよ。それがよかったみたいですね。

 

ー『Kids Return』(北野武監督映画のサントラ)の時は、生楽器にヤマハのVL1というシンセサイザーも使われたとおっしゃってましたね。

久石:
VLのほうがやっぱり生の感じは出ましたね。今回もやっぱり同じヤマハのVPを使いました。でもこんなに頻繁に使っているのは、恐らく世界で俺だけだろうね(笑)。

AKAIのサンプラー5台と、ヤマハのVPだとか、それから自分が作ったループだとか、そのへんで今回やったんです。それをベーシックにもう1回オーケストラを組み上げたわけです。シンセだけで、山の8号目ぐらい登っているわけ。もうほとんど頂上。それを最後にもう1回オケでやったという感じなので、全体のクオリティは本当に高かったですね。

 

 

●最初の2発で決まり

ーアルバムの最初に「ドーン」おいう太鼓の音が入っていますね。

久石:
すごいでしょ? あれね、映画館だともっとすごいですよ。椅子とかビリビリいってますから。こんなにいい音で録れるとは思わなかったというのが、正直なところなんですけど。

あの音は、自分のサンプリングで持っている、すごいいちばん重低音の出る「グランカッサ」という西洋的な大太鼓、それからエスニックのモノと、それから実際の東京シティ・フィルの大太鼓と、ティンパニなどをミックスして作った音なんです。でも、結局ティンパニは、芯が出ちゃうから極力抜きました。生の音とサンプリングと全部混ぜた音ですね。大太鼓を録る時にも相当苦労した。叩く場所なども、「この辺を叩いて、それをこっちから録って」とか、相当細かくやって録った音ですからね。出だしで「ドーン、ドーン」って二発鳴った時に、「あ、勝った」って思いましたね。

 

ーひとつの音に対しても、そんなにこだわられていたんですね。

久石:
今回は、なんというか、やり残したという感じはないですね。

この『もののけ姫』は本当に幸せな出会いだったと思うんです。宮崎(駿)さんとかれこれ6本もいっしょにやっていますけど、最初に『風の谷のナウシカ』をやった時と同じ感じでした。それにプラス6本やってきたというある種の深みというか、すごく深いレベルでコミュニケーションできました。このサントラを作りながら「この仕事、終わってほしくない。でも寝ていないから早く終われ」とかいろいろ思いました(笑)。作品ができた時「これでしばらく宮崎さんと会う口実がなくなるな、残念だな」と素直に思いましたね。

 

 

●映画と音楽の構造は同じ?

久石:
映画監督の黒澤明さんがおっしゃるには、映画というのは、あくまで時間軸上に作る建築物なんだそうです。時間と空間軸の中で作るもの。音楽もまったく同じだと思うんです。実際、黒澤さんも「映画の構造は音楽にいちばん近い」ってはっきりおっしゃっていますし。それはすごくよくわかるんです。

僕は、やっぱり今度の映画の中の2時間15分をいかに構築するか、つまり音楽を入れないところも含めて、どうやってテーマをリアルに浮かび上がらせるか、宮崎さんの言いたいことを浮かび上がらせるかをいちばんに考えていたんです。だから、核になるメイン・テーマ曲が、ものすごく重要になってくるんです。

これがサントラを作る最初の段階で、相当納得するものができていないと、メインディッシュ抜きの料理みたいなもので、どんなに飾ったりなんかしても、どうも制作がうまくいかない。

 

ー今回は「もののけ姫」「アシタカせっ記」のメロディーがアルバムを通しての柱になっている感じがしました。

久石:
そうですね…メイン・テーマとしての曲は「もののけ姫」になるんでしょうか。最初はこの曲がメインテーマ曲になると思わなかったんですよ。(自分としては)「こういうのもあっていいや」という感じの曲だったんですけど、宮崎さんがあんなに気に入るとは思わなかった。自分としては、『もののけ姫』という大作ですから、もう少し勇壮な世界観のあるものをメインに据えようと思っていたんですね。

でも、ああいうさらっとした曲があったおかげで、かえって世界観が、結果的には作りやすかったですね。まあ、トータルでいうと「アシタカせっ記」という曲がメイン・テーマと取れるかもしれませんね。アタマにあって、大事なところに入って、最後に流れてくる。

それで、それを彩る形で「もののけ姫」がその対になった感じで、それで全体を組んでいきました。そういう意味では、構成的にも相当うまくいきました。自分ではすごく納得しています。

 

ー折に触れ、『もののけ姫』の最後にリフレインしている部分のメロディーが顔を出してますよね。

久石:
最後の部分のメロディーでしょ。あれを考案した段階で「勝った」と思いましたね。「いただき!」という感じです(笑)。結局歌の曲のメロディーをそのまま1コーラス使ってアルバムの中に歩かせると、すごくダサイんですよ。「いかにもテーマ曲ですね」みたいな感じというか。だから、いちばん最後のリフレインのところを使って、インスト・バージョンをもう1個作った。それを映画の旅立ちの場面のところから、順番に要所要所、サン(もののけ姫)と出会うシーンなどにその曲をつけていって、それがだんだんメロディーが伸びてきたら、「もののけ姫」の歌になるという。その設計が自分でも相当気に入ってます。

 

 

●”間”を大切にする。

ーぜひ、”『もののけ姫』交響組曲”みたいなものを聴いてみたいな、と思いました。

久石:
交響組曲を作るとすると相当勇壮な感じになるでしょうね…そう、今回のサントラでひとつ言えるのが、戦いのシーンなんかは極力音楽を控えめにしたということです。地味めなサウンドにね。音楽家ってどうしても戦いのシーンなんかになると、自分のワザを駆使して、ジャーンって効果音と張り合ってやってしまいがちなんですけど、そういう誘惑は一切断ち切って、むしろ戦いが終わってからの主人公の気持ちなどのほうに音楽をつけることに集中しました。だから、戦いのシーンは必要最小限の音楽で、極力隙間の多い戦闘シーンの作り方をしていますね。

”間”というのか、わりと沈黙をどう作るかというか、それは、いちばん気を使った部分ですね。なにか、沈黙を作るって、音楽家は恐いんですよ。次々とメロディーを出したくなるから。だけど、あえてそういうのをずいぶん作っている。『レクイエム』なんかはそうですよね。だから、その作りが相当うまく、自分の中では新しく、「こういう表現も成り立つんだよな」って。その辺は自分でもすごく嬉しいところですね。

 

ー”間”といえば、「神の森」でも…。

久石:
音を抜くところ? それが相当、従来だともっと勢いで押していたけど、止めるということをずいぶん今回やりましたね。今回今まで使っていないやり方、新しいやり方では、もちろん音源を入れ替えたりというのはあるけれど、シーケンサの組み方自体も、すごくテンポを変えているんですよ。1曲の中でもものすごくテンポを変えている。なおかつ、映画のひとコマ=1フレームが1秒の1/30ですが、これにぴったり合わせている。あるいは、合わせた上であえてずらす。そういうのが1曲の中で最低6~7カ所はあるんですね。異常ですよね。リタルダンド、アッチェレランド、急激なテンポの変動というのが絶えずあって、それでシーケンスを組んでいるから、すっごい大変。

同じテンポで通した曲って、40曲中3~4曲ぐらいしかない。後は全部途中でテンポが異常に変わってますね。

 

ーすごく作り込まれている感じですね。

久石:
トラックダウンだけでも、10何日間かかりました。これはひとつには、デジタル(処理)というやり方に対するノウハウが、日本にないんですよ。L/C/R、つまりレフト/センター/ライトのスピーカーに後ろのL/Rと、あとスーパー・ウーハーという6チャンネルですから。ハリウッドやなんかでは、10年ぐらい前から、ほとんどの作品をそれでやってます。だけど、日本では、『耳をすませば』についで2度目ぐらいで、本当にノウハウがないんですよね。ハンデがありますね。

つまり、トラックダウンをやっていて、これでいいのかどうかという基準になるものがない。1回トラックダウンをしますよね。それでMAのところでかけてくる。そうすると「あ、後ろの音が弱い。もっと大きくないと迫力がない」となると、また戻ってやり直し。そういうところでね、僕の考えとしては、作曲というのはもう仕方がないわけ。これは俺の能力の問題で、いい曲ができなかったらそれは俺の問題だ、と。だけど、トラックダウンだとかいうのは、あくまでも技術的な問題だから。技術的な問題というのは、みんなが努力したら絶対ある程度は行けるんですよ。そんなところで自分の音楽がだめになるというのは、絶対に許せないから。とことんTDやりましたよね、やれるところまで。

 

 

●人間の”二面性”を体現するボーカル

ー「もののけ姫」はインストゥルメンタル・バージョンがありますね。

久石:
インスト・バージョンでメロディーをとっている楽器は、4タイプぐらい録ったんですよ。篳篥、竜笛(りゅうてき)、ケーナ、それからもうひとつなんだったかな。結果的にいちばんクセのないケーナを選んだんですよ。インストゥルメンタルでボーカル曲をやると、本当に陳腐になっちゃう。それをどう避けようかというのがやっぱりあって。

それは、歌と同じぐらい説得力があるインストゥルメンタルがメロディーをとっていないと、相当難しいんです。今回はたまたまケーナだったけど、希望でいうと僕は篳篥で行きたかった。だけど、映像と合わせると音楽が強くなり過ぎてしまったんです。つまりその曲は、サンが乾し肉をかんでアシタカに口移しするシーンつまりラブシーンともとれるシーンに使われているんですね。だから、妙にムードに際立たせられると宮崎さんが恥ずかしいわけですよ(笑)。

あっ、そうそう、その場面でおもしろい話があるんだけど、逆にムードを際立たせるような曲を、あえて1回目に宮崎さんに聴かせたんですよ(笑)。口移しをした瞬間に、「ザァン!」とかいって、ハープかなんかで「ピロロ~ン」とかいって思いっきり盛り上げてやったら、宮崎さん下向いちゃって(笑)。「う~ん、もっとさりげなくできませんか?」って。だから「そうですよね」って。これが通るわけないと思ったんだけど、1回やっておきたくて。まあ、これだけ長い仕事やっていると、そういう遊びぐらいあってもいいかな、と。

 

ー「もののけ姫」のボーカルも、すごく不思議な雰囲気ですね。

久石:
カウンター・テナー米良美一(めら よしかず)さんのボーカルですね。カウンター・テナーというのは、外国ではそんなに珍しくないんですよ。男の人の裏声状態なんですけど。でも日本でこれだけの人はいないですね。

正確に言うと、カウンター・テナーは男性の裏声を使っているためにソプラノの音域には行かなくて、女性のアルトの音域までをカバーするんです。実のところを言うと、アルトというのはやっぱりちょっと暗めになる印象が僕の中にはあって、もしかしてメイン・テーマではどうかな、という不安はあったんですよ。男の人が歌っているという先入観を除いて、純粋に音楽的に大丈夫なのか、暗くならないかという心配が、僕にはあったんです。だけど、やっぱり米良さんは本当にすばらしい歌手で、そういう心配は無用でしたね。

恐らく宮崎さんは、今回の”犬神モロ”というキャラクターの声優に美輪明宏さんを起用したことに象徴されるように、”ひとりの人間の中の二重構造”とか、もっと言ってしまえば、”ひとりの人間の中の善と悪”を意識されていたんではないでしょうか。だから、内容的には、けっして山を切って鉄を作っている人たちを”悪”とも決めてないですよね。要するに、ひとりひとりが矛盾というか、二律背反するものを抱え込みながら、それでも生きていかなければいけないというのが、いちばん深いテーマとしてあったと思うんです。米良さんの声を聴いた時、恐らく宮崎さんは”男性なのに女性の声”というその複雑さにすごく興味を持たれたんじゃないかなという気がするんです。

(「KB SPECiAL キーボードスペシャル 1997年9月号 No.152」より)

 

 

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Blog. 「KB SPECiAL キーボードスペシャル 1988年11月号」 久石譲インタビュー内容

Posted on 2020/11/03

音楽雑誌「KB SPECiAL キーボードスペシャル 1988年11月号」に掲載された久石譲インタビューです。同年1月号から開始された連載の第10回で、オリジナル・ソロアルバム『Piano Stories』についてたっぷり語っています。

 

 

HARDBOILED SOUND GYM by 久石譲
VOL.10
「ナウシカ」のイマジナリー変奏曲

ピアノ・アレンジにもとづいて録音された「Fantasia (for Nausicaä)」、久石さんは”テレやはずかしさ”があるとはいえ、やはり代表曲。今回もこの曲を中心に。

 

まず先月号の訂正から。ページの最後に「2重奏によるナウシカのスコアを掲載する予定です」とありますが、これはあくまでもソロ・プレイです。久石さん自身の最初のプランでは「ダイナミックになり過ぎる。それをもっと抑えたかったから2重奏で、と考えた」ということなのですが、しかし、実際にやってみたら、最初のプレイの”揺れ”に合わせてダビングするのが難しく、結局、アルバムには、その直後、ソロでプレイしたものが収められています。読者のみなさん、そして、久石さん、ごめんなさい。

というところで、この2重奏→ソロの経緯のお話から伺うことにします。

 

呼吸しているメロディーの微妙なノリ

ー「Fantasia (for Nausicaä)」のレコーディングのときのお話を確認の意味でもう1度聞かせてください。

久石:
『ピアノ・ストーリーズ』を作ったときの、僕の中のナウシカの扱いから話しましょうか。

重複しちゃうかもしれないけれど、僕の中に非常に難しいものがあるんです。なぜなら「久石譲イコール、風の谷のナウシカ」という公式が出過ぎちゃう、あの曲が僕の名刺がわりになり過ぎてる。するとやっぱりテレもあるし、はずかしさもあるんです。

ふつうはこれが代表曲ですっていうものがあれば開き直れるのかもしれないけど、僕は少しはずかしい。それがいつもついてまわるわけですよ。すると『ピアノ・ストーリーズ』で、自分の、久石譲メロディー集でいうと、こういう曲がメインになるのがふつうのはずなんですよね。

だけど、7分近い大曲にした割には、むしろ後ろの方で抑えた状態で収録してある。しかも原曲にいちばん遠いかもしれない。中のいろんな音楽、音型を出してみたりしつつ、変えて作ってしまった、と。それはやっぱり作家の中でその楽曲と自分との独特の位置があるわけですよ。

まあそういうことが前提にあって、当初はピアノの2重奏でやりたかった。実際には、ダビングを1回しようとしたんです。なぜかというと音域が広いのと、部分的に、1人でやろうとするとかえってやかましくなり過ぎるところがある。たんたんとさせるためにも2つでやったほうがいいだろうと考えたんです。

ところが今回のピアノ集は全体にそうなんだけど、ふつうはドンカマと言って、リズムをうすく入れて、その中で自分が自由に弾くということをするんですが、今回はひとつもドンカマを使っていない。そのためにメロディー・ラインが自由に呼吸してるわけ。そしてこの日も第2パートから入れてみたんです。7分近い中でピアノを2重奏にする部分は、ほんの1コーラスだけだったんです。ほんの一部だった。ところが今度、それを入れちゃったら、それに合わせようとするんです、音楽が。すると、それまで呼吸していた音楽が一気に死んじゃった。

 

ー音楽が合わせようとする、というのは?

久石:
自分で合わせようと思うわけだけど、それは、音楽のほうで、入れてあるパートに合わせて弾くように働きかけてくる。そこでもう、何か世界が違っちゃうんです。微妙なタイミングのズレが出るわけですよ。

ドンカマが入れてあれば、まず第2パートを合わせて入れて、次にそれに合わせてメロディー・パートを入れるということができるかもしれないけれど、第2パート自体もエモーショナルに弾こうとすると、すでにそのテンポが揺れている。その揺れているヤツにもう1回自分で重ねようとすると、よほど何百回というリハーサルをやって同じような揺れにならない限りは、滅多に合わないですよね。

それでかなりのところまでは合ったの。でも他の人が聴いたらそうは思わなかっただろうけど、自分の中では、精神的な呼吸感が、もう違うから、ダメだって思った。で、スタッフも全員そう思ったので、もうこのスタイルはやめようということになったんです。

ところがこっちも2重奏のつもりでスタジオに入っているから、いきなりやめるというのもまずい。また練習して戻って来るというわけにもいかない。

それで結局、そこでまた全部壊して…、まあアレンジしてあった形はそのまま生かしてその場で一発録りみたいなかたちで録ったんです。それが、あの『ピアノ・ストーリーズ』の中の「ナウシカ」なんですよ。

 

不思議な響きのルーツにいたのはマル・ウォルドロン

ー2重奏にしたかった部分というのはどのへんですか。

久石:
途中で盛り上がっていくところでね。ちょっと音自体は抑えたいんだけどぶ厚さが欲しいわけ。それができないわけではないことはわかっていたんだけど、いろんな音型をにらみ出すと、非常にヴィルトゥオーゾ…名人芸というかテクニックを披露するような音楽になりやすいんだ。それを控えたかったんです。

 

ーそれであの形になったわけですね。

久石:
そう。そのへんがあの曲を録るときの難しさだったんですね。

だから今回の『ピアノ・ストーリーズ』をやっていていちばん思ったのは……、みなさん言うのは、非常に不思議な音楽だ、ということなんです。ピアニストの練習は、バイエルから始まってツェルニーの30番、40番とやってくると、当然クラシックの音楽には独特のスタイルがあるわけですよ。それは何かというと3度、5度、6度構成という音の関係の練習でしかないんです。あとスケールとね。これはテクニック自体のことだけど、それの組み合わせでできていると思って間違いない。

ところが僕の音楽というのは4度体系なんですよ。だから、ド・ファ・シと押さえていってしまう。ある意味でジャズのテンションに近いものがあるんです。けれどジャズから出て来ているテンションではないんですけどね。で、そういう積み重ねが多く出てくる。すると、パッと押さえた瞬間の指の形、指の幅がクラシックの人とは違うんです。パッと押さえた指が、クラシックの人はド・ファ・ラとか、ド・ミ・ソとかクラシックの形態のところに指が行くんです。このへんが、ちょっとクセがあってやりづらいところかもしれないんですけどね、ピアノに関していうと。

ただこれは、自分のアレンジものも全部ひっくるめて、響きの原点みたいなところなんです。

で、『ピアノ・ストーリーズ』の話に戻すと、非常に不思議な音楽だと言われたと。ピアノのテクニックっていうのはリチャード・クレイダーマンみたいに、ドソミソ・ドソミソとかパターンがあるんです。左手の音型にしろ何にしろ。ところが僕のピアノは全部その形態がはずれているんですよ。

じゃクレイダーマンではない。それならレイモン・ルフェーブルかと言ったらそれでもない。ではジャズか? それでもない。そのへんのギリギリのところで作っていたんです。

で、僕のタッチというのはすごく強いんです。いいか悪いかは別として頭の中で、ピアノというのは打楽器みたいなとらえ方をしているために、きれいな響きを作ろうとするよりは、”ガシーン”と叩いた太鼓が鳴ったと同じような打楽器的な効果が自分では好きなんです。そのままの感覚でピアニッシモもあるんです。

 

ー打楽器的なピアニッシモ…?

久石:
ようするに響きをきれいに出す方法というのは僕もクラシックの奏法として習ったし、あるんだけど、僕のピアノ奏法の発想にはそれがないんです。

それで、これは誰に近いのかなと僕もずっと思ってたんだけど、今度11月に出すアルバム『イリュージョン』の中のタイトル曲「イリュージョン」、これもピアノ曲なんですが、これは少しジャジーな要素を入れてあって『ピアノ・ストーリーズ』よりジャズっぽいかんじがする。それを聴いたある人がこう言ったんですよ。タッチはマル・ウォルドロンだ、と。

僕は17、8歳…高3の頃からレコードでマル・ウォルドロンを聴き漁ってね。だから現代音楽を聴いてるかマル・ウォルドロンを聴いてるかっていうくらい彼が好きだったんですね。『オール・アローン』っていうピアノ・ソロなんか全曲コピーしましたもんね。

 

ーそういう一面もあったんですか。

久石:
そうなんだ。それがこの年齢になってソロ・アルバムを作ってピアノで勝負しなくてはならないときに、はからずも自分の音楽のタッチというのはそういうところにあったなっていうことに、後で気付いたね。

マル・ウォルドロンっていうのはビリー・ホリディのバックで、ピアニスティックに弾こうとしたとき、ビリー・ホリディから「歌えないフレーズは弾かないほうがいい」と言われて、できるだけシンプルに、心を込めて弾くようになった人でしょ。オスカー・ピーターソンとは対極にあるんですね。今、ピアノのテクニックというのはいかに早く機能的に動くかという運動に終始してる。ジャズにしても練習となると、そういうところで終始してる。比較的ね。スピリットとかいいながら、興奮してきたら、いかに16分音符を正確に弾くかとか、そのへんがピアノ・スタディの原点みたいなところがあって、それはそれで大切なんだけど、マル・ウォルドロンはそれとは180度違っていた。ただし、彼は根っからのジャズ・マン。僕は現代音楽からやってきて、こうなってきた。そしてメロディーという共通項で仕事をしようとしたとき、ジャズという土壌と僕の土壌は全然違うんだけど、”アプローチの角度”は似たかもしれないね。いかにシンプルに音楽を相手に伝えるかという姿勢はね。タッチが強いという点もひっくるめて思わぬ共通性を最近感じてとまどってるんですよ(笑)。

(KB SPECiAL キーボードスペシャル 1988年11月号 より)

 

 

久石譲 『piano stories』

 

 

 

Blog. 「キーボード・マガジン 1989年3月号」 久石譲インタビュー内容

Posted on 2020/11/02

音楽雑誌「キーボード・マガジン Keyboard magazine 1989年3月号」に掲載された久石譲インタビューです。オリジナル・ソロアルバム『illusion』についてたっぷり語っています。

 

 

”鏡のような音楽”に秘められた超一流のサウンド・テクニック

優れた音楽は耳に優しく、それでいておどろくほどの技巧を内包している。虚飾をそぎ落とした無駄のない音の数々。それはまるで、多種多様の光線を含みながら特定の色を感じさせない陽の光のようなものだ。

ー全体の概要について教えて下さい。

「前作の『ピアノ・ストーリーズ』なんかは、聴く側が勝手に心象風景を自分たちで投影しやすかった。こちらから押し付けがましいメッセージがない分ね。今までそうやって作ってきたんですけど、長年やってくると、もっと直接的にメッセージを訴えかけたくなる。それには歌の表現がいちばん適切なんです。僕は井上陽水さんとか中島みゆきさんとか、非常に歌のうまい人の仕事をいっぱいさせてもらっていたんで、中途半端に歌はやりたくなかった。で、今回いろいろやってみて、何とかいけそうじゃないかということで。アレンジャーだとかいろんな人が、サウンドの一部として歌を歌うみたいなのがありますけど、あのてのものはやりたくなかったんですよ。どうせ歌うなら、徹底して歌をやる」

ー最初から完全なスコアがあったわけですか。

「いや。ラフなものをフェアライトで作ってるんで、スケッチみたいなものから始めて、ベーシックなものを作るわけです。スコアをおこすことは最近めったにやらないですね。譜面を書いてる時間がないし(笑)、ベーシックなものができた段階で頭に全部入っていますから」

ー作業としてはフェアライトでリズムを作って、それに生のストリングスを合わせるという形になるんですね。

「そうです。仮で入れておいてやるケースもありますしね。最初から、たとえば弦なんかを入れると決めておく場合と。いろいろなんですよ」

ー今回の弦アレンジの特徴は?

「このアルバムに入る直前までの、僕の弦のスタイルというのは確率されていたんですね。いろんな人の歌のときのバックのスタイルとか、あるいは、フル・オーケストラで8-6-4-4とか(注1)6-4-2-2とかいう編成で歌用、オーケストラ用、映画用とか、自分なりの癖が確立されていた。ですから、またゼロから、全く弦が書けない状態に戻して、普通ならこうくる、というのを極力排除してアレンジしました。もう1回クラウス・オガーマンとか、あのへんの弦アレンジを聴いたりとか。そういうのを徹底しましたね」

(注1)弦の編成。第1バイオリン、第2バイオリン、ビオラ、チェロの順に数を表す。

ー弦の編成は?

「全部6-4-2-2です。僕は絶対ダビングしませんから。弦はキーで配列が全部違いますけど、そのポイントさえ押さえれば、2倍にも3倍にも鳴らすことは可能なんですね」

ー弦アレンジのどこをどう変えたんですか。

「断片的なんですね。たとえばA-A’-B-C、そしてサビへ行くとするでしょ、するとだいたいA,A’は休んでてBくらいから入って、Cで盛り上げて、とかね。弦が駆け上がってサビに行くとか、パターンがあるでしょ。今回はAの後半に突然ちょこっと弦が出たりとか、そういう断片的な独立の動きをけっこうさせました。「ナイト・シティー」のCのサビなんかは、普通だと弦が駆け上がっていくんですが、フレーズはブラスにまかせて、逆にブラスっぽい動きを弦にさせている」

ー「ナイト・シティー」ではディビジ(注2)をつかってますね。(譜例1参照)

「今までなら、6-4-2-2しかいないときは、ああいう高いポジションでディビジは使わなかったんです。それをあえて今回は……」

(注2)ひとつのパートをいくつかの声部に分けて、人数を配分する手法。div.と表記する。

ーそれもパターン崩しの?

「そうですね」

ーディビジは3-3ですか。

「だいたいそういう形になります」

ー中間部のバイブ・ソロのところは凝った展開をしてますね。

「今度のアルバムって全部そうなんですよ。ただ、そんなこと譜面を見なかったらなかなか気づかないでしょうね。表面はポピュラー・ミュージックなんだけど、再現してみようとすると思っても簡単には絶対できない」

ーソロ前の2小節なんかも面白い展開をしているし……。

「そのへんが大変なんですよ。そのたびにベーシックでコードを何度も取り替えましたから。この曲だけでベーシックを3回か4回録り直しています。結局、ドラムだけ生かして、コードを差し換え、差し換えで」

ーサビに行くところは非常に転調感が強いですね。劇的というか。

「今回はだいたいそうなんだけど、間奏部分が原調のキーと同じやつがほとんどないんです。全部いろんなキーに跳んでいっちゃってる。日本の曲ってあまりにも単純すぎるんです。外国の曲って、ヒット・ポップスにしたってサビからキーが変わるなんて当たり前でしょ。それが日本では最初からDmの曲だったら、ずっと全部Dmでしょ。その単純さはやめなきゃいけない。転調感を持たなかったら絶対、外国では通用しない。たとえばこれC#mなんですよね。それで間奏がEmなんですよ。そうすると、これは短3度上だから非常に遠い。普通だと、平行調だとか、シャープやフラットが1個多くなったり少なくなったりするくらいでしょ。で、とんでもなく遠いキーに跳ぶわけ。もっとすごいのは、A durの曲が間奏でE♭mになって、Fmに行っちゃう。長3度低いマイナーのキーになるわけです。ですから、どう見ても近隣調の範囲には入らない」

ー「風のハイウェイ」のサビに行くところも調感が大きく変わりますね。

「パーッと世界が変わるでしょ。こういう感じが大事なんですよ」

ーいちど崩してしまうと、テーマに戻すのが大変という気がしますが。

「難しいですね。外国の一流のアレンジャーはそれがうまいんですよ。アレンジャーというか、外国の曲のうまさというのは、サビに行くときに、日本のアレンジャーだとA-A’は同じとしてもBで少し変わって、サビになるとまたリズムが変わるでしょ、ドラムのパターンとか。ところが、マドンナでも何でも、リズムはほとんど変わらない。せいぜいスネアを1個抜くか抜かないくらいなのに、ちゃんとサビで世界が全部変わってるでしょ。あれがすごい。日本の曲は変えてるつもりなんだけど、歌が変わってないし何も変わってないから、色が変わらないんです。色彩感がとぼしい。いろんな音をいっぱい入れたら色彩感があると思われてるけど、逆に、極力抑えているからこそ変わった瞬間のインパクトがあるんですよ。映像なんかの仕事でも、このへんは一流とそうでない人の差なんです」

ー「冬の旅人」の中間部がピアノ・ソロになってますね。

「ここはピアノを聴かせるために弦を入れてないんですよ。リズムをうんとスカスカにしちゃって、そうするとピアノが浮き立ってきますよね。弦にしても1コーラス目と2コーラス目で必ず変えています(譜例2)。後半はピアノがだんだん小さくなって、弦を出しているんです。フェード・アウトしながら弦がだんだん大きくなってくる。これはね、全体を普通の曲に仕上げたかったんですよ。いわゆる昼の恋愛ドラマですから。すると、サビに戻るときの部分にいつものアバンギャルドな部分を集約させておいて、あとはいかに歌をちゃんとさせるかという」

ー弦の駆け上がりなんかは……。

「ヘンなところでしかやらない(笑)」

ー弦のフレーズにしても、クラシカルですね。

「頭の中ではブラームスを意識してるんですよ。歌のメロディ自体、ピアノで弾くととてもブラームス的なんです。すると、どこかでクラシカルな格調をのこした弦やピアノのアレンジをしたい。そこから考えてこういう感じになったんです。「ナイト・シティー」とは全然譜づらが違うでしょ(譜例2)。このへんがやっぱり大事なところで。これも徹底しないとおかしくなる。日本のアレンジってだいたい中途半端なんだよね。それをきちんとすれば色彩が明確になってくる」

ー歌をメインにしたアレンジで大切なことは?

「最も大事なのは、歌のバックに入っているオブリガートのフレーズが歌をじゃましないこと。次に大事なのは、それぞれのフレーズがぶつかり合わないことですね。これが絶対条件です。『鏡の音楽』と僕は言っていますけど、できるだけ削る作業。とりあえず削って、削っていって有効なフレーズがきちんと有効なところに入っていれば、ベタに弾いてないのに全体がとてもゴージャスに聴こえる。昔、ロンドンでケン・ソーンとかロイ・バットなんかの、超一流のアレンジャーと言われる人の仕事をまのあたりにしたことがあったんです。そのとき彼らが『アレンジのコツは、コードからはずれた音をどう使うかだ』と言ったわけです。ド・ミ・ソのときにドとミとソを使うのはイモで、そのときにレ・ファ・ラ・シのその他の音をどう入れるか。これをやるとぶつかった色彩感が出てくるんですよ。瞬間でもいいわけです。つまりジャーンってド・ミ・ソを鳴らしますね。鳴った瞬間に、弦がレ→ミって行くと、出だしはド・ミ・ソにレが鳴ってるわけですね。これは別に違和感はない。コードが鳴った瞬間に他の音をどう入れるか。倚音(いおん)とか経過音とかいろいろあるけど、そういう音をいかに使っていくかでコード的色彩感が倍増するんです。メジャー7thとか9thとは、そんな単純なものじゃなくて。それをうまくアレンジしていかないと、特にオーケストラの曲はできないですね」

(キーボード・マガジン Keyboard magazine 1989年3月号 より)

 

 

久石譲 『illusion』

 

 

 

Blog. 「GAKUGEI 1996」久石譲インタビュー内容

Posted on 2020/11/01

青山学院女子短期大学の冊子「GAKUGEI 1996」に掲載された久石譲インタビューです。とても具体的で突っ込んだ内容は読み応えあります。

 

 

久石譲さん(作曲家)

音楽家になろうと決めたのは、三、四歳。それ以外(の職業)は考えたことがない

ーはじめに、「久石譲」さんという名の由来を教えてください。

久石:
学生時代、テレビなどのアルバイトのために、友人につけてもらいました。江戸川乱歩が、エドガー・アラン・ポーからきているように僕も、外国人の名前でいいのないかなって思ったのですよ。そしてクインシー・ジョーンズを使ってみたんです。一回こっきりのつもりだったんですけどなんとなく気にいってたのでそのまま続いちゃったのですよ。

ー先日行われたコンサートのお話をきかせてください。

久石:
今年、自分のコンサートをまだやっていなかったので、軽い気持ちで、小さいのをやりました。ピアノのソロコンサートは、初めてです。しかし、規模が大きかろうとと小さかろうと、弾くという行為に変わりはなく、プログラムは凄まじくハードでしたね。一日に十時間位練習しました。結果には、満足していますが、正直な気持ちこんなに大変とは思いませんでした。(笑)

ー舞台で弾くのは緊張しますか。

久石:
緊張はいつでもしますが、あがることはありません。前日までは、胸が締め付けられるほど、緊張していても、ピアノの前に座ると落ち着きます。オーケストラでは、二千人の聴衆より、ピアノの左にいる、「小さなころから、バイオリンを習い、留学し、コンクールで入賞している人」が審査員のような気がして、ガマの油のようです。

ー音楽以外の趣味は。

久石:
ウーン…あんまりないですね。強いてあげれば、泳いだり、体を動かすことは好きです。

ー家にこもりっきりってわけではないのですね。

久石:
体育会系ミュージシャンと言われたぐらいですから。(笑)昔は一日中、家にいて作曲などしたけど、今はだめですね。気持ちが変わらないから。

ー普段どんな音楽を聴きますか。

久石:
ありとあらゆる分野を聴きますよ。本当にプライベートで、ひとりで落ち着いたときは、モーツァルトなどのクラシックや、イギリスのピーター・ガブリエルです。

ーご自分の曲は聴かれますか。

久石:
聴かないです。作ってから仕上げるまで、何百回も聴いてますから、世の中に出る頃には「もう聴きたくない」という状況か、次のアルバムにとりかかっていますから、仕事以外では、自分で好んでは聴きません。

ー出来上がった映画はどうですか。

久石:
試写会だけです。

ーテレビで流れていると…

久石:
照れ臭いです。映画って、二時間なら二時間、長い時間を設計するわけですよね。そうすると、色々な意味で、「ああすればよかった、こうすればよかった」という反省が多くて、一年以上経たないと冷静にみられないですね。

 

 

ー学生時代のお話を聞きたいと思います。どんな大学生でしたか。

久石:
…つっぱっていて、鼻持ちならない(笑)学生だったかもしれない。高校は女性が各クラス一、二名しかいない共学で、ほとんど男子校だったんですが、音大に来たら立場が逆になって男女比が一対一〇くらいで、一瞬「どうなったんだろう」って思いました。だから音大の人たちよりは、よその学校の人とつきあっていました。自分が何をするかに集中していたから、あんまり大学通っていた感じがしないんですよ。四年生でまとめて単位とった感じです。学生時代から、外でコンサートをしていましたし、有名な作曲家に委嘱して、プロデュースしたりしてました。

ーす・ご・い。

久石:
音大の先生から、売り込みにきましたから。そのくらいガンガンにやってました。そういう意味で、つっぱっていましたね。学内では、先生方でも聴いたことのないような譜面を見つけてきて学生を集めては、練習させ、月一回コンサートを開いて、自分で全部やっていました。だから変な話、三年生ごろ先生から「授業出なくていい、お前が出るとうるさい」と言われました。先生より知ってましたからいろんなこと。だから何か一言先生が言うと、「あっ、すいません、それ古いんです。今はもうこうなってます。」とかいちいち言うもんだから、「単位はあげるから出ないでいい」そんな感じでした。だからあんまりまともないい学生ではありませんでした。

ーどうして先生より、そんなに知っていたのですか。

久石:
音大って、基本的にクラシックの古典中心の教えですよね。それはそれで音楽大学って、すごくいい。今思えばもっと勉強しとけばよかったけど、それは、英語勉強すればよかったとあとで思うようなもので、必要に迫られてなかったし、もっと新しい動き[コンテンポラリーミュージック]を追求したかった。それは学校ではできなかった。だから自分で、楽譜を探したりレコード買ったりするしかなかった。

ー学生時代の一番の思い出は。

久石:
…暗かった。(笑)絶えず何かに焦っていた。自分の音楽はどんなものを書いたらいいのか、そういう悩みが多かった気がします。あとはよくみんなで飲んだこと。

 

 

ー四歳のころから、バイオリンを習っていたそうですがそれは誰の意志ですか。

久石:
あのー、本当のところは分からないんですけど、たぶん僕の意志なんです。

ー小さい頃から音楽が好きだんたんですねー。

久石:
ウン、おもちゃのようなものを鳴らしているか、歌を歌っているか、レコードを聴いているか、朝起きてから夜寝るまで。

ーピアノではなくて、バイオリンだったわけは。

久石:
楽器屋さんの前を通ったとき、凄くかっこよく見えて「これやりたい」って。

ー久石さんにとって、音楽とは。

久石:
…ウーン…ALL OF MY LIFE、空気のような存在。僕が音楽家になろうと決めたのも、三歳か、四歳の頃なんですよ。つまり音楽以外考えた事がない。数多くある自分の外側の仕事から音楽を選んだのではなくて、自分の内にあるものだった。そのままここまできていることは本当に幸せです。もし自分が音楽をやってなかったら、とてもじゃないけどまともな人間になれなかった。エゴとかいろいろなことを含めて。僕が僕でいられるのは音楽を抜いたら考えられない。音楽をやることによって、最低限の人間らしいことができている。或いは普通の人だったら、とてもじゃないけど許せないことも、ものを作るという一点のために、世間と少しずれた行動をとってたりする。それは自分と音楽の関係で計っているものだから、世間の物差しとはちょっと違うよね。そういうときやっぱり、音楽を抜いちゃったら、自分は存在しないよ。

ー行き詰まったことはありますか。

久石:
しょっちゅうです。僕は、一時間おきに自分は天才だと思い、そしてもうだめかもしれないと思ってたりしますから。ただ僕は、考え方に合理的な部分があって、たとえば一時間の曲を頼まれたとする。一時間なんて大曲でしょ。しかもオーケストラでって言われたら二、三年かかちゃう。でもね、一時間の曲って、一〇分の曲だと六曲、五分の曲なら一二曲。僕は書くのが早いから五分の曲なら、一日でできる。すると一二日間で出来上がる。もっと言うと、一二曲全部違う曲を書いたらまとまりがつかない。そうすると、メインテーマのメインフレーズが何箇所かで出てくるから、これは実質七曲以内。僕の場合、一週間でできると言える。つまり、ある目標があって、どうするか考える時、みんなこの全体を見てしまうから「自分にできるか」って舞い上がるかもしれない。でも僕なら「これは何と何でできている、だから、自分ならどうなる。」そういう組立がうまいんです。

ーと、言うことは理系の頭ですか。

久石:
僕は感覚的に作曲したことはないです。論理的に割り切れることは割り切ってやる姿勢だから。

ー生活の中でフレーズが浮かんできて作曲することはありますか。

久石:
全然ない。(笑)

ーそれでは、即興で作曲はなさらないのですね。

久石:
遊びではよくやります。でも自由な音楽ってありえないんだよね。例えば、ジャズは基本的にコード進行など色々な規制の中で遊ぶわけで、ただの自由ではない。人間の生き方もそうなんだけど、勝手に生きなさいって言われれば、民主主義でもなんでもないわけで、ルールをきちんと守るからこそ、その中でどうやって自由にするかっていうところがあるじゃない。インプロビゼーション(即興曲)っていうものは僕の考え方ではそういうとらえ方ですね。

 

 

ーでは、人生と岐路についてお聞きします。生きがいは何ですか?

久石:
音楽でしょう。それ以外考えたことないです。それぞれの年代のときにそれぞれの形で常に音楽と向かいあってきたからね。かけだしの頃は「いい仕事がしたい」と思っていましたし、少しいい仕事が出来るようになると今度は「自分にしか表現出来ない世界をつくりたい。」いつもそう思いながらやってきたから、でも今になってもまだ表現していないことってあるから、ずっとそれがテーマになるだろうね。

ー音楽の道を選んだ訳を教えて下さい。もし作曲家にならなかったら何になりたかったのですか?

久石:
音楽を選んだのはさっき言ったように、三歳頃からもう決めていたから。ただ音楽と言っても、歌手になる道もあれば、演奏家になる道もあるし作曲家になる道もある。中学生位のときに吹奏楽などの音楽関係のクラブをやっていて、演奏するよりはその演奏の大基をつくる方が自分には向いていた。再現してやるもの。これが弾けたという喜びを余り感じなかったからね。それで自分はものを造る方がいいと思いました。

ーその頃からご自分で作曲なさっていたのですか?

久石:
うん、知ってる曲があったとして、これをみんなでやりたいって時に、音とって、譜面かいて、それをみんなに配って演奏する訳だ。それで音が出たときの感動といったら。その喜びって、やっぱり今でもあって、オーケストラでかくとかね、レコーディングなどでかく時に、本当は譜面かくの嫌いなんだよね。なんだか学生が残されて宿題やっているようでさ。(笑)何でこんなことしなくちゃならないんだろうっていつも思いながら、もうこれで止めたいっていつも思うんですよ。けれどスタジオで何十人という人が集まって、一斉に音を出したりすると、毎回同じテンションで、同じ真剣さで感動していますからね。そういう意味ではこれが自分の天職だな、と思いますね。

ー久石さんに影響を与えた人物・出来事を教えて下さい。

久石:
精神的な影響を受けた人っていうのは、二十歳位のときにテリー・ライリーっていうミニマル系のアメリカの作曲家の作品を聞いて、それが自分に影響しているな、と思うことはありますね。

ーそれから作風が変わったということですか?

久石:
ええ、結局作風を変えるといっても「はい、これ。」って変わらないじゃない。だからその音楽に対して自分がなじんで、その世界と同じような、自分独自の世界を作るような努力、そこから始まった訳ね。それから十年位はかかるけど、少なくとも自分がミニマル系の作曲家に変わったという感じならある。

ー幼いころから周囲の環境も音楽に関係のあるものだったのですか?

久石:
なかったよ。父は高校の化学の教師だったし。ただみんな音楽は好きだった。映画も家族でしょっちゅう見たし、そういう環境であった訳だから、いろんな意味で言うと自分がどうしても求めたんだな、と思います。

ー音楽をやると決めたとき、親の反応はどうでしたか。

久石:
冷たかった。(笑)やっぱり世間並の反対はあったりしましたよ。だけど、そんなに凄い反対ではなかった。自分でやりたかったら、と最終的には。たぶんテレビに出る歌手になりたいとか言ったりしたら、大変だったろうと思うけど。(笑)音楽大学に行って、作曲科を受けたいっていうのは、そういう意味でいうと、それほど抵抗のあるものでもなかったようだね。

 

 

ー次にその他の事にいきたいと思います。今一番興味のあることは何ですか?

久石:
インターネット。どういうものなのか、それをどうやって仕事に役立てるのか、個人的に興味がありますね。

ー事務所ではもう使ってらっしゃるのですか?

久石:
ええ、今、「やろう!」と言ってる最中。

ーでは、音楽以外でこれからやりたい事って何かありますか。

久石:
しいてあげると、自分が監督する映画を作りたいかな。

ーそれは音楽ではなくて、映画を撮るほう、つまり監督さん、ということですか?

久石:
そうだね、それも含めてね。本当にいいものを作りたいからね。今日本の映画ひどいでしょう。映画を観にいくって言ったらみんな洋画でしょう。(一同納得)だからこの二年間映画を作るのを断ってきたんですよ。来年からまた復活しますけどね。自分がこれだ!と思う仕事をしたいと思います。

ー一緒に仕事をした人とその後の付き合いはありますか。

久石:
ある人はありますよ。

ーでは、その中で一番印象に残っている人は誰ですか。

久石:
去年キングクリムゾンっていうバンドがあったんですけど、最近また復活して、この間も日本公演があったんです。そのキングクリムゾンの中に、ビル・ブラッフォードっていうドラマーがいるんですけど、そのときの彼のドラミングのワーク力とか、いろんな意味でやっぱり本当に一世を風靡した人だと、そういうのがとても印象に残っています。「やるときはやるぞ!」ってがんばりますからね、それは凄く感動しました。

ー一緒に仕事をした人と飲みに行くなんてことは無いんですか。

久石:
多いですよ。最近でも甲斐よしひろさんとか、長いつきあいの人とはしばしばですよ。ある仕事の企画で一緒になって、結局仕事の内容によって別れが全然違うものになるので、大体はそのままになっちゃうんですけど。お互いに「連絡しなきゃね。」って言いながら「お久し振りですー。」っていうようなケースが多いよね、やっぱり。(笑)

 

ー最後に、青短生にメッセージをお願いします。

久石:
女子だけなんだよね。そうだなー、この不況はしばらく続きますけど(笑)大変だろうとは思いますが、要するに自分達が生きていくうえで、「仕事」というのが生活の延長での仕事ではなくて、「可能性を保つ場」というとらえかたで、それがどんなことであれ、「自分達の存在理由をみつけていく場」だというつもりで頑張って下さい。

 

お忙しい中のインタビューにもかかわらず、音楽について熱っぽく語ってくれた久石譲さん。楽しくお話する中で、久石さんの音楽に対する真剣な姿勢が感じられました。今年は映画音楽にも復活なさるということで、今後の活躍がとても楽しみです。また素敵な久石譲ワールドがくり広げられることでしょう。

(GAKUGEI 1996より)

 

 

Blog. 「ユリイカ 2020年9月 臨時増刊号 総特集=大林宣彦」久石譲 寄稿

Posted on 2020/09/20

書籍「ユリイカ 2020年9月臨時増刊号 総特集=大林宣彦」に、久石譲の寄稿が収められました。

 

 

総特集●大林宣彦
大林監督へのオマージュ 久石譲

大林宣彦監督が亡くなられた。
最後にお会いしたのは二〇一八年五月一五日、高畑監督のお別れの会だった。ぼくが弔辞を述べていたとき、大林監督夫婦は参列者席から優しい眼差しで見守っていてくれた。癌と戦いながら作品を作り続けていることは知っていたが、実際にお会いして元気そうな様子にその時は安心した。そしてほぼ二年後、二〇二〇年四月一〇日肺がんのため自宅で死去された。享年八二歳は早過ぎる、と思ったのはぼくだけではないはずだ。沢山の優れた作品を世に送り出した巨匠たちが逝ってしまうことはとても、とても残念なことだ。

大林監督は映像自体で物語れる数少ない監督の一人だった。つまり多くの監督が脚本のセリフや状況を映像化するのに躍起になっている中で(その多くは脚本のページ枠から出きれていない)軽々と映像自体で表現することができた。それは大林監督自身で脚本を書いていることも多々あるのだがそれでも脚本では表現しきれていないことまで観客に訴えかけることができた。

二〇一二年『この空の花 長岡花火物語』では突然役者が観客に語りかけるシーンがあったが(一九八九年『北京的西瓜』でもラストに監督自身が観客に語りかけた)それでも観客は何の違和感もなく物語の世界に惹きつけられた。正に映画表現の本質を熟知した映像作家だと思っていた。

しかし一九九三年公開映画『はるか、ノスタルジィ』のときだったと思うが、究極の映画とは?ということを話題にしたことがあった。そこで監督は明快に仰った。

「字、活字だけの映像!」

映像を自由に操れる監督のこの言葉にぼくは驚いた。その後、何度もその言葉の意味を考えた。その結果ぼくの推論は「活字だけの映像」は一番イメージを膨らませることができ、観客が最も自由に想像できる究極の方法ということだった。もちろんそのような言葉一つで割り切れるほど単純なことでないことは承知している。ましてやこの時代のように全て映像が中心になり、物事は即物的に判断され言葉自体が軽くなった今だからこそ監督の仰る意味は深くて重い。

そこで作曲家であるぼくは究極の音楽とは何なのだろう?と考えた。音の鳴らない音楽? それならばジョン・ケージが一九五二年「4分33秒」という楽曲で作品にしている。ジョン・ケージは二〇世紀最大の作曲家の一人で音楽の在り方自体を思想的、哲学的に追求した実験音楽の第一人者であった。では二人の共通点は? ジョン・ケージ一九一二年、大林監督は一九三八年生まれで二回り近くも年が違う。だが直観的に何か共通のものが二人にはある。そう考えていくと「実験」と言う言葉が浮かんだ。それぞれの分野でアート、エンターテインメントの枠こそ違うが(それさえ意味ないが)新しい映像の在り方、新しい音楽の在り方を追求する実験的姿勢こそ二人の共通することであり、クリエイターとしてぼくが共感することだった。

大林監督のことを考えると、ぼくはこのようにクリエイティブになれる。だから大林監督はいつもぼくの内側で生きている。もちろんそういう話をもっと直接お目にかかってしたかった。いろいろ伺いたかった。そしてこれからもぼくは監督に問いかけ続ける。

大林監督、お疲れ様でした。
監督の最新作である『海辺の映画館 キネマの玉手箱』は正に「白鳥の歌」ですね。
楽しみにしています。

 

追記
「白鳥の歌」は人が亡くなる直前に人生で最高の作品を残すこと、またその作品を表す言葉である(Wikipediaより)。シューベルトの歌曲集としても有名だが、その「白鳥の歌」である『海辺の映画館 キネマの玉手箱』は新型コロナウイルスの感染拡大を受け公開延期になった。世界はより混沌として思わぬ方向に舵が切られた。

大林宣彦監督、我々はどこへ行くのですか? どう生きればいいのでしょうか?

 

2020年7月20日 久石譲

(ユリイカ 2020年9月臨時増刊号 総特集=大林宣彦 より)

 

 

 

2020年5月には、哀悼の意を込めて「草の想い」(久石譲×麻衣)動画公開されました。

 

「草の想い」(1991) -Tribute to Director Nobuhiko Obayashi

from Joe Hisaishi Official YouTube

 

 

こちらでも大林宣彦監督と久石譲の映画や他仕事のコラボレーションの数々を書籍内容ふくめご紹介しています。

 

 

 

Blog. 「VOGUE JAPAN 2020年9月号 No.253」久石譲×Cocomi 特別対談 内容

Posted on 2020/08/25

雑誌「VOGUE JAPAN 2020年9月号 No.253」に久石譲とCocomiの特別対談が掲載されました。

 

 

VOGUE CHANGE PRESENTS PART.2

久石譲とCocomi──異世代が語る、「音楽が奏でる果てしない力」。

「物心ついた頃からジブリ音楽に触れ、久石さんの音楽は常に私の心にある」──作曲だけでなく、指揮や編曲も行う世界的音楽家・久石譲についてこう述べたのは、音楽家の卵でありファッションアイコンとしても皆を魅了するCocomiだ。ヴォーグ・ウェブサイトで連載中の「Cocomiが学ぶ」企画のスピンオフとして、今回、憧れのマエストロとの初対面が実現。音楽が与えるさまざまな力について語り合った。

 

ファッションアイコンとして天性のカリスマ性を見せつつ、フルート奏者としての顔も持つCocomi。そんな彼女が「最も会ってみたい方の一人」と対談を熱望していたのが、宮崎駿監督や北野武監督の映画音楽などで知られる作曲家・久石譲だ。世代は異なれど、ともに音楽に生きる二人が語る「音楽の力」とは──。

Cocomi:
私は、小さい頃からジブリの音楽に囲まれて育ったので、久石さんの音楽は常にともにあるものでした。実際、スマホのプレイリストの中には、何曲も久石さんの作品が入っています。とにかく、ずっとお会いしてみたかった憧れの方なので、今日はすごく緊張しています……。

久石:
Cocomiさんは、現在、音楽大学の1年生でフルートを専攻されているそうですね。僕は大学生くらいの方と話す機会があまりないので、今日は若い世代の音楽家たちが、音楽とどう向き合っているのかを聞かせてもらいたいです。Cocomiさんの場合、小さいときから音楽は身近だったと思いますが、始めたきっかけはなんでしたか?

Cocomi:
3歳のときにジブリ映画の『耳をすませば』を観て、登場人物の一人であるヴァイオリン職人を目指す男の子・天沢聖司さんに憧れてしまって。それがきっかけでヴァイオリンを始めました。

久石:
あ、最初はヴァイオリンをやってたんですね。実は僕も4歳から習ってたんです。

Cocomi:
え!そうなんですね。

久石:
でも、レッスンが全然好きじゃなくて、途中でやめちゃいましたけど(笑)。フルートに転向したのはなぜだったんですか?

Cocomi:
音楽教室に通っているとき、隣の部屋で年上のお姉さんがフルートを演奏しているのを見て、「きれいな楽器だな」と関心を抱いたのがきっかけです。その後、初めてフルートに触ったら、楽器自体がすごく手になじんで。「あぁ、これだ」って、しっくりきました。

久石:
「しっくりきた」という感覚はよくわかります。自分が「いいな」と思って選んだ楽器こそ、長く続けられるものだと思います。

 

中学時代から、作曲家以外の選択肢はなかった。

Cocomi:
久石さんは、作曲家になろうと思い始めたのはいつ頃だったんでしょうか?

久石:
中学生のときですね。

Cocomi:
かなり早い段階で、将来の道を決めていらしたんですね。

久石:
中学校のとき、ブラスバンドでトランペットを担当していたんです。自分で言うのもなんですが、結構演奏はうまくて(笑)。ただ、演奏も楽しいけど、知っている曲を毎晩譜面に書いて、ブラスバンド用にアレンジして、それを翌日みんなに演奏してもらうことのほうが、すごくうれしかった。それで作曲家になろうと思ったんです。

Cocomi:
中学生でそんなアレンジをしていたなんて、すごいですね……。

久石:
だから、作曲家以外の選択肢はなかったんです。中学時代まではクラシックがベースでしたが、高校時代からは、カールハインツ・シュトックハウゼンやピエール・ブーレーズ、ヤニス・クセナキス、日本人なら黛敏郎さんや武満徹さんといった前衛音楽ばかり聴くようになったんですね。それで、「現代音楽の作曲家になろう」と大学に進学したら、大学2年生のとき、知人の評論家の家で、初めてミニマル・ミュージックというものに出会ったんですよ。

Cocomi:
同じパターンの音を反復しながら、少しずつ変えていく現代音楽ですよね。アメリカ人のスティーブ・ライヒさんの楽曲などは、私も聴いたことがあります。

久石:
そうそう。僕が最初に聴いたのは、テリー・ライリーの「A Rainbow in Curved Air」という7拍子の曲だったんです。

Cocomi:
私も聴いたことがあります!

久石:
初めて聴いたとき、「こんな音楽があるのか」と、雷に打たれたようなショックを受けて。以降、20代はずっとミニマル・ミュージックの作曲をやっていました。

Cocomi:
その後、映画音楽の道へと進まれたのはなぜですか?

久石:
30歳のときに、「これ以上続けても、不毛だな」って思っちゃったんですよ。当時の現代音楽は理論と理屈にがんじがらめで、僕はそれがすごく嫌で。それで現代音楽とは決別し、エンターテインメントの世界に移りました。そして83年、僕が33歳のとき、宮崎駿さんから『風の谷のナウシカ』の映画音楽のお話をいただいたんですよ。

Cocomi:
ジブリ音楽などを多数手がける久石さんにとって、映画音楽とはどんな存在ですか? 私は、映画音楽のように、イメージや情景を描写するような物語性を感じる音楽が大好きなのですが。

久石:
映画のような物語につける音楽は、自分一人で作曲するのとは大きく違いますよね。一番の違いは、監督たちにインスパイアされ、化学反応が起きて、「自分一人だったら書かなかっただろう」と思うような曲が生まれる点。つまり、コラボレーションですよね。映画音楽は、自分の可能性を広げてくれました。

 

クラシック音楽は、古典だけど古典芸能じゃない。

Cocomi:
感覚的には、いろんな楽器で合奏するアンサンブルに近いのかもしれませんね。実は、私はアンサンブルで演奏するのが好きなんです。機会があれば、よく友達を誘って、いろんな楽器と合奏するようにしています。

久石:
それはいいことですね! アンサンブルで大切なのは、「人の音を聴く」ということだから。たとえば、同じ管楽器でも、音の出し方は違うから、何も考えずに一緒に音を出そうとすると、タイミングがどうしてもずれてしまう。合わせるためには、相手の音をしっかり聴いて、微調整を繰り返さないといけませんよね。そういう経験を重ねると、確実にご自身の音楽性が伸びていくと思いますよ。

Cocomi:
楽器によって、起きる反応が違うのがおもしろいです。個人的には、特にオーボエと一緒に合わせるのが楽しいですね。

久石:
ぜひ、オーボエとたくさん合奏してください! 僕自身もオーケストラの指揮をするとき、フルートとオーボエの呼吸がどのくらい合うかで、オーケストラの完成度が決まると感じているので。ちなみに、アンサンブルを演奏するならば、伝統を重視するドイツ音楽と、より自由度の高いフランス音楽と、どちらが好きですか?

Cocomi:
悩ましいですね。ドイツとフランスは、例えるなら盆栽と森のような違いがありますよね。一人ひとりの風がわかって、細かく微調整できる点では、私自身はフランスのほうが好きです。ただ、ドイツもかっこいいと思います。

久石:
「ドイツもかっこいい」って言えるのがかっこいいね(笑)。たしかにドイツは全体がカチッと決められていて、個々の表現というよりは、全体の中の一人として演奏する感じになりますからね。

Cocomi:
久石さんは、ドイツとフランスのどちらがお好きなんですか?

久石:
僕はどちらかというと、ドイツのほうが好きかな。少し変な言い方だけど、クラシック音楽は古典だけど、古典芸能ではないんです。古いものを型通りに続けるのが古典芸能だけど、クラシックの解釈は時代とともに変わる。たとえば、日本では「ブラームスは重い」と言われるけど、それは日本で昔から重々しい演奏をするからこそです。いま、僕がやっているのは、ベートーヴェンやブラームスを現代風に演奏すること。テンポが速いので「ロックのようだ」とも言われますが、誰かが新しいアプローチをしないと、クラシックは変わらない。だからこそ、より理論的に構築できるドイツのほうが好きなんです。

Cocomi:
私のように、まだまだ未熟な「音楽家の卵の卵」のような人間が言うのもおこがましいのですが、ときにスランプに陥ることもあります。久石さんは壁にぶつかったとき、どう対処されていますか?

久石:
作曲って、精神衛生上よい仕事ではないんですよ。「最低だ」と落ち込む日もあれば、「今日は調子がいいな」という日もある。毎日、その繰り返しなんです。

Cocomi:
久石さんのような方でも、そんなことが起こるんですね。

久石:
しかもそれが一日の中で何度も起きることがあるんです。先日も、今年9月にフランスのパリとストラスブールでやる予定だったシンフォニーに取り掛かっていたんです。4楽章中3楽章までは順調だったのが、途中から何一つ音符が浮かんでこなくなってしまって。そうすると、できない言い訳を探すんです。「書けないのはコンサートがパンデミックのために延期になったせいだ」とかね。

Cocomi:
私もまったく同じです。気持ちが乗らないときは、ついできない理由を探してしまいます。

久石:
結局、それが一番の問題なんですよね。その気持ちと戦って、自分をうまくなだめていかないといけない。多分、これを繰り返すことが苦しくなったときが、僕が作曲をやめるときだと思っています。しかも、この悩みって、実は僕が大学生の頃から変わってないんですよ。約50年間同じことを繰り返し、全然進歩していないんです(笑)。

Cocomi:
大学生の頃から……。まさに私も練習しなきゃいけないのに、「あ! 今日一回もやってないから、ゲームやろう」と逃避してしまいます。

久石:
すごくわかる! 僕も「一本くらい海外ドラマを観ようかな」と逃避してしまいます(笑)。

Cocomi:
何をご覧になるんですか?

久石:
いろいろ観ますよ。最近は『ウォーキング・デッド』をシーズン1からシーズン10まで、一気観しました。映像は昔から好きだから、映画もテレビもよく観ますね。Cocomiさんはゲームをやるんでしたっけ?

Cocomi:
私はアニメも大好きですね。ジブリ作品はもちろん、最近話題になっていた『鬼滅の刃』まで、割とジャンルは幅広いです。

久石:
自分の専門外でも、いろいろなものに触れたほうがいいですよ。僕も作曲は毎日続けていますが、いつも「何かもう一個、別のことをやれないか」と思っているんです。だから、指揮者をやったり、映画の監督をやったりしている。メインの作曲ともう一つ何か別のことを一緒にやることで、自分のバランスを保っているんです。

Cocomi:
たしかにそうですね。「もう何もしたくない」とスランプに陥った後、放心状態になって、普段は自分が聴かないような音楽を聴いたり、音楽以外のコンテンツに触れたりして、いろいろとイメージを取り入れると、自然にモチベーションが回復していくことも多いです。

久石:
Cocomiさんもフルート吹きながら、もう一つ別のことをやってみてもいいかもしれませんね。あるいは、今日お話をしてみて、しっかりした方だという印象を受けたので、海外に行かれてみてはどうでしょうか?

Cocomi:
短期で学びに行ったことはあるのですが、まだ外国の演奏家の方と一緒に演奏をしたことはないんです。

久石:
音楽は世界言語だから、海外に行くのは客観的に日本を見るいいチャンスかもしれません。実はこの数年間、僕のコンサートの半数以上は海外公演です。外国人と一緒にやると思い通りにいかないことも多いんですが、日本でやるのとは違ったものが得られる。その経験が、自分の音楽のスケールを大きくしてくれると感じます。

 

対談の終盤、「もし、ご迷惑でなければ……」とCocomiが取り出したのは、愛用のフルートと、自身で手書きした久石譲の楽曲「Princess Mononoke」の譜面。「ご本人を前に演奏するなんて、震えてしまいます」と言いながらも、ひとたび彼女がフルートを構えると空気は一変。次の瞬間、スタジオ内に凛とした旋律が響き渡り、誰もがその音色に聴き入った。

演奏直後、真剣な眼差しで拍手をしながら、久石はこう呟いた。「すばらしい。僕はね、演奏家に会うと、毎回『何を一番大切にしていますか?』と必ず聞くんです。そうすると、みんな『自分の音』と答える。今日の演奏も、ご自分の音をすごく大切にしているのが伝わってくる、しっかりした良い音でした。今日は楽しかったです。いつか一緒に演奏しましょう」

その言葉を聞いた瞬間、無言のまま目もとを手で押さえたCocomi。憧れ続けた人物からかけられた一言に、彼女が何を思ったか。頬をつたう涙がすべてを物語っていた──。日本を代表する音楽家と若き才能の奇跡のコラボを私たちが目にする日が、いまから待ち遠しい。

 

TALKING MUSIC

自分の専門外でも、いろいろなものに触れたほうがいい。僕は、作曲ともう一つ別のことを常にやることで、バランスを保っているんです。
Joe Hisaishi

アンサンブルで演奏するのが好き。楽器によって、起きる反応が違うのがおもしろいんです。
Cocomi

(VOGUE JAPAN 2020年9月号 No.253より)

 

 

from 公式サイト:VOGUE JAPAN|9月号
https://www.vogue.co.jp/magazine/2020-9

 

from 撮影チーム公式SNS

 

 

 

Blog. 「もののけ姫 サウンドトラック」(LP・2020) 新ライナーノーツより

Posted on 2020/08/22

2020年7月22日、映画公開当時はLPでは発売されていなかった「もののけ姫」のイメージアルバム、サウンドトラックが、あらたにマスタリングを施し、ジャケットも新しい絵柄にして発売されました。サウンドトラック盤には、前島秀国氏による新ライナーノーツが書き下ろされています。時間を経てとても具体的かつ貴重な解説になっています。

 

 

宮崎駿監督と久石譲の6本目のコラボレーションとなった『もののけ姫』のスコアは、最初の音楽打ち合わせからサントラ完成まで、実に1年半もの歳月を要した大作である。そのサウンドトラック盤を改めて聴き直してみると、久石の音楽が奏でる壮絶なドラマ表現、すなわち不条理な”運命”の中で葛藤する者たちのドラマ表現に深い感銘を受けるであろう。人類が地球的な規模で試練を突きつけられている2020年の現在ならば、なおさらである。

1995年11月下旬、宮崎監督との第1回音楽打ち合わせに参加した久石は、「精神的世界での危機感というテーマを踏まえると、これは『風の谷のナウシカ』以来の構え方で臨まなければいけない作品」と覚悟を決め、宮崎監督が深く尊敬していた司馬遼太郎の著作を読み漁り始めた。その後、久石は宮崎監督の世界観に基づいたイメージアルバムを録音し(本編公開の1年前にあたる1996年7月にリリース)、さらに改めて本編のための音楽を仕上げていく形でスコア全体を完成させている。

まず、サウンド的な面に注目してみると、『もののけ姫』のスコアはいくつかの対立的な要素あるいは音楽語法を意識的に衝突させ、共存させ、融合させることで構成されている。例を挙げると、西洋音楽(クラシック)と民族音楽(エスニック)、伝統的なオーケストラと現代的なシンセサイザー、器楽(インストゥルメンタル)と声楽(ヴォーカル)、あるいは調性音楽的な要素と無調音楽的な要素といった具合だ。このような並置は、物語の中で描かれる対立的な要素──生と死、文明と自然、男性社会と女性社会など──を音楽で強調していると解釈することも可能である。

しかしながら、宮崎監督がこの作品で描いた世界観は、単純な二項対立あるいは敵対関係では描き切れない複雑な要素を抱えている。つまり、久石が言うところの「精神的世界での危機感というテーマ」だ。それを表現するため、久石は以下の3つの音楽テーマを軸にしながらスコア全体を構成している。

《アシタカせっ記》
「『もののけ姫』という映画は、叙情的(リリック)というより、一大叙事詩(エピック)と呼ぶに相応しいスケールを持った作品ですから、それだけの風格に見合ったメロディが絶対に必要。その風格を表現するため、1ヶ月半くらい悩んで書いたのが《アシタカせっ記》です」

あたかも古代の詩人が雄大な叙事詩を語り始めるような荘重な面持ちで奏でられる《アシタカせっ記》は、本編の中で主人公アシタカを象徴するテーマとして何度も登場することになる。このテーマが強く印象に残るのは、単に作品全体の風格やスケールの大きさを表現しているだけでなく、アシタカが背負った悲壮な運命──後述のタタリ神との死闘でもたらされる死の呪い──を内包しているからだ。

物語の中でタタラ場に着いたアシタカは、村の人々を率いるエボシ御前に案内され、石火矢の製造に携わる病者たちと対面する。ハープと琵琶を織り交ぜたような幻想的なシンセサイザーで奏でられる《エボシ御前》の最後、コーラングレ(イングリッシュホルン)、オーボエ、アルトフルートが《アシタカせっ記》のテーマをしみじみと演奏するが、その場面で病者の長が語る本編のセリフを今一度思い出していただきたい。

「お若い方…私も呪われた身ゆえ、あなたの怒りや悲しみはよーく判る。(中略)生きることは、まことに苦しくつらい…世を呪い、人を呪い、それでも生きたい…」(病者の長のセリフ)。

さらに《アシタカせっ記》を変奏した《東から来た少年》が流れてくるシーンの後半部分、本編では次のようなアシタカのセリフを耳にすることが出来るであろう。

「みんな見ろ。これが身の内にすくう憎しみと恨みの姿だ。肉を腐らせ、死を呼び寄せる呪いだ。これ以上、憎しみに身を委ねるな」(アシタカのセリフ)。

つまり久石は《アシタカせっ記》のテーマをアシタカと病者の長に共有させることで、呪いを背負いつつも生きていかなくてはいけない人間の業──”運命”と言ってもいい──を暗に表現しているのである。

《タタリ神》
「イメージアルバムの段階で、最初に書いた曲です。映画として、いきなりあのシーンから始まるなんて、普通は絶対に思いつかない導入の仕方でしょう? まず。ここを作曲しないと次の曲に行けない、という気持ちが強くて」

タタリ神とアシタカが死闘を繰り広げるシーンで流れる《タタリ神》のテーマは、無調音楽のように敢えてメロディアスな要素を排除することで、タタリ神の持つ凶暴性を見事に表現している。だが、それ以上に注目すべきは、このテーマは祭囃子を思わせるリズム・セクションで伴奏されている点だろう。祭囃子は、タタリ神にかけられた呪い(人間に対する憎しみに由来する)が何らかの形で鎮めなければならないということを暗示している。つまり立場は異なれど、タタリ神もアシタカもそれぞれ呪いを抱えた存在なのだ。音楽語法的には《アシタカせっ記》と全く異なるが、実はこのテーマも死の呪いに起因する”運命”を表しているのである。

《もののけ姫》
もののけ姫すなわちサンのテーマである《もののけ姫》は、宮崎監督が第1回音楽打ち合わせの後にイメージを文章化した音楽メモを、歌詞のベースにする形で作曲されている。この主題歌を忘れ難くしているのは、なんと言ってもヴォーカルに起用されたカウンターテナー、米良美一の存在感であろう。

スタジオジブリへの出勤途中、カーラジオを流していた宮崎監督は米良のデビュー・アルバム『母の唄~日本歌曲集』を偶然耳にし、米良の起用を決めた。メイキング映像『「もののけ姫」はこうして生まれた。』で描かれているように、当初、米良は宮崎監督の歌詞をどのような視点で歌うべきか悩み、歌唱表現に苦しんだ。しかしながら、1997年1月に設けられた主題歌録音のセッションにおいて、米良は宮崎監督から「(この歌詞は)アシタカのサンへの気持ちを歌っている」と直々に説明を受け、ようやく納得のいく解決法を見出した。その結果が、本盤に聴かれる米良の歌唱である。

のちに久石はこの主題歌録音を振り返り、次のように筆者に語っている。

「米良さんはカウンターテナーの中でも、ちょっと変わった存在だと思うんです。独特の”運命”のようなものを表出しているような声が、この作品には合っていたんじゃないかな。宮崎監督はそういう微妙な差をとても深く理解される人ですから、普通のカウンターテナーだったらOKを出さなかったと思います。実際に米良さんで主題歌を録音してみて、宮崎さんが『このカウンターテナーで行こう』と言った理由がよくわかりました」

つまり、このテーマにおいても、米良というフィルターを通して”運命”が込められているのである。

もうひとつ、この主題歌で特筆しておきたいのは、久石の絶妙なオーケストレーションによって、まさに”霊妙”としか呼びようのない独特の浮遊感と神秘性を表現している点だ。

イメージアルバムの録音段階で、久石はこの楽曲の伴奏部分にいくつかの邦楽器を用いていた。

「ところが宮崎監督が『邦楽器は外してください』とおっしゃったので、『全部外しまします』と言って外したフリをしたんだけど、実は外していない(笑)。『♪もののけ達だけ~』という箇所の伴奏では、上の旋律線を南米のケーナという楽器が演奏していますが、その3度下の旋律線を篳篥(ひちりき)が演奏しています。単にケーナで2つ(の旋律線を)重ねたら、音楽的にはノホホンとしてしまうのですが、チャルメラ系の篳篥を重ねると不思議な浮遊感が出てくるんです」

しかも、その不思議な浮遊感は、シンセサイザーの前奏が加わることでいっそうの神秘性を獲得し、いにしえの日本を舞台にしながらも時代性や地域性に限定されない、神話的な広がりを生み出すことに成功している。西洋のクラシック音楽だけでなく、エスニックなワールド・ミュージックの語法にも精通する久石ならではの、見事な作曲アプローチと言えるだろう。

以上見てきたように、久石は《アシタカせっ記》《タタリ神》《もののけ姫》の3つのテーマによって、それぞれが抱える”運命”を三者三様に表現している。通常の映画作品や映画音楽なら、3つのテーマのうちのどれかひとつが優勢になることで物語に終止符が打たれるが、そのような安易な解決法では『もののけ姫』という作品が提示している問題提起を裏切ることになってしまう。それぞれが”運命”を抱えて対立し、闘う以上、ひとりの勝者がもたらす単純なハッピーエンドなどあり得ないからだ。

ところが、宮崎監督と久石は物語の最後において、久石のピアノ・ソロを文字通り花咲かせることで、人間と自然の共生への希望を音楽に託すという驚くべき解決法を採った。それが、本編の最後にコーダとして流れてくる《アシタカとサン》である。

「宮崎監督が『すべて破壊されたものが最後に再生していく時、画だけで全部表現出来るか心配だったけど、この音楽が相乗的にシンクロしたおかげで、言いたいことが全部表現出来た』と話されていたことが、とても印象に残っています」

別の言い方をすれば、久石のピアノが希望を奏でる《アシタカとサン》は、呪いの”運命”に終止符を打つ音楽である。そのような結末を迎える『もののけ姫』のスコアは、もはや映画音楽という範疇を超え、さまざまな”運命”の中で葛藤する者たちすべてに希望をもたらす、見事な普遍性を獲得した音楽ということが出来るだろう。

本作のサントラ録音で常設オーケストラ(東京シティ・フィル)を起用し、オーケストラならではの重厚な表現力を十全に引き出しながら、同時に80年代から培ってきたシンセサイザーの夢幻的なサウンドも投入し、文字通り総力戦的な作曲で久石が完成させた『もののけ姫』のサントラは、彼の音楽性そのものを劇的に飛躍させ、その後の彼の音楽活動の展開にも大きな影響を与えることになった。特に本作によって初めて試みられた「スタンダードなオーケストラにはない要素を導入しながら、いかに新しいサウンドを生み出していくか」という実験は、宮崎監督との次作『千と千尋の神隠し』において、さらに押し進められていくことになるだろう。

前島秀国 Hidekuni Maejima サウンド&ヴィジュアル・ライター
2020/5/12

(LPライナーノーツより)

 

 

 

 

もののけ姫/サウンドトラック

品番:TIJA-10025
価格:¥4,800+税
※2枚組ダブルジャケット
(CD発売日1997.7.2)

音楽:久石譲 全33曲

東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団のフルオーケストラによる、映画版サントラ。
主題歌「もののけ姫」(歌/米良美一)も収録。