第13回:「メッセージを乗せたいんだ」

連載 ハウルの動く城 久石譲

連載 久石譲が挑む「ハウル」の動く音 (読売新聞)
第13回:「メッセージを乗せたいんだ」

「時代に流され、ささくれ立ってしまった人々の心が、人間本来の温かさを取り戻すために何ができるのか。その答えがここにあるかもしれない」──。

2004年4月6日。久石譲は新プロジェクトを発表した。新日本フィルハーモニー交響楽団と組むポップス・オーケストラ「ワールド・ドリーム・オーケストラ」だ。

コンサートや録音での共演を通じて、互いに「何か一緒にやろう」と盛り上がり、今回のプロジェクトが実現した。

新日本フィルは1972年、指揮者の小澤征爾のもと、楽員による自主運営のオーケストラとして創立。ロックバンドのディープ・パープルと共演するなど、企画力には定評がある。97年より東京・墨田区の「すみだトリフォニーホール」を活動の拠点とし、日本で初めて本格的なフランチャイズを導入したことでも話題となった。

宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」(2001年)では、サウンドトラックの演奏を担当。「ハウルの動く城」でも参加が決まり、久石の信頼も厚い。「ポップスに対するセンスがよく、心から尊敬できるオーケストラ。一緒にできるのは、嬉しいこと」

この新しいオーケストラを、どんなものにするか。

プロジェクトの準備を進める過程で、久石にある思いが浮かぶ。「単なるポップス・オーケストラにするのではなく、何か新しい働きかけをすべきではないか」

そんな思いを抱きながら、1つの曲が書き下ろされた。祝典序曲となった「WORLD DREAMS」だ。

「夢や希望をテーマにしたこの曲が生まれたことで、このオーケストラの活動そのものに社会的意義があると確信できた」と久石は語る。

「僕たちをポップス・オーケストラと呼んでもらって構わない。ただ、アイスクリームみたいに口当たりはいいが何も残らない音楽ではなく、そこにメッセージを乗せたいんだ」

久石は自ら音楽監督を務め、6月にアルバムを出すほか、7月から始まるツアーは指揮も担当する。「もちろん、音楽的な完成も大切な目標。任期が終わる3年後には、米のボストン・ポップスを超えたい」という熱の入れようだ。

クラシックでもポップスでもない、新たなオーケストラを生むことができるのか。そして、久石が託したメッセージは届くのか。その答えは、皆さんの耳が確かめることになる。(依田謙一)

(2004年4月8日 読売新聞)

 

連載 ハウルの動く城 久石譲

 

第12回:「不安な自信作」

連載 ハウルの動く城 久石譲

連載 久石譲が挑む「ハウル」の動く音 (読売新聞)
第12回:「不安な自信作」

「徹底的に一つのテーマ曲でいきたい」

宮崎駿監督が久石譲に切り出した。2004年2月、「ハウルの動く城」の音楽打ち合わせでのことだ。

久石は驚いた。「通常、映画で使われる30曲程度のうち、テーマ曲は4、5曲。ところが、監督は全編を一つのテーマ曲で通したいという。今までにない提案だった」

映画音楽には、場面に応じて様々なメロディーが登場する。これを一つのテーマ曲のバリエーションで聴かせるには、相当な技術が要求される。第一線を走る久石にとっても、決して容易なことではない。

しかも監督は、1月に発売された「イメージ交響組曲 ハウルの動く城」に収録されたモチーフとは別のテーマ曲、つまり「新曲」が必要だと、久石に伝えた。

同アルバムは、あくまで交響曲として完成度を追求している。必然的に、メロディーはハーモニーやリズムと同等のものになり、これまでのイメージアルバムのように、テーマ曲になりうる「分かりやすいメロディー」があるわけではない。

アルバムを聴いた監督は、その出来に満足しながらも、テーマ曲になりうる新たな旋律を欲していた。

2人の議論は4時間に渡ったが、久石はその困難に挑戦することを決意した。

「絵コンテを読んでいるうちに、僕もどこかでそう感じていた。主人公ソフィーは、18歳から90歳になるけど、彼女の中にあるものは変わらないんだ。だから、大変だと分かっていても、やってみたいと思った」

それから、苦闘の日々が始まった。過密スケジュールの合間を縫いながら、「ハウル」に相応しい「たった一つのメロディー」を探し続けた。

そんなある日、不意に「これだ」と思える旋律が浮かんだ。それは、今までの宮崎作品にはなかった雰囲気を持ち合わせたメロディー。ダンスとも相性のいいワルツで、主人公ソフィーの「隣にいる誰か」を想像させる。「“戦火の恋”を掲げる『ハウル』にはこれしかない」という自信が体を走った。

ワルツにしたのには、別の理由もあった。「最近、自分の音楽が激しすぎると感じていた。映像と音楽は対等の関係だと思うけど、決して音楽がしゃしゃり出たいわけじゃない。だから、様式の決まったワルツにすることで、それを押さえられるんじゃないかって」

しかし、直感と同じ勢いで不安も襲ってきた。「今までの作品とはタイプの違う曲。監督が気に入ってくれるだろうか……」

4月。久石は3つの候補曲を持って宮崎監督のもとを訪れた。2曲を追加したのは、「不安な自信作」だけでは心細いという気持ちの表れだった。

久石は、テーマ曲の選定にあたって、いつもと違う方法を取った。これまではデモテープの形にして持っていくことが多かったが、今回は、監督のアトリエにあるピアノで生演奏し、選んでもらうことにした。

「特別な理由はないんだけど」と断った上で、久石はこう続けた。「『ハウル』には、それが合うと思ったんだ」

アトリエでは、監督をはじめ、鈴木敏夫プロデューサー、音楽担当の稲城和実らが顔をそろえ、ピアノを囲んだ。

どれから演奏しよう。

迷った久石が1曲目に選んだのは、人々が思う「宮崎アニメ」の路線に添った「安全な曲」。「これが選ばれるのかな」と思いながら、ピアノに向かった。

ところが、反応は今ひとつ。誰が聴いても悪い印象を持たないはずの曲なのに、何かが違った。少し重い空気が、アトリエを覆った。

2曲目。久石は雰囲気を変えようと、思い切って「不安な自信作」を弾くことにした。

メロディーが鳴った瞬間、さっきまで重かった空気の流れが変わった。宮崎監督に目をやると、身を乗り出して聴いている。

アトリエを、風が吹きぬけた──。

演奏後、監督はこの「不安な自信作」を絶賛した。「これでいきましょう」

「嬉しかった」と久石は振り返る。「僕らの仕事で一番つまらないのは、“こうなるだろう”と予想がつくこと。宮崎さんも冒険することを望んでいたんだと分かったら、胸が熱くなった」

結局この日、3曲目は演奏されることがなかった。

ちなみにどんな曲だったのか聞くと、久石は、「もう、忘れちゃったよ」と笑う。「ただ、今回も選んでもらったという事実があるだけ」

久石にとって、宮崎作品への参加は、毎回大きなハードルとなっている。「『風の谷のナウシカ』(1984年)から20年になるけど、予定調和を許さない。作品と作品の間に自分がどれだけ成長したかを常に問われているんだ」

「音楽のことは分からない」が口癖の宮崎監督だが、その感覚がいかに鋭いかを、久石は20年の付き合いで痛感している。

監督がテーマ曲を「人生のメリーゴーランド」と名づけたのがいい例だ。長調と短調の混在によって上がったり降りたりする雰囲気や、ダンスの際に回転して踊ることが多いワルツの特徴を、メリーゴーランドの動きに例えることで、正確につかんでいたのだ。「音楽のことは分からない」はずの男が、その音楽が持っているもののことはよく分かっている証拠である。

久石は、宮崎作品と言えば必ず自分が音楽をやると決まっているわけではない、と断言する。「僕は、たまたま選ばれているだけ。また次に選んでもらうためには、さらに頑張るしかないんだ」

「ハウル」の音楽はこの日、ようやくスタート地点に立った。(依田謙一)

(2004年3月29日 読売新聞)

 

連載 ハウルの動く城 久石譲

 

第11回:「祝福したい関係」—後編

連載 ハウルの動く城 久石譲

連載 久石譲が挑む「ハウル」の動く音 (読売新聞)
第11回:「祝福したい関係」—後編

久石譲の初ソロアルバム「インフォメーション」は、1983年にジャパンレコードから発売された。

ジャパンレコードは、現在の徳間ジャパンコミュニケーションズの前身で、徳間書店を中心とした徳間グループの一角。その徳間グループがメディアミックス型で進めていたのが、雑誌「アニメージュ」で宮崎駿監督が連載していた漫画「風の谷のナウシカ」のアニメーション映画化だった。

このプロジェクトの一員だったジャパンレコードの担当者が、「ナウシカ」に音楽面から参加するため、無名だった久石を推薦することを思い立つ。

これが、宮崎監督との出会いのきっかけだった。

すでに著名だったある作曲家がサウンドトラックの「本命」にほぼ決まっていたため、久石はイメージアルバムへ推薦される。

宮崎監督とプロデューサーと務めていた高畑勲は、久石の名前も知らず、音楽を聴いたこともなかった。ミニマルを中心とした久石の音楽を資料用に渡された高畑は、当時を振り返り、「ほしいと思っていたエスニックな“根っこ”からはほど遠く、あまり参考にならなかった。大丈夫かなと思った」と語る。

今では、宮崎・久石コンビの重要な創作モチーフとして重要な役割を果たしているイメージアルバムだが、「ナウシカ」製作委員会は公開前に映画を盛り上げていく材料に使おうとしていた。どうやら、久石は「失敗もアリ」の状況で実験的に起用されたのが真相のようだ。

一方の久石も、「さすがの猿飛」などのテレビシリーズで音楽を担当したことはあったが、映画音楽は経験がなかったうえ、宮崎監督の作品を観たことがなかった。

そうして83年夏、お互いのことをほとんど知らないまま、久石と宮崎監督、高畑の3人は東京・阿佐ヶ谷の「ナウシカ」準備室で初めて出会う。机が一つか二つのがらんとした部屋には、イメージ画だけが何枚も張られていた。

監督は、あいさつもそこそこに、絵の説明を始めた。音楽の話はなく、自分がやりたい映画について、熱心に語るだけだった。

久石は、監督の情熱に驚かされながらも、すぐにその姿勢に胸を打たれた。「すごく優しい、いい人だ。本当にのめりこんで、真剣に取り組んでいるんだと思った」(久石譲著「Iam」より)

高畑監督が振り返る。「あの時点で、久石さんは燃えたと思う」

打ち合わせ後、久石のもとに、監督から「腐海」「メーヴェ」など、イメージを言葉にしたキーワードが届いた。久石は、これらをもとに、作曲に取り組み始めた。

この頃、頭の中が音楽で溢れ、創作意欲に満ちていたという久石は、「曲作りで苦労した覚えはない」というほど、次々とモチーフを生んでいった。「楽器に触れさえすれば、すべて音楽になったといっても過言じゃなかった」

テーマ曲である「風の伝説」も、朝起きてピアノに座り、30分ほどで作られた。本編を担当することが決まっていなかったため、ストーリーを意識する必要がなく、音楽に没頭できたのも幸いした。

こうして、「ナウシカ」のイメージアルバム「鳥の人」が完成。宮崎監督と高畑はこのアルバムがいっぺんで気に入った。特に、メロディーの秀逸さに2人は心を奪われた。

これが、久石には意外なことだった。

稀代のメロディーメーカーとして知られる久石も、当時はドラムの音をどう鳴らすか、シンセサイザーの音色をどうするかといったサウンドにこだわっており、自分のメロディーに魅力があることに気がついていなかった。

「底に流れているメロディーの温かさがいい。新しくも古くもない、時代を超えた音楽ですね」──監督が久石に言った言葉は、「ナウシカ」のテーマでもあった。

視聴用テープを繰り返し聴きながら、監督は絵コンテを書き続けた。気がつけば、頭の中は久石の音楽でいっぱいだった。

答えは、決まった。「本編も、久石さんにお願いしたい」

ところが、製作委員会はこれを拒否。映画の興行的成功のために、知名度を優先する声は根強かった。

この時、久石を起用すべく熱心に説得して回ったのが、高畑だった。「必要な複雑さに到達しているイメージも、分解すれば、単純明快な要素の組み合わせであり、感情の表出は直接的であるよりは、情況の中で支えられる必要がある」(高畑勲著「映画を作りながら考えたこと」より)──アニメーション・ファンタジーにおける音楽の理想をこう考えている高畑にとって、久石の登場は、まさに待望久しいものだった。

公開を翌年3月に控えた83年の年末まで人選は難航したが、高畑による根気強い説得の結果、製作委員会はこの提案を受け入れた。久石は「高畑さんが先頭に立ってくれたと後で聞き、本当に嬉しかった」と語る。

こうして、久石は「ナウシカ」で初めて映画音楽に挑むことになった。

高畑が振り返る。「監督と作曲家は常に緊張関係にある。どんな音楽が返ってくるか、いつも心配。だからこそ、2人のようなコンビが生まれたことは幸せだと思う。祝福したい関係ですよ」(依田謙一)

(2004年3月22日 読売新聞)

 

連載 ハウルの動く城 久石譲

 

第10回:「祝福したい関係」—前編

連載 ハウルの動く城 久石譲

連載 久石譲が挑む「ハウル」の動く音 (読売新聞)
第10回:「祝福したい関係」—前編

「これまでの集大成としたい」──久石譲は、インタビューで「ハウルの動く城」への意気込みを聞かれると、必ずこう答えている。

数々の名作を世に送り出してきた宮崎駿・久石譲コンビの「総決算」である同作のサウンドトラック制作の様子を伝える前に、2人の出会いについて触れておきたい。

2人が初めて出会ったのは、1983年の夏。翌年公開予定だった「風の谷のナウシカ」のイメージアルバムの打ち合わせのためだった。41年生まれの宮崎監督はこの時43歳。

一方、50年生まれの久石は32歳。大学時代から取り組んできたクラシックに決別し、ポップスに活動の場を移したアルバム「インフォメーション」を前年に発売した後だった。

当時の久石にとって、クラシックへの決別は、大きな決意の表れだった。

久石が作曲家を志したのは20歳の時。テリー・ライリーの「A Rainbow in Curved Air」に魅せられ、ミニマル音楽の作曲家になろうと決めた。ミニマルとは、短い音のパターンをひたすら反復する音楽で、ライリーはその「発明者」だった。

延々と続くフレーズのなかで、繊細な変化を重大なものとして響かせるため、どこを切り取っても「同じ体験」として聴けるのがミニマルの特徴だ。小さい頃から西洋音楽を習い、始まりがあって終わりがあるのが音楽だと思っていた久石にとって、この方法はあまりに衝撃的だった。始まりが終わりでもあり、過去が未来でもあるという独特の時間のとらえ方に、いっぺんにはまってしまった(ちなみに、民族音楽にも同様の特性があると久石は指摘する。彼の音楽にしばしば民族音楽の要素が盛り込まれるのは、このためだろう)。

それからは、ひたすら作曲に明け暮れた。あらゆるアルバムを聴き漁り、自分なりのミニマルを探し続けた。

しかし、先行する気持ちとは裏腹に、なかなか満足のいく音楽作りができない日々が続いた。演奏会もうまくいかなかった。「僕たちは音楽に使える下僕と同じ。より高い望みのためにはどんなことをしても平気だった」と考える久石の激しいやり方に、仲間とのいざこざも絶えなくなっていた。

「古今東西のすぐれた音楽家は、この苦しさを乗り越えて自分を確立したのだ」と心に言い聞かせながらも、不安は高まる一方だった。

「暗くて長いトンネルのなかに、僕はいた。かすかな希望に夢を託したり、明日を信じたりするには、少々疲れていた」(久石譲著「Iam」より)

ミニマルを現代音楽の一つとすれば、作曲、演奏そのものが「実験」でなければならない宿命を持つ。必然的に、技量の違う奏者をまとめあげ、新しい挑戦と完成度を両立させるのは至難の業となる。久石にとっても、それは同じだった。当時の彼の音楽は「そこそこの評価と偏見に満ちた罵倒に二分されていた」(同書より)

やがて、食いつなぐためにテレビコマーシャルの仕事にも進出。悶々としたまま、気がつけば30歳を迎えていた。

そんななか、タンジェリン・ドリームやクラフトワークなど、シンプルでありながらポピュラリティーのあるテクノ音楽を聴きながら、あることに気がつく。

「ミニマルをやるのに、現代音楽というフィールドにこだわる必要はないのではないか」

自分を縛っていたのは、自分自身だと気がついたのだ。

そう考えたら、急に気が楽になった。自分の生活費の基盤としか思っていなかった場所が、もっとも可能性のある場所に思えてきた。

久石は覚悟を決めた。そして、今より「広い場所」に挑む以上、「売れなければ、正義じゃない」と肝に銘じた。

こうして、アルバム「インフォメーション」が生まれた。名義は「ワンダー・シティ・オーケストラ」となっているが、実態は久石のソロ作品だ。それまでも現代音楽のアルバムに参加していたものの、この作品が事実上のデビュー作となった。

タイトルには、限られた相手でなく、不特定多数に向けて発信したいという思いを込めた。それはそのまま、もはや古典的となった「現代」音楽と、それを含む「クラシック」に対する決別表明だった。

ミニマルを随所に織り交ぜながらも、ポップスであることを強く意識した同アルバムは、糸井重里による「おいしい生活」という宣伝コピーが話題となっていた西武百貨店の池袋店で、1年間に渡って流れ続けるというおまけも付き、名実ともに「不特定多数に向けた音楽」となった。久石の周囲には、確実に新しい風が吹き始めていた。

そして、このアルバムがきっかけで、久石は宮崎監督と出会うことになる。(依田謙一)

(2004年3月14日 読売新聞)

 

連載 ハウルの動く城 久石譲

 

第9回:「ちゃんと彼に引き継がれていたよ」

連載 ハウルの動く城 久石譲

連載 久石譲が挑む「ハウル」の動く音 (読売新聞)
第9回:「ちゃんと彼に引き継がれていたよ」

プラハ録音最終日の翌日、2003年10月21日。久石譲は息つく間もなく、ロンドンへ向かった。

かつて、ロンドンに居住していた経験がある久石は、ヒースロー空港に到着すると、懐かしい空気をいっぱいに吸い込んだ。「ホームタウンに戻った気分だね」

ミックスダウンとマスタリング(CDにするための曲間の長さや音量の調整)を行うのは、アビー・ロードスタジオ。ビートルズが録音拠点としていたことで知られる、名門スタジオだ。

入り口には、これまで同スタジオで録音やマスタリングを行ったアーティストのレコードやCDが並んでいるが、この中には過去に久石が録音した作品もある。「あそこで録音したものがすべて飾られているわけじゃないから、見つけた時はとても感激したよ」──この話になると、久石は子供のように微笑む。

アビー・ロードを使うのは、約10年ぶりだという。当時、親しくしていたチーフ・エンジニアのマイク・ジャレット(ビートルズの「赤盤」「青盤」のエンジアとして知られる)が亡くなってから、足が遠ざかっていた。「なかなか気が進まなくてね。でも、そろそろいいかなと思って」

今回のエンジニアは、そのマイクのアシスタントだったサイモン・ローズ。現在は映画「ハリー・ポッター」シリーズのサウンドトラックなどを手掛ける売れっ子だ。「感慨があったね。しかも、シリアスな時ほどジョークを忘れないアビー・ロード独特の文化も、ちゃんと彼に引き継がれていたよ」

アビー・ロードスタジオの入り口

プラハで息を吹き込まれた音が、サイモンの手によってロンドンで成熟した。一層の重厚感を得たことで、久石が目指した「通常の映画音楽とは違う、音楽だけで築き上げた世界観」が完成した。

曲順も決定。録音エンジニアの江崎友淑と、トランペット奏者のミロスラフ・ケイマルのドラマがつまった「ケイヴ・オブ・マインド」は、アルバムの最後を飾ることになった。久石は言う。「実際に演奏してもらい、“こんなにいい曲だったんだ”と驚かされることってあるんだよね。いい演奏者というのは、そうやって曲の持っている力を引き出してくれる。『ケイヴ』はまさにそういう曲だった」

マスタリングした原盤を聴き終えた久石は、それまで「イメージアルバム」としていたタイトルに、「交響組曲」という文字を入れる必要があるのではないかと思い始めていた。「これは単なるイメージアルバムじゃない」──チェコ・フィルハーモー管弦楽団によって演奏された音は、旅の過程で久石の心を突き動かしていた。タイトルは、後にスタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーと話し合った上で、「イメージ交響組曲 ハウルの動く城」となる。

ロンドンで無事に作業を終えた久石は、意気込みの結晶を持って帰国。さっそく宮崎駿監督にできあがったばかりの音を届けた。初めて「ハウル」の「動く音」を耳にした監督は、さっそく「この部分はあの場面に合いそうだ」と思いを巡らしていたという。

アルバムに詰まった原石が、作品にどう反映されるのか。久石が臨んだ「第1楽章」の終わりは、本編のサウンドトラック制作という「第2楽章」の始まりでもあった。(依田謙一)

(2004年3月8日 読売新聞)

 

連載 ハウルの動く城 久石譲

 

第8回:「上手いだけのオーケストラは世界中にある」

連載 ハウルの動く城 久石譲

連載 久石譲が挑む「ハウル」の動く音 (読売新聞)
第8回:「上手いだけのオーケストラは世界中にある」

2003年10月20日。いよいよ録音の最終日だ。

実は、この前日にトラブルがあった。2日目の録音を終え、夕方から編集作業に入った瞬間、ドボルザークホールの周辺一帯が、停電に見舞われたのだ。

録音データが消えてしまっては、2日間の録音が水の泡となる。スタッフに緊張が走ったが、ホールの職員や、何度もプラハで録音しているエンジニアの江崎友淑は、まったく動揺していない。「いつものことなんですよ」と江崎。「むしろ録音中でなくてよかった。休憩にしましょう」と慣れた態度で煙草を取り出す。ホールの外に出てみると、町の人々も慌てていないから驚きだ。

こうなると、できることは待つだけだ。

一方、必ずしも“プラハ慣れ”していないはずなのに、なぜか冷静沈着に見える男がいた。スタジオジブリの音楽担当の稲城和実だ。実際は顔に出ないだけなのかも知れないが、「いやぁ、大変ですね」と言う稲城を、久石譲は「君が言うと、全然大変だって気がしないんだよ」とからかった。

停電は、何ごともなかったように、数時間後に復旧した。幸い、データは完全な形で残っていたものの、日本のスタジオでは考えられないおおらかさだ。

最終日は、停電のおかげで前夜遅くまで編集作業をこなしていたため、久石とスタッフの疲労はピークに達していたが、残された時間を精一杯使い、録音に取り組んだ。チェコ・フィルハーモニー管弦楽団の集中力も、最後まで途切れることはなかった。

終了後、久石と指揮者のマリオ・クレメンスが固い握手を交わす。多くを語り合わずとも、この握手が録音の成果を何よりも雄弁に物語っていた。

久石はチェコ・フィルの演奏をこう評価した。「スラブ系特有の土の匂いがする粘り強い演奏は、やはり『ハウルの動く城』の世界観にぴったりだった。マリオの指揮による演奏も期待以上のものになり、満足している。ただ、以前『交響組曲 もののけ姫』を録音した時に比べると、少しずつ演奏が均一化されてきていて、“お仕事”っぽくなりつつある印象も受けた。チェコ・フィルには、素朴さを失わずにいてほしいんだけどね。演奏が上手いだけのオーケストラは世界中にあるから」

終わってみればあっという間だったプラハ録音を終え、翌日にはミックスダウンとマスタリング(CDにするための曲間の長さや音量の調整)を行うため、ロンドンへ旅立った。(依田謙一)

(2004年3月1日 読売新聞)

 

連載 ハウルの動く城 久石譲

 

第7回:「ベリー・バッド・サウンド!」—後編

連載 ハウルの動く城 久石譲

連載 久石譲が挑む「ハウル」の動く音 (読売新聞)
第7回:「ベリー・バッド・サウンド!」—後編

「なんて大きな音を出す人だろう!」

少年は、興奮のあまり、コンサートが終了するや否や、無謀にも楽屋に押しかけた。出迎えた奏者は、突然の来訪に驚きながらも、少年にやさしく微笑みかけた──。

「イメージ交響組曲 ハウルの動く城」で録音エンジニアを務めた江崎友淑が、同アルバムに収録されている「ケイヴ・オブ・マインド」でトランペットソロを吹いているミロスラフ・ケイマルと出会ったのは、10歳の時だった。父親に連れられて行ったチェコ・フィルハーモニー管弦楽団の来日公演で、雷に打たれたような衝撃を受けた。

9歳からトランペットを吹いていた江崎は、当時、チェコ・フィルの首席奏者だったケイマルの音と出会ったことで演奏にのめり込んだ。「自分のラッパを、ケイマルに聴いてもらいたい」──その一心で、練習を続けた。

12歳になった江崎は、自分のことなどもう覚えていないだろうと思いながら、再びチェコ・フィルの来日公演を訪ねた。ケイマルは前回と同じようにやさしく微笑みかけ、こう言った。「あの時の子じゃないか」。江崎のことを覚えていたのだ。

ケイマルは、江崎が手にしていたトランペットに注目した。「ちょっと吹いてみないか」

江崎は、迷うことなくその場で演奏を始めた。「若さってすごいでしょ」。江崎は当時を振り返り、照れくさそうに笑う。

演奏を気に入ったケイマルは、以降、毎月のようにダンボール一個分もの教則本を送ってきた。「ケイマルが教えてくれているんだ」──そう思うと、江崎は夢中で練習した。

高校生になり、三度、チェコ・フィルの来日公演を訪ねた江崎は、突然、その日の公演でトランペットを吹くことを依頼された。奏者の一人が急病で倒れてしまったのだ。

この時、すでにトランペット奏者としての腕前は相当なレベルに達していた。ケイマルの教則本で鍛えた腕と、家にあった床が抜けそうなほどの数のレコードを聴いて培った耳によって、12歳でケイマルの前で吹いた若さとは違う武器を手に入れていた。

見事に代打を務めた江崎は、高校2年生の夏、チェコ・フィルのツアーに同行することになる。エキストラとして演奏に参加しながら、オーケストラのメンバーと親交を深めた。江崎は言う。「当時のチェコにおいて、オーケストラというのは、一種の“特権階級”でしたから、メンバーは、本当に音楽のことだけを考えて過ごしている余裕のある人々ばかりでした。今は、政治体制が変わったのはいいけど、サラリーマンに近くなっていて寂しいですね」

大学卒業後、江崎は、正式にケイマルに師事するため、プラハへ旅立った。しかし、これで思う存分ケイマルから学ぶことができると思った矢先、江崎は歯を痛め、長期治療のため、帰国を余儀なくされる。音楽を続けていくのは、厳しい状況だった。江崎は、この辺りの状況について多くを語ろうとしない。

結局、江崎は一旦、音楽から離れることを決意する。しばらくはテレクラでアルバイトをしたり、テレビ番組の制作会社に飛び込んだりしていた。

その過程で、音楽番組にスタッフとして参加する機会を得た江崎は、演奏とは違っても音楽を届けることができる喜びを知る。

同時に、音楽制作の現場に疑問も生まれていった。「日本では、スタッフはあくまで黒衣。でも、それじゃいつまで経ってもいい音楽はできない」──そう感じた江崎は、音楽制作会社「オクタヴィア・レコード」を立ち上げることを決意。音楽家と対等の関係を目指し、CD制作に取り組み始めた。

江崎が関わる現場では、日本ではタブーになりがちな音楽家への注文も遠慮なく出す。久石譲に、「ケイヴ」のソロをケイマルが吹くよう推薦したのも江崎だ。しかし、30年近くチェコ・フィルで首席奏者を務めたケイマルも、今では三番奏者。過去の実績だけでは簡単に推薦できない。それでも、この曲のソロは、ケイマルに合うという確信が江崎にはあった。「もちろん、口を挟むということは、それだけリスクを負うことになります。でも、そこで結果を残すのがプロだと思うんです」

江崎が久石と最初に仕事した時には、次々と注文を出すので周囲のスタッフが青ざめていたという。「でも、今も久石さんと仕事をしている。それが答えではないでしょうか」

久石の話になると、江崎はケイマルの話と同様に熱くなる。「久石さんの音楽は、ヨーロッパの人々に対する説得力がある。チェコ・フィルの演奏が何よりの証拠です。彼らは本気でした。久石さんには映画音楽の範ちゅうにとどまらない交響曲を、時間をかけて作ってほしい。それが実現したら、僕はそのCDをどこにでも売って歩きますよ」

江崎は、「ケイヴ」の録音中に、ケイマルの演奏を聴いて思わず涙を見せた。「あんなふうに感傷的な姿を見せてしまったのは、恥ずかしい限り」と前置きした上で、こう言った。「少年の頃に身震いした、あのトランペットの音が鳴ったんです。久石さんの曲には、それを実現できるエネルギーがあった。その時に思ったんです。僕はこういう音が録りたかったんだって」

「ケイヴ」の録音後、江崎がケイマルに満面の笑みで言った言葉が、再び頭をよぎった。

「ベリー・バッド・サウンド!」(依田謙一)

(2004年2月25日 読売新聞)

 

連載 ハウルの動く城 久石譲

 

第6回:「ベリー・バッド・サウンド!」—前編

連載 ハウルの動く城 久石譲

連載 久石譲が挑む「ハウル」の動く音 (読売新聞)
第6回:「ベリー・バッド・サウンド!」—前編

2003年10月19日。録音2日目。久石譲は、前日と同じ午前9時30分にドボルザークホールに入った。初日に比べるとずいぶん穏やかな表情だ。「今日は、気楽に話しかけてよ」の一言に、記者も一安心。

この日、最初に録音されたのは「暁の誘惑」。久石によれば、「290小節もあるのに、なぜか5分で終わってしまう」という激しい曲だ。

チェコ・フィルハーモニー管弦楽団による演奏が始まった。メロディー、ハーモニー、リズムがうねりながらめまぐるしく展開していく。「この曲に限らず、今回のアルバムは、短期間で集中して書いた分、勢いがあるよね」と久石。

この日録音された4曲のうちの一つ、「ケイヴ・オブ・マインド」にドラマがあった。

悲しくも美しいメロディーをトランペットが奏でるこの曲で、ソロを吹くのはミロスラフ・ケイマル。アルバムの録音エンジニアである江崎友淑が師事した、チェコ・フィルの前首席トランペット奏者だ。楽譜を見た江崎が、「彼が吹くべきだ」と久石に推薦したことで、今回のソロが実現した。

江崎によれば、ケイマルは「とにかく音が大きい奏者。でも、単に大きいだけじゃない。彼のトランペットは、聴く者を包み込んでくれる。楽譜を見た瞬間、合うと思った」という。

「ケイヴ」の演奏が始まった。予想以上の素晴らしさに、久石が、「ホールで聴きたい」とコントロール・ルームを飛び出していた頃、テレビモニター越しに聴きながら涙ぐんでいる男がいた。江崎だ。久しぶりに聞く師匠の名演奏にノックアウトされていたのだ。

録音後、久石とともにケイマルがコントロール・ルームに戻ってきた。感激の対面かと思いきや、江崎の口から出た言葉は「ベリー・バッド・サウンド!(なんてひどい音だ)」。

久石も周囲も一瞬戸惑ったが、ケイマルを見ると、笑っている。しかも、満面の笑みで。すぐに、2人の長年の付き合いによる「最大級の褒め言葉」だと分かり、今度はスタッフの目に涙が浮かんだ。

江崎とケイマルについてもっと知りたい──そう思った記者は、じっくり話を聞くために、帰国後、江崎を訪ねることにした。(依田謙一)

(2004年2月14日 読売新聞)

 

連載 ハウルの動く城 久石譲

 

第5回:「疲れるけど、疲れていられない」

連載 ハウルの動く城 久石譲

連載 久石譲が挑む「ハウル」の動く音 (読売新聞)
第5回:「疲れるけど、疲れていられない」

2003年10月18日。録音1日目。この日は、3時間のセッションを2度行い、3曲を録音するのが目標だ。

午前9時過ぎ、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団のメンバーが、プラハ市内のドボルザークホールに集い始めた。指揮者のマリオ・クレメンスも登場し、久石譲とあいさつ。笑顔を見せながらも、久石の眼差しは鋭い。

オーケストラのメンバーが楽器の調整を始めた。場内に色とりどりの音色が優しく反射する。

ドボルザークホールは、チェコ・フィルの本拠地。1200名程度収容の小規模ホールだが、天井が高いため“魔法の音が生まれる場所”と評されるほど音場が優れている。ステージの真下にコントロール・ルームがあるのも特徴だ。

午前10時。3管編成、85人のフルオーケストラが勢揃いした。久石が中央の座席に楽譜を持って陣取ると、ホール全体を、張り詰めた空気が覆った。

マリオが指揮棒を振り下ろし、「ミステリアス・ワールド」の演奏が始まった。響き渡る高らかなトランペットの音色。「ハウルの動く城」の音が初めて地上に舞い降りた瞬間だ。

チェコ・フィルの面々は、ほぼ初見のスコアであるにも関わらず、歌い上げるように演奏する。東欧独特の地を這うような粘り強い演奏と、ホールの響きが絶妙に絡み合い、それまで険しい顔が続いた久石に、確かな手応えを感じる笑みがこぼれた。

「ミステリアス・ワールド」を聞き終えた久石はコントロール・ルームヘ。「いいよね」と満足した様子を見せながらも、「ただ、グロッケンの音が前に出すぎているように聴こえる。こっちではどうだった?」と、録音エンジニアの江崎友淑に問いかける。「確かに少し前に出ていますね。マイクのセッティングを変えてみましょう」──江崎はそう答えると、コントロール・ルームを飛び出し、あっという間にマイクの位置を変えた。年に何度もドボルザークホールで録音している江崎だからこそできる“早業”だ。

マリオがメンバーに幾つか指示を出し、録音が始まった。まだ2度目であるにも関わらず、すでに演奏はほぼ完璧だ。

終了後、汗を拭きながらマリオがコントロール・ルームに現れた。久石は「演奏はとても良い」とマリオを迎えた上で、「いくつか確認したいことがあるんだけど」と楽譜を広げ、細かい希望を伝え始めた。

録音は、常に時間との戦いだ。5分の曲を演奏し、聴き直すだけで、すぐに10分が経過してしまう。しかも、オーケストラのメンバーを90分に一度休ませなければならないなど、「決まり」もあるため、一時も無駄にできない。短い時間で、2人は簡潔かつ確実に意思を交換する。

録音再開。久石もホールに戻り、耳を研ぎ澄ませる。今回はピアノ演奏がないため、曲の合間に何度もホールとコントロール・ルームを行き来しながら、細かい指示を出していく。

「疲れるけど、疲れていられないよね」と苦笑い。

この日は、予定通り3曲を録音した。順調な滑り出しだ。

しかし、録音が終了したからといって、ホテルに戻れるわけではない。引き続き、コントロール・ルームで、演奏したデータの編集作業などをこなす。

途中、データのコピーを作るバックアップ作業が行われることになり、久石が散歩に出た。コントロール・ルームには、江崎以下、久石の拠点スタジオ「ワンダーステーション」のエンジニア浜田純伸、秋田裕之と記者の4人が残された。

1日目の録音が無事に終了し、若干緊張が解けたせいか、雑談が始まった。互いの「カップラーメン観」など、他愛もない会話が続く中、このところCD全般の売れ行きが芳しくないという話が出た。

日本レコード業界の調べによると、1999年以降、国内のCD売り上げは5年連続で減少しており、一時は乱発されたミリオン・ヒットも、現在ではほとんどなくなった。音楽業界には、ここ数年「冬の時代」が続いている。

記者が、デジタルコピーの氾濫などを例に、CDが売れなくなった理由を尋ねると、浜田が打って変わって神妙な面持ちで答えた。

「売れないからといって、何かのせいにしてはいけないと思うんです。良い音楽を作り続けていれば、ちゃんと届くはずですから」

江崎と秋田が頷く。音楽業界には、まだまだ魂が息づいているようだ。

久石が戻ってきた。編集を再開。結局、初日から午前0時過ぎまで作業を行った。

「無事に10曲録れるといいんだけど」──さすがに疲れた様子の久石は、そう言ってホテルに吸い込まれていった。(依田謙一)

(2004年2月9日 読売新聞)

 

連載 ハウルの動く城 久石譲