Overtone.第78回 モチーフ「効果音楽じゃない」

Posted on 2022/10/04

ふらいすとーんです。

Overtone モチーフ です。

きれいに考えをまとめること、きれいに書き上げることをゴールとしていない、メモのような雑文です。お題=モチーフとして出発点です。これから先モチーフが展開したり充実した響きとなって開けてくる日がくるといいのですが。

 

モチーフ「効果音楽じゃない」

2021年映画『DUNE/デューン 砂の惑星』です。ちょうど映画館に足を運びにくい時期に公開されて、あとからサントラや映像に触れて、ぜひ映画館で大迫力に体感したかったと思った作品です。最初聴いたときに、音響がすごいな!と思って重厚なサウンドの渦に圧倒されました。でも、一聴して終わってたんです。ふだん聴いている好きなテイストとは違ったから。ん?なんか気になる、引きずるものがある。ちょっと時間を置いてまたサントラに手がのびる。

いやあ完敗でした。ずいぶん反省もしました。こうやって聴き流して聴き逃しているものがあるんだろうなって。ポイントは先に書いたふだん聴いている好きなテイストとは違ったから。そのせいでフィルターに引っかからずにこぼれ落ちてしまったものが多かった。

 

The Dune Sketchbook (Music from the Soundtrack)

 

Dune (Original Motion Picture Soundtrack)

 

軽く調べた範囲でいうと、音楽を担当したハンス・ジマーはスケッチブックまで制作してたんです。これはスタジオジブリ作品のイメージアルバムにあたる、なんという気合いの入れよう。とにかく思い入れが強いようで、もしこの作品が映画化されるときにはぜひ自分が音楽をやりたいと常々言っていた。それを裏付けるかのように、これまで数々のコンビを組んできた盟友クリストファー・ノーラン監督の新作『TENET テネット』を蹴ってまでこの作品を選んだ。制作時期が重なってしまった。『TENET テネット』も大ヒットしましたからね。さらには、近年共同制作のかたちをとることの多いハンス・ジマーの音楽です。『トップガン マーヴェリック』もそうです。でも、この作品は一人だけでやった。ほかの誰にも触らせなかった。いくつかのピックアップエピソードだけでもその気概がびしびし伝わってきますね。

 

長くなりそうな文章の書き方になってきてる…簡潔にいきたい。強く言いたいのは、これは効果音楽じゃない! こういう映像音楽のあり方もある!ということを再認識しました。

メロディがはっきりしない、ABCメロと発展していかない、音響にこだわっている、雰囲気のような曲想、鼻歌できるようなキャッチーな曲がない、つかみどころがない。……なんだか言いたい放題の辛口のようですが、ふだんこの逆のもの(ポップス/インスト)を聴きなじんでいると、この第一印象に陥りやすいかもしれません。だから反省もした。

このハンス・ジマーの音楽は、聴けば聴くほどこの作品の世界観そのものです。登場人物のひとり、作品のカラーを決定している、表現的には足りないもっと大きなもの。存在感、圧、気配、得体の知れない、理解を越えた、生き物、洗脳、とそんなメモを残しています。のみこまれそうになります。ボイスやエスニックな音階も使っていて、でもそういうので雰囲気出しましたとはだいぶん異にする根本的に圧倒されるものがあります。かなり深いところに降りて作ったんだろうなと。

最初はうわっクセ強いな、と思ってしまうけれど、聴けば聴くほど存在感があるというか説得力をもって迫ってきます。こういう音楽のあり方もある。まあ、日常にリピートするほどの好みじゃないです。でも、きっとコアなファンはいると強く納得できます。

 

DUNE Official Soundtrack | Armada – Hans Zimmer | WaterTower (約5分)

from WaterTowerMusic Official YouTube

メインテーマではないですけれど、この1曲だけを聴いても百聞は一見にしかず。中盤に曲想が変わってバグパイプの印象的なメロディが登場します(2:15-)。とても躍動的でこのサントラ随一?唯一?のキャッチーさかもしれません。20秒ほどで終わってしまうんですけれど(笑)

 

Dune Sketchbook Soundtrack | House Atreides – Hans Zimmer | WaterTower (約14分)

from WaterTowerMusic Official YouTube

これがスケッチブックにかかると約7分にわたって聴くことができます(03:30-10:30)。転調したりいろいろなパターンを試したりと充実しています。本気度がすごい。もっというと、曲頭と曲後の伸びやかなヴォーカルパートも、旋律は同じものからのバリエーションなので、この曲まるまる一曲そうです。だからイメージアルバム…違ったスケッチブック14分の曲がサントラ20秒に凝縮された。全力すぎる。

 

 

この作品は、『スター・ウォーズ』や『風の谷のナウシカ』にまで影響を与えたとも言われているほどの強い古典です。それは映画を見たらなんとなくすぐわかると思います、設定とか世界観とか。映画化もたびたびリメイクされているようで、このたび2021年に最新映画化され今後シリーズ化も決定している『DUNE/デューン 砂の惑星』です。ハンス・ジマーの音楽もスケッチブックから使われていない曲もあってシリーズが進むなかで登場してくるかもしれません。音楽的にどう発展していくのかとても楽しみです。

 

……

どうしても久石譲ファンとしては「効果音楽のようなもの/劇伴のようなもの」というのが染みついてしまっているところがあります。でも、なにが効果音楽みたいでつまらないかを聴き分ける力は自分次第です。映像音楽の多様性というか、どう映像とコミットしている音楽なのか、を幅広いものさしで聴き取れるようになりたい。

世代の若い作曲家は「劇伴」という言葉をあまり否定的な意味合いを含まない、フラットに名札のように使うことも多いです。久石さんファンからすると劇伴と聞くだけでマイナスな印象、その音楽を線引きしてしまいそうにもなってしまいます。でも、ほんとうにそれは”久石さんが意味するところの劇伴”なのか、そうじゃないかもしれない、ちゃんと相乗効果を発揮している、別のタイプの映像音楽なのかもしれない。そうやって、ひとつひとつの作品ごとにまっさらにリセットした心持ちで聴いていきたい。

 

そんなモチーフでした。

それではまた。

 

reverb.
ネットで検索して熱く語られているサントラレビューはそれなりに理由があると思う参考にしてる

 

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

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Overtone.第77回 長編と短編と翻訳と。~村上春樹と久石譲~ Part.4

Posted on 2022/09/20

ふらいすとーんです。

怖いもの知らずに大胆に、大風呂敷を広げていくテーマのPart.4です。

今回題材にするのは『村上春樹 雑文集/村上春樹』(2011)です。

 

 

村上春樹と久石譲  -共通序文-

現代を代表する、そして世界中にファンの多い、ひとりは小説家ひとりは作曲家。人気があるということ以外に、分野の異なるふたりに共通点はあるの? 村上春樹本を愛読し久石譲本(インタビュー記事含む)を愛読する生活をつづけるなか、ある時突然につながった線、一瞬にして結ばれてしまった線。もう僕のなかでは離すことができなくなってしまったふたつの糸。

結論です。村上春樹の長編小説と短編小説と翻訳本、それはそれぞれ、久石譲のオリジナル作品とエンターテインメント音楽とクラシック指揮に共通している。創作活動や作家性のフィールドとサイクル、とても巧みに循環させながら、螺旋上昇させながら、多くのものを取り込み巻き込み進化しつづけてきた人。

スタイルをもっている。スタイルとは、村上春樹でいえば文体、久石譲でいえば作風ということになるでしょうか。読めば聴けばそれとわかる強いオリジナリティをもっている。ここを磨いてきたものこそ《長編・短編・翻訳=オリジナル・エンタメ・指揮》というトライアングルです。三つを明確な立ち位置で発揮しながら、ときに前に後ろに膨らんだり縮んだり置き換えられたり、そして流入し混ざり合い、より一層の強い作品群をそ築き上げている。創作活動の自乗になっている。

そう思ったことをこれから進めていきます。

 

 

今回題材にするのは『村上春樹 雑文集/村上春樹』(2011)です。

”デビュー小説『風の歌を聴け』新人賞受賞の言葉、伝説のエルサレム賞スピーチ「壁と卵」(日本語全文)、人物論や小説論、心にしみる音楽や人生の話……多岐にわたる文章のすべてに著者書下ろしの序文を付したファン必読の69編! お蔵入りの超短編小説や結婚式のメッセージはじめ、未収録・未発表の文章が満載。素顔の村上春樹を語る安西水丸・和田誠の愉しい「解説対談」付。”

とBOOKデータベース紹介のとおり、あらゆるところから雑多に集めた、カテゴリーごとにきれいに腑分けされた本です。ずいぶん前に、音楽について書かれたものからOvertoneで取り上げたことあります。

 

自分が読んだあとなら、要約するようにチョイスチョイスな文章抜き出しでもいいのですが、初めて見る人には文脈わかりにくいですよね。段落ごとにほぼ抜き出すかたちでいくつかご紹介します。そして、すぐあとに ⇒⇒ で僕のコメントをはさむ形にしています。

 

 

 

”自分の作品が他言語にトランスフォームされることの喜びの一つは、僕にとっては、こういうふうに自分の作品を別の形で読み返せるというところにある、と言ってもいいでしょう。日本語のままでならまず読み返さなかったはずの自作を、それが誰かの手によって別の言語に置き換えられたことで、しかるべき距離を置いて振り返り、見直し、いうなれば準第三者としてクールに享受することができる。そうすることによって、自分自身というものを、違った場所から再査定することもできる。だから僕は、僕の小説を訳してくれる翻訳者たちにとても感謝しています。たしかに僕の本が外国の読者の手に取られるというのも、非常にうれしいことなのだけれど、それと同時に、僕の本が僕自身に読まれる──これはいまのところ残念ながら英語の場合に限られているのだけれど──のも、僕にとってはなかなかうれしいことなのです。

すぐれた翻訳にいちばん必要とされるものは言うまでもなく語学力だけれど、それに劣らず──とりわけフィクションの場合──必要なのは個人的な偏見に満ちた愛ではないかと思う。極端に言ってしまえば、それさえあれば、あとは何もいらないんじゃないかとさえ、僕は考えます。僕が自分の作品の翻訳に、何をいちばん求めるかと言えば、まさにそれです。偏見に満ちた愛こそは、僕がこの不確かな世界にあって、もっとも偏見に満ちて愛するものの一つなのです。”

~(中略)~

⇒⇒⇒
久石譲作品もまさに近年翻訳される機会がますます増えています。原典となる公式スコアの提供環境さえ整えば、自らの手を離れて指揮される側になります。村上春樹作品が翻訳されることで自身の小説を再査定することができるように、指揮されることで距離をおいて見えてくることも多いのだろうと思います。あるいは、以前に「僕よりもうまくとなりのトトロを指揮していた」そんなことをユーモアに語っていたこともあります。

テーマにそって翻訳=指揮としていますが、もちろん一般的なトランスクリプション(楽器の置き換えによる演奏や編曲)もありますね。なによりも村上春樹さんが”偏見に満ちた愛”と語っているとおり、その作品への愛情表現のかたちです。多いほど深いほど、その作品は残っていくことになります。

 

 

”優れた古典的名作には、いくつかの異なった翻訳があっていいというのが僕の基本的な考え方だ。翻訳というのは創作作業ではなく、技術的な対応のひとつのかたちに過ぎないわけだから、さまざまな異なったかたちのアプローチが並列的に存在して当然である。人々はよく「名訳」という言葉を使うけれど、それは言い換えれば「とてもすぐれたひとつの対応」というだけのことだ。唯一無二の完璧な翻訳なんて原理的にあり得ないし、もし仮にそんなものがあったとしたら、それは長い月日で見れば、作品にとってかえってよくない結果を招くものではないだろうか。少なくとも古典と呼ばれるような作品には、いくつかの alternative が必要とされるはずだ。質の高いいくつかの選択肢が存在し、複数のアスペクトの集積を通して、オリジナル・テキストのあるべき姿が自然に浮かび上がってくるというのが、翻訳のもっとも望ましい姿ではあるまいか。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は既にそのような「古典」の範疇に入っていると僕は考える。野崎氏の訳は言うまでもなく優れた訳だが、野崎氏が訳されてから長い歳月が経過しているし、日本語自体もそのあいだに大きく変化している。我々のライフスタイルも変化した。そろそろ新しい見直しがあってもいいはずである。伝え聞くところによると、野崎氏自身も既訳に自ら手入れすることを考えておられたようだが、惜しむらくはその前に亡くなられてしまった。そこで僕が及ばずながら、僭越ながら、いまひとつの選択肢を提供することになったわけだ。

ただ中高年世代にとって、野崎氏の翻訳『ライ麦畑でつかまえて』は、既にひとつの「定番」となっており、いわば「刷り込み」として機能しているところがある。ある程度それは覚悟していたのだが、そういう刷り込みの深さは、こちらの予測を遥かに超えたものだった。そのような世代にとって(実を言えば僕もそのうちの一人なのだが)、僕の新訳は極端にいえば「聖域侵犯」みたいに感じられたようだ。そういうところからくる心理的反撥みたいなものは、正直言って少なからずあった。もちろんこれは野崎氏の翻訳が素晴らしいから生じる現象なのだが、考えようによっては、これは──ひとつの翻訳とオリジナル・テキストが長年のあいだにここまで一体化してしまうというのは──いささか恐ろしいことであるかもしれない。僕としても(一人の翻訳者としても、また自分の作品が外国語に翻訳される小説家としても)、いろいろと考えさせられるところはあった。”

~(中略)~

⇒⇒⇒
具体的でわかりやすいです。複数の翻訳が存在することの意義や魅力、一方ではひとつの翻訳しか存在しないことの功罪。ここはとても興味深かったです。聖域化されてしまったものは、新しい挑戦や解釈も生まれることなく、そのまま化石化の一途をたどります。なぜ、時代とともに新しい風を送りつづけるのか。今という時代の風のなかで触れてほしいからこそ、翻訳される指揮される作品があって、だから心を打つ。変えてはいけないものと、変えなくてはいけないもの。社会も政治も文化も人も、まことにむずかしい。

 

 

”僕は翻訳というものは家屋にたとえるなら、二十五年でそろそろ補修にかかり、五十年で大きく改築する、あるいは新築する、というのがおおよその目安ではないかと常々考えている。僕自身の翻訳についても、二十五年目を迎えたものは少しずつ補修作業に入っている。もちろん家屋と同じように、それぞれの翻訳によって経年劣化に多少の差があるのは当然だが、五十年も経過すれば(たとえ途中でいくらかの補修があったにせよ)さすがに、選ばれた言葉や表現の古さがだんだん目につくようになってくる。

言葉ばかりではなく、翻訳の方法そのものをとってみても、そこには大きな変遷がある。翻訳技術も着実に進化している。またインターネットの登場以来とくに顕著に言えることなのだが、他文化や他言語についての情報量も、また作家や作品の背景についての情報量も、昔と今とでは圧倒的に違う。そういう意味では、僕がこんなことを言うのは僭越に過ぎるかもしれないが、この『ロング・グッドバイ』の新しい訳を世に問うには、今はまず妥当なタイミングであると言えるかもしれない。具体的な経緯を述べるなら、二年以上前のことになるが、早川書房編集部から本書を翻訳してみる気持ちはないかという打診があり、僕としても前々からやりたいと思っていたことなので、二つ返事でお引き受けした。

もうひとつ、僕があえて再訳に挑戦してみたいと思った理由として、清水氏の翻訳『長いお別れ』ではかなり多くの文章が、あるいはまた文章の細部が、おそらくは意図的に省かれているという事実がある。これは、長年にわたって、チャンドラーの小説を愛好する多くの人が、少なからず不満とするところでもあった。清水氏がどのような理由や事情で、細かい部分をこれほど大幅に削って訳されたのか、僕にはその理由はもちろんわからない。それが出版社の意向であったのか、あるいは訳者自身の意向であったのか、それも知るところではない。しかし一九五八年に時点においては(アメリカでの刊行後まだ四年しか経っていない)、文章家としてのチャンドラーの価値が、少なくとも日本では、まだじゅうぶんに認められていなかったし、そのことがおそらくは「文章が全体的に短く刈り込まれた」ひとつの大きな要因になっているのではないかと推測される。あるいはもっと一般的な意味で、「ミステリ小説はそれほど細かいところまで正確に訳す必要はない、筋と雰囲気さえちゃんとわかればいい」という通念が当時はあったのかもしれない。半世紀を経た今となっては、そのへんの事情は謎に包まれている。

ただ、清水氏の名誉のために声を大にして言い添えておくなら、清水訳が「たとえ細部を端折って訳してあったとしても、そんなこととは無関係に、何の不足もなく愉しく読める、生き生きした読み物になっている」ということは、万人の認めるところだし、氏の手になる『長いお別れ』が日本のミステリの歴史に与えた影響はまことに多大なものがある。その功績は大いにたたえられて然るべきものだし、僕としても先輩の訳業に深く、率直に敬意を表したい。なにしろ僕も清水さんの翻訳で初めてこの小説を読んで感服してしまったわけなのだから、個人的にも感謝しないわけにはいかない。いずれにせよ、古き良き時代ののんびりとした翻訳というか、あまり細かいことに拘泥しない、大人の風格のある翻訳である。

しかしそれはそれとして、今日におけるレイモンド・チャンドラーという作家の重要性を考慮するとき、そして彼の作品群の中におけるこの作品の位置を考えるとき、「完訳版」というべきか、いちおうひととおり細かいところまで訳され、現代の感覚(に近いもの)で洗い直された『ロング・グッドバイ』が清水訳と並行するかたちで存在していいはずだし、また存在するべきであろうというのが僕の考え方である。基本的なことを言えば、同時代作品としていきおいをつけて訳された清水訳と、いわば「準古典」としてより厳密に訳された村上訳という捉え方をしていただいてもいいかもしれない。言うまでもないことだが、「できることなら完全な翻訳を読みたい」と考えるか、あるいは「多少削ってあっても愉しく読めればいい」と考えるかは、ひとえに個々の読者の選択にまかされている。あるいは両方の翻訳を併せて楽しみたいという熱心な読者も中にはおられるかもしれない。実際にそうしていただければ、僕としてはとても嬉しいのだが。”

~(中略)~

⇒⇒⇒
かなり長い引用になってしまいました。翻訳業界で過去に起こってきた一連がとてもわかりやすいので、そのままたっぷり引用させてもらいました。そういえば、『ラフマニノフ:交響曲第2番』も1950年代は冗長すぎるとカットされた短縮版が主流でした。1970年代にアンドレ・プレヴィンが全曲完全版を演奏して以降、一気にこちらが主流となります。今日録音されるほとんどすべての盤は完全版です。なぜカットされていたのか? いつぞやの指揮者の改変がずっと尾を引いていたのか? ついに完全版が存在することも忘れられていたのか? 同じような時代背景が見え隠れしてくるようです。文化の成長、人々の文化への理解の歩みあってこそ、今僕たちが受け取ることができているものは多いです。

改悪のことはまた最後に。

 

 

”これまでずっと翻訳をやってきてよかったなあと思うことは、小説家としていくつかある。まず第一に現実問題として、小説を書きたくないときには、翻訳をしていられるということがある。エッセイのネタはそのうちに切れるけれど、翻訳のネタは切れない。それから小説を書くのと翻訳をするのとでは、使用する頭の部位が違うので、交互にやっていると脳のバランスがうまくとれてくるということもある。もうひとつは、翻訳作業を通して文章について多くを学べることだ。外国語で(僕の場合は英語で)書かれたある作品を読んで「素晴らしい」と思う。そしてその作品を翻訳してみる。するとその文章のどこがそんなに素晴らしかったのかという仕組みのようなものが、より明確に見えてくる。実際に手を動かして、ひとつの言語から別の言語に移し替えていると、その文章をただ目で読んでいる時より、見えてくるものが遥かに多くなり、また立体的になってくる。そしてそういう作業を長年にわたって続けていると、「良い文章がなぜ良いのか」という原理のようなものが自然にわかってくる。

そしてまたある時から、僕にとっての「翻訳」は両方向に向けたモーメントになっていった。僕がほかの作家の作品を日本語に翻訳するだけではなく、僕の書いた小説が多くの言語に翻訳されるという状況が生まれてきたからだ。今では四十二の言語に翻訳され、僕の作品を外国語で読む読者は驚くほど増えている。外国を旅行して書店に入り、自分の作品が平積みにされているのを目にすることも多くなった。それは本当に嬉しいことだ。もちろんどんな作家にとってもそれは嬉しいことであるに違いないが、とりわけ翻訳というものに深く携わってきた僕のような人間にとって、自分の本が「翻訳書」としてそこに並んでいるのを目にするのは、実に感慨深いものがある。

まだまだ先は長いし、翻訳したい作品もたくさん残っている。そしてそれは、小説家としての僕にとってもまだまだ成長する余地が残されている、ということでもあるのだ。”

~(中略)~

⇒⇒⇒
実際にやってみて気づくこと、実際に体験してみないとわからないことってあります。久石譲の曲を聴いて、久石譲の演奏している姿を見て、自分もピアノを弾きたいと思った人や習うきっかけになった人は多いと思います。聴いていただけのときよりも、難しさがわかったり、弾けるけど同じようには弾けなかったり、片手だけ弾いてみたら気づいたことあったり。どんな道にも、やってみてその奥深さがわかります。……聴くだけもそうですね。聴くことにゴールってありません。いつまでもどこまでも深く味わっていける。

話を戻して。もし同じように、久石譲の作品が(たとえば久石譲交響曲が)四十二のバラエティに富んだ録音盤が並ぶような日がきたときには、感慨ひとしおです。

 

 

”そのときに思ったのは、「もし音楽を演奏するように文章を書くことができたら、それはきっと素晴らしいだろうな」ということだった。

小さい頃にピアノを習っていたから、楽譜を読んで簡単な曲を弾くくらいならできるが、プロになれるような技術はもちろんない。しかし頭の中に、自分自身の音楽のようなものが強く、豊かに渦巻くのを感じることはしばしばあった。そういうものをなんとか文章のかたちに移し替えることはできないものだろうか。僕の文章はそういう思いから出発している。

音楽にせよ小説にせよ、いちばん基礎にあるものはリズムだ。自然で心地よい、そして確実なリズムがそこになければ、人は文章を読み進んではくれないだろう。僕はリズムというものの大切さを音楽から(主にジャズから)学んだ。それからそのリズムにあわせたメロディー、つまり的確な言葉の配列がやってくる。それが滑らかで美しいものであれば、もちろん言うことはない。そしてハーモニー、それらの言葉を支える内的な心の響き、その次に僕のもっとも好きな部分がやってくる──即興演奏だ。特別なチャンネルを通って、物語が自分の内側から自由に湧きだしてくる。僕はただその流れに乗るだけでいい。そして、最後に、おそらくいちばん重要なものごとがやってくる。作品を書き終えたことによって(あるいは演奏し終えたことによって)もたらされる、「自分がどこか新しい、意味のある場所にたどり着いた」という高揚感だ。そしてうまくいけば、我々は読者=オーディエンスとその浮き上がっていく気分を共有することができる。それはほかでは得ることのできない素晴らしい達成だ。

このように、僕は文章の書き方についてほとんどを音楽から学んできた。逆説的な言い方になってしまうが、もしこんなに音楽にのめり込むことがなかったとしたら、僕はあるいは小説家になっていなかったかもしれない。そして小説家になってから三十年近くを経た今でも僕はまだ、小説の書き方についての多くを、優れた音楽に学び続けている。たとえば、チャーリー・パーカーの繰り出す自由自在なフレーズは、F・スコット・フィッツジェラルドの流麗な散文と同じくらいの、豊かな影響を僕の文章に与えてきた。マイルズ・デイヴィスの音楽に含まれた優れた自己革新性は、僕が今でもひとつの文学的規範として仰ぐものである。

セロニアス・モンクは僕がもっとも敬愛するジャズ・ピアニストだが、「あなたの弾く音はどうしてそんなに特別な響き方をするのですか?」と質問されたとき、彼はピアノを指してこう答えた。

「新しい音(note)なんてどこにもない。鍵盤を見てみなさい。すべての音はそこに既に並んでいる。でも君がある音にしっかり意味をこめれば、それは違った響き方をする。君がやるべきことは、本当に意味をこめた音を拾い上げることだ」

小説を書きながら、よくこの言葉を思い出す。そしてこう思う。そう、新しい言葉なんてどこにもありはしない。ごく当たり前の普通の言葉に、新しい意味や、特別な響きを賦与するのが我々の仕事なんだ、と。そう考えると僕は安心することができる。我々の前にはまだまだ広い未知の地平が広がっている。開拓を待っている肥沃な大地がそこにはあるのだ。”

~(中略)~

⇒⇒⇒
よく語られる内容で同旨あります。

 

(以上、”村上春樹文章”は『村上春樹 雑文集』より 引用)

 

 

 

翻訳の改悪について。

本書にもあったとおり、オリジナルテキストをカットしてしまうこと。ほかにも、わからないところはみんなそっくり省いてしまったり、勝手に作り替えてしまったり、物語の流れから必要ないと勝手に判断されてしまったりと。

 

指揮の改悪について。

上に書いたオリジナルスコアをカットしてしまう短縮版があります。勝手な作り替えってあるんでしょうか? 答えは、あるようです。ここはティンパニを足したほうがより迫ってくるとか、この楽器だけじゃ弱いからあの楽器もかぶせちゃえとか。スコア版による違いではなくて、まあ、指揮者の独断とその連鎖(右にならえ)による。今はそんなこともあまりないようです。

 

演奏の解釈について。

作曲家は、テンポだったり強弱だったりこう演奏してほしいという思いを譜面で記号に託しています。久石譲は楽譜に書かれてあるとおり提示部をくり返します。「ドヴォルザーク:交響曲第9番《新世界より》」も「ブラーム:交響曲第1番」も、第一楽章の提示部を(決して短くはない3~5分ほど演奏時間が変わるひとパート)まるまるくり返します。

この譜面にあるくり返しをしている演奏って、あまりないんです。CDを10枚聴いたとしても1,2枚見つけられるかくらいかもしれません。たとえばこの2作品では。指揮者の判断に委ねられてきた部分が大きくくり返さない派が今の主流です。

くり返さない派…必要性を感じない、ソナタ形式の慣習化や形骸化からくるリピートで必然性はない、流れがとまる、リピートして戻ったときに唐突な調性の変化になってしまって自然じゃない etc

くり返す派…必要性・必然性がある、展開部や次楽章に広がっていくまえに何回か聴いて覚えてもらう、印象が薄くなってしまう etc

さすがに、演奏時間が長くなる・間延びするからという意見は見なかったです。それを言ってしまったら大変なことになります。「ベートーヴェン:交響曲 第3番《英雄》」は演奏時間としても長大な作品です。しっかり提示部のリピート指示もあるしカットされたこともない。…作品ごとに吟味したのか、神格化された作曲家との扱いに差があるのか…文化ってむずかしい。

 

久石譲が作曲家として、作曲家が譜面にそう書いているからくり返すと尊重することは自然です。村上春樹が小説家として、小説家が書いたものはカットしたり改悪したりすることなくオリジナルテキストに忠実に翻訳したいと尊重することと同じです。

クラシック音楽も、自筆譜や歴史的資料の発見や研究で新しくアップデートされる名曲たちもたくさんあります。ときには、作曲家じゃない手によって変更がかかっていたものを原典に戻したりなど。また、音楽も小説もひとつの作品だけじゃなくて、系譜的に作品を並べてみたときに、その作家のスタイルがわかってきて、それが細かい修正の説得力につながってくるなんてこともあるのかもしれません。この人はこういうことするとかしないとか…あの作品での手法と同じように捉えるべきだとか…。翻訳も指揮も、時代ごとに検証されることって大切なんですね。人によって文化は成長する、はたまた、文化によって人は成長する。

 

 

今回とりあげた『村上春樹 雑文集/村上春樹』。目次をながめると、【序文・解説など】【あいさつ・メッセージなど】【音楽について】【『アンダーグラウンド』をめぐって】【翻訳すること、翻訳されること】【人物について】【目にしたこと、心に思ったこと】【質問とその回答】【短いフィクション】【小説を書くということ】とまとまってカテゴライズされています。

本文から引用したものは、そのほとんどが【翻訳すること、翻訳されること】項からだと思います。ほかのカテゴリーも読みごたえおもしろさ満載な一冊です。

 

 

-共通むすび-

”いい音というのはいい文章と同じで、人によっていい音は全然違うし、いい文章も違う。自分にとって何がいい音か見つけるのが一番大事で…それが結構難しいんですよね。人生観と同じで”

(「SWITCH 2019年12月号 Vol.37」村上春樹インタビュー より)

”積極的に常に新しい音楽を聴き続けるという努力をしていかないと、耳は確実に衰えます”

(『村上さんのところ/村上春樹』より)

 

 

それではまた。

 

reverb.
久石譲公式スコアによる演奏会とそうじゃないもの…それはまた別の論争♪

 

 

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Overtone.第76回 モチーフ「無調がルーツ」

Posted on 2022/09/11

ふらいすとーんです。

Overtone モチーフです。

きれいに考えをまとめること、きれいに書き上げることをゴールとしていない、メモのような雑文です。お題=モチーフとして出発点です。これから先モチーフが展開したり充実した響きとなって開けてくる日がくるといいのですが。

 

モチーフ「無調がルーツ」

調性のない音楽を無調音楽といったりします。20世紀のはじめシェーンベルクらによる調性の崩壊は、今も現代音楽のなかで脈々と受け継がれています。おそらくあの時代には通らないといけなかった調性の解放。今聴ける作品たちのなかにその意志や継承はあるのか、はたまた単なる調性の放棄か。

ジョン・ウィリアムズは近年意欲的に自作品を録音しています。これはとてもうれしい。やっぱり映画音楽だけじゃなくてオリジナル作品もしっかり残してこその相乗効果ってあります。作品群の幅が深さが際立ってくる。そう思って楽しみにしていたアルバムなんだけど……なかなかしっくりこなかった第一印象はうまく受けとめられなかった。

 

ギャザリング・オブ・フレンズ
ジョン・ウィリアムズ、ヨーヨー・マ、ニューヨーク・フィルハーモニック

 

ムター・プレイズ・ジョン・ウィリアムズ
ジョン・ウィリアムズ、アンネ=ゾフィー・ムター、ボストン交響楽団

 

それぞれにオリジナル作品と自身が手がけた映画音楽が収録されています。そのあたりの詳細は飛ばします。映画音楽もチェロのための/ヴァイオリンのための選曲と新アレンジは絶品さすがです。

「チェロ協奏曲(2021年改訂版)」も「ヴァイオリンと管弦楽のための協奏曲 第2番(新作)」も最初聴いたときの印象は、こむずかしい、煙に巻いたような感じ、流れがとまる、もうひと越えしない、眉が寄る。散々ですけれど、とっつきにくかったということです。そうしてCDライナーノーツをみてみたら、作品解説のなかに無調音楽というキーワードが出てきて、そうかそうか。

すっきり。説明されるとそうなんだとすっと音楽も入ってくるから不思議です。なんでこんなことになってるの?なんでこんな展開するの?と勝手に喧嘩腰の態度もあらたまり、勝手に仲直りした気分になります。これで難しい顔をして聴かなくてすみます。こういう音楽なんだと受けとめOKです。少し味わい方もわかるというもの。

久石譲とジョン・ウィリアムズの共通点といえば映画音楽です。そして交響曲や協奏曲といった自作品もある。もしこのことでリスナーと距離ができてしまうとしたら、映画音楽でやっていることをわざわざふんだんに自作品でやる必要のない。この線引きはしょうがない。モーツァルトもベートーヴェンもブラームスも甘美で映画音楽的なメロディや曲想もある。商業音楽と純音楽を並走して活動するふたりの時代には、キャッチーなメロディや曲想はエンターテインメントで存分に発揮されるぶん、自作品では別の方向性を追求する、これはしごく自然なこと。

ジョン・ウィリアムズのルーツはジャズだったり無調だったり。久石譲のルーツはミニマル・ミュージック。久石さんも語るとおり、ミニマルにはリズムも調性もある、だから二人の自作品を比べたら聴きやすいともいえる、すべてじゃない。ミニマルは小さな音型の反復やズレからなるけれど、音型の時点である和音の構成音にもなっているのでおのずとハーモニーも生まれやすい。「フィリップ・グラス:Two Pages」はコードCmの音というように。久石さんの場合、ミニマル音型を単音ではなくハモらせたりすることでハーモニーを複雑にしていたり、別の音型をぶつけることでハーモニーを散らしたりしている、と思う。

そんなこんなで作曲家のオリジナル作品には、ルーツが出るからおもしろい。また創作活動というものは切り離されることはないので(切り離される必要もないので)、一瞬のぞかせる映画音楽的な部分にぐっとくる。一瞬、それ以上を求めてはいけない。一瞬、創作活動の点と点が線でつながっていることを感じさせてくれる。この塩梅は、両軸でオリジナリティを確立していないと出せない妙味。

ジョン・ウィリアムズの映画音楽には無調の要素も登場するし、久石譲の映画音楽にはミニマルの要素も登場する。はじめに戻って、おもしろいなと思うのは、映画音楽的なキャッチーなメロディや曲想を回避するために、ジョン・ウィリアムズは無調を選び、久石譲はミニマルを選んだ。無調を導入することでキャッチーさは遠のくし、ミニマルを導入することで甘美なメロディが進み生まれるのを制御する。おもしろいなと思います。

ジョン・ウィリアムズの自作品に触れることで、無調音楽から継承したものを味わうことができる。無調もミニマルも語法として音楽史をつないでいる。そして、間違いなく映画音楽もひとつの語法と言われていくようになるでしょう。そのうち「この作品には映画音楽的手法、すなわち華やかさや高揚感といっためまぐるしい場面転換で緩急自在に音楽が進行していく」こんな未来のクラシック解説もうまれそう。映画音楽と現代作品の垣根の崩壊は今すでに起きています。「その先導者こそジョン・ウィリアムズや久石譲だった」、いつかきっとそう言われるような気がします。

 

そんなモチーフでした。

それではまた。

 

reverb.
ジョン・ウィリアムズ×久石譲 自作品演奏会とかいいな~!

 

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

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Overtone.第75回 モチーフ「春の祭典あれこれ」

Posted on 2022/09/04

ふらいすとーんです。

Overtone モチーフ です。

きれいに考えをまとめること、きれいに書き上げることをゴールとしていない、メモのような雑文です。お題=モチーフとして出発点です。これから先モチーフが展開したり充実した響きとなって開けてくる日がくるといいのですが。

 

モチーフ「春の祭典あれこれ」

久石譲第二回監督作品『4 MOVEMENT』(2001)です。このなかにとてもおどろおどろしいシーンがあって、なかなか強烈に印象にのこります。僕は当時観て動悸が…僕は当時観てとても理解追いつかない。だいぶん経ってから(というか最近)ふと思ったこと。これは久石さんのなかで『春の祭典』からイメージしたものかもしれないと。バレエ春の祭典にはこのCDジャケットのようなシーンがあって、それが4MOVEMENTのシーンとつながりましした。

 

 

『NHKスペシャルドラマ 坂の上の雲 オリジナル・サウンドトラック』(2009)の「11.戦争の悲劇」には、『ストラヴィンスキー:春の祭典』のTrack5,6に聴けるようなモチーフが登場しています。この作品はのちの作曲家たちのバイブルといっていいほど多くの影響を与えています。ジョン・ウィリアムズも映画『ジョーズ』などで春の祭典からインスパイアしたとわかる曲を残しています。

ウィキペディアだったかな?「多くの民謡を引用しているが、大部分は原型をとどめないほど変形されている」「ロシア民謡などからもいくつかの素材を借りているらしい」とある春の祭典です。坂の上の雲もロシアは舞台のひとつ。そして、戦争、生贄、犠牲者。

 

久石譲 『坂の上の雲 オリジナル・サウンドトラック 1 』

 

 

『4 MOVEMENT』に戻って。DVDパッケージを手にとってみると。

【メッセージ】

この物語は、主人公のミオが5歳、10歳、20歳と成長していく、4つの楽章(MOVEMENT)から成り立っている。ひとりの人間の心の中には様々な顔があり、とてもやさしい部分と、人にはいえない暗い部分とを皆んなが持っている。ひとりひとりの中にあるものは小さくても、世界中の人間の、つまり60億分ものエネルギーとなると、それが戦争や、憎しみといった世の中の様々な問題を起こしているのではないか。ひとりひとりの中にある問題が連鎖拡大されて戦争が起こったりする。それを解決するのは、自分自身であって、問題は自分の外にあるのではなくて、自分の中にある。「心の中の闇に生まれたもうひとりの自分とどう向き合っていくか」がこの作品の大きなテーマである。  -久石譲

 

人がもつダークサイドな一面と、それが集まり肥大化していったときの戦争、生贄、犠牲者。『4 MOVEMENT』『春の祭典』『坂の上の雲』、演出面や音楽面でつながるところが(それぞれに)あるような気がしてきます。

ほんとうは、すぐに口をついて出ないといけない感想はすっ飛ばしました。ゾクゾクするミニマル曲だったり、同時期にあたる『千と千尋の神隠し』に通じるような曲想があったりと。もしDVDを入手できることができたら、ぜひ見てみてほしい作品です。サウンドトラックCD付きです。

 

久石譲 『4 MOVEMENT』

 

作曲家・久石譲も多くの影響を受けている作品『春の祭典』。指揮者・久石譲も多くの演奏会でプログラムする作品『春の祭典』です。ちょっと昔は苦手だった、でも今は、とてもコンサートで聴けるのを楽しみにしている作品です。

コンサート予定

2023年2月16日
特別演奏会 九響×日本センチュリー響
福岡・アクロス福岡 シンフォニーホール
九州交響楽団/日本センチュリー交響楽団(合同演奏)

2023年2月17日
日本センチュリー交響楽団 定期演奏会 #270
大阪・ザ・シンフォニーホール
九州交響楽団/日本センチュリー交響楽団(合同演奏)

2024年2月16,17日
新日本フィルハーモニー交響楽団 すみだクラシックへの扉 #20
東京・すみだトリフォニーホール
新日本フィルハーモニー交響楽団

 

そんなモチーフでした。

それではまた。

 

reverb.
久石版『春の祭典』はクラシック通の評判もすこぶるいい!!

 

 

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Overtone.第74回 モチーフ「ネームの付け方」

Posted on 2022/09/01

ふらいすとーんです。

Overtone モチーフ です。

きれいに考えをまとめること、きれいに書き上げることをゴールとしていない、メモのような雑文です。お題=モチーフとして出発点です。これから先モチーフが展開したり充実した響きとなって開けてくる日がくるといいのですが。

 

モチーフ「ネームの付け方」

とてもくだらない話です。「ふらいすとーん」という名前です。由来が「飛行石」からきていることはOvertone.第1回でご挨拶しました。ネームっていろいろ言い方あってどれが適切なんだろうと思って調べてみたら、【ニックネーム(あだ名)】【ペンネーム(雑誌投稿や文書)】【ハンドルネーム(インターネット上)】、いろいろ使い分けもあるようでいろいろ境界線なく合流していたりもするようです。

これは本当100%の話なんですけれど、自分で口に出して言うことも、人に呼ばれることもまったく想定していませんでした。ネームを付けたのはサイト運営上必要だったからです。名無しというわけにもいきませんから。ぱっと浮かんで雰囲気でいいかなと思ってしまった。

だから、「ふらいすとーんさん」と呼ばれるたびに、いつも心のなかでごめんなさいっ!って思っています。だって言いにくいでしょ。1)ふらさん?ふらいさん?ふらいすさん?ふらすとさん?略すこともしにくい。2)7文字ですよ、姓名フルネームと同じほどある。3)横棒あるからさらに長く感じる。4)呼び捨てにできない+さんで9文字になる。5)英語表記・略号もしにくい。

もうほんと欠点しか見当たらない(苦笑)。ツイッターをやるようになってなおさら思います。ひらがなでこうとしか書けない。人と交流するようになってなおさら思います。文字数とるし発音するのもちょっと尺とるし。本気で改名しようかなと思ったこともあるくらい。でも、なんぼのもんじゃいってね、そうなります。

だから、ネームを付けるときは、もしかしたら自分が名乗る機会があること、相手から呼ばれる機会があることを想定して付けてくださいね。ふつうはそうするのかな、ふつうはそうだよね。これからも諦めてどうぞ「ふらいすとーん」と呼んでください。よろしくお願いします。

 

そんなモチーフでした。

それではまた。

 

reverb.
呼びやすいネームってほんと憧れる。

 

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

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Info. 2022/08/20 《速報》「久石譲 シンフォニック・コンサート スタジオジブリ宮崎駿作品演奏会」(ニューヨーク) プログラム 【8/24 Update!!】

Posted on 2022/08/20

2022年8月13~18日、久石譲によるスタジオジブリ宮崎駿監督作品演奏会がアメリカ・ニューヨークにて開催されました。

2017年6月パリ世界初演、「久石譲 in パリ -「風の谷のナウシカ」から「風立ちぬ」まで 宮崎駿監督作品演奏会-」(NHK BS)TV放送されたことでも話題になりました。 “Info. 2022/08/20 《速報》「久石譲 シンフォニック・コンサート スタジオジブリ宮崎駿作品演奏会」(ニューヨーク) プログラム 【8/24 Update!!】” の続きを読む

Info. 2022/08/18 久石譲 ジブリコンサート in NY 記事(Web The Workprint より)

Posted on 2022/08/18

2022年8月13~18日開催「Music from the Studio Ghibli Films of Hayao Miyazaki/スタジオジブリ宮崎駿監督作品演奏会」(ニューヨーク)です。合唱団MasterVoicesでコンサートに参加した人による記事です。

原文に忠実であるために、オリジナルテキストそのままをご紹介します。ウェブ翻訳などでお楽しみください。 “Info. 2022/08/18 久石譲 ジブリコンサート in NY 記事(Web The Workprint より)” の続きを読む

Overtone.第73回 長編と短編と翻訳と。~村上春樹と久石譲~ Part.3

Posted on 2022/08/15

ふらいすとーんです。

怖いもの知らずに大胆に、大風呂敷を広げていくテーマのPart.3です。

今回題材にするのは『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集 1997-2011』(2010/2012)です。

 

 

村上春樹と久石譲  -共通序文-

現代を代表する、そして世界中にファンの多い、ひとりは小説家ひとりは作曲家。人気があるということ以外に、分野の異なるふたりに共通点はあるの? 村上春樹本を愛読し久石譲本(インタビュー記事含む)を愛読する生活をつづけるなか、ある時突然につながった線、一瞬にして結ばれてしまった線。もう僕のなかでは離すことができなくなってしまったふたつの糸。

結論です。村上春樹の長編小説と短編小説と翻訳本、それはそれぞれ、久石譲のオリジナル作品とエンターテインメント音楽とクラシック指揮に共通している。創作活動や作家性のフィールドとサイクル、とても巧みに循環させながら、螺旋上昇させながら、多くのものを取り込み巻き込み進化しつづけてきた人。

スタイルをもっている。スタイルとは、村上春樹でいえば文体、久石譲でいえば作風ということになるでしょうか。読めば聴けばそれとわかる強いオリジナリティをもっている。ここを磨いてきたものこそ《長編・短編・翻訳=オリジナル・エンタメ・指揮》というトライアングルです。三つを明確な立ち位置で発揮しながら、ときに前に後ろに膨らんだり縮んだり置き換えられたり、そして流入し混ざり合い、より一層の強い作品群をそ築き上げている。創作活動の自乗になっている。

そう思ったことをこれから進めていきます。

 

 

今回題材にするのは『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集 1997-2011』(2010/2012)です。

インタビューごとに、その時書き上げた本・翻訳した本などが話題の中心になっています。それだけにピンポイントに深い内容です。約20本近く収録されていますが、海外インタビューが半数以上を占めているのも特異です。日本ではあまり質問されないような角度(聞きにくいこと出てこない視点など)で飛び交っているのもおもしろいです。

いろいろなインタビューをわざわざまとめて一冊の本にする、多方面に拡散されたものを集める、親切だなと思います。そのニーズがたしかに存在する、すごいことだなと思います。2012年文庫化の際にインタビューが1本追加収録されているので、単行本とはタイトルの年表記が異なっています。

 

自分が読んだあとなら、要約するようにチョイスチョイスな文章抜き出しでもいいのですが、初めて見る人には文脈わかりにくいですよね。段落ごとにほぼ抜き出すかたちでいくつかご紹介します。そして、すぐあとに ⇒⇒ で僕のコメントをはさむ形にしています。

 

 

 

”それ以来僕の小説はどんどん分厚くなっていきました。そしてストラクチャーはどんどん複雑になっていった。新しい小説を書くたびに、僕は前の作品のストラクチャーを崩していきたいと思います。そして新しい枠を作り上げたいと。そして新しい小説を書くたびに、新しいテーマや、新しい制約や、新しいヴィジョンをそこに持ち込みたいと思います。僕はいつもストラクチャーに興味があるんです。ストラクチャーを変えたら、それにつれて僕は自分の文体を変えなくてはなりません。文体を変えたら、それにつれて登場人物のキャラクターをも変えなくてはなりません。同じことばかりいつまでもやっていたら、自分でも飽きてしまいます。僕は退屈したくないのです。”

~(中略)~

⇒⇒
ある創作家にとっては、自分のオリジナリティその一点を極めていくという道もあると思います。村上春樹さんのように、ある意味で自分の作家性をどんどん解体していくことで、より新しく多くのものを取り入れ強固なものにしていく。久石譲さんもまたこれと同じような道、そんな気もしています。たぶん、変化を希求しているし、変化することは自然なことなんです。

 

 

”翻訳って、手を入れれば入れるほどよくなるものだから、改訳できる機会があるというのは、翻訳者にとってはありがたいことなんです。単行本と文庫と全集とで、少しずつ訳が変わっているものもあります。三十代のときに訳したものは、僕もけっこう若いし、今読み返してみると、訳文にも不思議な若々しさみたいなものがある。カーヴァーの全体像がまだよく見えていないので、ちょっとニュアンスが違っているところもあって、それはそれで面白いんだけど、全集というかたちになると、やはり統一感みたいなものは必要になってきますよね。これからもまた機会があれば少しずつヴァージョンアップしていきたいと思います。”

~(中略)~

⇒⇒
これを読みながら、多くの指揮者が年齢を重ねるごと同じ作品に向き合いなおしていること、少し理解が深まりました。たとえばカラヤンも40代の頃と70代の頃の指揮とではずいぶん違います。あるいは、指揮者がベートーヴェン交響曲の中からひとつを扱っていた頃と、全集としてまとめあげるようになった頃とでは、経験と解釈も変わっていてしかり。そんなことも思いました。作曲家の作品を順番に追っていくことで見えてくることもあるのかな、とか。

訳が若い、指揮が若い、ピアノ演奏が若い。たしかにそういうふうに感じることってあります。不思議です。そこへ年齢を重ねた新テイクも並んで、溌溂と円熟を比べることができることの幸せってたしかにあります。

 

 

”僕はそれは非常にありがたいことだと思うんですよ、実際の話。そんなふうに同じ本を二度三度くり返し読んでくれる人って、今の世の中にそんなにいないですからね。情報が溢れかえったこんな忙しい時代に。作者としてはただもう感謝するしかない。しかし、僕がこんなこと言うのはなんだけど、何度読み返したところで、わからないところ、説明のつかないところって必ず残ると思うんです。物語というのはもともとがそういうもの、というか、僕の考える物語というのはそういうものだから。だって何もかもが筋が通って、説明がつくのなら、そんなのわざわざ物語にする必要なんてないんです。ステートメントとして書いておけばいい。物語というかたちをとってしか語ることのできないものを語るための、代替のきかないヴィークルなんです。極端な言い方をすれば、ブラックボックスのパラフレーズにすぎないんです。

僕はだからこそ、できるだけ読みやすい文章で小説を書きたいと思うんです。そしてできることなら時間を置いて読み返してほしい。それだけの耐久性のあるタフな文章を僕は書きたいと思っています。

このあいだブライアン・ウィルソンが日本に来て、『スマイル』ツアーをやって、聴きに行ったんだけど、僕はライブで、『スマイル』というアルバムが目の前で、頭から順番通りに実際に演奏されるのを見て、それで初めて「そうか、うーん、『スマイル』というのはこういう音楽世界だったんだ!」と理解できたところがあったんです。はたと膝を打つところがあった。一九六六年くらいに基本的に作られたアルバムで、これまでにいろんなかたちでずいぶん繰り返し聴いてきたんだけど、でも全体像が僕なりに正確に理解できるまでに、結局四十年くらいかかってるわけです。そういうのってすごいことですよね。『ペット・サウンズ』にもそういうところがありますよね。これも理解できるまでにずいぶん歳月がかかりました。僕は『ペット・サウンズ』とか『スマイル』の中の曲の多くも、出てきたときにリアルタイムで聴いているわけだけど、それから四十年近く、実人生をかけて少しずつ理解できていたという実感があります。そういう意味合いでは、ブライアン・ウィルソンという人の提出する「物語性」の強烈さというか、「文体」の強靭さ、その奥行きの深さに、同じ表現者として感じるところはあります。”

~(中略)~

⇒⇒
ちょっと長い引用になってしまいました。とても気に入っているところです。”物語というかたちをとってしか語ることのできないものを語るための~”。ということは、同じく「音楽というかたちをとってしか語ることのできないものを語るための~」になりますね。たしかに。

もうひとつ、アルバムを理解できるまでに40年近くかかったという実体験のお話。これ、好きなアーティストあるあるエピソードだと思います。久石譲アルバムもそう。今になって初めて気づくことってたくさんあります。

 

 

”そうですね。音楽はいろんな意味で僕を助けてくれます。二十代のときにはジャズの店を経営していて、来る日も来る日も朝から晩までジャズを聴いていました。音楽は僕の身体の隅々まで染み込んでいたと言っていいかもしれません。そして今もそこに留まっています。二十九歳のときに小説を書こうと思ったとき、僕には小説の書き方がわかりませんでした。それまで日本の小説をあまり読んだことはなかったし、だからどうやって日本語で小説を書けばいいのか、見当もつきません。でもあるとき、こう思ったんです。良い音楽を演奏するのと同じように、小説を書けばそれでいいんじゃないかと。良き音楽が必要とするのは、良きリズムと、良きハーモニーと、良きメロディー・ラインです。文章だって同じことです。そこになくてはならないのは、リズムとハーモニーとメロディーだ。いったんそう考えると、あとは楽になりました。そして『風の歌を聴け』という作品を書き上げました。楽器を演奏するのと同じような感じで書いたんです。僕の文章にもし優れた点があるとすれば、それはリズムの良さと、ユーモアの感覚じゃないかな。それは今に至るまで、僕の文章について基本的に変わらないことだという気がします。”

~(中略)~

⇒⇒
小説の書き方が音楽にあるっておもしろいですね。さらっと読むと、よくわかるとも思うんですけれど。じゃあ説明してと言われたら実はすごく難しい。たぶん、とても深いことなんです。

 

 

”人称による書き分けというのはとても大事なので(少なくとも僕にとっては大事なことなので)、短編小説でいろいろと試してみます。そして長編小説で何をすればいいのか、どんなことができるのか、と考えます。いわば実験台のようなものです。ヴォイスのあり方や、視点の動きを、あれこれと実地に試験してみます。喩えは物騒だけど、軍隊が局地戦で兵隊の性能や、戦略の有効性を実地に試してみるのと同じように。僕の場合は、短編小説でまず何かを試し、中編小説でそれをさらに進展させ、最後に万全のかたちで長編小説に持ち込みます。はっきり言ってしまえば、長編小説が僕にとっての主戦場なのです。だから短編小説を書くときには、そのたびにテーマを決めて、いろんな新しいことをやってみます。短編小説で失敗しても傷は小さいけれど、長編小説で失敗すると命取りになります。”

~(中略)~

⇒⇒
よく語られる内容で、同旨Part.1にもあります。

ちょっと見方を変えて。ということは、短編小説での実験はある種むき出しでもある。万全に扱えるようになった長編小説のときには、きれいに整えられ巧みに隠さたりもしている。習得極め操れるようになる前の短編小説には、ありありと刻まれたさまや勢いのようなものがあるのかもしれない。

久石譲のMFコンサートで意欲的に発表される中規模の新作しかり、自らのシステムで進化させる単旋律(Single Track Music)手法しかり。小さな曲や小さな編成から試されながら、手応えと磨きあげをもって交響作品にまでなっています。逆方向から見ると、シンプルなSingle Track Music手法は中規模作品でありありとむき出しに刻まれている、に等しいです。うん、すごくよくわかる。

 

 

”僕は二十九歳になるまでまとまった文章を書いたことがありませんでした。ただ音楽を聴いて、本を読んでいました。自分で何かを書きたいとは思っていませんでした。でも二十九歳になって突然に、何かを書きたくなったのです。書き方なんて分かりませんでした。どうやって小説を書けばいいのか分からなかったのです。それで考えたのが、音楽を演奏するみたいに書けるのではないか、ということでした。僕はピアノを弾きましたから。僕に必要だったのは、リズムとハーモニーと即興性(インプロヴィゼーション)でした。即興性ということから僕は多くを学んだと思います。ちょうどメロディーを即興で演奏するように、僕は物語を書きます。僕はジャズが大好きですが、ジャズというのは即興の音楽です。僕にとっては、書くことも即興の一種です。自分が自由でなくてはなりませんから。だから、もしあなたが僕の本を読みながらそこに音楽を聴きとってくれるとしたら、僕はとてもうれしいです。多くの人から音楽について、僕の作品のテーマであるとか作品の意味を表しているとか言われますが、僕はテーマにせよ意味にせよ、何かの目的を持って音楽のことを書いているわけではありません。テーマや意味はそんなに重要な問題ではありません。僕にとって大切なのは、僕の物語を通じてあなたが音楽を聴きとってくれることなのです。

そうです。音楽がなくてはいけません! もしその文章にリズムがあれば、人はそれを読み続けるでしょう。でももしリズムがなければ、そうはいかないでしょう。二、三ページ読んだところで飽きてしまいますよ。リズムというのはすごく大切なのです。”

~(中略)~

⇒⇒
よく語られる内容で同旨あります。

 

 

少し追加します。

テーマからは横道になりますけれど、とても印象に残っているページです。

 

”バッハとモーツァルトとベートーヴェンを持ったあとで、我々がそれ以上音楽を作曲する意味があったのか? 彼らの時代以降、彼らの創り出した音楽を超えた音楽があっただろうか? それは大いなる疑問であり、ある意味では正当な疑問です。そこにはいろんな解答があることでしょう。

ただ、僕に言えるのは、音楽を作曲したり、物語を書いたりするのは、人間に与えられた素晴らしい権利であり、また同時に大いなる責務であるということです。過去に何があろうと、未来に何があろうと、現在を生きる人間として、書き残さなくてはならないものがあります。また書くという行為を通して、世界に同時的に訴えていかなくてはならないこともあります。それは「意味があるからやる」とか、「意味がないからやらない」という種類のことではありません。選択の余地なく、何があろうと、人がやむにやまれずやってしまうことなのです。

二十世紀の末から、二十一世紀の初めにかけて、僕が一連の小説を書いたことにどのような意味があったのか、それは後世の人が判断することです。時間の経過を待つしかありません。ただ僕としては、意味があるにせよないにせよ、「書かないわけにはいかなかったんだ」ということなのです。”

~(中略)~

⇒⇒
正座して読みたい。かぶせるコメントもない。

「クラシックで音楽は完成してるからそれしか聴かない」「ロックはあの時代がピークだからそれだけ聴いておけばいい」なんて人もいるようで。今の時代を生きているのに、ほんともったいない。

 

 

”小説に関しても、他のことに関してもそうだけど、「誤解の総体が本当の理解なんだ」と僕は考えるようになりました。『海辺のカフカ』に関して読者からたくさんメールをもらって実感したことは、そこにはずいぶんいろんな種類の誤解やら曲解やらがあるし、やたらほめてくれるものもあれば理不尽にけなすものもあるんだけど、そういうものが数としてたくさん集まると、全体像としてはものすごく正当な理解になるんだな、ということでした。そこには、ちょっと大げさにいえば、感動的なものがありました。だから逆にいえば、僕らは個々の誤解をむしろ積極的に求めるべきなのかもしれない。そう考えると、いろんなことがずいぶんラクになるんですね。他人に正しく理解してもらおうと思わなければ、人間ラクになります。誰かに誤解されるたびに、見当違いな評が出るたびに、「そうだ。これでいいんだ。ものごとは総合的な理解へと一歩ずつ近づいているんだ」と思えばいいんです。逆にいえば、小説家というのは、あるいは小説というのは、そんなに簡単に正確にぴっと外から理解されてしまっては、むしろ困るんじゃないかと。そんなことになったら、僕らはもうメシを食っていけなくなるんじゃないかと。”

~(中略)~

⇒⇒
一つの正解を求めるのとは別ものです。ここで語られているのは、答え合わせじゃなくて理解を深めるということ。たった一つの意見が一般論になってしまう危険性を対にみたときに、相当数の意見があってこそ総合的に複合的に立体的にその解はつくられていく。たとえ誤解が含まれていたとしても、意見の数が多いということはとても大切なことなんです。

多くの人に愛されているスタジオジブリ作品。見た人の数だけ受けとめ方があって、それが飛び交ってぶつかって磨かれて。だから、今多くの人たちが共有して理解を深めることができている。そういう感じのことだと思います。だからね…音楽だって語らなければ理解は深まらない、いかに言葉にすることが難しい芸術だからといって…諦めてはいけない。

 

(以上、”村上春樹文章”は『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集 1997-2011』より 引用)

 

 

 

今回とりあげた『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集 1997-2011』。村上春樹さんの作家としての姿勢や人となりを見てとれる内容です。本書あとがきには、”作家はあまり自作について語るべきではないと思っている” と書かれています。でもやっぱりファンとしてはいろいろ知ってより深く楽しみたい。

”あるいはまたその物語が生まれた事情や経緯に、多くの読者は興味を抱かれるかもしれない。執筆に関わるちょっとしたエピソードを披露して、それなりに楽しんでいただけるかもしれない。しかるべき時期に、そのような付随的なことがら、あるいは周辺事情を著者が気軽に語ることも、作家と読者との関係の中で、ある程度必要であるかもしれない、とも思う。それも僕がインタビュー依頼に応じる理由のひとつだ。”

あとがきにはこうもありました。さすがよくわかってらっしゃる!長いキャリアのなかファンをつかんできた秘訣はここにもありそうです。

 

 

-共通むすび-

”いい音というのはいい文章と同じで、人によっていい音は全然違うし、いい文章も違う。自分にとって何がいい音か見つけるのが一番大事で…それが結構難しいんですよね。人生観と同じで”

(「SWITCH 2019年12月号 Vol.37」村上春樹インタビュー より)

”積極的に常に新しい音楽を聴き続けるという努力をしていかないと、耳は確実に衰えます”

(『村上さんのところ/村上春樹』より)

 

 

それではまた。

 

reverb.
ある目的をもって再読すると読むごと新しい発見がありますね。

 

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

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