Overtone.第89回 モチーフ「アンリリース」

Posted on 2023/01/17

ふらいすとーんです。

Overtone モチーフです。

きれいに考えをまとめること、きれいに書き上げることをゴールとしていない、メモのような雑文です。お題=モチーフとして出発点です。これから先モチーフが展開したり充実した響きとなって開けてくる日がくるといいのですが。

 

モチーフ「アンリリース」

当サイトは、発売されていない楽曲を「*Unreleased」と表記しています。なぜこれにしたんでしょうか?

 

未発表
TV・映画・CM・コンサートなど、発表していないわけではない。公にはなっている。

未作品化
作品になっていないわけではない。発表されている。アルバム=作品の定義もある。

未音源化
一般発売ではない特定の人に届けられる非売品やプレゼント品などもある。音源化されたものが存在する。リスナーが所有しているフィジカル(CD)やデジタル(配信)が存在する。

未CD化
メディアを限定してしまう。DVD・Blu-ray Audioなども存在する。デジタル(配信)のみリリースされる場合もある。…記録媒体という点ではLP・カセットからのデジタル化=CD化も従来ある。ここでは重複混乱するのでデジタル=配信で進めている…

未収録
サウンドトラック未収録楽曲、などという使い方をする。ある作品のなかで使われた楽曲という狭義になる。公にはなっている。

未商品化
Music Videoやライブ映像などがDVD等発売される際、初商品化などと言ったりする。プロモーションやWEB公開されていたものが商品化されるという意味も含む。無形のダウンロードやオンデマンドであっても課金する商品となる。

フィジカル/デジタル
フィジカル(CD・DVD・LP)とデジタル(配信・ダウンロード・サブスク)に分かれる。日本ではサブスクという呼称が主流だが音楽ストリーミングサービスのひとつ。発売パターンや発売順序も複雑化している。

ディスク
CD・DVDはディスク化といえる。LPを円盤としてのディスクに含めるか、記録媒体としてデジタルではないので除外するか、などカテゴライズが煩雑化する。

ソフト
ハードとソフトという区分があり従来はCDソフト・GAMEソフトなどとも言われた。ソフトの定義は各分野で多岐にわたり有形無形の境界線もなくなっている。商品=ソフトと広義になる。最近ではフィジカル(物理メディア)を使用することが多い。

パッケージ
フィジカルやソフトに近いが、形態を表すことがある。複数パッケージ(初回・通常・収録曲・特典・仕様)で発売などある。また有形無形の境界線もむずかしい。デジタル版も複数パッケージのひとつの形態となりうる。

メディア
オーディオメディア(CD・レコード・カセット)となるし、音楽ソフト(CD・レコード・ビデオ等)ともなる。カテゴライズが煩雑化する。

アナログ・LP
レコードのみリリースされる場合もある。またCD化を飛び越えて、デジタルリリース後にアナログ盤として登場するなど複雑化している。世界的にみると音楽ファンの需要と供給はデジタル>レコード>CDとなり日本のみCD優位性がある。

Vinyl
日本ではCDなどのデジタルメディアと区別してアナログレコードと呼ばれている。海外では一般的にVinyl(ビニール)と表記される。アナログやLPでは通じないことも多い。

 

 

発売されたときには……

CD化・DVD化・LP化・アナログ化・アルバム化・円盤化・音盤化・ディスク化・パッケージ化・ソフト化・商品化・音源化・初収録・配信リリース・デジタルリリース・ハイレゾ化 など

 

発売されたときには……

待望のCD化/遂にフィジカル盤が登場/配信限定リリース/初LP化/残す未音源化コンチェルトは…/初商品化されるMV2曲を含めて全…/あの名盤が初ハイレゾ化 など

 

ほんとうは……

図解や表にしたほうがいいくらい、キーワードごとに重なり合う部分がたくさんあります。解釈や使い方もいろいろです。ただし、公式発信(アーティスト・レーベル等)は常に一番適したキーワードを選択していると思うことが多いです。

 

まだまだある……

新しく見つけたら追記するかもです。こんな言葉、こんな言い方、もあると見つけたら教えてください。コンテンツ(音楽・映像・ライブ)を届けるものがメディア(CD・ストリーミング・LIVE配信)です。一番大切なのはコンテンツそのものです。手段や媒体はその次です。うれしいIT社会のなか受け取れる方法や機会は格段に広がっています。文明の変容によって言葉も変容していくのだ、なんて。

 

 

久石譲作品でいうと……

1)『Piano Stories Best ’88-’08』「人生のメリーゴーランド -Piano Solo Ver.-」※未発表音源

”『PIANO STORIES 4』にオーケストラ伴奏のアレンジ版が収録されていたが、ここに聴かれるピアノ・ソロ・ヴァージョンはそれとは別に収録されたもので、本盤が初出となる。”(CDライナーノーツより)

音源としては存在していたが未発表だった楽曲。一般的に音源が存在したか否かリスナーにはわからない。「別バージョンがある」と公言していれば話は変わる。また、初めて公になる音源なのでこの場合の未発表は適している。未収録音源(すでに使われたけど収録されなかった)とはならない。もちろん初収録でもマルになる。どういった経緯をもつ楽曲なのかという特性やアピールにおいて、未発表音源という表現は最適といえる。

 

2)『Ghibli Best Stories ジブリ・ベスト ストーリーズ』「海のおかあさん」*初CD化

”9.海のおかあさん(CD初収録)『崖の上のポニョ』本編では1コーラスしか聴くことの出来なかったオープニング主題歌を、今回初めて2コーラスのフルヴァージョンで収録したもの。”(CDライナーノーツより)

楽曲は1コーラスものがサウンドトラック盤に収録されていて、同じ音源元のフルサイズが初めて収録された。未発表音源とはならない。未収録音源ともならない。もし近年なら初CD化ではなく初音源化のほうが適切にもみえる。この作品はデジタルリリース/サブスク解禁されていない。現時点でも初CD化のままを継続している。

 

 

日本語って難しい……

未発売
一番適切だと判断しました。一般に多くのリスナーが受け取れる(アクセスできる)かたちで発売されていない。

Unreleased
未発売を英語にしたのは、海外の人が見てもアイコンのように意味がわかるからです。日本語で未発売・未音源・未収録とニュアンスを混同してしまう言葉を使用するよりも、Unreleasedなら誰が見ても一発でその意味合いはわかります。一語の結論にここまで思考めぐらせていたなんて…暇ですね。

アンリリース
「その曲は発売されていないよ」「その曲はCDになっていないよ」「その曲はリリースされていないよ」なんて会話で使うこともあると思います。ここらで「その曲はアンリリースだよ」と通称でもいいんじゃないかな、個人的に使っていこうかな、和製英語だけど伝わりますよね。(だってRecomposedもリコンポーズって言うでしょ会話のなか)

 

そんなモチーフでした。

それではまた。

 

reverb.
アンリリースがなくなっていくことが一番うれしい。

 

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

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Blog. 「音楽の友 2022年12月号」久石譲×ニコ・ミューリー 対談内容

Posted on 2023/01/16

クラシック音楽誌「音楽の友 2022年12月号」(11/18発売)に久石譲×ニコ・ミューリーの対談が掲載されています。

 

 

対談
久石譲×ニコ・ミューリー

共鳴し合う二人が語る”作品が生まれるとき”

取材・文=片桐卓也

久石譲のナビゲートで”現代の音楽”を紹介するコンサート・シリーズ「ミュージック・フューチャー」の第9回公演が10月に東京の紀尾井ホールで開かれ、アメリカから作曲家のニコ・ミューリーと、彼の友人でヴィオラ奏者のナディア・シロタが招かれた。この公演のため来日中のミューリーと久石による対談をお届けする。

 

「ミュージック・フューチャー」ニコ&久石がともに新作を披露

2014年にスタートした〈久石譲プレゼンツ〉による「ミュージック・フューチャー」も2022年の秋、第9回目のコンサートを迎えた。これは「明日のために届けたい音楽」を作曲家・久石譲がナビゲートするコンサート・シリーズで、久石の最新作だけでなく、いま世界の最前線で活躍する作曲家の作品を集め、紹介するというユニークなコンサートである。そのために「Music Future Band」も創設され、気鋭の奏者を集めている。

第9回のコンサートだが、アメリカを中心に活躍するニコ・ミューリー(1981年生まれ)を招き、紀尾井ホールで2日間開催された。両日とも満員の聴衆を集めた。

第9回ではまず久石の「室内交響曲 for Electric Violin and Chamber Orchestra」が、西江辰郎のエレクトリック・ヴァイオリン・ソロをフィーチャーして演奏された。これは「ミュージック・フューチャー」Vol.2で初演された作品である。その後、ニコ・ミューリー(p)とナディア・シロタ(va)による《Selection from the Drones and Viola》が演奏された。飛行機のエンジン音を聴いたときにそのアイディアを思いついたという作品は、それぞれの楽器が奏でるドローン(長く持続する音)をモティーフにした連作からの2曲を繋げて演奏したものだ。

後半には、今回のコンサートに合わせて久石が書いた《Viola Saga》と、これもニコ・ミューリーの新作《Roots, Pulse》が演奏された。前者は、もちろん今回のゲストであるシロタの演奏を前提に書かれた作品だが、協奏曲的な要素を持つ室内交響曲のようなイメージでもあった。ミューリーの新作はミュージック・フューチャーのアンサンブルのために書かれた作品で、作曲家自身によれば「快活vs抽象的」「前景vs背景」という二つの要素の葛藤のなかでの模索を表現しているという。実際に、一種シンプルなハーモニーの組み合わせが、次第に複雑化し、さらにアンサンブルの楽器それぞれの音色とリズムが溶け合い、さらには分解されて消えて行くというような、シンプルと複雑の間を縫うようなイメージの美しい作品だった。

その翌日、リハーサル前の時間に、久石&ニコの対談が実現したので、今回のコンサートに寄せる想いをうかがった。

 

ミューリー作品がきっかけに生まれた久石作品

ーお二人が知り合ったきっかけを、まず押してください。

久石:
第1回の「ミュージック・フューチャー」を開催するにあたり、現在の世界の音楽家がどんな音楽を書いているのか、膨大なリサーチを行いました。そのときにスコアを見て、とても印象に残ったのがニコ・ミューリーさんの作品《Seeing is Believing》で、それを第1回のコンサートで取り上げました。それは6弦のエレクトリック・ヴァイオリンを使った作品で、近藤薫(東京フィルハーモニー交響楽団コンサートマスター)が初演してくれたのですが、実は日本にはその楽器がなかったので、アメリカから購入して使ったというエピソードがあります。それ以来、いつかは実際にニコさんと一緒にコンサートができたら嬉しいなという想いがあり、ようやく今回実現したのです。

ミューリー:
僕もほかの多くの音楽関係者と同じで、最初はフィルム・ミュージックの作曲家として久石さんの名前を知っていましたし、その音楽もよく聴いていました。そんなときに、久石さんから僕の作品を日本で演奏したいという連絡があったので、とてもびっくりして、かつ、嬉しかったのを覚えています。

久石:
彼の作品を演奏するためにエレクトリック・ヴァイオリンを購入したので、それを使って作品を書くことにもなりました。それが今回再演した「室内交響曲」ですが、そうした出会いがなかったら、この作品も書かれなかったかもしれないですね。

 

ヴィオラの個性をどう生かすか二人の考えは?

ー今回は、とくにヴィオラのソリストえあるナディア・シロタさんを招き、彼女のための作品を久石さんも書かれたわけですが、彼女とはどんなつながりがあったのですか?

ミューリー:
それは僕が説明しますが、彼女とはジュリアード音楽院時代からの古い、しかもとても親しい友人で、彼女のために数多くの作品を書いています。

久石:
そう、ニコさんの「ヴィオラ協奏曲」は彼女のために書かれた作品ですが、とてもすばらしい作品で、もちろん演奏もすばらしい。ニコさんを呼ぶなら、一緒に彼女も呼びたいとオファーしたのが今回のプロジェクトのスタートでした。

ーヴィオラという楽器はやはり地味な内声楽器という印象がありますが。

久石:
確かにそういうイメージはあるのかもしれませんが、オーケストレーションに気をつければ、ヴァイオリンにもチェロにもない個性を引き出せると思っていました。

ミューリー:
やはりヴィオラの音域が人間の声のそれに近いということは大きな要素だと思います。今回のコンサートでは、久石さんが彼女のために《Viola Saga》という新作を書いたのですが、この作品もそういうヴィオラの特性をよく理解して、非常に繊細に書かれた作品でした。それに久石さんの作品にはよく登場する和声感、それもいろいろな所に感じることができて、とても印象的でした。

久石:
いわゆるヴィオラ協奏曲というよりは、やはり室内アンサンブルとヴィオラのための管弦楽曲というイメージの作品になったと思います。

ミューリー:
久石さんがこのコンサート・シリーズのために組織した「ミュージック・フューチャー・バンド」の演奏もすばらしかったですよね。

ーニコさんの新作《Roots, Pulse》もとても興味深い作品でした。

ミューリー:
タイトルにもいろいろな意味を持たせているのですが、いわゆる基音となる低音=ルーツ、その上に展開されるリズムと色彩の変化というインスピレーションのもとで書かれた作品です。バンドのメンバーが見事に表現してくれました。実は今朝、ホテルのジムで過ごしていたときに、テレビで「芋」についての番組が流れていました。土の中で成長する芋もさまざまな形に曲りくねりますが、この音楽もまた同じように、さまざまに変型するルーツの上に音楽が展開されます。

久石:
おもしろいアイディアに満ちた作品でしたよね。一緒に作品を発表できて、本当によかったと思います。

(音楽の友 2022年12月号より)

 

 

目次

【特集】
●ショパン―その全魅力に迫る 演奏・作品・生涯・食
読者アンケート結果発表!!

【カラー】
●[News]パーヴォ・ヤルヴィ&ドイツ・カンマ―フィル コロナ禍を経て、来日決定!
●[連載]小林愛実ストーリー(5) 巻頭特別編(小林愛実/高坂はる香)
●[Report]トリトン晴れた海のオーケストラ&小林愛実(p)(越懸澤麻衣)
●[Interview]マリア・ジョアン・ピリス(p)― ふたたび日本のステージへ!(伊熊よし子)
●[Interview]アンネ=ゾフィー・ムター(vn)&パブロ・フェランデス(vc)― 愉悦の共演(中村真人)
●[Report]ロンドン交響楽団― サイモン・ラトルが音楽監督任期中、最後の来日(奥田佳道/池田卓夫/萩谷由喜子/山田治生)
●[Report]クラウス・マケラ&パリ管弦楽団― 世界を席巻する色彩の宝玉(那須田 務/長谷川京介)
●[Report]リセット・オロペサ(S)&ルカ・サルシ(Br) 世界屈指の絶唱に酔う(岸 純信)
●[Report]クリストフ・プレガルディエン(T) シューベルト「三大歌曲」を歌う(岸 純信/伊藤制子/那須田 務)
●[Report]新国立劇場《ジュリオ・チェーザレ》― 欧州で好評のプロダクションをもとに新制作(萩谷由喜子)
●[Report]神奈川県民ホール《浜辺のアインシュタイン》― 国内初の新制作上演(渡辺 和)
●[連載]わが友ブラームス(12)(最終回) ゲスト:坂入健司郎(指揮)(越懸澤麻衣)
●[連載]山田和樹「指揮者のココロ得」(7)(山田和樹)
●[連載]楽団長フロシャウアーかく語りき
●[連載]ショパンの窓から(19) ― ポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルド(川口成彦)
●[連載]宮田 大 Dai-alogue~音楽を語ろう(7) ゲスト:植松伸夫(作曲家)(山崎浩太郎)
●[連載]和音の本音(28)― ラヴェルとみる夢I(清水和音/青澤隆明)
●[連載]マリアージュなこの1本~お酒と音楽の美味しいおはなし

【対談】
●久石 譲×ニコ・ミューリー~共鳴し合う二人が語る”作品が生まれるとき”(片桐卓也)

【News】
●ヨーヨー・マ(vc)「ビルギット・ニルソン賞2022」受賞(後藤菜穂子)

【特別記事】
●[Report]東京フィル《ファルスタッフ》
●[Interview & Report] アンサンブル・ウィーン=ベルリン―伝統ある木管五重奏団が来日(高山直也)
●[Report]辻井伸行(p)×三浦文彰(vn)による「ARKクラシックス2022」
●[Report]百花繚乱の響き―弦楽四重奏団コンサートレポート(渡辺和彦)
●追悼 一柳 慧(柿沼敏江/成田達輝/池田卓夫)
●[座談会] 明日の巨匠は誰だ」プレ座談会(小倉多美子)
●[Interview]千住真理子(vn)
●[Report]第91回日本音楽コンクール~全国から新進演奏家が集結(梅津時比古)
●[Interview]野平一郎(p・作曲)
【連載】
●池辺晋一郎エッセイ 先人の影を踏みなおす(33)水上 勉(1)(池辺晋一郎)
…ほか

【People】

【Reviews & Reports】

【Rondo】

【News & Information】

【表紙の人】
小林愛実(ピアニスト)(c)ヒダキトモコ

【別冊付録】
●コンサート・ガイド&チケット・インフォメーション
観どころ聴きどころ
(戸部 亮&室田尚子)

【特別付録】
Music Calendar 2023「はばたく日本の若手アーティスト」

 

 

 

 

 

Info. 2023/01/13 ロンドンで上演中の舞台版『となりのトトロ』最多9部門ノミネートの反響 鑑賞した人の“生の声”(ORICON NEWSより)

Posted on 2023/01/13

ロンドンで上演中の舞台版『となりのトトロ』最多9部門ノミネートの反響 鑑賞した人の“生の声”

 昨年10月8日より、イギリス・ロンドンのバービカン劇場で上演中の舞台『My Neighbour Totoro(となりのトトロ)』。今月21日の千秋楽までチケット完売の盛況ぶりだ。さらに、イギリスの舞台作品・産業を讃える「第23回WhatsOnStage Awards」では、最多9部門にノミネートされており、イギリスで今一番“アツい”舞台作品になっている。一体、どんな人がチケットを買い、どのような感想を抱いているのか。終演後、劇場から出てきた観客にインタビューを敢行した。 “Info. 2023/01/13 ロンドンで上演中の舞台版『となりのトトロ』最多9部門ノミネートの反響 鑑賞した人の“生の声”(ORICON NEWSより)” の続きを読む

Info. 2023/01/14 [TV] NHK BSプレミアム「久石譲 in パリ」再放送決定!!

Posted on 2023/01/11

「久石譲 in パリ」の再放送が決定しました。

この番組は2017年6月にパリで開催された「Joe Hisaishi Symphonic Concert:Music from the Studio Ghibli Films of Hayao Miyazaki」コンサートの模様を収録したものです。 “Info. 2023/01/14 [TV] NHK BSプレミアム「久石譲 in パリ」再放送決定!!” の続きを読む

Info. 2023/09/21,22 「久石譲 シンフォニック・コンサート スタジオジブリ宮崎駿作品演奏会」(ロンドン) 開催決定!! 【再延期 1/11 Update!!】

Posted on 2020/02/25

2020年9月19日、久石譲によるスタジオジブリ宮崎駿監督作品演奏会がイギリス・ロンドンにて開催決定!

2017年6月パリ世界初演、「久石譲 in パリ -「風の谷のナウシカ」から「風立ちぬ」まで 宮崎駿監督作品演奏会-」(NHK BS)TV放送されたことでも話題になりました。 “Info. 2023/09/21,22 「久石譲 シンフォニック・コンサート スタジオジブリ宮崎駿作品演奏会」(ロンドン) 開催決定!! 【再延期 1/11 Update!!】” の続きを読む

Info. 2023/01/09 《速報》 「LOPPIAISKONSERTTI – JOE HISAISHI」久石譲コンサート(ヘルシンキ)プログラム

Posted on 2023/01/09

2023年1月6,7日「LOPPIAISKONSERTTI – JOE HISAISHI」久石譲コンサートがフィンランドのヘルシンキで開催されました。本公演は当初2022年1月開催予定だったものです。新型コロナウィルスの影響による延期を経て、1年後に待望の開催となりました。 “Info. 2023/01/09 《速報》 「LOPPIAISKONSERTTI – JOE HISAISHI」久石譲コンサート(ヘルシンキ)プログラム” の続きを読む

Overtone.第88回 久石譲を短歌で詠む 100 其ノ二

Posted on 2023/01/05

ふらいすとーんです。

久石譲を短歌で詠む、気ままにツイートしていたものがまた百首たまりました。前回は令和になった2019年5月から2020年9月まででした。今回は2020年10月から2022年11月までになります。ひとつでもおもしろいものがあったならうれしいです。

 

 

久石譲を短歌で詠む

“Silence”深い夜へと誘うは
ピアノの音と秋の静けさ

ミニマルのモザイクたちは踊りだし
次元を狂わす”DA.MA.SHI.絵”となり

この曲はどこにも売ってないみたい
そう思いつつ何度も探す

新曲だ好きになったりするのかな
瞬殺速効ノックアウト

ティンパニのドの音大地に響くとき
“風の伝説”はじまりの音

赤ワイン”il Porco Rosso”(マルコとジーナ)くゆらせて
大人の恋と背伸びした日

ハンマーの打つ鋼の弦はりつめて
凍てつく愛は狂おしく”EVE”

しぶきあげ渦まく白波ほとばしり
“男たちの大和”にふるえ

海走る電車にたゆたうピアノの音(ね)
ゆらめいている”6番目の駅”

“Silencio de Parc Güell”雲うつり
(シレンシオ・デ・パルク・グエル)
静けさこのむ初秋の一日

 

十一

ミニマルなつくつく法師の鳴き声は
ひとつふたつと音が減りゆく

ひとしきり泣いてすっきりしたあとは
かなしい曲もやさしく聴こえ

たちまちに心の乾き潤して
ピアノの音と涙おちる音

そんなにがんばらなくてもいいんだよ
寄り添う音は強くやさしい

小気味よく泡は踊り弾け飛び
“Dream More”と酒くみかわし

転調の美しさふと音はこぶ
風を感じるときの快感

引っ越す日思い出だらけの部屋のなか
くすんだ壁に沁みこんだ曲

“星の歌”メロディ追いかけ絡みあい
分かれ降るさま流星群かな

“ひまわりの家の輪舞曲(ロンド)”に母の影
涙でぼやけた空はやさしい

ちょっと目を離した間にすやすやと
おやすみなさい”ポニョの子守唄”

 

二十一

似合わない服はいっぱいあるけれど
あなたの曲はどれも似合うと

“DA・MA・SHI・絵”の対向配置のミニマルに
音の渦まくLとR

“Spring”流れて映る風景に
今年もちゃんとつかまえた春

葉桜に少しなじんだスニーカー
爽やか軽やか”Spring”聴く

春の音つかまえたくてシャッターを
切っておさめてそれ貼るノート

夜が夜らしい色した時代には
”夢の星空”輝いている

新しい譲報みつけスマホ越し
こぼれる笑みを隠しきれない

夏祭りなくても着るよ夏だもん
浴衣姿のおうちで”Summer”

この曲のスイッチ押せば再起動
頭すっきり動き出せる

どの曲も知ってるつもりだったけど
ベスト盤聴き…そうでもなかった

 

三十一

あの曲はほろ酔い注意と知りながら
ひとりよがりのノスタルジック

キラキラの鈴とツリーが奏で合う
ハンドベルのジブリ曲たち

空みあげ鳥たち渡る雲間から
“Stand Alone”光の綾織り

澄みきった静寂ふるえ息をのむ
“TENCHIMEISATSU”満天の星

富士山の湖畔に映るシンメトリー
波紋に浮かぶミニマルのズレ

エモい、よき、わかりみ深い、すこ、(語彙力)
ほぼほぼ通じる控えめに言って

ネクタイの裏に指揮棒忍ばせて
休憩室のエアマエストロ

気の抜けた炭酸のような日もあって
みなぎる曲で気を送りこむ

好きな曲奏でるファンの音(おん)返し
いろんな楽器思い思いに

空翔ける龍の背に乗り流れゆく
“千尋のワルツ””ふたたび”会えたね

 

四十一

今を生き共に生きたるその先の
希望をみせる”アシタカとサン”

“冬の夢”雪しんしん降りてゆく
ピアノとチェロの音に暖とる

白銀の歌とピアノと弦楽と
”遠い街から”あの冬想う

極上の冬の魔法かけられて
”白い恋人たち”の結晶

ロンドンの”Sweet Christmas”な夜
大きな鐘と響きわたって

世界中星降る聖夜あたたかい
“White Night”願いをこめて

あたらしき年の初めの一曲は
久石譲の一択しかない

初夢の一富士二鷹三茄子
四回行けた弾き振り見れた

初夢の一富士二鷹三茄子
四枚フラゲ メガジャケ飾る

初夢の一富士二鷹三茄子
第四シンフォニーも現る

 

五十一

初夢の一富士二鷹三茄子
一気に四までCM曲集

初夢の一富士二鷹三茄子
WORKS V すごい選曲

初夢の一富士二鷹三茄子
“Mt.Fuji”はいつ会えるかな

ふるさとの忘れたくない光景と
街の匂いが音に溶け合う

また来るねぱっと花咲く”Spring”
ふれあい過ごした新春のとき

好きな子のイヤホン越しにすれ違い
聴こえた曲に好きが上がった

追想とピアノアルバム流れゆく
無音の雨を眺める車窓

ただずっと眺めていたい画があって
ただずっと聴くジブリの世界

ショータイム指揮とピアノの二刀流
演奏会が歓喜に沸いた

乾杯と”Dream More”にプレミアム
多重奏な会話も弾み

 

六十一

どこまでも開放的なその音に
がんじがらめの心ほどける

しんどくて眩しすぎると塞いでも
音を浴びたいときは来るから

言い尽くすことなんてできやしないと
わかってるけど言葉さがして

音楽を三十一(みそひと)文字に込めること
言葉と気持ちに向き合う時間

いっせーの!白いマスクを放り投げ
ハトの飛び立つ共に歌おう

みなみんな欲張らないで空ひとつ
“World Dreams”希望の鐘を

“Spring”待ちわび願い春何処
1オクターブ越えていきたい

満開の桜の下を舞うように
”春のめぐり”に”春のワルツ”

“はじまり”はなよたけ調べとわらべ唄
音で紡いだかぐや姫のとき

ラピュタにもトトロにもある樹の曲と
鳥を遊ばせ風を誘う樹

 

七十一

あの青い空のむこうをさがしては
ラピュタ雲だと子供らの声

五線紙に込める想いのグラデーション
歌い継がれるジブリソングス

ときめく日上昇気流をつかまえて
”空中散歩”で心浮き立つ

雨の日のふたりっきりのバス停に
”トトロ”の気配ミニマルリアル

あの人の棲む国”募る思い”馳せ
パラレル架けるふたつの心

くつろいで音楽だけあるマイタイム
なにもしない時間を楽しむ

音楽をのぞきかきわけつかまえて
言葉の糸をたぐりよせてく

大それた願いでしょうか生き生きと
”World Dreams”平和を呼吸す

待ちわびた夏恒例のコンサート
いつも熾烈なイス取りゲーム

君とすぐこんなに仲良くなったのは
あの曲あたりがきっかけだったね

 

八十一

この盤は忘れえぬ人呼び起こす
あの時のままあの音のまま

いつもとは違うところに着きそうで
切符片手に”6番目の駅”

”あの夏へ”紡ぐいのちのアルペジオ
ピアノのふるえ遠く彼方へ

選りすぐりワールドベスト浴びたなら
ファンにならないことがむずかしい

出会う前出会ってからのファン歴と
ワールドベスト君を巡る日

一度でも生演奏にふれたなら
言葉にならないため息しかない

ピアノ弾く世界にひとつだけの音
なにが違っているのでしょうか

ひと抱えプレイリストに集めたら
わたしの秋をコンシェルジュする

“Silence”モノクロームなピアノから
色合い豊かなオーケストラに

“Sunday”と秋空薫るエレガンス
いいことありそう聴けば吉日

 

九十一

秋心揺らす”旅情”のモノローグ
ふと行間を語りはじめる

“ETUDE”の回りつづける音盤と
月のきれいな長い夜に

少しだけ遠回りした散歩道
好きな曲聴く風のいい夜

ポケットの音楽先に秋となり
風や景色はゆっくり追いつく

“The Black Fireworks”燻らせて
ビターな秋に濃いめのチェロと

目のまえを風がさらっと譜読みして
まだ弾けてない僕を抜き去る

“Drivung to the Future”マリンバの
速度で駆けてきみに会いたい

教室の窓が切り取る夏空は
“Summer”すぎるとチャイムが鳴った

校庭の脇に並んだひまわりに
“Summer”を返し忘れた二学期

鮮やかに秋めく私の住む町に
“Oriental Wind”みつけた

 

 

以降も、新しい短歌は気ままに #久石譲を短歌で詠む でツイートしています。

 

 

なぜ短歌をはじめたのか?/久石譲短歌のルール?/リズムを味わう/短歌は”いま”を詠む、などはこちらに一緒に記しています。

 

また次の「久石譲を短歌で詠む 100」がいつかできますように。日めくりカレンダーのように365首をめざしてもおもしろそう、なんて思ったらあと3年くらいかかりそうです。

それではまた。

 

reverb.
令和の時代を久石譲で詠んでいるみたい

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

このコーナーでは、もっと気軽にコメントやメッセージをお待ちしています。響きはじめの部屋 コンタクトフォーム または 下の”コメントする” からどうぞ♪

 

Overtone.第87回 長編と短編と翻訳と。~村上春樹と久石譲~ Part.7

Posted on 2022/12/20

ふらいすとーんです。

怖いもの知らずに大胆に、大風呂敷を広げていくテーマのPart.7です。

今回題材にするのは『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事/村上春樹』(2017)です。

 

 

村上春樹と久石譲  -共通序文-

現代を代表する、そして世界中にファンの多い、ひとりは小説家ひとりは作曲家。人気があるということ以外に、分野の異なるふたりに共通点はあるの? 村上春樹本を愛読し久石譲本(インタビュー記事含む)を愛読する生活をつづけるなか、ある時突然につながった線、一瞬にして結ばれてしまった線。もう僕のなかでは離すことができなくなってしまったふたつの糸。

結論です。村上春樹の長編小説と短編小説と翻訳本、それはそれぞれ、久石譲のオリジナル作品とエンターテインメント音楽とクラシック指揮に共通している。創作活動や作家性のフィールドとサイクル、とても巧みに循環させながら、螺旋上昇させながら、多くのものを取り込み巻き込み進化しつづけてきた人。

スタイルをもっている。スタイルとは、村上春樹でいえば文体、久石譲でいえば作風ということになるでしょうか。読めば聴けばそれとわかる強いオリジナリティをもっている。ここを磨いてきたものこそ《長編・短編・翻訳=オリジナル・エンタメ・指揮》というトライアングルです。三つを明確な立ち位置で発揮しながら、ときに前に後ろに膨らんだり縮んだり置き換えられたり、そして流入し混ざり合い、より一層の強い作品群をそ築き上げている。創作活動の自乗になっている。

そう思ったことをこれから進めていきます。

 

 

今回題材にするのは『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事/村上春樹』(2017)です。

”同時代作家を日本に紹介し、古典を訳し直す。音楽にまつわる文章を翻訳し、アンソロジーを編む。フィッツジェラルド、カーヴァー、カポーティ、サリンジャー、チャンドラー。小説、詩、ノンフィクション、絵本、訳詞集…。1981年刊行の『マイ・ロスト・シティー』を皮切りに、訳書の総数七十余点。小説執筆のかたわら、多大な時間を割いてきた訳業の全貌を明らかにする。”

(BOOKデータベースより)

 

これまでに翻訳してきた本のカタログのような、一冊ごとに1,2ページ、翻訳した当時を回想するように軽いタッチのエッセイとしても楽しめます。本書から興味をもって読んでみた本もたくさんあります。取り上げたいのは、まえがき項と、柴田元幸さんとの対談項からです。

 

自分が読んだあとなら、要約するようにチョイスチョイスな文章抜き出しでもいいのですが、初めて見る人には文脈わかりにくいですよね。段落ごとにほぼ抜き出すかたちでいくつかご紹介します。そして、すぐあとに ⇒⇒ で僕のコメントをはさむ形にしています。

 

 

 

”もうひとつ重要なことは、これまでの人生において、僕には小説の師もいなければ、文学仲間みたいなものもいなかったということだ。だから自分一人で、独力で小説の書き方を身につけてこなくてはならなかった。自分なりの文体を、ほとんどゼロから作り上げてこなくてはならなかった。そして結果的に(あくまで結果的にだが)、優れたテキストを翻訳することが僕にとっての「文章修行」というか、「文学行脚」の意味あいを帯びることになった。翻訳の作業を通して、僕は文章の書き方を学び、小説の書き方を学んでいった。いろんな作家の文章・物語という「靴」に自分の足を実際に突っ込んでみることによって、自分自身の小説世界を立ち上げ、それを自分なりに少しずつ深め、広げていくことができた。そういう意味では翻訳を通して巡り会った様々な作家たちこそが僕の小説の師であり、文学仲間であった。もし翻訳というものをやってこなかったら、僕の書いている小説は(もし書いていたとしても)、今とはずいぶん違った形のものになっていたはずだ。”

~(中略)~

⇒⇒
久石譲も、クラシック音楽から学べることはたくさんある、とよく語っています。ここで最も注目したいのは最後の文章です。”もし翻訳というものをやってこなかったら~”、これは久石譲音楽にも言えることだと思います。「もし指揮というものをやってこなかったら、僕の書いている曲は、今とはずいぶん違った形のものになっていたはずだ」、ファンとしてもそう感じるところありますね。クラシック音楽や同時代作家の作品を指揮することで、久石譲音楽は一構えも二構えも広く深くなってきたことは、ひしひしと感じるところです。

まあ、それを良しと思っていない人もいるかもしれません…。端的にいえば、久石譲らしくなくなったと。でも、それは本当にそうでしょうか…。何かに強く影響を受けるということは、これまでのオリジナリティや武器を強烈に覆い隠してしまうこともあります。取り入れたいものとすでにある持ち味が作品のなかで戦っている。それに潰されてしまうか、一皮むけて突き抜けるか。久石さんは間違いなく後者でしょう。近年の交響曲や室内楽のどれかひとつでもどれか一楽章でも好きなものがあるなら。それは指揮活動なくして生まれなかったものです。ちゃんとそこに久石らしさを感じるから好きになる。その数やバランスは変わってきたかもしれませんが、まあ、衰えを感じさせるどころか突っ走っているほどの久石さん…すごいことだと思います。

 

 

”そういう風に自分の創作と、翻訳の仕事とを、長期にわたって交互にやってこられたのは、僕の精神性にとっておそらく健全なことだったんだろうなと推測する。自由に好きにやれることと、制約の中でベストを尽くさなくてはならないこと。どちらか一方だけの人生だったら、やはりちょっと疲れていたかもなと思わなくもない。そういう意味ではたしかに恵まれていたと思う。”

~(中略)~

⇒⇒
村上春樹は、これまでに70冊以上の翻訳をしています。久石譲は、これまでに70作品以上のクラシック音楽を指揮しています(ちゃんと調べました)。「自作と古典を並列してプログラムすることは大変だ」と語るとおり、優れた作品を指揮することは、次の創作活動へ向かわせる原動力にもなっているように思います。

いろいろなフィールドでその作家性を多面的に発揮できる人はいますね。器用だとも思うし、そうすることで創作活動のバランスをとっている。そんなマルチさのなかでも明らかに村上春樹と久石譲には違うところがある。やれるからやっているではなく目的がはっきりしている。おそらく長編小説のため(その長い構想期間も含めて)に翻訳をしているだろうし、久石譲もまたはっきりと「作曲のために指揮している」と言っています。すべての多面的な活動が、自らの主軸に集約されるようになっている。アウトプットのためのインプットといったところでしょうか。

 

 

”ときどき「おまえの書く小説はあまり好きではないが、おまえの翻訳はなかなか悪くない」とおっしゃってくれる方もいて(もちろんもう少し婉曲な言い方ではあるけれど)、それはそれで僕としては嬉しく思う。何も褒められないよりは、少しでも何かを褒められた方がもちろんいいということもあるけれど、そこには、「僕は僕なりに何かをかたちにして残してくることができたんだな」という達成感のようなものがあるからだ。もちろん自分自身の小説だって、かたちとしてはいちおう残されているわけだが、翻訳書の場合はそれとはまた少し違った種類の「かたち感」なのだ。あるいはそれは「貢献」に近いものなのかもしれない。自分の創作の場合は、そういう「貢献」という感触はまず持てないから(そこで持てる感触はもっとべつのものだ)。”

~(中略)~

⇒⇒
作家ってそんな感覚をもつものなんだと新鮮でした。とすると、久石譲が指揮することもまた音楽文化への「貢献」であり「何かをかたちにして残してくることができ」ていると同じになりますね。音楽を未来へつなげたいとは、つまるところ演奏しつづけることです。録音やパッケージとしての有無は別として。読まれているから本はのこるし、聴かれているから音楽はのこる。のこるからこそ未来の人も触れることができる。

最初の文章を置き換えて、「おまえの書く音楽はあまり好きではないが、おまえの指揮はなかなか悪くない」、ああ、そんなこと思う人いるのかな?いるのかもな?あまり考えたことなかったです。でも、これからますます久石さんの指揮活動が充実するごとに、「久石譲の音楽はほとんど聴かないけど、久石譲の指揮するベートーヴェンはなかなかいいよ」そんなリスナーも出てくるのかもしれませんね。いやあ、嬉しいような悲しいような。すごいことだと思う。

 

 

”ここにこうして集めた僕の翻訳書を順番に眺めてみると、「ああ、こういう本によって、こうして自分というものが形づくられてきたんだな」と実感することになる。ただただ自分の楽しみのために訳した本もあれば、「よし、今回はこれに挑戦してやろう」と意を決して、腹を括って作業に臨んだ本もある。いずれにせよ、それらの本によって僕は形づくられてきたのだ。いつも言うことだけれど、翻訳というのは一語一語を手で拾い上げていく「究極の精読」なのだ。そういう地道で丁寧な手作業が、そのように費やされた時間が、人に影響を及ぼさずにいられるわけはない。”

~(中略)~

⇒⇒
文章そのまま本を音楽に置き換えてみると、ぐっと伝わってきますね。僕は最近ふと思うんですけれど、受けた影響もまるっと含めてその人のオリジナリティなんじゃないか、そんなことを思ったりします。ここは先人の影響を受けていて、ここはこの人のオリジナル性の部分で、って作品のなかで切り分けることなんてできません。もっというと、誰に影響を受けてきたかでその人のオリジナル性も変わってきます。だから、うまく言えないけれど、ミニマル・ミュージックに影響を受けていない久石譲やベートーヴェンに影響を受けていない久石譲は、今僕らが聴いている久石譲音楽じゃない、それははっきりわかります。だとしたら、オリジナリティってその人が形づくられた影響すべてひっくるめて…その人が触れてきた好きの蓄積からオリジナリティはもう始まっていて…うまく言えないからまたいつか出直したい次第、です。

 

 

”いつも言うんだけど、翻訳するというのは、なにはともあれ、「究極の熟読」なんですよ。写経するのと同じで、書かれているひとつひとつの言葉をいちいちぜんぶ引き写しているわけです。それも横のものを縦にしている。これはね、本当にいい勉強になります。”

~(中略)~

⇒⇒
よく語られていることで同旨あります。

 

 

”「このメス犬」とか、「売女」とか、ああいうのはかんべんしてくれよなって思いますよね(笑)。でも最近、”bitch”は「ビッチ」である程度いけるようになってきました。「ファック」もだいたいそのままいける。これは翻訳者としてはすごくありがたいことです。社会的にみればあまり褒められたことじゃないのかもしれないけど(笑)。最近は「マザーファッカー」も、僕はそのままにしちゃってることが多いですね。「クール」もそのまま使えるシチュエーションが増えてきて、なかなか便利になりました。

古い翻訳書を読んでいて、「イカしてる」なんて書いてあると、なんなんだと思うものね。「すかしてやがるぜ」とかさ。ですから、僕が翻訳する場合にも、早く古びそうな言葉はできるだけ使わないというのが、けっこう大事なことになります。「これはあとまで残るかな? それともそのうちに消えちゃうかな?」というぎりぎりの境界線上の言葉や表現もあって、このへんの判断はなかなか難しいですね。結局は翻訳者のセンスの問題になります。英語がすごくできる人でも、必ずしも良い翻訳者になれないというのは、そういう部分があるからでしょうね。”

~(中略)~

⇒⇒
村上春樹が語る「翻訳には賞味期限がある」、これについてもPart.1-6のなかに同旨あります。また異なる具体例を挙げていたりしておもしろいです。

 

 

”僕もあの作品はちょっと苦手です。サリンジャーの短篇は、良いものはすごく良いけど、ばらつきも激しいから。でもね、最近では電子ブックの短篇集ばら売りみたいなこともやっているでしょう。あれはどうかなと僕は思うんです。やはり短篇集というのは、中にすごい作品もあり、それほどすごくない作品もありで、そうやって総合的に成り立っているものだと思うんです。そういう成り立ちはやはり大事にしていかなくちゃならないんじゃないかと。レコードの場合もそうだけど、最初はつまらないと思っていたトラックが、あとになってだんだん気に入ってきたり、みたいなことはありますよね。”

~(中略)~

⇒⇒
音楽についても、アルバムというパッケージについても、強く同じことが言えると思います。少なくとも、好きなアーティストなら単曲で買うのはもったいないかなと思います。あなたの好きは単曲程度なの?!ってね。冗談はさておき、ベースに好きがあるんだから、いつかだんだん気に入ってくるということは大いにある。僕は好きなものに対してはけっこうな信頼を置いているので、もし曲や物語がそのとき好きになれなかったら、それは自分がまだ追いつけていないって思うほうかもしれません。久石さんの音楽はもちろんそう、村上春樹さんの小説もそう。あとからわかったり好きになったりする自分に出会えたときはとてもうれしいし、そこまで全幅の信頼を寄せれる作家が自分にはいるってうれしい。全部を好きにならなくてもいいし、無理にわかろうとしなくてもいい。ファンならゆっくり一生かけて付き合っていきましょうよ。そのなかで変化してくることなんていっぱいありますよ。そんなゆるさです。

 

(以上、”村上春樹文章”は『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事/村上春樹』より 引用)

 

 

少し追加します。

同書からは離れて、同旨なことを語っているものを、ここにまとめて紹介させてもらいます。いろいろな方向から眺めてみると、いろいろな言い回しの言葉から触れてみると、吸収しやすくなったりすることあるな、と僕なんかは思います。

 

 

”さっき柴田さんがいまの翻訳が次の創作に影響を与えるかどうかとおっしゃったけど、影響を受けていたとしてもそれを次の僕の創作に使うかというと使わない。でも十年ぐらい経ってから、何かの形で役に立ってくるんじゃないかなという気はしています。たぶんまったく別の形をとって出てくるというようなことですね。”

(「翻訳教室/柴田元幸」より 一部抜粋)

⇒⇒
村上春樹は、取り込んだものから大事な部分だけ抽出したり別のかたちで書く、とも言っています。宮崎駿監督は、オリジナルがわからないように真似ろ、とも言っています。久石譲は、後から気づいたらブラームスの弦の扱い方に影響を受けている、とも言っています。すべての創作家たちは、多くのものを取り込み吸収し自分のフィルターで時間をかけて濾過したものを新しいかたちで出す。すごく尊いサイクルだなと思います。

 

 

”他言語のリズムなり生理なり、あるいは思考システムなりは、月の引力が地球の海の干満をもたらすように、その翻訳者の固有の文体に否応なく影響を及ぼします。言語システムを転換するという行為を通じて、僕らの「こっち側」の文体=言語認識は多少の差こそあれひとつの洗いなおしを受けることになります。そのような洗いなおしは、多くの局面においては有意義、有益なものであると僕は信じています。文体とはとりもなおさず「意識のあり方」であり、僕らはそのような意識な交流の中から、多くの種類の価値を学ぶことができるからです。僕らは翻訳作業を通じて、複合的な意識の視点を、自然に身につけていくことができます。

しかしプラスばかりではありません。同時にそこには危険性もあります。それはつまり「入超」になるということですね。外部からの「意識」流入が強く大きくなりすぎて、そちらに力が吸い取られてしまって、内発的な要素がうまく吸い上げられなくなる。そうなると、たしかに立派な文章スタイルはできたし、小説的ヴィジョンも立派だけれど、地面に根っこがうまく張れていないということにもなりかねません。これは小説家としては命取りになりかねないことです。”

(「若い読者のための短編小説案内/村上春樹」より 一部抜粋)

 

⇒⇒
ちょっと難しいことが書いてあるんですけれど。簡潔にすると、翻訳することは自分の文体にも影響を及ぼす。洗いなおしを受け複合的に広がる良い影響もあれば、そこに自分の文体を持っていないならば潰されてしまう悪い影響もある。そういうことだと思います。

上の、最初のほうに書いたことと重なりますね。久石譲らしくなくなった?のところ。クラシックの手法にならうことで、(従来の)久石譲らしくなくなったところもあるでしょう、同じく作風の幅が広がったことはたしかです。今までにはなかった構成や形式、そうは進まなかっただろう曲想や展開、自ら指揮することで磨かれる表現や輝きをますオーケストレーション。こう書きたい書いてしまう文章やメロディ、その馴染んだ手くせを大きく解放してくれるものこそが翻訳活動であり指揮活動だとしたら。その活動を追いかけることはとても魅力的だと思います。

村上春樹さんが書いている後半センテンスの危険性や入超って。もし久石譲に揺るがないオリジナリティがなかったとしたら。指揮活動に影響受けすぎて、何を書いてもベートーヴェンの影が見え隠れするとか、ブラームスしか浮かんでこないとか、よもやクラシック音楽に圧倒されて何も書けなくなってしまうとか。いまだかつてそんなことってないですよね。だから僕は、強靭な個性と精神性をもって、自作と他作に対峙しつづけている村上春樹は久石譲は、すごいって思うわけです。

 

 

 

今回とりあげた、『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事/村上春樹』。これまでに訳された70冊以上の翻訳本は、村上春樹小説と同じような好きを感じることはないかもしれません。でも村上春樹のフィルターを通して触れることができてよかったと思える本はたしかにあります。これまでに指揮された70作品以上のクラシック音楽が、久石譲音楽と同じような好きを感じることはないかもしれません。でも久石譲のフィルターを通して触れることができてよかったと思える音楽はたしかにあります。指揮することでのまた違った久石譲の魅力を感じることができたなら。帰り着く先は久石譲音楽がさらに豊かに好きになる。好きの円運動が活発な人って遠心力もすごいでしょうね、きっと。

 

 

-共通むすび-

”いい音というのはいい文章と同じで、人によっていい音は全然違うし、いい文章も違う。自分にとって何がいい音か見つけるのが一番大事で…それが結構難しいんですよね。人生観と同じで”

(「SWITCH 2019年12月号 Vol.37」村上春樹インタビュー より)

”積極的に常に新しい音楽を聴き続けるという努力をしていかないと、耳は確実に衰えます”

(『村上さんのところ/村上春樹』より)

 

 

それではまた。

 

reverb.
村上春樹の翻訳第1作目は「マイ・ロスト・シティー」です。

 

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

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Overtone.第86回 「Shaking Anxiety and Dreamy Globe for Two Violoncellos」を聴いて

Posted on 2022/12/16

ふらいすとーんです。

「Shaking Anxiety and Dreamy Globe for Two Violoncellos」を聴いてメモをもとに記します。いつもと同じく新曲を聴いたときの感想ですが、少しシビアなところもあるかもと思い、Disc.ページのレビューからは切り離すことにしました。

 

2022年12月9日開催「現代室内楽の夕べ 四人組とその仲間たちコンサート2022」にて初演されました。公演の詳細、久石譲による楽曲解説、コンサートライブ映像などについてはこちらにまとめています。聴けます。

 

 

久石譲:《揺れ動く不安と夢の球体》

Shaking Anxiety and Dreamy Globe for 2 Guitars (2012)

Shaking Anxiety and Dreamy Globe for 2 Marimbas (2014)

Shaking Anxiety and Dreamy Globe for Two Violoncellos (2022)

 

2台チェロ版(2022)を聴いてすぐに浮かんだキーワードは「2012」「チェロ」「デュオ」でした。この3つを絡めながら進めていきます。

 

チェロ

2台チェロ版になったこの作品は、調性も違う、テンポも少し遅いというのがすぐにわかる特徴です。久石譲解説にあるとおり、開放弦をうまく利用するためにキーが変わっていることがわかります。速いパッセージの連続するこの楽曲は、ギターやマリンバであれば弾きこなせることもチェロでは易しくありません。例えば、粒の細かい4つの音符をギターなら近距離の弦音程をスピーディに指で押さえたり、マリンバならピアノみたいに鍵盤の速さで打てることも、チェロはそうもいかない。大きく長い弓を行き来する時間もいる。そうすると、粒の細かい4つの音符のうち1つでも開放弦を利用できれば、3つのポジショニングで音程をとり少し余裕が生まれる。1つの音は弦を押さえずに開放弦の音を使えるから。ずいぶん素人解説ですが、そういうことを大小いろいろ駆使しているんだろうと思います。

次に、楽器ごとにできる表現の違いに目を向けてみます。ギター版は速弾きがこなせることはもちろん、1奏者で5音の和音を鳴らすこともできます。スコアを見ると2奏者で同時に計9音の和音をかき鳴らしている箇所もあります。また音色の効果として、2奏者でありながらひとつの統一した音色として散っているような音像や、シンクロするように(ある種機械的に無機質に)演奏することが本来の意図にあるのではないかと思っています。演奏をエモーショナルにしすぎずに音符の強弱や音符の長さを均一にすることで俯瞰的な響きになる、そんなイメージです。

マリンバ版も速弾きがこなせることはもちろん、片手にマレット2本を挟んだりもできるので、最大で2奏者4手4音以上の和音が鳴っている箇所あります。また音色の色彩として、マリンバ1はグロッケンシュピールに、マリンバ2はヴィブラフォンに持替になっています。ここからみても、ギター版とマリンバ版は単純な楽器の置き換えではなく楽曲の放つ意図や狙いも変化していることがわかります。

チェロ版は、器用に和音を奏でる楽器ではないので、単音による旋律をベースとしながら、ときに重奏やピッツィカート、そして弦をなでるようなスライド奏法も使いながら表現に幅をもたせています。言い換えると、特殊奏法も用いることが作品世界の表現に求めらている。

 

デュオ

本公演シリーズは「楽器2台による」「新作」を作品の条件としています。ギター版やマリンバ版の再演ではなくチェロ版として改訂した経緯はここにあります。弦を弾いたり鍵盤を打ったりで音の減衰していくギターやマリンバとそのサスティン効果、弓を引くことで音を伸ばすチェロの違いがあります。減衰音楽器は音価をそろえやすい(一音一音が均一)ですし、持続音楽器は数小節ならともかく楽曲全体にそれを求めるには端から性格が違います。

またひとつの大きな楽器(ピアノの連弾のような)として見立てることもできるギター2台と、音色や音域にも広がりのあるマリンバ版(高音グロッケンシュピールもある)。それに比べて、動く音域として狭いチェロ、単音でありながら線の太いチェロ、この作品でどれだけ効果を発揮しているかというシビアな側面もあるのかもしれません。低音寄りの重厚で野性的な音像が2台チェロ版のストロングポイントだとすれば、細かい音符の粒立ちが無くなり層のように聴こえる音質、旋律や音域が広範囲に動き回れないのがウィークポイントになるかもしれません。

 

2012

2012年作品だからだと思います。多忙を極めた久石譲が本公演で「新作」を書き下ろすことができなかった。2台チェロ版へのアイデアが浮かんだとしても、楽曲構造は2012年当時の久石譲です。チェロのメリット・デメリットを踏まえて改訂しようとすると、構造をそのまま引き継ぐことに無理がでてくる。かといって、構造を変えるということは、完成されたフォーマットを一旦崩すことになる、組み替えないといけない、それは一から作曲するのと同じに等しい。新作を書き下ろすスケジュールがないなか、自身による既存曲の改訂作業も同じ。限られた時間のなかで整合性と新しい可能性を追求していくことは難しい。

久石譲楽曲解説にあるとおり「しかし時間がなかったこと、新たなアイデアがいることなど考慮し、最も信頼する作曲家長生淳氏に編曲を依頼した。チェロの開放弦を利用することなど打合せした上で彼に全て任せた。」、そういうことなんじゃないかなと思います。

「楽器2台による」作品の候補が「Shaking Anxiety and Dreamy Globe」しかなかったのか、なかったような気がします。ずっと遡れば『MKWAJU』『Shoot The Violist ~ヴィオリストを撃て~』収録作品やいくつかのアンサンブル作品から候補もあがるかもしれません。しかし、2022年の今から最も近い作品というとおのずと絞られてきます。

じゃあ、ピアノ2台でもよかったじゃないか、ギター、マリンバからみても無理ない選択肢だと思うけど。そこは現代音楽の演奏会です。どの楽器の組み合わせを提示するかということも、、コンセプトとして大切、、あるんじゃないでしょうか。個性的な楽器組み合わせ、異種格闘技、、この作品は同じ性質の楽器2台でというのが作曲時の前提にあるような気がします。

積極的にも消極的にもどちらの理由からもなるべくしてそうなった作品。選曲から完成したかたちまで。行き着くところは自然な着地点だったんじゃないかな、これが僕の回答です。「新作」は準備できないけれど再演はない、このシリーズにそって実験と挑戦で応えたい、、そう思ったかどうかはわかりませんが、僕の回答です。

 

ギフト

僕にとってはギフトです。音を聴かせてくれないとわからない。だから、どんなかたちであっても音楽でみせてくれることは、いつもワクワクするギフトです。チェロだとこんなふうになるんだ、なんでこうなったんだろうと好奇心です。新しい気づきです。激しい勘違いです。でもマルバツで直感に終わらせてしまうよりこっちのほうが断然おもしろい。今回は半分久石さんの手も離れている。思いがけないボーナス・バージョンとして楽しくうれしくギフトもらいました。

 

志向性

最近のインタビューで「ソならソでいい、なんの楽器でも」「特殊奏法なんかも極力排除したい」みたいなことを言っていました。これはけっこう深いところを突いているような気がしています。つまり、ある楽器でしか演奏できない曲や、ある楽器ならでは(特殊奏法など)の響きをもった曲構造は今とりたくないと思っているということになります。

例えば、バッハの作品はいろいろな楽器に置き換え可能で無伴奏チェロ作品も他の弦楽器はもちろん管楽器で演奏されることもあります。インヴェンションとシンフォニアのピアノ作品も弦楽になっていたり。だから同じインタビューで「バッハのようにそこを目指したい」というのは言葉そのままつながります。どの楽器でも演奏できる骨格や基盤の強いもの、特定楽器の音色・響き・奏法から生まれるサウンドテクスチャに左右されない論理的なフォームによる作曲へアプローチしたい。

この時点でもう「Shaking Anxiety and Dreamy Globe」の自身による改訂は土台無理だった、あまりにも当時の着想と現在の思考には乖離がある。僕にはそれほどまでに思える決定打でした。ギター版はギターでしか成立しないし、マリンバもチェロもそう。もう久石譲の手を離れてでしか解決することができなかった、今回の時間と思考とのせめぎ合うなかで。

話はそれて。デュオや室内楽よりも大きな編成になりますが、近年盛んにリコンポーズしている作品は、楽曲構造をそのままにきれいに置き換えができているとわかります。「Variation 14」アンサンブル版/オーケストラ版や、「Variation 54」「2 Dances」などもそうですね。「The Black Fireworks」のバンドネオン版とチェロ版もそうですね。システム、フォーム、音の運動性、、今久石譲がタイムリーに発言しているキーワードには大切なヒントが落ちていそうで、なるたけ拾って注目して追いかけたいところです。周回遅れなのはいつだって覚悟していますから(笑)だって到底、ムリ。

 

とても収穫の多い楽曲でした。2台チェロ版ありがとうございます。ライブ演奏じゃなくてセッション録音で聴くことができたらまた印象も変わるでしょうね。

 

それではまた。

 

reverb.
管楽器も息が続かないし、なにがあるかな?

 

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

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