Overtone.第76回 モチーフ「無調がルーツ」

Posted on 2022/09/11

ふらいすとーんです。

Overtone モチーフです。

きれいに考えをまとめること、きれいに書き上げることをゴールとしていない、メモのような雑文です。お題=モチーフとして出発点です。これから先モチーフが展開したり充実した響きとなって開けてくる日がくるといいのですが。

 

モチーフ「無調がルーツ」

調性のない音楽を無調音楽といったりします。20世紀のはじめシェーンベルクらによる調性の崩壊は、今も現代音楽のなかで脈々と受け継がれています。おそらくあの時代には通らないといけなかった調性の解放。今聴ける作品たちのなかにその意志や継承はあるのか、はたまた単なる調性の放棄か。

ジョン・ウィリアムズは近年意欲的に自作品を録音しています。これはとてもうれしい。やっぱり映画音楽だけじゃなくてオリジナル作品もしっかり残してこその相乗効果ってあります。作品群の幅が深さが際立ってくる。そう思って楽しみにしていたアルバムなんだけど……なかなかしっくりこなかった第一印象はうまく受けとめられなかった。

 

ギャザリング・オブ・フレンズ
ジョン・ウィリアムズ、ヨーヨー・マ、ニューヨーク・フィルハーモニック

 

ムター・プレイズ・ジョン・ウィリアムズ
ジョン・ウィリアムズ、アンネ=ゾフィー・ムター、ボストン交響楽団

 

それぞれにオリジナル作品と自身が手がけた映画音楽が収録されています。そのあたりの詳細は飛ばします。映画音楽もチェロのための/ヴァイオリンのための選曲と新アレンジは絶品さすがです。

「チェロ協奏曲(2021年改訂版)」も「ヴァイオリンと管弦楽のための協奏曲 第2番(新作)」も最初聴いたときの印象は、こむずかしい、煙に巻いたような感じ、流れがとまる、もうひと越えしない、眉が寄る。散々ですけれど、とっつきにくかったということです。そうしてCDライナーノーツをみてみたら、作品解説のなかに無調音楽というキーワードが出てきて、そうかそうか。

すっきり。説明されるとそうなんだとすっと音楽も入ってくるから不思議です。なんでこんなことになってるの?なんでこんな展開するの?と勝手に喧嘩腰の態度もあらたまり、勝手に仲直りした気分になります。これで難しい顔をして聴かなくてすみます。こういう音楽なんだと受けとめOKです。少し味わい方もわかるというもの。

久石譲とジョン・ウィリアムズの共通点といえば映画音楽です。そして交響曲や協奏曲といった自作品もある。もしこのことでリスナーと距離ができてしまうとしたら、映画音楽でやっていることをわざわざふんだんに自作品でやる必要のない。この線引きはしょうがない。モーツァルトもベートーヴェンもブラームスも甘美で映画音楽的なメロディや曲想もある。商業音楽と純音楽を並走して活動するふたりの時代には、キャッチーなメロディや曲想はエンターテインメントで存分に発揮されるぶん、自作品では別の方向性を追求する、これはしごく自然なこと。

ジョン・ウィリアムズのルーツはジャズだったり無調だったり。久石譲のルーツはミニマル・ミュージック。久石さんも語るとおり、ミニマルにはリズムも調性もある、だから二人の自作品を比べたら聴きやすいともいえる、すべてじゃない。ミニマルは小さな音型の反復やズレからなるけれど、音型の時点である和音の構成音にもなっているのでおのずとハーモニーも生まれやすい。「フィリップ・グラス:Two Pages」はコードCmの音というように。久石さんの場合、ミニマル音型を単音ではなくハモらせたりすることでハーモニーを複雑にしていたり、別の音型をぶつけることでハーモニーを散らしたりしている、と思う。

そんなこんなで作曲家のオリジナル作品には、ルーツが出るからおもしろい。また創作活動というものは切り離されることはないので(切り離される必要もないので)、一瞬のぞかせる映画音楽的な部分にぐっとくる。一瞬、それ以上を求めてはいけない。一瞬、創作活動の点と点が線でつながっていることを感じさせてくれる。この塩梅は、両軸でオリジナリティを確立していないと出せない妙味。

ジョン・ウィリアムズの映画音楽には無調の要素も登場するし、久石譲の映画音楽にはミニマルの要素も登場する。はじめに戻って、おもしろいなと思うのは、映画音楽的なキャッチーなメロディや曲想を回避するために、ジョン・ウィリアムズは無調を選び、久石譲はミニマルを選んだ。無調を導入することでキャッチーさは遠のくし、ミニマルを導入することで甘美なメロディが進み生まれるのを制御する。おもしろいなと思います。

ジョン・ウィリアムズの自作品に触れることで、無調音楽から継承したものを味わうことができる。無調もミニマルも語法として音楽史をつないでいる。そして、間違いなく映画音楽もひとつの語法と言われていくようになるでしょう。そのうち「この作品には映画音楽的手法、すなわち華やかさや高揚感といっためまぐるしい場面転換で緩急自在に音楽が進行していく」こんな未来のクラシック解説もうまれそう。映画音楽と現代作品の垣根の崩壊は今すでに起きています。「その先導者こそジョン・ウィリアムズや久石譲だった」、いつかきっとそう言われるような気がします。

 

そんなモチーフでした。

それではまた。

 

reverb.
ジョン・ウィリアムズ×久石譲 自作品演奏会とかいいな~!

 

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

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Overtone.第75回 モチーフ「春の祭典あれこれ」

Posted on 2022/09/04

ふらいすとーんです。

Overtone モチーフ です。

きれいに考えをまとめること、きれいに書き上げることをゴールとしていない、メモのような雑文です。お題=モチーフとして出発点です。これから先モチーフが展開したり充実した響きとなって開けてくる日がくるといいのですが。

 

モチーフ「春の祭典あれこれ」

久石譲第二回監督作品『4 MOVEMENT』(2001)です。このなかにとてもおどろおどろしいシーンがあって、なかなか強烈に印象にのこります。僕は当時観て動悸が…僕は当時観てとても理解追いつかない。だいぶん経ってから(というか最近)ふと思ったこと。これは久石さんのなかで『春の祭典』からイメージしたものかもしれないと。バレエ春の祭典にはこのCDジャケットのようなシーンがあって、それが4MOVEMENTのシーンとつながりましした。

 

 

『NHKスペシャルドラマ 坂の上の雲 オリジナル・サウンドトラック』(2009)の「11.戦争の悲劇」には、『ストラヴィンスキー:春の祭典』のTrack5,6に聴けるようなモチーフが登場しています。この作品はのちの作曲家たちのバイブルといっていいほど多くの影響を与えています。ジョン・ウィリアムズも映画『ジョーズ』などで春の祭典からインスパイアしたとわかる曲を残しています。

ウィキペディアだったかな?「多くの民謡を引用しているが、大部分は原型をとどめないほど変形されている」「ロシア民謡などからもいくつかの素材を借りているらしい」とある春の祭典です。坂の上の雲もロシアは舞台のひとつ。そして、戦争、生贄、犠牲者。

 

久石譲 『坂の上の雲 オリジナル・サウンドトラック 1 』

 

 

『4 MOVEMENT』に戻って。DVDパッケージを手にとってみると。

【メッセージ】

この物語は、主人公のミオが5歳、10歳、20歳と成長していく、4つの楽章(MOVEMENT)から成り立っている。ひとりの人間の心の中には様々な顔があり、とてもやさしい部分と、人にはいえない暗い部分とを皆んなが持っている。ひとりひとりの中にあるものは小さくても、世界中の人間の、つまり60億分ものエネルギーとなると、それが戦争や、憎しみといった世の中の様々な問題を起こしているのではないか。ひとりひとりの中にある問題が連鎖拡大されて戦争が起こったりする。それを解決するのは、自分自身であって、問題は自分の外にあるのではなくて、自分の中にある。「心の中の闇に生まれたもうひとりの自分とどう向き合っていくか」がこの作品の大きなテーマである。  -久石譲

 

人がもつダークサイドな一面と、それが集まり肥大化していったときの戦争、生贄、犠牲者。『4 MOVEMENT』『春の祭典』『坂の上の雲』、演出面や音楽面でつながるところが(それぞれに)あるような気がしてきます。

ほんとうは、すぐに口をついて出ないといけない感想はすっ飛ばしました。ゾクゾクするミニマル曲だったり、同時期にあたる『千と千尋の神隠し』に通じるような曲想があったりと。もしDVDを入手できることができたら、ぜひ見てみてほしい作品です。サウンドトラックCD付きです。

 

久石譲 『4 MOVEMENT』

 

作曲家・久石譲も多くの影響を受けている作品『春の祭典』。指揮者・久石譲も多くの演奏会でプログラムする作品『春の祭典』です。ちょっと昔は苦手だった、でも今は、とてもコンサートで聴けるのを楽しみにしている作品です。

コンサート予定

2023年2月16日
特別演奏会 九響×日本センチュリー響
福岡・アクロス福岡 シンフォニーホール
九州交響楽団/日本センチュリー交響楽団(合同演奏)

2023年2月17日
日本センチュリー交響楽団 定期演奏会 #270
大阪・ザ・シンフォニーホール
九州交響楽団/日本センチュリー交響楽団(合同演奏)

2024年2月16,17日
新日本フィルハーモニー交響楽団 すみだクラシックへの扉 #20
東京・すみだトリフォニーホール
新日本フィルハーモニー交響楽団

 

そんなモチーフでした。

それではまた。

 

reverb.
久石版『春の祭典』はクラシック通の評判もすこぶるいい!!

 

 

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Overtone.第74回 モチーフ「ネームの付け方」

Posted on 2022/09/01

ふらいすとーんです。

Overtone モチーフ です。

きれいに考えをまとめること、きれいに書き上げることをゴールとしていない、メモのような雑文です。お題=モチーフとして出発点です。これから先モチーフが展開したり充実した響きとなって開けてくる日がくるといいのですが。

 

モチーフ「ネームの付け方」

とてもくだらない話です。「ふらいすとーん」という名前です。由来が「飛行石」からきていることはOvertone.第1回でご挨拶しました。ネームっていろいろ言い方あってどれが適切なんだろうと思って調べてみたら、【ニックネーム(あだ名)】【ペンネーム(雑誌投稿や文書)】【ハンドルネーム(インターネット上)】、いろいろ使い分けもあるようでいろいろ境界線なく合流していたりもするようです。

これは本当100%の話なんですけれど、自分で口に出して言うことも、人に呼ばれることもまったく想定していませんでした。ネームを付けたのはサイト運営上必要だったからです。名無しというわけにもいきませんから。ぱっと浮かんで雰囲気でいいかなと思ってしまった。

だから、「ふらいすとーんさん」と呼ばれるたびに、いつも心のなかでごめんなさいっ!って思っています。だって言いにくいでしょ。1)ふらさん?ふらいさん?ふらいすさん?ふらすとさん?略すこともしにくい。2)7文字ですよ、姓名フルネームと同じほどある。3)横棒あるからさらに長く感じる。4)呼び捨てにできない+さんで9文字になる。5)英語表記・略号もしにくい。

もうほんと欠点しか見当たらない(苦笑)。ツイッターをやるようになってなおさら思います。ひらがなでこうとしか書けない。人と交流するようになってなおさら思います。文字数とるし発音するのもちょっと尺とるし。本気で改名しようかなと思ったこともあるくらい。でも、なんぼのもんじゃいってね、そうなります。

だから、ネームを付けるときは、もしかしたら自分が名乗る機会があること、相手から呼ばれる機会があることを想定して付けてくださいね。ふつうはそうするのかな、ふつうはそうだよね。これからも諦めてどうぞ「ふらいすとーん」と呼んでください。よろしくお願いします。

 

そんなモチーフでした。

それではまた。

 

reverb.
呼びやすいネームってほんと憧れる。

 

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

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Info. 2022/08/20 《速報》「久石譲 シンフォニック・コンサート スタジオジブリ宮崎駿作品演奏会」(ニューヨーク) プログラム 【8/24 Update!!】

Posted on 2022/08/20

2022年8月13~18日、久石譲によるスタジオジブリ宮崎駿監督作品演奏会がアメリカ・ニューヨークにて開催されました。

2017年6月パリ世界初演、「久石譲 in パリ -「風の谷のナウシカ」から「風立ちぬ」まで 宮崎駿監督作品演奏会-」(NHK BS)TV放送されたことでも話題になりました。 “Info. 2022/08/20 《速報》「久石譲 シンフォニック・コンサート スタジオジブリ宮崎駿作品演奏会」(ニューヨーク) プログラム 【8/24 Update!!】” の続きを読む

Info. 2022/08/18 久石譲 ジブリコンサート in NY 記事(Web The Workprint より)

Posted on 2022/08/18

2022年8月13~18日開催「Music from the Studio Ghibli Films of Hayao Miyazaki/スタジオジブリ宮崎駿監督作品演奏会」(ニューヨーク)です。合唱団MasterVoicesでコンサートに参加した人による記事です。

原文に忠実であるために、オリジナルテキストそのままをご紹介します。ウェブ翻訳などでお楽しみください。 “Info. 2022/08/18 久石譲 ジブリコンサート in NY 記事(Web The Workprint より)” の続きを読む

Overtone.第73回 長編と短編と翻訳と。~村上春樹と久石譲~ Part.3

Posted on 2022/08/15

ふらいすとーんです。

怖いもの知らずに大胆に、大風呂敷を広げていくテーマのPart.3です。

今回題材にするのは『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集 1997-2011』(2010/2012)です。

 

 

村上春樹と久石譲  -共通序文-

現代を代表する、そして世界中にファンの多い、ひとりは小説家ひとりは作曲家。人気があるということ以外に、分野の異なるふたりに共通点はあるの? 村上春樹本を愛読し久石譲本(インタビュー記事含む)を愛読する生活をつづけるなか、ある時突然につながった線、一瞬にして結ばれてしまった線。もう僕のなかでは離すことができなくなってしまったふたつの糸。

結論です。村上春樹の長編小説と短編小説と翻訳本、それはそれぞれ、久石譲のオリジナル作品とエンターテインメント音楽とクラシック指揮に共通している。創作活動や作家性のフィールドとサイクル、とても巧みに循環させながら、螺旋上昇させながら、多くのものを取り込み巻き込み進化しつづけてきた人。

スタイルをもっている。スタイルとは、村上春樹でいえば文体、久石譲でいえば作風ということになるでしょうか。読めば聴けばそれとわかる強いオリジナリティをもっている。ここを磨いてきたものこそ《長編・短編・翻訳=オリジナル・エンタメ・指揮》というトライアングルです。三つを明確な立ち位置で発揮しながら、ときに前に後ろに膨らんだり縮んだり置き換えられたり、そして流入し混ざり合い、より一層の強い作品群をそ築き上げている。創作活動の自乗になっている。

そう思ったことをこれから進めていきます。

 

 

今回題材にするのは『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集 1997-2011』(2010/2012)です。

インタビューごとに、その時書き上げた本・翻訳した本などが話題の中心になっています。それだけにピンポイントに深い内容です。約20本近く収録されていますが、海外インタビューが半数以上を占めているのも特異です。日本ではあまり質問されないような角度(聞きにくいこと出てこない視点など)で飛び交っているのもおもしろいです。

いろいろなインタビューをわざわざまとめて一冊の本にする、多方面に拡散されたものを集める、親切だなと思います。そのニーズがたしかに存在する、すごいことだなと思います。2012年文庫化の際にインタビューが1本追加収録されているので、単行本とはタイトルの年表記が異なっています。

 

自分が読んだあとなら、要約するようにチョイスチョイスな文章抜き出しでもいいのですが、初めて見る人には文脈わかりにくいですよね。段落ごとにほぼ抜き出すかたちでいくつかご紹介します。そして、すぐあとに ⇒⇒ で僕のコメントをはさむ形にしています。

 

 

 

”それ以来僕の小説はどんどん分厚くなっていきました。そしてストラクチャーはどんどん複雑になっていった。新しい小説を書くたびに、僕は前の作品のストラクチャーを崩していきたいと思います。そして新しい枠を作り上げたいと。そして新しい小説を書くたびに、新しいテーマや、新しい制約や、新しいヴィジョンをそこに持ち込みたいと思います。僕はいつもストラクチャーに興味があるんです。ストラクチャーを変えたら、それにつれて僕は自分の文体を変えなくてはなりません。文体を変えたら、それにつれて登場人物のキャラクターをも変えなくてはなりません。同じことばかりいつまでもやっていたら、自分でも飽きてしまいます。僕は退屈したくないのです。”

~(中略)~

⇒⇒
ある創作家にとっては、自分のオリジナリティその一点を極めていくという道もあると思います。村上春樹さんのように、ある意味で自分の作家性をどんどん解体していくことで、より新しく多くのものを取り入れ強固なものにしていく。久石譲さんもまたこれと同じような道、そんな気もしています。たぶん、変化を希求しているし、変化することは自然なことなんです。

 

 

”翻訳って、手を入れれば入れるほどよくなるものだから、改訳できる機会があるというのは、翻訳者にとってはありがたいことなんです。単行本と文庫と全集とで、少しずつ訳が変わっているものもあります。三十代のときに訳したものは、僕もけっこう若いし、今読み返してみると、訳文にも不思議な若々しさみたいなものがある。カーヴァーの全体像がまだよく見えていないので、ちょっとニュアンスが違っているところもあって、それはそれで面白いんだけど、全集というかたちになると、やはり統一感みたいなものは必要になってきますよね。これからもまた機会があれば少しずつヴァージョンアップしていきたいと思います。”

~(中略)~

⇒⇒
これを読みながら、多くの指揮者が年齢を重ねるごと同じ作品に向き合いなおしていること、少し理解が深まりました。たとえばカラヤンも40代の頃と70代の頃の指揮とではずいぶん違います。あるいは、指揮者がベートーヴェン交響曲の中からひとつを扱っていた頃と、全集としてまとめあげるようになった頃とでは、経験と解釈も変わっていてしかり。そんなことも思いました。作曲家の作品を順番に追っていくことで見えてくることもあるのかな、とか。

訳が若い、指揮が若い、ピアノ演奏が若い。たしかにそういうふうに感じることってあります。不思議です。そこへ年齢を重ねた新テイクも並んで、溌溂と円熟を比べることができることの幸せってたしかにあります。

 

 

”僕はそれは非常にありがたいことだと思うんですよ、実際の話。そんなふうに同じ本を二度三度くり返し読んでくれる人って、今の世の中にそんなにいないですからね。情報が溢れかえったこんな忙しい時代に。作者としてはただもう感謝するしかない。しかし、僕がこんなこと言うのはなんだけど、何度読み返したところで、わからないところ、説明のつかないところって必ず残ると思うんです。物語というのはもともとがそういうもの、というか、僕の考える物語というのはそういうものだから。だって何もかもが筋が通って、説明がつくのなら、そんなのわざわざ物語にする必要なんてないんです。ステートメントとして書いておけばいい。物語というかたちをとってしか語ることのできないものを語るための、代替のきかないヴィークルなんです。極端な言い方をすれば、ブラックボックスのパラフレーズにすぎないんです。

僕はだからこそ、できるだけ読みやすい文章で小説を書きたいと思うんです。そしてできることなら時間を置いて読み返してほしい。それだけの耐久性のあるタフな文章を僕は書きたいと思っています。

このあいだブライアン・ウィルソンが日本に来て、『スマイル』ツアーをやって、聴きに行ったんだけど、僕はライブで、『スマイル』というアルバムが目の前で、頭から順番通りに実際に演奏されるのを見て、それで初めて「そうか、うーん、『スマイル』というのはこういう音楽世界だったんだ!」と理解できたところがあったんです。はたと膝を打つところがあった。一九六六年くらいに基本的に作られたアルバムで、これまでにいろんなかたちでずいぶん繰り返し聴いてきたんだけど、でも全体像が僕なりに正確に理解できるまでに、結局四十年くらいかかってるわけです。そういうのってすごいことですよね。『ペット・サウンズ』にもそういうところがありますよね。これも理解できるまでにずいぶん歳月がかかりました。僕は『ペット・サウンズ』とか『スマイル』の中の曲の多くも、出てきたときにリアルタイムで聴いているわけだけど、それから四十年近く、実人生をかけて少しずつ理解できていたという実感があります。そういう意味合いでは、ブライアン・ウィルソンという人の提出する「物語性」の強烈さというか、「文体」の強靭さ、その奥行きの深さに、同じ表現者として感じるところはあります。”

~(中略)~

⇒⇒
ちょっと長い引用になってしまいました。とても気に入っているところです。”物語というかたちをとってしか語ることのできないものを語るための~”。ということは、同じく「音楽というかたちをとってしか語ることのできないものを語るための~」になりますね。たしかに。

もうひとつ、アルバムを理解できるまでに40年近くかかったという実体験のお話。これ、好きなアーティストあるあるエピソードだと思います。久石譲アルバムもそう。今になって初めて気づくことってたくさんあります。

 

 

”そうですね。音楽はいろんな意味で僕を助けてくれます。二十代のときにはジャズの店を経営していて、来る日も来る日も朝から晩までジャズを聴いていました。音楽は僕の身体の隅々まで染み込んでいたと言っていいかもしれません。そして今もそこに留まっています。二十九歳のときに小説を書こうと思ったとき、僕には小説の書き方がわかりませんでした。それまで日本の小説をあまり読んだことはなかったし、だからどうやって日本語で小説を書けばいいのか、見当もつきません。でもあるとき、こう思ったんです。良い音楽を演奏するのと同じように、小説を書けばそれでいいんじゃないかと。良き音楽が必要とするのは、良きリズムと、良きハーモニーと、良きメロディー・ラインです。文章だって同じことです。そこになくてはならないのは、リズムとハーモニーとメロディーだ。いったんそう考えると、あとは楽になりました。そして『風の歌を聴け』という作品を書き上げました。楽器を演奏するのと同じような感じで書いたんです。僕の文章にもし優れた点があるとすれば、それはリズムの良さと、ユーモアの感覚じゃないかな。それは今に至るまで、僕の文章について基本的に変わらないことだという気がします。”

~(中略)~

⇒⇒
小説の書き方が音楽にあるっておもしろいですね。さらっと読むと、よくわかるとも思うんですけれど。じゃあ説明してと言われたら実はすごく難しい。たぶん、とても深いことなんです。

 

 

”人称による書き分けというのはとても大事なので(少なくとも僕にとっては大事なことなので)、短編小説でいろいろと試してみます。そして長編小説で何をすればいいのか、どんなことができるのか、と考えます。いわば実験台のようなものです。ヴォイスのあり方や、視点の動きを、あれこれと実地に試験してみます。喩えは物騒だけど、軍隊が局地戦で兵隊の性能や、戦略の有効性を実地に試してみるのと同じように。僕の場合は、短編小説でまず何かを試し、中編小説でそれをさらに進展させ、最後に万全のかたちで長編小説に持ち込みます。はっきり言ってしまえば、長編小説が僕にとっての主戦場なのです。だから短編小説を書くときには、そのたびにテーマを決めて、いろんな新しいことをやってみます。短編小説で失敗しても傷は小さいけれど、長編小説で失敗すると命取りになります。”

~(中略)~

⇒⇒
よく語られる内容で、同旨Part.1にもあります。

ちょっと見方を変えて。ということは、短編小説での実験はある種むき出しでもある。万全に扱えるようになった長編小説のときには、きれいに整えられ巧みに隠さたりもしている。習得極め操れるようになる前の短編小説には、ありありと刻まれたさまや勢いのようなものがあるのかもしれない。

久石譲のMFコンサートで意欲的に発表される中規模の新作しかり、自らのシステムで進化させる単旋律(Single Track Music)手法しかり。小さな曲や小さな編成から試されながら、手応えと磨きあげをもって交響作品にまでなっています。逆方向から見ると、シンプルなSingle Track Music手法は中規模作品でありありとむき出しに刻まれている、に等しいです。うん、すごくよくわかる。

 

 

”僕は二十九歳になるまでまとまった文章を書いたことがありませんでした。ただ音楽を聴いて、本を読んでいました。自分で何かを書きたいとは思っていませんでした。でも二十九歳になって突然に、何かを書きたくなったのです。書き方なんて分かりませんでした。どうやって小説を書けばいいのか分からなかったのです。それで考えたのが、音楽を演奏するみたいに書けるのではないか、ということでした。僕はピアノを弾きましたから。僕に必要だったのは、リズムとハーモニーと即興性(インプロヴィゼーション)でした。即興性ということから僕は多くを学んだと思います。ちょうどメロディーを即興で演奏するように、僕は物語を書きます。僕はジャズが大好きですが、ジャズというのは即興の音楽です。僕にとっては、書くことも即興の一種です。自分が自由でなくてはなりませんから。だから、もしあなたが僕の本を読みながらそこに音楽を聴きとってくれるとしたら、僕はとてもうれしいです。多くの人から音楽について、僕の作品のテーマであるとか作品の意味を表しているとか言われますが、僕はテーマにせよ意味にせよ、何かの目的を持って音楽のことを書いているわけではありません。テーマや意味はそんなに重要な問題ではありません。僕にとって大切なのは、僕の物語を通じてあなたが音楽を聴きとってくれることなのです。

そうです。音楽がなくてはいけません! もしその文章にリズムがあれば、人はそれを読み続けるでしょう。でももしリズムがなければ、そうはいかないでしょう。二、三ページ読んだところで飽きてしまいますよ。リズムというのはすごく大切なのです。”

~(中略)~

⇒⇒
よく語られる内容で同旨あります。

 

 

少し追加します。

テーマからは横道になりますけれど、とても印象に残っているページです。

 

”バッハとモーツァルトとベートーヴェンを持ったあとで、我々がそれ以上音楽を作曲する意味があったのか? 彼らの時代以降、彼らの創り出した音楽を超えた音楽があっただろうか? それは大いなる疑問であり、ある意味では正当な疑問です。そこにはいろんな解答があることでしょう。

ただ、僕に言えるのは、音楽を作曲したり、物語を書いたりするのは、人間に与えられた素晴らしい権利であり、また同時に大いなる責務であるということです。過去に何があろうと、未来に何があろうと、現在を生きる人間として、書き残さなくてはならないものがあります。また書くという行為を通して、世界に同時的に訴えていかなくてはならないこともあります。それは「意味があるからやる」とか、「意味がないからやらない」という種類のことではありません。選択の余地なく、何があろうと、人がやむにやまれずやってしまうことなのです。

二十世紀の末から、二十一世紀の初めにかけて、僕が一連の小説を書いたことにどのような意味があったのか、それは後世の人が判断することです。時間の経過を待つしかありません。ただ僕としては、意味があるにせよないにせよ、「書かないわけにはいかなかったんだ」ということなのです。”

~(中略)~

⇒⇒
正座して読みたい。かぶせるコメントもない。

「クラシックで音楽は完成してるからそれしか聴かない」「ロックはあの時代がピークだからそれだけ聴いておけばいい」なんて人もいるようで。今の時代を生きているのに、ほんともったいない。

 

 

”小説に関しても、他のことに関してもそうだけど、「誤解の総体が本当の理解なんだ」と僕は考えるようになりました。『海辺のカフカ』に関して読者からたくさんメールをもらって実感したことは、そこにはずいぶんいろんな種類の誤解やら曲解やらがあるし、やたらほめてくれるものもあれば理不尽にけなすものもあるんだけど、そういうものが数としてたくさん集まると、全体像としてはものすごく正当な理解になるんだな、ということでした。そこには、ちょっと大げさにいえば、感動的なものがありました。だから逆にいえば、僕らは個々の誤解をむしろ積極的に求めるべきなのかもしれない。そう考えると、いろんなことがずいぶんラクになるんですね。他人に正しく理解してもらおうと思わなければ、人間ラクになります。誰かに誤解されるたびに、見当違いな評が出るたびに、「そうだ。これでいいんだ。ものごとは総合的な理解へと一歩ずつ近づいているんだ」と思えばいいんです。逆にいえば、小説家というのは、あるいは小説というのは、そんなに簡単に正確にぴっと外から理解されてしまっては、むしろ困るんじゃないかと。そんなことになったら、僕らはもうメシを食っていけなくなるんじゃないかと。”

~(中略)~

⇒⇒
一つの正解を求めるのとは別ものです。ここで語られているのは、答え合わせじゃなくて理解を深めるということ。たった一つの意見が一般論になってしまう危険性を対にみたときに、相当数の意見があってこそ総合的に複合的に立体的にその解はつくられていく。たとえ誤解が含まれていたとしても、意見の数が多いということはとても大切なことなんです。

多くの人に愛されているスタジオジブリ作品。見た人の数だけ受けとめ方があって、それが飛び交ってぶつかって磨かれて。だから、今多くの人たちが共有して理解を深めることができている。そういう感じのことだと思います。だからね…音楽だって語らなければ理解は深まらない、いかに言葉にすることが難しい芸術だからといって…諦めてはいけない。

 

(以上、”村上春樹文章”は『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集 1997-2011』より 引用)

 

 

 

今回とりあげた『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集 1997-2011』。村上春樹さんの作家としての姿勢や人となりを見てとれる内容です。本書あとがきには、”作家はあまり自作について語るべきではないと思っている” と書かれています。でもやっぱりファンとしてはいろいろ知ってより深く楽しみたい。

”あるいはまたその物語が生まれた事情や経緯に、多くの読者は興味を抱かれるかもしれない。執筆に関わるちょっとしたエピソードを披露して、それなりに楽しんでいただけるかもしれない。しかるべき時期に、そのような付随的なことがら、あるいは周辺事情を著者が気軽に語ることも、作家と読者との関係の中で、ある程度必要であるかもしれない、とも思う。それも僕がインタビュー依頼に応じる理由のひとつだ。”

あとがきにはこうもありました。さすがよくわかってらっしゃる!長いキャリアのなかファンをつかんできた秘訣はここにもありそうです。

 

 

-共通むすび-

”いい音というのはいい文章と同じで、人によっていい音は全然違うし、いい文章も違う。自分にとって何がいい音か見つけるのが一番大事で…それが結構難しいんですよね。人生観と同じで”

(「SWITCH 2019年12月号 Vol.37」村上春樹インタビュー より)

”積極的に常に新しい音楽を聴き続けるという努力をしていかないと、耳は確実に衰えます”

(『村上さんのところ/村上春樹』より)

 

 

それではまた。

 

reverb.
ある目的をもって再読すると読むごと新しい発見がありますね。

 

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

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Info. 2023/01/06,07 「LOPPIAISKONSERTTI – HISAISHI」久石譲コンサート(ヘルシンキ)開催決定!! 【振替 8/12 Update!!】

Posted on 2021/11/03

2022年1月6日、久石譲コンサートがフィンランドのヘルシンキで開催されます。共演はヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団です。 “Info. 2023/01/06,07 「LOPPIAISKONSERTTI – HISAISHI」久石譲コンサート(ヘルシンキ)開催決定!! 【振替 8/12 Update!!】” の続きを読む

Info. 2022/08/12 ニューヨーク・タイムズ 久石譲掲載(Web The New York Times より)

Posted on 2022/08/12

アメリカで最も有名な新聞ニューヨーク・タイムズに久石譲が取り上げられました。ウェブ版・新聞の両方に掲載されました。ちょうど世界ツアーでニューヨーク公演を5day敢行している期間にあたります。

原文に忠実であるために、オリジナルテキストそのままをご紹介します。ウェブ翻訳などでお楽しみください。

 

 

The Composer Who Turns Hayao Miyazaki’s Humane Touch Into Music

Joe Hisaishi’s scores have helped make Studio Ghibli films indelible. But in concert, the works stand on their own. That’s because “it’s about emotion,” he says.

 

“Watching a film is a whole different thing from hearing the music in concert, which gives the audience a different experience,” Joe Hisaishi said. (photo:Dai Niwa)

 

Aug. 12, 2022, 10:00 a.m. ET

Alfred Hitchcock and Bernard Herrmann, Sergio Leone and Ennio Morricone, Steven Spielberg and John Williams: Some of the greatest filmmakers have cultivated enduring, mutually enriching relationships with musicians. The decades-long partnership between the Japanese animation master Hayao Miyazaki and the composer, pianist and conductor Joe Hisaishi certainly belongs in this hall of fame.

Hisaishi first worked with Miyazaki on the eco-minded science-fiction feature “Nausicaa of the Valley of the Wind,” released in 1984. He has scored every Miyazaki feature since then, composing wonderfully evocative soundtracks for such favorites as the family fable “My Neighbor Totoro” (1988); the tale of young-girl independence “Kiki’s Delivery Service” (1989); the period epic “Princess Mononoke” (1997); and the Academy Award-winning “Spirited Away” (2002), a gem about a headstrong little girl that was the runner-up on The New York Times’s list of the 25 best films of the 21st century so far.

This week, longtime fans and newcomers alike will be able to hear excerpts from those scores and more, when Hisaishi, 71, leads the American Symphony Orchestra in “Music From the Studio Ghibli Films of Hayao Miyazaki,” a series of concerts at Radio City Music Hall starting Saturday. (The performers will also include the MasterVoices choir and the Brooklyn Youth Chorus, as well as the singers Amanda Achen and Mai Fujisawa, who is Hisaishi’s daughter.)

While excerpts from the movies will be projected on a giant screen, Hisaishi’s concerts stand on their own and are not meant to be simply compilations of classic scenes backed by a live ensemble.

“Watching a film is a whole different thing from hearing the music in concert, which gives the audience a different experience,” the composer said through an interpreter in a recent video conversation.

 

Though Hisaishi’s concerts include clips from films like “My Neighbor Totoro,” they go well beyond compilations of classic scenes. (photo:Laurent Koffel/Gamma-Rapho, via Getty Images)

 

Indeed, Hisaishi built the set list as if he were putting together a single large composition, citing Mahler symphonies as a source of inspiration. “For example, the first movement is ‘Nausicaa,’ the second movement is ‘Kiki,’ the third is ‘Princess Mononoke,’ and so on,” he said.

Hisaishi (who was born Mamoru Fujisawa but goes by a stage name) is also known to make slight tweaks for concerts. “The images are screened so that you relive the emotions you had watching the film,” Marco Bellano, who teaches the history of animation at the University of Padua, Italy, said in a video chat. “But at the same time when Hisaishi plays these compositions in concert, they are not exactly in the same shape, the same arrangements they have in the films. There is a piece from ‘Porco Rosso’ called ‘Madness’ that is identical in the soundtrack and one of the concert versions, but many other pieces are completely different. It’s really remarkable how he really cares about offering a new experience.”

Rest assured that the changes are not drastic and that the concerts preserve the Hisaishi touch. Taken out of “My Neighbor Totoro,” “The Path of the Wind” (which brings to mind another great Japanese musician, Ryuichi Sakamoto) retains its tender melancholy, while “Bygone Days,” from “Porco Rosso” (1992), is still just as wistful live, halfway between jazz and French chanson.

For James Williams, the managing director of the Royal Philharmonic Orchestra in London, Hisaishi’s contributions are a perfect match for Miyazaki’s universe. “When you see those films, there’s a certain humanity about the story lines, and that’s absolutely reflected in Joe’s music,” said Williams, whose orchestra recently recorded an album of Hisaishi’s compositions. “It connects with people, regardless of their culture, and that’s really powerful. What Joe has done is somehow retain that integrity of Japanese culture, brought in that Western tonal system and found a way for the two to retain their identities in perfect harmony.”

A distinctive appeal of Miyazaki’s films is that they trust viewers, no matter how young, to figure things out on their own. Partly, this means not using music to reinforce character traits or telegraph expected responses from a viewer. Fortunately, this suits Hisaishi. “The music does not need to match every character,” he said. “Rather, it’s about emotion, something the character might be feeling. And at the very deepest of a movie, the music doesn’t need to tell anything related to the character or even the feelings,” he continued. “There’s already something that the audience might be feeling just watching the film.”

“Castle in the Sky,” released in Japan in 1986, neatly illustrates the way the Miyazaki-Hisaishi approach — which also involves knowing when not to score a scene — is different from that commonly found in American animation. In 1999, Hisaishi not only reworked his existing score for that film’s American release, by Disney, but he vastly expanded it, adding music in scenes that previously did not have any.

 

For the American release of “Castle in the Sky,” Hisaishi reworked and expanded the score used in the Japanese version. (photo:Studio Ghibli)

 

Hisaishi also refrains from recycling catchy musical phrases over and over within the same movie. “From ‘Howl’s Moving Castle’ on, you find more this idea of leitmotif, but it’s different from the Hollywood style, where the leitmotif appears very clearly and is very easy to remember,” Bellano said. “With Miyazaki and Hisaishi, that melody appears when it’s needed and is not repeated many times.”

Hisaishi does write stand-alone pieces, including symphonies, and has worked with other feature-film directors — most famously Takeshi Kitano, for whom he scored such 1990s high-water marks as “Sonatine,” “Fireworks” and “Kids Return.”

“I started my career as a minimal composer,” Hisaishi said, “and I use more my melodic side in Miyazaki movies and my minimalist side in Kitano movies — they are closer to what originally drew me to music, style-wise.”

Still, it is his work with Miyazaki that has placed him solidly on the international music map.

Over the decades, the two men developed an intricate working method involving a lot of back and forth. Early in the production process, Miyazaki would give Hisaishi an idea of the story, some sketches, sometimes just a few words. Based on those meager elements, the musician would come up with a so-called image album (which would receive a commercial release down the line). “For ‘Princess Mononoke,’ an early word Miyazaki-san mentioned was tension, as in an arrow’s tension,” Hisaishi said, using the Japanese honorific. He added that this inspired him to write a piece that “eventually became the title theme.” Once the film was ready, Hisaishi would write the score, which could also be released in a symphonic suite version.

The composer has not slowed down. In fact, being home during the pandemic further spurred his creativity — and led to an epiphany of sorts that Hisaishi evoked in terms that felt Miyazakian.

“It took me seven years to write my first symphony, but in 2020 and 2021, I finished two,” he said, referring to “Dream Songs” and “Songs of Hope.” That experience “made me realize I have a mission as a composer. People watch this changing world and are so disappointed: Where is happiness? What is going on? Look at what’s going on in Ukraine,” he continued. “This is not something we expected to happen again in the 21st century. As a composer, I need to see the world as it is, but I also can’t be disappointed: We do need hope for the future.”

 

A version of this article appears in print on Aug. 13, 2022, Section C, Page 1 of the New York edition with the headline: Follow the Emotions For a Humane Touch

 

出典:The Composer Who Turns Hayao Miyazaki’s Humane Touch Into Music – The New York Times
https://www.nytimes.com/2022/08/12/movies/studio-ghibli-composer-joe-hisaishi.html