報告編:久石譲がカンヌで指揮 出来は「完全」

連載 ハウルの動く城 久石譲

連載 久石譲が挑む「ハウル」の動く音 (読売新聞)
報告編:久石譲がカンヌで指揮 出来は「完全」

今年のカンヌ国際映画祭で、作曲家でピアニストの久石譲が、バスター・キートンの無声映画「キートン将軍」(1926年)のデジタル修復版の上映に合わせて、オーケストラの指揮を務めた。映画史に輝く作品を集めた特集上映「カンヌ・クラシックス」の終幕を飾る催しで、映画祭最終日前日の5月22日に行われた。

久石は、この秋、修復版をDVD化するフランスの映画会社の依頼で、「キートン将軍」用のオリジナル音楽を書き下ろした。上映会では、現地のオーケストラが、計22曲を1時間15分にわたって披露。叙情的、かつ胸はずむような久石サウンドが、作品に新たな命を吹き込んだ。映像とぴったり合った演奏が終わると、総立ちの観客から拍手喝采(かっさい)を浴びた。

久石はこれまで、宮崎駿監督や北野武監督の作品など、数多くの映画音楽を手がけているが、サイレント映画は初めて。「クールでスラップスティック」なキートン作品が好きだったということに加え、「効果音やせりふに縛られず、100%音楽で表現できる」ことにも大きな魅力を感じて、音楽監督を引き受けたという。

「映像における音楽は想像以上に重要。世界観とか感情とかは、結構、音楽が決めていると思うんです」

現地オーケストラとの練習時間は、本番前日のみ。だが、出来は「完ぺき」だったという。

「映像と合わせるため、1曲の中でもめまぐるしくテンポが変わる。それを22曲、75分間やり続けるのは、人間の生理的に無理なのではと思った。だが、このオーケストラの人たちは素晴らしかった」

カンヌの観衆の反応には「やっぱり、ぐっと来ました。コンサートをやり終えた時の感じ。日本でもやりたいなあと思いました」と満足そうだった。(読売新聞夕刊芸能面より)

(2004年6月4日 読売新聞)

 

連載 ハウルの動く城 久石譲

 

第18回:「さぁ、帰ろう」

連載 ハウルの動く城 久石譲

連載 久石譲が挑む「ハウル」の動く音 (読売新聞)
第18回:「さぁ、帰ろう」

2004年5月12日。前日に宮崎駿監督と「ハウルの動く城」の最後の音楽打ち合わせを終えた久石譲は、都会の喧噪を離れて作曲に没頭する「恒例行事」のため、山梨・河口湖のスタジオへ合宿に向かった。

河口湖では、6月29、30日に予定されているオーケストラ録音に向け、集中的に作曲を行う。16日までの5日間で、全30曲の原形を作るのが目標だ。

慌ただしい日程だが、久石には、この期間でめどをつけたい理由があった。フランスの制作会社の依頼で音楽をつけたバスター・キートンの無声映画「キートン将軍」(1926年)を、翌週の第57回カンヌ国際映画祭で上映する際、久石の指揮で現地のオーケストラが生演奏するのだ。

世界中の映画関係者が注視するカンヌは、失敗が許されない現場。緊張が久石を襲っていた。「初めて一緒にやるオーケストラなのに、現地でのリハーサルは一日のみ。できれば、『ハウル』の完成が見えたすっきりした状態でカンヌに臨みたい」

久石は、河口湖に到着するなり、スタジオにこもった。ジブリから届いた映像と絵コンテをもとに、作曲にとりかかる。平行してオーケストラ用の編曲を行うという過酷な作業だが、迷うことなく音を重ねていった。すべての楽器の音を次々に演奏する「一人オーケストラ」だ。

初日は3曲を完成させた。出来上がった音は、シンセサイザーで打ち込んだとは思えない迫力のオーケストレーション。「いいペース。大丈夫、いけるよ」

「ハウル」の音楽は、事前に作られたイメージアルバムの流れをくみ、正統派のオーケストラサウンドを目指している。「いつもなら、民族楽器やシンセサイザーの音を織りまぜるけど、今回は合わないと思った。19世紀末のヨーロッパを舞台にしている以上、すべての音がオーケストラの楽器によって成り立っているようにしたかったんだ」

夕食の準備をしていたスタッフが、テーマ曲「人生のメリーゴーランド」を口ずさむ。「このメロディー、大好きです」

気分転換のために卓球台も持ち込まれた

2日目も勢いが止まらず、場面展開の多い難曲を完成させた。「静寂の中にいると集中できる。東京では、なかなかこうはいかないよ」

合宿に同行した久石の拠点スタジオ「ワンダーステーション」のエンジニア浜田純伸は、山奥のスタジオの利点をこう語る。「都会には心地よい静寂がありません。もちろん防音によって人工的に無音を作り出すことはできるけど、それは静寂とは違う。ひっそりとした音がして、初めて静寂と呼べる。だから集中できるんです」

好環境を創作に活かすため、合宿ではいつも規則正しく過ごす。10時に起床、散歩をして、11時からブランチ。昼からスタジオに入って、ひたすら作曲。19時から食事を取り、再びスタジオへ。24時頃まで作業後、卓球で汗を流して、午前2時に就寝。これが毎日続く。

3日目は、夕食前に3曲が上がった。しかし、この日も順調かと思った矢先、突如体調が崩れ、仮眠を取ると言い出した。「急に体が重くなって……」と元気がない。

体調を気づかい、東京からチーフマネージャーの岡本郁子が駆けつけた。「もうすぐカンヌもあるのに」と頭を抱える。

スタジオ周辺は標高が高いため、5月でも朝夕は冷え込む。ちょっとした隙に風邪のウイルスにつかまってしまったようだ。

岡本がスケジュール帳を見つめる。「カンヌも大事だけど、『ハウル』は久石が集大成を目指している作品。日程的にきつくなるけど、一度体を休めて、仕切り直した方がいいかも知れない」

仮眠から目覚めると、話し合いが始まった。「作業を続けたい」と主張する久石に、岡本は、翌朝帰京し、一度「ハウル」から離れることを提案した。やりとりは深夜に及んだが、久石はこの提案を受け入れた。

岡本が振り返る。「日程が詰まっている方がいい曲ができることもあれば、そうじゃない場合もある。その時々で久石がもっともいい曲を作れる選択肢を選ぶのが、自分の仕事。あの時は、一旦距離を置くのが『ハウル』のためだった」

翌朝の久石は、顔色こそすぐれなかったものの、どこかすっきりしているように見えた。話し合って出た結論に納得したのだろう。朝食を食べながら、スタジオ周辺に花粉が多いことを話題に笑う。「花粉の飛ぶ時期にコンサートをやると、ピアノを弾きながらくしゃみすることもあるよ。うずくまってごまかすけど」

久石は、車のシートに深く身を沈めた。「さぁ、帰ろう」

「ハウル」のための、一時休戦宣言だった。(依田謙一)

(2004年5月20日 読売新聞)

 

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第17回:「主題歌の条件」

連載 ハウルの動く城 久石譲

連載 久石譲が挑む「ハウル」の動く音 (読売新聞)
第17回:「主題歌の条件」

映画と主題歌の関係について、少し考えたい。

主題歌と劇中音楽の「役割分担」は難しい課題だ。久石もかつて、自身の著書「Iam」のなかで、主題歌を用いることに対し、「よほど細心の注意を払って使わないと、映画の内容とチグハグになって、かえって白けることも多い」と指摘している。

確かに、宣伝目的で内容と関係ない主題歌を取り入れる映画は、依然として存在する。エンドクレジットで、突然、不釣合いな主題歌が流れてがっかりした経験は、誰にもあるだろう。

しかし久石は、同書で「観客に直接訴える分、感動も大きいし、理解も深められる」と記している通り、主題歌の存在そのものを否定しているわけではない。例として「ティファニーで朝食を」(1961年)のヘンリー・マンシーニによる主題歌「ムーン・リバー」を挙げ、「映画のテーマ曲の理想」と讃えている。

映画にとって、理想的なテーマ曲とは何だろう。久石は「歌でも、インストゥルメント(器楽曲)でも、どっちでもいける曲」と定義する。

映画音楽の中心となるテーマ曲は、作品中で何度も使用される。「ムーン・リバー」のメロディーは、主題歌としてはもちろん、様々な場面の要求、編曲に耐えうる力を持っており、最近のテレビドラマなどで見られる「歌のために作られたメロディーを、安易に編曲したもの」とは、一線を隠す。

久石はさらに強調する。「主題歌は、楽器のみで演奏してさまにならなければ意味がない」

その考えを実践したのが、宮崎駿監督と組んだ2作目の作品「天空の城ラピュタ」(86年)だろう。同作の主題歌「君をのせて」は、繰り返し登場するテーマ曲の到達点として、物語を締めくくる。

続く「となりトトロ」(88年)では、作品のイメージそのままの「せいいっぱいに口を開き、声を張りあげて歌える歌」という監督の要望に久石が応え、今や誰もが知っている「さんぽ」が生まれた。

スタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーによれば、宮崎監督は「映画には主題歌があってほしいと思っている人」だ。だからこそ、主題歌は大切な「作品の一部」でなければならない。

久石による主題歌を採用していない「魔女の宅急便」(89年)や「紅の豚」(92年)でも、その信念は一貫している。

もちろん、「ハウルの動く城」の主題歌「世界の約束」(作詞・谷川俊太郎、作曲・木村弓)でも。

監督には、谷川が書いた「涙の奥にゆらぐほほえみは」で始まる歌詞が、どうしても必要だった。

しかし、一方で、久石が作曲した劇中音楽と明らかに違うメロディーを、どうやって作品内で一体化させるかという課題が生まれた。

久石は、これを解決するため、新しい試みに挑んだ。自ら新たに同曲を編曲し、テーマ曲のメロディーを織り込んで、作曲者が違う曲を一つのものとして表現したのだ。久石が自身のものでない主題歌を編曲するのは、初めてのことだ。

果たして、その結果は──。(依田謙一)

(2004年5月14日 読売新聞)

 

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第16回:「歌うっていいなぁ」

連載 ハウルの動く城 久石譲

連載 久石譲が挑む「ハウル」の動く音 (読売新聞)
第16回:「歌うっていいなぁ」

「天空の城ラピュタ」(1986年)「となりのトトロ」(88年)「もののけ姫」(97年)──。これらの宮崎駿監督作品に共通するのは何か。

答えは、音楽と主題歌の両方を久石譲が手掛けているという点だ。これに対し、「魔女の宅急便」(89年)「紅の豚」(92年)「千と千尋の神隠し」(2001年)では、久石は劇中音楽のみ担当している。

主題歌が決まる過程は様々だ。「もののけ姫」では、宮崎監督がカウンターテナー米良美一の声を偶然耳にしたことがきっかけとなったし、荒井由実を採用した「魔女の宅急便」では、鈴木敏夫プロデューサーの熱烈な推薦があった。

では「ハウルの動く城」の場合はどうか。

今回、選ばれたのは、作詞・谷川俊太郎、作曲・木村弓による「世界の約束」。もともと木村が2003年に発売したアルバム「流星」に収録されていた曲だが、それを聴いた監督が、「涙の奥にゆらぐほほえみは」で始まる歌詞を気に入ったのが、決め手となった。

歌うのは、主人公ソフィーの声を演じる倍賞千恵子。倍賞は毎年コンサートを行っており、歌声には以前から定評がある。鈴木プロデューサーも「山田洋次監督の『下町の太陽』で倍賞さんが歌う主題歌を聴いて以来、大ファンだった」という。主演声優が主題歌も歌うのは、ジブリ作品では初めてのことだ。

04年5月8日。宮崎監督立会いのもと、久石の拠点スタジオ「ワンダーステーション」で、主題歌録音が行われた。

「初めての方ばかりで緊張する」と言いながらスタジオに現れた倍賞をリラックスさせるため、編曲を務めた久石が自らスタジオに入り、指揮をした。

初セッションにも関わらず、久石に引っ張られたことで倍賞と奏者は見事に合った。若干初々しさが残るも、久石は「すごい適応力」と舌を巻いた。「皆さんのおかげです」と倍賞が照れる。

歌は、2回目、3回目と繰り返す度に洗練されていった。倍賞は「メロディーを初めて聴いた時はシンプルな印象で、これなら何とか歌えそうだと思ったが、歌っているうちに木村さんの思いを強く感じて力が入った」という。

しかし、久石と宮崎監督には、高まっていく完成度とは裏腹に、何かが違うという思いが募り始めていた。「主役が歌う主題歌が、単に“上手”でいいのだろうか」

2人は、練習を録音してあったものを聴き直した。

それは、初々しさが功を奏し、ソフィーが歌っているようにも聴こえる、絶妙な感覚が詰まったテイクだった。

「こっちの方がいい」──2人とも同じ意見だった。

録音後、宮崎監督は、倍賞に向かって深々と頭を下げた。「立派な主題歌になりました」

「歌うことで表現する難しさを久しぶりに味わえました」という倍賞だったが、帰り際には、清々しい笑顔でこう言った。

「最近、CD収録が楽しくなくて、嫌だ嫌だと拒絶症にもなっていたが、皆と一緒に作り上げる創作の原点を味わったことで、自分はモノを作る厳しさから逃げていただけなんじゃないかと思った。やっぱり歌うっていいなぁ」(依田謙一)

(2004年5月10日 読売新聞)

 

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第15回:「降りる!」—後編

連載 ハウルの動く城 久石譲

連載 久石譲が挑む「ハウル」の動く音 (読売新聞)
第15回:「降りる!」—後編

「そんなことをするなら降りる!」

打ち合わせの席で、久石譲が叫んだのには理由があった。

第57回カンヌ国際映画祭で招待上映されるバスター・キートンの無声映画「キートン将軍」(1926年)に音楽を付ける試みのため、フランスの映画会社が送ってきたDVD映像と、実際に上映されるフィルムの長さが違うことが判明したのだ。

「やっと編曲が完成しようという矢先で、目の前が真っ暗になった」と久石は振り返る。

日本では映画をDVD化した際、映像の長さは変わらないが、ヨーロッパで作られたDVDは、映画よりも約4%スピードが速い。日本で採用されているNTSC方式と、ヨーロッパや中国で採用されているPAL方式の違いのために起こる現象だ。

映画のフィルムは、1秒間あたり24コマ。映画館でもっとも滑らかに動いて見えるために決められたコマ数で、世界標準となっている。対して、テレビの場合、数百本の走査線を連続して表示しているので、コマ数を増やさないと滑らかに見えない。

1秒間あたり30コマのNTSC方式では、フィルムと同じ速度を再現するために、調整が行われる。しかし、25コマのPAL方式は、フィルムのコマをそのまま当てはめるので、再生すると1秒間に1コマ分ずつ「早送り」されてしまう。

久石が渡された「キートン将軍」のDVDは、PAL方式。75分だと思っていた長さが、フィルム版では80分だったのだ。

このため、久石が準備していた“すべての動きに付き合う曲”をそのまま演奏すると、タイミングがずれてしまう。これでは、1コマ単位でタイミングを決め、丁寧に曲を作ってきた意味がない。

久石は、テンポが遅くして合わせることを求められたが、断固拒否。冒頭の「降りる!」という発言が飛び出したのだった。

「無声映画として完成した作品だったからこそ、音楽面で妥協したくなかった」──どんなに忙しくとも、過酷な条件でも、一度引き受けた仕事は決して手を抜きたくない。久石の意思は固かった。

PAL方式では、なぜフィルムと「別作品」になってしまうことを許容してきたのか。久石の拠点スタジオ「ワンダーステーション」のエンジニア浜田純伸は、こう話す。「ヨーロッパではまだまだ映画は映画館で見るものだという意識が強く、DVDを重要視していないのかも知れません」

議論の末、久石の要望どおり、カンヌでは75分版での上映が決定。予定通り編曲を完成させ、2004年4月10日、東京・早稲田の「アバコクリエイティブスタジオ」で録音に挑んだ。

久石とオーケストラは、2日間で22曲を録音。時間に追われていたものの、切迫した中で行われた演奏が、かえってキートンのせわしない動きと合った。無声映画であったことを忘れさせるほどの一体感だ。

コントロール・ルームでは、音楽に合わせたかのように転んだり走ったりするキートンの姿に、スタッフからも自然に笑みがこぼれていた。

「オーケストラのメンバーは、映像を見ずに演奏しているから、突然、別のフレーズが舞い込んだりする編曲に、不思議そうな顔をしていたよ」と久石は笑う。

無声映画である「キートン将軍」が、久石の音楽によってどう生まれ変わったのか。5月22日、久石の指揮によるライブ演奏で、すべてが明らかになる。(依田謙一)

(2004年4月22日 読売新聞)

 

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第14回:「降りる!」—前編

連載 ハウルの動く城 久石譲

連載 久石譲が挑む「ハウル」の動く音 (読売新聞)
第14回:「降りる!」—前編

「もう、死んじゃうんじゃないかって心配で」──マネージャーがそう気遣うほど、久石譲は多忙を極めていた。

2004年4月10日。久石は、東京・早稲田の「アバコクリエイティブスタジオ」で、オーケストラを前に指揮棒を振っていた。

「ハウルの動く城」の音楽制作、新日本フィルハーモニー交響楽団と結成した「ワールド・ドリーム・オーケストラ」の準備に追われながら、久石はチャップリン、ロイドと並ぶ三大喜劇王の一人、バスター・キートンの無声映画「キートン将軍」(1926年)に音楽を付ける試みに挑んでいた。

同作は、米の南北戦争を舞台に、奪われた恋人と機関車を取り戻そうと奮闘する男の物語で、キートンの代表作の一つ。久石の音楽にほれ込んだフランスの映画会社が、修復版のDVD化に合わせ、オリジナル音楽の書き下ろしを依頼した。5月に開催される第57回カンヌ国際映画祭では、招待作として上映される。

「日本ではチャップリンの方が知られているけど、キートンの作品というのは、一度観れば分かるとおり、日本のコメディアン、特に浅草の人たちがやっていた動きそのものなんだよね。実は僕らにとても馴染みがあるものだったんだ」

無声映画であるキートン作品に、音楽家としてどう挑むか。悩んだ末、久石は、当時の映画作りで築かれた方法が、様々な面で現在の映画の礎となっていることに注目。登場人物ごとにテーマ曲を作るなど、今まで避けてきた“ハリウッド的方法”に真正面から取り組むことを決意した。「やっぱり、キートンにはそういう“基本”が合う。75分の作品中、73分に音楽を付け、動きにも徹底的に付き合うことにした」

問題は、あまりに短い制作期間だった。3月上旬、全部で22曲を作曲することを決めた段階で、残された時間は、2週間となっていた。「大変だけど、一つのことに集中するより、いくつかのことが平行で進んでいる方が調子がいいんだ」

久石は、都会の喧騒を離れて気分を変える「恒例行事」のため、山梨・河口湖のスタジオに向かった。

まだ雪の残る河口湖で、食事以外はスタジオから出ることもなく、曲作りに没頭した。連日夜遅くまで続く作業で疲れても、朝、スタジオに入った瞬間、ピンと空気が張りつめる。同行したスタッフは、「体調、音楽、作業計画、全てが計算されて進んでいる」と久石のプロ根性に驚かされたという。

作曲は映像を細かく分析しながら進んだ。効果音を用いず、すべての音をオーケストラで表現するには、登場人物のアクション音なども、楽譜の上で表現しなければならない。そのため、何度も映像と音楽を合わせては修正を繰り返す。

「動きに振り回され過ぎると、音楽としての流れが悪くなる。一方で、音楽的な構造にこだわり過ぎると、映像との一体感がなくなる。徹底的に動きに付き合うということが、こんなに大変だと思わなかったよ」

それでも、オーケストレーションを3日で完成させるという驚異的な集中力で、すべての曲を完成させた。

しかし、「これで新しい命を吹き込むことが出来る」と確信し、あとは録音に向けて細かい調整をするだけだと思っていた矢先、久石に「降りる!」と言わせることになるトラブルが発生した。(依田謙一)

(2004年4月15日 読売新聞)

 

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第13回:「メッセージを乗せたいんだ」

連載 ハウルの動く城 久石譲

連載 久石譲が挑む「ハウル」の動く音 (読売新聞)
第13回:「メッセージを乗せたいんだ」

「時代に流され、ささくれ立ってしまった人々の心が、人間本来の温かさを取り戻すために何ができるのか。その答えがここにあるかもしれない」──。

2004年4月6日。久石譲は新プロジェクトを発表した。新日本フィルハーモニー交響楽団と組むポップス・オーケストラ「ワールド・ドリーム・オーケストラ」だ。

コンサートや録音での共演を通じて、互いに「何か一緒にやろう」と盛り上がり、今回のプロジェクトが実現した。

新日本フィルは1972年、指揮者の小澤征爾のもと、楽員による自主運営のオーケストラとして創立。ロックバンドのディープ・パープルと共演するなど、企画力には定評がある。97年より東京・墨田区の「すみだトリフォニーホール」を活動の拠点とし、日本で初めて本格的なフランチャイズを導入したことでも話題となった。

宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」(2001年)では、サウンドトラックの演奏を担当。「ハウルの動く城」でも参加が決まり、久石の信頼も厚い。「ポップスに対するセンスがよく、心から尊敬できるオーケストラ。一緒にできるのは、嬉しいこと」

この新しいオーケストラを、どんなものにするか。

プロジェクトの準備を進める過程で、久石にある思いが浮かぶ。「単なるポップス・オーケストラにするのではなく、何か新しい働きかけをすべきではないか」

そんな思いを抱きながら、1つの曲が書き下ろされた。祝典序曲となった「WORLD DREAMS」だ。

「夢や希望をテーマにしたこの曲が生まれたことで、このオーケストラの活動そのものに社会的意義があると確信できた」と久石は語る。

「僕たちをポップス・オーケストラと呼んでもらって構わない。ただ、アイスクリームみたいに口当たりはいいが何も残らない音楽ではなく、そこにメッセージを乗せたいんだ」

久石は自ら音楽監督を務め、6月にアルバムを出すほか、7月から始まるツアーは指揮も担当する。「もちろん、音楽的な完成も大切な目標。任期が終わる3年後には、米のボストン・ポップスを超えたい」という熱の入れようだ。

クラシックでもポップスでもない、新たなオーケストラを生むことができるのか。そして、久石が託したメッセージは届くのか。その答えは、皆さんの耳が確かめることになる。(依田謙一)

(2004年4月8日 読売新聞)

 

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第12回:「不安な自信作」

連載 ハウルの動く城 久石譲

連載 久石譲が挑む「ハウル」の動く音 (読売新聞)
第12回:「不安な自信作」

「徹底的に一つのテーマ曲でいきたい」

宮崎駿監督が久石譲に切り出した。2004年2月、「ハウルの動く城」の音楽打ち合わせでのことだ。

久石は驚いた。「通常、映画で使われる30曲程度のうち、テーマ曲は4、5曲。ところが、監督は全編を一つのテーマ曲で通したいという。今までにない提案だった」

映画音楽には、場面に応じて様々なメロディーが登場する。これを一つのテーマ曲のバリエーションで聴かせるには、相当な技術が要求される。第一線を走る久石にとっても、決して容易なことではない。

しかも監督は、1月に発売された「イメージ交響組曲 ハウルの動く城」に収録されたモチーフとは別のテーマ曲、つまり「新曲」が必要だと、久石に伝えた。

同アルバムは、あくまで交響曲として完成度を追求している。必然的に、メロディーはハーモニーやリズムと同等のものになり、これまでのイメージアルバムのように、テーマ曲になりうる「分かりやすいメロディー」があるわけではない。

アルバムを聴いた監督は、その出来に満足しながらも、テーマ曲になりうる新たな旋律を欲していた。

2人の議論は4時間に渡ったが、久石はその困難に挑戦することを決意した。

「絵コンテを読んでいるうちに、僕もどこかでそう感じていた。主人公ソフィーは、18歳から90歳になるけど、彼女の中にあるものは変わらないんだ。だから、大変だと分かっていても、やってみたいと思った」

それから、苦闘の日々が始まった。過密スケジュールの合間を縫いながら、「ハウル」に相応しい「たった一つのメロディー」を探し続けた。

そんなある日、不意に「これだ」と思える旋律が浮かんだ。それは、今までの宮崎作品にはなかった雰囲気を持ち合わせたメロディー。ダンスとも相性のいいワルツで、主人公ソフィーの「隣にいる誰か」を想像させる。「“戦火の恋”を掲げる『ハウル』にはこれしかない」という自信が体を走った。

ワルツにしたのには、別の理由もあった。「最近、自分の音楽が激しすぎると感じていた。映像と音楽は対等の関係だと思うけど、決して音楽がしゃしゃり出たいわけじゃない。だから、様式の決まったワルツにすることで、それを押さえられるんじゃないかって」

しかし、直感と同じ勢いで不安も襲ってきた。「今までの作品とはタイプの違う曲。監督が気に入ってくれるだろうか……」

4月。久石は3つの候補曲を持って宮崎監督のもとを訪れた。2曲を追加したのは、「不安な自信作」だけでは心細いという気持ちの表れだった。

久石は、テーマ曲の選定にあたって、いつもと違う方法を取った。これまではデモテープの形にして持っていくことが多かったが、今回は、監督のアトリエにあるピアノで生演奏し、選んでもらうことにした。

「特別な理由はないんだけど」と断った上で、久石はこう続けた。「『ハウル』には、それが合うと思ったんだ」

アトリエでは、監督をはじめ、鈴木敏夫プロデューサー、音楽担当の稲城和実らが顔をそろえ、ピアノを囲んだ。

どれから演奏しよう。

迷った久石が1曲目に選んだのは、人々が思う「宮崎アニメ」の路線に添った「安全な曲」。「これが選ばれるのかな」と思いながら、ピアノに向かった。

ところが、反応は今ひとつ。誰が聴いても悪い印象を持たないはずの曲なのに、何かが違った。少し重い空気が、アトリエを覆った。

2曲目。久石は雰囲気を変えようと、思い切って「不安な自信作」を弾くことにした。

メロディーが鳴った瞬間、さっきまで重かった空気の流れが変わった。宮崎監督に目をやると、身を乗り出して聴いている。

アトリエを、風が吹きぬけた──。

演奏後、監督はこの「不安な自信作」を絶賛した。「これでいきましょう」

「嬉しかった」と久石は振り返る。「僕らの仕事で一番つまらないのは、“こうなるだろう”と予想がつくこと。宮崎さんも冒険することを望んでいたんだと分かったら、胸が熱くなった」

結局この日、3曲目は演奏されることがなかった。

ちなみにどんな曲だったのか聞くと、久石は、「もう、忘れちゃったよ」と笑う。「ただ、今回も選んでもらったという事実があるだけ」

久石にとって、宮崎作品への参加は、毎回大きなハードルとなっている。「『風の谷のナウシカ』(1984年)から20年になるけど、予定調和を許さない。作品と作品の間に自分がどれだけ成長したかを常に問われているんだ」

「音楽のことは分からない」が口癖の宮崎監督だが、その感覚がいかに鋭いかを、久石は20年の付き合いで痛感している。

監督がテーマ曲を「人生のメリーゴーランド」と名づけたのがいい例だ。長調と短調の混在によって上がったり降りたりする雰囲気や、ダンスの際に回転して踊ることが多いワルツの特徴を、メリーゴーランドの動きに例えることで、正確につかんでいたのだ。「音楽のことは分からない」はずの男が、その音楽が持っているもののことはよく分かっている証拠である。

久石は、宮崎作品と言えば必ず自分が音楽をやると決まっているわけではない、と断言する。「僕は、たまたま選ばれているだけ。また次に選んでもらうためには、さらに頑張るしかないんだ」

「ハウル」の音楽はこの日、ようやくスタート地点に立った。(依田謙一)

(2004年3月29日 読売新聞)

 

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第11回:「祝福したい関係」—後編

連載 ハウルの動く城 久石譲

連載 久石譲が挑む「ハウル」の動く音 (読売新聞)
第11回:「祝福したい関係」—後編

久石譲の初ソロアルバム「インフォメーション」は、1983年にジャパンレコードから発売された。

ジャパンレコードは、現在の徳間ジャパンコミュニケーションズの前身で、徳間書店を中心とした徳間グループの一角。その徳間グループがメディアミックス型で進めていたのが、雑誌「アニメージュ」で宮崎駿監督が連載していた漫画「風の谷のナウシカ」のアニメーション映画化だった。

このプロジェクトの一員だったジャパンレコードの担当者が、「ナウシカ」に音楽面から参加するため、無名だった久石を推薦することを思い立つ。

これが、宮崎監督との出会いのきっかけだった。

すでに著名だったある作曲家がサウンドトラックの「本命」にほぼ決まっていたため、久石はイメージアルバムへ推薦される。

宮崎監督とプロデューサーと務めていた高畑勲は、久石の名前も知らず、音楽を聴いたこともなかった。ミニマルを中心とした久石の音楽を資料用に渡された高畑は、当時を振り返り、「ほしいと思っていたエスニックな“根っこ”からはほど遠く、あまり参考にならなかった。大丈夫かなと思った」と語る。

今では、宮崎・久石コンビの重要な創作モチーフとして重要な役割を果たしているイメージアルバムだが、「ナウシカ」製作委員会は公開前に映画を盛り上げていく材料に使おうとしていた。どうやら、久石は「失敗もアリ」の状況で実験的に起用されたのが真相のようだ。

一方の久石も、「さすがの猿飛」などのテレビシリーズで音楽を担当したことはあったが、映画音楽は経験がなかったうえ、宮崎監督の作品を観たことがなかった。

そうして83年夏、お互いのことをほとんど知らないまま、久石と宮崎監督、高畑の3人は東京・阿佐ヶ谷の「ナウシカ」準備室で初めて出会う。机が一つか二つのがらんとした部屋には、イメージ画だけが何枚も張られていた。

監督は、あいさつもそこそこに、絵の説明を始めた。音楽の話はなく、自分がやりたい映画について、熱心に語るだけだった。

久石は、監督の情熱に驚かされながらも、すぐにその姿勢に胸を打たれた。「すごく優しい、いい人だ。本当にのめりこんで、真剣に取り組んでいるんだと思った」(久石譲著「Iam」より)

高畑監督が振り返る。「あの時点で、久石さんは燃えたと思う」

打ち合わせ後、久石のもとに、監督から「腐海」「メーヴェ」など、イメージを言葉にしたキーワードが届いた。久石は、これらをもとに、作曲に取り組み始めた。

この頃、頭の中が音楽で溢れ、創作意欲に満ちていたという久石は、「曲作りで苦労した覚えはない」というほど、次々とモチーフを生んでいった。「楽器に触れさえすれば、すべて音楽になったといっても過言じゃなかった」

テーマ曲である「風の伝説」も、朝起きてピアノに座り、30分ほどで作られた。本編を担当することが決まっていなかったため、ストーリーを意識する必要がなく、音楽に没頭できたのも幸いした。

こうして、「ナウシカ」のイメージアルバム「鳥の人」が完成。宮崎監督と高畑はこのアルバムがいっぺんで気に入った。特に、メロディーの秀逸さに2人は心を奪われた。

これが、久石には意外なことだった。

稀代のメロディーメーカーとして知られる久石も、当時はドラムの音をどう鳴らすか、シンセサイザーの音色をどうするかといったサウンドにこだわっており、自分のメロディーに魅力があることに気がついていなかった。

「底に流れているメロディーの温かさがいい。新しくも古くもない、時代を超えた音楽ですね」──監督が久石に言った言葉は、「ナウシカ」のテーマでもあった。

視聴用テープを繰り返し聴きながら、監督は絵コンテを書き続けた。気がつけば、頭の中は久石の音楽でいっぱいだった。

答えは、決まった。「本編も、久石さんにお願いしたい」

ところが、製作委員会はこれを拒否。映画の興行的成功のために、知名度を優先する声は根強かった。

この時、久石を起用すべく熱心に説得して回ったのが、高畑だった。「必要な複雑さに到達しているイメージも、分解すれば、単純明快な要素の組み合わせであり、感情の表出は直接的であるよりは、情況の中で支えられる必要がある」(高畑勲著「映画を作りながら考えたこと」より)──アニメーション・ファンタジーにおける音楽の理想をこう考えている高畑にとって、久石の登場は、まさに待望久しいものだった。

公開を翌年3月に控えた83年の年末まで人選は難航したが、高畑による根気強い説得の結果、製作委員会はこの提案を受け入れた。久石は「高畑さんが先頭に立ってくれたと後で聞き、本当に嬉しかった」と語る。

こうして、久石は「ナウシカ」で初めて映画音楽に挑むことになった。

高畑が振り返る。「監督と作曲家は常に緊張関係にある。どんな音楽が返ってくるか、いつも心配。だからこそ、2人のようなコンビが生まれたことは幸せだと思う。祝福したい関係ですよ」(依田謙一)

(2004年3月22日 読売新聞)

 

連載 ハウルの動く城 久石譲

 

第10回:「祝福したい関係」—前編

連載 ハウルの動く城 久石譲

連載 久石譲が挑む「ハウル」の動く音 (読売新聞)
第10回:「祝福したい関係」—前編

「これまでの集大成としたい」──久石譲は、インタビューで「ハウルの動く城」への意気込みを聞かれると、必ずこう答えている。

数々の名作を世に送り出してきた宮崎駿・久石譲コンビの「総決算」である同作のサウンドトラック制作の様子を伝える前に、2人の出会いについて触れておきたい。

2人が初めて出会ったのは、1983年の夏。翌年公開予定だった「風の谷のナウシカ」のイメージアルバムの打ち合わせのためだった。41年生まれの宮崎監督はこの時43歳。

一方、50年生まれの久石は32歳。大学時代から取り組んできたクラシックに決別し、ポップスに活動の場を移したアルバム「インフォメーション」を前年に発売した後だった。

当時の久石にとって、クラシックへの決別は、大きな決意の表れだった。

久石が作曲家を志したのは20歳の時。テリー・ライリーの「A Rainbow in Curved Air」に魅せられ、ミニマル音楽の作曲家になろうと決めた。ミニマルとは、短い音のパターンをひたすら反復する音楽で、ライリーはその「発明者」だった。

延々と続くフレーズのなかで、繊細な変化を重大なものとして響かせるため、どこを切り取っても「同じ体験」として聴けるのがミニマルの特徴だ。小さい頃から西洋音楽を習い、始まりがあって終わりがあるのが音楽だと思っていた久石にとって、この方法はあまりに衝撃的だった。始まりが終わりでもあり、過去が未来でもあるという独特の時間のとらえ方に、いっぺんにはまってしまった(ちなみに、民族音楽にも同様の特性があると久石は指摘する。彼の音楽にしばしば民族音楽の要素が盛り込まれるのは、このためだろう)。

それからは、ひたすら作曲に明け暮れた。あらゆるアルバムを聴き漁り、自分なりのミニマルを探し続けた。

しかし、先行する気持ちとは裏腹に、なかなか満足のいく音楽作りができない日々が続いた。演奏会もうまくいかなかった。「僕たちは音楽に使える下僕と同じ。より高い望みのためにはどんなことをしても平気だった」と考える久石の激しいやり方に、仲間とのいざこざも絶えなくなっていた。

「古今東西のすぐれた音楽家は、この苦しさを乗り越えて自分を確立したのだ」と心に言い聞かせながらも、不安は高まる一方だった。

「暗くて長いトンネルのなかに、僕はいた。かすかな希望に夢を託したり、明日を信じたりするには、少々疲れていた」(久石譲著「Iam」より)

ミニマルを現代音楽の一つとすれば、作曲、演奏そのものが「実験」でなければならない宿命を持つ。必然的に、技量の違う奏者をまとめあげ、新しい挑戦と完成度を両立させるのは至難の業となる。久石にとっても、それは同じだった。当時の彼の音楽は「そこそこの評価と偏見に満ちた罵倒に二分されていた」(同書より)

やがて、食いつなぐためにテレビコマーシャルの仕事にも進出。悶々としたまま、気がつけば30歳を迎えていた。

そんななか、タンジェリン・ドリームやクラフトワークなど、シンプルでありながらポピュラリティーのあるテクノ音楽を聴きながら、あることに気がつく。

「ミニマルをやるのに、現代音楽というフィールドにこだわる必要はないのではないか」

自分を縛っていたのは、自分自身だと気がついたのだ。

そう考えたら、急に気が楽になった。自分の生活費の基盤としか思っていなかった場所が、もっとも可能性のある場所に思えてきた。

久石は覚悟を決めた。そして、今より「広い場所」に挑む以上、「売れなければ、正義じゃない」と肝に銘じた。

こうして、アルバム「インフォメーション」が生まれた。名義は「ワンダー・シティ・オーケストラ」となっているが、実態は久石のソロ作品だ。それまでも現代音楽のアルバムに参加していたものの、この作品が事実上のデビュー作となった。

タイトルには、限られた相手でなく、不特定多数に向けて発信したいという思いを込めた。それはそのまま、もはや古典的となった「現代」音楽と、それを含む「クラシック」に対する決別表明だった。

ミニマルを随所に織り交ぜながらも、ポップスであることを強く意識した同アルバムは、糸井重里による「おいしい生活」という宣伝コピーが話題となっていた西武百貨店の池袋店で、1年間に渡って流れ続けるというおまけも付き、名実ともに「不特定多数に向けた音楽」となった。久石の周囲には、確実に新しい風が吹き始めていた。

そして、このアルバムがきっかけで、久石は宮崎監督と出会うことになる。(依田謙一)

(2004年3月14日 読売新聞)

 

連載 ハウルの動く城 久石譲