Posted on 2017/07/27
ふらいすとーんです。
お休みの日、30分くらい心落ち着いたとき、好きな音楽や飲み物と一緒に読んでください。
村上春樹さんの本は好きでよく読みます。この本は、雑誌に掲載されたエッセイから、スピーチやインタビューから、依頼された本の序文・解説などから、お蔵入り・未収録から、いろんなものを「雑多」に集めたその名も「雑文集」です。多岐にわたる文章を、村上春樹の本として整理してまとめたものです。
音楽にも詳しいことで有名ですね。長編小説をはじめ、物語にはよく音楽が登場してきます。ジャンルもロック、ジャズ、クラシックまで。ほんとうにこの人は音楽が好きなんだなあ、というか、村上春樹という人そのものを、また書く文章のリズムやテンポ感までも、音楽がつくっているような気さえしてきます。
「雑文集」から、音楽についてのエピソードです。具体的には2005年「別冊ステレオサウンド」というオーディオ雑誌に掲載されたお話です。「わかるわかる!僕もそう思う!」「到底およばないなあ」と、あまりにも共感することが多く、またそれを文章で表現されていることに感動してしまって。ご紹介したいな、と思いました。
22ページに及びます。独断と偏見で切り取ろうかなとも思いました。でもそうすると、変なまとめ記事みたいになってしまう。前後の文脈を省略しすぎることは、作者の意図にも大きく反する可能性もでてきます。なので、なるべくセンテンス・段落ごとに抜粋させてもらいました。その分、少し文字量が多くなっていますが、読み物としては、そちらのほうがテンポよく読みやすいとも思います。(と言いながら、ばっさり半分近く削いだのです、すいません)
なるべく”自分がほしいと思っている”部分だけではなく、全体像がつかみやすいようにしたつもりです。僕が共感した部分、あなたが共感する部分、きっと違うと思います。感想は最後に少し書こうと思いますが、まずはゆっくり読んで楽しんでください。
余白のある音楽は飽きない 「雑文集」/村上春樹より
~略~
オーディオ雑誌でこんなことを言うのもなんだけど、若いころは機械のことよりも音楽のことをまず一所懸命考えたほうがいいと、僕は思うんです。立派なオーディオ装置はある程度お金ができてから揃えればいいだろう、と。若いときは音楽も、そして本もそうだけど、多少条件が悪くたって、どんどん勝手に心に沁みてくるじゃないですか。いくらでも心に音楽を貯め込んでいけるんです。そしてそういう貯金が歳を取ってから大きな価値を発揮してくれることになります。記憶や体験のコレクションというのは、世界にたったひとつしかないものなんです。その人だけのものなんだ。だから何より貴重なんです。でも機械だったら、お金さえあえば比較的簡単に揃えられますよね。
もちろん悪い音で聴くよりは、いい音で聴く方がいいに決まっているんだけど、自分がどういう音を求めているか、どんな音を自分にとってのいい音とするかというのは、自分がどのような成り立ちの音楽を求めているかによって変わってきます。だからまず「自分の希求する音楽像」みたいなものを確立するのが先だろうと思うんです。
~中略~
そんなわけで僕はレコードを中心に音楽をたくさん聴いてきましたし、もちろんいまでもレコードやCDで音楽を楽しんでいます。そのいっぽうでコンサートにもよく足を運んでいます。レコードに入っている音楽も素晴らしいし、生演奏もいい。音楽好きの中にはコンサート至上主義の人もいるし、また逆にレコード至上主義の人もいるようですが、僕は、この両者は別物だと思うんですよ。どちらの価値がより高いというものではない。あえて言えば、映画と舞台演劇の関係みたいなものかな。で、僕としては、映画ばかり観ている、芝居ばかり行っているということではなくて、レコードとコンサート、そのお互いの関わり合いの中で音楽を見ていきたい、考えていきたい、そう思っているんです。バランスをとることって大事ですよね。
レコードには生演奏にはないいいところがありますよね。例えば何度でも繰り返して聴けること。それから、もういまはこの世にいない素晴らしい演奏家の音楽を聴くことができること。もうひとつ、自分がそれを持っている、その音楽をいちおう個人的に所有しているという実感って大きいですよね。一枚一枚に自分の気持ちがこもっている。さっきも言ったように、ニ八◯◯円のブルーノートのレコードって、高校生の僕にとってはものすごく大きな出費だったんだけど、だからこそ大事に丁寧に聴いたし、音楽の隅々まで憶えてしまったし、そのことは僕にとっての貴重な知的財産みたいになっています。無理して買ったけど、それだけの値打ちはあったなあと。活字がない時代、昔の人が写本してまで本を読んだように、音楽が聴きたくて聴きたくて苦労してレコードを買った、あるいはコンサートに行った。そうしたら人は文字通り全身を耳にして音楽を聴きますよね。そうやって得られた感動ってとくべつなんです。
ところが時代が下ると、音楽はどんどん安価なものになっていった。いまやタダ同然の価格で音楽が配信される時代になった。手のひらくらいのサイズの機械に何十時間、何百時間もの音楽が入ってしまう。いくらでも好きなときに簡単に音楽が取り出せる。もちろん便利でいいんだけど、でもそういうのって、音楽の聴き方としてちょっと極端ですよね。もちろんそういうふうにして聴くのがふさわしい音楽もあると思うけど、そうじゃないものも多いはずです。やっぱり、音楽にはその内容にふさわしい容れ物があると思います。僕はいつもランニングしながら音楽を聴いているので、小さくて軽い装置で、大量に音楽が聴けるというのは、個人的にはありがたいことなんですけどね。
それからたとえば、プーランクのピアノ曲が一枚のCDにぶっ続けに七十分入っているというのは、たしかに情報としては便利で都合がいいんだろうけど、普通に音楽を楽しむ人にとってはやっぱり乱暴ですよね。プーランクは、そういう聴き方をする音楽ではないんじゃないか。あるいは、ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』なんかは、A面B面をひっくりかえす間とか、最内周での繰り返しなど、レコードの特質を活かしたつくりがされていて、それをCDで聴いてしまうと「なんか違うな」という感じがつきまとうんです。ビートルズのメンバーが設定した世界が、そこには正確に具現されていないのではあるまいかと。
CDというのはLPに比べれば便利で効率的な容れ物です。でもだからといって、七十何分入るからとにかくぎゅうぎゅうに詰め込んじゃえ、というのではあまりにも発想が安易なんじゃないかな。便利で効率的なCDがある一方で、不便で非効率なCDがあったっていいと思うんです。そういう容れ物を求めている音楽だって世の中にはあると思うから。僕はA面とB面をひっくり返せるCDを昔から提唱しているんだけど、誰も取り合ってくれない(笑)。
それにしても、LPレコードというのは、音楽の容れ物としてよくできていると思いますよ。CDが登場して以来、LPを売ってCDに買い換える人がたくさんいるけれど、僕はいまでもよくCDを売ってLPに買い換えたりしています。ひとつには、音楽というのはできるだけオリジナルに近い音源で聴くのがいいと考えているからです。だからCDの登場する以前の音楽は、なるべくならLPで聴きたい。もうひとつ、アナログレコードはもうこれ以上技術的に進歩発展しないですよね。進化のどんづまりにいるわけだから、最終的なかたちになっている。「驚異のスーパー24ビットで新発売!」みたいなことはないだろうし、業界的に振り回されることもなく、落ち着いて音楽が聴ける。あと中古屋で、内容の優れたアナログレコードがあまりにも安い値段で売られていたりすると、ついつい気の毒になって「おお、かわいそうに、僕が買ってあげよう」みたいなことになります(笑)。こうなるともう一種の救済事業です。
もちろんアナログLPからCDになって、音が改善された例もたくさんあります。たとえばエルヴィス・プレスリーなんて風呂場で歌っているみたいにモゴモゴしていたのに、CDではサッとクリアになってますよね。違う音楽みたい。サイモン&ガーファンクルもずいぶん感じが変ったし、ボブ・ディランのこのあいだ出たCDもよかったな。逆にブルーノートの新しい「ルディ・ヴァン・ゲルダー」リカッティングみたいに「何、これ?」と、個人的に言いたくなるものもある。僕は決して偏狭な人間ではないので、両方のメディアの良いところをそれぞれに幅広く楽しみたいと思っています。
どんな時代でもどんな世代でも、音楽を正面からきちんと聴こうという人は一定数いるはずだし、それは本でも同じですよね。本当に本を大事にする人は、携帯電話で読める時代になったとしても、ちゃんと書物を買って読み続けていると思う。世間の大多数の人々は、そのときの一番便利なメディアに流れていくかもしれないけれど、どんな時代にもそうじゃない人が確実にいます。全体の一割くらいでしょうかね。よくわかんないけど。僕がいまここでしゃべっていることは、あくまでもその一割の人たちに向けた個人的な話です。というか、僕という個人がここで、世間の大多数のことを話してもしょうがないでしょう。
~中略~
ヨーロッパに住んでいたころ、クラシックのコンサートによく通いました。それでよかったな、と思うのは、やっぱりレコードなどではわからないことってありますよね。たとえばロリン・マゼールをローマで聴いて、「マゼールってこんなにいい指揮者だったっけ?」って本当にびっくりしました。ジョルジュ・プレートルがベートーヴェンを振ったコンサートも見事だった。レコードを聴くプレートルの印象ってなんかちょっと薄いめで、とくになんていうこともない指揮者だなあ、と思っていたんですけど、実演だとまるで違うんです。音楽が隅々まで生きて動いていて、それが目に見えます。そういうのって、コンサートじゃないとわからないですよね。
それから二十年以上前に、新宿厚生年金会館で聴いた、ボブ・マーリーのコンサート。あのときは最初の十秒でノックアウトされました。身体が勝手に動き出して、もう止まらない。そこまでダイレクトに身体的な音楽を僕は聴いたことがなかったし、その後もないですね。あのレゲエのリズムが身体に染み込んでしまって、いまでもどっかに残っている。そういうのは、そのときも楽しいんだけど、いま思い出してもまだ楽しいですよね。素敵な恋愛と同じで、歳を取ってからでも、おりにふれ思い出して心が暖まる。
~中略~
よく調整された高価なオーディオ装置で聴かせてもらったレコードの音も、ひとつの基準として耳に残っています。たまにそういうのを聴くと、「いい音だな、こういう音で日常的にレコードを聴けるといいな」って思いますよ。ただ僕はオーディオマニアではないし、複雑な機械の調整に没頭したりというようなことはとてもできません。美しい音で聴ければそれに越したことはないけれど、そこにたどり着くまでの手間や時間を考えると、ある程度のところで見切りをつけて、あとは心静かに音楽を聴いた方がいいや、と思っちゃいます。これはもう個人的な優先権の問題ですね。
もちろん好みの音というものはあります。いくら綺麗でクリアで、原音に近い音がしたとしても、みんなが口を揃えて素晴らしいと褒めても、僕にとってぴんとこないということはよくあります。うちのJBLのユニットは柄こそでかいけれど、最新のスピーカーに比べたら上も下もそんなに伸びません。スペック的に見たら時代遅れなスピーカーだと思います。もっと広域が伸びたり、低域がもっとガシッと出たりしたらいいだろうな、と思うときももちろんあります。でもそういう音になって、僕にとっての音楽の情報量がいまより増えるかと言ったら、それはないんじゃないかな。このいまのスピーカーを通して与えられる情報が、自分には長いあいだひとつのメルクマールになってきたし、それをもとにして音楽的にものを考える訓練を僕は積んできたわけです。
~中略~
先ほどレコードのよさとして、繰り返し聴けるということを挙げましたが、年月を経て同じ音楽を何度も聴くことで、以前にはわからなかったことがわかるようになることってありますよね。『ペット・サウンズ』なんか、初めて聴いたときにもいいなと思ったけれど、いま考えると本当にどれだけその真価が理解できていたのかなあと思いますよ。あのレコードが出たのは一九六六年ですが、七〇年代、八〇年代、九〇年代、自分が歳を取って聴くたびに、いいなと思うところが増えてきたんです。不思議なことに『サージェント・ペパーズ~』は初めて聴いたときはひっくり返るくらい感心したんだけど、いま聴いて新しい発見があるかと言ったら、『ペット・サウンズ』みたいに「あとからあとからずるずる出てくる」みたいなことはないような気がするんです。もちろんこれは、どちらが音楽として優れているかという話ではないですけど。
何て言うのかな、ビーチボーイズのリーダー、ブライアン・ウィルソンのつくった音楽世界には空白みたいなものがあるんです。空白や余白のある音楽って、聴けば聴くほど面白くなる。ベートーヴェンで言えば、みっちり書き込まれた中期の音楽より、後期の音楽のほうがより多く余白があって、そういうところが歳を取るとよりクリアに見えてきて、聴いていてのめり込んでしまう。余白が生きて、自由なイマジネーションを喚起していくんです。晩年の弦楽四重奏曲とか、「ハンマークラヴィア・ソナタ」とかね。デューク・エリントンも余白の多い音楽家ですね。最近になってエリントンの凄さがだんだん心に沁みるようになってきたような気がします。とくに一九三〇年代後半から四〇年代前半にかけて残した演奏が好きです。若いときからエリントンは聴いていましたよ、でもいまの聴き方とは確実に何かが違うような気がする。そういうのもレコードという記録媒体が手元にあればこそ、可能になることですよね。
歳を取っていいことってそんなにないと思うんだけど、若いときには見えなかったものが見えてくるとか、わからなかったことがわかってくるとか、そういうのって嬉しいですよね。一歩後ろに引けるようになって、前よりも全体像が明確に把握できるようになる。あるいは一歩前に出られるようになって、これまで気がつかなかった細部にはっと気づくことになる。それこそが年齢を重ねる喜びかもしれないですね。そういうのって、人生でひとつ得をしたようなホクホクした気持ちになれます。もちろん逆に、若いときにしかわからない音楽や文学というのもあるわけだけれど。
僕にとって音楽というものの最大の素晴らしさとは何か? それは、いいものと悪いものの差がはっきりわかる、というところじゃないかな。大きな差もわかるし、中くらいの差もわかるし、場合によってはものすごく微妙な小さな差も識別できる。もちろんそれは自分にとってのいいもの、悪いもの、ということであって、ただの個人的な基準に過ぎないわけだけど、その差がわかるのとわからないのとでは、人生の質みたいなのは大きく違ってきますよね。価値判断の絶え間ない堆積が僕らの人生をつくっていく。それは人によって絵画であったり、ワインであったり、料理であったりするわけだけど、僕の場合は音楽です。それだけに本当にいい音楽に巡り合ったときの喜びというのは、文句なく素晴らしいです。極端な話、生きててよかったなあと思います。
(余白のある音楽は聴き飽きない 「雑文集」村上春樹著より 抜粋)
「心に音楽を貯め込む」「自分の希求する音楽像を確立する」、とても素敵な考え方だなあと思います。なるほどそういうことなんだなあ、とやさしく諭されるような包まれる気持ちにもなります。コンサートやCDそれぞれの音楽の楽しみ方や接し方など、ここにあるのは村上春樹さん個人のエピソードです。でも、音楽好きなら誰もが思ったことがある、経験したことがあるようなお話。共感できたりダブる体験談がここにあるからこそ、人を惹きつける生きた文章なんでしょうね。
僕はLP世代ではないので、その辺のお話は頭ではなんとなくわかっても耳では未体験です。ほかにも「ああ、僕もこんな体験してみたいなあ」とうらやましく思うエピソードもあって、他人の音楽経験から、音楽の素晴らしさをおすそわけしてもらう、そんなお話でした。
これからもOvertoneでは、音楽について、いろいろな演奏盤(今はおもにクラシック音楽になってしまいますけれど)について、ああだこうだ云々カンヌン言うと思います。そんなときは「ああ、この人なりに心に音楽を貯め込もうとしているんだな」と温かく読んでいただけたら、ほっと救われます。
久石さんの音楽やコンサートについて感じることも書くことも、村上春樹さんの言葉を借りれば「世界にたったひとつしかない、僕の記憶と体験のコレクション」なんですね。そんな超個人的なものが、もしかしたら誰かに伝わり部分的にでも共感してくれるのかもしれない。その連鎖が、実際には会わない会えないけれど、どこかの誰かとつながっていると感じれるのかもしれない。音楽っていいなあ。
それではまた。
reverb.
おもしろい小説を読むと、つい「久石さんだったらどんな音楽つけるかな」と空想しちゃいます。 (^^)oO
*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number]
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