Blog. 2015年「久石譲ファンサイト 響きはじめの部屋」アクセス・ランキング

Posted on 2016/1/3

2015年「久石譲ファンサイト 響きはじめの部屋」年間アクセス・ランキングです。

2015年も精力的活動を展開した久石譲。その最新情報から過去資料まで、当サイトもあらゆる切り口で久石譲の活動を収めつづけています。

2015年に検索された久石譲ファンの関心事ランキングともいえるラインナップです。日本国内のみならず世界各国からのたくさんのアクセスありがとうございました。今年2016年もさらなる久石譲活動に期待すると同時に、有益なサイトとなるよう追いかけていきます。

 

 

2015年アクセス・ランキング -総合-

TOP 1

Blog. 「かぐや姫の物語」 わらべ唄 / 天女の歌 / いのちの記憶 歌詞紹介

2014年も1位だったような。これは、いろいろなところでリンク貼っていただき、ご紹介いただいている結果です。

 

TOP 2

Disc. 久石譲 『Dream More』*Unreleased

2015年春発表。夏のお中元、冬のお歳暮まで、CM露出頻度高く一気にお茶の間に浸透していった作品です。「W.D.O. 2015 コンサート」でタイムリーに初披露されたことも勢いをつけました。

 

TOP 3

Blog. 「ふたたび」「アシタカとサン」歌詞 久石譲 in 武道館 より

1位同様、例年上位にランクインします。多方面で歌われている、歌いたい需要の現われでしょう。

 

TOP 4

https://hibikihajime.com/tag/concert/

このURLは、久石譲最新コンサート情報をまとめたインフォメーション・アドレスです。当サイトTOPページ中央に飛び込んでるスライド表示の1番目がこのURLにジャンプします。

 

TOP 5

Blog. 久石譲 初ジブリベスト 宮﨑駿×久石譲 30周年 CD発売決定!

「ジブリ・ベスト ストーリーズ」(2014)というベスト・アルバムの発売が決定した際、特集した内容だったと記憶しています。

 

TOP 6

Disc. 久石譲 『明日の翼』 *Unreleased

こちら潜在的常連、現時点ではCD化されていない幻の名曲として注目されつづけている作品。

 

TOP 7

Info. 2015/12/31 久石譲 「ジルベスターコンサート 2015 in festival hall」 開催決定!!

毎年多種多彩なコンサート活動を繰り広げている久石譲において、いかなるコンサートをもしのぐ「ジルベスターコンサート」への関心の高さ。「ジルベスターコンサート」にはいつもとは違うスペシャルな期待があるということでしょう。

 

TOP 8

https://hibikihajime.com/score/

久石譲監修、オフィシャル・スコア、オリジナル・エディションの楽譜を紹介したページです。

 

TOP 9

Blog. 久石譲 「楽譜紹介ページ」 久石譲監修オリジナル・スコア と 楽譜検索 まとめ

こちらも楽譜特集ですが、TOP8のオリジナル楽譜に絞らず、多種多様(楽器/難易度)なニーズに合わせた久石譲楽譜の探し方をまとめたページです。

 

TOP 10

特集》 久石譲 「Oriental Wind」 CD/DVD/楽譜 特集

久石譲の代名詞的作品のひとつ。

 

TOP 11

Info. 2015/Aug. Sep. 「久石譲&ワールド・ドリーム・オーケストラ 2015」「Music Future Vol.2」 コンサート開催決定!

コンサート・インフォメーション強し。2015年は「久石譲&ワールド・ドリーム・オーケストラ」が8年ぶりの全国ツアー6公演だったこともあり、日本各地から関心が高まりました。

 

TOP 12

特集》 久石譲 「ナウシカ」から「かぐや姫」まで ジブリ全11作品 インタビュー まとめ -2014年版-

いろいろなキーワードからこのまとめページに辿り着く方は多いようです。「秘話、意味、解説、楽器」など作品が誕生した裏側に関心を寄せいている人も多いという現われです。

 

TOP 13

https://hibikihajime.com/recentschedule/

最新(1年間)の久石譲活動をリスト化しまとめているページ、随時更新しています。目次・索引のような役割も持たせています。

 

TOP 14

Disc. 久石譲 『(みずほ)CM音楽』 *Unreleased

2015年の久石譲CM音楽において、「Dream More」と同じくらい人気を二分した作品。両作品とも公式動画が公開されているため動画紹介もしています。実際に視聴できるメリットは大きかったともいえます。特に海外の人が動画サイトで日本語検索することは至難のわざです、そういったポテンシャルも動画配信は担っていると思っています。

 

TOP 15

Blog. 「久石譲&ワールド・ドリーム・オーケストラ 2015」 コンサート・レポート

公演約1ヶ月後にWOWOW放送されたことも影響し、今年下半期ロングテールでアクセスいただいたページです。

 

TOP 16

特集》 久石譲 名曲「Summer」 CD/DVD/楽譜 特集

こういった名曲たちと、最新CM音楽や最新オリジナル作品が総合ランキングに入るというのは、いかに久石譲音楽が時代をクロスオーバーしているかということの指標でもあり、常に第一線なんだなと思い知らされる凄みもあり。

 

TOP 17

Info. 2015/12/11,12 「久石譲 第九スペシャル 2015」コンサート開催決定!!

2年ぶりの「久石譲 第九」、さらにファンの間では人気の高い「Orbis」も新版として世界初演。プログラム予定がプレスリリースされたときからその期待度は高く維持していました。

 

TOP 18

https://hibikihajime.com/concert/concert2015/

コンサートのプログラム~アンコールまで、そのセットリストを記録したページです。2015年-が該当ページになりますが、もちろん1980年代から総力網羅しています。

 

TOP 19

Disc. 久石譲 『Orbis for Chorus, Organ and Orchestra』 *Unreleased

やはりこの作品への関心は高かった、2015年12月初演、1ヶ月弱で年間の上位にくるということは、、!?

 

TOP 20

https://hibikihajime.com/discography/discography2010/

ディスコグラフィーを年代ごとにまとめたページの2010年代にジャンプします。CD・DVD化された作品かつ久石譲名義のオリジナル・ソロアルバムから映画サウンドトラック盤まで。

 

 

 

2014年の年間アクセス集計と比較したときに、コンテンツとしても充実してきたなぁと感慨深いところもあり。まだまだ過去資料の整理が山積み、最新情報と並行しながら、残していく価値のある久石譲データベースを築いていくことを目指しています。

 

Related page:

 

Blog. 「久石譲 第九スペシャル 2015」「久石譲 ジルベスター・コンサート 2015」コンサート・レポート

Posted on 2016/1/2

2015年12月に開催された2企画、3公演のコンサート・レポートです。

久石譲が2年ぶりに「第九」を指揮する!「第九」のために捧げた序曲「Orbis」に新たな楽章をくわえ世界初演!

 

まずは、演奏プログラム・セットリストから。

 

久石譲 第九スペシャル 2015

[公演期間]久石譲 第九スペシャル 2015 チラシ
2015/12/11,12

[公演回数]
2公演
12/11 (東京 東京芸術劇場)
12/12 (神奈川 ハーモニーホール座間)

[編成]
指揮:久石譲
管弦楽:読売日本交響楽団
ソプラノ:林正子
メゾ・ソプラノ:谷口睦美
テノール:村上敏明
バリトン:堀内康雄
オルガン:米山浩子
合唱:栗友会合唱団 ※東京公演は一般公募のコーラスを含む

[曲目]
久石譲:
Orbis  for Chorus, Organ and Orchestra
オルビス ~混声合唱、オルガン、オーケストラのための
I. Orbis ~環
II. Dum fata sinunt ~運命が許す間は
III. Mundus et Victoria ~世界と勝利

-休憩-

ベートーヴェン:
交響曲 第9番 ニ短調 作品125 〈合唱付き〉
I. Allegro ma non troppo, un poco maestoso
II. Molto vivace
III. Adagio molto e cantabile
IV. Presto – Allegro assai

 

 

久石譲 ジルベスターコンサート 2015 in festival hall

[公演期間]久石譲 シルベスターコンサート 2015 in festivalhall
2015/12/31

[公演回数]
1公演 (大阪 フェスティバルホール)

[編成]
指揮:久石譲
管弦楽:日本センチュリー交響楽団
ソプラノ:林正子
メゾ・ソプラノ:谷口睦美
テノール:村上敏明
バス:妻屋秀和
オルガン:片桐聖子
合唱:大阪センチュリー合唱団 大阪音楽大学合唱団 ザ・カレッジ・オペラハウス合唱団 Chor.Draft

[曲目]
久石譲:
Orbis for Chorus, Organ and Orchestra
オルビス ~混声合唱、オルガン、オーケストラのための
I. Orbis ~環
II. Dum fata sinunt ~運命が許す間は
III. Mundus et Victoria ~世界と勝利

ベートーヴェン:
交響曲 第9番 ニ短調 作品125 〈合唱付き〉
I. Allegro ma non troppo, un poco maestoso
II. Molto vivace
III. Adagio molto e cantabile
IV. Presto – Allegro assai

 

 

同じ流れをくんだ「第九スペシャル 2015」「ジルベスター・コンサート 2015」は、プログラム構成も同一となっています。

 

会場にて配布されたコンサート・パンフレットから、久石譲のプログラム解説をご紹介します。

 

 

久石譲のプログラムノート

ベートーヴェン「第九」について

ベートーヴェンの晩年の大作である「第九」は、音楽史の頂点に位置する作品のひとつです。作曲家の視点から見ると、もうこれ以上は削れないところまで無駄を削ぎ落とした究極の作曲法です。そのスコア(総譜)が要求する音楽表現のレベルの高さを60分以上持続させるだけの緊張感が演奏では必要です。

これは僕個人の考えですが、「第九」の最大の特徴は第4楽章にあり、同時に最大の問題でもあった。それは第1~3楽章までと第4楽章では大きな隔たりがあるからです。もちろん声楽が入ることに起因しています。

今日ではマーラーなどの交響曲で声楽が入ることに何の抵抗もないのですが、当時約200年前の時代、それはあり得なかったことなのです。声楽はオラトリオやオペラなどのものであって、純器楽作品とりわけ交響曲に使用するなどと言うことは、サッカーを観に行ったら後半からラグビーになっていたくらいに違うことだった。いくらスーパースターの五郎丸が出場したとしても観客は戸惑います(実際はベートーヴェンの前に交響曲にコーラスを入れた例はあるのですが、今日ほとんど演奏されていない)。

では何故ベートーヴェンはそのアイデアに固執したのか?それは作曲家の直感だ! としか言えないのですが、冷静に見れば、第1~3楽章まではとてつもなく完成度が高い楽曲が続く。だが、決して聴きやすいわけではない。やはり重くて長い(僕は好きですが)それに続く第4楽章は? どういう楽曲を書かなければならないのか? それまでを凌駕するほどのアイデアが必要だ。悩みに悩んだ彼は閃いた「そうだ声を楽器として使おう!」

と言いたいのですが、実際は同時に声楽を使ったもう一つの交響曲を書こうとしていた。交響曲第10番に相当します。だが、さまざまな事情で頓挫してこの「第九」にそのアイデアが結集した。

おそらくその段階では論理的な整合性はそれほど考えていはいなかったと思います。誰も想像していないことを(その時代では)思いついたのはやはり天才たる由縁なのですが、大きな問題にも気づく。第1~第3楽章まで聴いてきた聴衆がいきなり第4楽章で合唱を聴いたらきっと戸惑うだろう。そのギャップに聴衆はこのが曲自体受け入れなくなるのではないか……ベートーヴェンは聴衆の反応を気にするタイプです。まあ多くの作曲家、演奏家は皆そうなのですが(笑)

そこで思いついたのが、第1~3楽章の主要主題を持ち出しては「これではない」と否定し、あの「歓喜の歌」を肯定する方法です。それによって唐突感を失くしているのです。これはシェークスピアの戯曲でもよく似た方法が使われています。本来あり得ない亡霊を登場させるために、あえてそれを皆の前で否定してみせる(そのことによって既成事実を作る)、あるいは噂話のようにさもありなんと匂わせることで、亡霊が出てもすんなり受け入れられる状況を作った。

本来作曲家のスケッチ段階のようなことを、あえてオペラチックな方法を用いてでも彼はやならければならなかった。逆にいうと、それをしてでも声楽を使うということに固執した。

だからそのような第4楽章冒頭のチェロとコントラバスのレシタティーヴォからバリトンの歌う導入部分を、まるでギリシャ神話の王様が出てくるように演奏するのに僕は抵抗があります。

実はこの演奏スタイルはワーグナーが始めた手法です。ワーグナーは長年埋もれていたこの楽曲を世間に広く知らしめた人です。持ち前の行動力でその再演を成功させるのですが、同時にスコアにかなり手を入れた。つまり書き変えた。当時はベートーヴェンの時代に比べて楽器の性能が飛躍的に進歩していたし、著作権という概念もなかったので、他の人の楽曲に手を入れることなど当たり前なことだった。そのうえ、自らの楽劇に近い強引な解釈で指揮をした。それが今日、とりわけ日本で定着した「ギリシャ神話の王様」のような第4楽章なのです。

それはそれで偉大なワーグナー伝来の手法なのでいいのですが、僕はもっとベートーヴェン自身が頭をかきむしりながら「あれも違う、これも違う!」と部屋をうろつきまわる生身の姿にしたいと考えています。

ゲーテの回想録に出てくるのですが、ある日偶然にベートーヴェンと出会った。そのとき、話題が夏の避暑地のことになり、その場所がお互いに近いことがわかって、ゲーテはなかば社交辞令のように「近くにお越しの節は…」と話したら彼が本当に来てしまった。だが、気難しく自分のことしか話さない彼に辟易した、と書いてあります。僕はこの話がとても好きです。それは「作曲家なんてみんなそんなものだ」と思っているからです(笑)

ですが、高邁な精神を持っていることと現実の生身の人間は同じ人間でも違う。その意味では「ギリシャ神話の王様」も当然あり得るのですが、高邁な精神を書き綴ったものが譜面、つまりスコアです。それを出来るだけ虚飾を取り払い忠実に演奏しようというのが、今回の意図です。つまり何もしない、ベートーヴェンが考えたことを作曲家の視点からできるだけ忠実に再現したいと考えています。

それにしても最大の問題を最大の長所(特徴)に変えたベートーヴェンはやはり偉大です。

実は他にもたくさん「第九」には不都合な場所、整合性が取れていないところがあります。今日多くの優れた指揮者がそれに対する答えを用意して、それぞれの「第九」に挑戦していますが、まるで「答えのない質問」をベートーヴェンから突きつけられているか、のようです。

僕の指揮の師匠である秋山和慶先生はすでに400回以上「第九」を指揮されていますが、それでも「毎回新しい発見があるんですよ、だから頑張ろうと」と仰っています。「第九」はその深い精神性を含めて表現しようとする指揮者、演奏家にとって永遠の課題なのかもしれません。

参考文献
*『ベートーヴェンの第9交響曲』ハインリヒ・シェンカー著(音楽之友社) *『楽式の研究』諸井三郎著(音楽之友社) *『《第九》 虎の巻』曽我大介著(音楽之友社) 他

 

新版「Orbis」について

2007年に「サントリー1万人の第九」のための序曲として委嘱されて作った「Orbis」は、ラテン語で「環」や「つながり」を意味しています。約10分の長さですが、11/8拍子の速いパートもあり、難易度はかなり高いものがあります。ですが演奏の度にもっと長く聴きたいという要望もあり、僕も内容を充実させたいという思いがあったので、今回全3楽章、約25分の作品として仕上げました。

しかし、8年前の楽曲と対になる曲を今作るという作業は難航しました。当然ですが、8年前の自分と今の自分は違う、作曲の方法も違っています。万物流転です。けれども元「Orbis」があるので、それと大幅にスタイルが違う方法をとるわけにはいかない。それではまとまりがなくなる。

あれこれ思い倦ねていたある日の昼下がり、ニュースでフランスのテロ事件を知りました。絶望的な気持ち、「世界はどこに行くのだろうか?」と考えながら仕事場に入ったのですが、その日の夜、第2楽章は、ほぼ完成してしまった。たった数時間です。その後、ラテン語の事諺(ことわざ)で「運命が許す間は(あなたたちは)幸せに生きるがよい。(私たちは)生きているあいだ、生きようではないか」という言葉に出会い、この楽曲が成立したことを確信しました。だから第2楽章のタイトルは日本語で「運命が許す間は」にしたわけです。何故こんな悲惨な事件をきっかけに曲を書いたのか? このことは養老孟司先生と僕の対談本『耳で考える』の中で、先生が「インテンショナリティ=志向性」とはっきり語っている。つまり外部からの情報が言語化され脳を刺激するとそれが運動(作曲)という反射に直結した。ちょっと難しいですが、詳しく知りたい方は本を読んでください。

それにしても不思議なものです。楽しいことや幸せを感じたときに曲を書いた記憶がありません。おそらく自分が満ち足りてしまったら、曲を書いて何かを訴える必要がなくなるのかもしれません。

第3楽章は「Orbis」のあとに作った「Prime of Youth」をベースに合唱を加えて全面的に改作しました。この楽曲も11/8拍子です。

ベートーヴェンの「第九」と一緒に演奏することは、とても畏れ多いことなのですが、作曲家として皆さんに聴いていただけることを、とても楽しみにしています。

平成27年12月6日 久石譲

(久石譲によるプログラムノート 「久石譲 第九スペシャル 2015」コンサート・パンフレットより)

 

 

久石譲の指揮で第九が聴ける!ということだけでも待ち望み、また公演を満足された方も多かったようです。テンポは近年傾向なのかやや速め、縦のラインをそろえた演奏が印象的でした。久石譲の言葉にもあるとおり、余計な解釈や誇張による横揺れする表現ではなく、各パートスコアに忠実な縦(拍子)をロジカルに表現した演奏とでもいうのでしょうか。またアクセントを拍子の頭やフレーズの頭で際立たせていたのも印象的でした。それもベートーヴェンという作曲家の作家性、リズムに重きを置いた作風をしっかりと具現化した表れなのでしょうか。理解度が浅いため、疑問符でとめる書き方になりすいません、演奏からの所感です。

指揮者のみならず聴く側にとっても「毎回新たな発見がある《第九》」です。頂点に君臨する作品だからこそ、一筋縄ではいかない、簡単にこうだよねと結論を出せない、奥深い魅力だと思います。

クラシック通には、もしかしたら第4楽章があることで邪道となった交響曲という見方もあるのかもしれませんが、あのシンプルで強い「歓喜の歌」はやはり世界共通旋律だなと改めて圧倒されました。なぜ現代でも愛され続けているのか?あのメロディの親しみやすさにあることは間違いないと思います。もしかしたらあの第4楽章は、クラシック音楽とポップス音楽の橋渡しになっている、ジャンルの垣根を越えたボーダレスな響き、なのかもしれません。

第1~4楽章という作品の流れにおいては整合性はないのかもしれませんが、第九~ブラームス~マーラー/ワーグナー~ロック/ポップスという時代の流れにおいては整合性がある、みたいなことを感じたわけです。やはり重要な作品をあの時代にベートーヴェンが遺した功績は大きいですね。

 

 

「新版Orbis」、新たに第2~3楽章が書き下ろされ世界初演。この作品に関しては、公演終了後まもなく先に記しましたので、そちらをご参照ください。久石譲に関心をおいたときには、もちろんこちらのほうがメインであり、一大ニュースです。

あえて取りたてて言うならば、「第九」と並列させて同一プログラム内に演目を置く。久石譲本人は例えばそれを「挑戦」と控えめに表現するかもしれませんが、対等に聴かせてしまう作品力と創作性は、聴き手として周知しておくべきことかな、と思います。

クラシック交響曲の頂点「第九」と、自作を並べてコンサートを成立させ得る作曲家は、なかなか、なかなか見渡してもいないのではないでしょうか。

Disc. 久石譲 『Orbis ~混声合唱、オルガンとオーケストラのための~ 新版』 *Unreleased

注)
ブログ項とは異なり、ディスコグラフィーでの作品紹介項では、断定口調を使用しています。読み苦しい点予めご留意ください。

 

久石譲 第九スペシャル 2015

 

久石譲 シルベスターコンサート 2015 in festivalhall

 

Blog. クラシック音楽の洗礼 ~クラシックプレミアムを終えて~

Posted on 2015/12/30

注)
長編になってしまいましたが、結びは久石譲で締めています。久石譲音楽・久石譲コンサートの新しい楽しみ方も!? どうぞご辛抱のほど。

 

2014年1月に創刊したCD付きマガジン「クラシック・プレミアム」(全50巻)も、2年間をかけて2015年12月最終号にて完結しました。2週間に1巻のペースで刊行、毎号読んで聴いて楽しませてもらいました。

小中学校の音楽授業で必ず聴くクラシック音楽ですが、それですべてがわかるはずもなく。余談ですが、小学生がベートーヴェンの「運命」やドヴォルザークの「新世界より」を聴いてそれと答えられるのは日本人くらいだそうです。それだけ明治教育改革時に西洋音楽が教育現場に流れこみ、今日まで習慣として残っている現れとも言えます。

広く浅くしか扱えない音楽の授業で、表面的にクラシック音楽と接し、第一印象で距離をおいてしまう要因のひとつにも。日常生活で小学生が聴いているアニメソングやポップスとはあまりにもかけ離れた音楽。なにが良いのかわからないけれど、すごいと言われているからすごいんだろう、と触れることなく遠くから眺めるだけの骨董品のよう。

 

久石譲がここ数年クラシック音楽の指揮をすることで作曲家としての新たな次元へと試みているという点からも、やはり久石譲を語るうえである程度のクラシック音楽は知っておいたほうがいい、久石譲から飛び出すキーワード(作曲家、作品、用語など)を知っているいないでは、その真意の理解度も変わってくる、などの最もらしい理由もありますが、直感的には「久石譲エッセイ」が毎号読める楽しみということが大きなきっかけであったことは間違いありません。

そのことは最終号のクラシックプレミアム・レビューにて少し述べています。

 

そして見事に『クラシック音楽の洗礼』を受けました。

なんでこんなにクラシックってとっつきにくいんだろう?と考えたときに、古典である、膨大な作品群、演奏時間の長さ、そのわりに一聴して印象に残るキャッチーさの少なさ、、こういったところが一般的だと思います。もっと言えば、約1時間聴かないと作品の全体像はわからず、さらに聴いた後にはスッキリどころかハテナな難解さしか残らない消化不良な感じ。明らかにポップスをはじめとした約4-5分で完結する今日の大衆音楽とは両極に位置する芸術音楽、それがクラシック音楽です。

乗り越えるためには、どれかひとつの作品でもお気に入りを見つけられると、それが突破口となり開けていくのですが、クラシック音楽を宇宙にみたてたときに、ポーンとその広い無限空間に放り出されて、手探りしようにもどこを彷徨ったらいいやら、そんな感覚におそわれます。

 

ここからは、クラシック音楽を日常的に聴くことになった2年間、クラシック宇宙空間で彷徨いながら目の前に立ちふさがった洗礼の数々。整理のために書き留めておくことがテーマです。

 

クラシック音楽の洗礼 其の一「指揮者」

名指揮者と呼ばる人だけでも何人いるのかというくらい指揮者はたくさんいます。フルトヴェングラー、カラヤン、ワルター、ラトル、バレンボイム、バーンスタイン、挙げればきりがない。そして指揮者の個性は一番色濃く作品に反映されると言ってもいいくらい、鳴る響きも印象も大きく変わってきます。全体の構成、テンポ、どの楽章やパートに重点を置くか、どの楽器を際立たせるか、など。最も大切で核の部分「指揮者の作品解釈」です。

 

クラシック音楽の洗礼 其の二「演奏者」

世界にはたくさんのオーケストラ楽団やプレイヤーがいます。演奏技術に得意分野、お国柄や風土、継承された歴史や楽器、それらすべてのバックボーンが音として具現化される、大きな違いが生まれます。ウィーン・フィルとベルリン・フィルがよく比較されますがそれと同じです。シンプルなピアノ曲であっても、奏者によってまったく違う音楽世界を作りだします。

 

クラシック音楽の洗礼 其の三「録音時代」

「指揮者」と「演奏者」に注目して、それを手がかりにと思った矢先に待っていたのが録音時代。同じ指揮者/演奏者の組み合わせでも、50年代に録音したもの、70年代に録音したもの、まったく演奏が違う。録音環境という点は後述に置いておいて、その時代ごとの指揮者の「作品解釈」が変わっているということ、オケの団員構成(成長期/円熟期)や指揮者との関係性も影響が出ていたりする。

考えてもみれば指揮者が同作品を度々取り上げるということは、作品への想いや作品解釈が変化した、指揮者としての成長、今イメージする音楽世界を再表現したいということですから、演奏が変わってしかり。同じカラヤン/ベルリン・フィルならどの時代の録音でも大差ないだろうと構えていたら大間違い、大目玉を食らうことになります。

 

クラシック音楽の洗礼 其の四「録音環境」

レコーディング用のセッション録音か、コンサートを収めたライヴ録音か。緻密にレコーディングされ完成度を追求した前者のほうがいい仕上りとして当然と思いきや、ライヴ盤の一期一会の演奏にはかなわないといった名盤も数多く存在します。ただ「このライヴ盤はすごい!」と感動の逸品に出会えたとしても、録音もよかったとしても、聴衆の咳など雑音が入ったりすることの多いのが難点ではあります。

 

 

ここで一呼吸です。

ひとつの作品に名盤はたくさん存在します。「新世界より/ドヴォルザーク」で調べると、クラシック・ファンの多くの作品レビューが参考になります。でも実際に聴いてみると、なんか違う、そんなにいいかな、と自分にはしっくりこないことが多々出てきます。そこで上記「指揮者/演奏者/録音時代/録音環境」これをひとつの自分のベンチマーク(ものさし)として持っておけばいいのかと。

この指揮者は好きだな相性がいいかも、このオケは低音が響きすぎて他の管弦楽が聴こえにくい、音の細部まで聴きたいからセッション録音ものを探そう、わりと新しめの80年代以降が音質はいいかも。

そういった条件を精査していって自分なりに探していく。もちろん予想の当たり外れはありますが、むやみに自分のものさしもないままに、、、撃沈してしまう。第一印象が悪かったせいで作品の良さを理解できぬまま、結果その作品からもクラシック音楽からも離れていってしまう、なんて要因にもなりかねません。それは避けたいもったいない。

 

ここからは少し細かくなっていきます。

 

クラシック音楽の洗礼 其の五「年版/改訂版」

作曲家自身による同一作品の何年版や改訂版。当然作品構成が変化していますので、その完成版はそれぞれに異なります。楽器編成をかえて新たに再構成する場合もあります。作曲家自身によるピアノ版、弦楽四重奏版、など。

 

クラシック音楽の洗礼 其の六「編曲版」

クラシック音楽にももちろん編曲は存在します。編曲を経てクラシック(古典)となっている作品も多いです。ピアノ版、管弦楽版、弦楽四重奏版などと表記して区別しています。また「年版/改訂版」(作曲家)とは異なり、他者による再構成の場合をさすことが多いです。

例えば、「展覧会の絵/ムソルグスキー」はもともとピアノ曲です。オーケストラ用に編曲された管弦楽版のほうに馴染みがある場合もあります。その管弦楽版もラヴェル編曲、ストコフスキー編曲など幾多存在します。CD紹介に「展覧会の絵/管弦楽版(ラヴェル編)」とあれば、それとわかりますが、明記されていないものは聴く前にわからないこともしばしば。上の二者編曲版がそれぞれ有名ですが、はたしてこれまで自分が聴いてきて好きだと言っていたのは、どちらの編曲版をさしていたのか、実は知らなかったりなんてこともあるかもしれません。

 

クラシック音楽の洗礼 其の七「補筆版」

作曲家が生前に完成できなかった作品、もしくは完成しているはずだけれどオリジナル譜が保存されていない。やむを得ず他者が補筆することがあります。

例えば、モーツァルトの「レクイエム」、大きくは二人の弟子による2つの補筆版がありますが、これは「編曲」以上に聴く前には情報としてわからない場合が多い。「レクイエム/モーツァルト(XX補筆版)」なんてCD表記はあまり見たことありません。未完作品の補筆であれば、作品構成や楽器構成は大きく変わってきます。書き足された旋律や楽章も発生します。名盤といわれるものでも、どの補筆版を採用しているか、それは指揮者の判断に委ねられています。同じ指揮者で異なる補筆版を使い分けることはないのかもしれない、そのくらいの指標は成り立つのかもしれません。

 

クラシック音楽の洗礼 其の八「スコア版」

「補筆」に近いですが、オリジナルスコアの保管状態が良くなかったり、完全に採譜されていなかった作品などに対して、複数のスコア版が存在します。これによってどこに違いがでてくるのかは、正直理解不足なのでわかりません。スコアが異なっても結果演奏する響きは変わらないのかもしれませんし、主題などの繰り返し(コーダ)があるか否かや、パート楽器への細かい演奏指示表記かもしれません。「補筆」ほど作品構成に大きな差異が生じるものではないだろうことは確かです。当時の資料や自筆譜の発見や研修をすすめるなかで、修正されていくこともあるでしょう。

 

 

ここでひと呼吸です。

ひとつの作品にはひとつの完成版しか存在しない(楽器編成が同一の場合)、「指揮者や演奏家」によって表現方法と響きの違いを見極めれば、、と思っていたところに、様々な要因で複数の解釈版が存在するという洗礼を受けることに。これらが作品に与える影響は少なくなく、印象や感想も何版に触れるかで変わってくる、ますます迷路の深みにはまっていきます。

 

 

クラシック音楽の洗礼 其の九「楽器時代」

何百年前のクラシック作品を、現代の楽器で演奏することが今日の主流です。ところがある時代を境に、作曲家が作曲した時代、演奏した時代の楽器で演奏することを尊重する風潮が生まれました。古楽器(ピリオド楽器)と言われるものです。

弦楽器も管楽器も、ピアノも、時代とともに進化して現行楽器があります。それらを使って古典を演奏するのか、楽器も時代をタイムスリップさせて、当時の楽器で演奏することで、より作曲家の意思や意図する作品に近づけようとするのか。

とりわけ管楽器などは見た目の形状すら大きく変化していてすぐにわかり、音色としての響きも、現行楽器と弾き比べれば明らかに違うとわかるものもあります。楽器の出せる音域の幅が変化した楽器もあります。有名なモーツァルトのクラリネット協奏曲など、単一楽器に耳を澄ませらせる作品はわりと比較しやすくはなります。

CD紹介で、ピリオド楽器を使用しているのか、通常の現行楽器なのかは、作品レビューなど聴者コメントを参考にしないとわからない場合が多いです。もちろん古楽器演奏での普及に貢献した指揮者などがいますから、そこも切り口のひとつにはなります。

 

クラシック音楽の洗礼 其の十「楽器配置」

作曲者が指定している場合もあれば、指揮者の解釈によるものもある、演奏するときの主に管弦楽の楽器配置です。現在のスタイルは、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが同セクションとしてステージ向かって左側に集合しています。一方、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンを左右対称に分ける配置もあります。「対向配置」や「古典配置」と言われるものです。そのほかにも現行スタイルなら、一番右端にコントラバスがきますが、対向配置においては、第1ヴァイオリンの奥、左奥に位置していることもあります。

これがなにを意味するのか。作品構成、作品解釈、ホールの響き、演奏会ごとに試行錯誤されていることも。配置いかんでその集合体となる管弦楽の響きは変わってきます。現行スタイルでは、弦楽器が集合している(高音から低音へ、左から右へ、1st/2nd Vnからbassへ)ため、弦の響きがまとまる効果があります。一方第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが旋律をかけあう作品など、対向配置のほうがそれぞれの旋律が埋もれることなく際立つという効果があります。

また「古典配置」と言われるくらいですので、古典派・ロマン派時代は「対向配置/古典配置」が主流でした。よって作曲家も対向配置を想定して作品を書いていたことになります。現行スタイルが主流となったのは20世紀以降です。これは録音環境を優先し、管弦楽の配置全体を高音から低音へ、左から右へと流したほうが録音に適していたからと言われています。

もうひとつ、楽器の配置は演奏機会の時代変化も影響しています。演奏場所がどんどん広くホールが巨大化したときに、大きな音の塊やうねりとなる現行スタイルのほうが向いています。さらに言うと、楽器セクションごとのコミュニケーションやアイコンタクトという奏者にも影響がでてきます。対向配置をとる場合は、より指揮者がそれぞれのパートに的確な指示やひっぱっていくことが求められます。

……

これを知っている醍醐味は、やはり実際に演奏会に足を運ぶことでしょう。楽器配置とは、言わば指揮者/オーケストラの作品解釈の見える化です。どういう音を響かせたいか、どういう作品をつくりあげたいか、唯一視覚として聴衆が確認できる演奏者の意思表示、とも言えます。

これがDVD映像ならともかくCDを聴いてわかるのか、対向配置が生かされた響きになってるな、なんてわかる人はすごい耳です。後述しますが、録音技術とトラック編集によってバランスは調整できますので、、やはりCDではわからないことのほうが多いのではと。逆に言えば、19世紀でも21世紀でも、一期一会の演奏会では、楽器配置は重要なポイントだとも言えます。

 

クラシック音楽の洗礼 其の十一「録音場所」

「録音環境」では、セッション録音かライヴ録音かを述べましたが、それに加えて、どんな場所で演奏された録音なのかということです。セッション録音(レコーディング用)であれば、ホールもあれば教会を使用することも多く、ライヴ録音(コンサート演奏)であれば、ホールが一般的となってきます。空間が異なるため、反射した音の響きや残響は変わってきます。作品によって適した音響や空間の広さなどもあるでしょうし、編成によって小規模ステージでは収まらないといった場合も出てきます。

 

クラシック音楽の洗礼 其の十二「録音技術」

技術の進歩に左右されることが多く録音時代で異なってきます。アナログ録音、デジタル録音、モノラル録音、ステレオ録音といった具合です。

ただし最先端の新しい技術のほうがより優れているかといったら、そうではない場合もあります。アナログ録音時代にしか活躍していなかった名指揮者もたくさんいますし、音質や音響はいいけれど、なにか物足りない、きれいにまとまりすぎて何か訴えかけてくるものがない、ということも。

また過度の編集でエコーを効かせすぎて音粒や輪郭がぼやけてしまう、高音が鳴りすぎる、低音が歪んでる、楽器配置の意図を無視して勝手に左右を動かしてしまう。はたまた、明らかに右側か左側か一方スピーカーでしか鳴らないように極端に音を振ってしまう(パンを振ると言ったりします)。生演奏ではあり得ない、客席に座って右の耳からしか聴こえない音があるなんてこと。このあたりが録音技術者の能力やセンスに影響されてしまうのはもったいないことです。指揮者や演奏者と聴衆のあいだに、ひとつフィルターをとおしてしまう、大切な役割です。

 

クラシック音楽の洗礼 其の十三「周波数」

「国際標準ピッチ」というものがあります。440Hz(ヘルツ)の周波数です。ところが実際には国によって一般的となっている周波数が異なります。その経緯や良し悪しは複雑な諸事情があるとして、高いピッチのほうが「緊張感を与える、輝いて華やかに聴こえる」効果があるそうです。日本国内ホールのピアノは442Hzで調律されていることがほとんどで、同じく演奏会では440Hzよりも少し高いピッチ、442~445Hzくらいで演奏されています。取り上げる作品にもよるでしょう。

たとえばバロック時代ピッチは低めだったため落ち着いて聴こえ、ベートーヴェン時代にはかなり上がっていたとも言われています。時代ごとの作品に触れてその印象が違うのも、各国オーケストラ団体によって華やかに聴こえたり、土着的に聴こえたりするのは、こういった微細な影響もあるのかもしれません。これは聴いてわかることというよりも、無意識に心理的に影響する感覚的なものです。

 

 

「クラシックの洗礼 全十三ヶ条」(2015年版)を整理して。

答えは見つかったのか、ものさしはでき上がったのか、と言われるとまだまだ辿り着くには程遠い道半ばです。やはり作品に数多く触れることしかないんですね。そして作品の経緯や特徴を、上の条件に照らし合わせながら好みに合う愛聴盤を探していく。この繰り返しです。そうやって自分のものさしと耳を磨いていく繰り返し。

いろいろな条件を書いてきたので、そんな数ある条件をクリアした愛聴盤。クラシック宇宙空間でめぐり逢えたCD名盤の数々。そのいくつかを紹介したいと思いながらも、これ以上書き進めるボリュームに耐えられないと思い直し。また別の機会があれば。(久石譲音楽で肥やした耳が納得した!?愛聴盤なので、共感していただける人はいるかもとは思いながら…)

そもそもでいうと。

音楽という無形芸術に対して、19世紀までは楽譜に残すことしか「カタチ」にできなかった。音そのものを「カタチ」に残せなかった、元祖「オリジナル版」が存在しえない。おそらく作曲家が意図していたことはこうなのではないか、そこに向き合ってきた多くの音楽家たち、それが「カタチ」となった無数の盤。永遠に答えのない「オリジナル版」を追求しつづける作業と言えるのかもしれません。

 

 

いろいろな視点でクラシック音楽にのめりこむことで、いい発見もありました。

最後はもちろん久石譲で締めようと思います。

クラシック音楽の洗礼 其の一「指揮者」
指揮者:久石譲、ゆえに作品解釈は作曲家:久石譲の意図がそのまま反映される。オリジナル版にして唯一無二。

クラシック音楽の洗礼 其の二「演奏者」
日本国内のみならず海外屈指の一流オーケストラ団体との演奏録音。目指す作品世界によって、演奏団体や奏者を選別している。楽器編成や編成規模、メロディアスやミニマル、大衆作品やソロ作品、選別条件は多岐にわたる。それは作曲家:久石譲の意思や創りあげたい世界観がそのまま反映される。ピアノにおいて、久石譲作品にはピアニスト:久石譲の演奏こそ唯一無二。

クラシック音楽の洗礼 其の三「録音時代」
1990年代、2010年代など同一作品でも複数録音が存在する。ほぼ同一構成(楽器編成、アレンジ)が前提とした場合、年輪のようみ刻み込まれる時代ごとの演奏変化こそ、味わう醍醐味であり、幾重にも記録された録音の存在価値となる。

クラシック音楽の洗礼 其の四「録音環境」
セッション録音(レコーディング用)、ライヴ録音(コンサート演奏)と存在する。近年ではどのどちらをも兼ねそなえたような最新画期的な録音方法も試みている。(作品『WORKS IV』ほか)

クラシック音楽の洗礼 其の五「年版/改訂版」
改訂版、新版、第2組曲などが存在する。ピアノソロ、オーケストラ版、アンサンブル版などが存在する。いずれも作曲家自身による。

クラシック音楽の洗礼 其の六「編曲版」
一部映画サウンドトラック盤などでは存在するが、基本的にはほぼない。楽曲のオーケストレーションが他者の場合はある。アレンジ(編曲)とオーケストレーション(管弦楽法)は区別して捉えられていて、CDライナーノーツ末の制作クレジット頁に明記されている。いずれにせよ作曲家:久石譲の意思は反映された範囲、プロデュースし監修された範囲を超えることはない。(カバー作品などは趣旨を異にする)

クラシック音楽の洗礼 其の七「補筆版」
現役作曲家、現在進行形の活動のため、あり得ない。数々のオリジナル譜やオリジナル音源も保管維持に充分な現代文明社会でもある。

クラシック音楽の洗礼 其の八「スコア版」
作曲家:久石譲によるスコア監修がすなわち完全版である。オリジナル・スコアにして、唯一無二。

クラシック音楽の洗礼 其の九「楽器時代」
現代の作曲家、ゆえに現行楽器を前提として創作され、同じく現行楽器で演奏される。作品のために必要な独奏楽器・時代楽器や電子音を使用することもある。

クラシック音楽の洗礼 其の十「楽器配置」
コンサートでは現行スタイルよりも対向配置を採用していることが近年多いように思う。自作/古典クラシック作品においても。レコーディング作品では解説やメイキング映像などがない限りわかりようはない。ただし、演奏会に足を運びその後ライヴ盤CDとなった場合は、それがいかなる楽器配置だったかは知ることができる。緻密なオーケストレーション(管弦楽法)、主旋律と対旋律が交錯する久石譲作品だけに、興味は尽きない。

クラシック音楽の洗礼 其の十一「録音場所」
管弦楽など生楽器を使用した録音は、レコーディングであれコンサートであれ、ホール録音が近年多い傾向。映画音楽収録でもオリジナル作品でも。またピアノ1本の作品にホールを何日間もおさえるといった渾身作ピアノ・ソロアルバムもある。本来はオケであれアンサンブルであれピアノソロであれ予算的にもスタジオ録音が一般的であり、過去作品はこちらに属するものも多い。特に指揮活動をはじめて以降、追求したい音の響きが変化してきたという見方もできる。無人のコンサート会場を貸し切って、ライヴ盤でもないホールレコーディングという贅沢な響きである。

クラシック音楽の洗礼 其の十二「録音技術」
最先端技術を駆使していることはもちろん、ほぼパートナーとなっている技術者にミックスを託していることが多い。トラックダウン(最終編集)は必ず自身が監修している。演奏から、編集による微調整、盤に残すところまで、作曲家:久石譲の意思が忠実に反映されている。

クラシック音楽の洗礼 其の十三「周波数」
レコーディング、コンサート、わかるすべはない。ただしいずれにおいても意図しているピッチで臨んでいるであろうことは確か。コンサートDVDやライヴ盤CDを聴いたときに、レコーディング音源以上に、緊張感や臨場感、華やかな響きに感じるとするなら、それは周波数の影響なのかホール音響からくるものなのか、はたまた一期一会な演奏ゆえか。周波数を計測できる機器やソフトで判明できる場合もあるかもしれない。

 

いかに恵まれていることか。

久石譲(作曲)の、久石譲による(指揮・演奏)、久石譲による(録音・パッケージ化)

絶妙な演奏技術と録音技術、とりわけ『WORKS IV』(2014)を引き合いに出してもそうですが、全体を構成する太く広がりある管弦楽の線、細部を忠実に響かせる楽器パートとステレオ配置のバランス、圧巻の臨場感にダイナミックレンジ。しかもこの作品は、ライブレコーディング+リハーサルテイク計6回をミックスしていますので、高音質・最高クラスの臨場感と緻密性の両極を兼ね備えた盤という点でももっと特筆されていいほどの完成度です。

 

私たちは久石譲が納得した完成版を、久石譲が求めた音や響きとほぼ同等なものとして、CD作品などで味わうことができる。それになんの不思議ももたなかったことが、古典クラシック音楽と向き合い、いかにして愛聴盤にめぐり逢える大変さを身をもって体験したときに、ここに跳ね返ってきました。

過去の名指揮者/名門オケが、それぞれの作品解釈により、自信をもって残してきた盤を、現代聴衆は自分のフィルターで取捨選択する必要がある。一方、現代に生きている作曲家が、自信を持って送り出したその一枚の盤(オリジナル版)を安心して手に取りさえすれば得ることのできる感動。

時代をオーバーラップさせ見つめてみたときに、そのことに気づけたと言えるのかもしれません。そしてこれからもクラシック音楽の洗礼を繰り返し受けながら、まだまだ彷徨いつづけます。その過程で培ったものや磨きをかけた耳で、さらに久石譲音楽を楽しめていけたらと思っています。

 

 

久石譲音楽を十三ヶ条で整理してみると。

正直もっともっとと欲が出てしまうところもあります。これだけの恩恵・音楽的価値があるからこそ、もっとCDやDVDというパッケージに残していってほしいという。

音楽史を過去・現在・未来で俯瞰的にみたときに、『作品をきちんとカタチに残すことの大切さ』が一点。クラシック音楽はオリジナル版がないからこそ、解釈から演奏まで多岐にわたる開かれた音楽ジャンルとも言えます。一方で録音技術があれば、偉大な作曲家年表・名鑑は変わっていたかもしれません。

もう一点は、『久石譲という稀代な音楽家が作品を残していくことの価値』です。これは未来に対して揺るがないと確信しているほどです。

でも今は、ないものねだりや欲しがるばかりでなく、今まで届けられてきた久石譲のCDやDVD、改めてその価値を見つめなおすところから始めてもいいのかもしれません。創作家が作品を残すことも大切ですが、その価値を未来へつないでいけるのは聴衆だからゆえです。

 

当たり前と思っていたことに立ち止まって少しでも感謝できたなら。新しい発見があります。感動や幸福感は二倍三倍にもなります。大量商業化された音楽CD、決して安くはないコンサートチケット。値段という価値は万人に同じであっても、受け取り方や聴き方、背景や知識で、喜びも豊かさも変わってきます。

聴衆が価値を変えることもできる。価値創造は、聴衆にもできる。

 

クラシックプレミアム表紙

 

Blog. 「過去は忘れる」久石譲と「過去に区切りをつけたい」聴衆

Posted on 2015/12/27

よく久石譲はインタビューで、「過去は忘れる。過去の作品はあまり覚えていない」、もっとしたときには「過去の作品には興味がない」とまで言いのけてしまう始末。

 

えっ!?
なんだとーっ!?

 

第一部 尊重

「過去は忘れる」発言に憤慨し、そんなに過去の作品を軽視しているのか?! と落胆したことを覚えています。そんな想いがずっとあったなか、時間の経過とともに少しずつ受け止め方も変わっていきました。

宮崎駿監督がとあるドキュメンタリー映像で、「トトロ2が観たい!トトロ2作ったら? とか言われるけど、そんなもの「トトロ」があるからいいじゃん、てね…」そんな発言をされていたことがあります。

ここが核心のような気がします。

創作家にとって過去の作品に固執する、縛られることほど苦痛なものはないのかもしれません。それは今の自分が過去の自分を超えられていないということを、認めてしまうことにもなりかねない。

 

久石譲にも同じようなことが言えるのでは。

「またシンセバリバリで作ってほしい、あのXXみたいな曲がまた聴きたい!」と言うのは、素直な願望とは裏腹に、一歩間違えば今の現在進行形のアーティストに対しての発言としては、失礼にあたるのかもしれないと。

「だったらあの曲聴いておけばいいじゃない、もうあるから」と言われても致し方ない。

いやいや、そういうことじゃなくて、あの曲が好きだから、ああいうテイストのものがまた聴きたいと、前のめりになるかもしれません。それでも、「だからあのテイストの曲はあの作品で完成されているから、あの曲を聴いてください」と言われてしまえば、グーの音も出ないこと。

宮崎駿作品も久石譲音楽も、あれだけ数多くの名作・名曲があるなかで、作品をまたいで類似しているものがないということはすごいことです。創作性とオリジナル性はそれぞれの作品に唯一無二。例えば『千と千尋の神隠し』を見て、「ナウシカに似てたね」なんて印象を持つ人はそうそういないと思いますが、それは映像だけでなく音楽にも言えることです。

 

宮崎駿監督は別のインタビューでも、「一番好きな作品は『ルパン三世カリオストロの城』です、と言われるとムカっとくる。それ以降の作品はなんなんだと」と笑って答えられていましたが、そういうところにも通じます。

創作家とは常に反応が気になる職業、上の発言は、「あなたの最高傑作は『ルパン三世 カリオストロの城』ですよ。その後の作品は…」と作り手のフィルターで受けとめてしまいショックや自己嫌悪に陥ってしまう可能性もあるのではと。…私はあの時をピークに止まっている…私と大衆と時代がリンクしていたのはああいう作品性だけなのか…(心の声)

これは受け手に大きく左右されます。作品に触れた時代、思い出などと一緒に鮮明に刻み込まれているからこそで、「作品として一番の出来」と言っているわけではなく、「思い入れのある私にとっての特別な作品」としての位置づけです。

だからそれ以降の作品はダメ、そんなことを言っているわけではない自由な発言なのですが、創作家は内なる自分と常に対峙していますので、デリケートにひっかかってしまうのも事実なのかもしれません。もちろん宮崎駿監督の発言は、そんな受け手のことも理解しているでしょうし、それが「心ある発言か心ない発言か」はすぐに見分けがつくでしょう。

 

創作家自らが二番煎じをすることはない、と大衆には釘をさし、自らには課した信念。

自らが納得する範囲やテーマ性で類似させる、作られた時代・時代性で似てくる、受け手へのサービス精神として、そもそもどれも同じよう、、「作品をまたいでの共通点」には、いろいろな角度からの意見もあるとは思います。でもそれを言い出してしまったら、まず出発点は”ひとりの創作家による創作性”なわけですから、話が迷走します。

これにケリをつけるならば、例えば「久石譲の音楽が好き」ということは、いろいろなタイプの作品があって、それぞれカラーも印象も違うけれど、根っこの部分で久石譲音楽を感じるからこそ好き、ということになるのではないかと思います。

 

話を戻して。

そういった経緯と思いもあり、当サイトでは同様の発言はしないように気をつけています。「またああいう曲聴きたい、あの頃がよかった」なんて口にしたことも書いたこともありません。ひと言で言えば”現在を否定する”ことにつながる発言はしていません。それは今の久石譲音楽が好きですし、現在進行形の創作活動を楽しく待っているからです。

もちろん過去の「思い入れのある私にとっての特別な作品」は指折り足りません。でも、それを引き合いに出して世に送り出される新曲・新作と比較することも天秤にかけることも、それは意味がありません。そもそも同じ土俵にあげるものではありません。その作品に親しんできた時間的尺度も違います。

「あの名曲のシンフォニック・バージョンを聴いてみたい」などと言うことはあるかもしれません。いや、あったと思います。これは過去を経て今の久石譲によって再構築・昇華してほしいという願いです。過去と現在、どちらも肯定しているからこそなのですが、、そこは書き手にしかわからない微妙なニュアンスなのかもしれません。

 

約35年です。

約35年も音楽の第一線で走り続けていることがすごいこと。どんな音楽ジャンルにおいても30年以上も活躍しているアーティスト、創作しつづけている作曲家、そうそういるものではありません。

そうなれば、その時代ごとに久石譲音楽に接してきた人はさまざまで、どの時代がとりわけ鮮明ともあり、どの時代で久石譲音楽が止まっている、いろいろな人がいて当然です。考えてみてください、35年です。人に置き換えたら10歳の小学生と35歳の社会人、これだけの時間の流れがあります。

作り手も受け手も常に変化するなか、約35年間の久石譲音楽を受け入れている人は、根っからの久石譲ファンということなのかもしれません。音楽性においても使用楽器においても、1980年代と2010年代の久石譲音楽は大きく変化しています。それと同じく聴き手としても変化しつづけ、ついて行っているということになりますから。

 

創作性と創作活動において、「過去は忘れる」という発言は尊重に値する、という結論です。過去にこだらわないとするその姿勢は、むしろ現役バリバリ、創作意欲のたえない現在進行形の挑戦として賞賛すべきことだと結論に至りました。

極論、「過去(の作品)を忘れている」わけではないはずです。自分が生んだ作品です。そこにいつまでもとどまりたくない、止まっていたくない、過去の栄光にすがることは自分の成長や創作性の進化をとめてしまう。だから「過去は忘れる」と前提条件をつくってしまう、既成事実としてしまう。これは大衆に向けてでもあり、自らに課した信念や軸なのだろうと。

 

 

休憩

「過去は忘れる」作曲家:久石譲がいたときに、、

過去の作品にこだわらないことと、作ったけど世に出していないことは、わけて考えるべきかもしれません。前者は上の結論づけてきた流れで納得できますし尊重できることですが、後者は…。

 

 

第二部 願い

一度世に送り出したもの、演奏会で披露したもの、つまり一度聴衆に向けて響かせた久石譲音楽たちは、せめてパッケージ化(CD)して残してほしいとも切に願うところです。

コンサートでの演奏・改訂を繰り返すことで完成版にもっていこうとする未だ過程な作品もあるとは思います。それとは別に映画、TVCM、施設提供など、すでにオリジナル版が完成され、お茶の間に浸透している作品も数多くあります。

依頼主との契約で、いついつまではCDにはしないでほしい、など契約や諸事情もあるのかもしれません。そこは推測の域を出ず大人の事情はわかりようもありません。パッケージ化を危惧するよりも、パッケージ化した先の聴衆をイメージしてほしい、その楽しみ方を信じてほしいとすら思います。

 

やはり好きな音楽は日常生活の中で溢れ響かせたいと思うのは、すごく純粋な欲求です。

作り手は作って一旦の完成をみた時点で解放されるかもしれませんが、受け手はその作品を聴いて、自分のなかに溶け込むくらい聴いて、日常的に聴ける環境にその音楽がなければずっと消化不良状態のままです。つまり作品化してもらわなければ、ずっとその断片だけが脳裏をさまよい、記憶や印象を消さないように努め、結果それが受け手としての過去への固執になってしまいます。

受け手が過去から解放されるひとつの手段がパッケージ化だと思っています。そうすることで安心して過去と対峙し、過去の作品として向き合って聴き続けられるわけです。

結論はここにあります。CD作品化、パッケージ化することで、聴衆ははじめてその「過去に区切りをつける」儀式をむかえられるということです。

 

当サイトでは、様々な集計もリアルタイムで表示しています。

作品アクセスランキング(週間)

orbis,dream more,JAL,Runner of the sprit,Untitled Music

直近の表示をキャプチャしたものです。一週間でのアクセス集計をリアルタイムに自動更新しているものですが、CD作品化されていない楽曲が数多く並んでいます。

 

作品アクセスランキング(累計)

JAL,搭乗,久石譲,NHK,世界遺産,みずほ,CM

週間集計の下に表示されている、当サイト設立時から今日までの累計集計。週間と異なり大きく変動しにくいランキングです。ただ、ここでもそのほとんどが未だパッケージ化されていないリストといってもいいラインナップです。(累計にして、今年2015年発表作品「Dream More」がTOPになっていることもすごい結果)

このふたつは操作もできない純粋な統計です。久石譲ファンの関心の見える化であり、ファンの要望、しいてはファン投票としてのひとつの指標ともいえる、潜在的声だとみることもできます。

 

音楽=無形芸術だからこそ。

音楽にはカタチがありません。無形芸術です。過去クラシック音楽の時代から、音楽史においてその特徴は変わりません。だからこそ文明社会となった20世紀は、多くの音楽家がパッケージとして残すことに力を注いできました。そのひとつの功績が、今日聴き続けられ演奏され続けているクラシック音楽です。風化することなく化石となることなく、今も生命が吹き込まれている音楽。

モーツァルトもベートーヴェンも、発表直後は埋もれてしまい、後に再発掘された名作も数多くあります。保管状態がよくなく時を経て再発掘・再演時に手直しされ、書き換えられた作品もたくさんあります。

それでも譜面に残すことで”無形芸術”をカタチにし、それを演奏することで引き継いできた音楽家たちがいる。プラス、現代社会には音そのものをカタチに残すことができるパッケージ化という技術がある。

記録すること、音を封じ込めることで、音楽遺産として未来に引き継がれていきます。おそらくモーツァルトやベートーヴェンが今の時代を見たら、素直にうらやましがるんじゃないかな、と思います。自分の作品が納得のいく完成版として演奏され、それが記録されている。以後脚色や書き換えられることとは別に、オリジナル版として未来永劫担保される音楽遺産、それがCD音源やDVD映像などとしてのパッケージ化です。

 

100年以内の話に引き戻したとしても、名指揮者の1950年代の録音音源、1980年代のコンサートライブ映像、このような貴重な記録を残してくれたおかげで、2010年代の私たちが音楽タイムスリップして楽しむことができることこそ、パッケージ化の進歩です。

同一作品であっても年代ごとの演奏やコンサート映像が記録されてる。むやみに乱立させることへの良し悪しこそあれ、年輪のように刻み込まれる時代ごとの演奏の変化は、聴き手としては醍醐味です。

同じ作品がその時の解釈(演奏)でまったく違う顔をのぞかせる。それだけ作品に深みがある証拠です。音楽が無形芸術ということは、常に変化することの許されている貴重な芸術ともいえます。そういった変化や成長を、瞬間を封じ込めることができる、それがパッケージ化です。

 

わかりやすい話、今20代の人がカラヤンに興味を抱いたとして、もう亡くなった名指揮者の演奏会に行くことはできず、それは映像でしか体験できません。なにが名指揮者たらしめているのかわからないなら風化してしまいます。映像であっても疑似体験、自分の目や耳で体感できるということは、証拠(映像・音源)をとおして実感する、その個人体験の連鎖が大衆化の波となり未来へ引き継がれていく。

わかりやすい話、今生まれていない人は、過去の音楽遺産に触れたいとき、そこに音源や映像がないものには、興味があっても触れたくてもどうしようもない、カタチがないものには。もっと言えば、過去には無形芸術として存在していたかどうかさえわからない、なんてことも起きてくるでしょう。存在がわからない、そもそも存在した音楽なのかすら不明、というなんとも口惜しいことに。

 

パッケージ化の危惧と警鐘。

安易なパッケージ化は創作家やその創作作品を過剰に消耗してしまい、創作家の継続的創作性が担保されない。パッケージ化への価値やありがたみ、創作家への尊厳を軽視してしまう大衆。

一枚のCDとしてカタチに残すだけでも、そこにかけた時間やお金、演奏者、機材、設備、録音場所など、莫大な投資が発生しています。そしてなによりも、カタチに残すことで自らを削った創作性。

今の時代、「音楽家なら作った作品をCD化することは当然」と当たり前に思っている感覚、なかば前提条件のようになってしまっている風習を、少し見直す必要もあるのかもしれません。

 

海外ではひとつの映画作品をつくるに企画段階でまずは多くの投資を募ると言います。そうやって集めたお金で作品をつくる、つまりその作品を期待する大衆が、先に投資するという流れです。予算が集まらなければ製作がスタートできない、ゆえに作品は誕生しない。これを音楽業界に置き換えたら、「CDを作ってほしいなら、そう思ってる人達が資金集めてよ、そしたらパッケージとして完成版を残すから」 こんなこと言われてしまったら……。いや、今のような風潮、音楽業界の不景気、尊重されない創作家からの反逆として、起こり得てくる現象かもしれません。

だからこそ、聴衆としても見つめなおすべきところは改め、要望すれば届くかもしれない今の時代に感謝し、CDやコンサートにお金を払うことが、知らずのうちに次の創作活動への投資であり支援である、という尊い循環サイクルになっていけばいいなと思います。

 

 

言わなくてもいい蛇足。

ここではダウンロードやストリーミングという手法にはふれませんでした。話がややこしくなるため。ただそういった最新デジタル技術が、パッケージ化の解決策になるとも思ってはいません。費用は安価に”音楽の配信”はしやすいのは事実です。でもそれがパッケージ化かと言われると、ややこしくなります。CDやDVDが音楽記録媒体、カタチある有形媒体で、一方はデータで無形のまま。そういうことを言っているからではありません。CDでもDVDでも有形媒体ではありますが、再生機器がないと意味をなさないとするならば、CDでもデータでも同じことになります。だからここに触れるとややこしいのでやめました。

ゲーム業界もソフトと本機、アプリとケータイ、同じように媒体としてのくくりがややこしくなります。唯一、メディア媒体として単独で機能できるのは、例えば新聞・雑誌・書籍などの活字媒体なのかもしれず(楽譜もそうですね)、そこにも電子書籍などとまたややこしい話となってくるわけです。ひいては《無形、有形、カタチ、パッケージ、メディア、媒体》という定義が非常に難しいことではあるのです、この現代文明社会においては。

 

……

じゃあ何を語ってきたんだ、となってはいけない。

切望している願いは「音楽遺産として、未来に残していける音そのもの音楽そのもののカタチ化、そのカタチ化されたものが大衆に享受されること、現代社会において老若男女が一般的に受け取りやすい方法、保管維持しやすい媒体」です。なので盤としてのCDやDVDに絞って話を進めてきました。

 

 

アンコール 未来へ

ファンは簡単にやめることができます。プロはそんなことはできません。常に時代と向き合い、大衆と向き合い創作活動を続けていく。一生のうちにあの人のファンだった時期もあったなは通用しても、プロの世界では通用しません。創作家は死ぬまで創作し続ける宿命を背負っています。時代が求めた人たち、使命をもって選ばれた人たち、それが一流のプロ、生涯のプロフェッショナル。

だからこそ、ある一点やある一時代にフォーカスして意見してしまうよりも、点ではなく線で、道を一緒に歩み続ける(ことはおこがましいとしても)、応援しつづけ、見守りつづける。

作り手も受け手も、双方が過去に固執せず、過去に後ろ髪ひかれることなく、お互いが同じ未来を向いている。今響く音楽のみに集中にて耳を傾けわかちあう。パッケージ化とは、カタチにしてしまったことで縛られるものではなく、創作活動における通過点のひとつにして、次のステップへの重要な線引き、区切りです。

ということは、「過去を忘れる」(作曲家)と「過去に区切りをつけたい」(聴衆)は、結果交錯しながらも一本の線につながってくるように思います。お互いが現在をわかちあうことのみに集中し、その連続連鎖が未来をつくっていくならば。

 

同じ音楽を聴いて共感しあい、わかち合うなにかが生まれる。これこそが聴衆にもたらされる一番の喜びです。その感動のかたまりが創作家にも届くなら、同時代性としてこんなに尊い幸せなことはありません。

きっと大きな価値を見いだす聴衆はそこにいますし、仮に現代にいなかったとしても、未来にはきっと埋もれていても掘り起こしてくれる真の聴衆がいるはずです。カタチとして残していてくれたならば。

 

好きだからこそ尊重したい(第一部)、好きだからこそ欲も出る(第二部)。信じてたのに裏切られてがっかりする(これは自分の都合のいいように信じて、結果勝手に裏切られたと思ってしまう心理なのですが)。この喜怒哀楽の波をコントロールすることが非常に難しい。「好きなればこそ」の一人相撲をとってしまう感覚といったらいいでしょうか。それもまた幸せなことなのかもしれません。一途に、夢中になれる、ことがある。

 

 

最後に。

現時点でも数多くある久石譲未作品化の名曲たちをご紹介します。過去に区切りをつける儀式を迎えられるよう、いつの日か叶う願いを込めてカテゴライズしたものです。

そっと差し出します。

久石譲 未発売(未CD化) | Unreleased Work

 

Live 2015

 

Blog. 「読響シンフォニックライブ」2015年12月放送 久石譲インタビュー内容

Posted on 2015/12/26

10月29日、東京芸術劇場で公開収録を行った「読響シンフォニックライブ」の模様が、12月・1月とプログラムを2つに分けて放送されます。今回は12月に放送された内容および久石譲インタビューをご紹介します。

 

日本テレビ系「読響シンフォニックライブ」
放送日時:12月26日(土)午前2:55~4:25(金曜深夜) 日テレ 90分拡大版
放送日時:1月2日(土)午前6:30~8:00 BS日テレ 90分拡大版

出演
指揮:久石 譲
ソプラノ:森谷真理
テノール:高橋淳
バリトン:宮本益光
合唱:武蔵野音楽大学合唱団(合唱指揮:栗山文昭)
児童合唱:東京少年少女合唱隊(合唱指揮:長谷川久恵)
管弦楽:読売日本交響楽団
司会:松井咲子

曲目
ジョン・アダムズ:
ザ・チェアマン・ダンス
※2013年8月28日東京芸術劇場

カール・オルフ:
〈カルミナ・ブラーナ〉
《カルミナ・ブラーナ》
運命、世界の王妃よ
第1部「春に」
草の上で
第2部「居酒屋にて」
第3部「求愛」
ブランツィフィロールとヘレナ
運命、世界の王妃よ
※2015年10月29日東京芸術劇場

 

補足)
2013年8月28日収録分は「オーケストラストーリーズ となりのトトロ」「風立ちぬ」などを披露した演奏会で、同2曲はすでに2013年11月に放送されている。今回は当時放送されなかった「ザ・チェアマン・ダンス」(ジョン・アダムズ)が放送される。

 

 

久石譲番組内インタビュー

作曲家として活躍する久石 譲が指揮者として登場!

今回は読響と様々な音楽活動で共演している作曲家・久石譲さんが指揮者として登場。番組MCの松井咲子さんがお話を伺いました。

読響との初共演時の印象は…?

松井:
久石さんと読響の初共演は3年半前ですが、今でも印象に残っていることはありますか?

久石:
ショスタコーヴィチの交響曲第5番などを演奏したのですが、作曲家の僕が指揮をするということで、読響の皆さんに助けていただき、とてもいい演奏になったということを覚えています。その他にも、初共演の翌年、2013年には宮崎駿監督作品、「風立ちぬ」の映画音楽レコーディングに読響が参加。読響にとってスタジオジブリの映画音楽を演奏するのは初めての経験でした。また、その直後に読響と久石さんは2度目の共演を果たし、オーケストラストーリーズ「となりのトトロ」(語り:樹木希林)、ベートーヴェン・交響曲第7番、そしてジョン・アダムズ作曲の「ザ・チェアマン・ダンス」を演奏しました。

現代音楽への思いとは…?

松井:
読響と2度目に共演された時、ジョン・アダムズ作曲の「ザ・チェアマン・ダンス」を演奏されていましたが、よく知られた音楽の中に現代曲を演奏されたということには何か狙いがあったのですか?

久石:
自分は作曲家なので、もちろん映画音楽も書きますが、やはり作品(純音楽)も書いています。なので、Up to date(最先端の)という感じで作られているものを紹介していくというのは自分の義務でもあるというか、自分がやれるならやっていこうと思いました。

松井:
現代曲を書かれているときと、となりのトトロのような映画音楽を書かれているときに、二面性といったものは何か意識していたりしているのですか?

久石:
確かにあります。ですが、もう一歩下がって考えると「曲を作る」という行為は一緒ですよね。非常に複雑な五十段ぐらいの真っ黒になった譜面を書くことと、16小節ぐらいのシンプルなメロディで、人に良いなと感じてもらおうとすること、どちらが難しいかというと、16小節の方が大変かもしれないです。誰でも出来てしまうことを「それでも久石である」と言わせる曲を書こうとするならその方が大変ですよね?

今回、一曲目にお送りしたのはジョン・アダムズ作曲のザ・チェアマン・ダンス。この曲の魅力を久石さんにお伺いしました。

久石:
リズムがはっきりしていて、とても分かりやすい曲です。ですが、非常にシンフォニックに作られていて、理屈っぽくない。聴いていてもオーケストラの醍醐味を全て味あわせてくれる曲です。

 

ジョン・アダムズ作曲:ザ・チェアマン・ダンス
ジョン・アダムズのオペラ「中国のニクソン」晩さん会の場面で演奏される曲の管弦楽版。ミニマル・ミュージックの中でも代表的な作品となる。

 

そして、2曲目にはカール・オルフ作曲「カルミナ・ブラーナ」をお送りしました。気持ちが高まるような、壮大なオープニングから始まるこの曲について久石さんにお話を伺いました。

久石:
この曲は「世俗カンタータ」と言われています。要するに一般の民衆の持っている力、例えば「夏になったらみんなで酒飲もうよ」とか、「あの人が好きだ」というようなことを歌っています。言葉自体にはそれほど深い意味はないけれども、結果そこから出てくる人間の持つエネルギーや「生きることは大変なことだけれども、どんなに素晴らしいんだろう」という人間に対する賛歌。それはこの曲の底辺にものすごく強い力として持ってると思います。

 

カール・オルフ作曲:〈カルミナ・ブラーナ〉
19世紀の初めにドイツ南西部の修道院で発見された詩歌集に基づいて作曲された世俗カンタータ。人間の持つエネルギーや人々に対する賛歌などが歌われている。

 

今後の読響と久石さんの関係性は?

松井:
改めて、久石さんにとって読響はどんな存在ですか?

久石:
日本を代表する素晴らしいオーケストラで、皆さん一生懸命に演奏してくれます。なので、この関係性は長く続けていきたいと思いますし、より大きなプロジェクトが出来るような、点ではなく、線になる活動を今後もできるといいなと思っています。

(2016年5月開館予定、久石譲が芸術監督をつとめる長野芸術館、そのこけら落とし公演を読売交響楽団との共演にて記念コンサート開催予定)

松井:
一読響ファンとしてとてもうれしいです!久石さんと読響の中がより深まっている気がします。そして、次回の読響シンフォニックライブでは久石譲さんが書き下ろした新作、コントラバス協奏曲の世界初演の模様を放送!

「音がこもりがちになる低域の楽器をオケと共演させながらきちんとした作品に仕上げるのはハードルが高かったです。僕は明るい曲を書きたかったので、ソロ・コントラバス奏者の石川滋さんには今までやったことないようなことにもチャレンジしていただく必要もありました。」とこの曲について語ってくださった久石さん。どんな作品になったのかは、次回の放送をお楽しみに!!

(公式サイト:読響シンフォニックライブ より編集)

 

読響シンフォニックライブ 2015

 

Info. 2015/12/26 [TV] 「読響シンフォニックライブ」カルミナ・ブラーナ(12月) コントラストバス協奏曲(1月) 【12/23 update!】

10月29日、東京芸術劇場で公開収録を行った「読響シンフォニックライブ」の模様が、12月・1月とプログラムを2つに分けて放送される。

日本テレビ系「読響シンフォニックライブ」
放送日時:12月26日(土)午前2:55~4:25(金曜深夜) 日テレ 90分拡大版
放送日時:1月2日(土)午前6:30~8:00 BS日テレ 90分拡大版 “Info. 2015/12/26 [TV] 「読響シンフォニックライブ」カルミナ・ブラーナ(12月) コントラストバス協奏曲(1月) 【12/23 update!】” の続きを読む

Blog. 「キネマ旬報 2003年1月下旬号 No.1372」 久石譲インタビュー内容

Posted on 2015/12/21

雑誌「キネマ旬報 2003年1月下旬号 no.1372」に掲載された久石譲インタビューです。

 

 

フロント・インタビュー 32

久石譲(音楽家)

未来へ - 音楽家・久石譲の挑戦

映画「壬生義士伝」の宣伝素材には、原作者、監督に並んで、音楽担当の名前が大きく記されている。久石譲。宮崎駿、北野武両監督作品の音楽担当者として功名成って久しい彼だが、幕末京都守護職の武士をめぐる物語は単なる名義貸出の場ではない。久々となる本格派時代劇の仕事に対して、希代の人気音楽家はまた新たな創作意欲に燃えていたのだ。そして、その前後を眺望するならば、ここ2、3年で大きく変化を見せ始めている素顔も鮮明に浮かび上がってくる。映画音楽の作曲家として、ピアニストとして、指揮者として、そして会社経営者として…。さまざまな表情に富む現代日本映画音楽の第一人者に、今後の展望も併せて訊いてみた。

インタビュアー 賀来タクト

 

ハリウッドで言えば「グラディエーター」

「これはやっておかなければならない。そう思いましたね」

表情が引き締まる。映画「壬生義士伝」の音楽依頼を受諾した理由の一つとして、久石譲から出た答え。そこには真摯に映画に携わろうとする人間の決意が、まず鮮やかに浮かんだのだった。

「自分のためにも、恐らく日本の映画音楽のためにも、これはやっておくべきだと思いましたね。幸い十分な音楽制作費も出していただきましたから、なおのこといいものを作ろうという腹が決まりました。そういうことを雑にしている映画がまだ多いと思うんです。その意味ではうれしかったですね」

自分のために、という点では、長く映画音楽に関わってきた者としての誇りがそこにある。

「ハリウッドでいえば『ブレイブハート』や『グラディエーター』ですよね。日本で古典活劇をやるとするなら時代劇ですから、当然、音楽家としてはチャレンジしておきたいジャンルですし、それをきちんとこなせる日本人でいたいと思いましたね。音楽の持つダイナミズムを、映像に乗せてこれだけ表現できるんだぞってね」

もちろん、滝田洋二郎という映画監督の存在も大きかった。

「大人の対応をされる方でしたね。美術や撮影を含めて、現場のプロへのリスペクトがきちんとあって、久しぶりに王道を行く本格的な映画音楽を思い切り書けたという満足感がすごくあります。音楽も大切に扱ってくださいました」

音楽について踏み込むなら、義に身を殉じた新撰組隊士の物語は感動的だが、そういう情感に溺れることは決してなかったという。

「主人公の吉村貫一郎って、とにかく魅力的なんですよ。エンドロールに流れるテーマ曲は、いわばあの時代に生きた人々への鎮魂曲です。でも、映画の音楽って、あまりドラマに共感しても実はダメなんです。僕の場合、あまり共感していない。むしろぐっと対象化しています。この映画でも醒めた意識を持って取り組んだからこそ、全体がしっかり見えたと思うんです。映像では出演者がガンガン泣いていますけど、僕としてはそこから少し距離をとって高潔な感じで包み込むようにしました。本来ならもう少し情緒を盛り込むところを、今回は吹っ切って作ってるんですね。それがやり甲斐であり、大きな課題でもありました」

ここ数年の動きに目を移すなら、一昨年に初監督作品「カルテット」を発表。以来、映画に対する視野が広くなっている気配がある。

「確かに、僕の中に”映画にしかできないことって何だろう”というのが付いて回ってますね。前よりも強く。今、映画的なことを本気でやってる人って誰なんだろうって考えると、例えば宮崎駿さんや北野武さんなどが筆頭に挙がると思いますが、実際、宮崎さんとの仕事は3年くらいかかります。ジブリ美術館の短編『めいとこねこバス』などは、去年で一番緊張した仕事でした。だからといって今、映画音楽を完成させようとかいう発想はない。音楽家としてどうするかが一番で、その一分野として映画音楽があって、ピアノやソロアルバム、コンサートもある。自分が大きくなれば、映画音楽も自ずと大きくなっていく。そういう捉え方ですね」

 

久石譲の多面性が集約される時

久石譲という男は単なる「作曲家」ではない。音楽家として実に多面的な顔を持っている。アーティストという横顔一つをとっても、もはやピアニストと断じることは難しい。ここ2、3年で音楽を担当した映画を眺めるなら、例えばオーケストラへの傾倒が見える。

「すっごく傾いてますね。音楽活動をしていて一番興奮する瞬間って何かといえば、今まではピアノを弾いているときが一番上り詰められたんですよ、ステージの上で。じゃ、80人というオーケストラを前に指揮をとるとなると、これまた相当にビビるわけです(笑)。演奏しているのは耳の肥えた音大出身者ばかりで、音に厳しい。そういう人たちをいかに説得して受け止められるかという、パワーと精度が自ずと必要になってくるんですね。そういう意味での楽しさってある。ピアニストの自分も大切だけど、これからは指揮活動も増やしていきたいと思ってます。今、ジムに通って指揮用の筋肉を鍛えている最中なんです(笑)」

久石譲はピアノに始まりピアノに帰す、という拙論は過去のものになりつつあるようだ。

「変わったといえば、これまで手書きだったスコアも、最近はコンピューターを使うようになりました。手書きの微妙なニュアンスはまだ出せないですが、何よりも時間的な問題がクリアできますね。例えば『壬生義士伝』の場合、オーケストレーションでとれた時間って3~4日しかない。そういう問題をどう解決して量産態勢を敷いていくかも今後重要なんです」

量産態勢という言葉の背景には、自社スタジオの管理、運営を含む、会社経営者としての一面がにじむだろう。自社レーベル「ワンダーランド・レコード」の立ち上げも最近の目立った動きといえる。

「会社(ワンダーシティ)といっても、僕が音楽家として必要なものを求めていった一つの結果に過ぎませんが、例えば宮崎さんの場合ですと、スタジオジブリをどう生かすかが活動の原動力になっている感じがありますね。僕も同じです。うちには20人の社員がいて、3つのスタジオがありますが、斜陽になっているレコード業界で、会社の生きる道と僕自身のやりたいことが一致する道はないのかという模索の末生まれたのが、ワンダーランド・レコードなんです。これを始めたら社員が元気になりましてね。うれしかったなあ」

さても映画ファンが気になるのは、以前より何かと伝わってきていた監督最新作の行方だろう。

「もう一本は作ってみたいと思っています。素直に言って。でも、音楽家である自分を犠牲にしてまで撮ろうとは思っていませんよ。毎日がカオスだし、音楽家としてまだまだ過渡期にいると思います。けれど、仮に映画監督をやるとしたなら2005年くらいかな」

その言葉は、2005年までに音楽家としての「もがき」にケリをつけるという決意にも映る。

「2004年には二つのビッグな企画があるんです。まだ正式な発表はできませんが、ヒントはこのインタビューに出ていますからね(笑)。ぜひ楽しみにしていてください」

(「キネマ旬報 2003年1月下旬号 no.1372」より)

 

 

 

Blog. 「NHK『トップランナー』の言葉 仕事が面白くなる!」 久石譲 インタビュー内容

Posted on 2015/12/20

1998年NHK「トップランナー」に久石譲が出演しました。各界著名人を招いてのトーク番組は長年TV放送され、「トップランナー vol.1-7」書籍化もされています。久石譲出演回は単行本「トップランナー Vol.7」に文字起こしされています。(1997年宮崎駿監督出演回は同Vol.1に収載)

そこから”仕事が面白くなる!”をテーマに、ゲスト28人の「心を奮い立たせる“熱い言葉”」を再編集して文庫化された本「NHK『トップランナー』の言葉 仕事が面白くなる!」(2008年8月20日発売)。久石譲収載もTV番組および書籍化されたVol.7から選りすぐられた部分になります。

 

 

1回でもつまらない仕事をしちゃえば、そこで終わりですね。

久石譲(作曲家)

 

感情を”盛り上げない”音楽

1997年、ベネチア国際映画祭の公式上映会はスタンディングオベーションにわきかえった。

10分以上にわたり鳴りやまなかった拍手が讃えたのは、北野武が監督し、久石譲が音楽を担当した『HANA-BI』。この作品が『羅生門』『無法松の一生』に続く邦画史上3本目のグランプリ受賞作となるであろうことを、強烈に印象づけた瞬間であった。

作曲家としての久石を語るとき、決して忘れてはならない人物が二人いる。北野武と宮崎駿両監督である。とりわけ「北野映画ならでは」と表される静かな音楽世界は、久石の設計が支えていると言っても過言ではない。

北野作品の音楽づくりについて、久石はこう語る。

「曲の雰囲気などの打ち合わせをすることもたまにはありますが、実はそれほど深いものでもちゃんとしたものでもないんです。『HANA-BI』のときも、『今までずっとうまく行っているんだからそのままでイイじゃないの』なんて北野監督から軽く言われてしまったりして。

でもね、音楽っていうのは、映像にかぶせると実はとっても怖いんですよ。だって映像がものすごく丁寧に、きめ細かくその世界をつくったところに、音楽がどんとペンキを塗るように重なってくるわけですから。

特に北野監督の映像というのは、エモーショナル(感情的)な部分、例えば俳優が汗を垂らして演技しているような部分を削っていってしまうんですね。セリフも極力少なくしてあるし。そんな映画で音楽がトゥーマッチになると、しらけてしまう。それで音楽も極力引いた形でつけたいんだけど、生の弦(楽器)などをつけると、どうしてもエモーショナルになってしまうんです。それが北野監督の世界を壊してしまうのではないかと、すごく怖いんですよね」

北野作品の音楽を設計した者だけが経験する葛藤。そんな中久石が悟ったのは、「格調」という言葉だったという。

「格調のある音楽。つまり感情を変に盛り上げるのではなく、一歩引いたところから格調高い、しっかりとメロディがある音楽をつくり上げる。その一点をどうにかすればどうにかなる。それが北野映画を通して学んだことと言えるかもしれない」

 

「自分自身で逃げ道がないようにした」

一方、もう一人のパートナー、宮崎駿作品への取り組みにも、学ぶべきことが多かったという。

宮崎作品に対して久石は、1984年の『風の谷のナウシカ』以来、6作にわたり多大な貢献をしてきた。特に1992年『紅の豚』から5年ぶりに公開された『もののけ姫』では、わずか1分半の曲に2週間をかけるほど、音づくりに悩むことがあったという。

「『もののけ姫』に対しては、本当に正面から取り組んだんです。自分自身で逃げ道がないようにした。何でもそうですが、正面切って自分の逃げ道がないようにすると、気負いが先に立って逆にうまくいかないことってありますよね。だからわざと斜に構えて取り組むようなこともあります。そうするとかえっていいスタンスで良い仕事ができることがある。

でもこれ(『もののけ姫』)に関しては宮崎監督の熱意に圧倒されちゃって、こちらも防御を張っている間もないうちに引きこまれてしまった。そうなると、こちらとしてもやることはただ一つ。フルオーケストラでいいものをつくることだけだった。これはキツかった。でもうまくいってよかったと思います」

しかし、あの不朽の名作ともいえる『もののけ姫』のテーマ(歌)が誕生した瞬間について久石は、ファンには意外とも驚愕とも思える証言をする。

「あれにかけた時間は20分か30分ぐらいかなあい。だって全体のテーマ曲とは思ってもみませんでしたから。

実はいつものイメージアルバムづくりのやり方だと、宮崎さんからこういうイメージです、と10個ぐらい言葉をいただくんですよ。その言葉に対してこちらもイメージを広げて曲を書いていくんです。でも『もののけ姫』に関して言えば、来る言葉がすべて『たたり(神)』とか『もののけ(姫)』とかでしょ。どうしても暗くなってしまって、明るいアルバムはまずできない。

宮崎さんもこれはマズイと思ったらしくて、珍しく1曲1曲に対して内容をしっかり書いた手紙をいただいたんです。その中の『もののけ姫』のところに、『はりつめた弓のふるえる弦(つる)よ 月の光に』というポエムような一節があって、これは歌になるなと素直に思って、ささっとつくってレコーディングしちゃった。それがテーマ曲になったという経緯ですね」

 

だから一生勉強する

宮崎監督との間で産まれたそんな絶妙のパートナーシップは、一見、入りこむ隙すらないような最高のコンビネーションだ。だか久石は極めて冷静である。

「いや、コンビではないですよ。毎回、宮崎監督は、『どこかにいい作曲家はいないか?』と探していると思いますよ。そのたびにたまたま、『やっぱり久石がいいや』と思って使ってもらっているだけだと思います。だから1回でもつまらない仕事をしちゃえば、そこで終わりですね

この厳しさ、プロ対プロのクールな関係は、北野監督との場合でも同じだという。

「僕ら、すごくハッキリしているのは、仕事の場でしか会わないんです。普段一緒に飲みに行くようなことも一切しません。映画のたびに、『今度はこういう映画ですが、どうですか?』『では一緒に』というスタンスです。

だからもう、本数を重ねるにつれてすごく苦しくなってきます。ほんと、苦しいですよ。だって同じ手は使えませんから。だから同じように一生勉強していかないと。だって『この前やったのとまた同じじゃない』と言われたら終わっちゃいますから。そう考えると、本当に、すごく厳しい現場なんです。音楽の現場というのはね」

1998年3月6日放送(MC大江千里、益子直美)

(NHK「トップランナー」の言葉 仕事が面白くなる! より)

 

 

なお、書籍「トップランナー TOP RUNNER Vol.7」(1998年刊行)ではTV番組文字起こし忠実に約35ページに及び掲載されています。

目次(抜粋)

映画音楽の第一人者 久石譲

パラリンピック総合プロデューサー
■演出に初挑戦
■総合プロデューサーをひきうけた理由

映画音楽はこう作る
■北野映画の音楽
■真正面から取り組んだ『もののけ姫』
■二人の監督との関係
■ソロ活動

ドクサラ型音楽家人生
■現代音楽との出会い
■ポップス音楽に移った理由
■ポップスフィールドでの覚悟と戦略

人生道場 俺の演奏が世界一

新しいチャレンジ
■久石音楽は変わり続ける
■基礎体力、基礎精神力をつけろ

ファイナル・ソート ”音楽家”久石譲 大江千里

 

 

内容すべては紹介できませんので、文庫化では収載されなかったけれども特に印象的だった「基礎体力、基礎精神力をつけろ」項から一部抜粋してご紹介します。

 

久石:
「とにかく、うまくいかないのは当たり前のことだから、メゲないってことですね。もし二勝一敗ペースで物事をこなしていけたら、これはもうとんでもない勝率です。つまり、自分たちが大事だと思うことも三回に一回はコケてもいいわけですよ。問題はむしろ、コケたときにそれを自分でどう受け入れるか。コケそうになる前に、そういう大変なところへ自分を追い込むのをやめて引いちゃったりしてしまうケースがすごく多いような気がするんだけど、結果をしっかり受け止めるっていう気構えができていたら徹底的にやれるし、やった分だけ…勝ったにしろ負けたにしろ、成功したにしろ思い通りにいかなかったにしろ、残ってくれるものの厚みがどんどん変わってくる。そういう意味では、もう一度言いますけど、負けることをどう受け入れるか、それを意識すると人生ってずいぶん変わるんじゃないかな。負けることにメゲない基礎体力、基礎精神力をつけていくといいんじゃないかなっていう気がします。」

(トップランナー TOP RUNNER Vol.7より)

 

 

 

 

 

 

Blog. 「ストレンジ・デイズ 2015年12月号」 久石譲 MF Vol.2 コンサート紹介

Posted on 2015/12/19

2015年10月21日発売 雑誌「ストレンジ・デイズ 2015年12月号 No.193」

2015年9月24、25日開催「久石譲プレゼンツ ミュージック・フューチャー Vol.2」コンサート・レポート記事が掲載されていました。執筆家によるプロ目線でのそのレポート内容をご紹介します。

 

 

コンテンポラリー・ミュージック
MUSIC FUTURE VOL.2

「JOE HISAISHI presents MUSIC FUTURE VOL.2」というコンサートがよみうり大手町ホールで、2015年9月24日(木)、25日(金)、2日にわたって行われた。演奏されたのは以下の5曲。

スティーヴ・ライヒ 《エイト・ラインズ》 (1983)
ジョン・アダムズ 《室内交響曲》 (1992)
ブライス・デスナー 《Aheym》 (2009)
久石譲 《Single Track Music 1》 (2014-15)
久石譲 《室内交響曲》 (2015)

久石譲が映画の音楽で知られた人物であることは、あらためて言うまでもないだろう。北野武の作品や宮崎駿のアニメーションで特に多くの人びとに記憶されているし、ほかにもフランス映画『プセの冒険 真紅の魔法靴』(監督:オリヴィエ・ダアン)、香港映画『海洋天堂』(監督:シュエ・シャオルー)、中国映画『スイートハート・チョコレート』(監督:篠原哲雄)といった海外作品にも参加している。

わたしにとっては、しかし、映画の音楽は後からのものだ。「久石譲」と名のる以前、本名の藤澤守での作品を70年代、記憶が間違っていなければ、ふれたことがある。そしてアルバム『MKWAJU』(81年)のインパクトは、赤ーとオレンジのあいだくらいの色だろうか?ーとグリーンとがコントラストをなす色鮮やかなジャケット・デザインとともに、大きい。すでに上記のライヒやフィリップ・グラスなどの「ミニマル・ミュージック」が、都会的な洗練とシステマティックなつくりになったことに対し、アフリカの大地に根差したような力強さを回復する、というようなことが謳われていたのではなかったか。一度デジタル・マスタリングされ再発してはいるが、そちらは手にしていないので、確認してはいないのだけれども。

久石譲のオフィシャル・サイトをみると、81年の『MKWAJU』が「初の作曲・プロデュース作品」としてある。そして翌82年がファースト・アルバム『INFORMATION』、83年が映画公開に先がけてのイメージ・アルバム『風の谷のナウシカ』とつづく。そして以後、数々の映画の音楽が年ごとに並ぶことになる。そしてそれぞれのなかには『MKWAJU』で響いていた音色が、反復される音型が、いつも、というわけではないかもしれないが、垣間みられた。特にその親しみやすいメロディの背景に。

話をMUSIC FUTUREに戻す。

久石譲はここで、新たに自らが同時代と感じ、親しみを持ってきた音楽を、自らの手であらためてプログラミングしている。それは、映像とともにある音楽とは別の、映像がないことで成りたつ、音楽のみでのコンサートで体験される音楽であり、それはヨーロッパ由来ではあるかもしれないが、現在は世界に広がっている「コンサート音楽」だ。そして、久石譲自身とほかの作曲家の作品が、照応されるべく、組みたてられている。

確かに作曲家たちは親近性のある作品を自ら企画するコンサートで並べてきたし、いまでもそういうことは多い。だが、それが多くの聴き手を集めることは難しい。たとえどれかの作曲家に興味があっても、情報そのものがその聴き手まで届かないことだってありうる。おそらく、ライヒやアダムズ、デスナーを並べて2回のコンサートを開き、聴き手を集めることができる人物はけっして多くない。久石譲が「presents」してこそこれだけの人びとが集まると言ってもいいだろう。それは大きな意味がある。わざと意地悪な言い方をするなら、もしかしたら聴き手のなかにはそれぞれの作曲家の名は知らない人がいるかもしれない。それぞれの作品が持っているいろいろなテクニカルだったり思想的だったりすることはぴんとこないかもしれない。それでも、そこで響く音楽は、いわゆる「難解な現代音楽」ではなく、それなりにノれ、楽しめることがわかる。久石譲が企画するコンサートで名を知ることになって、それが少しずつでも、広まっていくかもしれない。

コンサートのことだけではなく、久石譲の作品についても紹介しておこう。「VOL.2」で初演された2作品は、楽器編成も構成も大きく異なっている。

《Single Track Music 1》はサクソフォン・クァルテットとパーカッションのための作品だが、全5人の演奏者がいて、同時に音を発しながらも、和音というか重音というか、になることがなく、タイトルどおり、響いている音は「シングル」。だから、聴く側からすると、何が起きているのかはっきりと耳で追っていくことができる。だが同時に、ホケット(=分奏)とみなすなら、それは初期ライヒの作品にあったような、音の受けわたし、メロディの生成するプロセスそのものが音楽作品化しているのであり、また、奏者同士の音を「聴きあう」ものとして提示されている。似たような試みは清水靖晃の『ペンタトニカ』に見いだすことができるけれども、ここではパーカッションによる音色の変化やアクセントが加えられるおもしろさもある。

《室内交響曲》は、作曲者自身が「エレクトリック・ヴァイオリンのための協奏曲」と呼ぶべきかもしれないとMCで語っていたもので、6弦のエレクトリック・ヴァイオリンが小編成のアンサンブルにソロとして加わる(ソロは西江辰郎)。この楽器は通常のヴァイオリンの音域よりも低い方が広くなっていること、また、アンプリファイアとして、シーケンサーのような「重ね」方が可能になっている。アンサンブルの書法として特に珍しいことではないけれど、金管楽器の3人はところどころでマウスピースだけを楽器本体からはずし、声を重ねることで特殊な効果を生みだしもする。

久石譲のコンサートは、もちろん映画の音楽を演奏するコンサートもあるし、それらをもとにしながら別のかたちに組みかえた『WORLD DREAM ORCHESTRA』のコンサートがあり、《第九》を指揮するものもある。より多くの聴き手を動員できるコンサートに隠れ、ともすれば「MUSIC FUTURE」は地味に、また「色もの」のようにみてしまう人もいるかもしれない。だが、これらを全体を見渡してみたときにこそ、現在の、久石譲の方向性が浮かびあがってくる、あるいは、より広い音楽の世界のなかでのこの音楽家の位置がみえてくる、のではないだろうか。

小沼純一

(雑誌「ストレンジ・デイズ 2015年12月号 No.193」より)

 

ストレンジ・デイズ 2015年12月号

 

Disc. 久石譲 『Orbis for Chorus, Organ and Orchestra』 *Unreleased

2015年12月11日 世界初演

 

Orbis for Chorus, Organ and Orchestra 
I. Orbis ~環 / II. Dum fāta sinunt ~運命が許す間は / III. Mundus et Victoria ~世界と勝利
初演:2015年12月11日 東京芸術劇場
演奏:久石譲(指揮)、読売日本交響楽団

 

 

「Orbis ~混声合唱、オルガンとオーケストラのための~」(2007)

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「Orbis」 ~混声合唱、オルガンとオーケストラのための~
曲名はラテン語で”環”や”繋がり”を意味します。2007年の「サントリー1万人の第九」のために作曲した序曲で、サントリーホールのパイプオルガンと大阪城ホールを二元中継で”繋ぐ”という発想から生まれました。祝典序曲的な華やかな性格と、水面に落ちた水滴が波紋の”環”を広げていくようなイメージを意識しながら作曲しています。歌詞に関しては、ベートーヴェンの《第九》と同じように、いくつかのキーワードとなる言葉を配置し、その言葉の持つアクセントが音楽的要素として器楽の中でどこまで利用できるか、という点に比重を置きました。”声楽曲”のように歌詞の意味内容を深く追求していく音楽とは異なります。言葉として選んだ「レティーシア/歓喜」や「パラディウス/天国」といったラテン語は、結果的にベートーヴェンが《第九》のために選んだ歌詞と近い内容になっていますね。作曲の発想としては、音楽をフレーズごとに組み立てていくのではなく、拍が1拍ずつズレていくミニマル・ミュージックの手法を用いているので、演奏が大変難しい作品です。

「Orbis」ラテン語のキーワード

・Orbis = 環 ・Laetitia = 喜び ・Anima = 魂 ・Sonus, Sonitus =音 ・Paradisus = 天国
・Jubilatio = 歓喜 ・Sol = 太陽 ・Rosa = 薔薇 ・Aqua = 水 ・Caritas, Fraternitatis = 兄弟愛
・Mundus = 世界 ・Victoria = 勝利 ・Amicus = 友人

Blog. 「久石譲 第九スペシャル」(2013) コンサート・プログラムより
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CD作品としては「メロディフォニー」(2010)にてロンドン交響楽団演奏でレコーディングされている。

 

久石譲 『メロディフォニー』

 

 

 

「Orbis ~混声合唱、オルガンとオーケストラのための~」(2015)

Orbis for Chorus, Organ and Orchestra
オルビス ~混声合唱、オルガン、オーケストラのための
I. Orbis ~環
II. Dum fata sinunt ~運命が許す間は
III. Mundus et Victoria ~世界と勝利

作詞:久石譲

 

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新版「Orbis」について
2007年に「サントリー1万人の第九」のための序曲として委嘱されて作った「Orbis」は、ラテン語で「環」や「つながり」を意味しています。約10分の長さですが、11/8拍子の速いパートもあり、難易度はかなり高いものがあります。ですが演奏の度にもっと長く聴きたいという要望もあり、僕も内容を充実させたいという思いがあったので、今回全3楽章、約25分の作品として仕上げました。

しかし、8年前の楽曲と対になる曲を今作るという作業は難航しました。当然ですが、8年前の自分と今の自分は違う、作曲の方法も違っています。万物流転です。けれども元「Orbis」があるので、それと大幅にスタイルが違う方法をとるわけにはいかない。それではまとまりがなくなる。

あれこれ思い倦ねていたある日の昼下がり、ニュースでフランスのテロ事件を知りました。絶望的な気持ち、「世界はどこに行くのだろうか?」と考えながら仕事場に入ったのですが、その日の夜、第2楽章は、ほぼ完成してしまった。たった数時間です。その後、ラテン語の事諺(ことわざ)で「運命が許す間は(あなたたちは)幸せに生きるがよい。(私たちは)生きているあいだ、生きようではないか」という言葉に出会い、この楽曲が成立したことを確信しました。だから第2楽章のタイトルは日本語で「運命が許す間は」にしたわけです。何故こんな悲惨な事件をきっかけに曲を書いたのか? このことは養老孟司先生と僕の対談本『耳で考える』の中で、先生が「インテンショナリティ=志向性」とはっきり語っている。つまり外部からの情報が言語化され脳を刺激するとそれが運動(作曲)という反射に直結した。ちょっと難しいですが、詳しく知りたい方は本を読んでください。

それにしても不思議なものです。楽しいことや幸せを感じたときに曲を書いた記憶がありません。おそらく自分が満ち足りてしまったら、曲を書いて何かを訴える必要がなくなるのかもしれません。

第3楽章は「Orbis」のあとに作った「Prime of Youth」をベースに合唱を加えて全面的に改作しました。この楽曲も11/8拍子です。

ベートーヴェンの「第九」と一緒に演奏することは、とても畏れ多いことなのですが、作曲家として皆さんに聴いていただけることを、とても楽しみにしています。

平成27年12月6日 久石譲

(「久石譲 第九スペシャル 2015」コンサートパンフレットより)
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※同パンフレットには、久石譲作詞による全3楽章の歌詞も掲載されている。ラテン語による原詞と日本語訳詞が併記されている。現時点(2015.12現在)での掲載は差し控えている。

 

 

ここからは初演感想・補足などを含むレビューである。

第1楽章、オリジナル版「Orbis」(2007)がこの楽章にあたる。新版「Orbis」(2015)には、細かな手直しは施されているが、楽曲構成は従来を継承している。一聴してわかるのはテンポが遅くなっていること、チューブラーベルが編成に加えられたことだろう。祝典序曲としての単楽曲ではなくなり、ファンファーレのように躍動感で一気に駆け抜けるところから、楽章のはじまりとしての役割に変化した。全3楽章という作品構成ゆえと、第2・第3楽章までつづくコーラスの役割に従来以上の重きをおいた結果、テンポをおさえるとこになったのではないか。実際、この第1楽章で散り放たれたキーワードたちが、後の楽章において結晶化してつながりをもってくる。そう捉えると、ここで言葉をしっかりと響かせることは必然性を帯びてくる。

第2楽章、通奏低音のようにオルガンが楽章を通してゆっくりとしたミニマルなアルペジオ旋律を奏でる。同じ動きで弦楽オーケストラが織り重なる。そこにコーラスがさとすように語りかけてくる。あえてキャッチーなメロディとしての旋律を持たせていない。混声合唱のハーモニーが厚く深く包みこむ内なる楽章。チューブラーベルの鐘の響きは静かな余韻と残響をもたらしている。

第3楽章、幻の名曲「Prime of Youth」(2010・Unreleased)が「Orbis」の楽章のひとつとして組み込まれたことが衝撃だった。強烈なミニマル・モチーフ、リズム動機を備えていた同楽曲が、コーラスを迎え後ろにひかえ従(対旋律)にまわったのである。もし「Prime of Youth」という作品をコンサートで聴いたことのある人がいるならば(おそらくほとんどいない、2010年東京・大阪2公演のみである)、これはまさにカオスである。オリジナル版が持つファンファーレのように高らかに鳴り響く冒頭から、怒涛のようにシンフォニック・ミニマルが押し寄せてくる。コーラスを配置したことでさらに魂の叫びのごとく巨大な渦をまく。中間部では第1楽章Orbisの旋律が顔をのぞかせる。時を越えてPrimeとOrbisが融合した瞬間だった。かくもここまで勇壮で威厳に満ちた久石譲オリジナル・ソロ作品があったであろうか。クライマックスのかき鳴らす弦、金管、木管は圧巻であり、高揚感を最高潮にコーラスとともに高く高く昇っていく。おさまりきれない、なにか巨大なものがその姿を現した、そんな衝撃的な閃光を象徴する楽章となったことは確かである。

歌詞について、「いくつかのキーワードとなる言葉を配置し、その言葉の持つアクセントが音楽的要素として器楽の中でどこまで利用できるか、という点に比重を置きました。”声楽曲”のように歌詞の意味内容を深く追求していく音楽とは異なります」(元「Oribis」および新版 第1楽章) この久石譲の言葉を借りるならば、新版「Orbis」第2楽章・第3楽章は明らかに異なる。ひとかたまりのセンテンス、つまり言葉に意味をもたせたのである。これは興味深い。あえて自らの作家性として作品にメッセージ性を持たせない氏が、ここでは発声による言葉の響きから、歌詞による言葉の想いを届ける手法で新たな楽章を書き下ろした。同時にこのことは、コーラスを楽器の1パートに据えるところから一気に飛躍させたことになる。これをもって管弦楽と声楽は少なくとも対等、5:5の比重を分け合うことになったのである。

 

総じて、初演一聴だけでは語ることのできない拡がりと深さがこの作品にはある。中途半端な断片的感想は未聴者に余計な先入観を与えかねず、一聴のみで作品を掌握したように語ることは作家への冒涜にもつながりかねない。それでもあえて書き記したのには理由がある。

この作品は大傑作である。久石譲が芸術性を追求した作品群にはこれまで「The End of the World」「Sinfonia」など数多く存在する。楽章構成とミニマル色を強く打ち出すという点でも共通点はある。だがしかし、「新版Orbis」はその次元を超えた。延長線上、集大成、結晶化、新境地、さまざまな言い回しがありもちろんそういった意味合いも持っている。それらをおさえてあえて言葉を選ぶならば、「そこは別世界・別次元だった」。

ひとつだけ断言できることがある。ここに「ジブリ音楽:久石譲」の代名詞は必要ない。この作品を聴いてジブリのような映像やイメージが浮かぶというなら、それはまやかしである。一線を画して聴衆は対峙しなければいけない、無心で。そうして初めて出逢えるのは、心に入ってくる音楽、魂に響く音楽、本能に直接訴えかけてくる音楽、である。なにが言いたいのか。もしかしたら遠い未来の人たちが久石譲を語るとき、真っ先にジブリ音楽でもないCM音楽でもない、「Orbis」が代名詞となっているかもしれない。

 

 

万全を期ししたレコーディング、作曲家の意思を介したトラックダウンが行われた完成版を聴く日までは、この作品の真髄はわからないだろう。混声合唱、オルガンとオーケストラ、三位一体となった”環”がその巨大な姿を現す日を待つ。今初演において未完、まだ発展や進化の余地があるのかもしれず、完全版としてのCDパッケージ化は時間がかかるのかもしれない。ただ待つのみである。

もしも叶うとするならば、未完でもいい、その時にふれた「Orbis」をかたちに残してもいいではないか。「Orbis」、「新版Orbis」、新たな新版や改訂版が連なってもいい。そもそも作品自体が暗示している。”環”はどんどん”つながり”、魂をもって創造をつづける。そこに終わりはない、永遠。

 

息をあげて主観でレビューを書くことに冷ややかな反応があることは覚悟している。だからこそ、1日でも早く、ひとりでも多くの人に「Orbis ~混声合唱、オルガンとオーケストラのための~」新版を聴いてもらえる日が来ることを切に願う。そうして少しでも共感してもらえたり、わかち合えるなにかが生まれることこそ、聴衆たちにもたらされる喜びである。

 

 

2018.12 追記

オリジナル版「Orbis」だが久しぶりのプログラムとなった感想を。