Overtone.第68回 長編と短編と翻訳と。~村上春樹と久石譲~ Part.2

Posted on 2022/06/20

ふらいすとーんです。

怖いもの知らずに大胆に、大風呂敷を広げていくテーマのPart.2です。

今回題材にするのは『翻訳夜話/村上春樹 柴田元幸』(2000)です。

 

 

村上春樹と久石譲  -共通序文-

現代を代表する、そして世界中にファンの多い、ひとりは小説家ひとりは作曲家。人気があるということ以外に、分野の異なるふたりに共通点はあるの? 村上春樹本を愛読し久石譲本(インタビュー記事含む)を愛読する生活をつづけるなか、ある時突然につながった線、一瞬にして結ばれてしまった線。もう僕のなかでは離すことができなくなってしまったふたつの糸。

結論です。村上春樹の長編小説と短編小説と翻訳本、それはそれぞれ、久石譲のオリジナル作品とエンターテインメント音楽とクラシック指揮に共通している。創作活動や作家性のフィールドとサイクル、とても巧みに循環させながら、螺旋上昇させながら、多くのものを取り込み巻き込み進化しつづけてきた人。

スタイルをもっている。スタイルとは、村上春樹でいえば文体、久石譲でいえば作風ということになるでしょうか。読めば聴けばそれとわかる強いオリジナリティをもっている。ここを磨いてきたものこそ《長編・短編・翻訳=オリジナル・エンタメ・指揮》というトライアングルです。三つを明確な立ち位置で発揮しながら、ときに前に後ろに膨らんだり縮んだり置き換えられたり、そして流入し混ざり合い、より一層の強い作品群をそ築き上げている。創作活動の自乗になっている。

そう思ったことをこれから進めていきます。

 

 

たくさんの翻訳をこなしている現役の小説家はそういません。世紀をさかのぼるほどは調べていませんが、小説家と翻訳家はそれぞれ独立した分業となっているのが現代文化の主流です。

たくさんの他作指揮をこなしている現役の作曲家はそういません。18世紀のクラシック音楽界は自作初演を作曲家自らの指揮で行うことが多かったようです。19世紀になると、指揮者として活躍したのち作曲家へと転向していったマーラーや、埋もれた過去の名作を発掘することにも貢献した作曲家メンデルスゾーンやワーグナーなどいます。20世紀になると、作曲家と指揮者はそれぞれ独立した分業をとるようになり、職業指揮者が脚光を浴びるようにもなります。作曲家と指揮者の優位性もシーソーしながら、いまなお分業となっているのが現代文化の主流です。

 

今回題材にするのは『翻訳夜話/村上春樹 柴田元幸』(2000)です。

この本は、ワークショップで行われた対談をまとめたもので、参加者との質疑応答の形で進められています。3回のフォーラムは、回ごとに学生や翻訳家と参加対象も入れ替わり、広いところから深いところまで充実した翻訳談義になっています。また、同じテキストから村上春樹と柴田元幸の訳し比べをした項もあって、音楽でいうところの聴き比べのよう、少し皮膚感覚でわかってきておもしろいです。

自分が読んだあとなら、要約するようにチョイスチョイスな文章抜き出しでもいいのですが、初めて見る人には文脈わかりにくいですよね。段落ごとにほぼ抜き出すかたちでいくつかご紹介します。そして、すぐあとに ⇒⇒ で僕のコメントをはさむ形にしています。

 

 

 

“単純に直訳でいいんだというふうに言っているわけではないですけれど(笑)。とにかく僕はそういうふうにやります、ということです。

たとえば語彙をどれだけ豊富に使うかというのが文体の一番大事なことだと思っている人もいますし、どれだけわかりにくく書くのかというのが大事なことだと思っている人もいますし、逆に、どれだけわかりやすく書くのが大事だと思っている人もいるし。いろんな要素があります。美しく書きたいとか、簡潔にシンプルに書きたいとか、おもしろく書きたいとか。自分なりのポリシーというか、文章を書くときにプライオリティのトップにくるものが、それぞれにあるはずです。

僕の場合はそれはリズムなんです。呼吸と言い換えてもいいけど、感じとしてはもうちょっと強いもの、つまりリズムですね。だからリズムということに関しては、僕は場合によってはテキストを僕なりに自由に作りかえます。どういうことかと言うと、長い文章があれば三つに区切ったり、三つに区切られている文章があったら一つにしたりとか。ここの文章とここの文章を入れ換えたりとか。

なぜそれをするかというと、僕はオリジナルのテキストにある文章の呼吸、リズムのようなものを、表層的にではなく、より深い自然なかたちで日本語に移し換えたいと思っているからです。英語と日本語のリズム感というのは基礎から違いますし、テキストの文章をそのままのかたちで訳していくと、どうにも納得できない場合がある。そう感じた場合には、僕の独断でつなぎ換えたりします。そのことに関しては「直訳派」とは言い切れないところがあるかもしれない。そのかわり、それ以外のレトリックとかボキャブラリーとか、そういうことに関してはテキストに非常に忠実にやりたいと。”

~(中略)~

⇒⇒
久石譲の指揮にもリズム重視なところがあります。文章の区切り方は、音楽に置き換えるとアクセントの付け方やフレージング(歌わせ方や息つぎのような)に近いとも言えるかもしれませんね。もっと直球でいうと句読点ですね。ひとつの文章のどこに「、」を打つかで流れも意味すらも変わってくることがあります。音楽も一緒でひとつのメロディのどこに「、」を打つかで全く別物のように聴こえたりします。たぶん村上さんはリズムをその文章の集合体で作っている。たぶん久石さんはリズムをその旋律の集合体で作っている。

 

「あくまのぬいぐるみ」
悪魔のぬいぐるみ
あ、くまのぬいぐるみ

「かがみみにきた」
鏡、見に来た
蚊が、耳に来た

「ここではねる」
ここで、跳ねる
ここでは、寝る

【ぎなた読み】と言われる、区切る場所で意味の変わる文章。ウェブでたくさんおもしろいの出てきますね。

 

歌もそうです。英語で歌われるか日本語で歌われるか。言葉を置き換えるときのワード選びも大変そうですけれど、言葉から生まれるリズムも変わってきます。考えてみたら、洋書は横書き、和書は縦書き。読む人のリズム感にも文化としての歴史や影響がありそうか気がしてきます。横揺れ、縦ノリ。

 

 

“とにかく相手のテキストのリズムというか、雰囲気というか、温度というか、そういうものを少しでも自分のなかに入れて、それを正確に置き換えようという気持ちがあれば、自分の文体というのはそこに自然にしみ込んでいくものなんですよね。自然さがいちばん大事だと思う。だから、翻訳で自己表現しようというふうに思ってやっている人がいれば、それは僕は間違いだと思う。結果的に自己表現になるかもしれないけれど、翻訳というのは自己表現じゃあないです。自己表現をやりたいなら小説を書けばいいと思う。”

~(中略)~

⇒⇒
ここはまた別角度からおもしろいところです。職業指揮者のカラヤンは、タイプの異なる作曲家たちの作品でさえ、まるっとカラヤン流に演奏してしまいます。カラヤン一色たんに覆ってしまいます。それによって輝き放った作品もしかり逆もしかり。一方で、村上春樹も久石譲も自己表現がしたいのであれば自分の作品(小説・音楽)で存分にできます。でもでも、他人の作品を通しても「村上春樹とわかる翻訳」「久石譲らしい指揮」というのもにじみ出てしまっていることも、また事実なんですよね。そこに自分がやる意味が現れてきてしまっている。ファンとしてはうれしい、強烈な作家性をおさえきれていない。

 

 

“なんていうのかな、翻訳していると癒やされるという感じがあるんですよね。なぜ癒やされるかというと、それは他者のなかに入っていけるからだと思うのね。たとえば僕がフィッツジェラルドという作家をこつこつと訳していると、フィッツジェラルドの考えていることや感じていることや、あるいは彼が生きている世界に、自分がスッと入っていくんですよ。ちょうど空き家に入っていくみたいな感じ。

それはやっぱり、シンパシーというか、エンパシーというか、そういう共感する心があるからですよね。だからテキストとのあいだに、作家とのあいだにそういうものがないと、僕にとっては翻訳ってやっている意味がほとんどないんです。どれだけうまく自然に有効に相手のなかに入っていけるか、相手の考えるのと同じように考え、相手の感じるのと同じように感じられるか、それが重大な問題になってきます。

これは僕が翻訳してみたいなという小説と、これはあまり翻訳したくないなという小説はたしかにありますよね。それはね、この小説は優れているとか、優れていないとか、好きとか好きじゃないとか、そういう話じゃなくて、自分が個人的にコミットできるかできないかというのが、とても大きいですよね。相性のようなものもありますし。これは素晴らしい小説だけど、僕はあまり翻訳したくない、あるいはできないだろうというケースもたくさんあります。”

~(中略)~

⇒⇒
久石譲の作曲家視点の指揮にも近いものがあるように感じます。演奏会のプログラムにのせるときも好き嫌いだけでは選んでない。自分がコミットできる作品、自分の指揮で観客に届けられるものがあると確信できる作品、そんなふうに感じています。一方で、著書や雑誌などで「好きな作品」と公言しているものでも、プログラムにはとんとのらないものいっぱいあります。

 

 

“一つは非常にフィジカルな実際的なリズムです。いわゆるビートですよね。僕は若い頃ずっとジャズの仕事をしていたんで、ロックも好きだけど、要するにビートが身体にしみついているんですよね。だからビートがない文章って、うまく読めないんです。それともう一つはうねりですね。ビートよりもっと大きいサイクルの、こういう(と手を大きくひらひらさせる)うねり。このビートとうねりがない文章って、人はなかなか読まないんですよ。いくら綺麗な言葉を綺麗に並べてみても、ビートとうねりがないと、文章がうまく呼吸しないから、かなり読みづらいです。”

~(中略)~

⇒⇒
”ビートは身につけやすいけれどうねりはとても難しい”とも続けて語られています。音楽でいうと何でしょうか。ビートはメトロノーム的な基本リズムや拍子だったり。うねりはグルーヴ感だったり。曲や楽章全体を引っ張っていく力・引き込む力・魅せる力、つまりは推進力といったところでしょうか。スローテンポならうねりは揺らぎだったり。心地のよい、包みこまれるような、感情を揺さぶるような。

 

 

“結局、自分で文章を解体して、どうすればこういう素晴らしい文章を書けるのかということを、僕なりに解明したいという気持ちがあったんだと思います。英語の原文を日本語に置き換える作業を通して、何かそういう秘密のようなものを探り出したかったのかな。自分で実際に手を動かさないことにはわからないこと、身につかないことってありますよね。たとえば写経と同じようなもので。”

~(中略)~

⇒⇒
久石譲も、コンサートでプログラムした「シェーンベルク:浄められた夜」の楽曲分析や指揮勉強のために自ら譜面に書いたというエピソードあります。その項には、モーツァルトも熱心にバッハ等を書き写し研究したこと、マーラーやショスタコーヴィチも他作を編曲することで勉強したのでは、ともありました。詳しくは『音楽する日乗/久石譲』「シェーンベルクの天才ぶりと、その目指したものは……」本を手にとって見てみてください。

 

 

“僕が翻訳にいちばん最初に興味を持ったのはカポーティなんですよね。高校時代に英文和訳の参考書にカポーティの”The Headless Harks”(無頭の鷹)の冒頭の部分がたまたま入っていまして、それを受験勉強のひとつとして和訳したんですが、あまりにもその文章が見事なので、ひっくりかえるくらい感動したんです。でもそのときも、ただ読んで「これは素晴らしい!」と感動しただけではないんですよね。それを日本語に移し換えることによって、自分も主体的にその素晴らしさに参加しているというたしかな手応えがあった。カポーティもフィッツジェラルドにしても、非常に文章が精緻ですよね。美しくて、情感があって、確固としたスタイルがあって、そういうものを自分の手で日本語に移し換えることで、なんだか心があらわれるような喜びを感じることができた。”

~(中略)~

⇒⇒
ここぐっとファンに引き寄せると、久石譲の音楽を聴いて、自分も弾いてみたいと思い練習するのと同じですよね。聴くだけでももちろん感動するけれど、自ら演奏してみたらもっと味わえること。”主体的にその素晴らしさに参加しているというたしかな手応え”という表現がとびきり素敵です。

 

 

“僕は思うんだけど、創作の文章にせよ、翻訳の文章にせよ、文章にとっていちばん大事なのは、たぶんリズムなんですよね。僕が現在形と過去形をある程度混在させるというのも、あくまでリズムを作っていくためです。原文ではひとつの文章を二つに分けたり、原文では二つの文章をひとつにまとめたりするのも、つまるところリズムのためです。そういうリズムが総合的に絡みあってこないと、その文章は「とん・とん・とん」という単調なリズムになっちゃうわけですね。「とん・とん・とん」だと人はなかなか読んでくれないです。「トン・とん・トン」というリズムが出てくると、それは人が読む文章になる。

文章っていうのは人を次に進めなくちゃいけないから、前のめりにならなくちゃいけないんですよ。どうしたら前のめりになるかというと、やっぱりリズムがなくちゃいけない。音楽と同じなんです。”

~(中略)~

⇒⇒
久石譲の場合は? ここはもう音楽を聴いてもらうしかない。一番説得力があると思うんです。じっくり聴いて楽しんでほしい。こういうのもありました。2分間くらい聴いて読んで、なにかつかめたりして。

久石譲 ベートーヴェン交響曲全集 / Joe Hisaishi&FOC Beethoven Complete Symphonies

from Octavia Records Inc. YouTube

 

 

“スピードって大事ですよね。たとえば僕がいま本を書いて、それが十五年後にひょいとノルウェー語に訳されたとして、それはそれでもちろん嬉しいんだけど、それよりは二年後、三年後にいくぶん不正確な訳であっても出てくれたほうがありがたいですね。それは大事なことだと思うんですよ。正確さというのは大事だけど、速度というのも決して無視できないことです。たとえば、ヴォネガットの『チャンピオンたちの朝食』。あれね、アメリカで出たときに読んで素晴らしいと思ったんです。ところが日本でなかなか翻訳が出なくて、おそらく十年以上かかってやっと出たんです。

でもそのときにはなんかもう気が抜けちゃってるのね。これは賞味期限の問題だと思うんです。小説には時代的インパクトというものがあるし、同時代的に読まなくちゃいけない作品も、やはりあると思いますよ。”

~(中略)~

⇒⇒
映画なんかわかりやすい。本国で公開されたヒット作はタイムリーに海外でも公開されたほうが望ましい。同じタイミングで広まらないと言葉や文化を越えて共感できない同時代性や空気ってあります。ハリウッドやディズニーは、世界中で受け入れられる前提で各国吹替版を同時進行で製作していますね。韓国エンターテインメントもスピード早い。日本でもヒットの予兆を感じたものは、わりとスピーディに各国公開できているのかな。ここもまたグローバルな競争です。『君の名は。』や『鬼滅の刃』が日本公開から10年後に世界でフィーバーするって…なかなか考えにくい。共感の渦はスピードと勢いがあればあるこそたしかな爪跡をのこす。

見方を変えて、久石譲音楽も翻訳されるのであるならば、やっぱり同時代的にスコアがあったほうが望ましいと僕は思います。世界各地で多く翻訳(指揮)されることで、言葉や文化を越えて共感が芽生える。そして何かを変えるかもしれない。

 

 

”うーん、というか、僕はフィッツジェラルドの短篇をいくつも訳してて、まあ、他の方ももちろん何人か訳してらっしゃって、まあ、有名な短篇であれば五、六種類は訳がありますよね。だいたいみんな自分の訳がいちばん良いと思っている。で、比べて読むとやはりずいぶん違うんですよね。さすがに文意はそんなに違わないですけど、文章というか、文体は違ってます。呼吸も違うし、雰囲気も違います。

僕はたとえばフィッツジェラルドみたいな古典作品というのは、そういう具合にいくつもの翻訳があって、いくつものヴァージョンがあって、読者が読み比べて、その中から自分のいちばん気に入ったものを選ぶというのがベストだと思うんです。それぞれの訳者の個性というものもあるし、時代による洗い直しみたいなのもあっていいはずだと思う。音楽の演奏と同じですね。たとえば、ベートーヴェンのピアノ協奏曲の三番は、バックハウスの演奏があって、グールドの演奏があって、ケンプがいて、ブレンデルがいて、ポリーニがいて、そういうなかから自分の好きな演奏、肌に合う解釈を選ぶというような選びとり方ですね。だからそういう意味では、フィッツジェラルドなんかについては僕は、自分の訳したいように訳すということをある程度は意識しています。他の方とはやっぱりちょっと違う、僕なりの翻訳を作っていきたいという頭がある。決して強引にはやりたくないけれど、僕にとってのフィッツジェラルド観みたいなものをきちんと出していきたいと考えています。

ただ、そうではなくて、僕しか翻訳が出てないものに関しては、もう少しニュートラルな方向に行きたいなというふうには思っているんですよね。たとえば、カーヴァーなんかに関しては僕の訳で全集まで出ちゃって、他の人が訳しにくいケースだと思うんで、できるだけニュートラルな訳を心がけていると思うんだけれども、カーヴァーになっちゃうと、どこまでがニュートラルで、どこからがニュートラルじゃないのか、僕にもちょっと判断がつきかねる部分があるんですね、本当に。あれはやはり一般的な文章とは言いがたいですから。それと、僕はあまりにも深くカーヴァーの作品に関わってしまったから。”

~(中略)~

⇒⇒
これはもう読めばそのままよくわかる。横からうだうだ言う必要もない。だけどちょっと言っちゃう。クラシック音楽にもひとつの作品にたくさんの録音盤があります。時代の名盤、永遠の定番、現代の新版、たくさんあっていいんですよね。リスナーに選択肢が用意されているってありがたい。海外小説でも好きな作品をいくつかの訳書で読み比べてる人っています。僕にはそんな深い嗜みはないですけれど。昔はよくそんなことやるなあなんて思ってました。今はすっと受け入れられます。そっか音楽も小説もいろいろな味わいかたしたいのは一緒なんだと。

 

 

”本当は僕はサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』をすごくやりたいんです。野崎孝さんの有名な訳がありまして、僕も高校時代にそれを読んで、すごくおもしろかったんですが、ただああいうものの翻訳にはやはり賞味期限みたいなものがあると思うんです。純粋に日本語の語彙の問題だけを取り上げても。だからさっきもクラシックにはいくつかヴァージョンがあっていいというふう言ったけど、並列的にもっと別のヴァージョンがあってもいいんじゃないかなと思うんですよね。一方に歴史的な名訳があり、時代に合った新しい訳が同時にあり、でいいんじゃないかと。それが一般的な読者に対する親切だと僕は思うんです。”

~(中略)~

⇒⇒
別の本では、”四十年も経過すると、我々にとってもオリジナル・テキストの意味みたいなのもけっこう変化してきます。翻訳を立ち上げる文化的背景もずいぶん変化しますし、読者の意識も変わってくるし、だいいち日本語の文体そのものが変わってくる。” と同旨語られていました。現代の位置から再評価や再検証をすることで、現代に読まれやすくなる。久石譲のいう「クラシック音楽を古典芸能にしてしまってはいけない」という発言を思い出します。

 

 

”翻訳をなぜするかという、最初の命題に戻ってきちゃうかもしれないけど、正直に言いまして、翻訳というのは苦労は多いけどそんなにお金にはならない(笑)。

だから好きじゃないとできないと僕は思うんですね。たとえば僕の場合であれば、翻訳しているよりは、たとえば自前のエッセイを書いたり、短篇書いたりしているほうが、経済的にははるかに効率がいいんです。効率ということから言えば。それでも僕が翻訳をやるのは、どうしても翻訳がやりたいからです。なぜ翻訳をやりたいかというと、それは、自分の体がそういう作業を自然に求めているからです。なぜ求めるんだろうというと、それは正確に答えるのが難しい問題になってくるんだけどたぶん、僕は文章というものがすごく好きだから、優れた文章に浸かりたいんだということになると思います。それが喜びになるし、浸かるだけじゃなくて、それを日本語に置き換えて読んでもらうという喜び、柴田さんがおっしゃったように、紹介する喜びというものもあるし……えーと、翻訳は愛だと言ったのは柴田さんでしたっけ?”

 

~(中略)~

⇒⇒
「久石譲&フューチャー・オーケストラ・クラシックス」「久石譲 presents ミュージック・フューチャー」は、古典作品と現代作品を並べる、久石譲が明日に届けたい音楽をナビゲートする、世界の最先端の音楽を紹介する、日本ではまだあまり演奏されていない音楽を紹介する。こういったコンセプトを掲げたコンサートシリーズです。

 

 

”それで英語に「他人の靴に自分の足を入れてみる」という表現がありますよね。実際に他人の身になってみるということなんだけど、翻訳って、いうなればそれと同じです。

ものを書く読むということについて言えば、実際に足を入れてみないとわからないことって、たくさんあります。自分で実際に物理的に手を動かして書いてみないと理解できないことって、あるんですよね。目で追って頭で考えていても、どうしても理解できない何かがときとしてある。

だから昔、印刷技術のないころには、写経とか、たとえば、『源氏物語』をみんなずっと写してた。これは要するに、現実的な必要に応じて、こっちからこっちに同じものを引き写すだけなんだけれど、しかしそうすることを通して結果的に、あるいは半ば意図的にかもしれないけど、人々は物語の魂そのもののようなものを、言うなれば肉体的に自己の中に引き入れていった。魂というのは効率とは関係のないところに成立しているものなんです。翻訳という作業はそれに似ていると僕は思うんですよね。翻訳というのは言い換えれば、「もっとも効率の悪い読書」のことです。でも実際に自分の手を動かしてテキストを置き換えていくことによって、自分の中に染み込んでいくことはすごくあると思うんです。”

~(中略)~

⇒⇒
「指揮してみないとわからないことってたくさんある」久石譲スタンダードです。僕らだって、好きな文章は書き写したりもするし、好きな絵は真似て描いてみたいと思うし、好きな曲はちょっと楽器でさらってみたいと思う。

 

 

”ちょっといいですか、”Collectors”、テキストの i頁、”Aubrey Bell, he said. /I don’t know you, I said.”という文章。ここの部分で、僕は前に「オードリー・ベルです、と彼は言った。/どういうご用件でしょうかね、と僕は言った」と訳したことがあるんです。でも、何で僕が”I don’t Know you.”をこう訳したかぜんぜん覚えてなくて、さっき原文を見て、ああそうかと思ったんだけど、柴田さんのは、「オードリー・ベルです、と男は言った。/存じ上げませんね、と私は言った」となっていて、これが正確な訳なんですよね。でも、僕のはこれは一段飛んじゃってるのね。”

~(中略)~

⇒⇒
具体例です。状況や気持ちをくみとった表現で訳したものとニュートラルな直訳の比較です。だいぶん印象も変わっておもしろいですね。

譜面からなにを読み取るか。前後の文脈、作曲家がそこでやりたかったこと、強調したかったメロディ以外のフレーズや楽器、感情を込めるか込めないか。一方で譜面そのままに直訳的にいくか。だいぶん印象も変わってきますね。

職業作家の村上春樹や久石譲が、他作の翻訳や指揮を手がけることの意味。職業翻訳家や職業指揮者が、時代のなかで作品を継いでいく意味。このコントラストこそが現代文化を豊かなものにしてくれているんだと思います。

 

(以上、”村上春樹文章”は『翻訳夜話』より 引用)

 

 

 

少し追加します。

同書からは離れて、第2弾『翻訳夜話2 サリンジャー戦記/村上春樹 柴田元幸』(2003)。こちらはほぼ純粋な対談になっています。ついにサリンジャー「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の新訳本を発表したタイミングで行われた2回にわたる濃密な対話です。翻訳についてよりも、サリンジャーやライ麦畑についての魅力や謎についてとことん語られていて、一目散に物語が読みたくなってくるかもしれません。それはさておき。

 

“うん。「盛り上がる」は使いやすかったです。言葉自体としては既にある言葉だから。ただ翻訳というのは、もちろん小説だってそうなんだけど、今はともかくとして、それがあと三十年たって、そこで使われている言葉がどの程度アクティブに残っているか、そのへんまで考えないと成立しないところがありますよね。今うまく成立しても、三十年くらいたって若い読者に、「なんだ、これ。これが若者のバイブルなの?」とか言われる可能性があるような言葉は、極力削りたいなと思います。場違いな単語ひとつで、作品という前提そのものが崩れちゃう可能性ってあうわけだから。そういう観点から、「シブい」という言葉は使わなかったですね。「シブい」は、「いかす」と同じようにけっこう古くなっていくような気がするんです。じゃあ。「マジな」が残るのかと聞かれたら、うまく説明できないんだけれど、「マジ」というのはそれなりに残るんじゃないかなあと。このへんはもうあくまで個人的な勘でしかないですね。”

(『翻訳夜話2 サリンジャー戦記/村上春樹 柴田元幸』より 一部抜粋)

 

⇒⇒
上のほうでも”翻訳には賞味期限がある”と語られていましたけどより具体的に。時代によって訳も変わってしかりというか変わっていかないといけない。それがよくわかります。今はもっと適切な日本語はあるし、今は使えない語句やスラングもある。時代性を反映しながら未来まで見すえながら。

 

2021年の久石譲インタビューから。

”僕がやりたいのは新しいクラシック。古典を古典のまま古典っぽくやることではない。現代に生きる音楽、現代に聞くべき音楽のひとつとして、クラシックを提供したい”

”10年後、20年後のスタイルを先取りする。それが作曲家ならではの指揮だと思う”

Info. 2021/04/25 ジブリ名曲生んだ久石譲 70歳でオケ首席客演指揮者に (日本経済新聞より)抜粋)

 

 

 

村上春樹にみる翻訳。久石譲にみる指揮。だぶるように透けるように、うっすら見えてきたのならうれしいです。ちょっとこじつけが過ぎるよ!抜き出し方が作為的だ!……そんなことにはならない印象で自然にすうっと入ってくるとうれしいです。

共通点もあります。古典や名作だけではなく埋もれていた傑作やまだ日本には紹介されていない重要作品までと、時代を現代にまで広げてナビゲートしていることです。村上春樹でいえば現役作家の翻訳もしていますし、久石譲でいえば現役作曲家の指揮もしています。

ファンにとって読書や鑑賞の幅を広げてくれます。読み方や聴き方にも変化を運んでくれます。好きな人から提供されなければ自らは出会うこともなかったものに今触れている。それは巡り巡って村上春樹の久石譲の作品をもっと好きになっていく。新しい魅力や感動へと連れていってくれます、きっと。

 

 

-共通むすび-

”いい音というのはいい文章と同じで、人によっていい音は全然違うし、いい文章も違う。自分にとって何がいい音か見つけるのが一番大事で…それが結構難しいんですよね。人生観と同じで”

(「SWITCH 2019年12月号 Vol.37」村上春樹インタビュー より)

”積極的に常に新しい音楽を聴き続けるという努力をしていかないと、耳は確実に衰えます”

(『村上さんのところ/村上春樹』より)

 

 

それではまた。

 

reverb.
目と耳が忙しくなるから村上春樹×久石譲の読書タイムはしない主義♪

 

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

このコーナーでは、もっと気軽にコメントやメッセージをお待ちしています。響きはじめの部屋 コンタクトフォーム または 下の”コメントする” からどうぞ♪

 

Disc. 久石譲 『光之奇旅 (The Road to Glory)』

2022年6月7日 デジタルリリース

 

ゲーム「王者栄耀 オナー・オブ・キングス」(中国)への楽曲提供。主人公桑啓(そうけい)をテーマにした楽曲「光之奇旅 (The Road to Glory)」の書き下ろし。

6月7日中国音楽配信プラットフォーム(QQ音楽など)にて配信リリースされた。同日、中国SNSプラットフォーム(bilibili・weiboなど)の公式アカウントよりミュージックビデオが公開された。またそれに先駆けて6月5日には久石譲制作インタビュー動画が公開された。

 

 

「通常ですとわりとこのテーマとサブテーマで一曲をつくる、というような形態をとるんですが、今回の場合はむしろいろいろな側面が出るように、音楽の要素も増やして、ほんとにこのゲームの画面が切り替わると同じような、聴いていながらいろいろなシーンを想像できると。やはり壮大なドラマであるから、ドラマというか内容なので、音楽もそういう意味ではほんとにわくわくしながら聴ける、どちらかというとリズムを前面に出した音楽のつくり方していますので、ほんとに楽しんでもらって一緒にいろいろなイマジネーション働かせる、そんな感じで聴いてもらえるとうれしいと思います。」

Info. 2022/06/05 [ゲーム]「王者栄耀 オナー・オブ・キングス」(中国)久石譲楽曲提供 より一部抜粋)

 

 

約5分の楽曲。フルーオーケストラによる。壮大な物語を予感させる導入部から始まる。そこから息つく間もなく曲は力強く快活に進んでいく。もう30秒ごとに曲想がパートが切り替わっていくといっても決して言い過ぎにはならないほど展開の数とスピーディーさに引き込まれる。メインとなるメロディは第1主題・第2主題とふたつあるように聴こえる。そして第2主題のほうが多く顔を出す。中間部に緩急ブレイクするように別のメロディも登場しブリッジとなっている。杉並児童合唱団によるコーラスも広がりをつくりだしている。

初めて聴く出会いがミュージックビデオとなったわけだけれど、ここはおそらく切り離したほうがいい。映像にあてた音楽にはなっていないからだ。映像とシンクロもしていないし、カット割りや場面転換との関連性も低いと感じる。ラッシュのようないくつかのイメージ映像を見て楽曲制作をしたか、もしくは楽曲完成後にミュージックビデオ用の映像制作をしたか。

そのくらい楽曲は自由度が高くのびのびと展開していると感じた。それはひるがえって、久石譲にここまで多彩な引き出しを使わせた、いろいろな技を駆使させた、そうして約5分に凝縮された楽曲。その贅沢かつパワーのあるオーダーと、このゲームのポテンシャルというものを大きく感じた。

 

MVは約3分だがオリジナル楽曲(デジタル配信)はフルバージョン 4:43となっている。もっと詳細にいうと、ミュージックビデオ用の楽曲編集は、00:40-からの約1分間、02:30-からの約1分間がカットされている。頭から流せるところまでのフェードアウトでもない、ざっくり編集でもない、とても意識的な切り貼りがされているようだ。そのおかげでもちろん全体から受ける印象も少し異なる。

 

 

MV動画やインタビュー動画について

 

 

光之奇旅 (The Road to Glory)
王者荣耀x久石让丨桑启光之奇旅特邀概念曲

音楽:久石譲
指揮:久石譲
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
合唱:杉並児童合唱団

Recording & Mixing Engineer:Hiroyuki Akita
Recording Studio:AVACO STUDIO

 

Overtone.第67回 「トップガン:マーヴェリック オリジナル・サウンドトラック」を聴く

Posted on 2022/06/04

ふらいすとーんです。

臨時号もとい勢いメモのようなものです。

大ヒット映画『トップガン』(1986年)の続編が36年の時を経て。世代を越えて知らない人はいない映画、あるいは知らない人のいない俳優トム・クルーズです。リアルタイム・ジェネレーションに関係なくおさえておきたいお祭りのような新作映画です。

スタジオジブリ作品でいうと『天空の城ラピュタ』の続編がなんとここにきて…みたいな。そんなことはないんですけれど。でも公開年は1986年と同じです。

 

僕はただただ観たくて楽しみにしていた映画です。前作の記憶もトリビアもほとんど持っていません。よくテレビでも放送されてたなくらい。そうジブリ映画のように。なので最新作も復習することなく未知の新しい映画を見る心持ちで手ぶらで映画館に行きました。そこには、音楽を大音量で浴びたかった、これはあります。

映画のストーリーに触れることなく音楽の話を進めたいと思います。きっかけは、たまたまサントラレビュー見てたら評価が低かったからです。ちょっとショック。それだけです。もっとインスト曲にも愛着をもってもらえたらいいなと願いを込めて。

 

 

まとめから言います。この映画音楽は3つの主要曲で出来上がっています。メインテーマ「Top Gun Anthem」、前作挿入歌「Danger Zone」、本作主題歌「Hold My Hand」です。歌もの2曲もインストゥルメンタルとしてスコアになっています。

たまたまチラ見したレビューは、ちょっと辛口でした。残念、期待ハズレ……。その理由を拡大すると歌曲とインスト曲のバランスのような印象を受けました。たしかに本盤全12曲は歌4・インスト8です。前作はというと、調べてみると日本盤全10曲は歌9・インスト1、海外盤全15曲は歌13・インスト2でした。

ジェネレーションギャップを乗り越えましょう。1980~1990年代はサウントドトラック全盛期でもありました。それは、ポップスを詰め込んだヒット狙いのコンピレーションです。人気アーティストの曲を集めたオムニバスです。

ポジションギャップを乗り越えましょう。本盤はスコアです。インストゥルメンタルによる正統なオリジナル・サウンドトラックへとウェイト占めています。だから、なにを期待するかで物足りなく思ってしまうのもすごくわかります。だから、インスト曲にも少しでも愛着をもってほしいという気持ちでいっぱいです。

 

 

トップガン マーヴェリック オリジナル・サウンドトラック
TOP GUN: MAVERICK

ハロルド・フォルターメイヤー & レディー・ガガ & ハンス・ジマー & ロアン・バルフェ

1.Main Titles (You’ve Been Called Back to Top Gun)
2.Danger Zone Kenny Loggins
3.Darkstar
4.Great Balls Of Fire (Live) Miles Teller
5.You’re Where You Belong / Give ‘Em Hell
6.I Ain’t Worried OneRepublic
7.Dagger One Is Hit / Time To Let Go
8.Tally Two / What’s The Plan / F-14
9.The Man, The Legend / Touchdown
10.Penny Returns (Interlude)
11.Hold My Hand Lady Gaga
12.Top Gun Anthem

日本盤CDボーナストラック
13.キャニオン・ドッグファイト Canyon Dogfight

 

(インスト曲を太字にしました)

 

 

[A] Top Gun Anthem

3つの主要曲で出来上がっているサントラです。そのひとつは、もちろん前作から引き継がれた永遠の曲です。メインテーマです。

 

Harold Faltermeyer, Lady Gaga, Hans Zimmer, & Lorne Balfe – Main Titles

from Interscope Records (Official Audio)

 

「1.Main Titles (You’ve Been Called Back to Top Gun)」「3.Darkstar」「7.Dagger One Is Hit / Time To Let Go」「8.Tally Two / What’s The Plan / F-14」「9.The Man, The Legend / Touchdown」「12.Top Gun Anthem」で使われています。

「1.Main Titles」は、まるで前作からカムバックした興奮と熱気冷めやらぬアンセム。この新しいリズムパターンは個人的に好みなのでさらにツボです。それ以外のところは1986年の「Top Gun Anthem」を純粋に継承しているようでした。エレキギターパートは大きくカットされています。あとはアレンジも変わっていないしキーも同じハ長調C(これは12.Top Gun Anthemで変化!の伏線です。あとで回収します。)になっています。

 

Harold Faltermeyer, Lady Gaga, Hans Zimmer, & Lorne Balfe – Darkstar

from Interscope Records (Official Audio)

「3.Darkstar」は、メロディこそハッキリ登場しませんが伴奏のコードワークはメインテーマのそれです。だから鳴っていなくても頭のなかではメインテーマ歌えます(01:10-01:25)。それからメインテーマの断片のようなものがたびたび登場しています(01:00-,01:25-,02:15-)。こじつけじゃないか!?そんなことはないですよ。「1.Main Title」(02:10-)で最後にちゃんと登場しているモチーフです。まるでこの物語のはじまりに、これからどんどん登場してくるモチーフだと暗示しているかのように。

 

「7.Dagger One Is Hit / Time To Let Go」は、曲名からわかるとおり2つの曲から構成されています。後半のほうに聴くことができます。ホルンの短調な旋律に変化しています(04:20-)。メインテーマのバリエーションと聴きました。

「8.Tally Two / What’s The Plan / F-14」は、3つの曲から構成されています。その中盤のほうに「3.Darkstar」と同じでメインテーマからのモチーフ(01:45-,02:05-)を聴くことができます。

「9.The Man, The Legend / Touchdown」は、2の曲から構成されています。前半のほうに思いっきりメインテーマ聴くことができます。

「12.Top Gun Anthem」は、メインテーマです。でも「1.Main Title」とはたしかに違う。これは一番最後にとっておきましょう。

 

もしTop Gun Anthemが好きなら。こんなにも映画全体を包むように押さえどころで登場している。もっとサントラ盤に愛着わいたならうれしいです。

 

 

[B] Danger Zone

3つの主要曲のひとつです。前作でも印象深い挿入歌は、本作でもそのまま使われています。

 

Kenny Loggins – Danger Zone (Official Video)

from Kenny Loggins Official

 

「2.Danger Zone」です。この歌は本作で巧妙にスコアになっています。3つの主要曲から料理しているなかで一番の魅せどころといってもいいほどです。職人技が光っています。

「3.Darkstar」「5.You’re Where You Belong / Give ‘Em Hell」「7.Dagger One Is Hit / Time To Let Go」「8.Tally Two / What’s The Plan / F-14」で使われています。

 

「3.Darkstar」は、[A]Top Gun Anthemのところでも紹介しています。「2.Danger Zone」の歌詞”Haiway to the Danger zone”と歌っている箇所は「ソ・ファ・ミ・ド・レ」です。そのモチーフを聴くことができます(00:30-)。低音ストリングスで何回も出てきます。ときに速いフレーズにもなって(00:50-,01:05-)。以降もこの8分音符と16分音符を入れ替えながら、まるで空中で機体たちが交錯するようにスリリングさと疾走感ましましです。

 

Harold Faltermeyer, Lady Gaga, Hans Zimmer, & Lorne Balfe – You’re Where You Belong / Give ‘Em Hell

from Interscope Records (Official Audio)

「5.You’re Where You Belong / Give ‘Em Hell」は、2つの曲から構成されています。後半のほうに聴くことができます。ここなんかわかりやすいですね(02:50-,03:05-,03:20-)。同じ曲想になっているので先に解説した「3.Darkstar」のモチーフが説得力をもってくると思います。モチーフの歌う長さを効果的に伸縮させて。そしてホルンで力強く歌われます(04:55-)。ハーモニーを変えること(Dm-B♭, F-C)でくり返しでも高揚感がどんどんアップします。

 

Harold Faltermeyer, Lady Gaga, Hans Zimmer, & Lorne Balfe – Dagger One Is Hit / Time To Let Go

from Interscope Records (Official Audio)

「7.Dagger One Is Hit / Time To Let Go」は、[A]Top Gun Anthemのところでも紹介しています。前半のほうで聴くことができます。…ここは少し飛躍して僕は聴くことができると思っています…。Danger Zoneモチーフのバリエーションとして(01:00-)。反転したというか逆方向へ流れているように。「ソ・ファ・ミ・ド・レ」と高い音から低い音へ降りてくるモチーフが、「ド・レ・ミ・ファ・ソ」と低い音から高い音へ昇っています。先の「3.」「5.」と同じ曲想なこと、さらに「5.」のホルンで力強く歌われる箇所と同じハーモニーの変化をしていること。たっぷりと繰り返されるので(-02:20)聴いてみてください。ここを現実と過去とのオーバーラップ、過去へのフラッシュバック、そんな時間軸の逆流とみるのもおもしろいです。

 

Harold Faltermeyer, Lady Gaga, Hans Zimmer, & Lorne Balfe – Tally Two / What’s The Plan / F-14

from Interscope Records (Official Audio)

「8.Tally Two / What’s The Plan / F-14」は3つの曲で構成されています。ハーモニーの変化(01:20-)、Danger Zoneモチーフ(01:35-)、その間を縫うように[A]Top Gun Anthemモチーフも登場(01:40-)とそんな感じで進んでいきます。ベースの踏み上がり(02:25-)は、「5.」(03:35-,05:25-)でも先に出てきていました。そしてホルンとストリングスで力強く歌われます(02:35-)。

こんな聴きかたもしました。緊張感に拍車をかける低音ストリングスもDanger Zoneモチーフのバリエーション(03:20-)じゃないのか。「レラ、ソラ、レファ、ミド」のくり返しです。「レラ、レファ、ミ」と太字の音符に注目すると「ラ・ソ・ファ・ド・レ」のDanger Zoneモチーフから散りばめられたものだと思えてきます。終結部あたりは聴こえやすいかもしれません(04:00-)。

 

もしDanger Zoneが好きなら。インスト曲たちがあの名曲をもとにして作られてる。もっとサントラ盤に愛着わいたならうれしいです。

 

 

[C] Hold My Hand

3つの主要曲のひとつです。本作主題歌として新たに書き下ろされた新曲です。

 

Lady Gaga – Hold My Hand (From “Top Gun: Maverick”) [Official Music Video]

from Lady Gaga Official YouTube

「5.You’re Where You Belong / Give ‘Em Hell」(前半)、「9.The Man, The Legend / Touchdown」(後半)、「10.Penny Returns (Interlude)」で使われています。聴けばそれと教えてくれるインストゥルメンタル・アレンジです。

映画のなかでたびたびメロディが登場し、「11.Hold My Hand」レディー・ガガによる歌が流れます。どのシーンに使われていたか、どの登場人物のときによく聴くことできたか。注目ポイントです。

 

もしHold My Handが好きなら。新作はこの曲なしじゃ語れない。もっとサントラ盤に愛着わいたならうれしいです。

 

 

[A] Top Gun Anthem + [B] Danger Zone + [C] Hold My Hand = New “Top Gun Anthem”

3つの主要曲から出来上がっているサントラと紹介してきました。だったら「12.Top Gun Anthem」は[A]に出てきています。違うんです。一味違うです。最後です!ロックオン!回収していきましょう!

 

Harold Faltermeyer, Lady Gaga, Hans Zimmer, & Lorne Balfe – Top Gun Anthem

from Interscope Records (Official Audio)

 

まず、聴いて思うのは「1.Main Title」の別アレンジね。っていうかほとんど一緒だけど…ということになります。そんなことはありません!よくよく聴いていくと、この曲は本作のためだけの曲にちゃんとなっています。

キーが違います。「1.Main Title」はハ長調Cでしたが「12.Top Gun Anthem」はニ長調Dです。たまたまかもしれません。でもそこにあえて意味づけをしてみましょう。カラオケでいうと原キー+2です。前作から旋回して物語をとおして上昇して。デンジャーゾーン(任務,人間関係,など)を克服してクリアして。そうです、そんなスケールアップ、ステップアップ、レベルアップを象徴したキーの垂直飛行と受けとることもできます。そして強く光が射しこめる。

 

[B] Danger Zone で解説したモチーフもストリングスで登場しだします(01:00-)。レの同音連打に続いて繰り出される16分音符のモチーフ。マッハの目盛りの刻みと速さを体感できるようです。ゾクゾク!間奏を挟んで2コーラス目にはよりハッキリと浮かび上がってきます。ゾクゾク!

 

[C] Hold My Hand は一見どこにもないように思います。でもどこかに隠れているような気もします。2コーラス目!レディー・ガガの歌のサビを重ねて鼻歌できませんか(01:30-01:40)。何言ってんだ?妄想??

「11.Hold My Hand」はト長調Gで歌われています。そのサビの部分のコード進行はG-D-Em-Cです。これを「12.Top Gun Anthem」のニ長調Dのキーに置き換えるとD-A-Bm-Gです。そして鼻歌してみてほしかった箇所のコード進行はD-A/E-Bm-Gです。同じコードの動きをしてるから重ねることができるんです。どうしてこんなに強く言うか、「1.Main Title」もふくめてトップガン・アンセムでこのコード進行が現れるのは唯一この曲だけだからです。もちろん1986年前作にもない。

小難しいことはさておき、鼻歌で歌えたなら、頭のなかでメロディ重ねることできたなら、たぶん回答としてはOKなんじゃないかと思っています。曲が進むにつれてコード進行は少し変化しているので、ずっとあわせてガガのサビは歌えません。

 

2022年公開されたこの新作トップガンは、「12.Top Gun Anthem」によってニュー・トップガン・アンセムとして結晶化しているんだ!という強い気持ちを押し通します。祝福のアンセム。

 

 

3つの主要曲 早見表

[A] Top Gun Anthem
Track-1,3,7,8,9,12
[B] Danger Zone
Track- (2:song),3,5,7,8,12
[C] Hold My Hand
Track-5,9,10,(11:song),12

 

見てびっくりです。こんなことになってたんだ。3つの主要曲からのメロディやモチーフが縦横無尽に各曲飛び交っています。だから、この曲が好き!とあったら、それにつながるほかのトラックもぜひ聴いてみてほしいです。そんなところでそんな鳴り方してたんだね、と出会いが待っています。

 

ダメ押しです。

本盤は、ボーカル曲(2,4,6,11:うち2,11は主要曲/うち4,6は本作スポット曲)はそのアーティスト名がクレジットされています。あとの全てのインスト曲は、アーティスト名が【ハロルド・フォルターメイヤー & レディー・ガガ & ハンス・ジマー & ロアン・バルフェ】とクレジットされています。

最初これ見たとき、え手抜き?と思ったんですけど、そうじゃないですね。ハロルド・フォルターメイヤーは「Top Gun Anthem」作曲者、レディー・ガガは本作主題歌「Hold My Hand」作曲者、そしてそれらの楽曲も素材として巧妙にスコアを作り上げているハンス・ジマーとロアン・バルフェの作曲家。すべてのインスト曲は3つの主要曲から各々の素材を選び抜いて料理しているから、アーティスト名は連名になっている。本当は曲ごとに中心になって制作している人いるのに。お互いへのリスペクトも表しているように感じます。もちろんそこには、主要曲の持ち主(作曲者)がはっきりしているからうやむや感なくできること、どのアングルから捉えてもトップ・クオリティなプロたちです。

 

 

おまけ

ハリウッド映画はサントラデータベースも盛んです。サウンドトラックには収録されていない、映画使用曲(エンドロールにクレジットされている)もすぐに情報コンプリートされます。『トップガン: マーヴェリック』のあのシーンのあの曲が知りたい、そんな生粋ファンの人はお目当ての曲を見つけられるかもしれません。

参考:Top Gun: Maverick Soundtrack Music – Complete Song List | Tunefind
https://www.tunefind.com/movie/top-gun-maverick-2022

 

サントラ日本盤CDボーナストラック「Canyon Dogfight」もあります。この曲は、クライマックスの空中線で使われた曲でマストトラックです。共通収録されていないのがなんとも惜しい。これを持っていれば、つづけて「9.The Man, The Legend / Touchdown」へと物語も音楽も最高のクライマックスなんだけどな。映画大ヒットでサントラ完全盤とか発売されたりして…そのときにはきっと入るでしょう。そのくらい必須な曲です。

 

 

オーケストラセクション レコーディング風景 (2022.06.29 追加)

オーケストラとシンセサイザーに分解したらこんなふうになってるんだ。新鮮です感動です。ロアン・バルフェはクレジット作曲家のひとりです。

 

Top Gun: Maverick | Top Gun Anthem (約2分)

 

Top Gun: Maverick | Darkstar (約3分)

from Lorne Balfe Official YouTube

 

 

映画の感想

映画館で見たい映画です。迫ってくる映像、体に響いてくる轟音、それはもうアトラクションのような体感ができます。前作を見ていなくても存分に楽しめます。もちろん見たほうがもっと楽しめます。でも、おいてけぼりにはしない丁寧なストーリーづくりです。本作を見る前見た後どちらでも。そうしてまた見たくなってくる旋回です。

 

 

 

編集後記 ~サントラの聴きかた~

まずはじめに。書いてきたことはすべて正解ではありません。僕はそう聴いた、そう聴こえた、それだけです。なんだそれ!総ツッコミ入りそう。僕なりに聴いたその理由を整理してみます。

1.仮説
このサントラは3つの主要曲から出来上がっていると最初に書きました。この仮説を前提条件にしているので、各曲に登場するメロディやハーモニーからちょっとしたフレーズまで、すべて3つの主要曲に紐づけられるのでは、という仮説で進めています。

2.必然性
作品を越えたところで、このメロディなにかに似てるよね、であればスルーします。でも、同じ作品のなかに似ているもの近しいものが登場した場合、それは見逃せなくなります。偶然性よりも必然性を論じなければならない、なんてね。曲想の共通性、どのシーンで使われているか、登場人物の共通性などなど、なんらかの方程式があるはずと考えます。なんとなくじゃなくて、使われる曲と使われる場面はしっかり音楽設計されている。その謎解きこそがサントラでしか味わえない楽しみ方です。

3.反復
一度じゃない、複数にわたって登場したとき、そのメロディやモチーフは意味をもってきます。同じことを2回3回と反復することで意味が生まれます。登場人物でもそうですね。一度登場するくらいならエキストラかもしれないし、そのシーンのスポット投入やアクセントだったりで、因果関係も生まれない。でも2回以上登場すれば、なにかしら必要な役割を与えられていることになります。だから、音楽的に一曲のなかで反復しているもの、あるいは曲をまたいで反復登場しているものって注目しなきゃとなります。

4.目と耳
人は同じものを見ていても同じようには見えていないとよく言いますね。耳もそうだと思います。同じものを聴いていてもきっと同じようには聴こえていない。だからおもしろい。お互いの聴こえかたを知りたいならすり合わせたいなら、自分はこう聴こえてると伝えられないと始まらない。そのコミュニケーションが実るとおもしろいですね。

一方では、人は自分の見たいように見るものなのかもしれません。耳もそうだと思います。自分の聴こえたいように聴いてしまう。もし、つまらないって思って聴けばそれはつまらなくしか聴こえないだろうし、ありきたり…どれも似てる…そう思って聴けばそうとしか聴こえないかもしれません。あるいは、独りよがりに突っ込みすぎて、なかなか周りから共感を得にくい個性的な聴きかたをしているってこともあるかもしれません。

 

おわりに。書いてきたことはすべて正解ではありません。僕はこう聴いた。そしてとても充実して楽しめるサウンドトラックでした。少しでも共感してもらえることがあったならうれしいです。もっとサントラに愛着わいてきて、今までとは聴こえかたが変わったり、新しい聴こえかたがしてきたのならとてもうれしいです。

 

 

 

一枚の絵も写真もどこを見てるか。トム・クルーズにしか目がいかない。機体マニア。はたまた色味、アングル、構図など。曲もそうです。メロディに耳がもっていかれる。音色マニア。はたまたリズム、曲順、構成など。聴く人によってフォーカスポイントが違うからおもしろい。それをわかち合いたいから話す。するともっとおもしろくなる。

いやあ、雰囲気?感覚?で見てるかな、直感?で好きな曲かな……。うん、その感覚が一番大切ですね。自分の目を、自分の耳を信じましょう!

 

それではまた。

 

reverb.
また映画館にリピりたい映画です!反復して鑑賞するということは僕のなかでなにか価値が生まれている映画なのかもしれません(^^)

 

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

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Info. 2022/06/22 『ベートーヴェン:交響曲全集 /久石譲&フューチャー・オーケストラ・クラシックス』5CD 再発売!!

Posted on 2022/05/31

久石 譲、渾身のベートーヴェン・ツィクルス、装い新たに再発売!

かつてない現代的なアプローチが話題を集めた、久石 譲によるベートーヴェン・ツィクルス。作曲家ならではの視点で分析したベートーヴェンは、推進力と活力に溢れ、大きな話題となりました。 “Info. 2022/06/22 『ベートーヴェン:交響曲全集 /久石譲&フューチャー・オーケストラ・クラシックス』5CD 再発売!!” の続きを読む

Blog. 「週刊ポスト 2005年9月2日号」久石譲インタビュー内容

Posted on 2022/05/31

「週刊ポスト 2005年9月2日号」の連載コーナー「私のほっとタイム」に久石譲が登場しています。当時の仕事の話から映画音楽についてまで興味深い内容になっています。

 

 

私のほっとタイム
連載 vol.40 久石譲

映画音楽の仕事は妥協の連続。だからメロディが浮かんだ最初の瞬間が幸せ

昨年のカンヌ映画祭の最終日、喜劇王バスター・キートンのサイレント映画の傑作『大列車強盗(キートン将軍/The General)』(1962年製作)に、新たなスコアを付けて組曲とし、カンヌ・オーケストラの演奏により、僕の指揮で初演したんです。なんでもカンヌ映画祭でタクトを振ったのは、日本人として僕が初めてだったそうで、そのとき演奏された組曲『THE GENERAL』は、発売されたばかりの僕のアルバム『WORKS III』に収録されているので、もしよかったら、耳に触れていただければ。

ちなみに、サイレント映画に音楽を加える試みは、フランシス・フォード・コッポラによる『ナポレオン』(27年製作)やジョルジオ・モロダーによる元祖SF映画『メトロポリス』(26年製作)など、これまでにも行われていますが、今回の僕と『大列車強盗(キートン将軍)』の出会いは、フランスの映画会社のオファーによって実現したんです。アメリカの歴史的な名画がフランスの会社を介し、日本人の僕によって音楽が加えられたという、国際的な連携の意味でも画期的な出来事だったんですよね。

ただ、当日の現場はバタバタしていて大変でした(笑い)。リハーサルの時間がほとんど取れなくて。フランスのオーケストラを相手に指揮をしなければいけないのに、直前までうまくお互いに意思の疎通が図れなかったんですよ。でも本番では、最高にいい具合に75分の作品に生オーケストラで音楽を加えることができたんです。最高の結果を迎えられた瞬間はとても気持ち良かったなァ。

人は生きていく過程で、いくつかの修羅場を経験しますけど、あの日の演奏はまさにそんな修羅場のひとつでした。でも、どんなに年齢を重ねても、そういう修羅場をくぐり抜けることで、またひとつ大きくなっていくような気がします。

それと、修羅場をくぐり抜けようとしたご褒美だったのか、会場に向かう赤絨毯を通る際に、僕にメーンのスポットライトが当たったんです。普通は、作品の監督や主演男優や女優を中心にスポットが当てられるじゃないですか。しかし、バスター・キートンは死んでますから、僕にスポットを当てるしかないというね、めったに経験することのできない、すごくおいしい思いをしました(笑い)。

そのスポットライトの話ではないですけど、やはり映画は監督のものですね。音楽を担当する側は常に妥協ばかりですよ(笑い)。そういえば、あるアメリカの映画音楽の作曲家で有名な方がこんな言葉を残しているんです。「映画音楽の仕事は基本的に、妥協ばかりだから、どんどん落ちていく仕事である」。この言葉の意味を具体的に説明すると、こうなります。

朝、目が覚めますよね。そのときふと、メロディが浮かぶことがあるんです。その瞬間んがこの上なく最高なわけです。なぜなら、浮かんだメロディを頭の中で反芻させてスタジオに入っても、結局のところ100%思い描いていた作品にならない場合が多いからなんですよ。

でも、なんとか気を取り直して、まァ、これでいいかと納得はするんですね、一応は(笑い)。だけど、朝の目覚めの時点で浮かんだ旋律が100だとすると、この段階でちょっと落ちてる。

それで次に、譜面に起こし、生のオーケストラでレコーディングすることになります。しかしながら、いくら腕のいいミュージシャンを起用したとしても、どこかに気に入らない箇所が出てくる。それでもまた、気を取り直して監督に聴かせると、う~ん、そうだねェ……と思案される(笑い)。そして最後に、映像に音楽を合わせる作業の段階で、あんなに苦労して作り上げた音がセリフと効果音に邪魔され、最終的には小さい音に下げられていたり。

落ち込むからこそエネルギーになる

どうです? 分かっていただけますか、僕たちの仕事がいかに妥協の産物だということが(笑い)。だから、そのアメリカの作曲家も同じように感じたんでしょうが、僕が映画音楽の制作において100%の幸せを感じることができるのは、頭の中で曲が完成した瞬間であって、試写の段階では落ち込んでばかりなんですよ。

そういう意味でいうと、僕はピアノを弾いたり、コンサートも行いますけど、根っからの作曲家なんです。なんにもないところから、自分が曲を作りだす、その瞬間がなにものにも代え難く、いつも幸せなんです、うれしいんです。ただ、試写を観て落ち込むといっても、自分がせっかく作った音をこんな扱いにされたから……という感情ではなく、単に、どうしてあのシーンにあんな音を書いちゃったのかな、もっとこうすればよかったのになと、反省材料がいっぱい出てくるからなんですね。そうなるともう、しばらくは立ち直れなくなり、公開から1~2年は絶対にその作品は観られません。

でも落ち込むからこそ、次の映画では必ずいい音楽を作り上げようとするエネルギーになるともいえます。そういう悔しさがあるから、次の作品へと没頭できるわけなんです。そんな、試写会で落ち込んだ作品が、だいたい1~2年後にはテレビでオンエアされますよね。それで、つい観てしまうと、なあんだ、けっこうよく出来てるじゃんって思ったりもしますし(笑い)。

そんなふうに音楽に囲まれている日々を過ごしている僕が最近凝りだしたのは、LPレコードを集めることかな。今は、とりあえずクラシックを中心に集めています。きっかけは、この間、仕事で香港に行ったときに、たまたま現地のスタッフに「中古のレコード店はないですか?」と聞いたんですね。そしたら、何店か調べてくれて、覗きに行ってみたんですよ。どの店もレコード盤にホコリが積もっていそうなところだったんですけど、なかなか味わい深くて。しかも50年代60年代の貴重な作品が取り揃えられていたんです。そういうのを何枚か買ってきたんですけど、これは趣味として最高だな、と。

ちゃんと趣味にしたいと思っています。東京で集めるんじゃなくて、旅の途中で、渋いこぢんまりとした中古レコード店を探すこと自体が楽しいですしね(笑い)。掘り出し物はないかと探す時間は、僕にとっては心が満たされるひとときになりそうです。

構成/佐々木徹

(「週刊ポスト 2005年9月2日号」より)

 

 

Info. 2022/06/17,18 「Music of Joe Hisaishi」久石譲コンサート(バンクーバー)開催決定!! 【5/30 Update!!】

Posted on 2019/05/01

2020年4月3、4日、久石譲コンサートがカナダ・バンクーバーで開催されます。

2019年2月22日「バンクーバー・シンフォニー・オーケストラ(VSO)2019-2020 シーズンプログラム」にてスケジュール発表されました。アジアの映画音楽にスポットをあてた企画が年間行事に盛り込まれ、そのひとつに久石譲コンサートがプログラムされています。 “Info. 2022/06/17,18 「Music of Joe Hisaishi」久石譲コンサート(バンクーバー)開催決定!! 【5/30 Update!!】” の続きを読む

Overtone.第66回 長編と短編と翻訳と。~村上春樹と久石譲~ Part.1

Posted on 2022/05/20

ふらいすとーんです。

怖いもの知らずに大胆に、大風呂敷を広げていくテーマのPart.1です。

今回題材にするのは『若い読者のための短編小説案内/村上春樹』(1997/2004)です。

 

 

村上春樹と久石譲  -共通序文-

現代を代表する、そして世界中にファンの多い、ひとりは小説家ひとりは作曲家。人気があるということ以外に、分野の異なるふたりに共通点はあるの? 村上春樹本を愛読し久石譲本(インタビュー記事含む)を愛読する生活をつづけるなか、ある時突然につながった線、一瞬にして結ばれてしまった線。もう僕のなかでは離すことができなくなってしまったふたつの糸。

結論です。村上春樹の長編小説と短編小説と翻訳本、それはそれぞれ、久石譲のオリジナル作品とエンターテインメント音楽とクラシック指揮に共通している。創作活動や作家性のフィールドとサイクル、とても巧みに循環させながら、螺旋上昇させながら、多くのものを取り込み巻き込み進化しつづけてきた人。

スタイルをもっている。スタイルとは、村上春樹でいえば文体、久石譲でいえば作風ということになるでしょうか。読めば聴けばそれとわかる強いオリジナリティをもっている。ここを磨いてきたものこそ《長編・短編・翻訳=オリジナル・エンタメ・指揮》というトライアングルです。三つを明確な立ち位置で発揮しながら、ときに前に後ろに膨らんだり縮んだり置き換えられたり、そして流入し混ざり合い、より一層の強い作品群をそ築き上げている。創作活動の自乗になっている。

そう思ったことをこれから進めていきます。

 

 

村上春樹バイオグラフィー的なものは飛ばします。とても音楽に造詣が深いことでも有名です。ジャンルはジャズ、クラシック、ロックと広く、自身がDJを務めるラジオ番組では愛聴曲たちをたっぷり紹介しています。音楽にまつわる文章も、ジャズ本・クラシック本・エッセイ・雑誌インタビュー・対談本と数多く発表しています。視点を本業の小説活動に移しても、ほんと音楽が体に染みついている人なんだなだとわかります。多くの小説にバラエティ富んだ楽曲が登場し、小説によって音楽がリバイバルヒット、はたまた廃盤CDが復刻される現象も起こるほどです。小説を発表すると、出版業界から音楽業界まで賑わせてしまう人。

 

今回題材にするのは『若い読者のための短編小説案内/村上春樹』(1997/2004)です。

この本は、実際のアメリカでの講義にも沿っているようですが、村上春樹が自作ではなく他作を取り上げ、短編小説を深く読んでみよう、こういう読み方もできると思う、とかなり深く突っ込んだ内容になっています。

取り上げたいのは、2004年文庫化のときに加えられた「僕にとっての短編小説──文庫本のための序文」からです。約20ページからなるこの項に、僕がテーマとして紐解きたいことがたっぷり語られているのですが、すべては紹介できない。でもぶつ切りな切り貼りはしたくない。自分が読んだあとなら、要約するようにチョイスチョイスな文章抜き出しでもいいのですが、初めて見る人には文脈わかりにくいですよね。段落ごとにほぼ抜き出すかたちでいくつかご紹介します。そして、すぐあとに ⇒⇒ で僕のコメントをはさむ形にしています。

 

 

 

“僕は自分自身を、基本的には長編小説作家であるとみなしています。僕は数年に一冊のペースで長編小説を書き(更に細かく分ければ、そこには長めの長編と、短めの長編の二種類があるわけですが)、ときどきまとめて短編小説を書き、小説を書いていないときにはエッセイや雑文や旅行記のようなものを書き、その合間に英語の小説の翻訳をやっています。考えてみれば(あらためてそういう風に考えることはあまりないのですが)守備範囲は広い方かもしれません。ジャンルによって文章の書き方も少しずつ変わってきますし、長編・短編・エッセイ・翻訳、どの仕事をするのもそれぞれに好きです。要するに早い話、どんなかたちでもいいから、文章を書くという作業に携わっていることが、僕は好きなのです。またそのときどきの気持ちに応じて、いろんなスタイルで文章を書き分けられるというのはとても楽しいことだし、精神バランスの見地から見ても、有益なことだと思っています。それは身体のいろんな部分の筋肉をまんべんなく動かすのに似ています。”

~(中略)~

⇒⇒
久石譲もオリジナル作品(そこにも大きめの作品と小さめの作品の二種類があります)を発表しつづけていますね。映画・TV・CMなどのエンターテインメントのお仕事も話題が途切れることはありません。コンサートも久石譲プログラムからクラシック演奏会まで多種多彩にしてすべて久石譲指揮です。あらためて言うまでもなく守備範囲は広いです。エンターテインメントな大衆性とアーティスティックな芸術性のバランスをとりながら。そして、すべての仕事が長編小説の肥やしとなり結実しているように、すべての仕事がオリジナル作品(たとえば交響曲)の肥やしになり結実しているように思います。

 

 

もちろん読者の中には、「いや、村上さんの書くものの中では短編小説がいちばん好きです」という人もいらっしゃいますし、「村上の小説は苦手だけど、エッセイは好きだ」という人もおられます。それはそれでもちろんありがたいのですが(お前の書いたものはどれもみんな同じくらい嫌いだ、と言われるよりはずっといいですよね)、でも僕自身としては、小説家になって以来二十五年間、長編小説という形体にもっとも強く心を惹かれ続けてきたし、また実際にもっとも多くの労力と時間を長編小説の執筆に投入してきたのだ、ということになります。生意気な言い方かもしれませんが、僕より上手な優れた長編小説を書く作家はもちろんいるけれど、僕が書くような長編小説を書ける作家はほかに一人もいないはずだ、という自負のようなものもあります。自分の書く長編小説に、ささやかではあるけれど自分だけのシグネチャー(署名)を残すことができるのだ、という自負です。もちろん僕が書いた長編小説は好まれたり好まれなかったりするし、評価されたりされなかったりもします。しかしそれとはべつに、長編小説というのは、作家としての僕が一生を通して真剣に追求しなくてはならない分野であると、僕自身は感じているわけです。”

~(中略)~

⇒⇒
「僕が書くようなオリジナル作品を書ける作曲家はほかに一人もいないはずだ」、ご本人がそう思っているかどうかはわかりませんが、ミニマルな要素と日本的な要素をしっかりと作品に刻みこむことで、久石譲だけのシグネチャーをたしかに残しています。大いに自負していただいてしかりです。独自性をもった交響作品・現代作品を系譜として発表しつづけている稀有な人です。

 

 

“それに比べると、短編小説を書くことは多くの場合、純粋な個人的楽しみに近いものです。とくに準備もいらないし、覚悟みたいな大げさなものも不要です。アイデアひとつ、風景ひとつ、あるいは台詞の一行が頭に浮かぶと、それを抱えて机の前に座り、物語を書き始めます。プロットも構成も、とくに必要ありません。頭の中にあるひとつの断片からどんな物語が立ち上がっていくのか、その成り行きを眺め、それをそのまま文章に移し替えていけばいいわけです。もちろん「短編小説なんて簡単に書けるんだ」と言っているわけではありません。ひとつの物語を立ち上げていって、それを完成させるというのは、なんといっても無から有を創り出す作業なわけですから、片手間にひょいひょいとできることではありません。ときには呼吸することを忘れてしまうくらいの──実際に忘れることはたぶんないでしょうが──鋭い集中力が、そしてもちろん豊かなイマジネーションが、要求される作業ではあります。”

~(中略)~

⇒⇒
宮崎駿監督から渡されたメモや絵をきっかけに。原作小説の印象やイメージをきっかけに。あの楽器を使ってみようというアイデアをきっかけに。ひとつのメロディをきっかけに。音楽を立ち上げていく過程にもいろいろありそうです。

 

 

“「その女から電話がかかってきたとき、僕は台所に立ってスパゲティーをゆでているところだった」という一行から短編小説を書き始めたことがあります。それ以外に僕の中にはとくに何のアイデアもありませんでした。ただの一行の文章です。一人でお昼にスパゲティーを茹でているときに電話のベルが鳴る、というイメージが頭にふと浮かびます。それは誰からの電話だろう? 彼は茹でかけのスパゲティーをどうするのだろう? そういう疑問が生まれます。そういう疑問を招集して、ひとつの物語に換えていくわけです。それは『ねじまき鳥と火曜日の女たち』という短編小説になりました。400字詰め原稿用紙にして八十枚くらいの作品です。

その短編を書き上げて、雑誌に発表して、単行本に収録して、五年ばかり経過してから、僕はその短編『ねじまき鳥と火曜日の女たち』をもとにして長編小説を書き始めました。時間が経過するにつれ、その物語には、短編小説という容れ物には収まりきらない大きな可能性が潜んでいるのではないかと、強く感じるようになったからです。その可能性の重みを、僕はしっかりと両手に感じとることができました。そこには未知の大地に足を踏み入れていくときのような、わくわくした特別な感覚がありました。二年の歳月ののちに、それは『ねじまき鳥クロニクル』という作品として結実しました。二千枚近い枚数の、かなり長大なフィクションです。考えてみれば、「その女から電話がかかってきたとき、僕は台所に立ってスパゲティーをゆでているところだった」という一見なんでもない一行から、思いもかけずそのような大柄な作品が生まれることになったのです。

そのように僕は短編小説を、ひとつの実験の場として、あるいは可能性を試すための場として、使うことがあります。そこでいろんな新しいことや、ふと思いついたことを試してみて、それがうまく機能するか、発展性があるかどうかをたしかめてみるわけです。もし発展性があるとしたら、それは次の長編小説の出だしとして取り込まれたり、何らかのかたちで部分的に用いられたりすることになります。短編小説にはそういう役目がひとつあります。長編小説の始動モーターとしての役目を果たすわけです。僕はほかにも同じように、短編小説をもとにしていくつかの長編小説を書きました。『ノルウェイの森』は『螢』という短編小説を発展させて書きました。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』という長編小説は『街と、その不確かな壁』という百五十枚程度の作品が下敷きになっています。

もちろん短編小説に与えられているのは、そういう役目だけではありません。僕は長編小説にはうまく収まりきらない題材を、短編小説に使うことがよくあります。ある情景のスケッチ、断片的なエピソード、消え残っている記憶、ふとした会話、ある種の仮説のようなもの(たとえば激しい雨が二十日間も降り続けたら、僕らの生活はどんなことになるだろう?)、言葉遊び、そういうものを思いつくままに短い物語のかたちにしてみます。たとえば『トニー滝谷』という短編小説は、マウイ島の古着屋で買ったTシャツの胸に「トニー・タキタニ」という名前がプリントしてあったことから生まれました。「トニー・タキタニっていったいどんな人なのだろう?」と僕は想像し、それでこの作品を書き始めたわけです。「トニー・タキタニ」という言葉の響きひとつから、物語を作っていったわけです。”

~(中略)~

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少し長い引用でしたけれど、一番伝わりやすいと思い選びました。短編小説が長編小説へと膨らんでいくさま。短編小説をエンタメ音楽に、長編小説をオリジナル作品に、置き換えてみてもう一度読んでみてください。──おもしろいですね。ちょっと遊んで枚を秒にしてみます。80枚の短編が2000枚の長編になる=1分20秒(80秒)の小曲が約33分(2000秒)の長大な作品になったりするわけですね。おもしろいですね。

 

 

“そのような様々な試みがあって、中にはうまくいったと思えるものもありますし、残念ながらあまりうまくいかなかったものもあります。しかし短編小説というのは基本的にそれでいいのではないかと、僕は考えます。極端な言い方をすれば、「失敗してこその短編小説」なのです。うまくいくものもあり、それほどうまくいかないものもあって、それでこそ短編小説の世界が成り立っているのだと僕は思います。何から何まで傑作を書くことなんて、どんな人間にもできません。波があって、それが上がったり下がったりします。そして波が高くなったときに、そのタイミングをつかまえて、いちばん上まで行くこと、おそらくそれが短編小説を書く優れた作家に求められることです。僕は短編小説を書くときには、いつもそんな風に考えています。

逆の言い方をすれば、作家は短編小説を書くときには、失敗を恐れてはならないということです。たとえ失敗をしても、その結果作品の完成度がそれほど高くなくなったとしても、それが前向きの失敗であれば、その失敗はおそらく先につながっていきます。次に高い波がやって来たときに、そのてっぺんにうまく乗ることができるように助けてくれるかもしれない。そんなこと長編小説ではなかなかできません。一年以上かけて行われる大事な作業ですから、「まあ今回これは失敗でもいいや」というわけにはいかないのです。その点短編小説だと、危険を恐れずに、ある程度まで自由に好きなことができます。それが短編小説のいちばんの利点であると思います。たとえば僕は長いあいだ三人称で長編小説を書くことがうまくできなかったのですが、短編小説で三人称を書く訓練をして、それに身体を馴らしていって、その結果かなり自然に違和感なく三人称を使って長いものが書けるようになりました。”

~(中略)~

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”短編小説は実験の場、可能性を試す場”と語っています。アイデアをかたちにしてみる、新しいことに挑戦してみる機会とも言えます。なるほど、「ダンロップCM音楽」からオリジナル作品へと発展させた「Variation 57 for Two Pianos and Chamber Orchestra」なんかもあります。また久石譲が追求している単旋律(Single Track Music)手法は、小さな曲や小さな編成から試されながら、手応えと磨きあげをもって交響作品でしっかりとのこされています。

 

 

“このようにして短編小説をいくつかまとめて書くと、僕の場合、必ずその次に長編小説が書きたくなる時期がやってきます。短編小説を書いているのは楽しいのですが、だんだんそれだけでは足りなくなってくるのです。もっともっと大きな物語に取り組んでみたいという思いが高まってきます。そういうエネルギーが、雨水がちょっとずつ桶に溜まるみたいに、身体に次第に蓄積されてくるわけです。そのエネルギーの溜まり具合から、「この感じだと、あと三ヶ月くらいで長編小説を書き始めることになるだろうな」というようなことも予測できます。それがどれくらいの厚さの本になるかということだって、だいたい見当がつきます。

そのように、短編小説は、長編小説を書くためのスプリングボードのような役割も果たしています。もし短編小説を書くことがなかったら、僕がこれまで書いてきた長編小説は、今あるものとはずいぶんかたちの違うものになっていたのではないかと思います。短編小説である種のものごとをうまく書ききってしまえるからこそ、僕はそのあとまっすぐ長編小説に飛び込んでいくことができるわけです。あるいはまた短編小説で書ききれないものごとが見えてくるからこそ、長編小説の世界に挑みたいという気持ちも高まってくるわけです。そういう意味あいにおいても、短編小説は僕にとってきわめて大事なものであるし、それはまたなにがあろうと、うまく自然に書かれなくてはならないわけです。”

~(中略)~

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「エンターテインメントの仕事をするなかでの葛藤やフラストレーションが、自分の作品をつくることへと向かわせてきた」久石譲スタンダード語録です。作家同士のシンパシーを感じてしまう一面でした。短編と長編、エンタメ音楽とオリジナル作品。

 

 

“そのように短編小説には、時間をおいて手を入れる、書き直すという喜びもあります。長編小説を書き直すとなると、ものすごくエネルギーと手間が必要になりますし、一部を書き直すと全体のバランスが違ってくることもあるので、まずやりませんが、短編小説の場合は比較的簡単に書き直すことができます。もちろんすべての短編小説にそういうことが可能だというわけではありません。もはや書き直せないというものもありますし、書き直す必要を認めないというもの(完璧な出来だということではなく、あくまでその必要がないということです)もあります。でも「これは書き直した方が明らかによくなるな」というものもやはりあるわけです。短編の書き直しは、主として技術的な見地から行われます。しかし全体から見れば、「これは書き直したい」と思わせる作品はそれほど数多くありません。「この作品は、技術的にはいくらか不備があるかもしれないが、下手にいじらず、このままそっと置いておいた方がいいだろう」と感じるものの方がずっと多いのです。そういう意味では、短編小説というのはきわめてデリケートな成り立ちなのです。一筆加えるだけで、過去の作品が生き返ったり、あるいは逆に勢いを失ったりもします。何がなんでも技術的にうまく書き直せばいいというものではありません。”

~(中略)~

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ふむ深い。「これは書き直したほうがよくなる、これは書き直したい」そう思って映画のために書いた曲を再構成してオリジナルアルバムへ収録された曲もたくさんあります。

ここには出てきていない話題ですけれど、村上春樹さんは雑誌掲載用と書籍収録用と長さの違う2つの短編を用意することもあるそうです。これは雑誌に載せるときの文字数の問題で、削ったものと削っていないものです。のちに書籍化するときは完全版のほうを収録する。どちらも成立するからそれでいいとも言っています。久石譲に置き換えると、文字数の制約は台詞のかぶる音数の制約だったりカット割りの分数の制約だったりでしょうか。そうしたことから解放される音楽作品の再構成。いろいろなケースがありそうです。

 

 

“このように、様々な意味合いにおいて、短編小説は作家である僕にとって重要な学習の場であり、探求の場でもあり続けてきました。それは画家にとってのデッサンのようなものだと言えるかもしれません。正確で巧みなデッサンをする力がなければ、大きな油絵を描ききることはできません。僕は短編小説を書くことによって、またほかの作家の優れた短編小説を読むことによって、あるいは翻訳することによって、作家としての勉強をしてきました。”

~(中略)~

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村上さんは毎日必ず机に向かってなにかしら書くというサイクルを守っているそうです。久石さんも毎日なにかしら音楽をつくる(音楽的断片であっても)サイクルを守っているといいます。お互いに何十年ものあいだこの習慣を維持している。そこには強い基礎体力と精神力の自己管理や鍛錬も必要になってくるわけで、本当にすごいことです。日々のデッサンが、培われたデッザン力こそが、ついには大きな作品を誕生させているのだろうと、簡単に言ってしまうのも恐れ多いほどひしひしと感じます。

 

(以上、”村上春樹文章”は「僕にとっての短編小説」項より 引用)

 

 

 

少し追加します。

同書からは離れて、同旨なことを語っているものです。いろいろな方向から眺めてみると、いろいろな言い回しから触れてみると、吸収しやすくなったりすることあるなと僕なんかは思います。

 

“『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』という長編小説を書きあげたのは一九八五年のことだ。この小説のもとになったのは、その五年ばかり前に書いた「街と、その不確かな壁」という中編小説である。この「街と、その不確かな壁」という作品はある文芸誌に掲載されたのだが、僕としては出来がもうひとつ気に入らなくて(簡単に言ってしまえば、その時点では僕はまだ、この話をしっかり書き切るだけの技量を持ち合わせていなかったということになる)、単行本のかたちにすることなく、そのまま手つかずで放置されていた。いつか適当な時期が来たらしっかり書き直そうという心づもりでいたのだ。それは僕にとってとても大きな意味を持つ物語であり、その小説もまた僕によってうまく書き直されることを強く求めていた。

でもいったいどうやって書き直せばいいのか、そのとっかかりがなかなかつかめなかった。この小説にとって必要なのは小手先だけの書き直しではなく、大きな転換であり、その大きな転換をもたらしてくれるまったく新しいアイデアだった。そして四年後のある日、何かのきっかけで(それがどんなきっかけだったのかは今となっては思い出せないのだけれど)僕の頭にひとつのアイデアが浮かんだ。「そうだ、これだ!」と僕は思って、さっそく机に向かい、長い書き直し作業に取りかかった。”

(『村上春樹 雑文集/村上春樹』「自分の物語と、自分の文体」項より 一部抜粋)

 

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「書き直し」という点では「MKWAJU 1891-2009」も浮かびます。曲名にあるとおり、発表時には技術が足りなくてうまく実現できていなかったものを時を経て直しています。もうひとつ思い浮かべたいのは、「交響曲第1番 第1楽章」として未完のまま発表したきりになっていたものを5年後に「THE EAST LAND SYMPHONY」として完成させた事例です。しかも村上春樹さんの「街と、その不確かな壁」という中編作品は文芸誌で一度発表されて以後どの著作にも収録されることなくお蔵入りです。久石譲さんの「交響曲第1番 第1楽章」も演奏会で一度披露されたきり、直して引き継がれた「1. The East Land」はあるものの、その原型を聴けることはもうありません。

 

 

“ある種の短編は、書き上げられて発表されたあとに、僕の心の中に不思議な残り方をする。それは種子のように僕という土壌に落ちつき、地中に根をのばし、やがて小さな芽を出していく。それは長編小説に発展されることを求め、待っているのだ。僕はそういう気配を感じることができる。

どのような短編小説が長編小説の母胎として根を下ろすのか。どのような短編小説が根を下ろすことなく完結していくのか。それは自分でも予測がつかない。とにかく書き終えて、発表して、ある程度時間がたつのを待っているしかないのだ。時間がたてばそれはわかるし、たたなければわからない。”

(『村上春樹全作品 1990~2000』第4巻「ねじまき鳥クロニクル1」解題より 一部抜粋)

 

 

“いくつか手を入れてみたいとも思った。内容を大きく書き直すのではなく、文章的に「ヴァージョンアップ」してみたいと思ったのだ。短編小説に関しては僕はよくそういうことをする。長編小説に手を入れることは一切しないが(そんなことをしたらバランスが崩れてしまう)、短編小説には現在のポイントから書き直す余地が往々にしてあるからだ。レイモンド・カーヴァーも同じようなことをしていた。前のヴァージョンをオリジナルとして残しながら、新しい版をこしらえていく。それは文章家としての自分自身の洗い直し作業でもある。おそらく「前のほうがよかったよ」と言われる方もおられるだろうが、僕としては二十一年ぶりに、またひとつ違う可能性を追求してみたかったのだ。ご容赦願いたい。

そのようなわけでオリジナルの版と区別するために、こちらの作品はタイトルを『ねむり』と変えた。”

(『ねむり/村上春樹』あとがきより 一部抜粋)

 

 

 

村上春樹にみる短編小説と長編小説。久石譲にみるエンターテインメント音楽とオリジナル作品。だぶるように透けるように、うっすら見えてきたのならうれしいです。ちょっとこじつけが過ぎるよ!抜き出し方が作為的だ!……そんなことにはならない印象で自然にすうっと入ってくるとうれしいです。

村上春樹は長編小説を一番大切にしていますが、同じように短編小説がないと今あるかたちの長編小説は生まれてこなかっただろうとも語っていました。久石譲がオリジナル作品を一番大切にしていると公言はしていないです。でも公言はしなくとも、作家として自作品を残すことが一番大事と思っている、これはしごく当然なことです。

僕らファンは、あの映画がなかったら、あのCMがなかったら、エンタメオーダーがなければ生まれなかった名曲たちがたくさんあることを、深く愛おしく理解しています。そこからオリジナル作品へと発展したものもある。聴き手がわかるものもあれば作曲家本人しか知りえないものまで。深いところでつながっている作品たち。

 

 

ひとりの作家が生みだす全ての創作物はつながりをもっているという尊さ。思えば、これはクラシック音楽時代からそうです。小曲から交響曲へとなっていったもの、ひと楽章まるまるカットされた改訂、弦楽四重奏曲から弦楽オーケストラ作品となったもの。作品系譜という年表のなかで遺ってきた作品たち。

そんななかで、村上春樹と久石譲、このふたりにしか見当たらない共通したフィールド、他の追随を許さない強力な武器があるとしたら。実践することで自身の作家性をより広げ深めているもの。それは、翻訳と指揮です。Part.??まで続くかわかりませんが、ぜひ楽しみにお付き合いいただけたらうれしいです。

 

 

-共通むすび-

”いい音というのはいい文章と同じで、人によっていい音は全然違うし、いい文章も違う。自分にとって何がいい音か見つけるのが一番大事で…それが結構難しいんですよね。人生観と同じで”

(「SWITCH 2019年12月号 Vol.37」村上春樹インタビュー より)

”積極的に常に新しい音楽を聴き続けるという努力をしていかないと、耳は確実に衰えます”

(『村上さんのところ/村上春樹』より)

 

 

それではまた。

 

reverb.
次は翻訳と指揮について深めていけたら。

 

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

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Info. 2022/05/06 《速報》「HISAISHI SYMPHONIQUE」久石譲コンサート(フランス4公演)プログラム 【5/10 Update!!】

Posted on 2022/05/06 – 05/10

5月4日~8日「HISAISHI SYMPHONIQUE」久石譲コンサートがフランスのストラスブールとパリで開催されました。オール久石譲プログラムです。共演はストラスブール・フィルハーモニー管弦楽団。また、これらの公演は2020年9月12,13日(当初予定)の延期公演もふくまれます。 “Info. 2022/05/06 《速報》「HISAISHI SYMPHONIQUE」久石譲コンサート(フランス4公演)プログラム 【5/10 Update!!】” の続きを読む

Info. 2022/05/07 久石譲フランス公演 現地インタビュー(Web Téléramaより)

Posted on 2022/05/07

5月4日~8日「HISAISHI SYMPHONIQUE」久石譲コンサートがフランスのストラスブールとパリで開催されました。オール久石譲プログラムです。共演はストラスブール・フィルハーモニー管弦楽団。また、これらの公演は2020年9月12,13日(当初予定)の延期公演もふくまれます。

それにあわせた現地インタビューになります。原文そのまま紹介します。ウェブ翻訳機能を使ってお楽しみください。 “Info. 2022/05/07 久石譲フランス公演 現地インタビュー(Web Téléramaより)” の続きを読む

Disc. 久石譲 『Toccata』 *Unreleased

2022年5月7日 世界初演

 

2022年5月6日~8日開催フィルハーモニー・ド・パリ「week-end Joe Hisaishi」久石譲にフォーカスしたイベントプログラムのなかの一公演「MAKI NAMEKAWA」。久石譲作品「Variation 57 ~2台のピアノのための協奏曲~」の初演などでもつながりのある滑川真希のピアノリサイタルにて世界初演。

 

 

プログラムノート

Joe Hisaishi
Toccata

Composition : 2020-2022.
Commande du Massachusetts Institute of Technology’s Center for Arts,
Science, and Technology (CAST), du Festival Ars Electronica et de la
Philharmonie de Paris.
Durée : environ 9 minutes.

Ma Toccata a été composée à la demande de Maki Namekawa pour un concert à la Philharmonie de Paris programmé à l’origine à l’automne 2020. Je lis dans mes premières ébauches que j’ai commencé à y travailler en janvier 2020. Puis sont arrivés la Covid-19, le confinement et les annulations dans le monde entier pour des artistes comme Maki et moi-même. J’ai utilisé le temps qui m’était subitement accordé par la force des choses pour composer plusieurs grandes pièces pour orchestre, dont mes Symphonies nos 2 et no 3.

Dans ma Toccata je suis à la recherche de la fluidité dans le son, associée à la diversité
rythmique que j’admire tant en musique baroque. En me concentrant sur des mouvements horizontaux, linéaires, et en évitant les dissonances manifestes dans les accords, j’espère faire naître une réponse émotionnelle chez l’auditeur plutôt que de lui en imposer une. Maki Namekawa est une excellente pianiste, avec une approche directe et sincère de la musique qu’elle interprète. J’attends son concert avec beaucoup d’impatience.

Joe Hisaishi
Traduction : Delphine Malik

(「MAKI MAKI NAMEKAWA」プログラムノートPDFより 抜粋)

 

 

約9分のピアノソロ作品。作曲時期は2020-2022年。

Toccataは滑川真希の依頼で作曲しました。フィルハーモニー・ド・パリは当初2020年秋に予定されていました。私は2020年1月に作曲を始めました。その後、Covid-19によって真希のようなアーティストも私自身も世界的なロックダウンとキャンセルに見舞われました。私は突然与えられた時間を使って交響曲第2番と第3番をふくむオーケストラのためのいくつかの大きな作品を作曲しました。

Toccataでは、多様性に関連する音の流動性を探しています。バロック音楽でとても尊敬するリズム。動きに焦点を当てる。水平で直線的で、そして和音の明らかな不協和音を避けたいと試みました。聴き手に感情的な反応を強要するのではなく、感情的な反応を呼び起こします。滑川真希は優れたピアニストであり、彼女が演奏する音楽、彼女のコンサートを楽しみにしています。

(プログラムノートより Web翻訳・仮訳)

 

 

 

久石譲はパリ初演公演に駆けつけている。なお約1週間後の5月13日には同じく滑川真希によるアメリカ初演が行われている。場所はマサチューセッツ工科大学講堂クレスジ・オーディトリウム MIT Center for Art。