Overtone.第87回 長編と短編と翻訳と。~村上春樹と久石譲~ Part.7

Posted on 2022/12/20

ふらいすとーんです。

怖いもの知らずに大胆に、大風呂敷を広げていくテーマのPart.7です。

今回題材にするのは『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事/村上春樹』(2017)です。

 

 

村上春樹と久石譲  -共通序文-

現代を代表する、そして世界中にファンの多い、ひとりは小説家ひとりは作曲家。人気があるということ以外に、分野の異なるふたりに共通点はあるの? 村上春樹本を愛読し久石譲本(インタビュー記事含む)を愛読する生活をつづけるなか、ある時突然につながった線、一瞬にして結ばれてしまった線。もう僕のなかでは離すことができなくなってしまったふたつの糸。

結論です。村上春樹の長編小説と短編小説と翻訳本、それはそれぞれ、久石譲のオリジナル作品とエンターテインメント音楽とクラシック指揮に共通している。創作活動や作家性のフィールドとサイクル、とても巧みに循環させながら、螺旋上昇させながら、多くのものを取り込み巻き込み進化しつづけてきた人。

スタイルをもっている。スタイルとは、村上春樹でいえば文体、久石譲でいえば作風ということになるでしょうか。読めば聴けばそれとわかる強いオリジナリティをもっている。ここを磨いてきたものこそ《長編・短編・翻訳=オリジナル・エンタメ・指揮》というトライアングルです。三つを明確な立ち位置で発揮しながら、ときに前に後ろに膨らんだり縮んだり置き換えられたり、そして流入し混ざり合い、より一層の強い作品群をそ築き上げている。創作活動の自乗になっている。

そう思ったことをこれから進めていきます。

 

 

今回題材にするのは『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事/村上春樹』(2017)です。

”同時代作家を日本に紹介し、古典を訳し直す。音楽にまつわる文章を翻訳し、アンソロジーを編む。フィッツジェラルド、カーヴァー、カポーティ、サリンジャー、チャンドラー。小説、詩、ノンフィクション、絵本、訳詞集…。1981年刊行の『マイ・ロスト・シティー』を皮切りに、訳書の総数七十余点。小説執筆のかたわら、多大な時間を割いてきた訳業の全貌を明らかにする。”

(BOOKデータベースより)

 

これまでに翻訳してきた本のカタログのような、一冊ごとに1,2ページ、翻訳した当時を回想するように軽いタッチのエッセイとしても楽しめます。本書から興味をもって読んでみた本もたくさんあります。取り上げたいのは、まえがき項と、柴田元幸さんとの対談項からです。

 

自分が読んだあとなら、要約するようにチョイスチョイスな文章抜き出しでもいいのですが、初めて見る人には文脈わかりにくいですよね。段落ごとにほぼ抜き出すかたちでいくつかご紹介します。そして、すぐあとに ⇒⇒ で僕のコメントをはさむ形にしています。

 

 

 

”もうひとつ重要なことは、これまでの人生において、僕には小説の師もいなければ、文学仲間みたいなものもいなかったということだ。だから自分一人で、独力で小説の書き方を身につけてこなくてはならなかった。自分なりの文体を、ほとんどゼロから作り上げてこなくてはならなかった。そして結果的に(あくまで結果的にだが)、優れたテキストを翻訳することが僕にとっての「文章修行」というか、「文学行脚」の意味あいを帯びることになった。翻訳の作業を通して、僕は文章の書き方を学び、小説の書き方を学んでいった。いろんな作家の文章・物語という「靴」に自分の足を実際に突っ込んでみることによって、自分自身の小説世界を立ち上げ、それを自分なりに少しずつ深め、広げていくことができた。そういう意味では翻訳を通して巡り会った様々な作家たちこそが僕の小説の師であり、文学仲間であった。もし翻訳というものをやってこなかったら、僕の書いている小説は(もし書いていたとしても)、今とはずいぶん違った形のものになっていたはずだ。”

~(中略)~

⇒⇒
久石譲も、クラシック音楽から学べることはたくさんある、とよく語っています。ここで最も注目したいのは最後の文章です。”もし翻訳というものをやってこなかったら~”、これは久石譲音楽にも言えることだと思います。「もし指揮というものをやってこなかったら、僕の書いている曲は、今とはずいぶん違った形のものになっていたはずだ」、ファンとしてもそう感じるところありますね。クラシック音楽や同時代作家の作品を指揮することで、久石譲音楽は一構えも二構えも広く深くなってきたことは、ひしひしと感じるところです。

まあ、それを良しと思っていない人もいるかもしれません…。端的にいえば、久石譲らしくなくなったと。でも、それは本当にそうでしょうか…。何かに強く影響を受けるということは、これまでのオリジナリティや武器を強烈に覆い隠してしまうこともあります。取り入れたいものとすでにある持ち味が作品のなかで戦っている。それに潰されてしまうか、一皮むけて突き抜けるか。久石さんは間違いなく後者でしょう。近年の交響曲や室内楽のどれかひとつでもどれか一楽章でも好きなものがあるなら。それは指揮活動なくして生まれなかったものです。ちゃんとそこに久石らしさを感じるから好きになる。その数やバランスは変わってきたかもしれませんが、まあ、衰えを感じさせるどころか突っ走っているほどの久石さん…すごいことだと思います。

 

 

”そういう風に自分の創作と、翻訳の仕事とを、長期にわたって交互にやってこられたのは、僕の精神性にとっておそらく健全なことだったんだろうなと推測する。自由に好きにやれることと、制約の中でベストを尽くさなくてはならないこと。どちらか一方だけの人生だったら、やはりちょっと疲れていたかもなと思わなくもない。そういう意味ではたしかに恵まれていたと思う。”

~(中略)~

⇒⇒
村上春樹は、これまでに70冊以上の翻訳をしています。久石譲は、これまでに70作品以上のクラシック音楽を指揮しています(ちゃんと調べました)。「自作と古典を並列してプログラムすることは大変だ」と語るとおり、優れた作品を指揮することは、次の創作活動へ向かわせる原動力にもなっているように思います。

いろいろなフィールドでその作家性を多面的に発揮できる人はいますね。器用だとも思うし、そうすることで創作活動のバランスをとっている。そんなマルチさのなかでも明らかに村上春樹と久石譲には違うところがある。やれるからやっているではなく目的がはっきりしている。おそらく長編小説のため(その長い構想期間も含めて)に翻訳をしているだろうし、久石譲もまたはっきりと「作曲のために指揮している」と言っています。すべての多面的な活動が、自らの主軸に集約されるようになっている。アウトプットのためのインプットといったところでしょうか。

 

 

”ときどき「おまえの書く小説はあまり好きではないが、おまえの翻訳はなかなか悪くない」とおっしゃってくれる方もいて(もちろんもう少し婉曲な言い方ではあるけれど)、それはそれで僕としては嬉しく思う。何も褒められないよりは、少しでも何かを褒められた方がもちろんいいということもあるけれど、そこには、「僕は僕なりに何かをかたちにして残してくることができたんだな」という達成感のようなものがあるからだ。もちろん自分自身の小説だって、かたちとしてはいちおう残されているわけだが、翻訳書の場合はそれとはまた少し違った種類の「かたち感」なのだ。あるいはそれは「貢献」に近いものなのかもしれない。自分の創作の場合は、そういう「貢献」という感触はまず持てないから(そこで持てる感触はもっとべつのものだ)。”

~(中略)~

⇒⇒
作家ってそんな感覚をもつものなんだと新鮮でした。とすると、久石譲が指揮することもまた音楽文化への「貢献」であり「何かをかたちにして残してくることができ」ていると同じになりますね。音楽を未来へつなげたいとは、つまるところ演奏しつづけることです。録音やパッケージとしての有無は別として。読まれているから本はのこるし、聴かれているから音楽はのこる。のこるからこそ未来の人も触れることができる。

最初の文章を置き換えて、「おまえの書く音楽はあまり好きではないが、おまえの指揮はなかなか悪くない」、ああ、そんなこと思う人いるのかな?いるのかもな?あまり考えたことなかったです。でも、これからますます久石さんの指揮活動が充実するごとに、「久石譲の音楽はほとんど聴かないけど、久石譲の指揮するベートーヴェンはなかなかいいよ」そんなリスナーも出てくるのかもしれませんね。いやあ、嬉しいような悲しいような。すごいことだと思う。

 

 

”ここにこうして集めた僕の翻訳書を順番に眺めてみると、「ああ、こういう本によって、こうして自分というものが形づくられてきたんだな」と実感することになる。ただただ自分の楽しみのために訳した本もあれば、「よし、今回はこれに挑戦してやろう」と意を決して、腹を括って作業に臨んだ本もある。いずれにせよ、それらの本によって僕は形づくられてきたのだ。いつも言うことだけれど、翻訳というのは一語一語を手で拾い上げていく「究極の精読」なのだ。そういう地道で丁寧な手作業が、そのように費やされた時間が、人に影響を及ぼさずにいられるわけはない。”

~(中略)~

⇒⇒
文章そのまま本を音楽に置き換えてみると、ぐっと伝わってきますね。僕は最近ふと思うんですけれど、受けた影響もまるっと含めてその人のオリジナリティなんじゃないか、そんなことを思ったりします。ここは先人の影響を受けていて、ここはこの人のオリジナル性の部分で、って作品のなかで切り分けることなんてできません。もっというと、誰に影響を受けてきたかでその人のオリジナル性も変わってきます。だから、うまく言えないけれど、ミニマル・ミュージックに影響を受けていない久石譲やベートーヴェンに影響を受けていない久石譲は、今僕らが聴いている久石譲音楽じゃない、それははっきりわかります。だとしたら、オリジナリティってその人が形づくられた影響すべてひっくるめて…その人が触れてきた好きの蓄積からオリジナリティはもう始まっていて…うまく言えないからまたいつか出直したい次第、です。

 

 

”いつも言うんだけど、翻訳するというのは、なにはともあれ、「究極の熟読」なんですよ。写経するのと同じで、書かれているひとつひとつの言葉をいちいちぜんぶ引き写しているわけです。それも横のものを縦にしている。これはね、本当にいい勉強になります。”

~(中略)~

⇒⇒
よく語られていることで同旨あります。

 

 

”「このメス犬」とか、「売女」とか、ああいうのはかんべんしてくれよなって思いますよね(笑)。でも最近、”bitch”は「ビッチ」である程度いけるようになってきました。「ファック」もだいたいそのままいける。これは翻訳者としてはすごくありがたいことです。社会的にみればあまり褒められたことじゃないのかもしれないけど(笑)。最近は「マザーファッカー」も、僕はそのままにしちゃってることが多いですね。「クール」もそのまま使えるシチュエーションが増えてきて、なかなか便利になりました。

古い翻訳書を読んでいて、「イカしてる」なんて書いてあると、なんなんだと思うものね。「すかしてやがるぜ」とかさ。ですから、僕が翻訳する場合にも、早く古びそうな言葉はできるだけ使わないというのが、けっこう大事なことになります。「これはあとまで残るかな? それともそのうちに消えちゃうかな?」というぎりぎりの境界線上の言葉や表現もあって、このへんの判断はなかなか難しいですね。結局は翻訳者のセンスの問題になります。英語がすごくできる人でも、必ずしも良い翻訳者になれないというのは、そういう部分があるからでしょうね。”

~(中略)~

⇒⇒
村上春樹が語る「翻訳には賞味期限がある」、これについてもPart.1-6のなかに同旨あります。また異なる具体例を挙げていたりしておもしろいです。

 

 

”僕もあの作品はちょっと苦手です。サリンジャーの短篇は、良いものはすごく良いけど、ばらつきも激しいから。でもね、最近では電子ブックの短篇集ばら売りみたいなこともやっているでしょう。あれはどうかなと僕は思うんです。やはり短篇集というのは、中にすごい作品もあり、それほどすごくない作品もありで、そうやって総合的に成り立っているものだと思うんです。そういう成り立ちはやはり大事にしていかなくちゃならないんじゃないかと。レコードの場合もそうだけど、最初はつまらないと思っていたトラックが、あとになってだんだん気に入ってきたり、みたいなことはありますよね。”

~(中略)~

⇒⇒
音楽についても、アルバムというパッケージについても、強く同じことが言えると思います。少なくとも、好きなアーティストなら単曲で買うのはもったいないかなと思います。あなたの好きは単曲程度なの?!ってね。冗談はさておき、ベースに好きがあるんだから、いつかだんだん気に入ってくるということは大いにある。僕は好きなものに対してはけっこうな信頼を置いているので、もし曲や物語がそのとき好きになれなかったら、それは自分がまだ追いつけていないって思うほうかもしれません。久石さんの音楽はもちろんそう、村上春樹さんの小説もそう。あとからわかったり好きになったりする自分に出会えたときはとてもうれしいし、そこまで全幅の信頼を寄せれる作家が自分にはいるってうれしい。全部を好きにならなくてもいいし、無理にわかろうとしなくてもいい。ファンならゆっくり一生かけて付き合っていきましょうよ。そのなかで変化してくることなんていっぱいありますよ。そんなゆるさです。

 

(以上、”村上春樹文章”は『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事/村上春樹』より 引用)

 

 

少し追加します。

同書からは離れて、同旨なことを語っているものを、ここにまとめて紹介させてもらいます。いろいろな方向から眺めてみると、いろいろな言い回しの言葉から触れてみると、吸収しやすくなったりすることあるな、と僕なんかは思います。

 

 

”さっき柴田さんがいまの翻訳が次の創作に影響を与えるかどうかとおっしゃったけど、影響を受けていたとしてもそれを次の僕の創作に使うかというと使わない。でも十年ぐらい経ってから、何かの形で役に立ってくるんじゃないかなという気はしています。たぶんまったく別の形をとって出てくるというようなことですね。”

(「翻訳教室/柴田元幸」より 一部抜粋)

⇒⇒
村上春樹は、取り込んだものから大事な部分だけ抽出したり別のかたちで書く、とも言っています。宮崎駿監督は、オリジナルがわからないように真似ろ、とも言っています。久石譲は、後から気づいたらブラームスの弦の扱い方に影響を受けている、とも言っています。すべての創作家たちは、多くのものを取り込み吸収し自分のフィルターで時間をかけて濾過したものを新しいかたちで出す。すごく尊いサイクルだなと思います。

 

 

”他言語のリズムなり生理なり、あるいは思考システムなりは、月の引力が地球の海の干満をもたらすように、その翻訳者の固有の文体に否応なく影響を及ぼします。言語システムを転換するという行為を通じて、僕らの「こっち側」の文体=言語認識は多少の差こそあれひとつの洗いなおしを受けることになります。そのような洗いなおしは、多くの局面においては有意義、有益なものであると僕は信じています。文体とはとりもなおさず「意識のあり方」であり、僕らはそのような意識な交流の中から、多くの種類の価値を学ぶことができるからです。僕らは翻訳作業を通じて、複合的な意識の視点を、自然に身につけていくことができます。

しかしプラスばかりではありません。同時にそこには危険性もあります。それはつまり「入超」になるということですね。外部からの「意識」流入が強く大きくなりすぎて、そちらに力が吸い取られてしまって、内発的な要素がうまく吸い上げられなくなる。そうなると、たしかに立派な文章スタイルはできたし、小説的ヴィジョンも立派だけれど、地面に根っこがうまく張れていないということにもなりかねません。これは小説家としては命取りになりかねないことです。”

(「若い読者のための短編小説案内/村上春樹」より 一部抜粋)

 

⇒⇒
ちょっと難しいことが書いてあるんですけれど。簡潔にすると、翻訳することは自分の文体にも影響を及ぼす。洗いなおしを受け複合的に広がる良い影響もあれば、そこに自分の文体を持っていないならば潰されてしまう悪い影響もある。そういうことだと思います。

上の、最初のほうに書いたことと重なりますね。久石譲らしくなくなった?のところ。クラシックの手法にならうことで、(従来の)久石譲らしくなくなったところもあるでしょう、同じく作風の幅が広がったことはたしかです。今までにはなかった構成や形式、そうは進まなかっただろう曲想や展開、自ら指揮することで磨かれる表現や輝きをますオーケストレーション。こう書きたい書いてしまう文章やメロディ、その馴染んだ手くせを大きく解放してくれるものこそが翻訳活動であり指揮活動だとしたら。その活動を追いかけることはとても魅力的だと思います。

村上春樹さんが書いている後半センテンスの危険性や入超って。もし久石譲に揺るがないオリジナリティがなかったとしたら。指揮活動に影響受けすぎて、何を書いてもベートーヴェンの影が見え隠れするとか、ブラームスしか浮かんでこないとか、よもやクラシック音楽に圧倒されて何も書けなくなってしまうとか。いまだかつてそんなことってないですよね。だから僕は、強靭な個性と精神性をもって、自作と他作に対峙しつづけている村上春樹は久石譲は、すごいって思うわけです。

 

 

 

今回とりあげた、『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事/村上春樹』。これまでに訳された70冊以上の翻訳本は、村上春樹小説と同じような好きを感じることはないかもしれません。でも村上春樹のフィルターを通して触れることができてよかったと思える本はたしかにあります。これまでに指揮された70作品以上のクラシック音楽が、久石譲音楽と同じような好きを感じることはないかもしれません。でも久石譲のフィルターを通して触れることができてよかったと思える音楽はたしかにあります。指揮することでのまた違った久石譲の魅力を感じることができたなら。帰り着く先は久石譲音楽がさらに豊かに好きになる。好きの円運動が活発な人って遠心力もすごいでしょうね、きっと。

 

 

-共通むすび-

”いい音というのはいい文章と同じで、人によっていい音は全然違うし、いい文章も違う。自分にとって何がいい音か見つけるのが一番大事で…それが結構難しいんですよね。人生観と同じで”

(「SWITCH 2019年12月号 Vol.37」村上春樹インタビュー より)

”積極的に常に新しい音楽を聴き続けるという努力をしていかないと、耳は確実に衰えます”

(『村上さんのところ/村上春樹』より)

 

 

それではまた。

 

reverb.
村上春樹の翻訳第1作目は「マイ・ロスト・シティー」です。

 

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

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Overtone.第86回 「Shaking Anxiety and Dreamy Globe for Two Violoncellos」を聴いて

Posted on 2022/12/16

ふらいすとーんです。

「Shaking Anxiety and Dreamy Globe for Two Violoncellos」を聴いてメモをもとに記します。いつもと同じく新曲を聴いたときの感想ですが、少しシビアなところもあるかもと思い、Disc.ページのレビューからは切り離すことにしました。

 

2022年12月9日開催「現代室内楽の夕べ 四人組とその仲間たちコンサート2022」にて初演されました。公演の詳細、久石譲による楽曲解説、コンサートライブ映像などについてはこちらにまとめています。聴けます。

 

 

久石譲:《揺れ動く不安と夢の球体》

Shaking Anxiety and Dreamy Globe for 2 Guitars (2012)

Shaking Anxiety and Dreamy Globe for 2 Marimbas (2014)

Shaking Anxiety and Dreamy Globe for Two Violoncellos (2022)

 

2台チェロ版(2022)を聴いてすぐに浮かんだキーワードは「2012」「チェロ」「デュオ」でした。この3つを絡めながら進めていきます。

 

チェロ

2台チェロ版になったこの作品は、調性も違う、テンポも少し遅いというのがすぐにわかる特徴です。久石譲解説にあるとおり、開放弦をうまく利用するためにキーが変わっていることがわかります。速いパッセージの連続するこの楽曲は、ギターやマリンバであれば弾きこなせることもチェロでは易しくありません。例えば、粒の細かい4つの音符をギターなら近距離の弦音程をスピーディに指で押さえたり、マリンバならピアノみたいに鍵盤の速さで打てることも、チェロはそうもいかない。大きく長い弓を行き来する時間もいる。そうすると、粒の細かい4つの音符のうち1つでも開放弦を利用できれば、3つのポジショニングで音程をとり少し余裕が生まれる。1つの音は弦を押さえずに開放弦の音を使えるから。ずいぶん素人解説ですが、そういうことを大小いろいろ駆使しているんだろうと思います。

次に、楽器ごとにできる表現の違いに目を向けてみます。ギター版は速弾きがこなせることはもちろん、1奏者で5音の和音を鳴らすこともできます。スコアを見ると2奏者で同時に計9音の和音をかき鳴らしている箇所もあります。また音色の効果として、2奏者でありながらひとつの統一した音色として散っているような音像や、シンクロするように(ある種機械的に無機質に)演奏することが本来の意図にあるのではないかと思っています。演奏をエモーショナルにしすぎずに音符の強弱や音符の長さを均一にすることで俯瞰的な響きになる、そんなイメージです。

マリンバ版も速弾きがこなせることはもちろん、片手にマレット2本を挟んだりもできるので、最大で2奏者4手4音以上の和音が鳴っている箇所あります。また音色の色彩として、マリンバ1はグロッケンシュピールに、マリンバ2はヴィブラフォンに持替になっています。ここからみても、ギター版とマリンバ版は単純な楽器の置き換えではなく楽曲の放つ意図や狙いも変化していることがわかります。

チェロ版は、器用に和音を奏でる楽器ではないので、単音による旋律をベースとしながら、ときに重奏やピッツィカート、そして弦をなでるようなスライド奏法も使いながら表現に幅をもたせています。言い換えると、特殊奏法も用いることが作品世界の表現に求めらている。

 

デュオ

本公演シリーズは「楽器2台による」「新作」を作品の条件としています。ギター版やマリンバ版の再演ではなくチェロ版として改訂した経緯はここにあります。弦を弾いたり鍵盤を打ったりで音の減衰していくギターやマリンバとそのサスティン効果、弓を引くことで音を伸ばすチェロの違いがあります。減衰音楽器は音価をそろえやすい(一音一音が均一)ですし、持続音楽器は数小節ならともかく楽曲全体にそれを求めるには端から性格が違います。

またひとつの大きな楽器(ピアノの連弾のような)として見立てることもできるギター2台と、音色や音域にも広がりのあるマリンバ版(高音グロッケンシュピールもある)。それに比べて、動く音域として狭いチェロ、単音でありながら線の太いチェロ、この作品でどれだけ効果を発揮しているかというシビアな側面もあるのかもしれません。低音寄りの重厚で野性的な音像が2台チェロ版のストロングポイントだとすれば、細かい音符の粒立ちが無くなり層のように聴こえる音質、旋律や音域が広範囲に動き回れないのがウィークポイントになるかもしれません。

 

2012

2012年作品だからだと思います。多忙を極めた久石譲が本公演で「新作」を書き下ろすことができなかった。2台チェロ版へのアイデアが浮かんだとしても、楽曲構造は2012年当時の久石譲です。チェロのメリット・デメリットを踏まえて改訂しようとすると、構造をそのまま引き継ぐことに無理がでてくる。かといって、構造を変えるということは、完成されたフォーマットを一旦崩すことになる、組み替えないといけない、それは一から作曲するのと同じに等しい。新作を書き下ろすスケジュールがないなか、自身による既存曲の改訂作業も同じ。限られた時間のなかで整合性と新しい可能性を追求していくことは難しい。

久石譲楽曲解説にあるとおり「しかし時間がなかったこと、新たなアイデアがいることなど考慮し、最も信頼する作曲家長生淳氏に編曲を依頼した。チェロの開放弦を利用することなど打合せした上で彼に全て任せた。」、そういうことなんじゃないかなと思います。

「楽器2台による」作品の候補が「Shaking Anxiety and Dreamy Globe」しかなかったのか、なかったような気がします。ずっと遡れば『MKWAJU』『Shoot The Violist ~ヴィオリストを撃て~』収録作品やいくつかのアンサンブル作品から候補もあがるかもしれません。しかし、2022年の今から最も近い作品というとおのずと絞られてきます。

じゃあ、ピアノ2台でもよかったじゃないか、ギター、マリンバからみても無理ない選択肢だと思うけど。そこは現代音楽の演奏会です。どの楽器の組み合わせを提示するかということも、、コンセプトとして大切、、あるんじゃないでしょうか。個性的な楽器組み合わせ、異種格闘技、、この作品は同じ性質の楽器2台でというのが作曲時の前提にあるような気がします。

積極的にも消極的にもどちらの理由からもなるべくしてそうなった作品。選曲から完成したかたちまで。行き着くところは自然な着地点だったんじゃないかな、これが僕の回答です。「新作」は準備できないけれど再演はない、このシリーズにそって実験と挑戦で応えたい、、そう思ったかどうかはわかりませんが、僕の回答です。

 

ギフト

僕にとってはギフトです。音を聴かせてくれないとわからない。だから、どんなかたちであっても音楽でみせてくれることは、いつもワクワクするギフトです。チェロだとこんなふうになるんだ、なんでこうなったんだろうと好奇心です。新しい気づきです。激しい勘違いです。でもマルバツで直感に終わらせてしまうよりこっちのほうが断然おもしろい。今回は半分久石さんの手も離れている。思いがけないボーナス・バージョンとして楽しくうれしくギフトもらいました。

 

志向性

最近のインタビューで「ソならソでいい、なんの楽器でも」「特殊奏法なんかも極力排除したい」みたいなことを言っていました。これはけっこう深いところを突いているような気がしています。つまり、ある楽器でしか演奏できない曲や、ある楽器ならでは(特殊奏法など)の響きをもった曲構造は今とりたくないと思っているということになります。

例えば、バッハの作品はいろいろな楽器に置き換え可能で無伴奏チェロ作品も他の弦楽器はもちろん管楽器で演奏されることもあります。インヴェンションとシンフォニアのピアノ作品も弦楽になっていたり。だから同じインタビューで「バッハのようにそこを目指したい」というのは言葉そのままつながります。どの楽器でも演奏できる骨格や基盤の強いもの、特定楽器の音色・響き・奏法から生まれるサウンドテクスチャに左右されない論理的なフォームによる作曲へアプローチしたい。

この時点でもう「Shaking Anxiety and Dreamy Globe」の自身による改訂は土台無理だった、あまりにも当時の着想と現在の思考には乖離がある。僕にはそれほどまでに思える決定打でした。ギター版はギターでしか成立しないし、マリンバもチェロもそう。もう久石譲の手を離れてでしか解決することができなかった、今回の時間と思考とのせめぎ合うなかで。

話はそれて。デュオや室内楽よりも大きな編成になりますが、近年盛んにリコンポーズしている作品は、楽曲構造をそのままにきれいに置き換えができているとわかります。「Variation 14」アンサンブル版/オーケストラ版や、「Variation 54」「2 Dances」などもそうですね。「The Black Fireworks」のバンドネオン版とチェロ版もそうですね。システム、フォーム、音の運動性、、今久石譲がタイムリーに発言しているキーワードには大切なヒントが落ちていそうで、なるたけ拾って注目して追いかけたいところです。周回遅れなのはいつだって覚悟していますから(笑)だって到底、ムリ。

 

とても収穫の多い楽曲でした。2台チェロ版ありがとうございます。ライブ演奏じゃなくてセッション録音で聴くことができたらまた印象も変わるでしょうね。

 

それではまた。

 

reverb.
管楽器も息が続かないし、なにがあるかな?

 

 

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Info. 2023/01/06,13 [TV] 金曜ロードショー 2週連続スタジオジブリ『ハウルの動く城』『思い出のマーニー』放送

Posted on 2022/12/16

宮﨑駿監督最新作公開イヤー 2023年も2週連続スタジオジブリでスタート!【1.6】『ハウルの動く城』【1.13】『思い出のマーニー』

先日、待望の宮﨑駿監督最新作『君たちはどう生きるか』が来年夏に公開されることが発表されました。そんな2023年のスタートは、2週連続スタジオジブリ作品でお楽しみください! “Info. 2023/01/06,13 [TV] 金曜ロードショー 2週連続スタジオジブリ『ハウルの動く城』『思い出のマーニー』放送” の続きを読む

Info. 2022/12/08-16 「ザ・キングズ・シンガーズ 2022 日本ツアー」(国内7都市)久石譲 委嘱作品 世界初演 【12/11 update!!】

Posted on 2022/08/27

イギリスを代表するアカペラ・グループ「キングズ・シンガーズ」のクリスマス・コンサートにて久石譲・委嘱作品「I was there」が世界初演される予定です。日本ツアー公演で国内7都市で開催予定となっています。 “Info. 2022/12/08-16 「ザ・キングズ・シンガーズ 2022 日本ツアー」(国内7都市)久石譲 委嘱作品 世界初演 【12/11 update!!】” の続きを読む

Disc. 久石譲 『I was there』

2022年12月10日 世界初演

 

2022年12月8~16日開催「ザ・キングズ・シンガーズ 2022 日本ツアー」にて世界初演。東京・広島・大阪・長野など7都市をめぐる10日の東京公演、久石譲も会場へ駆けつけ客席鑑賞するなか披露された。

 

ザ・キングズ・シンガーズ 2022 日本ツアー
The King’s Singers  Japan Tour 2022

[出演]
ザ・キングズ・シンガーズ
パトリック・ダナキー(カウンターテナー)
ティモシー・ウェイン=ライト(カウンターテナー)
ジュリアン・グレゴリー(テナー)
クリストファー・ブリュートン(バリトン)
クリストファー・ガビタス(バリトン)
ジョナサン・ハワード(バス)

[スケジュール]
12/8 仙台・電気ホール
12/10 東京・サントリーホール
12/11 岩手・キャラホール
12/13 神奈川・ミューザ川崎シンフォニーホール
12/14 広島・JMSアステールプラザホール 大ホール
12/15 大阪・ザ・シンフォニーホール
12/16 長野・ホクト文化ホール 中ホール

 

 

~平和~
久石譲:I was there(委嘱作品/世界初演)
Joe hisaishi: I was there (World Premiere on this tour)

”I was there”はThe King’s Singersの委嘱によって作曲した。”I Want to Talk to You”(2020年作曲)に続く英詞作品の第2弾である。当初から”I was there”というコンセプトは決めていた。そして2001年の9.11ニューヨークの世界貿易センターへのテロ、2011年の3.11東日本大震災、2020~22年のCOVID-19の犠牲者による証言、現場で命を失った人たちの手紙などを元に人々が最後に何を考えたか、何を願ったかを音楽で表現しようと考えた。しかし、かなりの長さが必要なこと、重いテーマであること、The King’s Singersの爽やかなコーラスには合わないことを考慮してタイトルだけ残し、音の構成に重点を置いて、約8分半の楽曲として作曲した。

繰り返される”I was there”という言葉とメロディーはミニマル的なズレを生じさせながら、徐々に変容していき、日本語の言葉も登場する。作詞はMAIで”I was there”と関連用語だけにした。ただ言葉としては使われていないが、言外に僕の最初に考えたことは行間から滲み出ていると思う。

The King’s Singersの6名の音域表(各自微妙に違う)を見ながら作曲をしていくうちに、如何にこの6声であることが有効かわかってきた。つまり通常コーラスは4声部で描くことが多いが、6声だと3声ずつ2グループにできること、カウンターテナーの低域での音量などの問題が出た時の補強、ハーモニーの時の微妙なバランスを取る時などの他、各パートが自由に動ける、または休めるなど多くの利点があった。

だが最大の強みは彼らが単に歌うだけのグループではなく、信頼し合い響き合うFamilyのような絆と人としての知性なのではないか、と僕は思った。

12月に初演される予定だが、その時2022年がどういう年であったか、そして新しい年はどういう年になるのか?彼らの歌を聞きながら思いを馳せたい。

久石譲

(ザ・キングズ・シンガーズ 2022 日本ツアープログラムブック より)

 

 

Q.
久石譲さんに委嘱をされたということですが、作曲を依頼された経緯を教えてください。

A.
私たちメンバーは皆子供の頃、久石譲さんの音楽(スタジオジブリのアニメや映画)を聴いて育ちました。この音楽は世界中で愛され、今尚、無数の人々をインスパイアしています。私たちも人々と同じく久石さんの音楽を知っていたのです。2017年、創設50周年記念でニコ・ミューリー(1981-)に委嘱を依頼し、ケンブリッジ大学キングズ・カレッジのチャペルで委嘱作品を初演しましたが、それはとても素晴らしかったです。ニコが初演のために渡英した際、久石さん、およびチームと娘の麻衣さんを紹介してくれたのです。その後チームと麻衣さんとはお友達として時々会う中で、お互いの音楽や技巧などについて相互に敬意を持っていきました。その後私たちは『Finding Harmony』というプロジェクトを立ち上げました。人間が何世紀にも渡り、音楽を通して苦しい時も嬉しい時も分かち合える、癒しのパワーがあるというものです。このようなテーマの楽曲をどんな作曲家に書いてもらうかを考えた時、私たちは久石さんを思い浮かべました。久石さんの音楽は人々を繋げる力と共に、幸せな気持ちになるだけでなく癒しの力もあるからです。2020年の来日はコロナ禍でキャンセルされましたが、久石さんは委嘱を快諾して下さり、晴れて今年の12月の日本公演で世界初演できることになりました。とてもご多忙なスケジュールの合間に時間を見つけて作曲してくださったのです。さらに久石さんがはじめてアカペラ・グループ用に作曲することになった曲でもあります。作品のタイトルは「I was there」。ニューヨークで起きた9.11同時テロ事件の犠牲者、3.11東日本大震災の犠牲者、コロナ禍の犠牲者達が、最後の瞬間に何を考え、何を望んだのかということを犠牲者によるメッセージや手紙などから感じて音楽で表現しています。この作品はミニマリズム*(注釈)なスタイルで書かれていますが、久石さんは近年このスタイルを作曲に取り入れていらっしゃいます。私たちもレコーディングを行った際にこのスタイルがとても気に入り、また多くを勉強させていただきました。久石さんのカラーがふんだんに取り入れられたこの新曲がまさに私たちのために書かれた曲だと強く感じました。私たちは、歌うほどにこの作品に引き込まれ、新たなスタイルに大変魅了されています。今回久石さんやスタッフさんと新たなコラボレーションが実現することを私たちは心待ちにしていました。本日初めてこの曲を歌うにあたり、久石さんへの正義感と尊敬の意を示すことができれば嬉しく思います。ここが始まりの地となり、今後たくさんこの曲を歌うことができる事を願っています。

(ジュリアン・グレゴリー)

注釈)*完成度の追求のために必要最小限まで省略する表現スタイル(または様式)。日本国内では、「シンプル・イズ・ベスト」という格言も生まれた。(Wikipediaより一部引用)

(ザ・キングズ・シンガーズ 2022 日本ツアープログラムブック より抜粋)

 

 

ザ・キングズ・シンガーズ
The King’s Singers

1968年、ケンブリッジ大学のキングズ・カレッジの学生6人によって結成。その比類ない音楽性と機知に富んだステージ・パフォーマンスで、デビュー後瞬く間にイギリス音楽界でトップ・アーティストに昇りつめる。国際的にも人気を博し、デビューして50年近く経った今に至ってもアメリカ、アジア、オーストラリア、南米各国など世界中でコンサートを行って毎年100万人以上の観客を動員し、世界最高のヴォーカル・アンサンブルとして評価を不動のものとしている。

レパートリーは通算で2000曲以上にも上り、そのジャンルも中世のマドリガルからルネッサンス、古典歌曲から現代、そして世界の民謡やジャズ・ポップスなど幅広い。また、これまでにベリオ、リゲティ、ペンデレツキ、武満徹、ウィテカーなど各時代を代表する現代作曲家が200を超える作品を捧げてきた。

教育・育成活動にも力を入れており、レジデント・アンサンブルを務めるロンドン大学で夏のマスタークラスを定期的に行っているほか、ザ・キングズ・シンガーズ財団の助成により新進作曲家を対象とした聖歌の作曲コンクールを開催し、入賞者にケンブリッジ大学のキングズ・カレッジ・チャペルにて発表の機会を提供するなど若手音楽家への支援を行っている。

録音も数多く、中でも2009年にシグナム・クラシックよりリリースされたアルバムで、また2012年にはユニバーサル=デッカによるウィテカー作品「ライト・アンド・ゴールド」のCDでグラミー賞を2度受賞した。また、今でも世界各国でチケットが続々完売し公演が激賞され続けていることが評価され、英国の権威グラモフォン誌の殿堂入りアーティストに選ばれている。

今回は2019年の特別公演以来の3年ぶりの来日。

(コンサートフライヤー/日本ツアープログラムブック より)

 

 

レビュー

約8分半の作品。アカペラ6声部のための楽曲。久石譲による楽曲解説(「」)をもとにレビューする。「”I Want to Talk to You”(2020年作曲)に続く英詞作品の第2弾である」、とても雰囲気の近い作品といえる。同じ作曲手法による連作とみれるほどと感じた。

「繰り返される”I was there”という言葉とメロディーはミニマル的なズレを生じさせながら、徐々に変容していき、日本語の言葉も登場する。作詞はMAIで”I was there”と関連用語だけにした。」とある。”I was there”を基本とする短い歌詞とその言葉を乗せる基本モチーフがミニマルに折り重なっていく。主旋律や生まれるハーモニーは厳かでまるでグレゴリオ聖歌のような神聖さを感じる。”I was there, I will be there, I should be there”などと関連用語に変容していく。”私はそこにいた”(そのままの歌詞引用ではない/ツアーブックふくめ歌詞未収載)といった日本語に置き換えた関連用語も登場する。さらに、6声部の効果を発揮して英詞と日本詞が同時に交錯するところがある。演出や響きの妙としてとても魅力的に惹きこまれた。

「かなりの長さが必要なこと、重いテーマであること、The King’s Singersの爽やかなコーラスには合わないことを考慮してタイトルだけ残し、音の構成に重点を置いて、約8分半の楽曲として作曲した。」とある。この作品は、ポップスや歌曲のような構成(Aメロ,Bメロ,サビ)をとっていない。第1主題・第2主題・展開部・再現部というように、いくつかのモチーフや展開が絡み合う構成をとっている。ノンビブラートによる歌唱は、雲間から薄く射しこめる光の層のようにまっすぐに伸びる。それがまた感情移入をこばむ俯瞰さをもち、一歩引いた、あるいは上から眺めているのかもしれない。I Want to Talk to You作品の弦楽オーケストラ版もノンビブラート奏法であり、クラシックの手法と現代的アプローチは一貫している。

「つまり通常コーラスは4声部で描くことが多いが、6声だと3声ずつ2グループにできること、カウンターテナーの低域での音量などの問題が出た時の補強、ハーモニーの時の微妙なバランスを取る時などの他~」とある。音楽3要素のメロディ・ハーモニー・リズムを充実して構成できる編成といえる。カウンターテナー×2+テノール+バリトン×2+バス。旋律やミニマルから生まれるリズムとは別に”トゥー、ルッ、ルッ、ルッ”といったリズム的役割をもったパートがふんだんに盛り込まれている。ここからみても、I Want to Talk to You作品が弦楽四重奏ではなく弦楽オーケストラ版および合唱版として存在していることとつながりが見えてくる。I was there作品もまた弦楽オーケストラ版にリコンポーズすることは可能であろうし元より構想にあるのかもしれない。さらには、将来誕生するかもしれない交響作品の一楽章として組み込む可能性をも秘めていると感じる。それほどまでに骨格の強い、今の久石譲のアプローチが如実に反映されている。

もう一度戻る。「かなりの長さが必要なこと、重いテーマであること、The King’s Singersの爽やかなコーラスには合わないことを考慮してタイトルだけ残し、音の構成に重点を置いて、約8分半の楽曲として作曲した。」とある。タイトルと音の構造だけにフォーカスして約8分半の楽曲にまとめた、とも受け取ることができる。かなりの長さをもった重いテーマの作品はまた別に誕生するのかもしれない。そのとき同じテーマに息づくI was there作品が一部分となるのか、あるいは全く新しい長大作品となるのか、とも受け取ることができる。

久石譲楽曲解説からの振り返りはここまで。公演はすべて日本語MCで行われた。初めと終わりの挨拶程度ではない、3曲おきのMCは全メンバー交代でipad原稿を見ながら流暢に聞き取りやすいローマ字日本語の発音、その姿勢にただただ感動する。久石譲楽曲については、上記ツアープログラム内容と重複するが、「苦難を表現、その向こう側にたどり着く人間の強さ」という紹介があった。これは、久石譲とザ・キングズ・シンガーズどちらの発言に由来するかは不明だが、お互いやりとりするなかで出てきた言葉であろうことは想像できる。曲を受け取る助けになる。

ザ・キングズ・シンガーズのファンがつめかけた日本ツアーにおいて、各公演のSNS評判もよく、長く歌われてほしいという声もあった。アーティストのファンからも好評だったということは、グループの魅力を発揮できている曲という証であるし、楽曲そのものに新鮮や美しさの佇まいがあったということ、とてもうれしい。これから世界中で歌われること、これから久石譲作品として発展していくこと、つよく期待している。この作品はいろいろなかたちで触れる機会が訪れるかもしれない、つよく楽しみにしている。

 

 

日本ツアーの詳細、久石譲とのリハーサル風景動画、久石譲とのバックステージ写真などはこちらにまとめている。

 

 

2023.03.27 追記

放送内容も記した。

 

 

2023.09.22 追記

ギングズ・シンガーズのアルバム『ワンダーランド』にセッション録音で音源化された。

 

 

 

Disc. 久石譲 『Shaking Anxiety and Dreamy Globe for Two Violoncellos』 *Unreleased

2022年12月9日 初演

 

2022年12月9日開催「現代室内楽の夕べ 四人組とその仲間たちコンサート2022」にて初演。第28回を迎えるコンサート・シリーズのゲスト作曲家として久石譲出演、当日はステージトークも行われた。またコンサートの模様はYouTubeにてLIVE無料配信され、過去シリーズふくめアーカイブ視聴も提供されている。

 

 

プログラムノート

◆久石譲:《揺れ動く不安と夢の球体》 2台チェロのための
“Shaking Anxiety and Dreamy Globe” for Two Violoncellos

原曲は2012年、Hakujuギターフェスタ委嘱作品として作曲した。ギターの開放弦を使ったリズミックな楽曲に仕上がり、2014年には僕が企画する現代の音楽シリーズ Music Future Vol.1 においてマリンバ2台のためにRe-Composeした。

そして2022年知り合いの西村朗氏よりこの由緒ある会への作曲の機会をいただき2台のチェロの曲を書こうと張り切っていたのだが、パンデミックのために延期されてきた海外のコンサートが再開し、チェコ・フランスツアー、北アメリカツアー、ニューヨークのRadio City Music Hall(6000人×5日間)などを行なっていくうちにコロナに感染。かなりの作曲依頼を抱えていたが全てに遅延が生じて作曲が間に合わなくなった。この会への参加も断念せざるを得ないと考えたが、特にヨーロッパで人気の若手グループ”2 Cellos”の演奏を聞いて本楽曲を再びRe-Composeするアイデアが浮かんだ。しかし時間がなかったこと、新たなアイデアがいることなど考慮し、最も信頼する作曲家長生淳氏に編曲を依頼した。チェロの開放弦を利用することなど打合せした上で彼に全て任せた。

そして仕上がった楽曲は別の楽曲に生まれ変わり、躍動感あふれるミニマルの反復と複雑な変拍子を用いた原曲の構成はさらに立体的に、そして人間的になったと僕は考えている。

曲名は、アメリカの詩人ラッセル・エドソン (1935-2014) が生命の宿る瞬間を表現した一節による。

[久石]

(曲目解説PDF「オンラインプログラム日本語」より 抜粋)

 

 

初演:2022年12月9日 東京文化会館
演奏:古川展生(チェロ)、富岡廉太郎(チェロ)

 

本公演についての詳細、動画配信、特別対談などについて

 

 

About 久石譲:揺れ動く不安と夢の球体

Shaking Anxiety and Dreamy Globe
[2台ギター版] *
初演:2012年8月19日 Hakujuホール
演奏:荘村清志、福田進一
[2台マリンバ版]
2014年9月29日 よみうり大手町ホール
演奏:神谷百子、和田光世

 

 

 

Info. 2022/12/08 英キングズ・シンガーズ 3年ぶり来日公演、久石譲提供の楽曲初披露(産経ニュースより)

Posted on 2022/12/08

英キングズ・シンガーズ 3年ぶり来日公演、久石譲提供の楽曲初披露

英国のアカペラグループ、ザ・キングズ・シンガーズが12月8日、3年ぶりの日本ツアーをスタートさせた。宮崎駿監督の長編アニメーション映画音楽を手掛け、世界でも人気が高い作曲家・久石譲氏の委嘱作品が今回、初めて披露される。16日までのツアーで、東京、大阪、広島、長野など7都市をめぐる。 “Info. 2022/12/08 英キングズ・シンガーズ 3年ぶり来日公演、久石譲提供の楽曲初披露(産経ニュースより)” の続きを読む

Info. 2022/12/02 特別対談企画【久石譲×西村朗】第3回:21世紀の音楽と作曲家の思惑(全音楽譜出版社)動画公開

Posted on 2022/12/02

2022年12月9日開催「第28回 四人組とその仲間たち」コンサートです。今回のゲスト作曲家として久石譲出演予定です。その連動企画として貴重な作曲家対談が実現しています。そのラスト第3回です。ぜひご覧ください。 “Info. 2022/12/02 特別対談企画【久石譲×西村朗】第3回:21世紀の音楽と作曲家の思惑(全音楽譜出版社)動画公開” の続きを読む

Info. 2023/03/30 「CINEMA:SOUND JOE HISAISHI IN CONCERT」久石譲コンサート(ウィーン)開催決定!!

Posted on 2022/12/02

2023年3月30日、久石譲コンサートがオーストリア・ウィーンで開催されます。共演はウィーン交響楽団です。

当初この公演日は、アレクサンドル・デスプラによる映画音楽コンサートが予定されていました。予期せぬスケジュールの都合により2024年3月1日に延期されることになりました。そこへ登場したのが久石譲コンサート、新しいニュースで合わせて発表されました。 “Info. 2023/03/30 「CINEMA:SOUND JOE HISAISHI IN CONCERT」久石譲コンサート(ウィーン)開催決定!!” の続きを読む