Posted on 2019/07/03
雑誌「CUE+ 穹+ (きゅうぷらす) Vol.12」(2007)に掲載された久石譲インタビューです。8ページに及ぶロングインタビュー+貴重な建物の中を撮影したオールカラー写真も満載です。広々としたアトリエから庭のプールから、永久保存版です。
マイ・ライフスタイル
感動をつくれますか?
音楽家 久石譲
写真・聞き手 稲越功一
久石譲さん。音楽家として今をときめく時代の寵児である。また宮崎駿、北野武監督作品には欠かせない存在である事は言を待たない。私たちは西麻布のアトリエ(スタジオ)兼事務所にお伺いした。そこは閑静な住宅街の一角に位置していた。およそ音には縁のない静かな佇まいである。まれに見る多忙の中での取材、緊張感が漂ったがしかし久石さんはそんな様子もおくびにも出さず終始にこやかにわれわれを迎えいれてくださった。ちなみに本タイトルは久石さんの同名の名著(2006年刊)からいただいた。
今日的なもののなかにある「普遍性」こそ重要
稲越:
お忙しそうですね。
久石:
そうですね…、今、日本の映画とフランス映画を同時並行で進めていて、少しバタバタしています。
稲越:
今年は中国映画もなさるとおっしゃっていましたよね。
久石:
チァン・ウェン監督の「The Sun Also Rises」ですね。これは一応終わったんですよ。先日ヴェネチア国際映画祭にも出品され注目が集まったようです。
稲越:
仕事って、加速がついているときのほうがいい仕事ができますよね。あんまり暇だと間延びがしちゃうでしょう。
久石:
それはありますよね。
稲越:
もちろん職業によっては、全てがそうとは言えないでしょうけど。やはり今、久石さんは映画音楽、そこからご自身のコンサート、さらにコマーシャルと多岐にわたって活動されていらっしゃいます。僕も風景を撮ったり、人物を撮ったりいろいろですが、当然一人ですから自分の根っこみたいなものって、原点があって、そこから枝葉を広げて花を育てていきますよね。
久石:
それはもう、当然。やはり映画音楽ばっかりつくっていても飽きてしまいます。
稲越:
僕は音楽については詳しくはわかりませんけど、映画音楽にしたって、まあ変に映画という枠組みにこだわっちゃうと、それを専門になさっている方となんら変わらないということがあるでしょうし。……時代に媚びる、ってわけじゃないんですが、時代からずれてしまうとやっぱりいけないようなところもあると思うんですよ。その辺の兼ね合いっていうのは、重要なところだと僕は思うんですがね。どうなんでしょうか。
久石:
今日的であるというのはそれなりに重要ですよね。ただその、今日的なものにこだわりすぎると、それは、四年、五年経つと古くなって見えてしまいますよね。ですから、アップ・トゥ・デートっていうのはそれなりにすごく重要だと思うんですけれど、重要なことは、その今日的なものの中に入っている普遍的なものっていうか、それは過去のことから未来のことまで流れている。
稲越:
それはずっと久石さんの中に流れてきているものだと感じています。
久石:
そういうことはすごく大事にしていますね。
稲越:
それはなにをなさっても、—もっと極端に言えばCMの音楽の中にも、久石調—って言うとなんか変ですけれど(笑)そういうものが一貫して通っていると思います。普通に言えば久石ワールドみたいなね。久石さんが執筆された著書(『久石譲 35mm日記』)の中で山折哲雄さんとの対談がありましたね。それを読んで、久石さんは多岐にわたっていろんなことを勉強なさっているなと思いました。当然かもしれませんが、そういうものが一人の音楽家にプラスアルファとして働きかけているなと思っています。僕はいつも思うんです。久石さんはある種の優しさの中にある時代を、作曲を通して表現なさっていると。こういうと大袈裟かもしれないですけれど。それが、久石さんがさっきおっしゃったある種の普遍性みたいなことなのかもしれないのですけれど。なにかそういうものを感じるんですよね。五年前と今でも基本的には一緒ですけれど、そこに微妙に違いをみます。
邦画と洋画の本質的な違いとは
稲越:
映画なら映画で、たとえばフランス映画をなさるときと、アジア映画をつくる時の基本は一緒だと思うんですけれど、言葉の違い? ここでいう言葉というのはその、中国語とフランス語の違いってことじゃなくて、映画の言葉ってあるような気がするんですよ。もちろんつくるバックボーンや風土の違いとかはあるでしょう。部屋の様子ひとつでも当然違うわけですし。僕は今、フランス映画とかイタリア映画って活力がないっていう気がするんですよ。
久石:
そうですか? 単に日本に入ってきてないだけでね、元気はやっぱりあると思いますよ。フランスは国が映画を守っていますしね、非常に活発ですよ。日本の監督の場合大概が文学系の人がつくっているので、脚本をどうやって映像化するかが主体になることが多いんだけれど、フランスの監督は美術大学だとか、絵描き出身だったりする。ビジュアルのほうから監督になる人がすごく多いから画作りにはすごくこだわるわけね。画作りにこだわる分だけ、アート性は高いんだけれども、ともすると荒唐無稽になったり、過剰な表現になりがちではあるけれど。だけど、やっぱりフランス映画なんかは、ヨーロッパの中でちょうど真ん中に位置しているせいもあるからすごくよく作られています。ただ、日本でなかなか観るチャンスがないんですよね。
稲越:
ああ、なるほど。多分そうでしょうね。六〇年代っていうと結構イタリア、フランスの映画は日本にかなり入ってきて、それなりの興行収入もあったんでしょうけどね。でも現在では自分たちが触れてないから、どうしてもね。実際フランスに行って観れば久石さんがおっしゃったように活発なのでしょうね。
久石:
音楽のチャートなんかを見てもね、昔はアメリカのビルボードのチャートに入っている歌は、必ず日本のチャートの上位にもいた。ところがある時期から一〇年以上前からかな、ほとんど入らないんだよね。日本のチャートは日本人のポップスが主体になってしまった。映画においても昔は世界中ハリウッドに席巻されて自国の映画よりもハリウッド映画のほうが興行収入が高い所為もあった。ところが今は逆に、日本のほうが圧倒的な強さをみせています。それはハリウッドが弱くなっているとかいろいろ理由を挙げる前に、僕は日本人のキャパシティが狭まってきているんじゃないかと感じてしまうんです。外国の作品を受け入れる側の懐の広さというものも重要になってくると思うわけ。
稲越:
たまたま僕、昨日タランティーノの映画を観たのですけれど、現代の劇画風とかB級映画のおもしろさのある映画としてすごく良くできている作品だと思いました。しかし正直なところ僕の資質からいくと、とことんついていけない。やっぱりある種の血の違いっていうのがあるんじゃないですか。僕が三〇代だったらまた違ったと思うんですが。生き方とか、自分の肉体的なことを含めてね。もう僕も六〇ですから──やはりこう、ノッてるようでノリきれてない。まあその良さと悪さがあると思いますけれど。でもああいう手法っていうのはけっこう難しいのでしょうね。
久石:
僕は観てないからわからないけど、タランティーノはよく映画を知り抜いていますよね。『キル・ビル』を観ても、どれを観てもやっぱりすごい。わかっていてB級をつくっている人だから。それは素晴らしいと思います。
稲越:
ゴダールとはまた全然違うんでしょうけど、今おっしゃったように、映画を知っててなおかつつくり上げていく。それは、久石さんの作曲って言うのも、先ほど優しいって言ったけど優しさの向うにあるものを知ってらっしゃるから優しい音楽が生まれると思うんです。
表現したい事を表現できる努力を
久石:
自分では優しさを表現しようと意識して作曲をしているつもりはないのですけれどね。
稲越:
それは久石さんの資質っていうのかな。たとえば僕がいくらエロく撮っても荒木経惟さんにはなりきれない。やっぱり稲越功一のエロティシズムみたいのになっちゃうと思うんですよね。結局最終的にそれはその人の生きてきた人生かもしれないし、環境かもしれない。それは良い言い方をすれば個性とでもいうんですかね。この間まで中国に行っていたんです。カメラを向けた相手が一瞬でもいやな顔をするとかつてはそれでも強引に撮っていたんですが、今は撮れないですよ、そうなったら。もうシャッターを押せない。自分の若いときと違う視線になってしまったとでもいうんですかね。そういうことって久石さんはありませんか? 久石さんが四〇代につくってらっしゃったことと、今つくっていらっしゃる中で、同じ美しいってことを表現するときに違いはどうですか?
久石:
そうですね、それは毎回当然違うし、比べてもしょうがないことだからあまり考えないですね。やはり今一番興味のあること、今の自分でしか表現できないことがあるから、それに夢中になってしまうからね。四〇代のときとかいつの時とかそういう比べ方はしたことないですね。ただ四〇代のときより今のほうが体力はある、間違いないね。それはやはり当時より鍛えてる分体力もあるし、それから知識も増えた。でも物事を見る新鮮さは、もしかしたら前に比べてなくなっているのかもしれないなあ。重要なのは今自分が一番いいと思う、そう思えることをきちんとやることだから。それは絶えず探すし、経験を積めば積むほど自分がどれだけ真剣にやれることがあるか、そう本気で思えるかが大切な気がします。先ほど稲越さんは相手が嫌な顔していたらシャッターを押せなくなってしまったとおっしゃいましたよね。僕は逆に今やろうと思ったらコンサートの前の日でもプログラムを変えてしまうくらいです。なぜならそれがいいと思うから。その代わり、やりたいものにどこまで忠実に向き合うか、ということになってきますよね。まわりは迷惑でしょうけど。(笑)
稲越:
でもそういうこだわりみたいなものはある意味で自分に自信がないとできないんじゃないかって思うんですよ。
久石:
いえいえ、自信があるわけではないですよ。
稲越:
自信っていうか、やっぱり自分がつくりたいって、ひとつのピラミッドの頂点があると思うんですよね。それはその都度、創作だからそんな計算してできることじゃないでしょうから。アウトラインっていうんですか。それもあるでしょうけどね。まあその、コンサートで発表されたあとで、ああ、あそこはこうすればよかったとか、そういう思いもあるかもしれないですよね。
久石:
ええ、それは絶えずですよ。
稲越:
そういえば三年程前にカナダ人のストリングアンサンブルとコンサートをなさってましたよね。あの方々は久石さんがハワイに行かれていた時に、たまたまケーブルテレビに映っていた方々だったとか。そこで気に入った事がきっかけでその年のコンサートに参加してもらった、みたいなことおっしゃられていましたけれど……。
久石:
ああ、ラ・ピエタのことですね。
稲越:
そういう、自分がつくりたいある種のフォーマットがあって、いろいろアンテナを張っていて、そこに引っかかってきたときにすぐ自分のプログラムにいれてしまう……。
久石:
そうですね。最大限に表現できる演奏家を僕はできるだけ選ばなければならないと思っています。だからそれは選びますけど。
稲越:
久石さんのお話を聞いていると、僕ももっと強引に撮るべきかな、と。
久石:
そう思いますね。すごく賢くなってしまったのかもしれませんね。
稲越:
それと撮るってことは違うわけですから。
久石:
そこに何か撮りたいと思う気持ちがあるとしたら、そちらのほうが大事だと思いますけどね。
稲越:
今お話聞いていましてね、僕も反省を兼ねてですね……。(笑)
久石:
いやいや。稲越さんは瞬時にどこが大事かを見抜いて撮られている。
稲越:
それはですね、今日みたいなこういう仕事と、例えば中国の各地を歩いていて、そんなときに向うが撮られて心地いいって、やはり瞬時にわかるんですよ。それが用意されたカットですとね、おっしゃるようにそんなに人の感情読まないんですよ。自分の中で撮った、っていうのが、実際現像なんかしてみると意外にそれ以上でもそれ以下でもなかったりっていうのもあるんですけどね。
久石:
僕はね、何だろう。やりたいものがあったら、逡巡するまえにやってしまうことが多いですね。どちらかというとね。
やりすぎないことが信頼の証
稲越:
どうなんですか、お仕事をこういう部屋でなさっているのと、他のスタジオを借り切ってやられたりとか、場所というのは本質的には関係ないでしょうか。
久石:
ものをつくる場所というのはこだわりますよね。雰囲気的にものをつくれる環境を選びます。レコーディングスタジオに入るとミュージシャンやスタッフなど人も大勢いますし、作業場ですね。今日もこの取材後にスタジオに移動してCM音楽のレコーディングをするのですが、完成させた譜面を持ってスタジオに入ります。やはり曲づくりの場所とは分けています。演奏しないことにはレコーディングにならないので、レコーディングする場所としてそこはきちんと分けています。
稲越:
その場でアレンジとかして違ってきたりするのですか?
久石:
僕はスタジオに入ってしまったらもうまったく変えません。
稲越:
えっ、変えないんだ……
久石:
レコーディングは誰よりも早いと驚かれます。二日間のレコーディングを予定していても、たいてい一日目で半分以上の曲数を録ってしまいますから。一日の場合も、二一時までスタジオを借りていたとしても、一八時、一八時半には終わってしまうことが多いです。このあいだ久しぶりにスケジュールの組み方の問題もあり、遅くなることがありましたけど、これなんかは例外です。
稲越:
お話を聞いていてなんとなくわかったのは、撮影のために久石さんにピアノに向き合っていただいていましたが、指のアップと顔って、だいたい自分の中で絵がつくってあるから、そういうときは、久石さんが座ってから自分を探すってことじゃないんですよね。それと一緒で、ロスがないんですね。
久石:
そうだと思いますよ。
稲越:
イメージされたものをそのままロスのないように移行するということですね。
久石:
オーケストラとのコンサートのリハーサルも短く、無駄に回数多く練習はしていないですね。あまりテンポよく進むので皆が驚くくらいです。大概のケース、指揮者は自分が不安だからどんどん練習したくなるのですが僕はもう全然。最近は少し割り切って考えられるようになりました。
稲越:
でも演奏する人は緊張しません?
久石:
しますよね。
稲越:
一時間、ヴァイオリンならヴァイオリンを演奏する人が十分練習をしていて「もういいですよ」と言われた場合、ほんとにこれでいいのかなって演奏する人たちは自分に問うみたいなことってありません?
久石:
でもそれは逆に、指揮者(僕)が演奏者を信頼しているという証でもあるんです。演奏家に「今の演奏どこが悪いのかわからないけどまた練習するのか」と思わせてしまうくらいならやりません。あえてそこで省かれることによって自分たちは信頼されていると思い、本番がうまくいくんです。だからそういうことは一切やらないですね。
稲越:
すごくいいお話ですね。それもチームのハーモニーっていうことですよね。なるほど。
久石:
今日だってこの後に録るCMのレコーディングも早いですよ多分。三〇分かからないで終わると思います。
稲越:
それはもう久石さんの中にちゃんとしたイメージがあって、そのイメージをロスがないようにスタジオでやればいいことだからですか?
久石:
そうですね。あまり録り直しもしません。ある種そういう緊張感があるほうが楽しいですよね。
環境との歩み寄り
稲越:
やっぱり、細かいところでピッと合わせるというのは、一流の仕事なんですね。……一流っていうと語弊があるかもしれませんが。まあ、自分に置き換えると、フレームの中で風景探してるようじゃ一流じゃないと思います。
久石:
そうですか、フレームの中でね。
稲越:
僕の場合写真家だから結局、確認したものを撮れちゃう。今の久石さんのお話を伺っていると、やっぱりその、確認することに無駄がない、ってことにつながるんじゃないかって、思ったんですけどね。この部屋の大きな窓の外に風景なんかが広がっていたりとかすると、何か違和感があると思うんですが。
久石:
確かに、最近良くないなと思っているんです。やはり、大きな窓があるとふと外の風景を見たときに視覚的要素が多すぎる。だからブラインドをある程度下ろしたほうがいいかなって。
稲越:
あははは、そうですか。(笑)
久石:
そう、やっぱりこう、映画音楽を作っているときは映像を観ながら仕事をしますから、そこで気づかないうちにモニター以外の要素が多く入ってきてしまうと、良くないなと思います。自宅のほうはそれがないんですよ。だからもっと集中するんですね。そういうところをみるとどうもここはリゾートっぽいというか、「仕事をする雰囲気にならないな」なんて……。最初は気持ちよかったんですよ。僕はわりと閉所恐怖症だから、閉ざされた感じは好きではないので、ここの全面ガラス窓が気に入っていましたし。
稲越:
とくにこの部屋は、角部屋ですからね、抜けがいいじゃないですか。
久石:
そう、それは気に入っているのも確かなんですが、どうも、視覚情報が多い。そう感じる時もある。この部屋では落ち着いて過ごせていることが多いんでしょうけれど、例えば、昨日みたいに映画音楽を一度に九曲書き上げるみたいな状況になってくると、やはり周りを何にもないようすることも必要なのかもしれませんね。目から入る情報って、想像以上に大きいですからね。
稲越:
でも、他のレコーディングスタジオなどで仕事なさって、ここに帰ってこられたときは逆にホッとなさるんじゃないですか。
久石:
ここに移ったのは今年の五月ですから、まだあまり慣れてないんですよ。やはり半年、一年くらいたたないとね。空間っていうのは自分が充分居付かないと。自分のほうもこの環境にすり寄って、おそらく環境のほうも僕のほうにすり寄ってきて、お互いにね。
稲越:
いや、すごくよくわかります。僕の事務所は四〇年近いでしょ、しかも狭いところなんですよ。ほんとにこの、四分の一くらいですけど。
久石:
でも、居心地いいでしょ?
稲越:
いいです。いいってことと、やはり、逆に狭いから常に整理整頓を怠らない。ロフトみたいなところで何も置かないっていうのが夢なんですけど。でもやはり、空間そのものが自分の手の分身みたいですね。まだ半年とかおっしゃいますが、これ一〇年ぐらい経ったら、同じ風景もまた久石さんの体の一部になるかもしれません。
久石:
そう、そうなりますね。自宅のほうは、もう三年目か四年目なので、だいぶ落ち着いてきましたね。だけどなんかこう、環境には我々も慣れないとね。双方の歩み寄り……。
稲越:
それは絶対にありますね。お忙しいところ、本当にありがとうございました。
【撮影後記】
当然かもしれないが、久石氏はどんな曲を創っても、相手を包み込むような優しい余韻が残る。映像でいえば残像、文章で言えば余白といったところの漂いかもしれない。それが私にとってはたまらないのである。氏の持っている独自のスタイルあるいは資質と言ってもいいのかもしれない。私どもの仕事は最終的には表現されたものが、好きか嫌いかであって理屈で言えるものではない。私は久石氏の曲が好きである。とにかく氏は疾走中であるし、この勢いは当分止まらないであろう。それだけの魅力を持って花を咲き続けているからだ。
三日後、久石氏のご自宅におじゃましました。あくまでも静かで堂々とした佇まいである。曇りから一転して光が射し、住居に隣接するプールサイドはさながらにカリフォルニアのようだった。ひとつひとつの部屋には秋の陽が広がり、ゆったりした時間が流れていた。
(稲越功一)
(CUE+ 穹+ (きゅうぷらす) Vol.12 より)