Blog. 宮崎駿監督引退発表は時代に対する一石

Posted on 2013/11/06

スタジオジブリ 宮崎駿監督の突然の引退発表と引退会見。それから早2ヶ月が経とうとしています。当時もこのビッグニュースに対してはいろいろと思うところがありました。「なんで もったいない まだやってほしい お疲れさまでした ありがとう……」いろんな思いがいちファンとして交錯していました。そして時間が経ちまたそのことをふと考えたりしていると、あの決断はすごいことだったのかもしれない、と思うようになってきました。

引退会見で記者から「なんで引退会見をするという経緯になったのか?」という質問に、「引退会見なんてそんな大々的にするつもりはなかった。自分はジブリの社員たちに引退を伝えたかっただけ。」だと。

確かにそのとおりです。今まで一緒に働いてきたジブリの仲間たちにまずは宣言をする。するとそこで終わることはなく、情報は外部に出てしまい、憶測だけが飛び交う。そうなるならいっそ引退会見という場を設けて自分の言葉で説明するほうがいい、という流れになるのはしごく普通です。

それなら、ジブリスタッフにも引退を宣言しなければいい。濁したままにすることもできたはず。

それもまた違うんだろうなと思います。そのままの延長線上で在籍し続けるということは、周りにも変な期待が滞留し続けます。いつかまた長編つくりだすのかな、次はどんな作品やるんだろう、という身内でもその思いが常に念頭にあってしまいます。

引退を身内に宣言するということは、一区切りであり、今までジブリを引っ張ってきた人が事実上身をひく、つまりジブリスタッフにも危機感を煽るという効果をもたらします。そうすることで意識的にも無意識的にもあまりにも大きな存在である「宮崎駿」がいなくなる、新しい血が入り、新しい活力がみなぎるきっかけになる。そう思われたんじゃないかと思います。

そしてあの引退会見を開くという流れに。

もうひとつ思うのは。

あえて「引退宣言」をすることは芸術家としても賭けであり冒険だと思うのです。芸術家、クリエーター、アニメーターは、一生涯現役であり、死ぬ間際まで芸術家なのです。だからこそあえて「引退宣言」を公の場ですることは、自分の一部を切り取られたような、なにか失ってしまうような思いだったんじゃないかとも思います。まだ人生が終わっていない今の時点で、自分でその烙印を押してしまうような。

だからこそ、これからどういうクリエイトな活動をされようが、もし仮に長編映画をつくるとなったにしても、誰にも避難される所以はないはずです。だって芸術家は一生芸術家です。しいて言えば、今回の引退宣言で、宮崎駿監督は、スタジオジブリの宮崎駿から、一人の人間宮崎駿になったんじゃないかと。シンプルに、まっさらに、生まれたてのように。

エンターテインメント、大衆文化、興行成績、ジブリの発展……すべてを支え先頭で走り続けた監督宮崎駿から、真っ白から純粋無垢に創作活動に向き合える一人の芸術家に。

そう思うと、「引退宣言」をしないといけなかったのは、今の時代背景であり、そうなってしまった宿命を背負いながらも、自らの言葉で伝えた引退会見、時代に一石を投じた出来事だったように、振り返って思います。

これからどんな創作活動をされるか楽しみであり期待していますが、それは世間の、ファンの思いであり、勝手にこちらが思うこと。だからこれから、どんなことをされようと、どんな活動をされようと、ひとつの宮崎駿には区切りをつけたわけですから、受け手側も今までの延長線上で捉えずに批評せずに、新しいクリエーター宮崎駿さんとして受け入れていくことができる環境になることが一番いいんじゃないかなと思います。

長編であれ、短編であれ、また違った創作活動であれ、次に私たちが触れることのできる宮崎駿作品は、きっと新しい感動を与えてくれること、笑顔や温かいぬくもりをくれること、生きる今とこれからの未来に希望の光を射してくれることは、間違いないですから。

こういう思いもまた負荷になるのかもしれませんね。すいません。

芸術と大衆文化の境界線がなくなってしまっているようなこの時代、いち芸術家に時代のすべてを背負わせることは酷だと思います。宮崎駿監督の引退会見で印象的だった言葉「私は自由です」。そうですよね。やるやらないも自由、どういうものをやるかも自由。そして受け手の解釈に一人一人の自由があるのと同じように、本来つくりだす芸術家にも表現の自由はもちろんあるわけです。その対等さを忘れてしまっているように思ってしまいます。

いつの時代も芸術家は、自分の表現したいものと時代との接点を探りながら、ひとつの作品として完成させて表現しているわけです。それに対して決して時代の拷問を受けるべきではない。

同じ時代に生きているからこそ、同じ時代の芸術家と一般社会、作品をとおしてつながり、感動し、共鳴できる喜びはかけがえのないもの。そういったシンプルなことに純粋な心を持ち感動をわかち合う。これが芸術と大衆文化を育てていける時代への布石になるんじゃないかと思います。

 

 

Blog. 映画「もののけ姫」 アシタカ旅立ちの音楽 制作秘話

Posted on 2013/11/3

1997年公開 スタジオジブリ作品 映画「もののけ姫」
監督:宮崎駿 音楽:久石譲

構想に16年、制作に3年をかけ、自然と文明の衝突というテーマに挑んだ作品で、公開当時、映画国内歴代興行成績の記録を塗り替え1位を記録した作品です。あれから16年経った今でも、歴代5位です。

この「もののけ姫」という作品に対して、スタジオジブリ鈴木プロデューサーはこう振り返っています。

「自分のためじゃなく誰かのために戦う。子どものころから、主人公はそういうものだと思っていた。ナウシカは風の谷の500人のために戦った。だから、納得がいった。観客として、主人公に共感するのは、その一点だった。」

「しかし、「もののけ姫」の主人公、アシタカは違う。アシタカは、誰かのためじゃなく、自分のために戦った。腕に痣あざの出来たアシタカは、体良く村を追い出される。痣あざは村人たちにとって忌まわしいものだった。」

「この時期を境に、その後のヒーローたちは、自分のための戦いを繰り広げている。いま振り返ると分かることがある。「もののけ姫」のころに、大きな時代の転換点があったのだと。」

 

なるほどなあと思います。ヒーロー像が時代とともに変化していると。そしてそんな『大きな時代の転換点』となったのが、映画「もののけ姫」であったと。

実は音楽についても同じようなことが言えるかもしれません。「風の谷のナウシカ」から一連の宮崎アニメの音楽を担当してきた久石譲ですが、「天空の城ラピュタ」「となりのトトロ」「魔女の宅急便」「紅の豚」を経て、この「もののけ姫」の音楽は、作曲家としてのひとつの転換期だったという人もいるからです。

大きく作風が変わったということではないでしょうが、それほどまでに宮崎駿監督の構想から映画完成までのエネルギーに刺激され、音楽的にもそんな監督の期待と作品の世界観に応えるべく、新しい表現方法が開花した、そういう作品なのかもしれません。まさに作品トータルとして、発表された時代として、『大きな転換点』だったのかもしれませんね。

 

そして、当時を振り返る、「もののけ姫」の音楽に、こんな秘話があります。

本編前半でアシタカがタタリ神の痣を負い、村を旅立つことになるシーン。その旅立ちの音楽は、当然、アシタカの複雑な心境を表現しなければいけない。宮崎駿監督は久石譲に、そう依頼したそうです。

それに対して鈴木プロデューサーは悩んだそうです。

「それでいいのだろうか。たとえそうだったとしても、ぼくは、主人公の旅立ちはいつだって、勇壮さが必要だと思った。」

そんな鈴木プロデューサーの悩みを打ち明けると、久石譲は、二曲を用意したそうです。

鈴木プロデューサーはこの時の情景を、

「そしてふたつの曲が出来あがった。いずれ劣らぬ名曲だった。さて、どっちがいいだろうか。どちらにするか決めるとき、久石譲さんがぼくに目で合図を送った。宮さんは、迷うことなく勇壮さを選んだ。」

と振り返っています。

あのアシタカの旅立ちのシーンはとても印象的に記憶に残っています。まさかこんなエピソードがあろうとは。確かに、あのシーンには『覚悟を決めた者、決意を秘めた者の強い意志』を感じますし、旅が始まる勇壮さだけでなく、『運命を背負って生きていく覚悟を決めた者』の重みも感じます。

こんな話をしていると、また映画が観たくなってしまいますね。映画「もののけ姫」は、12月ついにブルーレイ化が決定しました。

当時の空気をそのままに、そしてさらに進化した映像美と高音響が今から楽しみです。
こちら ⇒ 2013/12/04 ジブリがいっぱいCOLLECTION 「もののけ姫」 Blu-ray DVD 発売決定

 

もののけ姫 時代の転換点

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Blog. 鈴木敏夫 「ジブリの哲学 -変わるものと変わらないもの-」 読書

Posted on 2013/11/1

スタジオジブリ・プロデューサーの鈴木敏夫さんの著書。過去にも数冊出してますが、わりと新しい本なのかな。スタジオジブリの過去から今に至るエピソードも満載。宮崎駿監督とのやり取りや作品ごとの製作過程の話、プロデューサーとしての話や仕事に関してももちろん。

それにしても、相当な映画や本を読んでいるんだなあと。しかも、その考察がすごい。思ってもみないような解釈、それを迷いなく言い切るんですね。なんでこういう発想ができるんだろうと思って読むと面白い。この人の考え方のバックボーンが知りたくなる、というか。

そしたら、このエッセイ集にもたくさんの著名な文化人が登場します。異文化・異世代の人たちとの交流によって培われてきたものなんだなあと。

もともとは、ジブリ作品が好き → 宮崎駿 → 鈴木敏夫プロデューサーと紐解いているのですが、またそこから“自分のなかのひっかかりや興味”が広がるんですね。

ちょうどいろんな角度から本を読んでいるせいか、時代小説しかり、とある専門書しかり、『日本という国のかたち 時代性 流行 文化』そういうのを過去の偉人たちが、どう時代をつくり、どう時代を考えていたか、そして未来を、というのが気になってきたんですね。

ある種、ループしてると思うんですよ、普遍性・大衆性・社会性 etc いろいろなものが。まさに 【すでに起こった未来】です。違和感のある言葉ですよね、未来なのに過去形の表現。これはP.F.ドラッカーの言葉と著書です。ちょっと話がそれるのでこの辺はまた別の機会に。

何を見て、何を考え、どう生きていくか。時代をどう捉えつづけるか、過去も、現在も、未来も。ちょっと大それた雲をつかむような壮大なテーマのように聞こえますけど、そこは小さく自分なりに、です。でもそういうのって自分の血肉になって活きてくると思うんですよね。歳でしょうか?!

そういう本との出会いや広げ方もおもしろいと思う今日この頃です。本著でも、時代性が反映される様々な芸術界の方たちとの話もあり。映画にとどまらず、絵画、音楽、文学、放送、メディア、出版、野球などなど。

そんな中でも強烈に影響を受けたと何回もエピソードを交え語っていた 堀田善衛さん 加藤周一さん この方たちのそれぞれの小説や作品を、近いいつか読んでみたいなと思っています。名前は聞いたことあるかなあくらいの無知なので、それだけでもこの本を読んだ収穫でしたね。

自分が影響を受けやすい人が、「強烈な影響を受けた」とお墨付きをしているわけですから、そこから広がる本も、おもしろくないわけがないだろうと。そんな本の読み方してたら、「読みたい本がない」なんて言う日が来るのかな!?とか思っちゃいますね。苦笑楽しいブックサーフィン・アナログサーフィンを続けていこうと思います。

 

ジブリの哲学 鈴木敏夫

 

Blog. 文春ジブリ文庫「ジブリの教科書3 となりのトトロ」 読書

ジブリの教科書 3 となりのトトロ

Posted on 2013/10/30

2013年4月から創刊された文春ジブリ文庫。

第1弾『風の谷のナウシカ』 第2弾『天空の城ラピュタ』 につづき第3弾は『となりのトトロ』。1988年公開映画でスタジオジブリ作品の中でも最も人気のある作品のひとつ。今回も前2作品同様、あさのあつこ 中川李枝子 川上弘美など豪華執筆陣が作品の背景を解き明かしています。

背景美術を担当した男鹿和雄の世界、サツキとメイの家など、カラーページも満載です。当時の制作現場や秘蔵裏話などが編集されています。監督・プロデューサー・作画・声優・音楽・美術など、この作品に携わったプロフェッショナルなお仕事の現場が垣間見れます。既発の関連書籍からの再編集という趣きももちろんありますが、トトロの世界だけにフォーカスして広く深く読み解いています。

印象的だったのは、ラピュタのそれでも触れましたが、宮崎駿監督の制作に入る段階での企画書一文。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
中編アニメーション映画『となりのトトロ』が目指すものは、幸せな心温まる映画です。
楽しい、清々した心で家路をたどれる映画。
恋人達はいとおしさを募らせ、親達はしみじみと子供時代を想い出し、
子供達はトトロに会いたくて、神社の裏の探検や樹のぼりを始める、
そんな映画をつくりたいのです。

つい最近まで『日本が世界に誇れるものは?』との問いに、
大人も子どもも『自然と四季の美しさ』と答えていたのに、今は誰も口にしなくなりました。
(中略)
この国はそんなにみすぼらしく、夢のない所になってしまったのでしょうか。
国際時代にあって、もっともナショナルなものこそインターナショナルのものになり得ると知りながら、
なぜ日本を舞台にして楽しい素敵な映画をつくろうとしないのか。
(中略)
忘れていたもの 気づかなかったもの なくしてしまったと思い込んでいたもの
でも、それは今もあるのだと信じて、『となりのトトロ』を提案します。」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

鮮明にトトロの世界を表現している一文だと思います。楽しむ映画ではもちろんあるけれど、同時に深いなあと。今でも色褪せない、そして時代を越えて愛されつづけるだろう映画ですが、この宮崎駿監督の視点や考え方も色褪せない、普遍性がありますよね。

今の社会でも言えること、この発言が今だったとしても、なんの疑いもしないというか。『国際時代にあって、もっともナショナルなものこそインターナショナル~』この言葉は強烈ですね。これを1986年に書き記しているんですから、その重みと凄みを感じます。

その他、昭和30年代の日本食卓の視点から当時の社会背景を、はたまた「森のヌシ 森の精霊 etc」というトトロの視点から、古来の日本の神々の世界を、そしてその神々が、『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』ではどう表現されたかなど、宗教哲学者がかなり濃厚に掘り下げたりしています。

“ひとつの日本” “自分が知らない日本” をいろんな角度から探求できるかもしれません。

 

 

ジブリの教科書 3 となりのトトロ

本著の表紙でもあり、公開当時の映画宣伝ポスターでもあったこの1枚の画。こんなシーンも劇中にありましたよね。

でも…何かが違う…

そう、ここに描かれているのは、さつきでもメイでもない、ひとりの女の子。有名な秘話ですが、なぜこの画があり、映画ポスターにまでそのまま使われたのか、その辺りもももちろん紹介されています。

長くなってしまうのでここでは割愛します。

これからジブリの教科書は『火垂るの墓』『魔女の宅急便』『もののけ姫』『ハウルの動く城』など、スタジオジブリ作品公開の順番ごとに、発刊が予定されています。なんと、現時点で、『崖の上のポニョ』が発刊されるのは2016年。(予定)

長期的に継続した楽しみのひとつとなりそうです。

 

Blog. 文春ジブリ文庫「ジブリの教科書1 風の谷のナウシカ」 読書

Posted.on 2013/10/27

1984年公開 スタジオジブリ作品 宮崎駿監督 『風の谷のナウシカ』

この2013年4月から文春ジブリ文庫なるものが創刊されて「ジブリの教科書」シリーズが毎月刊行されます。創刊の第1弾はもちろん『風の谷のナウシカ』。当時の作成現場や秘蔵裏話などが編集されています。

宮崎駿監督はもちろん高畑勲さんや作画・音楽・プロデューサーなどこの作品に携わったいろいろな人の当時の、また数年経過しての回想インタビューや、この創刊に寄せて、立花隆、内田樹、椎名誠など著名執筆陣があらゆる角度からこの作品を読み解いています。

当事者たちの作成秘話は、それぞれの他のいろんな本でもすでに書かれているエピソードも多く『風の谷のナウシカ』という作品に関わる話を再編集したという感じもありますが。知ってたこと知らなかったこともそれぞれ多く、すらすら楽しめました。

ウクライナ南部のミリミア半島に、シュワージュという場所があって、腐海の世界の参考にしたこと。ちなみに、シュワージュとは「腐った海」という意味らしい。まさに。

ナウシカがギリシア神話から名前を拝借してるのは有名ですが、「風使い」という言葉が、『ゲド戦記』(原作)の「風の司」を参考にしていることなど。知れば知るほど深い世界です。

映画版とコミック版の違いなんかも解説されていて、改めてコミック版が見たくなる。。

毎月刊行ということで、5月は『天空の城ラピュタ』、6月は『となりのトトロ』が、それぞれ同様のジブリ教科書として刊行されています。もちろん久石譲に音楽を依頼することになった経緯やその音楽制作秘話まで。その当時の風が吹いてきます。

スタジオジブリ 宮崎監督監督との全作品音楽秘話。久石譲のインタビューをまとめたものもぜひご覧ください。

こちら ⇒ 久石譲 「ナウシカ」から「ポニョ」までを語る 『久石譲 in 武道館』より

 

ジブリの教科書 風の谷のナウシカ

 

Blog. 「ふたたび」「アシタカとサン」歌詞 久石譲 in 武道館 より

久石譲 in 武道館

Posted on 2013/10/21

2008年に開催された「久石譲 in 武道館 ~宮崎アニメと共に歩んだ25年間~」この記念すべき一大コンサートは久石譲が手がけた宮崎駿監督全9作品を一挙に演奏することも初の試みであり、その演奏者規模も1200名と歴史的、さらには名作たちの映像スクリーン付きという贅沢なひとときでした。

最近、このDVDや当時会場で買ったパンフレットを見返す日々です。「風の谷のナウシカ」から「崖の上のポニョ」まで、宮崎駿監督が常に新しいことにチャレンジ、新しい世界に挑むと同じように、久石譲の音楽も、どんどん進化していった歴史でもあると思っています。

そしてそのチャレンジや新しいものを生み出すという試みは、こういったコンサート企画でも随所に反映され表現されています。冒頭の説明だけでなく、まだまだたくさんあります。

今までほとんど久石譲のコンサートでは演奏されてこなかった「魔女の宅急便」や、その他おなじみの曲も過去のコンサートの再演というよりも、その演奏形態やアレンジ、すべてが「現在進行中」、今の最高傑作をつくるという意気込みや姿勢が感じられるとても貴重な体験でした。

それらの中に、新しいvocal versionでお披露目された名曲たちがあります。ひとつは「千と千尋の神隠し」でクライマックスへ印象的に流れていた「ふたたび」。ひとつは「もののけ姫」で再生へのラストを感動的に演出していた「アシタカとサン」。

「久石譲 in 武道館」では、このどちらの作品にも大切な存在であったラストを飾る2曲に、歌詞をつけて歌うという新しい試みがされ、とても感動的でした。今となっては「久石譲 in 武道館」のDVD/ブルーレイでしか堪能できない貴重な音源ですが、そのコンサートパンフレットに、楽譜と歌詞が付いていたのも貴重な宝物です。

ほかにも、この「久石譲 in 武道館」のことはたくさん触れていますので、興味のある方はぜひそちらものぞいていだたけるとうれしいです。

こちら ⇒ Blog. 久石譲 「ナウシカ」から「ポニョ」までを語る 『久石譲 in 武道館』より
こちら ⇒ Disc. 久石譲 『The Best of Cinema Music』
こちら ⇒ Disc. 久石譲 『久石譲 in 武道館 ~宮崎アニメと共に歩んだ25年間~』
こちら ⇒ Blog. スタジオジブリ 宮崎駿監督×久石譲 ディスコグラフィー紹介 まとめ

 

 

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ふたたび vocal version 「千と千尋の神隠し」より
作詞:鈴木麻実子 作曲・編曲:久石譲

ずっとずっと昔に
触れたことのある あのぬくもり

暗い道に迷い込み
一人ぼっちで 泣いてた私

信じて進むと決めたときに
扉が開いた その先に光が
私を照らした

青空に羽ばたこう
つないだその手を 離さないで

あなたが照らしてくれた道を
今一人歩こう まっすぐ前を向いて
立ち止まらず

忘れないでいたなら
いつかまた会える そう信じてる

導いてくれたのは
いつの日もあなた 私の光
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アシタカとサン vocal version 「もののけ姫」より
作詞:麻衣 作曲・編曲:久石譲

はるか彼方に ねむる人よ
瞳とじればひろがる あの日のやさしい声

永遠の光が 土にかえるように
大地の ゆるしが とどくまで

しんじて ともに生きること
そして 生まれるつよさ

みあげて 遠くはなれても
心をひとつにむすぶ愛 希望のそら
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 

どちらもその作品世界から飛び立ったようなきれいな歌詞です。ちなみにそれぞれ今回のために作詞を担当されたのは、鈴木麻実子さん(鈴木敏夫プロデューサーの娘さん)麻衣さん(久石譲さんの娘さんであり歌手)です。

 

 

久石譲 in 武道館

 

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Blog. 実写版 映画「めぞん一刻」と久石譲 1980年代の日本映画音楽

めぞん一刻 DVD

Posted on 2013/10/2

1986年公開 映画「めぞん一刻」(実写版)
監督:澤井信一郎 音楽:久石譲 出演:石原真理子 石黒賢 他

原作:高橋留美子の人気名作コミック「めぞん一刻」の実写版です。作品的にもとても古く観たことがなかったのですが、2005年にDVD化されていたものを最近発見いたしました。もちろんお目当ては音楽を担当している久石譲です。なにせこの作品は映画でしかその音楽を知ることができない、サウンドトラックが現在入手不可能な作品だからです。

登場人物たちは、原作に結構忠実なキャスティングになってしましたし、なかなか古い日本映画を観る機会もないので、それはそれで楽しめました。その時代的な古さやスクリーンに映る当時のいろんな風景など。エンディングはギルバート・オサリバンの名曲「ハロー・アゲイン」が使用されていて青春映画というか、あのめぞん一刻のほのぼのとした世界観にマッチしていました。

そして劇中音楽はというと、当時の作風ですけど、シンセサイザー満載な不思議な雰囲気のメインテーマでした。ちょっと予想していた、メロディアスなファミリー映画的なサウンドとは真逆だったので意表を突かれた感じでした。

ちょうどその時代の映画未発表曲集を集めたアルバム「B+1」に収録されている作品たちに近い音楽です。できればこのなかに一緒にコンパイルしてほしかったくらい、とても前衛的な今ではあまり聴くことのできないおもしろい作風です。

いろいろこの映画「めぞん一刻」を鑑賞しながら思うところはあったのですが。まずは、オリジナル・サウンドトラックを発売するまでの曲数がないこと。そして、劇中音楽がものすごく音量が小さく扱われていること。

これは日本映画の、特に往年の作品には顕著に見られる傾向でしょうか。ハリウッド映画の音がバンバン鳴りっぱなしとは違い、音楽が挿入されていないシーンがとても多いですね。それが日本映画の「間」を楽しむいいところでもあります。だから当時の作品は劇中音楽の曲数が少ない。

音量が小さい。本当にBGMとして鳴ってるか鳴っていないかくらい。効果音的扱いというか、そのシーンに合わせた何十秒程度の音楽。そしてシーン優先で切り替わると、音楽も流れに関係なく突然プツっと切れる。

このあたりが、当時の映画音楽としての位置づけを象徴しているように思います。音楽の少なさ、音量の小ささ、効果音的な付属BGMとしての扱い。そう思うと、だいぶん映画音楽もかわりましたよね。その位置づけも価値も見直されてきた歴史のような気がします。

もちろんそれに一役も二役も貢献してきたのは、久石譲の質の高い映画音楽を作りつづけてきたこともあると思います。ほかの映画音楽家さんたちもそうです。

そして、プロデューサーや監督の意識も変わっていったことも大きいと思います。映像やストーリーさえよければ音楽はあと付け、雰囲気でよい、とされた時代から、映像と音楽の融合によって、ひとつの作品が化学反応を起こし相乗効果をもたらす。

そう思うと、当初から音楽の存在をすごく大切にしていたジブリ作品はすごいですね。もちろんアニメーション映画なので、実写版よりは音楽が多くなるのはありますが、めぞん一刻(1986年)、風の谷のナウシカ(1984年)、天空の城ラピュタ(1986年)と発表された年代を見る一目瞭然です。今でも演奏されつづけ愛されつづける音楽が、その当時に誕生しているわけですから。

映画「めぞん一刻」の鑑賞エピソードを軽く書こうと思ったら、えらく映画音楽の時代考察になってしまいました。

映画「めぞん一刻」の音楽が気になる方は、ぜひDVD鑑賞を、そして当時の久石譲映画音楽を紐解きたい方は、「B+1 映画音楽集」にて、貴重な音源たちを聴いてみてください。

 

めぞん一刻 DVD

 

Blog. TOKYO2020 東京五輪で久石譲音楽監督してほしい

久石譲 指揮 オリンピック

Posted on 2013/09/14

9月8日に、2020年オリンピックが東京で開催されることが決定しました。1964年以来2度目の東京五輪です。もちろん当時は生まれていなかったのでこれから7年後のTOKYO2020で初のオリンピック自国開催を体験することになります。

決定直後で盛り上がっている雰囲気もありますが、これから具体的にインフラや環境整備など多方面で具現化されていき、日本全体が7年後のオリンピックに向かって進んでいくんだろうと思います。

そしてもちろん気が早いですが、ぜひ2020年の東京オリンプックでは、音楽監督を久石譲にしてほしいですね!映画音楽の巨匠のみならず、日本を代表する音楽家でもあり、その知名度はスタジオジブリ宮崎駿監督作品や北野武監督作品もあり世界でも、そして楽曲の品格やクオリティーも申し分ないです。2020年はちょうど久石譲さん70歳。創作エネルギーとしても十分いけるでしょう!

スティーブン・スピルバーグ監督作品「スター・ウォーズ」をはじめ「ハリーポッター」などアメリカ映画音楽の巨匠ジョン・ウィリアムズは、過去3回アメリカで開催されたオリンピックのすべてで楽曲を提供しています。

オリンピック祝典曲といえば、やっぱり壮大なシンフォニーであり、ファンファーレ、格式ある序曲のようなもの。今世に出ている久石譲作品のなかで、そういった曲を集めてみました。

 

久石譲 WORKS I

「風の谷のナウシカ」をはじめとしたジブリ作品のような壮大で希望のあるシンフォニーもいいですよね。

 

久石譲 WORKS2

実は、長野パラリンピック冬季大会テーマ・ソングとしてこの「旅立ちの時 ~Asian Dream Song~」も手がけていました。

 

久石譲 WORLD DREAMS

「Wolrd Dreams」なんてまさに祝典序曲のような高揚感も国歌のような品格もある楽曲です。

 

久石譲 ミニマリズム

ミニマル・ミュジーックとシンフォニーの昇華ともいえる「Sinfonia」オリンピックテーマ曲であり全三~四楽章というのもいいかもです。

 

久石譲 メロディフォニー

坂の上の雲メインテーマでもある「Stand Alone」、委嘱作品でもある「Orbis」、意外かもしれませんが水の旅人「Water Traveller」も名曲です。

 

 

あとは未発売作品・未CD化作品ではありますが、近年の

・第60回紅白歌合戦オリジナルソング 「歌の力」
・日清カップヌードルCM曲 「Adventure of Dreams」
・第85回箱根駅伝 「Runner of the Spirit」
・大阪ひびきの街テーマ曲 「Overture -序曲-」
・JALテーマ曲 「明日の翼」

などなどこのあたりもまさに祝典曲や序曲のような作品です。

久石譲 NHK紅白歌合戦 歌の力カップヌードル Adventure of Dreams サムネイル箱根駅伝 サムネイル大阪ひびきの街JAL 明日の翼

 

オリンピックの音楽監督を担当せずとも、今だけでもこれだけ多くの名曲が存在するのもすごいですが…。やはりオリンピック公式祝典曲として聴いてみたいという願望はあります。日本を世界にアピールする祭典であり、そのファンファーレですからね。

他にも開会式・閉会式の総合監督や演出は? とかいろいろありますが、それはまたこれからの時代の流れで、その時の適任者が現れるのでしょう。ただ、音楽監督に関しては、今もこれからも、7年後も!久石譲の右に出るものはいないと思いますし、その時も第一線で活躍されてると思いますから、7年前から内定でもいいくらいです(笑)。

今回まとめたような『久石譲 オリンピック祝典序曲にふさわしい名曲』を聴きながら、7年後の期待と楽しみがまたひとつ増えました。

 

Blog. 宮崎駿監督 引退会見 一問一答 全文掲載 Part.4

Posted on 2013/09/13

――『熱風』を通じて憲法改正反対を訴えた理由は? また日本のディズニーと称されることについてディズニー出身の星野社長はどう考えますか。

宮崎監督:自分の思っていることを『熱風』から取材を受けて率直にしゃべりました。もう少しちゃんと考えてきちんと喋ればよかったんですけど、別に訂正する気も何もありません。発信し続けるかといわれても僕は文化人じゃありませんので、その範囲にとどめておこうと思います。

星野社長:日本のディズニーという呼ばれ方は別に監督がしているわけでは一切無く、2008年に公の場で同じ質問が外国の特派員からあったときに答えているんですが、「ウォルト・ディズニーさんはプロデューサーであった。自分の場合はプロデューサーがいると。ウォルト・ディズニーは大変優秀な人材に恵まれていた。自分はディズニーではない」と仰っていました。私もディズニーには20年近くいましたし、ディズニーの歴史とか一生懸命勉強する中でぜんぜん違うなと感じています。そういう面では日本のディズニーというほどではないんじゃないかなと。

――『熱風』の動機について。

宮崎監督:鈴木プロデューサーが中日新聞で憲法について語ったんですよ。そしたら鈴木さんのもとにいろいろネットで脅迫が届くようになったと。それを聞いて鈴木さんに冗談でしょうけども、電車に乗るとぶすっとやられるかもしれないというふうな話があって、これで鈴木さんが腹を刺されてるのにこっちが知らん顔してるわけにもいかないから僕も発言しよう、高畑監督もついでに発言してもらって3人いれば的が定まらないだろうと(笑)。それが本当のところです。本当に脅迫した人は捕まったらしいですけど、詳細はわかりません。

――作品の中で「力を尽くして生きろ。持ち時間は10年」という言葉がありますが、監督が振り返って思い当たる10年はどの時点でしょうか。この先10年はどういうふうな10年になってほしいか。

宮崎監督:僕の尊敬している堀田善衛さんという作家が、最晩年にエッセイで旧約聖書の伝道の書というのを「空の空なるかな」と書いてくださったんです。それの中に「汝の手に堪うることは力を尽くしてこれをなせ」という言葉があるんです。非常に優れたわかりやすく、僕は堀田善衛さんが書いてくださると、”頭悪いからお前のためにもう一回書いてあげるから”という感じで描かれてある感じがして、その本はずっと私の手元にあります。10年というのは僕が考えたわけではなくて、絵を描く仕事をやると38歳くらいにだいたい限界がまずきて、そこで死ぬやつが多いから気をつけろと僕は言われた。自分の絵の先生です。それからだいたい10年くらいなんだなと思った。

僕は18歳くらいから絵の修行を始めましたので、そういうことをぼんやり思ってつい10年と言ったんですが、実際に監督になる前にアニメーションというのは世界の秘密を覗き見ることだと。風や人の動きや色々な表情や眼差し、体の筋肉の動きそのものの中に世界の秘密があると思える仕事なんです。それがわかった途端に自分の選んだ仕事が非常に奥深くてやるに値する仕事だと思った時期があるんですね。そのうちに演出やらなきゃいけないと色々なことが起こってだんだんややこしくなるんですが、その10年はなんとなく思い当たります。そのときは本当に自分は一生懸命やっていたと、まぁ今さらいってもしょうがないんですけど。これからの10年に関してはあっという間に終わるだろうと思ってます。それはあっという間に終わります。だって美術館作ってから10年以上たってるんですよ。ついこないだ作ったのにと思っているのに。だからこれからさらに早いだろうと思うんです。ですからそれが私の考えです。

――奥様に引退をどのような言葉で伝えましたか? 奥様の反応は? また、2013年の今の世の中をどのように見ていますか?

宮崎監督:家内にはこういう引退の話をしたという風に言いました。お弁当は今後もよろしくお願いしますと言って、”フンッ”と言われましたけども(笑)。常日頃からこの歳になってまだ毎日弁当を作ってる人はいないと言われておりますので、まことに申し訳ありませんが、よろしくお願いしますと。外食は向かないように改造されてしまったんです。ずっと前にしょっちゅう行ってたラーメン屋に行ったらあまりのしょっぱさにびっくりして、本当に味が薄いものを食わされるようになったんですね。そんな話はどうでもいいんですけど。

僕が自分の好きなイギリスの児童文学作家でロバート・ウェストールという男がいまして、この人が描いたいくつかの作品の中に本当に自分の考えなければいけないことが充満しているというか。その中でこんなセリフがあるんです。「君はこの世に生きていくには気立てが良すぎる」。少しも褒め言葉じゃないんです。そんな形では生きてはいけないぞといってる言葉なんですけど、それは本当に胸打たれました。つまり僕が発信してるんじゃなくて僕はいっぱい色々なものを受け取っているんだと思います。多くの読み物とか昔見た映画とか、そういうものから受け取っているので、僕が考案したものではない。繰り返し繰り返しこの世は生きるに値するんだと言い伝え、本当かなと思いつつ死んでいったんじゃないかというふうに、それを僕も受け継いでいるんだと思ってます。

――引退発表の場所とタイミングが「ヴェネツィア映画祭」になった理由は?

鈴木プロデューサー:ヴェネツィアでコンペ、出品要請、これかなり直前のことだったんです。社内で発表し、引退の公式の発表をするっていうスケジュールは前から決めていたんですけどね、そこに偶然ヴェネツィアのことが入ってきたんですよ。僕と星野のほうで相談しまして、宮さんには外国の友人が多いじゃないですか。そしたらヴェネツィアっていうところで発表すれば、言葉を選ばらなきゃいけないんですけど、一度に発表できるなと、そういう風に考えたんですよ(笑)。もともとね、こうも考えていたんです。まず引退のことを発表してその後記者会見をやる。このほうが混乱が少ないだろうと。当初は東京でやるつもりでした。ただちょうどヴェネツィアが重なったものですから、そこで発表すれば色々な手続きが減らすことができるっていうただそれだけのことでした。

宮崎監督:「ヴェネツィア映画祭」に参加するって正式に鈴木さんの口から聞いたのは今日が初めてです。”えっ”て星野さんが言ってるとか、ああそうなんだってそういう風に答えまして、これはまぁプロデューサーの言う通りにするしかありませんでした。

――富山出身の堀田善衛ですが、集大成になった『風立ちぬ』に堀田善衛から引き継いだようなメッセージのようなものは?

宮崎監督:自分のメッセージを込めようと思って映画って作れないんですね。何かこっちじゃなきゃいけないと思ってそっちに進んでいくっていうのは何か意味があるんだろうけど、自分の意識でつかまえられないんです。つかまえられることに入っていくとたいていろくでもないところにいくんで、自分でよくわからないところに入っていかざるをえないんです。映画って最後にふろしきを閉じなきゃいけませんから。未完で終われるならこんな楽なことはないんですけど。いくら長くても2時間が限度ですから、刻々と残りの秒数も減っていくんですよね。それが実態でして、セリフとして生きねばとかいうことがあったから、多分これは鈴木さんが『ナウシカ』の最後の言葉を引っ張りだしてきてポスターに僕が描いた『風立ちぬ』という言葉よりも大きく(笑)。これは鈴木さんが番張ってるなと思ったんですけど(笑)。僕が生きねばと叫んでいるように思われてますけど、僕は叫んでおりません(笑)。そういうことも含めて宣伝をどういう風にやるか、どういう風に全国に展開していくかは鈴木さんの仕事として死に物狂いでやってますから、僕はそれを全部任せるしかありません。というわけでいつのまにかヴェネツィアに人が行ってるっていう。その前になんとか映画祭にパクさんと二人で出ませんかとか言われて。カンヌ映画祭があるとか言われて勘弁して下さいとかあって。ヴェネツィアにいくかは何も聞かれなかったんですけど。

鈴木プロデューサー:ヴェネツィアに関しては宮さんコメント出してますよ。リド島が大好きって。

宮崎監督:あ……僕はリド島が好きです。カプローニにとっては孫ですけど、その人がたまたま『紅の豚』を見て、自分のおじいさんさんがやっていた社史、飛行機の図面というか、わかりやすく構造図に変えたものが大きな本で、日本に1冊しかないと思いますけど、突然イタリアから送ってきて、いるんならやるぞと。ありがたくいただきますと返事を書きましたけど。それで僕は写真で見た変な飛行機としか思ってなかったものの中の構造を見ることができたんですよ。ちょっと胸を打たれましてね。技術水準はドイツやアメリカに比べるとはるかに原始的なんですけど、構築しようとしたものはローマ人が考えてるようなことをやってると思ったんです。カプローニという設計者はルネッサンスの人だと思うと非常に理解できて、つまり経済的批判がないところで航空会社をやっていくためには相当張ったりもホラも吹かなければならない。その結果作った飛行機が航空史に残っていたりすることがわかって、とても好きになったんです。そういうことも今度の映画の引き金になってますが、たまりたまったものでできているものですから、自分の抱えているテーマで映画を作ろうとあまり思ったことがありません。突然送られてきた本1冊とか、随分前ですよね、いつの間にか材料になっていくということだと思います。

――堀田善衛とはどんな存在ですか?

宮崎監督:『紅の豚』をやる前なんかも世界情勢をどんな風に読むのかわからなくなっているうちに、堀田善衛さんってそういうときにサッと短いエッセイだけど、描いたものが届くんですよ。それを読むと自分がどこかに向かって進んでいるつもりなんだけど、どこへ行っているんだかわからなくなるような時期があるときに見ると、よく堀田善衛さんという人はぶれずに歴史の中に立っていました。見事なものでした。それで自分の位置がわかるということが何度もあったんです。本当に堀田善衛さんが描いた国家はやがてなくなるだろうとかね、そういうことがそのときの自分にはどれほど助けになったかと思うと、大恩人の一人だと今でも思っています。

――初期の頃の作品は2年、3年感覚で発表していましたが、今回は5年ということで、年齢によるもの以外に創作の試行錯誤など時間がかかる要因がありましたか?

宮崎監督:1年間隔で作っていたこともあります。最初の『ナウシカ』も、『ラピュタ』も『トトロ』も『魔女の宅急便』も、それまで演出やる前に手に入れていた色々な材料がたまってまして、出口があったらばっと出て行く状態にあったんです。その後はさぁ何を作るか探さなきゃいけないというそういう時代になったからだんだん時間がかかるようになったんだと思います。あとは最初は『カリオストロの城』は4カ月半で作りました。寝る時間を抑えてでもなんとかもつというギリギリまでやると4カ月半でできたんですが、そのときはスタッフ全体も若くて同時に長編アニメーションをやる機会は生涯に一回あるかないかみたいなそういうアニメーターたちのむねがいて、非常に献身的にやったからです。それをずっと要求し続けるのは無理です。歳もとるし、世帯もできるし、私を選ぶのか仕事を選ぶのかみたいなことを言われる人間がどんどん増えてくるっていう。今度の映画で両方選んだ堀越二郎を描きましたけど、これは面当てではありません(笑)。

そういうわけでどうしても時間がかかるようになりました。同時に自分が一日12時間机に向かっても耐えられた状態ではなくなりましたから。実際、机に向かっている時間はもう7時間が限度だと思うんですね。あとは休んでるかおしゃべりしてるか飯を食ってるかね。打ち合わせとか、これをああしろとかこうしろとかは僕にとっては仕事じゃないんですよ。それは余計なことで、机の上に向かって描くことが仕事で、その時間を何時間とれるかっていう。それはね、この年齢になりますともうどうにもならなくなる瞬間が何度もくるっていうね。その結果、何をやるかっていいますと、鉛筆をパッと置いたらそのまま帰っちゃう。片付けて帰るとか、この仕事は今日でケリをつけるっていうのは一切あきらめたんです。やりっぱなしです。放り出したまま帰るということをやって、それでももう限界ギリギリでしたから。これ以上続けるのは無理だと。それを他の人にやらせるべきだということは僕の仕事のやり方を理解できない人のやり方ですから、それは聞いても仕方がないんです。できるならとっくの昔にそうしてますから。5年かかったといいますけど、その間にどういう作品をやるかっていうのは方針を決めてスタッフを決めて、それに向かってシナリオを描くということをやってます。やってますが、『風立ちぬ』は5年かかったんです。『風立ちぬ』は、後どういうふうに生きるかはまさに今の日本の問題で、この前ある青年が訪ねてきて、「映画の最後で丘をカプローニと下っていきますけど、その先に何が待っているかと思うと本当に恐ろしい思いで見ました」というびっくりするような感想でしたが、それはこの映画を今日の映画として受け止めてくれた証拠だろうと思って、それはそれで納得しました。そういうところに僕らはいるんだということだけはよくわかったと思います。

宮崎監督:こんなにたくさんの方がみえると思いませんでした。本当に長い間、いろいろお世話になりました。もう二度とこういうことはないと思いますので。ありがとうございました。

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これが当日約1時間半に及んだ引退会見の全容です。何度読み返してもうならされるところがその都度たくさんあります。

これを用意された原稿ではなく、当日のライブによる本番、つまりは誰がどんな質問をするかもわからないなかで、瞬時に自分の考えをブレずに明確に述べられているところにそのバックボーンであるこれまでの思考や体験の深さを思い知らされます。

宮崎駿監督本当にお疲れさまでした。そしてこれからも「自由に」歩んでいかれることを楽しみに期待しています。

 

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Blog. 宮崎駿監督 引退会見 一問一答 全文掲載 Part.3

Posted on 2013/09/13

――監督の中には引退宣言をせずに退かれる方もいますが、あえて引退宣言という形で公表しようと思った最大の理由は何でしょう?

宮崎監督:引退宣言をしようと思ったんじゃないんです。僕はスタッフにもう辞めますと言いました。その結果、プロデューサーの方からそれに関しての色々な取材の申し入れがあるが、どうするか。いちいち受けてたら大変ですよ、という話がありまして。じゃあ僕のアトリエでやりましょうかという申し入れをしたらちょっと人数が多くて入りきらないという話になる。じゃあスタジオでやりましょうか、と言ったらそれもどうやら難しいという話になりまして、それでここになってしまいました。そうするとですね、これは何かないと、口先だけでごまかすわけにはいかないので、公式に引退の辞を書いたんです。それをプロデューサーに見せたら「これいいじゃない」と言うので、こんなことになりました。こんなイベントをやる気はさらさらなかったんです(笑)。ご理解ください。

――鈴木さんから見た宮崎映画のスタイルを改めて教えてください。また宮崎映画が日本の映画会に与えた影響について評価・解説をお願いします。

鈴木プロデューサー:言い訳かもしれないけど、そういうことをあまり考えないようにしています。どうしてかと言うと、そういう風にものを見ていくと目の前の仕事ができなくなるんですよ。僕は、現実には宮崎駿作品に関わったのは『ナウシカ』からなんですが、そこから約30年間ずっと走り続けてきて、それと同時に過去の作品を振り返ったことはなかった。たぶんそれが仕事を現役で続けるということだと思ってたんです。どういうスタイルでその映画を作っているのか、感想として思うことはありますけど、なるべくそういうことは封じる。なおかつ自分たちが関わって作ってきた作品が世間にどういう影響を与えたのか、それも僕は考えないようにしてきました。そういうことです。

宮崎監督:まったく僕も考えていませんでした。採算にわたって分岐点にたどり着いたと聞き「よかった」でだいたい終わりです。

――(フランス記者)フランスはいかがでしょうか。

宮崎監督:正直に言いますね。イタリア料理のほうが口に合います(笑)。クリスマスにたまたまフランスに用事があって行ったときに、どこのレストランに入ってもフォアグラが出てくるんです。これが辛かった記憶があります(笑)。答えになっていませんか? あ、ルーブルはよかったですよ。いいところはいっぱいあります。ありますけど、料理はイタリアのほうが好きでした。あの、そんな大した問題と思わないでください(笑)。フランスの友人にイタリアの飛行艇じゃなくてフランスの飛行艇の映画を作れって言われたんですけど、いやーアドリア海に沈んでいったからフランスの飛行艇はないだろうという話をした記憶はありますけどね。フランスがポール・グリモーという、「王と鳥」という名前になっていますが、昔は「やぶにらみの暴君」っていう形で、反戦映画ではなかったけど、1950年代に公開されて甚大な影響を与えたんです。特に僕よりも5つ上の高畑監督の世代には、圧倒的な影響を与えたんです。僕はそれは少しも忘れていません。今見ても志とか世界の作り方を見ても本当に感動します。いくつかの作品がきっかけになって自分はアニメーターをやっていこうと決めたわけですが、そのときにフランスで作られた映画のほうがはるかに大きな影響を与えてます。イタリアで作られた作品もあるんですが、それを見てアニメーションをやろうと思ったわけではありません。

――1963年に東映動画に入社されてちょうど半世紀。振り返って一番辛かったこと、アニメを作って一番よかったと思うことはありますか?

宮崎監督:辛かったのはスケジュールで、どの作品も辛かった。終わりまでわかっている作品は作ったことがないです。つまりこうやって映画が収まっていくというか、見通しがないまま入る作品ばかりだったので、毎回ものすごく辛かったです。最後まで見通せる作品は僕はやらなくてもいいと勝手に思い込んで、企画を立てたり、シナリオを書いたりしました。絵コンテという作業があるんですが、月刊誌みたいな感じで絵コンテを出す。スタッフは、この映画がどこにたどり着くのかぜんぜんわからないままやってるんです。よくもまぁ我慢してやってたなと思うんですが、そういうことが自分にとっては一番しんどかった。でも2年とか1年半とかいう時間の間に考えることが自分にとっては意味がありました。同時に上がってくるカットを見て、ああではない、こうではないといじくっていく過程で、前よりも映画の内容についての自分の理解が深まることも事実なんで、それによってその先が考えられるような、あまり生産性には寄与しない方式でやりましたけど、それは辛いんですよね(笑)。とうとうとスタジオにやってくるという日々になってしまうんですが、50年のうちに何年そうだったのかわかりませんが、そういう仕事でした。

監督になってよかったと思ったことは一度もありませんけど、アニメーターになってよかったと思ったことは何度かあります。アニメーターっていうのは何でもないカットが描けたとか、うまく風が描けたとか、うまく水の処理ができたとか、光の差し方がうまくいったとか、そういうことで2、3日は幸せになれるんですよ。短くても2時間くらいは幸せになれるんです。監督は、最後に判決を待たなきゃいけないでしょ。これは胃に良くない。ですからアニメーターは最後までやってたつもりでしたけど、アニメーターという職業は自分に合っているいい職業だったと思っています。

――それでも監督をずっとやってこられたのは?

宮崎監督:簡単な理由でして、高畑勲と会社が組ませたわけじゃないです。僕らは労働組合の事務所で出会ってずいぶん長いこと話をしました。その結果、一緒に仕事をやるまでにどれほど話をしたかわからないくらいありとあらゆることについて話をしてきました。最初に組んでやった仕事は、自分がそれなりの力を持って彼と一緒にできたのは『ハイジ』が最初だったと思うんですけど、その時にまったく打ち合わせが必要ない人間になっていました。双方にね。こういうものをやるって出した途端に、何を考えているかわかるって人間になっでしまったんですよ。ですから、監督というのはスケジュールが遅れると会社に呼び出されて怒られる。高畑勲は始末書をいくらでも書いてましたけど、そういうのを見るにつけて、僕は監督はやりたくないと。やる必要がないと。僕は映画の方をやっていればいいんだと思っていました。まして音楽や何やらかんやらは修行もしなければ何もやらないという人間でしたから、ある時期がきてお前一人で演出をやれと言われた時は本当に途方に暮れたんです。音楽家と打ち合わせなんて何を打ち合わせしていいかわからない。よろしくって言うしかない。しかもこのストーリーはどうなっていくんですかって、僕もわかりませんって言うしかないんで。

つまり初めから監督や演出をやろうと思った人間じゃなかった。それがやってしまい、途中高畑監督に助けてもらったこともありましたけど、その戸惑いは『風立ちぬ』まで、ずっと引きずってやってきたと今でも思ってます。音楽の打ち合わせでこれどうですかって聞かされても、どこかで聞いたことあるなとか、それくらいのことしか思いつかない(笑)。逆にこのCDをとても気に入ってるんですけど、これでいきませんかと。”これワグナーじゃないですか”(と言われる)とか、そういうバカな話はいくらでもあるんですけど、本当にそういう意味では映画の演出をやろうと思ってやってきたパクさんの修行とですね、絵を描けばいいんだって思ってた僕の修行はぜんぜん違うものだったんです。それで、監督をやっている間も、僕はアニメーターとしてやりましたので、多くの助けやとんちんかんがいっぱいあったと思いますが、それについてはプロデューサーがずいぶん補佐してくれました。つまり、テレビも見ない、映画も見ない人間にとっては、どういうタレントがいるか何も知らないんです。すぐ忘れる。そういうチームというか、腐れ縁があったおかげでやってこれたんだと思っています。決然と立って一人で孤高を保っているというそういう監督ではなかったです。わからないものはわからないという、そういう人間として最後までやれたんだと思います。

――『風立ちぬ』についてお聞きします。長編最後の場面のセリフを「あなたきて」から「あなた生きて」に変えたとプロデューサーが以前にお話されていました。宮崎監督が考えていたものとは違うものになったと思いますが、長編最後の作品として悔いのないものになったのか。また今変えたことについてどう思っていますか?

宮崎監督:『風立ちぬ』の最後については本当に煩悶しました。なぜ煩悶したかというと、とにかく絵コンテを上げなければいけない。制作デスクにさんきちという女の子がいますが、本当に恐ろしいです(笑)。他のスタッフと話していると床に「10分にしてください」って貼ってあるとかね。机の中に色々な叱咤激励が貼ってありまして、そんなことはどうでもいいんですけど(笑)。とにかく絵コンテを形にしないことにはどうにもならないので、とにかく形にしようと形にしたのが追い詰められた実態です。それで、やっぱりこれはダメだなと思いながらその時間に絵が変えられなくてもセリフは変えられますから、自分で冷静になって仕切り直しにしました。こんなこと話してもしょうがないですが、最後の草原はいったいどこなんだろう――これは煉獄であると仮説を立てたのです。ということは、カプローニも堀越二郎も亡くなってそこで再会してるんだ、そう思いました。それから奈緒子は、ベアトリーチェだ、だから迷わないでこっちに行きなさい、と言う役として出てくるんだって。言いはじめたら自分でこんがらがりまして、それでやめたんですよね。やめたことによってすっきりしたんです。『神曲』なんて一生懸命読むからいけないんですよね(笑)。

――自分の作りたい世界観は表現できたのか、達成感はありますか? もし悔いが残っているとしたらどこでしょう?

宮崎監督:その総括はしていません。自分が手抜きしたという感覚があったら辛いだろうと思いますが、とにかく辿り着けるところまでは辿り着いた、というふうにいつでも思ってましたから、終わった後はその映画は見ませんでした。ダメなところはわかっているし、それが直ってることもないので、振り向かないようにやっています。同じことはしないつもりで……ということなんですが。

――スタジオジブリ立ち上げが40代半ば。日本社会をどう見てきましたか。どんな70代にしたいですか。

宮崎監督:ジブリを作った時の色々なことを思い出すと、浮かれ騒いでた時代だったと思います。経済大国になって日本はすごいんだ、ジャパンイズナンバーワンとかね。そういうことが言われていた時代だったと。それについて僕はかなり頭にきていました。頭にきていないと『ナウシカ』なんか作りません。でもその『ナウシカ』、『ラピュタ』、『トトロ』、『魔女の宅急便』っていうのは基本的に経済は勝手に賑やかだけど、心の方はどうなんだとか、そういうことを思って作っていました。でも1989年にソ連が崩壊して、日本のバブルもはじけていきます。その過程で戦争が起こらないと思っていたユーゴスラビアが――僕が勝手に起こらないと思っていただけなんですけど――内戦状態になるとか、歴史が動き始めました。今まで自分たちが作ってきた作品の延長上にこれは作れない、という時期がきたんです。その時に、体をかわすように豚を主人公にしたり、高畑監督はたぬきを主人公にしたりして切り抜けたんです。切り抜けたって言うと変ですけど(笑)。たぶんそう。それから長い下降期に入ったんです。失われた10年は失われた20年になり、半藤一利さんは失われた45年になるだろうと予言しています。たぶんそうなるのではないかと。

そうすると僕らのスタジオというのは、経済が上り調子になっているところでバブルが崩壊する、ここのところで引っかかっていたんです。それがジブリのイメージを作ったんです。その後、じたばたしながら『もののけ姫』を作ったりいろいろやってきましたけど、僕の『風立ちぬ』までずるずると下がりながら、これはどこにいくんだろうと思いつつ作った作品だと思います。ただ、このずるずるずるが長くなりすぎると、最初に引っかかっていた引っかかりが持ちこたえられなってドロっていく可能性があるところまできてるんじゃないか。抽象的な言い方で申し訳ないんですが、僕の70歳というのは、半藤一利さんとお話した時によくわかったんですが、ずるずると落ちていく時に自分の友人だけじゃなくて、一緒にやってきた若いスタッフや隣の保育園の生きているところの横に自分がいるわけですから、なるべく背筋を伸ばして半藤さんのようにきちんと生きなければいけないと思っています。そういうことだと思います。

――(中国記者)将来、ジブリの作品を中国で上映する可能性は?

星野社長:御存知の通り、中国は外国映画の制度があってその本数が規制緩和で増えているという状況はよくわかっているんですが、まだまだそういう面では本格的に映画作品、日本の作品を上映していく流れができていないんです。前向きに考えてはいますけど、現時点ではジブリ作品はまだ上映されている状況にはありません。

――宮崎監督が好きな作品や監督などは?

宮崎監督:僕は今の作品をぜんぜん見ていないので、ノルシュテインやピクサーのジョン・ラスターは友人です。それからイギリスにいる連中の友人です。みんなややこしいところでいろいろやっているという意味で友人です。競争相手じゃないといつも思っています。今の映画見てないんです本当に。高畑監督の映画は見ることになると思いますが、まだのぞくのは失礼だからのぞかないようにしています。

――『風立ちぬ』は庵野監督やアルパートさんなど縁の深いキャスティングです。そこに何か思いは?

宮崎監督:その渦中にいる方は気づかないと思います。つまり毎日テレビを見ているとか、日本の映画を見ているとか、吹き替えのものを見ているとか、そういう人たちは気がつかないと思うんです。でも僕は東京と埼玉を往復して暮らしてますけど、さっきも言いましたように映画もテレビも見てないんです。自分の記憶に蘇ってくるのは、特に『風立ちぬ』をやってる間中、蘇ってきたのはモノクロ時代の日本の映画です。昭和30年以前の作品ですね。そこで暗い電気の下で生きるのに大変な思いをしてる若者や男女が出てくる映画ばかり見ていたので、そういう記憶が蘇るんです。それと今の、失礼ですがタレントさんたちのしゃべり方を聞くと、そのギャップに愕然とします。なんという存在感のなさだろうと思います。庵野もアルパートさんも存在感だけです。かなり乱暴だったと思うんですけど、そのほうが僕にとって映画にぴったりすると思いました。でも他の人がダメだったとは思わないです。奈緒子をやってくださった人なんかはみるみるうちに本当に奈緒子になってしまって、本当に愕然としました。そういう意味で非常に、この『風立ちぬ』をドルビーサウンドだけどドルビーではないモノにしてしまう。周りから音は出さない。それからガヤは20人も30人も集めてやるんじゃなくて、音響監督は2人でするんだと言ってます。つまり昔の映画はそこで喋っているところにしかマイクは向けられませんから、どんなに色々な人間が口を動かしてしゃべっていてもそれは映像には出てこなかったんです。その方が世界は正しいんです。僕はそう思うんです。

それが24チャンネルになったらあっちにも声をつけろこっちにも声をつけろ、それを全体にばらまくって結果ですね。情報力は増えてるけど、表現のポイントはものすごくぼんやりしたものになっているんだと思います。それで思い切ってこれは美術館の短編作品をいくつかやっていくうちに、これでいけるんじゃないかと思ったんですけど、プロデューサーがまったくためらわずにそれでいこうと言ってくれたのが嬉しかったですね。音響監督もまさに同じ問題意識を共有できていてそれができた。こういうことってめったに起こらないと僕は思います。これもうれしいことでしたが、色々なポジションの責任者たちが色だとか背景だとか動画のチェックだとか、色々なセクション、制作デスクも音楽の久石さんも、とても円満な気持ちで終えたんです。こういうことは初めてでした。もっととんがってギスギスした心を残しながら終わったものなんですが、20年ぶり30年ぶりのスタッフも何人も参加してくれて、そういうことも含めて映画を作る体験としては非常にまれないい体験として終われたので、本当に運が良かったと思っています。

――(香港記者)5年前に一度個別インタビューしました。今がずいぶん痩せている気がして。失礼かもしれませんが、監督の今の健康状態はいかがですか?

宮崎監督:今僕は正確に言うと63.2kgです。僕は50年前にアニメーターになったとき57kgでした。それが60kg超えたのは結婚したせいなんですけど、つまり三度飯を食うようになってからです。一時は70kgを超えました。そのころの自分の写真を見ると醜い豚のようだと思って辛いです(笑)。映画を作るために体調を整える必要がありますから、外食をやめました。朝ごはんをしっかり食べて、昼ごはんは家内の作った弁当を持ってきて食べて、夜は帰ってから食べますけど、ご飯は食べないでおかずだけ食べるようにしました。別にきつくないことがわかったんです、それで。そしたらこういう体重になったんです。これはだから女房の協力のおかげなのか陰謀なのかわかりませんけど、これでいいんだと思ってます。

僕は最後57kgになって死ねるといいなと思ってます。スタートの体重になって死ねりゃいいと思ってます(笑)。健康はいろいろ問題があります。ありますけど、とても心配してくださる方々がいて、よってたかって何かやらされますので、しょうがないからそれに従ってやっていこうと思ってますから、なんとかなるんじゃないかと思います。映画一本作るとよれよれになります。どんどん歩くとだいたい体調が整ってくるんですけど、この夏はものすごく暑くて上高地行っても暑かったんですよ。僕は呪われてるとおもったんですけど、まだ歩き方が足りないんです。もうちょっと歩けばもう少し元気になると思います。

 

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