Overtone.第20回 なぜ『交響組曲 もののけ姫』(2016) はリリースされないのか?

Posted on 2018/10/15

ふらいすとーんです。

そわそわザワザワしそうなお題です。

なぜ『Symphonic Suite PRINCESS MONONOKE / 交響組曲 もののけ姫』(2016・世界初演)はリリースされないのか? スタジオジブリ作品の音楽を手がけてきた久石譲が、自ら交響作品化するプロジェクトを始動したのが2015年。第1弾『Symphonic Poem NAUSICCÄ 2015 / 交響詩 風の谷のナウシカ 2015』は同年W.D.O.2015コンサート世界初演、翌年Live盤CDリリースされました。順当にいけば『交響組曲 もののけ姫』もこの流れをとると思われていたなか、、、飛び越えて第3弾『Symphonic Suite “Castle in the Sky” / 交響組曲 天空の城ラピュタ』がW.D.O.2017世界初演、2018年の今年新たにレコーディング音源としてCDリリースされました。『交響組曲 もののけ姫』はW.D.O.2016世界初演で止まっている。

ここに導き出すのはひとつの回答です。正解か不正解かと言われると困ってしまいます。だから僕の回答を押しつけもしませんし、あるいは遠慮もしません。言い逃げではいけない、きちんと向き合って思い考え巡らせています。あぁ、そういう見方もあるかもね、いや違うんじゃない。最終的には、あなたの回答を導き出すきっかけ材料にしてもらえたらうれしいです。

 

 

バッハの「マタイ受難曲」を聴いてみたいと思いながらずっと素通りしていました。約3時間もある、これはなかなか根気がいるというのが理由です。深掘りはできないけれど、まずは一旦通して聴いてみようよ、やっと手をのばしました。

厳かな世界だなあ、すると、どこかで聴いたことあるフレーズが流れてくる。あれ、これ何だったかなあ、疑問をすえおき聴き進める、また同じフレーズが登場する。合唱による美しい旋律、合わせて鼻歌で歌いながら記憶をめぐらせる。

久石さんの作品にあったよね!

『THE EAST LAND SYMPHONY』「5. The Prayer」です。えっ、旋律そのままだけど!?なんで?!……待てよ、そういえばバッハが云々あったかも。CDライナーノーツを取り出します。

 

「5.The Prayer」は今の自分が最も納得する曲です。ここのところチャレンジしている方法だいうことです。最小限の音で構成され、シンプルでありながら論理的であり、しかもその論理臭さが少しも感じられない曲。すべての作曲家の理想でもあります。もちろん僕ができたということではありません。まあ宇宙の果てまで行かないと実現できそうもないことなのですが、志は高く持ちたいと思っています。ソプラノで歌われる言葉はラテン語の言諺から選んでいます。もちろん表現したかったこと(それは言わずもがな)に沿った言葉、あるいは感じさせる言葉を選んでいます。後半に現れるコラールはバッハ作曲の「マタイ受難曲第62番」からの引用です。このシンフォニーを書こうと考えたときから通奏低音のように頭の中で流れていました。

久石譲

(CDライナーノーツより抜粋)

 

ちゃんと書いてあります「後半に現れるコラールはバッハ作曲の「マタイ受難曲第62番」からの引用です」と。僕はこれ、てっきり歌詞や言葉を引用したんだろうと勘違いしていたんですね。だからこの時「マタイ受難曲」原曲を確認しようとすることを怠った、反省。

 

from Youtube

 

この旋律を聴いて「5.The Prayer」の間奏部だとすぐにつながった人は『THE EAST LAND SYMPHONY』をよく聴いていますね。曲全体のソプラノによる歌唱パートは久石譲作によるもの、後半に1度だけ顔をのぞかせるオーケストラパートが「マタイ受難曲 第62番」からの引用です。

このコラールの旋律は第15番・第17番・第54番・第62番に登場します。そして「マタイ受難曲」では合唱編成でしか奏でられません。器楽のみ演奏はない。約3時間がんばった甲斐ありました!? 原曲の雰囲気と全体像を知って聴き比べる。久石さんは器楽パートとして切り換え引用した。そして自ら書き下ろした旋律との融合が見事としか言いようがないことに気づきます。つながりもスムーズで違和感ないし、引用することで共鳴したり広く深くなる世界観。同じコラール旋律なのに、あえて第62番からの引用と言ったのか…第15番などじゃダメだったのか…それは「マタイ受難曲」の音楽作品を深く紐解くとストーリーとしての位置づけと重なるのかもしれません。僕の手には負えないので、タイトルだけ書き留めておきます。

第15番  コラール「われを知り給え、わが守り手よ」(合唱)
第17番  コラール「われはここなる汝の身許に留まらん」(合唱)
第54番  コラール「おお、血と涙にまみれし御頭」
第62番  コラール「いつの日かわれ去り逝くとき」(合唱)

 

 

もののけ姫は?

忘れていません。

「5.The Prayer」を聴きながら、ずっと不思議だったんです。どうして曲が終わって観客の拍手が入ってるんだろう? 音楽作品としてならあの静謐な終結部、音がゆっくり消えていき静寂の余韻にひたりたいところに拍手が入ってくる。否応なく現実に引き戻される。あえてそうしたのはなぜ??

僕はこれを”あえて”と思っています。あの拍手を聴くたびに「これはLive盤だからね」「きちんとした完成版・レコーディング版じゃないからね」というサインのように聞こえます。近年の久石譲Live盤はW.D.O.を筆頭にまるでセッション・レコーディングしたかのようなハイクオリティ録音です。オーケストラの各楽器に配置された集音マイクはおそらく計40本以上。それらをステージに設置してのコンサート演奏とホール空気ごと封じ込めた音源化。指揮者や奏者の呼吸や足音、譜めくりの音も観客の咳払いも一切の会場音を排除できている。Live盤であることを銘打たないとわからないほどです。だからリリース時Live盤のときはきちんとそう告知されていますし、逆に告知されていなくて実はLive盤だったというようなことは、ないように思います。いろいろ危惧される諸事情ふくめて。

それはさておき、ここで一番大事なことは、久石譲オリジナル作品に声によるソリストを迎え入れた作品がかつてなかった、ということです。合唱を除くヴォーカルをフィーチャーしたもの。久石譲作品に見合う声なのか?久石譲が求める声質や歌唱なのか? 合唱と異なり声が大きなカラーとなってしまう扱い方には、作品の世界観にも大きな影響を及ぼします。まだめぐり逢えていないのか、答えが出ていないのか、とても慎重に熟考しているような気がします。

結論。

だから『THE EAST LAND SYMPHONY』はLive盤だった。「コンサートで世界初演したものを音源化しました。今回はこうなりました。」それがあの拍手のように思えてなりません。はっきり言えば「この時の演奏においては」という枕詞的サインです。ハイクオリティ録音でやもすると完全なるレコーディング版と思う人もいる。パフォーマンスのクオリティに納得していないわけではなく、コンサート・ソリストに納得していないわけでもなく、あくまでもレコーディング完結としたときのソリスト選定、現在進行系・吟味中の作品であること、めでたく結実しましたとはまだ言えない。そんな気がしています。

作品を生みおとす通過点のひとつとしてLive盤として音源化はしてくれた。映画音楽やCM音楽で起用するヴォーカルとは違います。映画の世界観に合う声として選ばれた場合は、当たり前に堂々とレコーディングできます。それだけに久石譲オリジナル作品として”声”を扱うというのは、とても神経を尖らせるデリケートなこと。かつ、そのリスクを背負ってでも、この作品は「3. Tokyo Dance」ふくめ言葉による世界観の構築とソプラノ歌唱による表現が必要だった。そんな新しい挑戦と覚悟が見え隠れする渾身の大作です。

 

 

順ぐりやっと「もののけ姫」です。

もうなんとなく僕の言いたいことは察しがつきますか。さて、散らかした考えをどうする…Q&Aでいきます。Q&Aはどちらも自問自答です。

 

 

Q.なぜ『交響組曲 もののけ姫』はリリースされないんですか?

A.「もののけ姫」「アシタカとサン」がソプラノ歌唱で構成されています。これを誰に歌ってもらうか、どんな声を求めているのか、ポイントになっているように思います。

 

Q.過去にもCD化されてますよね?

A.『交響組曲 もののけ姫』(1998)はチェコフィルハーモニー管弦楽団と共演した作品。プラハでレコーディングされました。全八章に及ぶ壮大な組曲は主題歌「もののけ姫」含むすべてインストゥルメンタル版です。『WORKS II』(1999)はここから4曲をセレクト忠実に再現したLive盤です。『真夏の夜の悪夢』(2006)はさらに3楽曲に絞り込み再構成した約8分半の作品。主題歌「もののけ姫」はヴァイオリンをフィーチャーしています。一夜限りのW.D.O.コンサートを収録したLive盤です。

 

Q.「もののけ姫」ヴォーカル版もありますよね?

A.『久石譲 in 武道館』(2008)は久石譲ジブリコンサートとしてDVD人気定着しています。このスペシャルコンサートは映画『崖の上のポニョ』公開年、映画オープニング「海のおかあさん」を歌った林正子さんが「もののけ姫」もコンサート歌唱しました。一期一会のコラボレーションです。「アシタカとサン」も新たに歌詞がつけられコーラス編成で披露されました。

A.『The Best of Cinema Music』(2011)は東日本大震災チャリティコンサートを収録したLive盤です。「アシタカせっ記」「TA・TA・RI・GAMI」も合唱あり再構成した武道館ヴァージョンが継承されています。「もののけ姫」は武道館にひきつづき林正子さんによるソプラノ歌唱(英語詞)でした。

 

Q.『交響組曲 もののけ姫』(2016)は?

A.こんがらがってきます。2016年版の音楽構成は最後を見てください。「もののけ姫」「アシタカとサン」がソプラノ歌唱されています。深掘りすると「アシタカとサン」はソプラノを迎え入れるタイミングで転調しました。「World Dreams」コーラス版と同じように。ソプラノのために必要だったと思うのですが、個人的には転調しないコーラス版と同じ構成がよかった、「アシタカとサン」はオリジナルキーで通してほしいと当時ひっそりメモしています。

A.『THE EAST LAND SYMPHONY』と同時初演された『交響組曲 もののけ姫』。考え方によっては、『THE EAST LAND SYMPHONY』でのソプラノ編成が主軸にあって、『交響組曲 もののけ姫』はその編成を活かした。合唱編成のないコンサートで「アシタカとサン」はどう披露できるか?となった。そんな見方もできますね、できませんか…?

A.「もののけ姫」「アシタカとサン」ふたつの楽曲は、歌と言葉による精神性、世界観を表現する重要な核になっているとも言えます。だからこそ誰が歌うか、どう表現するか、独唱なのか合唱なのか、はたまたオーケストラのみで築きあげるのか…。悩ましい。

 

Q.『交響詩 風の谷のナウシカ 2015』はCD化されています。

A.『The End of the World』(2016)にLive収録されています。『WORKS・I』(1997)から大きく進化した完全版です。独唱はありませんがコーラスが作品全体とおして大きな役割を担っています。「遠い日々」は合唱版になっていますが、理想は独唱+合唱という推察もできます。そこにはナウシカが歌っているという世界観。『風の谷のナウシカ サウンドトラック』(1984)版は麻衣、『WORKS・I』版はボーイ・ソプラノ、そしてジブリコンサートも多彩なヴォーカリストです。

 

Q.『The End of the World for Vocalists and Orchestra』も同アルバム収録です。

A.『Minima_Rhythm』(2009)から進化した久石譲オリジナル作品です。追加楽章となった「III. D.e.a.d」「久石譲編:The End of the World (Vocal Number)」はカウンター・テノールによる歌唱です。そしていみじくもこの作品もLive音源収録です。そこには、作品として現在進行系な何かが潜んでいるのか、声によるものなのか、久石譲作ではないスタンダードナンバーを組み込んでいるからなのか…。『Another Piano Stories ~The End of the World~』(2009)でもレコーディングされたこの曲、そこで歌っているのは久石譲本人です。

 

Q.『THE EAST LAND SYMPHONY』ちょっとうがった見方じゃないですか? Live盤にはよくある拍手です。

A.そこに戻るんですね。ラストを飾る曲が「Kids Return」「Madness」「Asian Dream Song」のような作品であれば、観客の高揚感と会場の臨場感を拍手まで完全収録して-完-、と素直に思ったかもしれません。「5.The Prayer」だったからこそ、ちょっと待てよと考えめぐらせるきっかけになっています。

A.『The End of the World for Vocalists and Orchestra』には拍手入っていません。辻褄はあいません。がんばって言うと、DISC1に収録されています。DISC1が終わってそこに拍手を入れるのか、そうするとDISC2にも入れるのか…。いろいろな考え方はありますね。

A.ヴォーカル・ソリストをフィーチャーした『The End of the World for Vocalists and Orchestra』『THE EAST LAND SYMPHONY』はLive音源になっている。『TRI-AD for Large Orchestra』『ASIAN SYMPHONY』はセッション・レコーディング収録されている。これは偶然…?!

A.『Minima_Rhythm III ミニマリズム 3』(2017)に収録された『TRI-AD for Large Orchestra』と『THE EAST LAND SYMPHONY』。ひとつのCDアルバムにレコーディング音源とライヴ音源が並列している。一般的にあまりないように思います。考察をめぐらせる価値は十分にある提示だと思います。

 

Q.都合のいいものだけ並べて言ってませんか?!

A.すべての作品を洗い出しても整合性はとれません。発表当時の時代や作品コンセプトも影響します。無理やり辻褄合わせをしようとも思っていません。ここでフォーカスしているのは、久石譲オリジナル作品/スタジオジブリ交響組曲、このふたつの大きな柱でプログラムされるようになる、世界初演に恵まれる作品も多いW.D.O.コンサート、「久石譲&ワールド・ドリーム・オーケストラ 2015」を起点にしています。

 

Q.久石さんを袋小路にしたいんですか?!

A.とんでもないです!むしろ逆です。思い考え巡らせることで、いまだ『交響組曲 もののけ姫』がリリースされていないこと何か理由があると考えたい。正解や理由が知りたいというよりも、そこには気分や気まぐれでリリーススケジュールを決めているわけじゃない、忘れているわけじゃない、タイミングを失ってるわけじゃない(言いたい放題 失礼しました)、そう思えるなにかを自分のなかで考えてみたい。近年の作品に対する信念やどう音源化できるかの指針が”リリースするかたち”として現れているように思っています。ひとつのものさしです。

 

Q.『交響組曲 もののけ姫』もLive盤としてリリースしたら?

A.久石譲オリジナル作品なら「今回はコンサートで披露してこうなったよ」で通過点にできるかもしれません。その先にある新たな進化やレコーディングもふくめて。一方ジブリ交響作品化として始動したものを「今回はこのバージョンね」と幾度リリースすること、いくつもの盤を並列させてしまうというのはちょっと考えにくいかなあと思っています。(ファンとしてはうれしいですよ!)

 

Q.だから慎重を期してTV放送もされていない?

A.TV放送だけしてCD音源化は見送る方法もありますね。TV放送もCD音源化もしない方法もありますね、今の時点では世の中にいかなるかたちでも出さないと。コンサートにはステージ集音マイクはもちろん収録カメラも入っていたはずです。『THE EAST LAND SYMPHONY』はCD化された。そういえばW.D.O.2016はABプロでソリスト違います。カメラが入った会場はどこだったのか(把握していません)、TV放送とCD音源でソリスト違いとなるのは混乱する…この先は推して測るべし。

A.とにもかくにも、コンサートTV放送だ!コンサートCD化だ!と当たり前の恩恵のように思ったらいけないですね。そこへたどり着くまでにどれほどの検討と葛藤と苦悩があるのか。考えめぐらせながら改心しながら。

 

Q.ほかにもリリースしない理由はあるのでは?

A.コンサート収録がうまくいかなかった。コンサートパフォーマンスに納得していない。組曲化の構成やオーケストレーションに納得していない。レコーディングスケジュールが組めない。……いろいろあるかもしれません。ほかにも到底考えが及ばないこともきっとある。でも、ここに書いた4つの理由はないかなと思っています。なぜ?と聞かれても困ってしまいます、なんとなく、いや直感です。

 

Q.これからの交響組曲化シリーズは?

A.『交響組曲 天空の城ラピュタ』はオーケストラ編成でした。そして注目すべきは『交響組曲 千と千尋の神隠し』もすべてオーケストラによるものでした。この音楽構成の意味するところは大きいと思っています。「あの夏へ」「ふたたび」ヴォーカル版も人気高いなか、武道館・世界ツアーでも展開中のジブリコンサート版とは線を引いた。開催地の多彩なヴォーカル・コラボレーションで華やかになる歌曲たちと、完全版として君臨することを目論む交響組曲化プロジェクト。今後『交響組曲 もののけ姫』が編成を変えて再演されるのか、また『崖の上のポニョ』(海のおかあさん/vo)や『となりのトトロ』といった作品がどんな交響組曲になるのか、ひとつの指標になると思っています。

 

Q.じゃあ結局どうしろと言いたいんですか?

A.『交響組曲 もののけ姫』(2016年版)をLive盤としてリリースしてほしい。そこに説明はいらない。ファンなら誰しも聴きたい!また聴きたい!早く聴きたい!

A.『交響組曲 もののけ姫』(1998年版)のように全編オーケストラのみインストゥルメンタル版。この場合、「もののけ姫」でヴァイオリン(コンサートマスター)&ピアノ(久石譲)が聴けたり、「アシタカとサン」も久石譲ピアノがたっぷり聴ける。ジブリコンサート版と線を引いて、『交響組曲 千と千尋の神隠し』と同じようにふたつのバージョンを楽しむことができる。かつ、2016年版は「旅立ち」「コダマ達」も追加されている。早く聴きたい!

A.「もののけ姫」(vo)、「アシタカとサン」(vocal or chorus)版。映画『もののけ姫』の精神性や世界観を表現できる歌い手さんにめぐり逢えますように。それは日本人じゃなくてもいいかもしれませんね。「Stand Alone」(坂の上の雲)もサラ・ブライトマンさんが歌うからこそ先入観なく入ってくる歌声、イメージ広がる世界観になった強みもあります。

A.たとえば、世界ツアーのジブリコンサート。各開催地で多彩なソプラノ歌手やヴォーカリストが華をそえています。これがソリストを射止めるオーディションだったとしたら?!世界各国を巡るなかコラボレーションするなかで、この人だっ!という歌い手さんにめぐり逢えたら?!妄想もここまでくると…。内心、半分真面目に本気です。

A.多彩なヴォーカル版がCDになってもいいと思うんです。テーマを根底から覆すつもりはないです。言いたいのはベストヴォイスを聴く人に委ねてもいいんじゃないかということ。もし仮に主題歌や歌手の扱いがネックになっていたとして、それゆえリリースされないというのはあまりにももったいない。スタジオジブリ作品、宮崎駿監督作品という大きく揺るぎない世界観があるからこそ、聴き手を少し信じて委ねてくれるならうれしく思います。早く聴きたい!

 

Q.あなたの言ってることは本当に信憑性あるんですか?

A.わかりません。わかりませんが、全力考察しました。意外にその答えは。世界初演されたその時すでに布石を打たれていたのかもしれません。

 

本日世界初演される「Symphonic Suite PRINCESS MONONOKE」は、昨年初演された「Symphonic Poem NAUSICCÄ 2015」に続き、宮崎監督作品の音楽を交響組曲化していくプロジェクトの第2弾。楽曲構成は次の通り。まず、アシタカが登場するオープニング場面の「アシタカせっ記」。アシタカがタタリ神と死闘を繰り広げる場面の「TA・TA・RI・GAMI」。大カモシカのヤックルに跨ったアシタカが、エミシの村から西の地に向かう場面の「旅立ち」(ここで「もののけ姫」のメロディーが初めて登場する)。負傷した村人を背負って森の中を進むアシタカが、森の精霊コダマと遭遇する場面の「コダマ達」。傷ついたアシタカを森のシシ神に癒やしてもらうため、サンがアシタカをシシ神のもとに連れて行く場面の「シシ神の森」。サンの介抱によって体力を回復したアシタカが、人間と森の共生をめぐり、犬神のモロの君と諍う場面で流れる主題歌「もののけ姫」(本日は、ソプラノ歌手によって歌われる)。エボシ御前とサンの争いを仲裁したアシタカが、自ら負った瀕死の重症を顧みず、サンを背負って森に向かう場面の「レクイエム」。そして、久石のピアノ・ソロが登場する「アシタカとサン」は、シシ神の消えた森に緑がよみがえり、アシタカとサンが互いの世界で生きていくことを誓い合うラストの音楽である。

(楽曲解説:前島秀国 ~「久石譲&ワールド・ドリーム・オーケストラ2016」コンサート・パンフレットより)

 

それではまた。

 

 

2020.7 on Twitter (memo)

「交響組曲 もののけ姫」はナウシカと同じく合唱あり版なし版どちらでも成立するのがいいと思う!

アシタカせっ記
TA・TA・RI・GAMI(合唱あり/なし)
旅立ち
コダマ達
シシ神の森
もののけ姫(ヴァイオリン&ピアノからオケ+合唱あり/なし)
レクイエム
アシタカとサン(合唱あり/なし)

 

2016年版
オーケストラとソプラノ独唱
a) アシタカせっ記
b) TA・TA・RI・GAMI
c) 旅立ち
d) コダマ達
e) シシ神の森
f) もののけ姫 (vo)
g) レクイエム
h) アシタカとサン (vo)

 

 

 

reverb.
『交響組曲 千と千尋の神隠し』は今年TV放送あるのかなあ、情報を待ちわびる日々。ちっとも改心していない。(^^;) ☆彡

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

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Info. 2018/10/12 [WEB&動画] 久石譲 音楽の本質を探し求める旅(GQ JAPAN×ボーム&メルシエタイアップ企画)出演

GQ JAPAN×ボーム&メルシエのタイアップ企画に久石が出演いたしました。

伝統の価値を深く理解しながらも、進化・変化を恐れない革新性
いかなる妥協もせず、最高を求める姿勢
真摯なモノづくり
時計づくりの哲学と作曲家久石譲が共鳴しあったコラボレーションとなりました。
ぜひご覧ください。 “Info. 2018/10/12 [WEB&動画] 久石譲 音楽の本質を探し求める旅(GQ JAPAN×ボーム&メルシエタイアップ企画)出演” の続きを読む

Info. 2018/10/11 「ミュージック・フューチャー Vol.5」久石譲 インタビュー動画公開

「Joe Hisaishi presents MUSIC FUTURE VOL.5」より
第2弾、久石譲のインタビュー動画を久石譲YouTube公式チャンネルにアップいたしました。

久石譲のインタビューはこちら>>>
https://youtu.be/MJb4qlhcxaI

(久石譲オフィシャルサイト より) “Info. 2018/10/11 「ミュージック・フューチャー Vol.5」久石譲 インタビュー動画公開” の続きを読む

Info. 2018/11/03 「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」「となりのトトロ」関連作9タイトル アナログ盤発売 【10/10 Update!!】

Posted on 2018/08/22

2018年11月3日「レコードの日」リリースタイトル発表!

アナログレコードの魅力を1人でも多くの方に知ってほしいという思いから、2015年にスタートした「レコードの日」。4年目となる今年も11月3日に「レコードの日」開催が決定。注目のエントリータイトル第1弾(115タイトル)が発表されました。 “Info. 2018/11/03 「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」「となりのトトロ」関連作9タイトル アナログ盤発売 【10/10 Update!!】” の続きを読む

Blog. 「pen ペン 2011年7月15日号 No.294」創造の現場。久石譲インタビュー内容

Posted on 2018/10/10

雑誌「pen 2011年7月15日号 No.294」に掲載された久石譲インタビューです。

世界で活躍する創造者たちがクリエーションを生みだす場所を写真家ベンジャミン・リーが写しだす、という好評連載コーナー「創造の現場。」に久石譲が登場した回です。2ページ見開きで1ページ分を大きな写真が掲載されています。取材に人が入るのは初めてというプライベートスタジオの写真です。

 

 

創造の現場。 36 久石譲 音楽家

音楽の根本を考える、ここは「世界の中心」。

「ここは、自分にとっては『世界の中心』みたいなところですね」と久石譲はやわらかな声で言った。自宅にあるプライベートスタジオでのことだ。

「音符やリズムの実践は、昼間、オフィスにあるスタジオで行います。でも、根本的なアイデアはここで生まれますね。とても重要な場所です」

深夜に自宅に帰ると、明け方までをこのスタジオで過ごす。

「ここでは、気になるCDを聴いたり、本や資料を読んだり。中心となるのは、昼間に実践している音楽の根本を考えることと、クラシックの勉強です」

自身の生き方を「螺旋を描くように進んできた」という。現代音楽家としてスタートを切り、映画音楽に数多く関わり、2年前からクラシック音楽を活動の芯にしている。コンサートではベートーヴェンやマーラーの曲を指揮し、自身の新作交響曲も披露する。長く親しまれてきたクラシックと、いま生まれたばかりの曲を同じホールに響かせるのは、大きな挑戦だ。

「いまやっておかなければ、という気がするんです。短い作品は2000以上作曲してきたので、そろそろ、全体でものを言うもの(交響曲)を書いてもいいのでは、と。それに、クラシックにもコンテンポラリーな視点を入れたほうがいいと思う。どんなにいい時代の曲でも、新しい視点で前の観念を壊し続けないと、生き続けないから」

自分にプレッシャーをかけ、全身全霊を捧げて音楽を追究する。3月11日を経て、思いはさらに強くなった。

「音楽はひとつの救いになるけれど、我々音楽家はそれに加えてもっと強く、音楽がなぜ必要なのか、自分で回答を出していく仕事をしなければ」

音楽はいつでも、いまを生きる人のためにある。音楽の潮流がこれからもみずみずしく強くあるために、そして螺旋状に続く道をその先へ進めるために、「世界の中心」がある。

 

写真横に掲載されたコメント)
プライベートスタジオ。オフィスのスタジオと同じ機材を揃えた。オフィスは実践、ここは思考。ふたつの場所を行き来し、気分を切り替える。取材のために人が入るのは初めて。

(pen ペン 2011年7月15日号 No.294 より)

 

 

この4年間におよぶ連載は2014年「創造の現場。」書籍化されています。紙面構成は同じです。各界著名人、約100人のクリエイターたちの言葉と象徴的写真を収めた本です。

 

 

 

 

Blog. 「SWITCH スイッチ JULY 2001 Vol.19 No.16」 久石譲インタビュー内容

Posted on 2018/10/09

雑誌「SWITCH スイッチ JULY 2001 Vol.19 No.16」に掲載された久石譲インタビューです。『JOE HISAISHI meets KITANO films』リリースに合わせて組まれた取材は、北野武監督の映像について、手がけた音楽について、あらためてたっぷりと語られた貴重な内容です。

 

 

久石譲

映画音楽の重要人物が語る
創作の哲学、北野監督、
そして新たな挑戦について

久石譲の名を聞いて読者が思い出すものが、幾つかの映画か監督名かそれとも彼自身のリーダーアルバムかはともかく、その才と手腕から、彼が今日の日本映画界において重要人物である点については異論が無かろう。その代表的な仕事の一つに挙げられるのが、北野武監督作品への楽曲提供である。この度リリースされる『JOE HISAISHI meets KITANO films』は両者の初顔合わせであった『あの夏、いちばん静かな海』から最新作『BROTHER』までの楽曲から、久石のセレクトによる16曲によって構成された、北野映画のサントラベストである。しかし彼にとってこの一枚は、それ以上の、そしてそれ以外の意味を持った仕上がりであると、穏やかな口調で語り始める。

「当初からベストであっても決して回顧ではない、いわば現在進行中のプランの途中報告みたいなものにしたいとは考えていた。例えばアプローチの変化としては『BROTHER』がそう。ここで『あの夏~』からのアプローチを敢えて変えてみた。もし、今後も北野監督と仕事ができるのなら、ここで一度違うアプローチにした方が、世界観が拡がると考えたから。日米合作で、ロケーションもロスだったりと、それまでと違う環境という点も、変化という点では適していたし。それで映画のドライな世界観を表現するためにブラスを多用した。これまでも弦とか管は入っていましたが、割合ピアノ中心だったからね。

だから本来なら今回のアルバムの曲順も『あの夏~』から映画の公開順に並べれば、こうした変化が見え易くて良いのだけど、どうしても記録としての意味合いが強く出すぎてしまう。それは避けたかったので最近CFで流れた『Summer』を最初に持ってきて、次に最新作である『BROTHER』を。その後からを公開順にしてみた。

編集し終えて嬉しい発見だったのは『あの夏~』から『BROTHER』まで、実に各々の底辺が共通性を持っていた、ということ。頭では常に北野監督の映画のために音楽を提供することを第一に作ってきたつもりだったけれど、気がつけば自分のソロアルバムを作るような気持ちで携わってきたんだ、という明快な結論に達した。時には、ソロから一歩踏み出した表現もしていたりするこの一枚には、僕自身のここ数年の姿勢が見事に反映されていた。そしてこの一、二年の中で、僕自身にとっても、まさにベストな一枚と言える仕上がりだと思う」

バイオリンを習い始めた五歳の頃から、同じく両親の薦めでジャンルを問わず年間約三〇〇本、多忙な現在も週七~八本の映画鑑賞を欠かさないという久石。そんな無類の映画好きの視点から北野監督、その作品に対しての印象、実作業でのコミュニケーションまでを語ってもらおう。

「省略の人、だね。引き算の映像美。従来の映画の概念にとらわれずに独自の世界観を展開するのは並大抵ではない。北野監督はそういう登場をして見せて、今もそう在り続けている。一〇秒間のシーンだけで彼の作品だと分かる、というのは、やはり尊敬に値する。

北野監督とは、やりとりとか詳しく話したりすることなんてほとんどない。ヒントのような一言、二言だけ。『あの夏、いちばん静かな海』の時は、『シンプルなメロディーの繰り返しが好きなんです』って。『HANA-BI』では『暴力シーンが多いんだけど音は綺麗なのがほしいな』で、『菊次郎の夏』は『さわやかなのがいいな』とか毎回そんな感じ。『BROTHER』に至っては『おまかせ』でしたから。他にその時手掛けている作品の事で、顔を合わせる際に二人で話すことといえば、決まって次回作のアイデア。こんな具合で互いのスタンスが明確に保たれている。とてもシビアだけど、だからこそ信頼感や、やり甲斐も非常に大きいと言える。

北野作品はどれも好きだけど、手掛けた音楽で一番好きなのは『Sonatine』。この作品から確信犯としてミニマル・ミュージックを前面に押し出した。僕自身、当時ロンドンに住み始めたこともあってハイテンションだったので、実験的要素も結構盛り込んでいる。録音したドラムのフレーズを逆回転させて、楽曲の後ろ全体にうっすらと敷いてみたり。映像としてもあの微熱に犯されながら進行していくようなクールさが好きだな」

ここで”ミニマル・ミュージック”という単語が登場したが、実は彼には、現在の自身のスタイルに大きな影響を及ぼした一枚のアルバムがある。テリー・ライリーの『A Rainbow In Curved Air』である。

「このアルバムでミニマル・ミュージックに出会い、衝撃を受けた。約二〇年間培った前衛クラシックの方法論を全て捨て、ミニマル・ミュージックを手掛けてみたいと思った。実際に精神と肉体を全て改造するために、約三年を費やしてしまったけどね」

こうした転機を経て、今日までに久石は、既知の通り北野以外にも宮崎駿や大林宣彦等、多くの監督の作品へと音楽を提供している。多種多様な映画音楽に対して、何か特定のルールや概念を抱いて、彼はその創作に携わっているのだろうか。

「言ってしまえば、映画音楽っていうのはどんな音楽でも成り立ってしまう。アクションモノならハードロックっていうストレートな発想でも別に構わない。でも実はそこが一番の罠であり、楽しさでもある。

自分の中で映画音楽に関するルールとかは、これといっては設けてないけど、敢えて言えば映像の従属物のような音楽には興味が無い。つまり走ったら速い、泣いたら悲しいとうのは作りたくない。それだったら映像と喧嘩するくらいで丁度いいっていう感じかな。あとは、仮に映画がトータルで二時間の作品なら、何も音楽がつかないシーンも含めて展開を意識する。一つのシンフォニーを書くのと同じ気持ちで考え、最終的な映画のテーマ、つまり”何を残すことができるか”を浮き立たせる。もっと言えば、監督、脚本、役者、照明他スタッフ全てが同じ方向を向いて、もしくは向いたフリをして自己の表現を確立させる。その過程で生まれてくるダイナミズムが映画であり、だからこそあらゆる物を包括したメディアと成り得ている。

僕が最も大切だと捉えていることは、”映像から読みとる”という作業。映画音楽の制作は、どうしても”はじめに映像ありき”という当たり前の前提を見失いがちになる。映画監督は自らのメッセージを作品に込めている。それをどう読み解いて音楽を提供するか、そこからが僕の領分なんだ。

結局、音楽というのは抽象的だから、ああだこうだとやり取りしてもあまり意味がないし『ここがこうでね』って他者とディスカッションしづらい。特に日本人って映画音楽って印象のみで批評をする傾向が強い。比べるフランスは正反対。『あの○○のシーンであの音楽を付けたのは、何を狙ったんだ?』って驚く程細かく突っ込んでくる」

宮崎監督の最新作「千と千尋の神隠し」、仏映画「Le Petit Poucet」と音楽を手掛けた新作の公開が続き、一〇月下旬からのオーケストラとの全国ツアーを経て、一一月には韓国でのコンサートも控えている。

「そろそろピアノ弾きに戻るトレーニングもしなくてはならない。弾き方にクセがあるせいかもしれないけど、一度のステージで二~三キロの体重が落ちる。自分にとっては結構な重労働というか、格闘技だから、身体を作っておかないともたないんだ」

そして久石自身もついに監督業に挑戦。第一作『Quartet』(今秋公開)では音楽は勿論、脚本までも自ら手掛けたという熱の入れよう。語り口も自然と弾んでくる。

「撮影は去年に終えていてね。劇中、袴田(吉彦)君扮する主人公の台詞で『音楽ってそれほどのものなんですか?』っていうのがある。この一言を音楽家である僕が言わせるのは、自分では結構強烈な挑戦だった。多分この一言を撮りたくて映画を作ったんだなと、今は思っている。”音楽を作る”ことと”生きる”ことの関係性を何らかの形にしてみたかったのではないかな。音楽は自分では未だ模索の最中だし『Quartet』も、その明確な答えとは成り得ていないけれど、リアリティという点ではなかなかの仕上がりだよ」

実はすでに二作目の撮影済み。デジタルカムコーダーで撮った三〇分の短編映画『4 MOVEMENT』は現在編集中。完成すれば、日本初フルデジタルムービーの登場である。まさしく精力的な活動の久石であるが、目下その才と手腕を持ってしても解決できない、一つの悩みを抱えているらしい。

「二作目の方が公開が早くなってしまってね(福島での『うつくしま未来博』にて七月上映)。こればかりはどうにもならなくて」

充実した表情の後に浮かべた、仕方なさそうな苦笑が印象的であった。

(SWITCH スイッチ JULY 2001 Vol.19 No.16 より)

 

 

この取材は北野作品の映画音楽が中心となっています。ちょうど『JOE HISAISHI meets KITANO films』のリリース時期だったこともあり、本誌には貴重な広告ページもありました。発売当時、初回特典・予約特典として同デザイン特大ポスターを入手できた久石ファンもいるかもしれませんね。

 

 

 

 

また制作スタジオでの写真も印象的でした。

 

 

 

 

 

Blog. 「秋元康大全 97%」(SWITCH・2000)秋元康×久石譲 対談内容

Posted on 2018/10/07

SWITCH SPECIAL EDITION「秋元康大全 97%」大型本(2000)に収載された秋元康と久石譲による対談です。

2000年公開映画『川の流れのように』(監督:秋元康/音楽:久石譲)の話題を中心に多岐にわたります。作家性、クリエイティブ、エンターテインメント、時代を牽引しつづける二人のプロフェッショナルが語り合う内容は、どこかセンテンスを選んでも選んでも溢れてしまうほど。A4サイズ大型本(計8ページ/文面5ページ)にじっしり詰め込まれた言葉たち。超ロング対談のため抜粋してご紹介します。ぜひゆっくりかみしめるように読んでほしい内容です。

 

 

一番向こうのドア

ある日ラジオから流れてくる音楽を聴いて、ふいに脳裏に映像が甦ったことはないだろうか。映画音楽とはそういう力を持つものだ。映像をより象徴的に印象づけるものとして、映像と同じ比重で絡み合いながら存在すべきもの。

久石譲は宮崎駿、北野武など日本が誇る映画監督たちに才能を乞われ、新しくも懐かしい不思議な音楽を提示しつづけてきた第一人者である。常にその旋律は、記憶のどこかに眠っていた情景や匂いや手触りを喚起させてくれる。最新作『川の流れのように』で念願の彼を音楽監督として迎えた秋元康が繙く、クリエイターの”ドア”の存在について。

 

久石:
今日は映画『川の流れのように』の反省会ですか?(笑)

秋元:
いや、次回作の打ち合わせですよ。今回久石さんには音楽監督として参加していただいたわけですが、これは久石さんのキャリア的にも珍しい試みだったんですよね。というのも、本来久石さんは脚本を読み、映像を観て、まったくゼロから音楽を作りあげていく方法をとられているのに、今回は「川の流れのように」という美空ひばりさんの曲があった。そういうのは今までやったことがないと伺って、だからみんなでがんじがらめにしようと思っていました。

久石:
以前、秋元さんと食事をしながら、この『川の流れのように』という映画を一緒にやらないかと言われた時に、一番大変だなと思ったのは、『川の流れのように』というタイトルだと、一般の人に美空ひばりさんの伝記映画だと思われる可能性があるのではないかという危惧でした。この「川の流れのように」という日本で一番愛されてる曲の根底に存在する世界と、森光子さんたちが演じる老人の話を重層的ないい形でドッキングさせるということ、それが今回音楽監督としての最大のテーマだったわけです。一歩間違えれば深い内容を持った映画が歌謡映画に観られてしまう危険性がありましたね。それはものすごく損なことなので、どうバランスを取るのかというのが一番の課題でした。

秋元:
「川の流れのように」はひばりさんのはからずも最後の曲になってしまったことで、ある意味一人歩きしている部分があると思うんです。だから最初に久石さんに依頼しておきながらも、それをどう加工するのかというのはすごく難しいだろうなと思っていたんですね。

久石:
結局その会食の後、帰りの車の中ですぐ思いついたんですけどね。まず僕は、曲をただアレンジしたものをエンディングに流すということに大きな抵抗があった。ならば、この映画の世界観を湛えたストーリーの終盤に、美空ひばりさんの歌が乗ればいいんだと思ったんです。となると、今はマルチレコーディングの時代だから、トラックから美空ひばりさんのヴォーカルチャンネルだけを抜いて、映画の世界と同じサウンドに乗せればいい。ナット・キング・コールの「アンフォゲッタブル」に、ナタリー・コールがデュエットした時みたいにね。そこからヒントを得て、10年前にお亡くなりになった美空ひばりさんと自分が競演するかのような、そういう曲を作ることができれば大丈夫なんじゃないかと思ったのです。その時に全体像が見えたんですね。

秋元:
別れて30分でプロデューサーに電話をいただいて、一言「見えた」って。

久石:
そう、速かったですね。

秋元:
久石さんとの一番最初のお仕事は純名里沙さんの曲でしたよね。次に西田ひかるさんのアルバムの構想を練っていた時に、今度こんな映画をやりたいんだっておっしゃっていて。実は一番初めにお仕事する予定だったのは『魔女の宅急便』だったんですよ。すごくやりたかったんですが、僕がその時海外に行っていて、どうにもスケジュールが合わなくてとても残念だった。帰ってきて次はぜひということで、二回目が純名里沙さんだったわけです。

久石:
その間に長野のパラリンピックのプロデュースをやらせていただいてたのですが、そこでトリビュートアルバムを作りたくて歌い手さんを探していた時に、猿岩石さんを紹介していただいた。お忙しいのにあっという間にスケジュールを取っていただいて。秋元さんとはいろいろといいお仕事をさせていただいています。

秋元:
その時に、「次回、僕が監督作品をやる時は絶対久石さんにやってほしい」とお願いした。当初はラブストーリー。『ピアノ・レッスン』みたいな作品を構想していたんですが、最終的には全然違っちゃいましたね。

 

~中略~

 

久石:
僕は4歳からヴァイオリンを弾いていたんですけど、同じ頃、親父が高校の化学の先生だったんです。うちの近所に映画館が二つあって、両方とも当時は女子高の生徒は入っちゃいけないということで、先生が巡回に行くわけですよ。僕は幼稚園だったんですけど、親父にしょっちゅう連れていかれて、年間300本ぐらい観てました。3本立てなので、週に6本、月に24本。4年間ぐらいそれが続きました。その時の体験が大きかった。それこそ恋愛映画からアクション映画まで、洋画邦画問わずに観てましたから。それに当時は今ほどではないとしても、映画館は一番大きくていい音が聴こえる場所でしたからね。その暗いところで座っているというのが僕の重要な原体験な気がします。それからずっと映画が好きですね。音楽も映画もすごく好きで、両方一遍にやれるのが映画音楽ですから。

秋元:
久石さんを見ててプロだなと思うのは、音のこぼし方ですね。カットが変わった時の音のこぼし方。普通は、一つのシーンで音楽を入れるとすると、そのシーンとともに音楽は終わるじゃないですか。例えば次は外に出て車に乗るシーンだとしたら、そこには別の音楽が、あるいは車の騒音を入れるとか。でも久石さんはそこへ微妙に前の音楽を落とす。そうすることによって、絵がなめらかになるし、言葉は終わっているんだけど音楽が続いているから余韻が残るんですよね。またはせつなさが残ったり。僕は映画監督志望や脚本家志望の人が持ち込んでくるシノプスをよく読むんですが、あまり驚かないんですよ。自分が作る立場にあるから、「僕だったらこうするな」とか考えてしまう。だから僕は久石さんから映画のアイデアを聞かされた時にとても衝撃を受けました。というのも久石さんは音楽が主軸の人じゃないですか。だから『巴里のアメリカ人』とか、日本だったら『七変化狸御殿』みたいなミュージカルものか、イギリスものなら『ブラス!』のような作品をお作りになるのかと思っていたら、実はエンタテインメント性の高いアイデアだったのでびっくりしました。

久石:
映画というのは一人の作家の想いで作るものであると同時に、人に観てもらわなければいけないというのが根底にありますよね。だからある程度の作家性は保ちたいけれど、エンタテインメントというフィールドは外れられない。人に観てもらって楽しんでもらうというのが基本。でもディズニー映画みたいに、終わって「ああ、楽しかった」と外に出るけど、心に何も残っていないというのはやりたくない。なにか一つでもプラスになるものがないとダメだと思うんです。音楽にしてもそうですけど、僕は”芸術家”ではないですから。町中の音楽やってるわけですから。

秋元:
世間は完全に芸術家だと見てますけどね。

久石:
やっぱり人に楽しんでもらうというのが基本にある。自分が観る映画にしてもそうですね。例えば昔のATG系の作品も好きなんだけど、敷居をまず高くして、観る人だけ観なさいという雰囲気は好きじゃないですね。

秋元:
以前「これ映画になるよね」と久石さんが話してくださった話でおもしろかったのは、オーケストラってみんな一緒に全国を回るじゃないですか。それでギャラも一緒なんですけど、シンバルの人は1カ所しか打つところがないんですよね。なのに、大抵間違えるという(笑)。

久石:
そうなんですよ。あの誰でも知ってるドヴォルザークの「新世界」、あの四楽章に1カ所だけ合わせシンバルがあるんです。でもギャラも、費用もみんな一緒なんですね。それでシンバルの人は30分ぐらいひたすら待ってるわけです。「あ、一楽章終わった」「二楽章終わった」「三楽章終わった」「そろそろ出番だ」と腕まくり始めて「さあ叩くぞ」なんて思ってるうちに、過ぎちゃうんですよ(笑)。結局一回も叩かずに終わっちゃう。それをやっちゃったら大変なんです。「おまえ、何やってたんだよ!」とかみんなに責められて。

秋元:
それ、すごいおもしろいですよね。

 

~中略~

 

久石:
秋元さんにはいっぱい切口がありますよね。作詞もそうですし、映画もテレビ番組も、次から次へとこの世に出している。世間から見るとすごいマルチで、こんなにいろんな仕事して大変じゃないかと思っているでしょう。でも実は、ご本人は意外と最初のアイデアとソースを考えるだけで、そんなにいろんなことに手を延ばして収拾つかなくなっているという感じではないんですよね。

秋元:
そう、料理と同じで、出される方はイタリアンからフレンチからベトナム料理から変わったものがどんどん出てくるなあと思うけど、こちらは素材を見て、「これだったらフレンチがいいな」とか「和食にしてみようか」とか考える。要するに料理法なんですね。それが映画だったり、テレビだったりするだけ。あまり自分の中ではいろんなものに手を出してるつもりはないんです。それを素材として最大限生かすためにやる。例えば森繁久彌さんっていいなあと思うじゃないですか。映画もいいけど、舞台で『屋根の上のバイオリン弾き』に続くものがあればおもしろいだろうなと考えますよ。でも久石さんも守備範囲が広いというか、年末のコンサートを見せてもらいましたけど、やりたいことがいっぱいあるみたいですね。例えば映画音楽だけやろうとは思わないでしょう?

久石:
思わないですね。僕は映画音楽が三本続くと嫌になるんですよ。なぜかというと、あくまで映画は監督のものだと思うんです。自分が考える世界と監督の世界を、こう台本を挟んでやりあうわけですね。すると自分一人でできる世界じゃないので、監督の要求に応えていくうちに思わぬ自分が出たりするんです。あくまで他の人との関わり合いで自分の表現をしなくてはいけない。でもそうすると意外な面も出てくるし、もちろん苦しい部分もありますけど、確かにすごくおもしろい。ただし、そのもう片方にソロアルバムやコンサートがある。これは自分がすべてやるわけなんですけど、絶えずこればっかりやるとそれはそれで辛いんですよ。やっぱりどんどんダメになっていく。だから一番いいのは映画のようにいろんな人と一緒に仕事して、こっちはこっちで自分のことをする。その幅を行ったり来たりすることでバランスが取れるんですね。例えば秋元監督と『川の流れのように』という映画をやる。これは確かにいい話で、老人たちももっと元気が出る。そこでいい話だからいい音楽を書こうと普通は思いますよね。いいメロディーを書いて心温まる音楽を作ろうと。でもそうすると監督の視線と一緒になりすぎてしまって、単になぞるだけじゃないかと考えてしまうんです。例えば映画の冒頭のシーン、主人公が伊豆に何十年ぶりかに帰ってきた。そこに、いかにも帰ってきましたという美しくせつない音楽をつけてしまうと、全体のトーンがベタベタになってしまうんじゃないかと思うんです。台本を読んだ時から考えていたんですが、ブルガリアン・ヴォイスを使ってみたらどうだろうかというアイデアが浮かんだ。いったいどこの国の音楽だろうと観た人が不思議に思うような。ただそのまま使うと、よくありがちな奇を衒ったものになってしまう。それでオーケストラとブルガリアン・ヴォイスをミックスした。ある種のミスマッチなものは絶対ダイナミックに広がっていくし、もう一カ所ポイントになるものを使えば全体の音楽的な筋は通るんじゃないかと思った。まあ秋元さんとやらせてもらってるからこそ、そういうアイデアが出てくるんですけどね。

秋元:
奇を衒ってしまう部分と、だからといってコンサバティブにいけばいいわけじゃなくて、そのバランスが難しいんですよね。確かにあの音楽は見事でしたね。映画というのは監督のものだとは思うんですけど、結局監督が役者とホンと音楽と一体にならないと絶対ダメなんですよね。

久石:
映画が成立してる最終的な意志みたいな部分は監督のものなんだけど、映画がなぜこんなに楽しいかというと、本当に音楽から美術からいろんなもの、いろんな人の力が総合されるからなんですよね。最近、日本の映画はなぜこんなにつまらないんだろうと思うんですが、根底に日本の映画人って古くなってるんじゃないか。現場はそれでもいい。きちんと対応できる技術さえあれば。要は脚本なり監督なりプロデューサーなり、ヘッドになる部分がもっと真剣に悩みぬいたものを作っていかないと。ハリウッドみたいに車を壊したり家を爆発させたりというお金をかけることは日本ではできないわけだから。使えるのはアイデア、要するにヘッドワークですね。それが中途半端だから、どうしても弱い。

秋元:
僕らはよくいろんな方とコラボレーションをするじゃないですか。ドラマでも映画でも悲しいメロディーというと、普通の音楽監督というのは聴いただけで悲しい曲を書いてきてくれる。でも驚かないんですよ。脚本でも音楽監督でも役者でも、やっぱり一緒にやった人が自分が投げたアイデア以上ものもを返してくれて、お互い驚きあいながら作っていかないとダメなんですよね。今回はそこが非常におもしろかった。日活の会議室で初めてブルガリアン・ヴォイスを聴いた日、久石さんが曲を流す前に「いっちゃっていいですか?」と訊ねられて、曲を聴いたら本当にいっちゃってた(笑)。すごくいいなあと思った。作詞でもそうなんですけど、どこまで奇を衒っていいかを判断するのは難しいんですよ。ただ奇を衒ってるだけだと単なる企画もの、イロモノになっちゃう。だから微妙に奇を衒っている新しさ、そこが一番難しいんですよね。

久石:
単に奇を衒うというのはできるんだけど、それがどう主題に関わってくるかですね。それができたのはやはり秋元さんに対する信頼です。受け止めてもらえるというのがあったので。こちらが窮屈にならずに持っているアイデアをぶつけられたんです。

秋元:
いや、それはプロの技ですよ。ブルガリアン・ヴォイスから嵐のシーンのオーケストレーションまで幅が広い。ブルガリアン・ヴォイスだけのアイデアを出せる人はブルガリアン・ヴォイスのテイストで最後までいっちゃうんですね。そうすると今度は映像と音楽が分離してしまう。それにしてもラッシュの音がない時に比べて数百倍良かったです。

久石:
日本映画としては本当にお金を出してもらったんですよ。ホールでオーケストラをきっちり録れるなんてまずないですから。これだけの規模でできたからこそなんです。

秋元:
オーケストラというと、それだけの人数と楽器を集めて、ホールまで借りるのは、すごくお金がかかる。だから大抵みんな打ち込みでやるんですけど、久石さんがホールでモニータに映像を流して同時に録ろうとおっしゃった。すごく贅沢ですよ。アメリカではそういうシステムが整っているけど、日本ではなかなかできない。

久石:
設備が整ったところで録るわけではないので、レコーディング機材を全部運び込まなくてはいけなくて、ものすごく大変なんです。しかもいろいろトラブルがあるし。

秋元:
我々も、いつもああいうことができると思ってはいけないんですね。

久石:
でもこの先デジタルになったら、もっとああいうやり方の重要性が出てきますよ。ホールのアンビエントがそのまま再現されるから、とても奥行きが深くなる。

秋元:
あと、公会堂のシーンなんて品があっていいですよね。音楽というのは何をもって品がいいというのかよくわからないけど、とにかく品が必要だと思う。

久石:
そうですね。同じマイナーを書いてもゴールデン街が浮かんでしまうマイナーの書き方になっちゃう人と、そうじゃない人といるんですよ。日本の映画はどうしてもやっぱりゴールデン街が浮かんでしまう。

秋元:
僕も偉そうなこと言えませんけど、なんて言うか、粘りだと思うんですよ。僕らのエンタテインメントの世界というのは、いつも一番近いところのドアが開いているんです。ここから出ればすごく楽。脚本作るのも映画作るのも、一番手前のドアはね。でもそのドアを選ぶと、大抵予定調和に陥ってしまう。例えば公会堂のシーンなら普通はピンクパンサーみたいな音楽を選ぶと思う。でも久石さんが一番向こうのドアを開けてくださった。何でもそうなんですけど、手前のドアではなく一番向こうのドアを開ける、そこがふんばりどころですよね。

久石:
苦しいですよね。でも、ものを作る時は必ずあることですよね。音楽をやっていても、毎回リセットしてゼロから作ってるつもりなんですけど、やはり覚え慣れた方法論というのがいくつかある。それだと大量に作れるのがわかるんですけど、ゼロにしてまだ開けたことのないドアを開けようとする、そこまでが大変ですよね。一番近いドアを開け続けるとやっぱり枯渇していくし、悪いほうへ向かっちゃいますね。昔ジョン・ウィリアムズがやった『スターウォーズ』と『スーパーマン』と『E.T.』は全部同じメロディーじゃないかと言われてたのね。ほとんどの人はそう言った。でも僕はその時擁護したんです。なぜかと言うと、ジョン・ウィリアムズは自分の音楽を突き詰めて、突き詰めて、その結果自分の音楽はこうだと言い切ったんです。自分をきちんと突き詰めていない人間だと、ジャズ風、クラシック風、ロック風と簡単に書き分けることができる。それはオリジナリティがないということです。でも最後まで自分を突き詰めた人は、似ていてもいいんです。そうしないと、彼も音楽家としてのアイデンティティがなくなってしまう。彼は自分の曲がどれも似ているというのを誰よりもよく知っているはずだし、でもそうせざるを得なかったというところに作家性を感じる。毎回違うことをやろうとした結果、同じような音が生まれたとしても、それは次に発展することだからオーケーなんだと思う。

 

~中略~

 

久石:
そうですよね。先週もそういうことがありましたね。テレビドラマでバジェットも小さいし、でもたまにはテレビもやってみようかなと思って曲作りを始めたんです。でも「今日は3曲以内に収めよう」とかいろいろ考えていても、スタジオ入っちゃうとダメなんですよね。いつの間にか真剣になっちゃって、3曲どころか結局28曲も作ってしまいました(笑)。やっぱりどんなものでも監督さんとかスタッフの方々が真剣にやっているのが見えると、自分も発奮するというか、いくところまでいかないと終わらないですね。

秋元:
僕もそうですよ。「これはもう30分で書け、30分で書いて次の楽しいこと考えよう」といって本当に30分で書くんですけど、終わって「やっぱりなあ」と思うと、その後結局2時間ぐらいかけちゃうんですよ。だったら最初からそうすればいいんだけど(笑)。

久石:
ものを作るのってそうですよね。全力を出し切ると「ああ、勿体ないな」なんて一瞬思うんだけど、本当は勿体なくないんですよ。やっぱりいいものができた時は嬉しいですからね。

 

~中略~

 

秋元:
そういうことを考えるのが好きなんですよ。今回の映画もプロの映画監督だったら最後の森光子さんが歌う「川の流れのように」のところはフルコーラスじゃなくてワンハーフにしますよね。実際、みんなに反対された。でも異業種監督としてやるんだったら、あれはやらないでしょうということをやらないと、ダメだと思うんですよ。だから、今度久石さんが映画監督をする時は普通はやらないようなことを期待してます。

久石:
僕も普通に考えて、森さんがワンコーラス歌ってそこから美空ひばりさんの方へ乗り換えていくのだろうなと想像していました。秋元さんがツーハーフ粘られたということを聞いて、それならいかに聴きやすくするかを考えるわけですけど、それがなかなかできなかったんですよ。森光子さんの歌に弦楽器を入れてだんだん盛り上げていこうかとか。

秋元:
僕はまるで音がないところにツーハーフでもいいんじゃないかと思ってたんだけど、久石さんが音楽を作ってくださって、上手くこぼれているじゃないですか。それはそれですごく良かった。

久石:
ギリギリのところでね。ドーンと来るところは下手にデコレーションしないで、ストレートに入口だけ弦を入れてちょっとこぼして、あとは歌に委ねてしまって正解だったと思いますね。

秋元:
僕らは職人ではないわけですからね。職人だったらあそこはワンハーフにするんでしょうけど、僕らはどこかに作家性があって、だからやりたいことがどこかにないといけないと思うんです。もちろん観客を観ながらなんですが「これが訴えたい」というものを入れないと。例えば武さんの『菊次郎の夏』は井手らっきょさんとグレート義太夫さんがふざけてばかりいるんだけど、それは武さんの作家性なんですよね。それを編集してカットして、もっと子供をフィーチャリングして泣ける作品にするのなら、武さんである必要がなくなってくる。山田洋次さんだったらあれはやらないだろうし、それをあえて残すところが武さんらしくていいなと思うんですよね。

久石:
迷ってたのは、ラストまで「川の流れのように」の曲を出していないんですよね。途中で一回インストで流して前振りを作ったほうがいいのかとずっと考えていた。でも結局やめた理由は、曲が始まった瞬間に観客が「川の流れのように」だと気づいて予定調和になってしまうから。ラッシュを観た時、出さなくて良かったと思いました。その分、森光子さんのツーハーフ、そしてラストのひばりさんの歌が生きた。

秋元:
ホンの段階でも迷ったんですよ。普通は主人公の大好きな歌が「川の流れのように」だと、例えばラジオから流れてきて涙するとか、友達に会った時にカラオケで歌うとかね。つまり最後になぜあの歌が入るかという必然性を入れる。でも必然性を入れれば入れるほど強引に「川の流れのように」を説明していることになるので、それをばっさり切ってラストに突然入れた。映画というのは、どこを省略するかが一番重要なんですよね。タランティーノの『レザボア・ドッグス』でも銀行強盗のシーンをばっさり抜いてあるけど、それは「想像してください」ということじゃないですか。僕もそういうつもりだったんですけど、アンケートでは見事に「なぜあの歌が唐突に出てくるのかわからない」というのがいっぱいあって。普通は初めにふってあるんですよね。部屋にCDが置いてあって「この曲好きなんだろうな」と悟らせるとか。でも久石さんと同じ理由で、あの曲はあまりにも有名だから途中で触れない方がいいと思ったんですね。

久石:
潔いですね、予定調和を段取りに持ち込まなかったというのは。

秋元:
例えば、あんな妊婦を船で運んでいいのかとか、たかだかトンネル一つ潰れたというだけで道が通れなくなることなんて日本ではないじゃないかとか。でも、そういうのをものともせずに、そういうものなんだと言い切る。

久石:
次回が楽しみですね。次はラブストーリーですよね。『マンハッタン・キス』のような世界の次に『川の流れのように』がきて、次はどう裏切ってくれるのか、楽しみです。

秋元:
でも好きなことをやると当たらないんですよ。もし久石さんが今後ご自分で映画を作る時は、やっぱり当たる当たらないということを考えるんですか? まあ、でも久石さんならもうある種のステータスがあるから芸術作品に仕上がりそうですけど。

久石:
いや、それは考えますよ。一度撮ってみないことにはわかりませんが、大変でしょうね。頭で考えるのと現実は違いますし、甘くないだろうというのはわかっていますから。

秋元:
早く久石監督の映画を観たいですね。

(SWITCH SPECIAL EDITION「秋元康大全 97%」 より)

 

 

久石譲 『川の流れのように』

 

 

 

Blog. 「キネマ旬報 2000年7月上旬 夏の特別号 No.1311」 久石譲インタビュー内容

Posted on 2018/10/05

「キネマ旬報 2000年7月上旬 夏の特別号 No.1311」に掲載された久石譲インタビューです。オリジナルソロアルバム「Shoot The Violist」の話から、「BROTHER」(北野武監督)、「千と千尋の神隠し」(宮崎駿監督)の話まで。

特に映画音楽への久石譲の流儀、第一線を走り続ける立場と覚悟。強くストレートに語られた言葉たちが印象的です。もうこの頃から日本の映画音楽を背負ってたつ決意のようなものをしっかりと持っていて、だからこそ約20年を経て今現在でもトップを走りつづけている。名言の宝庫です。

 

 

久石譲インタビュー

映画音楽の王道をきっちり守っていかなければならない

インタビュー:賀来卓人

絶好調である。この春から初夏にかけて篠原哲雄との「はつ恋」と秋元康との「川の流れのように」が公開されたのに続き、先頃北野武との「BROTHER」を完成させたばかり。さらに来年夏に控える宮崎駿との「千と千尋の神隠し」に加え、初監督作品も準備中。海外版「もののけ姫」の世界公開も進み、オリヴィエ・ドーハン監督とのフランス映画の仕事が決まるなど、国際的に知名度も増してきている。90年代半ば、映画音楽の作曲家としてピアニストとしてどうあるべきか悩み停滞した久石譲は、その迷いを捨て、猛烈なる目的意識の中で燃えさかっている。日本映画のリーディング・コンポーザーが今、吠えた。

 

社会を反映できない曲を書き出したら終わりだな

久石:
「今年に入って、イギリスのバラネスク・カルテットという弦楽四重奏団を呼んで『Shoot The Violist』というソロアルバムを出したんです。これで非常に吹っ切れましてね。ああ、自分の代表作ができたなって。20代とか大学を出るところでね、こういう作曲家になりたいって思っていたことを20年かけて完成させたっていう感じかな。「ピアニストを撃て」という映画に掛けたタイトルなんだけれど、カルテットというのはヴァイオリンやチェロと違って、ヴィオラっていちばん埋もれがちになるんですね。カルテットの中では、弱者なんです。その弱者を撃てっていう反意語で使っていたものが、現実では17歳の子供がキレて弱者をねらってる。時代の最も悪い雰囲気を警鐘のように捉えられたアルバムになったなあって。これを作ったことで、自分の中で何かが吹っ切れましたよね。去年辺りまでクラシックなアプローチを極めてたりしたんですけれど、このままこの道を走るのかどうかすごく悩んだんですね。で、結果はそうじゃない道を選んだ。つまり巨匠じゃない道を歩んでいると(笑)。それがすごくよかったな、と。」

-再び時代に乗ってきたという実感なのではないですか。

久石:
「僕がいまいるポジションというのは、クラシックの前衛芸術家という立場ではないですね。あくまで町中の音楽、つまりポップス。自分のソロアルバムを買ってもらう、一般に映画で見てもらうというのが自分の原点だから、自分が完成されていくっていうことよりも、自分と社会の関係の方が大切なんですね。今みんなが生きていて苦しんでいることを反映できないような曲を書き出したときには終わりだなって、いつも思っているから。そういう自分の生き方を踏まえたINGで動いてるっていう自分が確認できたことがうれしいってことかな。それにスタンスに余裕ができましたよね。音楽を作る上で、あるいは映画の音楽を作る上で何が必要で、自分に何が欠けているのか、それがすごく分かるようになってきたということですね。」

-そこへ至る「もののけ姫」以後のアコースティックな傾向というのは、日本的な部分にこだわったということも含めて、意識的にやってこられたとしか思えないですが。

久石:
「非常に意識的にやりました。コンピューター上の打ち込みものでは、音楽を作っていくときの最低限必要な情報量が圧倒的に少ないんですよ。最初から分かっていたことなんだけれど、なおのこと、もうそのレベルではダメだということですか。「BROTHER」に関しては揺れ戻しで、戻ってるんですよね。打ち込みでしかできないエスニックな大パーカッションとフルオケとかね、そういうブレンドに入りましたから、そういう意味でならオケだけよりもスケール感は増しましたよね。」

-宮崎さんの新作で何らかの答えが出てくる可能性がありますね。そこを目標にしていませんか。

久石:
「あ、絶対ありますね。というのは、宮崎さんとは今度が7作目になるのでしょうか。一本やるたびに苦しみます、映画3、4本分くらいに。それをやってきて、そのたびに新しい方法なり、自分を発見してきていますから、やはり今のやり方、世界観でちょうど来年の夏の公開を目指す、そのあたりには確実に形になるな、あるいはしたいなって、素直に思いますよね。イメージアルバムは年内に作ります。そこでは40%くらいそれをお見せできるかな。」

-「BROTHER」のテーマ・リミックスを拝聴しますと、リズムの華やかさや仁義を感じさせるトランペットが非常に面白いですが、総じてカッコイイ曲になってますね。

久石:
「そうだね、いろんなことを考えていても、結果ね、出てくる音が自分たちにとって聴いてみたいかそうでないかっていうのは、映画音楽でも同じなんですね。あくまで画面で書いているから、劇を邪魔しない音楽の方が正しいっていう人がいるんだけど、僕はまったくそんなことを考えていないんですよ。壁みたいな音楽なんか書いてどうすんだいっていうのがある。音楽が鳴ることによって映像がもっと引き立つ、あるいはあえて違和感のあるものをぶつける、あるいは相乗的によくなる、何らかの形できちんと主張しなかったら、それは無駄な音楽ですよね。」

 

周りから撮らないかというお誘いがあって

-昨年亡くなられた佐藤勝さんなども映画音楽を掛け算で考えられていた節がありました。

久石:
「佐藤さんはね、僕が25歳のときにお手伝いをしていたんですよ。いわゆる弟子になったわけではなくて、一本の映画の中でテーマが4個あるとすると、そのうち一個を書いてアレンジして持っていく。だから佐藤さんのスコアを僕が手伝って書くとか、そういうことは一切なかったんですよ。あくまで助っ人のような感じで書いていたんですよね。「ルパン三世」の実写版とか「球形の荒野」とかね。本当に議論好きでね。いやもう、ずっといい先生でしたよね、気持ちの中では。」

-今年の日本アカデミー賞での久石さんの受賞スピーチをお伺いしますと、佐藤さんの跡を継がなければという覚悟を感じましたが。

久石:
「それはありましたね。日本の映画音楽の王道として、やはり早坂文雄さんが作られてきた映画音楽がありました。それを佐藤さんがきちんと継承してずっとメインでやってこられた。早坂さん、佐藤さんがおやりになったことを僕が継ぎますとは言い過ぎで自惚れた言い方になるのかもしれないけれど、あのとき壇上にいた僕を含めた優秀賞を受けられた方たち、あるいは今映画音楽を書いている方たちが、映画音楽の王道をきっちり守っていかなければならないって、そういう気持ちがすごく強かった。佐藤さんのね、クセの音ってあるんですが、ずいぶん影響を受けました。今書いていても、たまに「あ、佐藤さんだったらこう行くな」っていうのがある。もっとも佐藤さんによると「君は僕と全く違うものを書くなあ」っておっしゃっていたし、僕も「そうですよね」って返してましたが(笑)。不良息子がやっと家業を継ぐ気になったという感じかな。」

-久石さんの場合はピアニスト久石譲という側面をお持ちですし、大衆音楽への関心が強い。その意味では、映画音楽を大衆とつなぐ橋になる可能性を持っています。

久石:
「大衆性って、すごく大切なんですよ。僕は芸術作品を書いているわけではない。あくまでも今生きている人たちが何で音楽を聴くのかな、そのニーズと自分がやりたい音楽のせめぎ合いの中で、音楽家としていちばん必要である発言をしていく、それがやはり最も大切なんだと思うんです。その中で僕にとって映画音楽というのは欠かすことのできない世界なんですよ。」

-そうやってきた今、映画音楽家から映画監督へという流れは必然に映るのですが。

久石:
「映画監督について本当にはっきり言わなければならないのは、僕が自分からやりたいとは一言も言ってないの。宮崎さんとか北野さんとか、とんでもない世界的な人とずっとやってきているでしょ。そうして、「お前、俺の映画の音楽をやってきていて、こんなものしか作れないのか」と言われたら、アウトじゃないですか(笑)。ただ周りから撮らないかというお誘いがずいぶんあって、その中の一つが形になってきたときに、ここまで来たなら一本撮ってみようかなって思ったわけなんですけれどね。覚悟はできてます。今回は共同で脚本を書きました。書く側に回ることで、いかに柱とト書きと台詞だけで世界を作るのが大変か。それがよくわかったし、今まで相当脚本を読み込んできたと思っていた自分がずいぶん浅かったことに気付くわけです。反省しましたよね。これから映画音楽を作っていく上で想像以上の財産になりますね。タイトルは「カルテット」というんですが、弦楽四重奏団のお話なんです。大学時代にいいかげんに弦楽四重奏団を組んだ人間がコンクールを受けて大失敗して、それぞれ社会に出るんだけれど、挫折を死ぬほど味わって、もう一回再結成してコンクールを受ける、という話なんです。それともう一つは主人公の家族ですよね。家族崩壊をしている息子が親を分かっていく。同時に自分の音楽も豊かになっていく。難しいんですよ。初監督でこんなことやるなよって思ったんですけれどね(笑)。今の予定では夏にクランクインです。完成は秋くらいでしょうか。来年の春頃に公開する予定です。」

 

音楽家・久石譲とは何かをずっと考えてきた

-監督も経験して、今後21世紀の久石譲はどうなっていくのか。

久石:
「一言で言ってしまえば、久石譲の音楽とは何だったのか、証明したいということかな。音楽家・久石譲とは何かということをずっと考えてやってきたわけで、それに対する答えをちょっとでも出せれば…出るわけはないんですけれどね。出ないんだけれど、それを知りたい。映画音楽の中でそういうことを表現できるキャパシティって十分ある。」

-佐藤さんは「劇伴」という言葉を嫌ってました。

久石:
「僕も大っ嫌い。打ち合わせで劇伴って出た瞬間に「ああ、劇音楽はね」って、必ず言い直しをしてね、訂正させます。冗談じゃない。劇の伴奏なんてだれが書いているんだと。」

-なぜ映画音楽が面白いのか、一つにはその音楽が面白いからです。

久石:
「そうなんです。音楽としてつまらなくて、それが実は「劇伴」というやつなんですが、そんな単体で聴いたらつまらないものを何となく流しておくみたいな、そんな音楽なんてつけちゃマズイですよ。映画の音楽をやったことがある作曲家にね、「久石さん、映画の音楽って安いでしょう」って言いにくる人がいるんです。そのとき「あ、ごめん、俺、恐らく日本の映画の4、5本くらいの音楽予算がないとやらないから、決して安くないよ」って、はっきり言いますよね。「これはぜひ久石さんの音楽が欲しい。でも予算がなくて」なんてさ、それで役者の衣装に費用をかけたりするとさ、「こらっ」って、思うじゃないですか。だったら衣装の一つや二つ削って、音楽予算を作ればいいじゃないかと。例えば「内容さえよければ、どんなに低予算でも私はやります」っていえば、それは70点の回答なんだけれど、それって逃げてる言葉なんです。自分をカヴァーしているだけ。「安いものは基本的にやりません」って言う方が誠意があると思う。」

-それは久石さんを追い込み発言ではありますが、映画音楽ってお金が必要なんだという認識にもつながりますし、当然いい音楽を作るにはお金がいる。

久石:
「いります。シンセで後ろにちょこっと流しておこうという話でなければ、やはりちゃんとお金をかけなければいけない。もし僕が安いギャラで引き受けてしまったら、後に続く連中がもっと安くなってしまう。だれかが突っ張って言っていかないと、ほかの連中がもっとかわいそうになってしまう。自分が置かれた立場を考えると、責任感というものが少しは芽生えましたね。そういう意味では発言の場を作って、機会のあるごとに言っていかないと、日本の映画が豊かにならない気がするんですよ。自分自身がやりやすくなるためにも環境を作っていかなければいけないんです。」

(「キネマ旬報 2000年7月上旬 夏の特別号 No.1311」より)

 

 

Blog. 「Title タイトル 創刊 2000年5月号」 久石譲×田中麗奈 映画『はつ恋』 対談内容

Posted on 2018/10/03

雑誌「タイトル Title 創刊 平成12年 5月号」に掲載された久石譲・田中麗奈の対談です。映画『はつ恋』公開にあわせて組まれたものです。対談ではこの映画の音楽についてたっぷり語られています。

 

 

田中麗奈 × 久石譲
「存在感」

デビュー作『がんばっていきまっしょい』で世間をあっといわせた女優・田中麗奈。彼女の主演第二作となった映画『はつ恋』ではオルゴールのメロディが重要な鍵となる。その音楽を手がけたのが、今や日本映画になくてはならない作曲家・久石譲。『はつ恋』で映画音楽に魅せられた田中麗奈が果たした、久石譲との初めての出会い。

 

久石:
最初にいただいたお話は、この映画の中の実際のシーンで使われる楽曲を一曲作って欲しい、というものでした。

麗奈:
お母さん(原田美枝子)が大切にとっておきたオルゴールの音楽。映画全体を通してキーとなる曲ですね。

久石:
はい。でも、いろいろ話をお聞きしているうちにとてもいい内容だったので、楽曲一曲だけ提供するより、スタンスとして映画全体に関わりたいと思うようになった。僕は仕事を音楽監督という立場でお引き受けするようにしてるんです。どうしても、このご時世だと、いろいろなタイアップがついたりして、なぜかわからないけれどエンディングになると変な歌が流れたりする(笑)。でも、それはテレビに任せておけばいい。映画を作品として完成させるためには僕はそういうことは望まない。だから、『はつ恋』でも映画の中で流れる音楽は全て責任を持つという音楽監督という立場でお引き受けしました。麗奈さんは今回、出番が多くて大変だったでしょう。

麗奈:
そうですね。ほとんどのシーンでどなたかと共演しています。原田さん、真田(広之)さん、平田(満)さんたちベテランの方々にいい意味で引っ張ってもらいました。今までは考え過ぎてしまうところがあったんですが、今回はその時々の状況に素直に反応しよう、いい意味で受け身になろうと思ってました。

久石:
その受けるっていうのはよくわかる。考えてみたら大変な演技者ばかりだもんね。なおかつ、自分が主役だから他の人の上をいかなきゃならない。受け身を意識したというのは正しいでしょうね。あのぐらい演技のうまい人たちは出る時は出るし、引っ込む時は引っ込めるだろうけど、『はつ恋』では総じて控えめな演技をしている。真田さんは今まで出演された作品の中でベストの演技じゃないかな。どの作品よりも相当抑えてる。原田さんも抑えてる。それなのに、存在感がすごくある。不思議ですが、そういう時の方が存在感が出る場合があるんです。

麗奈:
久石さんの音楽もそうですよね。とてもシンプルなんですけど印象的。聞いてて不思議な感じがしました。気持ちいい音なのに、なんともいえないさみしい感じがしてくる。

久石:
主人公が17~18歳という設定だと2つの方向性が考えられるんです。一つは北野(武)監督の『キッズ・リターン』のような動的な感じ。そういう映画だとリズムを強調する。もう一つは『はつ恋』のような優しいイメージ。17~18歳の女の子の揺れる気持ちを出したかった。それで篠原(哲雄)監督と話し合ってシンプルな感じで行こうと。『はつ恋』って小粒だけどキラリとしたいい映画ですから、最初からピアノと分厚くない弦の世界で作るのが一番いいなと思ったんです。そういったイメージはとても作りやすい映画でした。

麗奈:
特に印象的だったのが原田さんと真田さんを再会させる約束の日の前夜のシーン。音楽を通して「明日。明日がいよいよ約束の日なんだ」と気持ちがどんどん高まっていくんです。音楽ですごく盛り上がるシーンでした。

久石:
あのシーン、トータルで6分あるんです。「ここは全部音楽入れて下さい」っていわれた時はちょっとめげましたが、あそこはもう、一番力をいれました。もちろん全部力いれてるんですけどね(笑)。あの6分の中で麗奈さんが真田さんの部屋から外に出て、ふっと見上げるシーン。あの麗奈さんの顔はベストショットだと思います。僕は女優さんの演技を見ていて、一番気になるのが目の強さなんです。俳優の存在感ってつまるところ目じゃないかなと思う。あのシーンの麗奈さんの目、存在感がとても強い。

麗奈:
すごくうれしいです。あれは夜中の撮影で本当に大変でした。寒い中スタッフみんなですごくがんばってできたシーンなんです。雨を降らせて、ライティングも凝りに凝って、撮る前からスタッフの方たちの熱気がひしひしと伝わってきました。私の気持ちを盛り上げるためにオルゴールを流してくれたり、演技に集中できるように準備時間とってくれたり。

久石:
それは画面にちゃんとでてるよ。

 

現場の熱気が生んだシーン
そして”恐怖”の初号試写

麗奈:
雨の中走ってカメラに寄らなきゃいけないシーンなんです。でも、走って来るとカメラがどこにあるかわからないんじゃないかって気になってたんです。そうしたらカメラマンさんが「大丈夫だ、俺に任せろ。俺が寄るから」って言ってくれて。とても熱い現場でした。だからそう言ってもらえてすごくうれしいです。涙でそうになっちゃいました。

久石:
みんなが一つになれるシーンがあるっていうのは映画を作ってて、とても幸せだよね。そういうのがないまま終わっちゃう映画もあるから。

麗奈:
今回(『がんばっていきまっしょい』で高い評価を受けて)「プレッシャーはありませんでしたか」ってよく聞かれるんですけど、賞がどうとか、そういうプレッシャーはなかったんです。ただ演じてると、ライティングも素晴らしいし、桜もきれいだし、音楽ももちろんいい。これはきっといいシーンになるはずだというシーンがどんどん増えてきて、『はつ恋』はいい映画になるはずだ、ならなきゃおかしいと思うようになったんです。そうなると今度は逆に自分の演技にプレッシャーを感じるようになって。完成して初めて見た時は、自分の演技しか見られなくて、かなり落ち込みました。がっかりして、もう見られないと思ったぐらいです。

久石:
それはよくわかる。僕もちょうど初号試写見たあたりってだめなんです。やっぱり自分の音楽中心に聴いちゃうから。「なんだボリュームが小さい」とか、「しまった、ここで音楽がいくんじゃなかった」とか、反省ばかりしちゃう。冷静に初号試写見たことってないですね。ほとんど反省してばかり。でも、みんなそうじゃないかな。自分が関わったものって半年とか一年ぐらい時間がたって、やっと冷静に全体が見えるようになる。

麗奈:
そうそう。私も半年たって、ようやく冷静になってもう一度見てみたら『はつ恋』をとても好きになったんです。もちろん、自分の演技に反省する点はあっても、とてもきれいな映画だなと思いました。

久石:
麗奈さん、今後はどんな役やってみたいですか?

麗奈:
私、シンガーの役をやってみたいんです。CDを出したいとかそういうのではなくて、ライブが好きなんです。限られた時間の中で自分のパワーを使い切って、自分を全部出す。見ている人が鳥肌立つくらいに興奮や感動を体で感じる。そういうのがとてもかっこいい、気持ちよさそうっていう、ただそれだけの理由からなんですけど(笑)。

久石:
コンサートって大体2時間ぐらいじゃないですか。その2時間、集中してパワーを出しきるってとても楽しいと思います。舞台もそうなんじゃないかな。ぜひシンガーの役やってみてください。

麗奈:
はい。あと、アクションもやりたいんです。格闘的なことをやってみたい。『マトリックス』を見てからなんですけど。

久石:
『マトリックス』いいよね。僕はレコーディングにいったシアトルで見たんです。でも、ストーリーも結構難しいし、全部英語だったから、ちょっとわからなくて。それで日本の試写会で見て、後でもう一回、自分でお金払って見に行きました。3回も見ちゃった。

麗奈:
おもしろいですよね。アクションやりたいと思うようになったのは実はキャリー=アン・モスを見て憧れたからなんです。

久石:
ウォシャウスキー兄弟の作品は『バウンド』もむちゃくちゃおもしろかった。すごいなあと思ってたらやっぱりきましたね。

麗奈:
久石さん、映画をお撮りになりたいっていうお気持ちはないんですか?

久石:
ふー(苦笑)。自分から撮りたいと言ったことはありません。自分にとってすごいプレッシャーになのはやっぱり日本で一番のヒット作を作った監督(宮崎駿監督)と世界で賞をとった監督(北野監督)と一緒に仕事をしてるじゃないですか。あの二人が見て、「なんだ、こんなもんか」って言われるのが一番しゃくなんです。そうするとやっぱり、「いいんじゃない」って言われる水準の作品を作れるかどうかが問題ですから。その自信がついたら、いつでも。その節は麗奈さん、よろしく(笑)。

麗奈:
こちらこそよろしくお願いします。

(タイトル Title 創刊 平成12年 5月号 より)

 

 

はつ恋 オリジナル・サウンドトラック

 

 

 

Blog. 書籍「NHKスペシャル 驚異の小宇宙・人体3 遺伝子・DNA 6」久石譲 音楽制作ノート

Posted on 2018/10/01

1999年放送 NHKスペシャル「驚異の小宇宙 人体III 遺伝子DNA」の音楽を担当していた久石譲。これはその書籍版ともいえる「NHKスペシャル 驚異の小宇宙・人体3 遺伝子・DNA〈6〉パンドラの箱は開かれた―未来人の設計図」大型本に収載されたエッセイです。

全人体シリーズの音楽を手がけ、第1シリーズ・第2シリーズの音楽的振り返り、そして第3シリーズの音楽制作の過程。それは音楽制作現場というよりも、むしろその前段階、久石譲の音楽アプローチに至るまでの思考の過程です。このように取り扱うテーマに対して考えをめぐらせる具体的過程やその内容を知れることも貴重です。そしてそれらがどう音楽として置き換わったのか、聴き手は深いところでその音楽を受けとることができるように思います。

 

 

「Gene・遺伝子」 音楽制作ノート 久石譲

NHKサイエンス・スペシャル「人体」は第1シリーズから音楽を担当している。それぞれ6作ずつあり、今回の第3シリーズを入れれば全18作になる。我ながらずいぶん書いたと思う。

第1シリーズの「人体」はピアノとオーケストラを中心に構成した。実はCGが多いと聞いてテクノ系の音楽を考えていた。が、精子が卵子に飛び込む顕微鏡撮影の映像を見て考えを変えた。精子がいくつかのグループに分かれ、天の岩戸の前よろしくたむろしていた。何やら話し合っている風でもあるそれらは、どこにでもある学校のクラスを彷彿させた。そのうちに元気のいい、いわばガキ大将のような威勢のいい精子がその岩戸に突入する。が、次々に玉砕する。するとクラスによくいる眼鏡をかけたガリ勉型のひ弱な感じの精子が、するすると抜け出してすんなりと岩戸卵子の壁を突入して侵入に成功した。人間社会の縮図のような光景に感動した僕はヒューマンなアコースティックな方向に音楽を切り替えた。

第2シリーズ「脳と心」は、ヒューマンドキュメントとしての側面が強く打ち出されていて、それぞれ6作の内容が脳に障害を持った人たちを主人公にしていて、科学的な解明とそれをどう乗り越えていったかを丁寧に描いた力作だった。そこで僕は内容自体がヒューマンなぶんだけ、音楽的には客観性を持たせるためハウスミュージック的なリズムを全面に出した音楽を作った。感動的な内容に感動的な音楽をかぶせるほどつまらないものはないからだ。オープニングの不可思議なボーカルも僕自身である。

そして第3シリーズ「遺伝子」が始まった。はじめは順調だったレコーディングはテーマ曲のところで大きくつまずいた。遺伝子をイメージできないのだ。様々な関係本を読み、過去のシリーズの音楽を聴いたりしたが、遺伝子のテーマ曲の輪郭は、ますます遠く霞の彼方に行ってしまった。

「遺伝子という言葉を聞くと僕は身構える。情緒の入り込む余地のないこの言葉が、人間の最小単位だと言われても(頭では理解しても)何処か得体の知れないエイリアンの存在を思わせて僕を落ちつかなくさせる」。こんな言葉が僕の制作ノートに書いてあった。

また、「遺伝子はデオキシリボ核酸(DNA)という化学物質でできていて、ちょうど『らせん階段』のような構造をしている。DNAのすべてが遺伝子ではない。人のDNAは30億塩基体あり、遺伝子は約10万個で1個の遺伝子は約2500塩基体だから、単純計算すると遺伝子はDNA全体の約8パーセントに相当する。塩基は4つあり、アデニン(A)、チミン(T)、グアニン(G)、シトシン(C)と呼ばれている」とも書いてあった。創造的なイマジネーションとはかけ離れているところに、創作が順調にいっていない事が読みとれる。

また別のノートには「音楽を聴かせて育てた栽培作物、特にトマトは甘くなる。どうやら遺伝子に働きかけるらしいのだが、特にモーツァルトが効果的だ」。この説に僕は興味を持った。我が仕事の領域である音楽はそんなに力があるのか、しかも遺伝子に! ……しかしこの説はアメリカのある大学での実験で否定された。「特別モーツァルトが効くわけではない」。ということは、甘くなることに音楽が関与すること自体を否定してはいない。よかった。でも大の大人が何人もトマトを前にモーツァルトを流している構図なんてなかなか微笑ましいではないか。

続いてノートにはこう書いてあった。「DNAの配列を音に置き換えたメロディーがある。フランスの研究者がそのパテントを持っているらしい」。ある大学教授から聞いたこの話には興奮した。耳から入った音楽は、電気信号に変わって脳に伝わり音として認識される。その脳を司るのが遺伝子ならば、音楽が遺伝子に働きかける事もできるかもしれない。何やらSF的サイコサスペンスになってきた。これで映画が一本作れるではないか。僕の創造的イマジネーションが活発に動き出した。

SFと言えばコンピューターを扱ったものが最近多い。コンピューターは0(ゼロ)と1(いち)の世界だけでできている。遺伝子はA、T、G、Cの4つの組み合わせの世界。その組み合わせで意味を持つ。何か共通するものがあるかもしれない。

「2001年宇宙の旅」ではHALというコンピューターの暴走、今年公開された「マトリックス」は、仮想現実を作り出し、人間を支配するコンピューターの話だ。つまり0(ゼロ)と1(いち)の世界が意志を持ち、人間に作り出されたのに人間に反旗を翻し逆に支配しようとする話だ。だとしたら、コンピューターより、2つも要素が多く(かなり乱暴な発想だ)セルフィッシュジーン=利己的遺伝子と呼ばれるくらいなのだから、遺伝子が人間の意志を支配しようとしたとしてもおかしくはない。人間が遠く及ばない大いなる存在が、戯れに4つのさいころを振ってできたものだと言われても僕達は笑えるだろうか?

ちなみにDNAや遺伝子をあつかった映画は内外を問わず成功していない。おそらくそれを物語としての映像にするところで無理があるらしい。僕の夢は急速にしぼんだ。

「人が離婚するのも遺伝子の中にその因子が組み込まれているからであり、太るのも酒に強いかどうかもすでに組み込まれている」。このノートに書き込まれた言葉が本当だとすると人はどうすればいいのか? 人殺しの悪人も、泥棒も、法廷で「全部遺伝子の仕業です。私は嫌だと言ったのに遺伝子が勝手に私の体を動かしたんです」なんて言ったりする。すると裁判長は「遺伝子に懲役15年、本被告人は執行猶予に処す」と判決を言い渡す。この場合、刑務所はどう対処するのか? 考えただけでも眠れなくなりそうだ。

眠れないと言えば、実は僕は不眠症だ。どんなに徹夜状態の激しいレコーディングが続いても眠れない。これも遺伝子のせいなのか? だとしたら僕はもう眠る努力をしない。いや、眠ることだけではなく、全ての生きていくための努力をしなくなる。どうせ生まれたときから自分は決まっていて、たぶん一生もがき苦しんでも、ほんの少ししか変えられないのなら……。まずい、これはまずい。遺伝子に関する事柄が僕たちを後ろ向きにさせるのは、単に体を作っているということではなく、その精神あるいは人間のアイデンティティーまで影響を及ぼしているからに他ならない。

人は人であるために哲学を学んだり、いかに生きるかを考える。しかるに、もがき苦しんでいる自分たちを遺伝子はいとも軽々と超え、もっと上の意志を感じさせる。人間をも支配する何か……、それを人は神というなら遺伝子はまさしく神ではないか。遺伝子という神の言語を翻訳して人は豊かになれるのだろうか?

かつて構造主義が「我思う、ゆえに我あり」的な個人主義としての思想から脱却しようとして失敗したが、遺伝子は軽々と人間の存在としての哲学を乗り越えてしまうかもしれない。これは人間に対する挑戦でもあり、人間という存在に対する新たな問いかけでもある。その時、音楽はどう人と関わっていくのか? そんなことを考え出すと、もうテーマ曲を作っているどころではなくなってしまった。

かつてコンピューター(正確にはICか?)が現れたとき、人間の思考のプロセスに発生する膨大な情報を処理することで、大きく社会の構造が変わった。いや、今でも変わりつつある。そして遺伝子、この人類に仕掛けられた2つのウィルスは人類を豊かにするかもしれないし、破壊する爆弾かもしれない。いずれにしても、もう人類は地雷を踏んでしまった。ここで止まることはできない。今現在の中途半端さではクローン牛を作ったり、癌の治療に使ったりするしかない。もっと凄まじいこと、例えばその研究が間違って人類を滅ぼすようなことがあるかもしれない。だから我々は全て知らなくてはいけない。

しかし、いくら遺伝子が解明されても人間の全てが解明されるとは思わない。例えば音楽が与える感動は解明されるのだろうか? 脳の中でどういう物質がどこに働きかけると感動するかは解明できても、何故良い音楽を聴いたらそういう物質が出るかまでは予測は出来ても解明されることはないだろう。全ての遺伝子、DNAが解明されてもまだ分からないもの、それが人間本来のアイデンティティーではないのだろうか?

後日、僕はテーマ曲を作った。それは第1シリーズと同じアプローチのヒューマンな人間賛歌だった。

(書籍「NHKスペシャル 驚異の小宇宙・人体3 遺伝子・DNA〈6〉パンドラの箱は開かれた―未来人の設計図」 より)

 

TV放送全6回に併せて、書籍も全6冊あります。久石譲音楽について掲載されたのはここにご紹介した(6)のみになります。

 

 

久石譲 『NHKスペシャル 驚異の小宇宙 人体 Vol.1』

 

久石譲 『NHKスペシャル 驚異の小宇宙・人体II 脳と心/BRAIN&MIND サウンドトラック Vol.1』

 

久石譲 『NHKスペシャル 驚異の小宇宙 人体III〜遺伝子・DNA サウンドトラックVol.1 Gene』