Blog. 「久石譲 第九スペシャル」 コンサート・パンフレットより

Posted 2014/12/28

いよいよ2014年12月31日大晦日のジルベスター・コンサートに向けてカウントダウンが始まりました。

先日は、前回のジルベスター・コンサートの内容、「ジルベスター・コンサート2011」について詳細を紐解きました。このときから今年2014年は3年ぶりのジルベスター・コンサート開催となります。

さて、今回は、昨年2013年師走にコンサート開催された「久石譲 第九スペシャル」についてです。

 

 

久石譲 第九スペシャル

[公演期間]
2013/12/13,22

[公演回数]
2公演 東京・NHKホール / 大阪 フェスティバルホール

[編成]
(東京)
指揮:久石譲
管弦楽:読売日本交響楽団
ソプラノ:林正子 メゾソプラノ:谷口睦美 テノール:村上敏明 バス:妻屋秀和
オルガン:ジャン=フィリップ・メルカールト
バラライカ/マンドリン:青山忠 バヤン/アコーディオン:水野弘文 ギター:天野清継
合唱:栗友会と一般公募による

(大阪)
指揮:久石譲
管弦楽:日本センチュリー交響楽団
ソプラノ:林正子 メゾソプラノ:谷口睦美 テノール:村上敏明 バス:妻屋秀和
オルガン:土橋薫
ギター:千代正行 バラライカ/マンドリン:和智秀樹 アコーディオン:都丸智栄(ザッハトルテ)
合唱:大阪センチュリー合唱団 大阪音楽大学合唱団 ザ・カレッジ・オペラハウス合唱団

[曲目]
久石譲:「Orbis」 ~混声合唱、オルガンとオーケストラのための~
久石譲:バラライカ、バヤン、ギターと小オーケストラのための『風立ちぬ』 小組曲
久石譲:『かぐや姫の物語』より 「飛翔」
ベートーヴェン:交響曲 第9番 ニ短調 作品125「合唱付き」

(アンコール曲なし)

 

 

日本では年末に聴かれるクラシック音楽の定番である「第九」。この交響曲最高傑作とも言われる名曲と久石譲の2013年を代表する2作品、そしてベートーヴェン「第九」に捧げる序曲として書かれた自作曲「Orbis」です。

ここでは当日会場で配布されたコンサート・プログラムより、久石譲自身による楽曲解説および楽曲への想いを紹介します。

 

 

久石譲 《第九スペシャル》を語る

「僕の曲より、《第九》なら振りたい」
コンサートの依頼を受けたとき、何気なく言った言葉が、こんな大きな規模で実現し、その反響に驚いています(笑)。心してこのコンサートに臨みますが、その前に、曲の紹介および作曲家として考えたことを、少しお話します。

「Orbis」 ~混声合唱、オルガンとオーケストラのための~

曲名はラテン語で”環”や”繋がり”を意味します。2007年の「サントリー1万人の第九」のために作曲した序曲で、サントリーホールのパイプオルガンと大阪城ホールを二元中継で”繋ぐ”という発想から生まれました。祝典序曲的な華やかな性格と、水面に落ちた水滴が波紋の”環”を広げていくようなイメージを意識しながら作曲しています。歌詞に関しては、ベートーヴェンの《第九》と同じように、いくつかのキーワードとなる言葉を配置し、その言葉の持つアクセントが音楽的要素として器楽の中でどこまで利用できるか、という点に比重を置きました。”声楽曲”のように歌詞の意味内容を深く追求していく音楽とは異なります。言葉として選んだ「レティーシア/歓喜」や「パラディウス/天国」といったラテン語は、結果的にベートーヴェンが《第九》のために選んだ歌詞と近い内容になっていますね。作曲の発想としては、音楽をフレーズごとに組み立てていくのではなく、拍が1拍ずつズレていくミニマル・ミュージックの手法を用いているので、演奏が大変難しい作品です。

「Orbis」ラテン語のキーワード

・Orbis = 環 ・Laetitia = 喜び ・Anima = 魂 ・Sonus, Sonitus =音 ・Paradisus = 天国
・Jubilatio = 歓喜 ・Sol = 太陽 ・Rosa = 薔薇 ・Aqua = 水 ・Caritas, Fraternitatis = 兄弟愛
・Mundus = 世界 ・Victoria = 勝利 ・Amicus = 友人

 

バラライカ、バヤン、ギターと小オーケストラのための『風立ちぬ』 小組曲

本編で使用されたサウンドトラックを出来るだけ忠実に再現しながら、物語の順序に沿って演奏会用の楽曲として構成し直したものです。オーケストラに加えて、バラライカ、バヤン(ロシカのアコーディオン)、ギターなど、映画で用いた楽器をそのまま使用します。キャッチコピーの「生きねば。」が端的に示しているように、人間は何があっても強く生きていかなければならない、というのが『風立ちぬ』の最も重要なテーマだと思います。

 

『かぐや姫の物語』より 「飛翔」

現在公開中の『かぐや姫の物語』からは、本編の中で重要な「飛翔」の場面の音楽を中心に構成しました。かぐや姫という主人公は、月の世界にいる間は人間的な喜怒哀楽も知らず、完全な幸せの中で暮らしている存在です。その彼女が地上に下り、さまざまな人間の感情を経験し、再び月の世界に戻っていく時に、やはり彼女はそのまま地上にとどまっていたいと感じた。つまり、人間というのは日々悩み、苦しむ存在なのですが、それでもやはり生きるに値する価値がある。そのようなことを『かぐや姫の物語』からは強く感じます。

 

ベートーヴェン:交響曲 第9番 ニ短調 作品125「合唱付き」

作曲家という視点から楽譜を見ると、《第九》という作品は各楽章で用いられている要素が非常に少ない。つまり、ベートーヴェンは必要最小限の素材だけで作曲しています。しかも、個々の楽章の長さが比較的に長い。その結果、演奏する側も聴く側も、ある程度の”忍耐”を要求する作品となっています。厳選された素材しか音楽に使わない。無駄なものは用いない。聴きやすい音楽を作るというよりは、感情に流されない理想的な音楽の形(フォーム)を追求するという晩年のベートーヴェンの姿勢が、如実に出ています。

まず、第1楽章ほどソナタ形式のあるべき姿、理想的なフォームをこれほど見事に作り上げた楽章は他にないと言ってよいでしょう。冷静に楽譜を読むと、彼がそのフォームの段取りをきっちりと組み立てていった苦労や格闘の跡がはっきりと見えてきます。

第2楽章は、スケルツォ-トリオ-スケルツォという構成になっていて、スケルツォの部分がソナタ形式(提示部-展開部-再現部)の形をとっています。ベートーヴェンは中間部のトリオの後、スケルツォの部分をそっくりそのまま繰り返していますが、それまでの彼の作曲ならば、同じ音楽をダ・カーポのようにそのまま繰り返してしまう手法は採らなかったはずです。その理由が「厳選された素材を用いているのだから、同じことを繰り返してよいのだ」という”遠観”によるものなのか、あるいは別の理由によるものなのか、いろいろなことを私たちに考えさせる音楽です。

第3楽章は、およそ作曲家が到達し得る最高水準の音楽に仕上がっています。冒頭の美しい旋律が何度も分断しながらエコーのようにリフレインし、それが弦楽器から木管楽器へと受け渡されていくことで、単純に”きれいな旋律”だけでは終わらない、非常に内省的な音楽が作り上げられていく。そこに、作曲家としてのベートーヴェンの技法の粋がすべて詰まっています。我々がどんなに試みても絶対に到達できないような”神の領域”に近い音楽。人類が音楽によってここまで到達し得た、という意味も含めて偉大な楽章です。

第4楽章は、これまで彼が作曲してきた交響曲から見てみると、合唱という”声”の導入が明らかに異質です。しかし、先に触れたような、必要最小限の要素だけで音楽を組み立てていくという発想が、実は第4楽章にも受け継がれています。基本的には「Freude, Schoner Gotterfunken 喜び! 神の天国の乙女たち!」という有名な「歓喜の歌」の旋律と、男声合唱が「Seid umschiungen Millionen! 抱き合おう!  幾百万の人々よ!」と歌う旋律と、この2つのメロディだけでどこまで変奏曲を書き上げていくことが出来るか。そうした発想は、実は先行する3つの楽章と同じです。

歌詞を見ると、ベートーヴェンは、シラーの長大な原詩から冒頭の部分だけを抜粋して使っています。つまり、シラーの詩の意味内容を音楽で伝えようとしているのではない。逆に見ると、ベートーヴェンは自分の中に響いてくる言葉だけを、シラーの中から選び取ったということです。おそらくベートーヴェンはオーケストラの楽器だけでは表現できない要素を”声”を導入することによって解決し、《第九》を締め括ろうとしたのではないか。それが、僕の考えです。

ベートーヴェン自身の性格を踏まえて考えると、《第九》は”苦悩から歓喜へ”あるいは”闘争から勝利へ”という、彼らしい図式を持つ作品です。その意味では《運命》と同じなのですが、作曲時の彼の年齢や境遇を考えると、《運命》のような闘争的音楽と見るべきではないし、単なる”歓喜の歌”と捉えるのも違うと思います。

人間が日々感じている喜びは、単純な嬉しさにとどまらない部分があります。「辛かったけれど、努力して続けてきて良かった」と思うような、ジワっと伝わってくる喜びから全身の細胞が波打つような興奮した喜びまで様々です。たとえ”喜び”の大半が”苦しみ”や”辛さ”を占めているのだとしても、それでも人間は生きるに値する。人類に対しての深い愛、それが、おそらく晩年を迎えた老作曲家・ベートーヴェンが《第九》え伝えようとしている”歓喜”の意味ではないか。そこに、日本人が《第九》をこよなく愛する大きな理由のひとつがあると思います。

今晩のコンサートをお聴きいただく皆様が、4曲の演奏を通じて”生きる勇気”のようなものを感じ取っていただければ、と願っております。

聞き手・構成:前島秀国

(「久石譲 第九スペシャル」コンサート・プログラム より)

 

 

コンサート・プログラム(配布)、コンサート・パンフレット(販売)によって、当日演奏される作品の詳細が解説されているのはとても有意義です。しかも作曲家・演奏家・指揮者である久石譲の言葉によって。

もちろん音楽を聴いてそこから伝わってくるものまたはどう受け止めるかは聴き手に委ねられるわけですが、それでも大変貴重な手引きとなります。なぜこの曲を取り上げるのか?どういう解釈でどういう表現方法を試みようとしているのか?などなど、聴き流すにはもったいない気持ちにさせられ、開演前にこれを熟読して臨めば、姿勢を正して聴くモードになるでしょう。

そしてコンサート後はそんな言葉たちを片手に、まだ記憶に新しい会場で感動した音楽たちの余韻にひたることができます。

 

 

久石譲は、ベートーヴェン「第九」に関して、過去のコンサートインタビューや雑誌取材でも語っています。興味のある方はどうぞ。

こちら ⇒ Blog. 「クラシック プレミアム 12 ~モーツァルト3~」(CDマガジン) レビュー

こちら ⇒ Blog. 「考える人 2014年秋号」(新潮社) 久石譲インタビュー内容

 

 

さて、2013年師走の「久石譲 第九スペシャル」から1年。今年のプログラムには、同じ演目ではありますが、1年を経て進化した、『風立ちぬ』と『かぐや姫の物語』の一大組曲をそれぞれ聴くことができます。

「久石譲 ジルベスターコンサート 2014 in festival hall」

こちら ⇒ Info. 2014/12/31 「久石譲 ジルベスターコンサート 2014 in festival hall」(大阪)

今年は、この2作品を核にしたコンサート活動およびCDリリースだった、と言っても過言ではないでしょう。そのあたりの1年間を総括した経緯と考察は、結構なボリュームでまとめていますので、興味があれば見てください。

こちら ⇒ Blog. 久石譲 新作『WORKS IV』ができるまで -まとめ-

こちら ⇒ Blog. 久石譲 新作『WORKS IV』ができてから -方向性-

 

 

物事の終わりは、同時に物事の始まりでもあります。2014年の久石譲の集大成は、2015年の久石譲の幕開けです。

第九スペシャル

 

Blog. 久石譲 「ジルベスター・コンサート 2011」 コンサート・パンフレットより

Posted on 2014/12/27

いよいよ2014年12月31日大晦日のジルベスター・コンサートに向けてカウントダウンが始まりました。2006年から始まった久石譲のジルベスター・コンサートですが、この2011年のジルベスター・コンサートを最後に、今回なんと3年ぶりの開催となります。

前回の「ジルベスター・コンサート 2011」はどんな内容だったのか。当時の貴重なコンサート・パンフレットをもとにプログラムおよび楽曲紹介をしていきます。

 

 

ジルベスタ―コンサート2011

2011/12/31

指揮:ピアノ:久石譲
指揮:金 洪才
ヴォーカル:麻衣
管弦楽:関西フィルハーモニー管弦楽団

 

第一部 ラ・フォリア

2010年スタジオジブリ制作、宮崎駿監督作品の短編映画『パン種とタマゴ姫』より。ヴィヴァルディの「ラフォリア」を素材に、現代的なアプローチで再構築。ヴィヴァルディが活躍した時代の”バロック音楽”のシステマチックな部分にミニマル・ミュージックの手法を取り入れ、古典的なニュアンスを保ちながらも現代のバロック曲として新たな命が吹き込まれた作品。
*「ラ・フォリア ヴィヴァルディ/久石譲編 『パン種とタマゴ姫』 サウンドトラック」 収録

 

第二部 「坂の上の雲」 第二組曲
・第3部序幕
・少年の国
・真之と季子
・煉獄と浄罪
・絶望の砦 ~二◯三高地ニ起ツ~
・日本海海戦
・終曲
・Stand Alone

司馬遼太郎の長編小説『坂の上の雲』が映像化。NHKスペシャルドラマとして2009年11月~12月に第1部。2010年12月に第2部、今年12月に完結編となる第3部が放送されたばかり。明治時代、近代国家として新しく生まれ変わろうとする「日本」。純粋さやひたむきさだけでなく、高み=”坂の上”を目指そうとする人々の強い志と貪欲さが時代を動かす風となっていく。ドラマの枠を超え、壮大なスケールで描かれた作品は日本中に感動と衝撃を与えた。

音楽を担当した久石は、「史実・そこに立ち向かう人々の”凛とした”生き様を描きたかった」という。今回はその作品群の中から第3部を中心に「第3部序幕」「少年の国」「真之と季子」「煉獄と浄罪」「絶望の砦~ニ◯三高地ニ起ツ~」「日本海海戦」「終曲」「Stand Alone」の8曲を選りすぐり、組曲形式に再構築した。第3部のメインテーマ「Stand Alone」を歌うのはヴォーカリスト、麻衣。彼女の透きとおった歌声は、番組プロデューサーの耳に留まり3年目を迎える今年、第3部の歌手として抜擢された。2011年の締めくくりにふさわしい重厚且つ壮大なオーケストレーションが秀逸。
*「NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」オリジナル・サウンドトラック2・3」「Melodyphony」 収録

 

第三部 二ノ国より
・メインテーマ 聖灰の女王
・シズク
・灰の恐怖
・聖灰の女王とのラストバトル
・心のかけら

レベルファイブ企画・制作、アニメーション作画スタジオジブリによる作品、ファンタジーRPG『二ノ国』より。2010年発売のニンテンドーDS用ゲームソフト『二ノ国 ~漆黒の魔導士~』、2011年発表のプレイステーション3用ゲームソフト『二ノ国 ~白き聖灰の女王~』から「メインテーマ ~聖灰の女王~」、ナミダの妖精シズクのテーマ「シズク」、「灰の恐怖」、「聖灰の女王とのラストバトル」、麻衣が歌うエンディングテーマ「心のかけら」の5曲を選曲。フルオーケストラ楽曲による聴き応えのある音楽の数々はゲーム界に大きな衝撃を与え、コンサートの開催を求める声が多数。満を持して今回の発表に至った。現実世界と別の時間軸に存在するもうひとつの現実”二ノ国”の世界をお楽しみいただきたい。
*「二ノ国 漆黒の魔導士 オリジナル・サウンドトラック」 収録

 

第四部 My Favorites

・Prologue ~ Drifting in the City
1992年制作のアルバム「My Lost City」より。1920年代後半から起こった世界大恐慌に破壊的な人生を歩んだ米国の小説家スコット・フィッツジェラルドの悲劇と悲哀を題材に描いたアルバム。収録曲の数々は、オマージュ作品でありながらも、日本のバブル崩壊への警鐘の意も込められ、情熱的かつ悲劇的・感傷的なメロディが特徴。なかでも「Drifting in the City」は、ニューヨークの冷気や心地よい怠惰感、そこに漂う切なさなのか、甘美なメロディが胸に突き刺さるようでもある。オーケストレーションもさることながら、ピアノの魅せる表情も聴きどころである。
*アルバム「My Lost City」「Symphonic Best Selection」 収録

・HANA-BI
1997年公開、北野武監督作品の映画『HANA-BI』より。追われる身の刑事とその妻の逃亡劇を、これまでの北野監督の乾いた視点から一転して、叙情的に描写した作品。ヴェネツィア国際映画祭にて金獅子賞を受賞。テーマ音楽は非常に叙情的で、映画のエモーショナルな部分を深く表現している。
*アルバム「WORKS II」 収録

・Kids Return
1996年公開、北野武監督作品の映画『Kids Return』より。ボクサーを目指す少年と、ラーメン屋で出会った若頭のもとで極道の世界に入った青年二人が、汚い大人の世界に踏み込み、過酷な現実を味わう模様を描いた作品。このテーマ曲のオーケストラ版は、疾走感のあるリズムと、どことなく悲壮感漂うメロディが印象的な作品。
*アルバム「The Best of Cinema Music」 収録

・Merry-go round
2004年公開、宮崎駿監督作品の映画『ハウルの動く城』より。ダイアナ・ウィン・ジョーンズの著書「魔法使いハウルと火の悪魔」をもとに、魔法で90歳の老婆に変えられてしまったソフィーと魔法使いのハウルとの恋をとおして、生きる楽しさや愛する歓びを描いた作品。映画では、テーマ曲を様々に変奏してそれぞれの場面に個性的な楽曲が付いている。この曲は映画のテーマ曲を核にして書かれた。
*アルバム「WORKS III」 収録

・One Summer’s Day
2001年公開、宮崎駿監督作品の映画『千と千尋の神隠し』より、「あの夏へ」。神々の住まう不思議な世界に迷い込んでしまった10歳の少女・千尋が、湯屋「油屋」で下働きをしながら次第に生きる力を取り戻していく物語。郷愁をかきたてる美しいメロディと、ピアノをフィーチャーした繊細なオーケストラが秀逸。
*アルバム「Melodyphony」「The Best of Cinema Mucis」 収録

・Orietntal Wind
2004年より放映中の、サントリー京都福寿園「伊右衛門」CM曲より。今や、お茶の間のおなじみとなった美しい旋律は、黄河の悠々とした流れをイメージしてつくられたといわれている。しかし、朗々とした格調高い優雅なメロディの裏には、繊細なリズムや激しいパッセージの連続があり、難易度の高い楽曲でもあるが、それ故、聴く者の心に刻み込まれ、何度も聴きたくなるのであろう。
*アルバム「Melodyphony」 収録

(ジルベスター・コンサート 2011 コンサート・パンフレット より)

 

 

-アンコール-
・Merry-go round
※パンフレットには曲紹介ありますが実際にはアンコールにて演奏

・Madness
映画『紅の豚』より。ダイナミックなフルオーケストラと久石譲のピアノが激しく競演するコンサートでは昔からの定番曲であり、人気のある楽曲です。

・My Neighbour Totoro
映画『となりのトトロ』より。主題歌「となりのトトロ」のフルオーケストラ・バージョン。壮大で弾けるようなトトロのメロディに思わず口ずさんでしまう、子どもから大人まで親しまれている楽曲です。

・夢の星空 (ピアノ・ソロ)
オリジナル・ソロアルバム「ETUDE」より。久石譲のピアノ・ソロ曲。ノンタイアップながら一度聴いたら忘れられないキャッチーで優しく美しいメロディです。

 

と、アンコールの曲解説はさらりと紹介する感じで。

さすがジルベスター・コンサート!お祭りコンサートと言わんばかりの大盤振る舞いなプログラムです。なかなかこのラインナップは昨今拝むことはできません。アンコールの出し惜しみない選曲や曲数もふくめて。

 

そしてこの「ジルベスター・コンサート 2011」で特徴的なことがふたつ。

  • 第1部 ~ 第3部までのプログラムすべてこのコンサート初演
  • 久石譲のピアノ演奏プログラムが多い

 

特に、ピアノ演奏に関しては、指揮者の金 洪才さんがいるため演奏家に専念できたということですね。ここ数年では、ほぼプログラム全楽曲の指揮者は久石譲ですので、指揮をしながら、楽曲によってはピアノを演奏に、また指揮に戻る、という感じで、ピアノに座ったまま1曲通してということも希少なくらいです。だからこそ上記2点をふまえて、この「ジルベスター・コンサート 2011」はとても贅沢な内容だったと思います。

もちろん近年のスタイルとなっている久石譲全曲指揮。久石譲がタクトを振ることで、久石譲作曲の音楽たちは、のびのびと羽ばたき、会場に独特の空気感を響かせます。

 

そしてこのコンサートの終盤に久石譲MCにより「今年をもってジルベスター・コンサートを終わること」「ゆっくりと作曲に専念する時間をつくるため」「ずっと同じままじゃだめ、変わっていかなければ」「また曲をたくさん作って、持ってきます!」といったことが語られたようです。

 

 

あれから3年、2014年大晦日に、ジルベスター・コンサートが帰って来ます。さて、今年は何が起きるのでしょうか?!すでにチケットはSOLD OUTとなっていますが、現時点での演奏予定プログラムはこうなっています。

 

久石譲 ジルベスターコンサート 2014 in festival hall

[編成]
指揮・ピアノ:久石譲
管弦楽:関西フィルハーモニー管弦楽団

[曲目] (予定)
久石 譲作曲
交響ファンタジー「かぐや姫の物語」
ウィンター・ガーデン
****** 休憩 *******
「風立ちぬ」第2組曲
「小さいおうち」
「水の旅人」
「魔女の宅急便」より Kiki’s Delivery Service for Orchestra
オリエンタルウィンド
などから演奏予定

こちら ⇒ Info. 2014/12/31 「久石譲 ジルベスターコンサート 2014 in festival hall」(大阪) 開催決定![10/01 update!]

 

 

3年間という月日で、ここまでコンサート構成も変わってくるのだなあとなんだか感慨深い思いもあります。「ジルベスター・コンサート 2014」を目前にひかえ、「ジルベスター・コンサート 2011」を振り返ってみました。

2006年から2010年までのシルベスター・コンサートプログラムは
こちら ⇒ 久石譲コンサート2005-

 

 

そして、上の久石譲MCもふくめてですが、久石譲オフィシャルサイト内 スタッフブログにて、なんとこの日の模様はとても詳細に記録されています。リハーサルから、本番、久石譲MCなどなど写真もたくさんあります。

ぜひそちらもタイムスリップしてのぞいてみてください。ジルベスター・コンサートに行けても行けなくても、そんな気分にひたりましょう!

公式サイト》》 久石譲オフィシャルサイト スタッフブログ 大阪 ジルベスターコンサート2011

「ジルベスター・コンサート 2014」のレポートも、スタッフブログならではの舞台裏まで!期待したいところですね。

 

ジルベスター・コンサート 2011

久石譲 コンサート 2011

特集》 久石譲 「ナウシカ」から「かぐや姫」まで ジブリ全11作品 インタビュー まとめ -2014年版-

Posted on 2014/12/26

*更新情報 2021.11 更新

 

1984年公開 映画 『風の谷のナウシカ』から
2013年公開 映画 『かぐや姫の物語』まで。

約30年にも及ぶスタジオジブリ作品と久石譲音楽。

 

宮崎駿監督とは長編映画全10作でコンビを組み、高畑勲監督とは最新作で遂に相思相愛の初タッグを果たしました。2013年は宮崎駿監督の長編映画引退発表もあり、同年『風立ちぬ』『かぐや姫の物語』とジブリ2大巨匠との仕事という、メモリアルイヤーとなりました。

 

ちょうど1年経過した今、総決算まとめです。

ジブリ公式ガイトブックである各映画の「ロマンアルバム」に収められた久石譲インタビューからジブリ映画音楽を振り返ります。ロマンアルバムからを一部抜粋していますので、気になる作品や読み進めたいインタビューを紐解いてください。それぞれ映画ごとロマンアルバム以外での久石譲インタビュー関連を紹介していますので、もっと深く知りたい方には完全に網羅できる内容です。

 

宮崎駿監督 長編映画 全10作
高畑勲監督 長編映画 最新作

この計11本の映画インタビューです。

 

でも、実は久石譲のジブリ関連作品はこれだけではありません。三鷹の森ジブリ美術館でのみ上映されている短編映画(2本)もあります。さらには同美術館でのみ聴くことができる展示室用BGMも手がけています。これに関しては書籍ではなくCD作品などから情報をご紹介します。

好きなあの曲、好きなあの映画、気になっていた音楽、作曲家自身の制作秘話や言葉によって、今まで聴いていたメロディとはまた違った新しい響きがしてくると思います。ジブリ映画、ジブリ音楽、そして久石譲音楽。30年以上にも及ぶジブリ×久石譲の音楽を知るということは、同じく久石譲音楽活動の約半分を知るということにもなります。

 

 

目次は下記のとおりです。

■目次■

-長編映画-
『風の谷のナウシカ』(1984年) 監督:宮崎駿
『天空の城ラピュタ』(1986年) 監督:宮崎駿
『となりのトトロ』(1988年) 監督:宮崎駿
『魔女の宅急便』(1989年) 監督:宮崎駿
『紅の豚』(1992年) 監督:宮崎駿
『もののけ姫』(1997年) 監督:宮崎駿
『千と千尋の神隠し』(2001年) 監督:宮崎駿
『ハウルの動く城』(2004年) 監督:宮崎駿
『崖の上のポニョ』(2008年) 監督:宮崎駿
『風立ちぬ』(2013年) 監督:宮崎駿
『かぐや姫の物語』(2013年) 監督:高畑勲

-短編映画-
『めいとこねこバス』(2002年) 監督:宮崎駿
『パン種とタマゴ姫』(2010年) 監督:宮崎駿
『毛虫のボロ』(2018年) 監督:宮崎駿
『三鷹の森ジブリ美術館 展示室用音楽』(2001年-)

-bonus-
《あれから25年》
ジブリ映画に関するCD/DVD/楽譜 紹介
ジブリ映画に関する音楽賞受賞歴 紹介

音楽:久石譲

 

 

映画 『風の谷のナウシカ』(1984年) 監督:宮崎駿

風の谷のナウシカ ロマンアルバム

”音楽をナウシカの目を通して入れているんです。ナウシカの感情につけるのではなく、ナウシカが見て感じるものに入れていったわけで、そうやってアニメの虚構の状況というものを浮き出させようとしたんです。わりと成功したんじゃないかと思いますよ。”

 

 

映画 『天空の城ラピュタ』(1986年) 監督:宮崎駿

天空の城ラピュタ ロマンアルバム

”基本コンセプトとしては、やはり映画のイメージというものを基礎にして、愛と夢と冒険の感じられる音楽にしようということでした。具体的にいうと、メロディをキチッと聞かせるものにしよう、それも、子どもたちが聞いて、心があたたかくなるようなものにしよう、というのが基本的な考え方ですね。”

 

 

番外編 『風の谷のナウシカ』~『天空の城ラピュタ』まで

風と種子 久石譲の世界 ナウシカ・アリオン・ラピュタ sc1

久石譲・宮崎駿 当時の貴重なロングインタビュー収録

 

 

映画 『となりのトトロ』(1988年) 監督:宮崎駿

となりのトトロ ロマンアルバム

”エスニックなものと普通のオーケストラの曲を両方使うということでは『ナウシカ』以来一貫しているんですよ。ただ今回は、『さんぽ』 『となりのトトロ』という歌をメインテーマにして、ぼくらが”裏テーマ”と呼んでいた『風のとおり道』を木の出てくるシーンに使った。そのへんの構造がうまくいったのでよかったんじゃないかな。”

 

 

映画 『魔女の宅急便』(1989年) 監督:宮崎駿

魔女の宅急便 ロマンアルバム

”架空の国ではあるけれどもヨーロッパ的な雰囲気ということで、いわゆるヨーロッパのエスニック、それも舞曲ふうのものを多用しようということは考えました。たとえばギリシャふうですとか、そういうニュアンスを出したというのはありましてダルシマ(ピアノの原型となった民族楽器)とかギター、アコーディオンというふうにヨーロッパの香りのする楽器をたくさん使ったりしました。”

 

 

映画 『紅の豚』(1992年) 監督:宮崎駿

 

 

映画 『もののけ姫』(1997年) 監督:宮崎駿

もののけ姫 ロマンアルバム

”今回の作品は、今まで自分がやってきた音楽の作り方や考え方ではやり切れないだろうという予感があったので、やり方を全部変えちゃったんです。そうしないと、もう一つ上にいけそうにない気がして…。なんてバカな真似をしたんだろうと思うんですけど(笑)。でも、そのチャレンジがあったから、今までとは違う表現になれたような気がするところがありますね。”

 

 

映画 『千と千尋の神隠し』(2001年) 監督:宮崎駿

千と千尋の神隠し ロマンアルバム

”宮崎さんがさまざまなものを取り入れることであの世界に広がりを与えているように、僕もさまざまな音を取り入れることで、映画を見た人のイマジネーションを広げていきたいと思ったんです。かつてこれほど大胆に、フルオーケストラとエスニックな音を融合させたことはないと思いますよ。今回、コンサートホールを使ってライブ収録をしたのですが、正解だったんじゃないかな。宮崎さんは空気感を大事にする人だし、あの世界の拡がりを表現するためには、やはりオケが必要なんですよ。”

 

 

映画 『ハウルの動く城』(2004年) 監督:宮崎駿

ハウルの動く城 ロマンアルバム

”実際にジブリで自分でピアノを弾いて、宮崎さんと鈴木さんに聞いてもらいました。1曲目は、わりと誰が聴いても「いいね」と思えるオーソドックスなテーマでした。2曲目は、自分としては隠し球として用意していったワルツで。これは採用されないだろうと思って演奏したんですけど、途端に宮崎さんと鈴木さんの表情が変わって、すごく気に入ってくれたんです。それが『人生のメリーゴーランド』で、結局3曲目は演奏せずに終わりました。”

 

 

映画 『崖の上のポニョ』(2008年) 監督:宮崎駿

崖の上のポニョ ロマンアルバム

“最初の打ち合わせの時にもうこのテーマのサビが浮かんできました。あまりにもシンプルで単純なものですから、これはちょっと笑われちゃうかなと思って、2~3ヶ月くらい寝かしたんですけど、やはりそのメロディーが良いなと思って、思い切って宮崎さんに聴いてもらったところ、「このシンプルさが一番いいんじゃないですか」ということで。”

 

 

映画 『風立ちぬ』(2013年) 監督:宮崎駿

風立ちぬ ロマンアルバム

“まずは、オーケストラを小さな編成にしたことです。宮崎さんも「大きくない編成が良い」と一貫して言っていました。それから鈴木プロデューサーから出たアイデアで、ロシアのバラライカやバヤンなどの民族楽器や、アコーディオンやギターといった、いわゆるオーケストラ的ではない音をフィーチャーしたことです。それによっても、今までとは違う世界観を作り出せたんじゃないかと思います。”

 

 

映画 『かぐや姫の物語』(2013年) 監督:高畑勲

かぐや姫の物語 ロマンアルバム

“自分にとって代表作になったということです。作る過程で個人としても課題を課すわけです。これまでフルオーケストラによるアプローチをずいぶんしてきたのが、今年に入って台詞と同居しながら音楽が邪魔にならないためにはどうしたらいいかを模索していて、それがやっと形になりました。”

additional

 

 

 

 

2018.8 Update!!

「風の谷のナウシカ」から「かぐや姫の物語」まで。久石譲が鈴木敏夫プロデューサーらと作品ごとに語った貴重なエピソード。ラジオ番組対談書き起こし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三鷹の森ジブリ美術館 オリジナル短編映画

第3作 『めいとこねこバス』(2002年) 監督:宮崎駿

久石譲 『めいとこねこバス サウンドトラック』

三鷹の森ジブリ美術館オリジナル短編アニメーション第3作「めいとこねこバス」(2002年上映開始、原作・脚本・監督:宮崎駿)のサントラ盤。本作は映画「となりのトトロ」の後日談的な短編作品であり、久石が長編と同様に音楽を担当した。録音は2002年8月。

 

 

第8作 『パン種とタマゴ姫』(2010年) 監督:宮崎駿

久石譲 『ラ・フォリア パン種とタマゴ姫 サウンドトラック』

“今回の音楽は、宮崎監督が『パン種とタマゴ姫』を制作している時にずっと聴いていたというヴィヴァルディの『ラ・フォリア』という曲を素材としています。宮崎監督の映像が与えてくれるインパクトに沿う形で、古典曲を現代的なアプローチで再構築してはどうかと考えました。”

 

パン種とタマゴ姫 サウンドトラック sc 2

同美術館のショップ「マンマユート」でのみの販売されている本作サントラ盤は、ジャケットだけでなく内容も一部異なっており、本盤は最終的に映画で使用された構成で収録されている。録音は2010年10月。

 

 

三鷹の森ジブリ美術館 展示室用音楽

三鷹の森ジブリ美術館 サムネイル

同美術館でしか聴くことのできない、CD化もされていない楽曲たち。2001年開館への献呈、その後宮崎駿監督の誕生日プレゼントとして寄与されている。2014年現在、推定約5-7曲。

 

 

and

 

 

 

-bonus-

《あれから25年》

久石譲 in 武道館

上に紹介した各映画「ロマンアルバム」は、映画制作当時のリアルな久石譲インタビューです。ここでは、それから時間が経過し、2008年時点で振り返って映画ごとに語られた貴重なインタビューです。今だからこそ語れる、そんな秘話が満載です。

◇「ナウシカ」音楽で悔やまれること?!
◇「魔女の宅急便」演奏機会が増えた理由?!
◇「ハウル」メインテーマは4拍子が3拍子に?!

 

 

久石譲 in 武道館

”ナウシカの音楽は僕は大すきだ。本当に映画をさらに高めてくれる音楽を彼は書いてくれた。”(宮崎駿)

”思えば、アニメーションファンタジィにとって、このような世界を音楽でしっかりと支えてくれる作曲家の出現こそ、待望久しかったのである。”(高畑勲)

”こうして、ふたりのコンビは進化を続ける。宮崎駿が作り続ける限り、音楽は久石譲さんなのだ。”(鈴木敏夫)

 

 

《あれから30年》

オトナの!格言 久石譲

2014年2月放送 TBSトークバラエティ番組「オトナの!」を書籍化したもの。鈴木敏夫×久石譲×藤巻直哉による談話。ジブリの歴史を振り返るにふさわしい三者による秘話が満載。

”『ナウシカ』と『天空の城ラピュタ』で、宮崎×久石の名コンビが世間にも認知された。どちらも音楽担当をしていた高畑さんは、「だから自分が映画を制作するときには、久石さんに音楽を頼むことはできない」と話していたんです。ところが、突如『かぐや姫の物語』の音楽は、久石さんにお願いしたいと言い出した。”(鈴木)

 

 

 

《ジブリ映画音楽》 CD

他、多数

スタジオジブリ 宮崎駿&久石譲 サントラBOX

 

 

《ジブリ映画音楽》 受賞歴

 

久石譲 受賞

 

 

《久石譲》 楽譜

久石譲 楽譜紹介

 

 

この特集は久石譲インタビューをクローズアップしているため、サウンドトラックCDなどの紹介はしていません。また映画作品ごとに絞って語られたインタビューのみを取り上げました。その他コンサート、雑誌、TV、Web媒体などで語られている中に話題が出てくることありますが除外しています(コンサート・パンフレット、CDライナーノーツ含む)。

気になる方は、映画タイトルや曲名でサイト内検索窓にてキーワードを入れてみてください。いろいろな情報や秘話が見つかるかもしれません。

 

 

久石譲 ジブリ インタビュー

※宮﨑駿監督が描き下ろした絵

 

Blog. 「クラシック プレミアム 26 ~[ニューイヤー・コンサート] シュトラウス・ファミリー~」(CDマガジン) レビュー

Posted on 2014/12/25

クラシックプレミアム第26巻は、ニューイヤー・コンサート特集です。

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団による元旦恒例の「ニューイヤー・コンサート」。その歴史は1939年に始まり、綺羅星のごとき指揮者が登場して話題に。その名指揮者たちの極め付けの名演ばかりを集めた贅沢なアルバムとなっています。

 

”ウィーン・フィルが新年の贈り物として演奏する「ニューイヤー・コンサート」は、今や世界各国にライブ中継されており、世界遺産的行事と呼ぶにふさわしいものであろう。何よりも素晴らしいのは、ヨハン・シュトラウスII世を核とするウィーンの調べの数々であるし、それを演奏するのがウィーン・フィルハーモニー管弦楽団という世界最高のオーケストラなのである。しかも、指揮者は世界的な名声を誇る名演奏家なのだ。”

と解説冒頭にあります。

 

【収録曲】
ヨハン・シュトラウスII世
ポルカ《雷鳴と電光》 作品324
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
録音/1987年

《常動曲》 作品257
小澤征爾指揮
録音/2002年

ワルツ《春の声》 作品410 (ヴァーカル・ヴァージョン)
キャスリーン・バトル(ソプラノ)
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
録音/1987年

《トリッチ・トラッチ・ポルカ》 作品214 (ヴォーカル・ヴァージョン)
クラウディオ・アバド指揮
ウィーン少年合唱団
録音/1988年

ヨハン・シュトラウスII世&ヨーゼフ・シュトラウス共作
《ピツィカート・ポルカ》
リッカルド・ムーティ指揮
録音/1993年

ヨハン・シュトラウスII世
《チク・タク・ポルカ》 作品365
ヴィリー・ボスコフスキー指揮

ワルツ《ウィーンの森の物語》 作品325
カール・スヴォボダ(ツィター)
ロリン・マゼール指揮
録音/1983年

ポルカ《狩り》 作品373
ヴィリー・ボスコフスキー指揮

ワルツ《皇帝円舞曲》 作品437
クラウディオ・アバド指揮

ワルツ《芸術家の生活》 作品316
小澤征爾指揮

ワルツ《美しき青きドナウ》 作品314
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
録音/1987年

ヨハン・シュトラウスI世
《ラデツキー行進曲》 作品228
ヴィリー・ボスコフスキー指揮
録音/1979年

 

 

「久石譲の音楽的日乗」第25回は、
「ユダヤ人」と芸術表現をめぐって

前号での伏線をはった結びから、いよいよユダヤ人と視覚・聴覚のお題について佳境へと進みます。かなり話が多岐にわたり難しいのですが。

一部抜粋してご紹介します。

 

「前に「視覚と聴覚のズレを埋めるために、人は時空という概念を発生させた」という養老孟司先生の言葉を引用したが、「この視覚と聴覚のズレの問題こそ、ユダヤ教思想の確信なのだ」と内田樹氏は語り、自身の著『私家版・ユダヤ文化論』でさらに詳しく書いている。この本は何度も読み返したのだが(つまにそれほど難しいとも言えるが)まさに眼からうろこ、ユダヤ人を考えることは日本人、あるいは日本という国を考えるひとつの「ものさし」になるのではないかと思う。このことはまた後で触れるが、とにかく前回書いたように多くの音楽家を排出しているのだからクラシック音楽を考える上でも有意義なはずだ。」

「周知のこととして、ユダヤ教では偶像を作ることが禁じられている。偶像というのは空間的な表現なので、ここでは絶対的な禁忌とされるのだが、他方、時間というのはユダヤ教の宗教性の本質とされている。つまり時間的に神が先行していて人間は遅れてやってきた。この時間差が神の神聖性の重要なところで、「神を見てはならない」と言われる所以でもある。だから視覚的な神像を持つと、同一空間に同時的に存在することになるから禁止なのである。」

「このように造形芸術が原理的に禁圧されているから「いきおい信仰の表現が音楽に向かった」と内田氏は述べている。だが、空間的なものに対しての人間の欲求は強い。世界を見たい、経験したいという視覚的な確認は心を安心させるし、「百聞は一見に如かず」のとおり、強いインパクトを持つ。このためユダヤ教徒には強いストレスがあったと推察される。」

「彼らには伝統的に音楽や舞踏のような時間性を含んだ芸術表現は許されている。だからシャガールの絵がユダヤ人世界で許容されえたのは、その表現に時間性があるからではないか?フェルメールのように、と僕は考える。シャガールの絵には音、あるいは音楽が流れている。」

「また映画や演劇、ダンスは視覚芸術なのだが、時間性があるから許容されている。20世紀になって映画産業が急速に成長したとき、雪崩を打って参入したのはユダヤ人たちだった。おそらく伝統的な産業には人種的な壁があり、新規に立ち上がった映画産業が積年の(ユダヤ教としての)欲求不満を含めて解消してくれたのではないか。ハリウッドのメジャー8社のうち7社までがユダヤ人が作った会社なのはその表れである。」

「次に「ユダヤ人」とは誰なのかを考えてみる。第1にユダヤ人というのは国民名ではない。ユダヤ人は単一の国民国家の構成員ではない。第2にユダヤ人は特定の人種ではない。ロシア系、ドイツ系、フランス系など世界のあらゆる人種に混じっていて特定できない。第3にユダヤ人はユダヤ教徒のことではない。キリスト教徒のユダヤ人は欧米ではかなり存在する。それではユダヤ人とは誰なのか?何をもってユダヤ人とするのか?」

「さらに内田氏は「ユダヤ人」の定義について疑問を呈し、「『ユダヤ人』というのは日本語の既存の語彙には対応するものが存在しない概念である」とし、「この概念を理解するためには、私たち自身を骨がらみにしている民族誌的偏見を部分的に解除することが必要である」と説く。」

「つまり日本人の常識では「『国民』というのは、原理的には、地理的に集住し、単一の政治単位に帰属し、同一言語を用い、伝統的文化を共有する成員のこと」であって、「外国に定住する日本人、日本国籍を持たない日本人、日本語を理解せず日本の伝統文化に愛着を示さない日本人、そのようなものを私たちは『日本のフルメンバー』にカウントする習慣を持たない。それは私たちにとっても『自明』である」と。だが、この考え方をユダヤ人に当てはめると「自明」ではなくなる。」

「ユダヤ人というのは国民でもなく、人種でもなく、ユダヤ教徒のことでもない。このあと、内田氏はかなり抽象的な、あるいは哲学的な命題として「ユダヤ人とは誰か」について書いているのだが、中途半端な引用は、かえって誤解を招く怖れがあるので、興味のある人は前述の本を読んでいただきたい。」

「我々日本人は、できるだけ人種や宗教の話を避けているように思う。いや、興味がないともとれる。それは一億総親戚のような国民なのだから、隣の人と肌の色も違い、生活習慣や考え方も違うなかでどう折り合っていくか、を考えなくても済んでいたわけだから、ある意味当然だと言える。つまり平和な国なのである。「言わずもがな、わかるだろう」的な日本人特有の感性が、この風土で生まれたわけだ。しかしユダヤ人は各国に散らばり、各人種と混じりながらホロコーストなど2000年にわたる迫害の中で生き延びた。そしてノーベル賞受賞者の20%は彼らであり、彼らの作った音楽は我々に生きる意味を今でも問うている。僕らはユダヤ人から学ばなければならないことがたくさんある。」

 

 

うーん、部分抜粋だと前後の脈略ふくめ、より理解しずらいため、今回はほぼ書き起こしましたが、それでも難しいですね。さながら、音楽の講義なのか歴史?哲学?宗教?人類論?その範囲がわからなくなってしまいますが、いや、音楽は音楽のみで語るべからず、多角的に広く深く捉えること、知ることが、どの分野でも大切なことですね。

 

クラシックプレミアム 26 ニューイヤー・コンサート

 

Blog. 「クラシック プレミアム 25 ~グレゴリオ聖歌からバロックの始まりまで~」(CDマガジン) レビュー

Posted on 2014/12/24

クラシックプレミアム第25巻は、グレゴリオ聖歌などです。

音楽の父と言われているバッハよりもさらに前、つまり西洋音楽の起源です。本来音楽とは神に捧げるものとして捉えられていました。のちに宮廷音楽となり自己表現やエンターテイメントとなっていくわけですが、このグレゴリオ聖歌はつまりは宗教色の強い音楽ということになります。

 

【収録曲】
グレゴリオ聖歌
《めでたし、めぐみに満てるマリア》
アンティフォナ《めでたし女王、あわれみ深きみ母》
フーベルト・ドップ指揮
ウィーン・ホーフブルクカペルレ・コーラスコラ

十字軍の音楽
ワルター・フォン・デル・フォーゲルワイデ:《パレスチナの歌》
獅子心王リチャード:《囚われ人は》
ノートルダム楽派
ペロタン:《地上のすべての国々は》
アルス・アンティクワ

作曲者不詳:《アレルヤもてほめ歌え》 《いま愛は嘆く》
アルス・ノヴァ
マショー:《ダヴィデもホケトゥス》
デイヴィッド・マンロウ指揮
ロンドン古楽コンソート

中世の巡礼の歌 - モンセラート修道院
《星よ、陽の光のように輝いて》 《乙女を称えましょう》
フィリップ・ピケット指揮
ニュー・ロンドン・コンソート

ルネサンスの音楽 - フランドル楽派
オケゲム:《レクイエム》より 〈イントロイトゥス〉 〈キリエ〉
ブルーノ・ターナー指揮
プロ・カンティオーネ・アンティクワ、古い音楽のためのハンブルク管楽アンサンブル
ジョスカン・デ・プレ:《めでたし、マリア、清らかなる乙女》
ポール・マクリーシュ指揮
ガブリエリ・コンソート

バロックの始まり
モンテヴェルディ:歌劇《オルフェオ》より
〈トッカータ〉 〈私は愛するペルメッソの川から〉

ジョン・エリオット・ガーディナー指揮
イングリッシュ・バロック・ソロイスツ

 

 

「久石譲の音楽的日乗」第24回は、
イスラエル・フィルを聴いて思ったこと

自身の演奏会についても語ることの少ない久石譲ですが、今回は自らが観客としてクラシックコンサートに行ったときのことを、作曲者や指揮者としての視点も織り交ぜながらかなり深く深く。クラシック音楽といっても、今日演奏される楽曲、指揮者、楽団などによって、その奥にはいろいろな背景があるのだな、と興味深く読み進めました。

一部抜粋してご紹介します。

 

「先日、ズービン・メータ指揮、イスラエル・フィルを聴きに行った。日曜日の午後、穏やかな日だった。僕自身は作曲の進行がはかばかしくなくて、とても人の演奏など聴く気になれなかったが、高いチケットを無駄にしたくないし、気分転換も兼ねてサントリーホールに出かけた。」

「曲目はヴィヴァルディ「4つのヴァイオリンのための協奏曲」、モーツァルト「交響曲第36番ハ長調《リンツ》」、チャイコフスキー「交響曲第5番ホ短調」だった。見ての通り大変クラシカルなプログラムで気乗りがしなかった原因もここにある。」

「さてヴィヴァルディは全員立奏でこれはオープニングとして華やかだったし、寛いだ雰囲気も醸し出していて良かった。続いてのモーツァルトはテンポは遅いが、ヨーロッパの伝統そのものと言いたくなるほど王道を行く演奏だった。モーツァルトは難しい。誰が演奏してもそこそこの音はするが様になることは滅多にない。特に日本のオーケストラでは味気ない演奏に何度か出くわした。」

「イスラエルは、中東のパレスチナに位置していて、第二次世界大戦後の1948年に建国されたユダヤ人中心の国家だ。その国のオーケストラ(1936年にパレスチナ管弦楽団として設立された)がなんでこのようなヨーロッパの王道を行く演奏をするのか?そんな疑問を持ちながら休憩後のチャイコフスキーを聴いた。この「第5番」は僕が指揮者として初めて振ったシンフォニーでもある。だから思い入れもあるし、自分の解釈にこだわっている楽曲でもある。」

「ズービン・メータの指揮は手堅く、オーケストラに自由度を与えながらも締めるところは締め、見事なアンサンブルを引き出した。逆に全体がよく見えるような演奏だったために楽曲の持つ基本的な問題、あるいは作曲者がたぶん最後まで迷った、あるいはやりきれなかったことをあぶり出していた。このことに触れると長くなるが、冒頭にクラリネットで演奏されるホ短調の「循環テーマ」あるいは「運命のテーマ」とも言われている主題(これが何度も出てくる)をどう扱うかで成否が決まると言っていい。特に第4楽章の冒頭に同じテーマが、今度はホ長調で出てくるのだが、多くの演奏では、まるで凱旋するように晴れがましく堂々と演奏してしまう。だがスコアをよく見ると第1楽章の冒頭のテーマが弦に変わったのと若干楽器が増えたりはするが、伴奏などの音の構成、配置は一緒なのだ。マイナーがメジャーに変わっただけ、だからここは我慢してやや晴れがましい程度にしておきたい。確かにスコアにはmaestoso(荘厳に)とは書いてあるがまだ辛抱、徐々に盛り上げ、次に登場する第1主題を際立たせる、逆に言うとそうしないと第4楽章の第1主題が際立たない。おそらくチャイコフスキーが最も悩んだ点であり、初演後も本人が納得しないで悩み続けたのはこの「循環テーマ」の仕様と各楽章の主題との整合性だったのではないかと僕は考えている。」

「ともあれズービン・メータ、イスラエル・フィルはその飾りのない演奏(でも遅くて好みではないが)ゆえにこの楽曲の構造を詳らかにしてしまった。ちなみにズービン・メータはユダヤ人ではないが、大の親ユダヤ派である。実は密かにチャイコフスキーはユダヤ人ではないか?と考えていた。なぜかと言うとあの色濃いメランコリック(でもさめた目線ではないが)はユダヤ人共通のものだから。が、これは全く違っていた。」

「ユダヤ人の音楽家は多い。作曲家だけでもメンデルスゾーン、グスタフ・マーラー、アルノルト・シェーンベルク、ダリウス・ミヨー、アルフレート・シュニトケ、ジョージ・ガーシュウィン、スティーヴ・ライヒ、レナード・バーンスタインなど、まだ書き切れないが古典派から現代まで連なっている。演奏家ではアルトゥール・ルービンシュタイン、ヴラディーミル・ホロヴィッツ、ヴラディーミル・アシュケナージ、ダニエル・バレンボイム、ユーディ・メニューイン、イツァーク・パールマン、ギドン・クレーメル……、いやーこれではクラシックの歴史や今日の音楽界の中枢はほとんどユダヤ人ではないか。少なくともユダヤ人を除いてはクラシックを語ることができない。」

「なるほど、地理的にはヨーロッパの中心ではないイスラエル・フィルだが、ユダヤ人という観点から見ると正しくこのオーケストラはクラシック音楽の中心であり、歴史を作ってきたのは彼らの数世代前の人たちなのだから、彼らが直系なのである。王道の演奏は当然だった。ちなみにこのオーケストラの団員が全員ユダヤ人ではないであろうし、イスラエルという国も人口比で20%がアラブ人ではある。」

「ではユダヤ人の画家はどうか?マルク・シャガールしか思い浮かばない。他にもいるとは思うけれど、僕の知っている範囲では彼だけだ。このバランスの悪さ、星の数ほどいる音楽家とほとんどいない画家の差は一体どこからきているのだろうか?」

「実はここにも視覚と聴覚の問題が絡んでいる。いよいよ本題である。」

 

この結び、次号が楽しみです。

 

クラシックプレミアム 25 グレゴリオ聖歌

 

Blog. 宮崎駿×高畑勲×鈴木敏夫、久石譲音楽を語る 『久石譲 in 武道館』より

Posted on 2014/12/20

2008年に行われた伝説的コンサート「久石譲 in 武道館 ~宮崎アニメと共に歩んだ25年間~」そのコンサート・パンフレットは永久保存版です。そのなかの久石譲の8ページにも及ぶインタビューはすでに紹介しています。

こちら ⇒ Blog. 久石譲 「ナウシカ」から「ポニョ」までを語る 『久石譲 in 武道館』より

 

ここでは同パンフレットより、こちらもあまり普段から語られることのない貴重なメッセージ。宮崎駿監督、高畑勲監督、鈴木敏夫プロデューサーというジブリの3本柱が、総括するコンサート企画だったからこそ、あらためて歴史を思いかえし、久石譲音楽について語った貴重な内容です。

 

 

宮崎駿

風の谷のナウシカの準備室は、ある雑居ビルの潰れたバーのあとだった。たしか1983年6月。客用のテーブルや椅子がそのままの汚れたガラス窓の中で、僕はひとりきりで呻吟していた。自分の原作を映画化するのは想像したよりずっとややこしい作業だった。映画の全体像をつかまえようと焦りながら短い準備時間は刻々とへっていく。そんな時に若い音楽家の訪問をうけた。

30代の久石譲さんだった。

音楽の打合せの時、いまでも途方にくれるのはどんな映画になるのか監督たる自分に判っていないことだ。それなのに久石さんはいつも前向きで、ナウシカの時も僕の描きちらしたスケッチをいくつか眺め、しどろもどろの僕の話に何度もうなずき、その間に、何かひらめいたのかひとみを輝かせていた。

最初の打ち合わせは1時間もかけなかったと思う。

ナウシカの音楽は僕は大すきだ。本当に映画をさらに高めてくれる音楽を彼は書いてくれた。あの準備期間のチリチリする時に、久石さんと出会えたのが映画の運なのだと思う。

あれからもう25年もたった。

久石さん、ずい分永いことおつきあいして下さってありがとう。久石さんに出会えて良かったなあと思っています。

 

 

高畑勲

しあわせな出会い -久石譲と宮崎駿

「風の谷のナウシカ」のイメージレコード、「鳥の人…」。その第一曲「風の伝説」に針をおろす。風音の前奏に幅の広いリズムが打ちこまれ、やがてピアノが途切れがちにうたいだす……。すべてはここからはじまった。このピアノの音型は映画「ナウシカ」の中心テーマとなり、様々な姿をとりながら、久石氏のライトモチーフとして映画「天空の城ラピュタ」の重要なテーマにまで発展していく。

イメージレコード完成の半年後、映画「風の谷のナウシカ」のオールラッシュが行われ、映画音楽の打ち合わせに入った。おそらくこの時点で、宮崎駿の世界と久石譲の音楽がこれほど相性が良いと気付いていた人は誰もいなかっただろう。

無国籍でありながら、何らかの民俗色地方色をもち、とはいえ、土着の闇はなく、いわば都会的な「引用」であり、きわめて重いものを扱っていながら、どこか軽さがあり、現実にはあり得ない世界でありながら、密度濃いリアリティや存在感に支えられる必要があり、どんなにリアルにみえても、やはり人工的につくりあげられた自然や人物であり、自然をうたいながら、メカニックなものやスピードへの愛着もひとしおであり、必要な複雑さに到達しているイメージも、分解すれば、単純明快な要素の組み合わせであり、感情の表出は直接的であるよりは、情況のなかで支えられる必要があり……。

思えば、アニメーションファンタジィにとって、このような世界を音楽でしっかりと支えてくれる作曲家の出現こそ、待望久しかったのである。

『映画を作りながら考えたこと』(徳間書店刊)より「しあわせな出会い -久石譲と宮崎駿」の冒頭部分を抜粋
(初出:アニメージュレコード「久石譲の世界」ライナーノーツ 1987.3.25 徳間ジャパン)

 

 

鈴木敏夫

ふたつの主題歌

「風の谷のナウシカ」と「天空の城ラピュタ」で活劇ファンタジーに大きな才能を発揮した久石さんが、次に見せてくれた意外な一面は少女モノに於いてだった。

原田知世主演の「早春物語」。映画の内容はよく覚えていないが、音楽だけはいまも耳に残っている。久石さんは、少女の揺れ動く心を見事に表現した。これが、後の「魔女の宅急便」に生きてくる。

が、「となりのトトロ」のときだけは、勝手が違っていた。映画を作り始めてすぐに、宮さんが、当時、六本木にあった久石さんの事務所へ行こうと僕を誘った。

「子どもたちが大きな声を出して歌える主題歌が欲しい」

久石さんは、「やりましょう」と快諾してくれたが、その後の様子がヘンだった。というのも、中川李枝子さんと宮さんの詩は、どんどん出来あがるのに、肝心の曲が出来てこない。時間だけが、空虚に経過して行く。レコード会社の担当者に詰め寄ると、案の定、久石さんがハタと困り果てているらしい。注文のテーマは、子どもの歌。つまり、童謡のような歌だ。おいそれと簡単に出来るはずがない。

そうこうするうち、久石さんがある行動に出たという話が伝わってきた。有線放送で、子どもの歌のチャンネルを契約し、一日中、かけっぱなしにして、勉強のために数日間聴き続けているというのだ。産みの苦しみで七転八倒する久石さんの姿が目に浮かんだ。

ぼくは、久石さんを励ますために、一計を案じた。

出来上がった詩の中から、宮さんの書いた「小さな写真」を選び、これを久石さん自身が歌ってみないかと持ちかけたのだ。久石さんの疲れた表情に赤味が差した。ぼくと宮さんが事務所を訪ねてから、はや半年以上が過ぎようとしていた。

こうして久石さんは、今や学校の教科書にも載っている名曲「さんぽ」や「となりのトトロ」を書き上げる。久石さんの得意技のひとつに子どもの歌が加わったのだ。天賦の才能だけではない、久石さんの知られざる努力家の一面である。

その後、20年たって宮さんは再び、子どものための作品を手がける。「崖の上のポニョ」だ。宮さんはもう一度「子どもたちのための歌」を久石さんにリクエストする。だが、今回の久石さんは「トトロ」のときとは違っていた。最初の打ち合わせの時、既に、「ポーニョポーニョポニョ~」のメロディが頭に浮かび、その後、一気呵成に曲を仕上げてしまう。今度は宮さんがプレッシャーを受ける番だった。その頃、「ポニョ」の物語はまだ半分しか出来上がっていない。

しかし、宮さんは、この天衣無縫な明るい曲を心の底から気に入り、この曲を映画のエンディングに使うことを決める。「子どもたちが明るい気持ちで家路につくことのできる映画を作ろう」。ひとつの歌が、映画の全体に影響を及ぼした瞬間だ。それからだ、それまで順調に上がっていた絵コンテの筆が突然、滞る。宮さんの苦しみが始まった。どういうストーリーにすれば歌に相応しい結末が作れるのか──。

そして今、宮さんは語っている。「この曲がなかったら、僕はポニョを上手に着地させることができなかった」。20年前とは、すっかり立場が逆転していた。

こうして、ふたりのコンビは進化を続ける。宮崎駿が作り続ける限り、音楽は久石譲さんなのだ。

(「久石譲 in 武道館 ~宮崎アニメと共に歩んだ25年間」 コンサート・パンフレット より)

 

 

それぞれお三人のキャタクターや人間性も随所に現れた文章と久石譲への思いそれぞれの表現方法だなあとしみじみ思います。これだけスタジオジブリと久石譲は共に歩んできたなかで、半ば身内のような感覚もあるのでしょう。だからこそ身内を良く言い過ぎることがないように、ということと同感覚で、これまでに監督自身があらためて久石譲音楽の功績を語ることはなかったように思います。それだけにここに収めらたメッセージと想いは、とても奥ゆかしく思えます。

 

 

最後に同コンサートパンフレット巻末に収められた久石譲メーッセージを記して。

 

 

宮崎さんの映画に入るとき、緊張のせいか、何故か直接関係のない行動を取ることが多い。

「もののけ姫」では、当時宮崎さんと司馬遼太郎さんの対談集が出版されたこともあり、1年間で『坂の上の雲』他ほぼすべての本を読破した。宮崎さんがこの映画に込めた思考の過程を少しでも知るための参考になれば、と考えたからだ。で、そのことを宮崎さんに話したら「そんなに読まなくてもいいですよ」と苦笑いされた。

「千と千尋の神隠し」では、何故かシトロエンの2CV(ドーシーヴォー)という車をインターネットで購入した。昔、宮崎さんが乗っていた車と同じタイプだ。タイヤの上にエンジンと人が乗っているというシンプルな車で、冷房も何もない。ジブリでの打ち合わせの時、早めについたので雨の中苦手なマニュアル車の練習をしていたら大エンスト。大きくバウンドして停止したところを傘をさした宮崎さんが怪訝な顔で立っていた。さながら「トトロ」のバス停のシーンである。「何してるんですか?」やっぱり宮崎さんがトトロに見えた。と同時に「千と千尋の神隠し」での冒頭で書くべき世界が観えた。

気づいてみれば25年、1作1作を精一杯(チリチリ心が痛む日々だったが)作ってきたのだけれど、すべてが昨日のことのようにも思える。

たしかに大きなハードルだったが、それぞれを乗り越えることで、作曲家として、一人の人間として一回り大きくなれた、と思っている。

その高いハードルを与えてくれた宮崎さん、鈴木さんには心から感謝しています。

人が一生に出会えるかどうかの、貴重な人生の師を神様は与えてくれた。いつまでも宮崎さんに曲を頼まれるような、作曲家でありたいと心から願う。

今でも「風の谷のナウシカ」での出会いを鮮明に覚えている。今回のオープニングで演奏する「ナウシカ」の冒頭のティンパニの連打が瞬時に我々を宮崎ワールドに誘い、会場にいるすべての人の心が一つになることを夢見ている。いつまでも記憶に残ることを願う。

2008年 夏 久石譲

 

 

Related page:

 

久石譲 in 武道館

 

Blog. 久石譲 「ナウシカ」から「ポニョ」までを語る 『久石譲 in 武道館』より

Posted on 2014/12/18

「久石譲 in 武道館 ~宮崎アニメと共に歩んだ25年間~」2008年に行われた一大コンサート。そしてそのコンサート会場で当時購入したパンフレット。改めて見返すとファンにはたまらない濃い内容だなと再認識できます。そのパンフレットのなかの8ページにも及ぶ久石譲インタビューです。

 

 

 

「ナウシカ」から「ポニョ」まで -久石譲、宮崎駿監督との9作品を語る

フェデリコ・フェリーニとニーノ・ロータ、ブレイク・エドワーズとヘンリー・マンシーニ、あるいはスティーヴン・スピルバーグとジョン・ウィリアムズなど、ある特定の映画監督と作曲家が25年以上もコンビを組み続けた成功例は、世界映画史を見てもごくわずかしか存在しない。今年7月に公開された「崖の上のポニョ」は、そうした成功例に新たな一組を付け加えることになった。1984年公開の「風の谷のナウシカ」から一貫してタッグを組み続ける、宮崎駿監督と久石譲である。

-久石さんが宮崎監督と初めて顔合わせをされたのは、1983年の夏のことですよね。

久石:
よく覚えているのは、阿佐ヶ谷にあるナウシカの準備室に案内された時。壁に「ナウシカ」のイメージボードがたくさん貼ってあって、宮崎さんがいきなり「ナウシカ」の内容を説明されたのが、強烈に印象に残っています。

 

「風の谷のナウシカ」
1982年に発表したソロ・アルバム「INFORMATION」がきっかけとなり、久石は「ナウシカ」のイメージアルバム作りを依頼された。宮崎監督と久石の25年に及ぶコラボレーションは、この「ナウシカ」のイメージアルバム作りからスタートしたのである。

久石:
永福町のスターシップというスタジオにこもって、1ヶ月くらいで作りました。(「ナウシカ」のプロデューサーを務めていた)高畑勲さんがとても音楽に詳しく、「このイメージアルバムの中にすべての要素が入っている」と感じてくださったようで、本編の音楽も書かせていただくことになりました。

-メインテーマの《風の伝説》は、わずか30分で作曲なさった”伝説”があるとか?

久石:
朝、家でピアノを弾いている時にたまたま浮かんだ曲で。でも、実際に作曲するまでは、牛の反芻じゃないけど、考える時間が長くないとダメなんです。宮崎さんの作品の場合、僕が関わらせていただく時間はこのところ1作あたり、約2年。最初にお話を頂いてから半年か1年後にイメージアルバムを制作し、それからサントラの作曲には入るケースが多いです。クラシックのコンサートへ行ったり、絵を観たりして刺激を受けながら、継続的に音楽のことを考えています。思考する期間が長ければ長いほど、ありがたいですね。

-「ナウシカ」では《ナウシカ・レクイエム(遠い日々)》のバックの伴奏にサンプリング・マシーンを用いるなど、実験的な手法もかなり採り入れていますね。

久石:
当時、流行っていた三種の神器(シンセサイザーのプロフィット5、リン・ドラム、シーケンサーのMC4のこと)とシンセサイザーのDX-7を録音に使ったことが、今となっては悔やまれて。80年代のテクノ系のミュージシャンがみんな使っていた楽器ですが、今聴き直すと楽器特有のクセ、方法論が音楽に残ってしまっている。ただ、「ナウシカ」の音楽はそんなことが問題にならないくらい、燃焼度が高かったことも事実です。当時の僕はミニマル・ミュージックに傾倒していたため、ポップスのようにコード進行の細工をすることを嫌っていました。だから、思った以上にメロディに頼っていないんです。《風の伝説》も、出だしから途中まではほとんど同じコードで書きましたが、普通ならひとつのコードだけでメロディを書くことはありえません。ミニマル・ミュージックの作曲家として、自分が許容できるメロディのギリギリの書き方が、実は《風の伝説》だったんです。これだけピュアに音楽を書いたことはその後、ほとんどありません。宮崎作品はもちろん全作品大好きですし、音楽的な観点から言えば、次に書かせていただいた「天空の城ラピュタ」のほうが圧倒的にバランスがよいのですが、正直申し上げると、僕にとって別格なのはやっぱり「ナウシカ」なんです。

 

「天空の城ラピュタ」
スタジオジブリ設立後、最初の作品となった「天空の城ラピュタ」では、宮崎監督が久石の続投を強く望んだため、ふたりは再びタッグを組むことに。ミニマル・ミュージックやワールド・ミュージックの要素が強かった「ナウシカ」から一転し、久石はオーケストラを主体とした”冒険活劇の映画音楽”に初めてチャレンジする。

-「ラピュタ」の音楽では、やはり主題歌《君をのせて》の存在が大きいですね。

久石:
あれは夜中の11時ぐらいだったかな、他のシーンの音楽を書いていて疲れた時に、ふと浮かんだメロディだったんです。「ワクワクするような冒険活劇に暗いメロディは必要ないな」と、いったんはボツにしたんですが、宮崎さんとプロデューサーの高畑さんがとても気に入られて「歌詞を付けよう」という話になり、気がついた時には《君をのせて》がメインテーマになっていてビックリ(笑)。冒険活劇というと「スター・ウォーズ」に代表されるジョン・ウィリアムズのような曲を連想しますが、それとは正反対の《君をのせて》をメインテーマに据えることで、音楽の方向性が大きく変わった。宮崎さんと高畑さんが《君をのせて》のメロディに新たな意味づけをなされたおかげです。

-映像と音楽の密接な結びつき、という点では、「ラピュタ」は「ナウシカ」よりも遥かに高度なテクニックが用いられていますね。

久石:
親方とドーラの子分が殴り合いをするコミカルなシーンや地下で飛行石が光るシーンなどで、例えば殴った時に音楽が「ドン!」と鳴るような、画面と音楽が完全にシンクロする作曲の仕方は「ラピュタ」で大きく進歩したと思います。そうした効果音的な音楽の部分と、《君をのせて》のような音楽のメロディアスな部分をうまく融合させることができたので、自分としても大きな達成感がありました。

 

「となりのトトロ」
「となりのトトロ」は宮崎監督が初めて音楽演出も兼ね、久石との緊密なコラボレーションを打ち立てた記念作。今や童謡として親しまれている《さんぽ》と《となりのトトロ》は、歌に対する宮崎監督と久石の強いこだわりから生まれたものだ。

-「トトロ」の企画書の段階から、宮崎監督は「オープニングにふさわしい快活でシンプルな歌と、口ずさめる心にしみる歌の二つ」が必要だとおっしゃっていたそうですね。

久石:
最初の打ち合わせでは、「ナウシカ」や「ラピュタ」の時とは方向性を変え、歌のイメージアルバムを作ろう、という話になりました。そこで『いやいやえん』の作者・中川李枝子さんが詞をお書きになったのですが、普通の作詞家だったら「歩くの大好き、どんどん行こう、野原が見えて春風が……」とムードを醸し出す言葉を使うのに、中川さんの場合は「歩こう歩こう、私は元気」と非常に具体的な言葉になる。「これにどうやって作曲したらよいだろう……」と非常に苦しみました。自分がそれまで抱いていた「歌詞はこうあるべし」という先入観との戦いでしたね。ただ、《さんぽ》の最初のメロディだけは、打ち合わせの最中に浮かんだんですよ。そういう瞬間が訪れる時は、非常に幸せです。一方、《となりのトトロ》はお風呂に入りながら「トトロ、トトロ、トトロ……」と口ずさんで出来た曲。一番単純なのはソミドだから、「♪ソミド、トトロ、トトロ」。ソミドの次は、「♪ソミド、ソファレ……あ、いいね」。でももうちょっとリズミックに「♪トットロ、トットロ」となっていて。でも実は、映画全体の隠しテーマになっている曲が別にあるんです。

-冒頭にミニマル風の音形が出てくる《風のとおり道》ですね。

久石:
そうです。どちらかというと作曲に重点を置いて書いたのは、《風のとおり道》なんです。先ほど童謡的な2曲とは対極的に、日本音階を使いながらモダンな世界を作りましたが、これでようやく全体のバランスがとれる、という実感が湧きましたね。それから、バス停のシーンに出てくる《トトロ》という曲。「ン・パ・パ・パ・パ・パ・ウン」という7拍子の変わった曲なんですが、これも実はミニマルなんですよ。このテーマが出来るか出来ないかが、この作品では実は結構カギだったんです。はじめ、宮崎さんは「バス停のシーンに音楽は要らない」とおっしゃっていたのですが、鈴木さんは「絶対に必要だ」と。そこで鈴木さんが高畑さんにこっそり相談したところ、「やっぱりあそこは音楽を入れたほうがいいんじゃないか」という答えが返ってきた。それで僕が書いた《トトロ》の曲を宮崎さんに聴いていただいたら、とても喜びながら「やっぱり、このシーンに音楽付けよう!」と。その時、鈴木さんが「(前2作で音楽演出を務めた)高畑さん抜きの、宮さんと久石さんが初めて生まれた」とおっしゃってくださいました。「トトロ」のトラックダウンをしている時、「いやあ、こんなに音楽の現場って楽しいとは思わなかった。いつもこれ、高畑さんがやっていたのか。ずるいな」という宮崎さんの言葉が、とても印象に残っています。

 

「魔女の宅急便」
宮崎監督と久石の4作目「魔女の宅急便」の舞台は、ヨーロッパ風の架空の都市。リコーダーやアコーディオンが演奏するワルツのメインテーマ《晴れた日に…》をはじめ、久石の音楽もとりわけヨーロッパ色の強いものに仕上がった。サブテーマの《海の見える街》や《かあさんのホウキ》など、メロディメーカーとしての久石の才能が見事に開花した作品でもある。

-「魔女の宅急便」の音楽は、これまで演奏される機会が少なかったですね。

久石:
ええ、今までほとんど演奏したことがありません。ところが最近見直してみて、この作品の良さに衝撃を受けたんです。10代で都会に出てきたキキは、魔女なのに飛べなくなって悩んでしまう。これ、たぶん宮崎さんがジブリの中で絵を描く若い女性スタッフたちを見て、キキと同じように都会に出てきて、友達もあまりいなくて悩んでいるような姿をオーバーラップさせたんじゃないかと。「魔女の宅急便」の持つ哀しさって実は非常に奥が深いと感じたんです。今の時代、20代30代の若い人たちって、「どうなるんだろう、私の人生……」と不安を抱えながら、目の前に山積する課題をこなさなければならないでしょう?もしも世の中が前向きだったら、いろんな可能性を試せるけれど、これだけ社会が閉塞感の塊みたいになると、自分の未来を描くことすらできない。そういう今だからこそ、もう一度「魔女の宅急便」を見直すことが大事だと思うのです。「魔女の宅急便」に関しては、今回はちょっと期待していてください。

 

「紅の豚」
「魔女の宅急便」のヨーロッパ路線を一段と深化させた5作目の「紅の豚」では、軍楽隊のマーチや1920年代を彷彿とさせるジャズ、それにタンゴなど、イタリア的な色彩感に満ち溢れた久石の音楽が、宮崎監督の描くアドリア海の陽光の中に一段と映えた。

久石:
宮崎さんが考える”男の究極のロマン”が結実した作品ですね。個人的には、年齢的にもう少し余裕のある時期に書かせていただいたら、オーケストラだけに頼らない違ったアプローチで書けたのに……という反省も残っています。今回は《帰らざる日々》というジャジーな曲を、ピアノをメインに特別な演出で演奏します。「遅ればせながら、こういう大人の音楽がやっと今、できるようになりました」という、宮崎さんへのご挨拶です。

-工場から飛行艇が飛び立つシーンでは、久石さんのソロ・アルバム「My Lost City」に収録されていた《Madness》という楽曲が使用されていたのが印象的でした。

久石:
「My Lost City」というアルバムは、米国の小説家、スコット・フィッツジェラルドをテーマにしているんですが、彼の活躍した1920年代は世界大恐慌が来る直前の時期。「My Lost City」を制作した当時の日本のバブルの雰囲気とあまりにも合っていたので、ちょっと警鐘の意味も込めていたんです。「日本も、いつまでも浮かれていると大変になるよ」と思って。たまたま同時期に制作していた「紅の豚」のイメージアルバムも、1920年代がテーマ。それで宮崎さんに両方お送りしたら「My Lost City」をとても気に入られて「イメージアルバムと「My Lost City」を、取り替えてください」っておっしゃったんですよ(笑)。「飛行艇が飛び立つ場面で、どうしても《Madness》を使いたい」と。飛行艇が運河を疾走する場面って、「ミッション・インポッシブル」や「007」でもやっていますよね。これらの作品ができる十何年以上も前に、宮崎さんは「紅の豚」で完全に先取りしている。そういう意味でも、これはすごい映画ですよね。

 

「もののけ姫」
公開当時、日本の映画興行新記録を樹立した「もののけ姫」は、サントラ盤と主題歌シングルCDが共に50万枚以上の売上を記録するなど、音楽面でも大きな話題に。宮崎監督の壮大な世界観を表現するため、久石は大胆この上ないオーケストラ曲を書き上げた。

-和太鼓を使った映画冒頭の《タタリ神》からして、非常に凶暴な音楽ですよね。

久石:
イメージアルバムの段階で、最初に書いた曲です。映画として、普通は絶対に思いつかない導入の仕方でしょ?まず、ここを作曲しないと次に行けない、という気持ちが強くて。「もののけ姫」は”精神的世界での危機感”という作品のテーマを踏まえながら、「ナウシカ」以来の構え方で気持ちを引き締めて臨んだ作品です。「♪はりつめた弓の~」というメロディアスなテーマは比較的簡単にできましたが、この映画は、歴史を扱った一大叙事詩ですから、それだけの風格に見合ったメロディが絶対に必要だと考えて、1ヶ月半くらい悩んで書いたのが《アシタカせっ記》です。それと、最初は琵琶のような邦楽器を使っていたんですよ。ところが宮崎さんが「邦楽器は外してください」とおっしゃったので、目立つ部分だけ外しました。「♪もののけ達だけ~」という箇所の伴奏では、上の旋律線が南米のケーナという楽器で、3度下の旋律線が篳篥なんです。単にケーナで2つ重ねたら、音楽的にはノホホンとしてしまうのですが、そこにチャルメラ系の篳篥を重ねると、どちらの楽器が上を吹いているのか下を吹いているのかわからなくなるような、不思議な浮遊感が出てくる。こういった手法を隠し味として随所に散りばめました。

-もうひとつ忘れがたいのは、ラストの《アシタカとサン》のピアノのテーマですね。

久石:
宮崎さんが「すべて破壊されたものが最後に再生していく時、画だけで全部表現出来るか心配だったけど、この音楽が相乗的にシンクロしたおかげで、言いたいことが全部表現できた」と話されていたことが、とても印象に残っています。

 

「千と千尋の神隠し」
重量感あふれる巨大なオーケストラと、アジアの民俗音楽が不思議に融合した「千と千尋の神隠し」。今回の武道館コンサートでは、メインテーマ《あの夏へ》に覚和歌子の作詞を付けたヴォーカル・ヴァージョン《いのちの名前》を、平原綾香が歌うことも大きな話題のひとつだ。

久石:
”湯屋”という宮崎さんならではの独特の世界観を、音楽でどう表現するか。舞台は確かに日本だけど、我々の知っている日常とは違った視点で眺めた”アジアの中のニッポン”という位置づけで書いた作品です。例えば台湾の夜市って、夜中まで人が溢れているほどゴミゴミしていて、すさまじい勢いでモノを売っていますよね。ああいう”アジアの雑踏”のイメージです。

-その結果、ガムランや琉球音楽などの民俗音楽オーケストラに混ぜていったわけですね。

久石:
五音音階のようなアジアンテイストを音楽に入れ始めると、「シルクロードや中近東も”アジア”だろう」という捉え方になり、エスニックな楽器をどんどん入れていきました。そうした楽器と西洋的なフル・オーケストラは、普通は一緒に演奏しないものですが、どちらかを音楽のメインに据えるというのではなく、お互いが対等に存在できる方法を目指したんです。いま考えると不思議なアプローチですが、この作品や「もののけ姫」を書いた頃は、スタンダードなオーケストラにはない要素を導入しながら、いかに新しいサウンドを生み出していくか、というチャレンジを試みていた時期ですね。

 

「ハウルの動く城」
「ハウルの動く城」がそれまでの宮崎作品と大きく異なっているのは、音楽の大半がメインテーマに基づくヴァリエーション(変奏曲)で書かれていること。このメインテーマは久石の作曲後、宮崎監督によって《人生のメリーゴーランド》と命名されている。

久石:
宮崎さんは、この作品の音楽設計に関して最初から非常に明快な方針を打ち出されていました。「ソフィーという女性は18歳から90歳まで変化する。そうすると顔がどんどん変わっていくから、観客が戸惑わないように音楽はひとつのメインテーマにこだわりたい」と。そこでテーマの候補となるデモを3曲用意して、宮崎さんと鈴木さんの前で弾いたんですが、2番目に弾いたワルツの曲をお二人が「OK」とおっしゃって。内心は「このワルツを選んでいただければ」と思っていたので、とても嬉しかったです。

-そのメインテーマだけで音楽を押し通すというのは、すごい荒技だと思いました。

久石:
メインテーマに3拍子のワルツという形式を導入するということが、この作品では一番大きな決断だったかもしれません。これは非常に不思議なんですが、イメージアルバムを作曲した時、実はボツにした4拍子の曲があるんです。メロディの最初の部分もコード進行も、あとで作曲することになった《人生のメリーゴーランド》と同じ。イメージアルバムの段階では少しメロドラマ的だと思ったのでボツにしたんですが、あとで気が付いたら、その4拍子の曲を無意識のうちに3拍子に変えたものが《人生のメリーゴーランド》だったんです。「ハウル」という作品は、非常に上質なメロドラマですから、音楽もそれに見合った”メロドラマの波動”がなければいけない。結果的にワルツという3拍子を用いたことで、4拍子の時にあったベタベタした情感がそぎ落とされた。それが一番重要な点だと思います。

 

「崖の上のポニョ」
そして、最新作「崖の上のポニョ」の音楽では、これまでの宮崎作品で最大の編成となる三管編成のオーケストラが録音に用いられたほか、混声合唱が初めて導入されるなど、現時点での久石の集大成というべき色彩豊かなサウンドが展開する。

-まず驚いたのは、オープニング主題歌《海のおかあさん》をソプラノ歌手の林正子さんが歌われていたことです。

久石:
覚和歌子さんの詩をもとにしたイメージ・ポエムを宮崎さんからいただいた時、「文部省唱歌ではない”海の唄”が、もっと日本にはあってもいいですね」と宮崎さんがおっしゃっていたんです。それで出来上がったのが《海のおかあさん》ですが、「今回はクラシックもありですね」と宮崎さんにお話しして、林さんに歌っていただいたら非常に良かった。これを映画冒頭に使ったのは、プロデューサーの鈴木さんのアイディアです。「この曲で映画が始まるとすごいぞ!こんなことは今まで誰もやっていない」という、鈴木さん独特の嗅覚ですね。そのアイディアを宮崎さんも気に入られて、実は去年の夏の前には、オープニングは林さんのソプラノでいくと決まっていたんですよ。イメージアルバムを制作した段階では、本編をご覧になった時のお楽しみということで、敢えてヴァイオリンのインストゥルメンタルで録音しましたが。

-混声合唱を用いたのも、今回が初めてですね。

久石:
「ポニョ」では、クラシックの純正なスタイルをそのまま採りました。宮崎さんは、どちらかというと印象派のドビュッシーやラヴェルのような音楽で情景を描き出すのはお好きではないと思うので、僕も印象派的なアプローチをずっと避けてきたんです。しかし今回は”海”を舞台にしたファンタジーですし、これだけイマジネーション豊かな世界が展開しますから、音楽を書くための方法論として、印象派的なテイストが少し入ってもいいかな、と。「ポニョ」の物語は、とってもピュアなラブストーリーなんですよね。思春期の少年少女だと、いろんな思いが錯綜しますが、5歳ぐらいの年齢だと「好きは好き」とストレートに表現できる。その潔い感じが、今回どうしても宮崎さんが描きたかった部分のひとつだと思うのです。それと「ポニョ」は、どのシーンを見ても無駄なカットがひとつもない。宮崎さんは、本当に必要なぶんの長さのカットだけを、必要な配分だけできっちり作っています。だから、音楽もある程度ぶつかっていかないと、かえって足を引っぱってしまうのです。単音でメロディを演奏する箇所から、非常に分厚いオーケストレーションまで、振幅の幅が大きいですが、宮崎さんのための音楽だからこそ行くところまで行けた、という部分がありますね。

 

世界最大級の編成による最初で最後のコンサートを…

これら9作品の音楽が”全員集合”する今回の武道館コンサートでは、宮崎監督と久石が歩んできた四半世紀の歴史を壮大に響かせるべく、世界最大級の演奏人員が特別に用意された。当日、武道館のステージに並ぶのは、六管編成の管弦楽200名、児童合唱・一般公募の特別コーラス隊を含む混声合唱800名、マーチングバンド160名にソリストを加えた、計1160余名。これはマーラーの《交響曲第8番「千人の交響曲」》の世界初演(1910年ミュンヘンにて)で必要とされた、1030名をも上回る大規模な編成である。

-久石さんが宮崎作品だけのコンサートを開くのは、今回の武道館コンサートが初めてですね。

久石:
僕がコンサート活動を始めた頃から、「宮崎さんの映画音楽だけを集めた演奏会を」というご要望はたくさん頂いていました。だけど、現在進行形で映画を作り続けている宮崎さんを総括するような演奏会は、個人的にはしたくなかったんです。それでずっとお断りしてきたのですが、いつかはそうした演奏会を開くことになるだろう、という予感はありました。今回の「ポニョ」がちょうど9作目ですが、直感的に今が、その時期だとひらめいたんです。それと順調に次の作品も僕が作曲させていただくことになったとしても、その後では60代に突入してしまう(笑)。皆さんがお聴きになりたい曲をある程度網羅しながら、構成するのが腕の見せどころだと思っています。いわば宮崎さんの9作品という題材を得て、2時間で別の映画を作るような気持ちです。

久石がこれだけ大規模な編成にこだわったのは、武道館という広大な空間の中で出来るだけスピーカーに頼らず、生音のまま音楽を観客席に届けたいという、強い希望があったから。そのため公演全体を指揮する久石は、1160余名の大編成という、指揮者として音楽的に責任のとれるギリギリの限界値に挑戦する。

-今後、このように宮崎作品の音楽だけをまとめて演奏する計画はありますか?

久石:
一生に一回やれば充分なので、今回が最初で最後。会場を縮小して9本まとめて演奏する可能性もないですね。僕自身、現在進行形で活動する作家なので、旧作を演奏するのはそんなに好きではないんです。もう何度も演奏した過去の作品を並べるだけなら、今回のような演奏会のお話もお断りしていたかもしれません。しかし、今回は「ポニョ」を観客のみなさんの前で初めて披露する機会でもあるんです。コーラスを初めて使って書いた「ポニョ」の音楽を、武道館の海のような空間の中で、大人数の合唱団が演奏したらどうなるか?そう考えると、それだけでワクワクして燃えてきちゃうんですよ。武道館の本番では、「2008年、あの夏に見たのは、いったい何だったんだろう……」と何年後かにおっしゃっていただけるような、コンサートにしたいですね……伝説?

構成・文:前島秀国(サウンド&ヴィジュアル・ライター)

(久石譲 in 武道館 ~宮崎アニメと共に歩んだ25年間~ コンサート・パンフレット より)

 

 

8ページに及ぶこのインタビューは他にも見どころ満載。当時コンサート開催直前の熱い思いが伝わってくる貴重な資料です。

作品って最終的には受け手に委ねられると思うのです。出来上がったものをまっさらな心で純粋に感じたものがそうであり、それが人それぞれいろんな感情や解釈があっていい、という。もちろんそうなのですが、こういった「その完成するまで」の流れ、作り手のプロセスや思いなどを紐解いていくと、また違った印象や新しい受け手の思いや解釈が芽生えるのも事実です。

こういう経験(今回でいうパンフレットのインタビュー記事)で、作り手と受け手が繋がり呼吸し合い共鳴することで、なにかしらの芸術への尊い想いというものが生まれるのかなあ、と感慨深く思ってしまいました。そうしてまたこの9作品たちに触れてみたくなるのです。そして新しい発見や感動がまた見つかるかもしれません。

 

 

「久石譲 in 武道館」 関連記事

こちら ⇒ 特集》 久石譲 「ナウシカ」から「かぐや姫」まで ジブリ全11作品 インタビュー まとめ -2014年版-

こちら ⇒ Blog. 「オトナの!格言」 鈴木敏夫×久石譲×藤巻直哉 対談内容紹介
こちら ⇒ Blog. 「ふたたび」「アシタカとサン」歌詞 久石譲 in 武道館 より
こちら ⇒ Disc. 久石譲 『The Best of Cinema Music』
こちら ⇒ Disc. 久石譲 『久石譲 in 武道館 ~宮崎アニメと共に歩んだ25年間~ 』
こちら ⇒ Blog. スタジオジブリ 宮崎駿監督 × 久石譲 ディスコグラフィー紹介 まとめ

 

久石譲 in 武道館

 

Blog. 「クラシック プレミアム 24 ~ベートーヴェン5~」(CDマガジン) レビュー

Posted on 2014/12/15

「クラシックプレミアム」第24巻は、ベートーヴェン5です。

全50巻のクラシックプレミアム・シリーズにおいて、5巻にも渡って特集されているのは、このベートーヴェンとモーツァルトのみです。

ベートーヴェンは、第1巻にて、交響曲 第5番《運命》 交響曲 第7番 ほか、第9巻にて、交響曲 第3番《英雄》 ほか、第15巻にて、ピアノ協奏曲 第5番《皇帝》 ほか、第18巻にて、ピアノ・ソナタ《悲愴》《月光》《情熱》 がそれぞれ特集されています。

今回の第24巻にて、ベートーヴェン特集の締めくくりはやはり《第9》です。かつ、この師走の時期というタイムリーな発売スケジュールによって登場です。ベートーヴェンが52歳から54歳にかけて3年間を費やして完成させた最後の交響曲。交響曲のみならずクラシック音楽の巨大な金字塔と称されている《第9》。

それだけに多くの録音があり、また名盤も多いなか、フルトヴェングラーやトスカニーニによる歴史的名演から半世紀以上を経て、2000年に録音されたアバド指揮、ベルリン・フィルによる演奏は、その清新さ、作品の秘めたる構造美そのものに迫った演奏であるという点で特筆され、高い評価を得てきたそうです。

 

《第9》の解説や背景は、あらゆる書物などでも紹介されていますので、ここでは違った視点で興味深かった本号からの解説をご紹介します。

なぜ日本で《第9》がここまで愛されているか?

これもまたいろいろ諸説がありまして、おそらくここでも紹介したと思いますが「楽団への年末年始の餅代」という背景が一般的です。そこあたりのことは久石譲も同じように語っています。

こちら ⇒ Blog. 「考える人 2014年秋号」(新潮社) 久石譲インタビュー内容

それとはまた違った面白い考察があり、なるほど!と唸ってしまいました。

 

「合唱が使われることによって、アマチュアがベートーヴェンの作品に積極的に関われる可能性ができたことも、この作品の魅力を倍加した。音楽の場合、ただ聴くだけではなく参加できることがどれほど大きな喜びをもたらすかは誰もが感じるところだが、どのような楽器でも、ベートーヴェンを弾きこなせるまで習熟することは並大抵ではない。それに比して合唱は、誰もが比較的容易に近づくことができる演奏参加手段なのである。そして、わが国における昨今の合唱ブームも背景にある。」

「神のような存在であるベートーヴェンが発したメッセージを持つ作品を、さらには誰もが共感できる高邁な理想をうたったベートーヴェンのメッセージを、自らも演奏者の独りとなって訴えることができる喜び。もちろん歴史に屹立する作品の偉大さが大きな要因の一つとなったことは言うまでもないが、おそらくそうした二つの条件(ひとつは、明確な歌詞(言葉)によって大合唱で歌われるという豊かなメッセージ性への魅力)が、この作品をとりわけわが国において類例のない存在に押し上げたのだ。」

 

どこがポイントかってここだったんです。

【ベートーヴェンという偉大な作曲家の作品、かつ弾きこなすことは並大抵ではない作品を、合唱という比較的容易に近づくことができる演奏参加手段によって】

なるほどなー!と一気にいろんなことを納得してしまいました。なぜ《第9》が愛され続けるのか、そしてなぜ一般人含め参加したくなるのか。年末になるといろいろなコンサートやイベントでこの《第9》がフィーチャーされます。そこにはプロ・アマ問わず、とりわけ合唱には参加型の形式も多くあります。

音楽は聴く楽しみと、そのさらに先には演奏する・参加する楽しみがあると上にも書かれていますが、それはむろん、さらにそこへ、【本来ならばとっつきにくい偉大な古典クラシック音楽に参加できる喜び】が加わるわけなんですね。

「合唱」というキーファクター、そしてそれはイコール、参加しやすい「人が楽器と化す」演奏形態とも言えるわけです。だからこそ世紀を越えて親しまれている音楽であり、残っている音楽なんだな、と、音楽の引き継がれかた、未来への残りかたというものを《第9》を通して考えていました。

歌曲だから強い、歌詞があるから親しみやすい、というわけではないんですよね。実際にクラシック音楽のそのほとんどは歌曲ではなく器楽曲です。

上の考察とは矛盾しているようですが、合唱があったから残った《第9》なのか、《第9》が存在しなくても、第5番・第7番・第3番などでその偉大さは堅持できたのか、CDを聴きながらベートーヴェンの魅力から音楽の不思議さへと思いを巡らせていました。

 

 

【収録曲】
ベートーヴェン
交響曲 第9番 ニ短調 作品125 《合唱》
カリタ・マッティラ(ソプラノ)
ヴィオレータ・ウルマーナ(メゾ・ソプラノ)
トーマス・モーザー(テノール)
トーマス・クヴァストホフ(バス)
エリク・エリクソン室内合唱団 / スウェーデン放送合唱団
(合唱指揮:トヌ・カユステ)
クラウディオ・アバド指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音/2000年

 

 

もうひとつ、前号からの続きで「名演とは何か」のコラム(下)もおもしろかったので、一部抜粋して紹介します。名演のことと、そこから派生してカリスマ演奏家が姿を消している背景まで。

 

「例えば20世紀最大のピアニストと言っても過言ではないヴラディーミル・ホロヴィッツ。ショパンやリストやラフマニノフについて、彼はそれを超えることはほとんど不可能とも思える名演の数々を残した。しかしそれらが作品に忠実な演奏かといえば、必ずしもそうは言えない。生前の彼はしばしば、「歪曲と誇張の巨匠」とジャーナリズムに批判されたという。ある意味でそれは正しい。低音を楽譜に書いてあるより1オクターヴ下げて弾いて、地鳴りがするような轟きの効果を狙ったり、協奏曲の終わりでわざと猛烈に加速して、オーケストラより1小節近く早くゴールに飛び込むことで、観客のやんやの喝采を得たりするといったあざとい裏技を、彼は再三のようにやっていた。それでもなお、単なる歪曲にはならず、「これぞ作曲家が真に望んでいたことだ…」と観客に思い込ませてしまう。ここに彼の名演の秘訣はあった。」

「カリスマ的名演に特徴的なのは、恭しさとは真逆の、作品を呑んでかかるがごとき「エグ味」である。作曲家に向かってなんら臆することなく、「要するにこうやればいいんだろう!?」「こっちのほうがもっといいだろう!?」と言い放つようなふてぶてしさ。これがない名演はありえない。この点について、ホロヴィッツに面白い逸話が残されている。彼はラフマニノフのピアノ・ソナタ第2番を十八番にしていたのだが、いつもそれを自分流にカットし、アレンジを加えて弾いていた。ただしホロヴィッツは生前のラフマニノフと親交があり、作曲者自身の前でこのアレンジ版を弾いてみせたところ、ラフマニノフから「私の書いた楽譜より、おまえのアレンジのほうがいい」とお墨付きをもらったというのがある。」

「いわば名演は、楽譜の細部などには拘泥せず、作品の一番深いところにある「精神」をわしづかみにしてみせるような演奏である。楽譜の文面を杓子定規に守るだけではダメ。かといって単なる好き勝手もダメ。名演に特徴的なのは、「神の教えは要するにこういうことなのだ!」と言い切るがごとき力であって、オーディエンスを集団的熱狂にかりたてる魔力という点で、カリスマ演奏家は宗教指導者や独裁者に似たところがある。」

「ひるがえって近年、クラシック界からこの種のカリスマ演奏家が急激に姿を消していることは、衆目の一致するところであろう。クラシックだけではないかもしれない。美空ひばりやビートルズやマイケル・デイヴィスのような存在を、今日の音楽界に探すことは極めて困難なはずだ。これは「優しさ」を神聖にして冒すべからざる金科玉条の正義とし、父権的なものを暴力と同一視して、血眼になってそれを去勢し、根絶やしにしようとする近年の社会趨勢と、決して無関係ではないはずである。」

「かつてのカリスマ指揮者は下手な楽員、あるいは気に食わない団員を、その場でクビにすることができた。彼らはオーケストラを恐怖でもって支配した。そうやっておいて、納得いく演奏ができるまで、徹底的に練習でオーケストラを締め上げることができた。今では多くのオーケストラで組合の発言力が増し、予定練習時間をオーバーしようものなら残業代を請求されたりしかねない。そして超過料金をオーケストラに払わねばならないような猛練習を要求する指揮者は、当然ながらオーケストラ・マネージャーに敬遠される。二度と呼んでもらえない……。」

 

 

いろんな背景をのぞきこめたようでおもしろかったですね。

また最後のほうには、作曲家とカリスマ演奏家たちの時代がクロスオーバーしていたことも背景にあると書かれていました。つまりは、音楽辞典の中のただの偉人になってしまった今日と、まだ身近で現在進行形であり「直伝」に近いことろで育った往年のカリスマ演奏者たち。彼らにはきっと大作曲者たちの「顔」が見えていたからこそ、やりたい放題できた、と。

こんなおもしろい例え話で締めくくられていました。

「偉大な祖父の遺品を整理していて何か手紙が出てきたとする。親族であれば、ちょっとした言葉づかいの癖から、すぐに故人の意図を察知できるだろう。しかし博物館のキュレーターなら、あるいは後世の大学の研究者ならどうか。当然そこには故人の顔が見えないことに起因する萎縮が伴うであろう。演奏の世界でもこういうことが徐々に20世紀の終わりあたりから始まっているとは考えられまいか。」

 

 

「久石譲の音楽的日乗」第24回は、
昨日の自分と今日の自分は同じか?

空間と時間の話から、”自分”という人間における時間軸をもとに、時間の経過にともなう、過去の自分と現在の自分は同じなのか?という、ちょっと複雑な話題によって進められています。

一部抜粋してご紹介します。

 

「またまた難しい話になってしまったが、何が言いたいかというと自分という存在が確かなものなのか、なぜ自分が自分と言えるかを考えているからだ。他者と自分を空間的に考えると確かに自分はいる、目の前の人とは違うわけだから。では、時間軸上で考えた場合はどうか?昨日の自分と今日の自分は時系列的には別の場所にいるわけだからやはり同じではないということになる。」

「また主体性という言葉は「自分の意思・判断によって、みずから責任をもって行動する態度や性質」と辞書には載っているが、内田樹氏は「違うものを同じものだと同定する機能」でもあるという。つまり「寝るまえの私」と「起きた私」は明らかに別人なのに、同一人物であるとするのはこの主体性なのだ。そして人はこの主体性を「自分」と称し「自分の個性」と言っている。」

「近頃この「自分」やら「自分の個性」という言葉が巷に溢れている。特に若いスポーツ選手が好んでこれを使う。記者の質問に対して「自分のサッカーが」「自分のゴルフが」「自分のテニスが」できれば明日の試合に勝つと。二十歳やそこらで自分の◯◯ができればと言えるほど君たちのいる世界は底が浅いのかとちょっと言いたくなる。またそう言えてしまえる彼らはどういう教育を受けてきたのか?とも思う。これは「自分はまだ何もわからないが練習してきたことを精一杯出し切って頑張る」が正しい。日本語教育が間違っているのか?ちなみに僕はこの歳になるまで「自分の音楽」などと言ったことがない。軽々しく彼らが使う「自分」とは、「自分の個性」を尊重するということで野放しにしてきたゆとり教育の弊害なのか、それとも犠牲者なのか?いやいや彼らを責めても仕方がない、問題は彼らや周りの大人にあるのだから。」

「話が脱線した。もう一度昨日の自分と今日の自分について考える。僕の場合は同じではないという認識で行動する。例えば毎朝起きたらまずピアノを弾く。目的は2つ。この起き上がりの意識がまだボーッとした状態は、コンサートで弾くときの様々なマイナス要因(緊張したり体調が悪かったり)を抱えた状態と同じと考えるから、その状態できちんと弾けたら、コンサートでほとんど問題は起きない。2つ目はいつもと同じテンポで弾いているかどうかの確認だ。これはクリック音に合わせて弾くのだが、同じテンポなのに日によって速く感じる自分と、遅く感じる自分がいる。遅く感じる場合は明らかに速く弾きたいからそう思うのであり、主に寝不足のときや精神状態が良くない場合が多い。速く感じる場合はその曲が身体に入っていないか、まだ身体が眠っているのか(笑)。いずれにせよ昨日の自分と今日の自分は違うのである。」

「最後に「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という有名な『平家物語』の一節について考える。別に鐘の音は20年前でも今でも多少錆びついて違っているかもしれないが基本的には変わっていない。それが諸行無常に響くと感じるのは聞いている人間が間違いなく変わっているからだ。万物流転、人は変わっていく。」

 

 

クラシックプレミアム 24 ベートーヴェン5

 

Blog. 久石譲 「かぐや姫の物語」 インタビュー 熱風より

Posted on 2014/12/8

2013年公開 映画『かぐや姫の物語』
監督:高畑勲 音楽:久石譲

スタジオジブリ小冊子(無料)「熱風」2013年12月号からです。三浦しをん、津島佑子、吉高由里子、大林宣彦など豪華著名人が様々な角度から映画「かぐや姫の物語」を紐解いています。

そのなかに久石譲のインタビュー談も掲載されています。様々なメディア(雑誌・新聞・Web)にも取り上げられてきた「かぐや姫の物語」にまつわる久石譲インタビュー内容はこれまでに紹介してきましたが今回は無料冊子にして8ページにも及ぶロングインタビューです。

ここだけに収録された他のインタビューにはない話も満載の永久保存版です。

 

 

高畑監督は、音楽をとても大事にしてくれて、一緒につくることがこんなに楽しいのかというくらい、本当に貴重な経験でした

高畑監督は尊敬する監督なのでお引き受けしました

今回の仕事は相当大変でした。もっとも、アニメはどれも大変なんですが。というのも、ゼロから全部つくっていく作業ですから。実写だとどうしてもどこかで割り切りが入るんです。だって、ロケで撮れば邪魔な看板があっても消せませんよね。そうすると、心象風景も含めてそこの場面を100パーセント気に入るわけではないでしょう。でも、アニメだとゼロから全部つくれるから、そういう意味で言えば作家の考えている世界がはっきりと完全に表現されてしまう。その分こだわりもたくさん出てきますから。とはいえ僕の場合はアニメと言っても宮崎さんと高畑さんしか知らないので、アニメが大変なのか、監督が大変なのかわかりませんが(笑)。

そもそも僕が担当させてもらうことになったきっかけは、去年(2012年)の暮れの押し詰まったころに、鈴木(敏夫)さんがいきなり押しかけてきて「『かぐや姫の物語』の音楽をつくって欲しい」と。「えぇ?」という感じでした。だってもう制作は相当進んでいるだろうなと思っていたので。でも高畑さんは尊敬する監督ですから、もし一緒に仕事ができるのならいいなと思って、お引き受けしました。実際に始まったのは、年が明けて高畑さんとお会いしたときからです。そこでいろいろ話を聞いてスタートしました。正月の間に、絵コンテの完成している分だけを一生懸命読んだりしましたが、勉強する時間はあまり無かったですね。かぐや姫に関しては『竹取物語』のストーリーはもちろん知っているけれど、とくに思い入れがあった訳ではなく「ああ『かぐや姫』だよね」って(笑)程度でした。

高畑さんが、今回の映画のためにお書きになったかぐや姫のどこに魅力を感じたか、かぐや姫は人間にとってどういう存在なのか、など、非常に高畑さんらしい論理的に書かれた文章があったんです。それらを読んで、高畑さんがこれで何をやりたがっているのかをずっと考えていました。それを理解しないとそこから音楽はつくれませんから。しかしそれよりも、もう2月から、映画のなかでかぐや姫が琴を弾いているシーンの状況内音楽である琴の音から録り始めなくてはいけなくて、実際にはまずそちらの作業のことで手一杯でした。その琴の音楽は、比較的みなさんに気に入ってもらえるいいメロディーができたので「よし、いける、かな!」と思っていたのですが……(笑)。

 

享楽主義者であることの大切さ

そこからが大変でした、例えば、”生きる喜び”と”運命”のテーマを書いて欲しい、という注文がありました。運命は別として喜びって、基本的に感情です、喜ぶとか、悲しむとか。でも高畑さんは、生きる喜びの音楽を書いて欲しい…だが、登場人物の気持ちを表現してはいけない、状況につけてはいけない、観客の気持ちを煽ってはいけない、こんな禅問答のような指示を同時に出すんです。「うわ、こりゃまいったな!」と思いました(笑)。ただ、この思考方法をする人を僕は知っているんです。それも身近な親しい人に。養老孟司先生がそうなんです。養老先生とか内田樹さん、みなさん同じ思考法です。どのような思考法かというと、例えば「ユダヤ人とは何か」という説明をするときに、ユダヤ人は人種ではない、ユダヤ人は国でもない、ユダヤ教徒が全てユダヤ人でもない。もう、全部発想が否定形で始まるのですが、この思考法は高畑さんと共通しているんです。ただ、養老先生はそれについて「自分たちはこういう発想をするから学者なのであって、創作家にはならない、なれない」というようなことを言っています。では、なぜそういう発想をしながら高畑さんは創作家なのか、監督になり得るのか。そこをいろいろ考えてみたんです。ふと思いついたのが、最初に高畑さんに会ったとき「僕は享楽主義者です、要するに楽しいことがとにかく好きなんです」とおっしゃった。たぶん、そこなんでしょうね。ものをつくるってすごく苦しいじゃないですか。我慢に我慢を重ねて、なんとか形になったとき初めて喜ぶみたいなイメージがある。ところが高畑さんは享楽主義者だから、そこの苦しみはあるんだろうけれど、つくっている過程も全部楽しんでしまう。だから、自分は何かを感じた、こう考えたということに、忠実に驚いたりしていくし、だからこそ、またいろいろ変わってしまうのだと思うのですが(笑)。でもその変わったことに対して、スッと全部論理づけられてしまうから、周りのみんなは大変ですよね。僕にはそういうふうに思えました。

ただ、その享楽主義者であるということは実はすごく重要なんです。頭がよくて論理的な人は山ほどいますが、たいていはあまり面白みがない、その理由は理屈で終わってしまうから。でも高畑さんは理屈で終わらないんです。享楽主義者ゆえ、最後に自分が喜べるものを基準に据え、そこからなぜそうなのかという説明もきちんとできる。こういう人はそうそういません。音楽家はもっと単純ですから「パーッとみんなが泣けるものをお願いします」とか言ってくれるほうが、よっぽど楽なんですけどね(笑)。

今回の場合、高畑さんご自身で作詞作曲された”わらべ唄”という曲がすでにありました。それがもう5音音階でつくられてしまっているんです。”わらべ唄”は結構重要なシーンで使われるので、そうすると、それを加味した上でトータルの音楽をどうつくっていくかというふうに考えます。であるならば、必然的にこちらもある程度5音音階を使用したものをつくらないと整合性が取れない。ただ5音音階というのは下手すると本当に陳腐なものになりやすいので難しいですね。全体として日本の音階が主体になっているんですが、それを感じさせないようにするにはどうするかというのがかなり大変でした。例を挙げるとマーラーの “大地の歌” 。あれは李白の詩を使って、出だしから非常に5音音階的なんです。マーラーのような、同じ5音音階を使っても全然別口に聴こえるようなアプローチであるとか、そういうようなものを考えました。あとは、アルヴォ・ペルトという現代の作曲家なんですが、すごくシンプルで単純な和音を使う人のものとか。そういうものを参考にしながら全体を高畑さんが考えられている世界に近づけるようにしていく作業でしたが、それがだんだんと、高畑さんに似てきてしまって。僕も相当論理的に考えるほうなので、思考法が似てる、などと言うと偉そうに聞こえてしまうかもしれませんが、ひとつひとつ理詰めでつくっていきました。でも普通なら、今回のように主題歌がついて、大事なところで使われる曲もすでにあったら間違いなく断っています。いろいろなものをくっつけられてしまうと最終的に音楽全部に責任持てないですから。でも高畑さんのことはとても尊敬していたので今回はお引き受けしたんです。

 

ここまで音楽に詳しい監督に会ったことない

ここまで制約が多いと、そのなかでまとめ上げるのはなかなか大変です。通常よりもより一層難しい。今回は曲数がM番号という曲の数で53もありました。通常より圧倒的に多いです。実写映画だと30前後でしょうか、内容がシリアスになればもっと減ります。エンターテイメントに寄ったとしても35くらいですから「かぐや姫の物語」はかなり多いです。状況のなかにつけた “琴” とかも含めると全部で64曲ぐらい書きました。他にもその状況内、登場人物などの設定のところで鳴っている音楽ということで、田楽や雅楽とか、そういう類の曲もつくりました。あと、すごくリズムにもこだわる。わりと頭のほうの曲だと、♪タリラーン、タリラーン、タリラタリララランという”生きる喜び” のテーマがあるんですが、日本よりむしろ少し中国的に聴こえてしまうかもしれない。でもちょっと異世界感を必ず入れるようにして特色をつけ、”日本昔ばなし” になってしまうのを避けたんです。おそらくベタベタなニッポンを高畑さんはまったく表現しようと思っていなかったと思います。だから、京都に行っても、室内が描写されるだけで京都の遠景は一切無いですよね。普通は京の都の俯瞰があるのにまったく無い、意識的に外していましたね。

ただ、同時に高畑さんと仕事する場合はこちらもかなり実験精神が無いといけないという気もすごくありました。その実験したい気持ちをすんなり受け入れてもらえるというのも嬉しいですね。たとえば姫が怒って走るシーンの音楽があるんですが、かなり衝撃的です、でもそういうようなことを高畑さんは許してくれますから。

曲の発注も、高畑さん自身が相当音楽に詳しい方なので、遠くから音楽を眺めたような発注じゃないんです。ご本人も作曲されるだけあって、かなり入り込んでくる発想で「それからこうしたらどうでしょう」と来るので、「うわぁ、大変だ」って(笑)。「なぜここでこの楽器を使ったのか」とか「なんでここでこうしたか」なんて、音楽の専門的なことはあまり監督には読み取ってもらえないケースが多いんですが、高畑さんは全部読み取ってくれるんです。ちゃんと理解した上で「こうして欲しい」って注文が来るから「いや、違います」とこっちが言いづらくて(笑)。監督が音楽にそこまで詳しいというのは、ほとんどの作曲家は嫌だと思いますよ。こんな話がありました。僕、翌月からクラシックを指揮しなければいけないので、休憩中にミニチュア・スコアを持って見ていたんです。そこに高畑さんがいらして、ブラームスの交響曲第3番の話になったらスコアをパッと見て「ここですよねー、ここのラストが。ここまた、第一楽章のテーマに戻りますよね。ここがいいんですよ」って。こんな会話ができる監督は見たことがありません。

 

あの7時間半はいったいなんだったのか!

進行については、全体の仕上がりが非常に遅かったから、こちらに届く絵も遅れていたんです。だから、ほとんど見込みでつくらないといけないのだけれど、秒数も細かく決まっている。普通なら一回監督にデモを聴かせて「もうちょっとこれ優しく」とかリクエストを言われて済むところ、高畑さんはこの方法ではおそらく無理だろうと。だったら、シークエンスで作曲している状況から高畑さんに立ち会ってもらって、直しがあるならその場で直して、後からは修正なしで、という作戦を練って、高畑さんに事務所まで来てもらったんです。そのとき、7時間半かけて全曲手直ししてやっと見えたので心底ほっとしました。そして、「ちょっとここは後で直して欲しい」という曲があったので翌日直しを送ったんです。そしたら、その翌日の夜11時に高畑さんが飛んで来て「やっぱりあそこの音楽は、ああ言っちゃいましたけどほかの曲か前に出ているテーマのほうが」って(笑)。

「来たーー!」って、「おとといの7時間半はなんだったんだ」って。ゼロからつくり直しですよ、そのときだけは、さすがに僕もムッとしましたね(笑)。ただあのときは、高畑さんも作画チェックを全部やっていて、効果音もまだ決まっていない状態で、監督って基本的に決定することが一日に何百ってあるんです。そのすさまじい量をこなしていた最中でしたから。一番大変な時期だったのではないかなと思います。

書いた曲のチェックは、高畑さんは「想像できるのでピアノスケッチで大丈夫です」と言ってくださっていたので、ピアノスケッチを送っていました。だんだんとそれにオーケストラの色をつけたものをまた送る。これを六十数曲ずっと繰り返したわけです。送るたびにバッと修正オーダーが来る。高畑さんの場合は特に多く、「また来たか」みたいな。「またこんなにですか(笑)」とか。ところがある時期を越えたら、台詞とぶつかると音楽が損だからと、台詞とメロディーの入るタイミングをちょっと遅らせて欲しいとか、そういう修正が多くなってきたんです。その辺りから完全に高畑さんとシンクロしましたね。

そこからレコーディングまでずっとそのままでいけました。あ、高畑さんなら必ずこうするから、というのが見えたんです。だから、最後のほうはすごく楽でした。しかも、音楽をとても大事にしてくれたので、一緒につくることがこんなに楽しいのかというくらい、本当に貴重な経験でした。

例えば、台詞とぶつかると音楽は小さくせざるを得ない。台詞が聞こえないと困るから。だから「音楽が損だから遅らせましょう、そうしたら小さくしないで済む」ということを具体的に言う監督は数えるほどしかいない。これは音楽を大切にしていただいている証拠です。どう考えても映画ですから、何をしゃべっているのか分からないとマズい。だから台詞は聞かせないといけない、でも音楽をそのために小さくするのは忍びない、だから、タイミングを変えて欲しい。という言い方ですから、これはもうほんとうにありがたいですよね。おかげで音楽は変拍子だらけになりましたけど、こんな素晴らしい人はそうそういません。

月からの使者が迎えにくるラストは、高畑さんに最初にお会いした日か二回目のときに、「まだプロデューサーにも言ってないんだけど言っちゃおうかなー」という感じで、「ここはね、サンバかなんかでいこうと思ってるんですよ」と高畑さんがおっしゃったんです。もうびっくりしちゃって「はい?」ですよ。つまり、月の人間は悩みが無い、すべて楽しいんだ、と。そしたら、そこから来る人間たちが奏でる音楽は楽しくなければいけない。楽しくなければいけないというのはどういうものか、と。そうするとやはり歌い踊り、何でもありの音楽だろう。例えばブラジルのサンバだったり、東欧系の民族音楽系のものとかね。そういう発想する人いないですよ。78歳ウソでしょうって。とんでもなく若いというか、考え方がフレキシブル。享楽主義者ですと言った意味の根底がそこにある、みたいな。通常の常識的なそんな発想は高畑さんには無いんですよね。それはきっと、いまだかつて見たことないもの、聞いたこともないものに出会いたいという、創作家の原点みたいな、ほんとうに素晴らしい姿勢があるからなのではないでしょうか。でも最初にそれを言われたときはのけぞりました「ここでサンバですか!?」と。でもそうですよね、だってここは泣けるシーンじゃないのかって(笑)。

今作のような、ああいう絵のタッチは、音楽をつくるのにも完全に影響しましたね。あの絵は引き算の発想ですね。全部写実するより無駄なものを外す、ということは、音楽も同じなんです。効果音もそうですし、要するにすべて、必要最低限にシンプルにつくらなければいけない。つまり、オーケストラでガーンと派手にいくより、エッセンスをどこまで薄くするか。で、最初の打ち合わせでは五十数曲必要と言われたけれど、最終的には40曲ぐらいに落ち着くだろうと思っていた。一応ピアノのスケッチを書くけど、どうせ削られるのであれば、もう異様に薄く書いてしまおうと思って、薄く書いたんですよ。そしたら、全部採用になってしまって。でも考えれば、最初から高畑さんも極力シンプルにするということはおっしゃっていましたし、構築された音楽よりも、非常にシンプルなんだけど、力強いものがいいって。

いわゆる省略形の、すごく引いたもの。その発想というか思想というか考え方は、音楽にも効果音にもすべてに徹底されるなと思ったので、自分も引き算の発想でつくったんです。そうしないと音楽が浮いてしまう。感情を押し付けて「ここは泣くように」という感じの音楽を「泣きなさい」と書くよりは、その悲しみを受け止めつつも3歩ぐらい引いたところで書くと、観客のほうが自動的に気持ちがそこにいくんですよね。高畑さんは今回それをかなり何度もおっしゃっていて、僕もいちばん気を付けたところですね。

 

歴史に残る名作、ずっと共感しながつくっていました

でも高畑さん、意外にオーケストラの音などにはこだわっていないんです。良けりゃオーケストラでもいいんですという感じでしたね。だから、こちらからもどんどん変えたりもしました。途中でリュート、ルネッサンスのギターみたいなものを使いますと提案したときも、絶対変えたほうが高畑さんは喜ぶと確信していたから。それで実際に変えても、なにも言わないというか「あ、いいです、いいです。これでいいです」だけ。音楽的なことで、今回ものすごく注意したのは、メロディーの楽器をフルートだとか弦などのように音がピーと伸びる楽器を極力少なくしたんです。ピアノやハープだとかチェレスタとか、要するに弾いたら音が全部減衰していく楽器、アタックを抑えたそれらを中心に据えました。そうすると、ポンと鳴るけれども消えていくから、台詞を食い辛いんですよ。もちろん五十数曲と多いので「音楽うるさいな」となると終わってしまうから、うるさくしないための方法なんですが。ただ、そうすると、ピアノ、ハープ、チェレスタ、グロッケンなどと楽器が限られちゃうので、それでもうひとつさっき言ったリュートというのを加えることで、その辺の音色をちょっと増やして、できるだけ台詞と共存できるように組んでいったんです。だから発想としては「リュートの音っていいよね」ではないんです(笑)。感覚的じゃなくて、減衰系の楽器で色が必要だ、と。そういうふうに論理的に決めたんです。高畑さんみたいでしょ?たぶんそこは似てるんだと思います。高畑さんと同じというとおこがましいから、ちょっと似ている程度で(笑)。

印象で言うと、この作品は、普通の映画2本分という感じがしますね。すごくいろんなものが詰め込まれて、なお且つきちっと組まれている。そうするとね、これだけ見事につくられた映画は、もうアートです。これはほんとうに歴史に残ると思います。高畑さんとの仕事は、それなりの覚悟がいると思っていました。いつだったか、監督といろいろ話しているうちに「月の世界とは何なんでしょう」というテーマになりまして、要するに人間世界ではないということだったら、あれはもしかしたらあの世なのかもしれないねと。もしそういう考え方をするならば、これはすごく宗教的にもなってきます。そのようないろいろな捉え方ができるなかで、高畑さんはこれを「この世は生きる価値がある」という一点に集約していく。「喜びも悲しみもいろいろあっても、生きる価値があるんだ」というところに持っていこうとするとても強い意志が伝わってきた(少なくとも僕にはそう思えた)ので、僕はずっとそれに共感しながらつくってきたというところです。

(スタジオジブリ小冊子「熱風」2013年12月号 より)

 

 

「熱風 2013年12月号」 目次

特集/かぐや姫の物語
ファンタジーの姿を借りて壮絶なまでの現実をつきつける(三浦しをん)
月と少女と竹(津島佑子)
説明できない不思議な違和感(吉高由里子)
3・11を体験した今、
――同世代映画作家の、哲理(フィロソフィー)と冒険に、思いっきり、胸を打たれる。
――高畑勲さんの途方もない夢、『かぐや姫の物語』を見て。……(大林宣彦)
かぐや姫が教えてくれた、生きてることの手応え(こうの史代)
月の神話と竹(保立道久)
姫のこころは、この素晴らしい日本の景色のなかにある(原 恵一)
高畑監督は、音楽をとても大事にしてくれて、一緒につくることがこんなに楽しいのかというくらい、
本当に貴重な経験でした(久石 譲)

特別収録
【対談】大竹俊夫×鈴木敏夫  ”家づくり”と”映画づくり”
連載
第23回 二階の住人とその時代  転形期のサブカルチャー私史(大塚英志)
第18回 建築の素(もと)  ――割り板の実験 (藤森照信)
第13回 鈴木さんにも分かるネットの未来  ――電子書籍の未来 (川上量生)

※中島順三さんの連載「『アルプスの少女ハイジ』とその時代」は、今月休載です。
執筆者紹介
ジブリだより / おしらせ / 編集後記

※『熱風』は無料配布(非売品)の冊子です。
全国約40箇所の書店店頭に毎月10日前後に置かれるそうです。ぜひご覧ください。
『熱風』の入手先は下記URLをご参照ください。
http://www.ghibli.jp/shuppan/np/007496/

公式サイト:スタジオジブリ出版部 小冊子『熱風』

 

 

Related page:

 

スタジオジブリ小冊子 熱風 かぐや姫の物語

 

Blog. 久石譲 「かぐや姫の物語」 インタビュー キネマ旬報より

Posted on 2014/12/7

2013年公開 映画『かぐや姫の物語』
監督:高畑勲 音楽:久石譲

「キネマ旬報 2013年12月上旬号 No.1651」の巻頭特集は 偉才 高畑勲の到達点 「かぐや姫の物語」 高畑勲監督をはじめこの映画に関わったスタッフたちが、いろいろな角度から映画「かぐや姫の物語」の制作秘話を語っています。

そのなかに、「スタッフの証言(3) 久石譲(音楽) 映画音楽でしか味わえない醍醐味」という久石譲のインタビュー記事が見開き2ページでぎっしり掲載されています。とても興味深い内容です。一言で感想を言うのは難しいですが、久石譲の今が凝縮されているインタビューでした。

 

 

これこそ映画音楽でしか味わえない醍醐味

高畑監督から出された作曲条件

久石譲が「監督:高畑勲」と顔を合わせた。映画『かぐや姫の物語』において、まずこの事実自体が事件だったと言っていい。

久石:
「去年の暮れ、鈴木(敏夫)さんからお話をいただいたときはちょっと驚きましたね。宮崎(駿)さんの作品を担当しているうちはご一緒できると思っていませんでしたから。」

そう、かつて宮崎駿監督の『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』に久石譲を音楽担当に推し、音楽打ち合わせもこなした「プロデューサー・高畑勲」は、久石音楽への評価を高く謳えども、自身の監督作品に作曲者を招くことはなかった。それが急転直下、今回のような形になった背景には、製作の遅れによる宮崎作品『風立ちぬ』との同時劇場公開がなくなったことが一つ。もう一つには、久石が3年前に手がけた『悪人』の仕事を高畑が気に入っていたことが大きかった。

久石:
「ずっと “『悪人』のような距離の取り方で” とおっしゃっていましたね。具体的には “一切、登場人物の気持ちを表現しないでほしい” “状況に付けないでほしい” “観客の気持ちを煽らないでほしい” という3点。つまり “一切、感情に訴えかけてはいけない” というのが高畑さんとの最初の約束でした。『悪人』も登場人物の感情を表現していないでしょう。それと同様に、キャラクターの内面ではなく、そこから引いたところで音楽を付けようということだったんです。」

凡庸の作曲家なら逃げ出したくなるような恐ろしい条件である。しかも、今回は事前にエンディング用の主題歌が決まっており、さらに劇中には作品の鍵ともなる『わらべ唄』まで用意されていた。久石としても「通常ならお断りする仕事」と語る。

久石:
「でも、僕は高畑さんをとても尊敬していたし、高畑さんとご一緒できるならぜひやりたいと。わらべ唄も高畑さん自身が書かれた曲でしたし、その在り方も明瞭な構造を持っていましたから、それなら徹底的にやってみようという気になったんです。」

音楽設計においては「わらべ唄との整合性をとるため、五音音階をベースにしたアプローチをとる」ことから始めたという。

久石:
「ただ、一歩間違えると、五音音階というのは陳腐になりやすい。高畑さんも日本情緒的なものにこだわっていたわけではないので、五音音階を扱いながら、それでいて日本的なものとの差異をどう出していくかに気を遣いました。また、打ち合わせでは曲数が53曲もありましたから、音楽が主張し過ぎず、鳴っていることを意識させない書き方もしなければなりませんでしたね。メロディーもワンフレーズを聴いただけでわかるような、それこそ和音とか一切なくても通用するようなものを作る必要がありました。映像的にも無駄がないですし、効果音も多くない。ですので、全体的には引き算的な発想で作っています。」

例えば、翁が光る竹を発見する際の楽曲などは、音楽と効果音の合体版のような仕掛けが施されている。作曲者はそれに「月の不思議コード」なるニックネームをつけているが、多くの観客が思わず耳をそばだてるのは、天人が姫を迎えに来る際の〈享楽楽曲〉だろう。

久石:
「高畑さんいわく “悩みのない人たちの音楽です。月の世界では皆、幸せに生きているのだから、幸せな音楽でなければいけない” と。最初 “サンバみたいなものを考えているんです” とおっしゃっていたのを聞いた時には本当にすごい方だなと思いましたね。発想が若いといいますか。高畑さん、わらべ唄も初音ミクで作っているんですよ。考えられないですよね。新しいものに貪欲というか、手段にこだわっていないというか。だから、天人の音楽にもそんな発想が持てるんですよ。何においても非常に論理的で明快な方なんですが、論理だけの人ではありません。そこが作家としてずば抜けているところで、山田洋次監督とも共通していますね。」

 

触発し合うことでかなえられた仕事

その山田洋次との新作『小さいおうち』の劇場公開は来年1月に控えているが、音楽録音自体は『かぐや姫の物語』の直前に行われている。その前には『風立ちぬ』もあり、年末を見渡せばベートーヴェンの『交響曲第9番』を指揮する計画もある。また、特別展『京都 – 洛中洛外図と障壁画の美』のテーマソング制作、NHKスペシャル『幻の深海巨大生物』や三谷幸喜のラジオ作品の音楽制作なども今年の仕事であった。その膨大な仕事量だけでも十分、記憶に深い1年だったのではないか。

久石:
「やっぱり長篇アニメーション2本はきついです。監督が考えているものがある意味、実写以上に出ますから。まして、高畑さんと宮崎さんの作品ですし、そこへ山田さんの作品も入ってきましたからね。今年は年始から覚悟していましたよ、大変だぞって(笑)。でも、とてもやりがいがありました。何より嬉しかったのは、70歳を超えたお三方がこれだけの作品を仕上げていらっしゃるのを間近で見られたこと。一所懸命にものを作っていければ70歳を過ぎてもいいものなんだなって、夢を持てましたよね。10年後でももっと別の世界が拓けるんだ、僕はまだヒヨッコだと。それをお三方が身をもって示してくださったんです。」

この『かぐや姫の物語』には従来の久石音楽には希な音楽語法があふれ、その無駄なく、しかし豊かな響きは近年のベストといっていい仕上がりである。管弦楽のサイズも程よく、一方で独奏楽器の音色の際立ちがまたまぶしい。これらの奥義を前にすると、『風立ちぬ』の音楽もさすがに霞む。そんな音楽的な充実だけでも、今年はメモリアル・イヤーになったといっていい。

久石:
「もし音楽で何か新しさが出せているとしたら、高畑さんとの化学反応によって生み出されたものだと思います。高畑さんは本当に素晴らしかった。もの作りをしている人がこの映画を観たら、必ずショックを受けると思います。それほど『かぐや姫の物語』は完成度が高いですし、僕自身にもかなりやれたという自負があります。そこまでできたのは、やはり高畑さんのおかげ。触発し合うことでかなえられた仕事だと思いますし、これこそ映画音楽でしか味わえない醍醐味でしょうね。」

(キネマ旬報 2013年12月上旬号 No.1651 より)

 

 

巻頭特集
偉才 高畑勲の到達点 「かぐや姫の物語」
□ロングインタビュー 高畑勲(原案・脚本・監督) 全スタッフがこの作品をやりとげさせてくれた by 金澤誠
□スタッフの証言1 西村義明(プロデューサー) 集まるべき才能によって産み落とされたアニメーション by イソガイマサト
□スタッフの証言2 男鹿和雄(美術監督) “余白”があるからこそゆるされる美術 by 山下慧
□スタッフの証言3 久石譲(音楽) 映画音楽でしか味わえない醍醐味 by 賀来タクト
□作品評 生命の喜び、真に躍動するもの by 佐藤忠男
□高畑勲を語る1 大塚康生 高畑さんを推し創り上げた「太陽の王子 ホルスの大冒険」 by 山下慧
□高畑勲を語る2 小田部羊一 パクさんは一言が重いんです by 山下慧
□高畑勲を語る3 ユーリ・ノルシュテイン 日本のアニメーションのしるべ by 児島宏子

 

 

おそらくこのインタビュー自体は、「かぐや姫の物語 ビジュアルガイド」に掲載されているものと同じ機会だったのだと思います。内容はほぼ同じですが編集者などの考察もありましたので、そのまま別々のインタビュー記事として紹介しています。

 

 

Related page:

 

キネマ旬報 かぐや姫の物語