2019年全集完成を果たし同年レコード・アカデミー賞にも輝いた久石譲のベートーヴェン・ツィクルス!
かつてない現代的なアプローチが話題を集め絶賛を博したツィクルスから、特に人気の高いベートーヴェン交響曲第7番&第8番がダイレクト・カットCDとなってリリース。ダイナミックで溌剌としたサウンドを最高音質盤のダイレクト・カットCDでお楽しみください。 “Info. 2020/02/19 「ベートーヴェン:交響曲 第7番&第8番」<ダイレクト・カットCD> 発売決定!!” の続きを読む
2019年全集完成を果たし同年レコード・アカデミー賞にも輝いた久石譲のベートーヴェン・ツィクルス!
かつてない現代的なアプローチが話題を集め絶賛を博したツィクルスから、特に人気の高いベートーヴェン交響曲第7番&第8番がダイレクト・カットCDとなってリリース。ダイナミックで溌剌としたサウンドを最高音質盤のダイレクト・カットCDでお楽しみください。 “Info. 2020/02/19 「ベートーヴェン:交響曲 第7番&第8番」<ダイレクト・カットCD> 発売決定!!” の続きを読む
2020年1月29日 DVD/Blu-ray発売
完全生産限定版 Blu-ray TDMPXA-105
通常版 Blu-ray DMPXA-105
DVD DMPBA-105
2019年公開映画『海獣の子供』
【スタッフ】
監督:渡辺歩
音楽:久石譲
キャラクターデザイン・総作画監督・演出:小西賢一
美術監督:木村真二
CGI監督:秋本賢一郎
色彩設計:伊東美由樹
音響監督:笠松広司
プロデューサー:田中栄子
アニメーション制作:STUDIO4℃
原作:五十嵐大介
【キャスト】
芦田愛菜/石橋陽彩/浦上晟周/森崎ウィン/稲垣吾郎/蒼井優/渡辺徹/田中泯/富司純子
光を放ちながら、地球の隅々から集う海の生物たち。
巨大なザトウクジラは“ソング”を奏でながら海底へと消えていく。
<本番>に向けて、海のすべてが移動を始めた―――。
自分の気持ちを言葉にするのが苦手な中学生の琉花は、夏休み初日に部活でチームメイトと問題を起こしてしまう。母親と距離を置いていた彼女は、長い夏の間、学校でも家でも自らの居場所を失うことに。そんな琉花が、父が働いている水族館へと足を運び、両親との思い出の詰まった大水槽に佇んでいた時、目の前で魚たちと一緒に泳ぐ不思議な少年“海”とその兄“空”と出会う。
琉花の父は言った――「彼等は、ジュゴンに育てられたんだ。」
明るく純真無垢な“海”と何もかも見透かしたような怖さを秘めた“空”。琉花は彼らに導かれるように、それまで見たことのなかった不思議な世界に触れていく。三人の出会いをきっかけに、地球上では様々な現象が起こり始める。夜空から光り輝く流星が海へと堕ちた後、海のすべての生き物たちが日本へ移動を始めた。そして、巨大なザトウクジラまでもが現れ、“ソング”とともに海の生き物たちに「祭りの<本番>が近い」ことを伝え始める。
“海と空”が超常現象と関係していると知り、彼等を利用しようとする者。そんな二人を守る海洋学者のジムやアングラード。それぞれの思惑が交錯する人間たちは、生命の謎を解き明かすことができるのか。
“海と空”はどこから来たのか、<本番>とは何か。
これは、琉花が触れた生命(いのち)の物語。
(メーカーインフォメーションより)
3形態発売
海獣の子供【完全生産限定版】Blu-ray
①「海獣の子供」本編+特典映像(PV集、キャスト・スタッフインタビュー)
●本編Disc+特典Disc1枚 全2枚組
・インタビュー出演者: 久石譲、石橋陽彩、浦上晟周、森崎ウィン、富司純子
・バリアフリー日本語字幕・音声ガイド付き
②ドキュメンタリー・オデッセイ『トゥレップ ~「海獣の子供」を探して~』本編(81分)
●縮刷版アフレコ台本
●限定版ブックレット(48P)
●特製PlayPicカード※1(「海獣の子供」本編、『トゥレップ ~「海獣の子供」を探して~』本編、絵コンテ全集データ480ページ)
海獣の子供【通常版】Blu-ray
海獣の子供【通常版】DVD
【封入特典】
■通常版ブックレット
【映像特典】
■PV集、キャスト・スタッフインタビュー(久石譲、石橋陽彩、浦上晟周、森崎ウィン、富司純子)
映像特典に収録された「久石譲インタビュー」(約4分半)は、3形態とも同一内容。
またこのインタビューは、2019年6月に映画公式チャンネルにて動画公開されたものとも同じ。
(2020年1月29日現在 Web公開中)
詳細は下記ご参照。
Posted on 2020/01/22
音楽雑誌「KB SPECiAL キーボード・スペシャル 1996年12月号 No.143」に掲載された久石譲インタビューです。
オリジナル・ソロアルバム『PIANO STORIES II ~The Wind of Life』について、たっぷり語られた貴重な内容になっています。
久石譲
New Album 『PIANO STORIES II ~The Wind of Life』 Interview
オリジナル・アルバムとしては『Piano Stories』から8年ぶり。久石さんの新作は『Piano Stories II』と題されている。ピアノとストリングスという、久石ミュージックのいちばんの魅力がたっぷりと味わえる、注目の1枚だ。コンサートやレコーディングで大忙しの久石さんに、今後の活動予定も含めてお話をうかがった。
自分にとって原点になるべきところ、それが「ピアノとストリングス」。
●”生もどき”の音 (?!)
ーオリジナル作品としては『Piano Stories』から8年ぶりのアルバムですが、この時期に II を出された理由は?
久石:
8年前に出した時は、打ち込みを多用して音楽を作っていた時期だった。その時に、あえて「今自分ひとりで何ができるか」と立ち返ったのがピアノだったんです。つまり、いちばんピュアな音楽をやろうと思って作ったのが『Piano Stories』だった。
そしてもう1度今、自分にとっていちばん原点になるべきものはなんだろうと考えたら、「ピアノとストリングスをメインにしたアルバム」だろう、ということになった。この1~2年ずっと考えていたことです。タイトルを『Piano Stories II』にしたのは、これが精神的に前作とつながるからです。
ー生楽器のみを使っていらっしゃる?
久石:
生ですね。あと”生もどき”(笑)。基本的に言うと、耳につくところは全部生だと思いますよ。
ただ4リズムという形態、つまりギター、ドラム、ベース、ピアノなんかは、音の存在感やアタック感も、すごく表現しやすいんです。それが弦とピアノとなると、「キックドラム」に相当する低域のパワー感を、弦だけでは出し切れなくなったりするわけです。けっして「きれいきれい」な世界を表現したいわけじゃなくて、そういうパワーも含めた「弦とピアノでここまで行ける」ということをちゃんと出したかった。
そのために、弦は「8-6-6-6-2(第1ヴァイオリン-第2ヴァイオリン-ビオラ-チェロ-コントラバス)」という特殊な編成で、低域をすごく厚い編成にしました。なおかつ、たとえばMIDIミニのようなシンセサイザーのベース音を隠し味で薄く入れたり。そういう意味では、限りなく生に近いんだけどそれをリッチに聞かせるための味付けを、他の楽器でもやっていますね。
ー個人的には3曲め「Asian Dream Song」が特に好きなんですが…。
久石:
これは、今年はアトランタで行われたパラリンピックのテーマ曲とした書いた曲です。
ー「Angel Springs」では、ピアノだけの部分でハミングが入っているような…。
久石:
1枚のアルバムの中で必ず1個所出るんだよね(笑)。バイエルを習っている人でも弾けるようなシンプルなメロディなんですが、そういうところって逆にすごくツライ。簡単なフレーズは誰でも弾けるから、「もっと歌わなきゃ」なんていろいろ思うと、気づくとなんかノイズが入っているんです(笑)。
ーノイズですか?
久石:
あはは…そうかな。『Piano Stories』の方にもあるよ、何個所かね。
●弦の魅力と難しさ
ー「Kids Return」では、ストリングスがかなりギュンとうなっている感じですね。
久石:
たとえば、クロノス・カルテットでジミ・ヘンドリックスの「パープル・ヘイズ」をやってますよね。僕もいろいろとリズムを作ってレコーディングをするからよくわかるんだけど、(リズムを)キープする楽器がない時って、実はすごく大変なわけ。
でも、ドラムを入れてしまえばリズムがまとまるというものでもなくて、(そのドラムに)寄りかかってしまうわけだから、逆にそこからは細かいニュアンスって出てこない。
弦楽カルテットとか今回のような編成の時は、そうとうしっかりしないとリズム・キープもまともにできない。だからみんな避けてしまうけど、あえて大変なところに今回は挑みました。
ポップスの人がよく思い浮かべる弦楽カルテットは、ビートルズの「Yesterday」のバックとか(笑)そういう清らかなイメージかもしれない。でも、実は「Kids Return」のようにゴリゴリしていてすごく大変なリズムもある。中途半端にリズムが入っているものよりずっとワイルドな感じが出るんです。そういう方向でやってみたんですよ。
ー4分の5拍子の曲もありますね。
久石:
「Les Aventuriers」ですね。先日のリサイタルではやりませんでしたが、11月の赤坂Blitzではやりますよ。そうとう(演奏が)厳しいから(笑)。
ソロ・アルバムの弦の音はずっとロンドンで録ってきていたので、日本で作ったのは本当に久しぶりなんです。それで、ちょっと”浦島太郎状態”になっちゃった曲です(笑)。つまり言い方はへんなんだけど、日本の(弦の)人たちはうまいけど、リズムが違うんですよ。僕が弦に託しているのは、打楽器扱いの弦みたいなリズミックな部分が大きいんです。そういうニュアンスが当たり前と思っていたんですが、それなりの訓練をしないと無理なわけで…。そのあたり、思いのままにはできなかったのでちょっと残念でしたけどね。
●到達点でもあり、出発点でもある作品
ー6曲めはまったくピアノだけですが。
久石:
「Rain Gaeden」ですね。クラシックですよね。意外なんだけど、フランス印象派みたいなピアノ、ドビュッシーとかラベルとか、あのへんのラインを今まであまり自分の作品に取り入れていなかったんです。好きなんだけど、なぜかなかった。
ただこのところ個人的に、練習のためにラベルとかクラシックをよく弾いているんです。ラベルのソナチネなんか弾いていると、自分がすごく好きだということがよくわかる。その中で出てきたアイディアで、たまたまこういう曲ができたんです。
次のアルバムでは、こういった響きの曲も少しずつ増えてくるんじゃないかな…という予感はしていますね。すごく大事な曲です。12月のコンサートは、この曲をしっかりとピアノ・ソロでやる予定です。
ーアルバムを作り終えた、感想をひとことで言うなら?
久石:
このアルバムは、今までやってきたことの到達点でもあり、同時に出発点みたいな感じです。たとえば、作曲家として書いた弦のスコアはおそらく今までの中で最高だと思う。本当に3段階ぐらいレベルアップした感じがします。もちろん全部過渡期だけどね。安全を狙うというよりは攻撃的な弦を書けたから、それがすごくうれしかったですね。
細かいところまで考えれば、自分が狙っていたところが100%うまくいったとは言い切れない部分もあるけど、アルバムとしては100%うまくいったと思う。その中で課題はいくつか残ったので、それは次の時にチャレンジしますよ。
●スコアの上にメロディが”見えて”くる
ーコンサートのアレンジも、ご自身でなさっているんですか?
久石:
1曲残らず全部やるよ。だから、大変なんです。筆圧が強いから、(楽譜を書いた後は)ピアノなんて弾けない状況の手になる。コンサート直前まで書いてたから、死にそうになったよ(笑)。
ホントは大嫌いなんだけどね、スコアを書くのは。学校で放課後に残されて宿題をやっているような感じで、悲しくなりますよね。できるだけ逃げているんだけど、スコアに没頭して入り込んじゃった時には、本当にメロディが絵みたいに見えてくるんですよ。だから、書いている瞬間には「世界でいちばん俺がうまいな」と思いながら書いてますよね(笑)。また1時間後に「ダメだオレ、才能ないかもしれない」となったりしながら。
ーBunkamuraオーチャードホールのリサイタルも拝見したのですが、フル・オーケストラの音に感動しました。
久石:
オーケストラって想像以上におもしろいと思います。
ーコンサートって、いい音がしている時は演奏している人もすごくカッコよく見えますよね。
久石:
そうだと思う。アレンジがよくない場合、メロディが全部第1バイオリンにいってしまって、演奏者は大勢いるのにひとりしか動いていない…みたいな光景もあるじゃない(笑)。だけど、メロディがいろんなところにきちんとあって、必然性さえあればオケってすごく美しく見えるんですよ。
それにコンサートって、その時の編成や雰囲気で同じ曲でもまったく違う演奏になりますよね。次の11月のコンサートでも、「今回の演奏を聴いておかないとヤバイよ」という部分を、ちゃんと出すつもりです。
(KB SPECiAL キーボード・スペシャル 1996年12月号 No.143 より)
Posted on 2020/01/22
ふらいすとーんです。
前回は、《映画は音楽によって真実に近づく》を結びにして、「映像から音を削る 武満徹 映画エッセイ集/武満徹 著」から、ひとりの作曲家の映画論・映画音楽論を紐解きました。そこから広がり、時代やジャンルの異なるプロフェッショナルたち(宮崎駿・高畑勲・鈴木敏夫・久石譲)の語ったことも紹介することで、共鳴すること・よりくっきりと違うこと、そんなことも見え隠れしたのなら、と思っています。
今回は、同じ本から扱いながら、より私たちの日常生活に近いテレビ・テレビ音楽にまでぐっとフォーカスし、はっと気づかされる警鐘の言葉たちをご紹介していきます。
テレヴィと感性の鈍磨
テレヴィとは何と落ち着きのないものだろう。絶えず音を発している。それにテレヴィ出演の常連たちは、なぜいつもああ切羽詰まったような昂ぶった調子で喋るのだろう。たぶんあれはコマーシャルで寸断されるのを怖れて、その前に少しでも多く自分の存在を印象づけようとするからだろうか。知らぬ間にそれは習慣になり、また相互にそれが助長されて、騒ぎはいっそう大きくなる。
そうしたなかでいささか気になるのは、事実を正確に報せればすむニュースの背景にまで音楽が流されたりすることである。そこに、私は、過剰な意図が感じられて、嫌な気分になる。伝えられている内容にはたぶん嘘はないだろうが、音楽がそれを誇大にし、その煽情的効果が事実を著しく歪めてしまっているように感じられる。しかもその音楽の効果は事実の重みを消してしまい、ニュースがまるで虚構の劇を見ているようで、見る側の反応を一様にしてしまいはしないかと、不安になる。視聴者のそれぞれの判断が及ぶ前に、既に解答は用意されているのだ。それは正しい報道の在り方であろうか? 芸能人のゴシップに関するインタビュー等でも、答えは予め準備されていて、ひとの真意を訊くのではなく、ほとんど誘導尋問に近いものが多い。それにしても、ニュースの背景にまで音楽を流す必要などない、と思う。それも一種の情報操作で、そのことは、私に、かつてナチズムが音楽を巧みに利用したことを憶い出させる。ちなみに、アメリカでは、報道番組の背景に音楽を流すことは禁止されているようだ。
世の中は音楽の垂れ流しで、それが私たちの耳の感受性を鈍くしている。たぶん、目も同じだろう。
映像技術は、ヴィデオやコンピューターによって、その可能性を著しく拡大して、私たちの目の歓びも昔よりずっと増したはずだが、新技術を謳ったドラマ等が、結局、その技術を使いこなす感性は旧態依然で、目新しさにかまけて、反って内容を稀薄なものにしている。最近、私もそうした類のドラマの音楽を担当して、後から辛い、嫌な思いを味わった。意見を言わずにすました自分を反省している。仕事の選択は、思う以上に難しいものだ。
テレヴィといえば、最近NHKから放送されたドキュメンタリーがかなり厳しい世論の批判を浴びたが、テレヴィがこれほど生活に入りこんでいる現状を考えると、その影響力の大きさからしても、私たちは、自分の「目」と「耳」を、常に、フレッシュに保つ必要があるだろう。
テレヴィのフレームにきりとられた現実は、既に実際の現実とは別のものであって、そのことを私たちは意識しなければならない。ドキュメンタリーとはいっても、それは作られたものであり、再構成された事実である。そこで大事なのは作者の批評精神であり、再構成された事実がいかに表現の真実にまで高められているかが問題だろう。したがって、ドキュメンタリーには、言葉によって定義することが可能な一定の様式や方法論等は無いとさえ言えよう。あるべきは、真実へ迫る作者の倫理的な姿勢である。
~中略~
テレヴィは、これまでの伝統的なメディアである教会の説教、本、ビラ、映画、ポスター、新聞、ラジオ等とは全く異なる手法を用いている。つまり、映像の視覚に作用する直接性を利用して、それに音声やコメント付すことで、それがいかにも真実であるかのような一種の幻想を産み出すことができる。また、「世界中の出来事や現実世界を自分たちのリビングに直接運んでくれるという幻想」に、私たちを浸らせてしまう。そして、それに対して「かつてなかったほど”自由”に、不偏不党の立場で判断を下せる」という危険な錯覚に私たちを陥れる。
だが、湾岸戦争の際に見られたように、いまでは周知の事実だが、都合のいい情報操作がいとも簡単に行える。「映像は、恣意的にカットされ、その前に途中に後に、論理的には無関係な別の映像をつなぐため、それらの映像はお互いに意味が無くなってしまう。その結果、映像は、巨大な空白、思考の欠如しか」私たちに、もたらさない。ジュフロワは、幾多の事例を挙げて、支配的な経済商業権力や、国家権力による情報操作の危険性を指摘している。そうした、力による情報操作の怖さは言うまでもない。だが私には、普段の何でもないワイドショー番組等にみられる、興味本位に事実を伝えようとするあまりに、必要もない音楽をやたらに背景に流したりする無神経さや、またそれに慣れてしまっている私たちの感性の鈍磨も、かなり恐ろしいものに思える。
(映像から音を削る 武満徹 映画エッセイ集「テレヴィと感性の鈍磨」項より 抜粋)
*初出 1993年
私たちの耳は聞こえているか
さて、映画も概ねそうであるが、それにしてもテレヴィの音の扱いの無神経さは、日本の場合、酷すぎるように思う。ニュース報道の背後にまで全く関連性がない音楽や音響が流されて、徒らに視聴者の気分を煽ろうとする。また、私たちもいつしかすっかりそれに馴らされてしまっている。こんな状況が永く続くようなら、私たち(日本人)の耳の感受性は、手の施しようが無いまでに衰えてゆくだろう。
その時、耳は、もはやなにものをも聴き出すことはない。
(映像から音を削る 武満徹 映画エッセイ集「私たちの耳は聞こえているか」項より 抜粋)
*初出 1994年
いつの時代のことなんだ?
上の文章たちは、1990年代に新聞などに掲載されたインタビューを本に所収したものです。もちろん過剰さの程度の差こそあれ、この30年の時を経て、あまり状況は変わっていないのかも、というのが感じたところです。こうやって声あげて警鐘を鳴らしていた人がいたんだ、驚きとはっと気づかされる発見があります。
もう一度引用すると。
「伝えられている内容にはたぶん嘘はないだろうが、音楽がそれを誇大にし、その煽情的効果が事実を著しく歪めてしまっているように感じられる。しかもその音楽の効果は事実の重みを消してしまい、ニュースがまるで虚構の劇を見ているようで、見る側の反応を一様にしてしまいはしないかと、不安になる。視聴者のそれぞれの判断が及ぶ前に、既に解答は用意されているのだ。」
ここで一例。
とある町で殺人事件が起きました。とても不可解で謎の多い事件。それを伝えるテレビのなかでは、神妙そうなキャスターの声と、おどろおどろしい怪談を語るようなナレーション。なんの変哲もない(ように見える)現場の映像のうえに塗られる血のしたたるような字体のテロップ、そこにかぶさる「Sonatine」(映画『ソナチネ』メインテーマ)の音楽。To be Continueよろしく、チャンネルを替えさせまいと茶の間を心理巧みに引き込もうとする演出。事実〉殺人事件が起こった。犯人はまだつかまっていない。 演出〉それを伝えるための手段すべて。 用意された解答〉とても恐ろしい事件でしょ。まるで映画やドラマのようですね。
ああ、こんな番組、ぞんぶんにあったなあ(今でもある)、ちょっと笑ってしまいそうですが、そこには笑えない危険も潜んでいるということですね。さすがに、正当なニュース番組(報道番組?)ではここまで露骨なものはないのかもしれません。ただ、昨今、ニュースなのかワイドショーなのかわからない、どららの性格をもふくむ番組も多いからこそ、より一層の危険も含んでいるとすら思ってしまいます。
音楽による過剰な演出、知らず知らずのうちに心理的コンロールされて受け取っていることも、もしかしたら多いのかもしれない。一辺倒なわかりやすい世論の流れや、読解力の低下なども、視覚的・感覚的・第一印象そのままに容易に受けとってしまうテレビ映像の功罪。影響力のあるメディアだからこそ、音楽を慎重に取り扱ってほしい、無神経に興味本位な道具として使ってほしくない、そんなことを強くはっきりと思いました。
さて、百聞は一見に如かず、ここでひとつ動画をご紹介します。
for Overtone No.28 1/5 pic.twitter.com/D7iO95ykC1
— 久石譲ファンサイト 響きはじめの部屋 (@hibikihajimecom) January 21, 2020
for Overtone No.28 2/5 pic.twitter.com/3j1vGfXgBl
— 久石譲ファンサイト 響きはじめの部屋 (@hibikihajimecom) January 21, 2020
for Overtone No.28 3/5 pic.twitter.com/pJInu5zLbJ
— 久石譲ファンサイト 響きはじめの部屋 (@hibikihajimecom) January 21, 2020
from テレビ朝日系「題名のない音楽会」(2019年4月20日放送回より 抜粋)
こんな日常的な光景も、音楽だけで印象が変わります。
そういえば、久石さんも昔テレビ番組で同じような実験をしていました。
for Overtone No.28 4/5 pic.twitter.com/1E4Ro9OCHC
— 久石譲ファンサイト 響きはじめの部屋 (@hibikihajimecom) January 21, 2020
for Overtone No.28 5/5 pic.twitter.com/gYFEj0mtLL
— 久石譲ファンサイト 響きはじめの部屋 (@hibikihajimecom) January 21, 2020
from テレビ東京系「たけしの誰でもピカソ」(2001年1月19日放送回より 抜粋)
そういうことです。
もう一度、映画に範囲をもどして。
久石譲が語ってきたこともいくつかご紹介します。当時は読み流していたことも、ここまでの話から眺めかえすと、気づかなかったことや新しい発見があるかもしれません。
「あまり気にしてないですよ。あくまで作品に対して自分がどう思うか、同時に、作品からイマジネーションをどれだけ豊かにできるか、そこが一番大切。宮崎さんのアニメーションであろうと、なんであろうと、僕の中では普通にやっているんです。でも、幅はありますよね。ひとりの人間の中にもいろんな顔がありますから。心温まる作品のときは、必然的にメロディ・ラインが大事になってきますし、突き放したような映画のときには、自分の中にもそういう部分はありますから、極力音楽がでしゃばらないように作る。共通するのは、画面をなぞるような音楽は作らない、ということ。あくまで、もしかしたら絵で表現しきれなかったものを表現する、というようにしています。音楽って非常に怖いんですよ。世界観とかムードを決定してしまうところがありますから。」
(Blog. 映画『壬生義士伝』(2003) 久石譲 インタビュー 劇場用パンフレットより 抜粋)
「でもね、音楽っていうのは、映像にかぶせると実はとっても怖いんですよ。だって映像がものすごく丁寧に、きめ細かくその世界をつくったところに、音楽がどんとペンキを塗るように重なってくるわけですから。特に北野監督の映像というのは、エモーショナル(感情的)な部分、例えば俳優が汗を垂らして演技しているような部分を削っていってしまうんですね。セリフも極力少なくしてあるし。そんな映画で音楽がトゥーマッチになると、しらけてしまう。それで音楽も極力引いた形でつけたいんだけど、生の弦(楽器)などをつけると、どうしてもエモーショナルになってしまうんです。それが北野監督の世界を壊してしまうのではないかと、すごく怖いんですよね」
「格調のある音楽。つまり感情を変に盛り上げるのではなく、一歩引いたところから格調高い、しっかりとメロディがある音楽をつくり上げる。その一点をどうにかすればどうにかなる。それが北野映画を通して学んだことと言えるかもしれない」
(Blog. 「NHK『トップランナー』の言葉 仕事が面白くなる!」 久石譲 インタビュー内容 より抜粋)
「まさにそうですね。今存在している「竹取物語」は不完全なもので、その裏側に隠された本当の物語があるんじゃないかという仮説を思いついてしまったんです。だから真実の裏ストーリーを作れば、かぐや姫の気持ちはわかるだろうと。ただわかるんだけど、見る人が自分と主人公を同一視していくような感じではなく、距離を持って見つめる方がじわっとくると思いました。“思い入れより思いやり”と言っているのですが、自分がぞっこん惚ほれ込んで思い入れてしまうより、想像力によって他人の気持ちがわかる映画にしたかったんです。」
(高畑勲 談)
(Blog. 久石譲 「かぐや姫の物語」 インタビュー ロマンアルバムより 抜粋)
「確かに、多くの人が映画音楽をムードで作ってしまっています。本来はちゃんとした理論が作れるはずですが、そういうのがまったくありません。なんとなくのイメージでやっている。それでも通用できてしまう世界でもあるから、問題なんですけどね。」
(Blog. 「東洋経済オンライン」 久石譲 Webインタビュー内容 より抜粋)
「だいたい映画のなかで音楽が流れるなんて嘘ですから。現実生活では、愛を語ったからって音楽は流れてくれないでしょう。映画音楽は、つまり虚構中の虚構なんです。けれど、そもそも映画自体がフィクションなわけです。フィクションだからこそ真実を語れる。それが映画の面白さ。そういう意味ではもっとも映画的なのが映画音楽ともいえる。映画の構造自体が、音楽と密接に関わっている」
(Blog. 「GOETHE ゲーテ 2013年7月号」映画『奇跡のリンゴ』久石譲インタビュー内容 より抜粋)
「映画音楽は、映画のなかでもっともウソくさい。例えば、恋を語っている時に現実に音楽が流れるわけがない。流れるわけがないウソを映画音楽はやっている。もっともフィクション。映画自体はフィクションなわけで、そのなかでフィクションである映画音楽がもっとも映画的とも言える。その代わり、使い方を間違うと超陳腐になる。」
(Blog. 「NHK SWITCH インタビュー 達人達 久石譲×吉岡徳仁」 番組内容紹介 より抜粋)
うむ、深く考えさせられます。
前回(Overtone.27)ご紹介した武満徹さんの言葉のなかにもありました。
「もちろん、映画音楽は、独立した楽曲として鑑賞に耐え得るだけの、質的にも高いものであるにこしたことはないが、それ以上に映画音楽の需要さは、音楽が映画全体のなかでどのように演出され、使われるかということだ。そのために、音楽の扱いには、常に、冷静さと抑制を失ってはならないはずだ。だが少なからず最近の映画音楽は、抑制を欠いた、無神経なものが多い。こけ脅しの誇張や説明過剰が概ねであり、観衆の想像力を少しも尊重することがない。また、いつの間にか観衆もそれに慣らされてしまっている。」
(映像から音を削る 武満徹 映画エッセイ集「映画音楽 音を削る大切さ」項より 抜粋)
ここから思い返したのが、高畑勲監督の姿勢でした。映画『かぐや姫の物語』で久石譲へオーダーした音楽こそ「登場人物の気持ちを表現しないでほしい」「状況につけないでほしい」「観客の気持ちを煽らないでほしい」といったものでした。つまり、観客をその世界に無理やり引きずり込むような主観(さも自分がいまその世界のなかにいるような)ではなく、客観的に、観客のほうに寄っている音楽がいいと。
過度な意図をもって、音楽がそれを誇大し、観客を煽り、ひとつしかない解答をねじ込む。こうした常套手段が通例しているなか、あくまでも観客の想像力を尊重したあり方で、イマジネーション豊かに観客それぞれの受け取り方をしてもらうための音楽。
今思うと、高畑勲監督の意図や意志は、自らのこだわりという範囲にとどまらない、現代社会の映画・テレビ・ニュース・インターネット動画などメディア全般における映像と音楽の関係への警鐘だったのかもしれない。時代の流れにメスを入れたからこそ、これから未来へ向けて普遍的な作品への品格を手に入れているのかもしれません。
僕は、正直にいって、久石譲の映画音楽を公平にジャッジすることはできません。映像に対して強いのか、音楽が前に出過ぎているのか、雄弁に語りすぎているのか、はたまた逆に…。なぜか? まずもって耳が敏感に音楽をキャッチするように染みついてしまっているからです。音楽から(音楽を目的やきっかけにして)映画を鑑賞するスタンスができあがってしまっている。だから、このシーンの音楽いいなあとか、すごく映像とマッチしてるなあと思うことは多くても、このシーンに音楽はいらないなあと思うことはないしできない。実際には、音楽の鳴らない沈黙もふくめて音楽構成は綿密にされているでしょうし、久石さんは別のインタビューでも「ファンタジーの要素が強いと音楽は多くなるし、逆に現実に近いものほど音楽は少なくなる」とも語っています。
公平さを自分のなかに少しでも持ちたいと、いろいろな映画や映画サウンドトラックにふれたいとは思っています。こんな音楽なんだ、こういう使い方してるんだ、うるさいな、と思う映画。ずっと鳴ってるわりには全然聴こえない、サウンドトラックを聴いて音楽はとても丁寧に書かれているのにもったいない、と思う映画。いろいろ触れてみるからこそ、久石譲の映画音楽の魅力がみえてくるのかもしれませんね。ああ、もしこの映画の音楽が久石さんだったらという空想もまた楽しい。
”映画音楽とはこういうものだ” というかくたる正解はありません。だからこそ、いろいろな方法論があり、ひとつひとつの作品ごとに向き合い”ふさわしい”音楽を追求していくプロフェッショナルたち。過去から受け継ぎ、学び、いまの時代や社会に提示するもの。そう思い巡らせると、その挑戦や葛藤にただただ頭がさがります。
まとめることができないので、ふせんをペタペタ貼るようにメモします。いつかまた、ここから広げたり掘り下げたり、新しいものを見つけたり。メディアに流されない馴らされない受け手になれるように。映画作品をさらに楽しむことができる観客になれるように。受け手側の学びや成長こそ作り手への感謝と未来へのレガシーと信じて。
memo
映画から飛躍してテレビまで広げてきました。映画にはフィクションもあればドキュメンタリーもあります。でもドキュメンタリーもまた再構成された作りものです。テレビも枝葉細かく、ニュース・スポーツ・ドラマ・バラエティ・ドキュメントなど、あらゆるジャンルのなかでフィクション性とノンフィクション性が混在しています。さらに映像媒体は、インターネットにまで拡がり、発信者がパーソナルかつインターナショナルという、もうメディア宇宙の様相を呈しています。
どんなメディア発信であっても、これは事実なのか、これは真実なのか、このふたつの違いの見極めはとても大切です。フィクションを元にした映画のほうがリアリズム(真実)をもっていたり、事実を元にしたニュースのほうがよりフィクションへと歪められたり。音楽が好きだからこそ、音楽の使われ方というものにもう少し敏感にありたいですね。音楽によって真実に近づいているのか、遠のいているのか。
久石さんの音楽もよくテレビで使われますね。まあ、耳にするとうれしい自分もいるわけですが。これなんだっけ?と頭の中ぐるぐるしていたら、画面の内容から追いつけなくなっていたり。なんでもかんでも、久石さんの音楽をむやみやたらに使わないでほしいと言うつもりはありません。まじめなニュース番組、シリアスな報道では使ってほしくないです。映像を誇張するものであっても、映像をやわらげるものであっても。よろしくお願いします。
映画は音楽によってより真実に近づき、ニュースは音楽によってより真実から遠ざかる。
それではまた。
ループ
こんな文章もあります。監督、作曲家、そして小説家。言わんとする核心は同じだと思います、おもしろいですね。
「エリア・カザンに『ブルックリン横丁(A Tree Grows in Brooklyn)』という古い映画があります。主人公の12歳くらいの女の子が、学校の先生に物語について教わるところがあります。先生は彼女に言います。「真実を伝えるために必要な嘘があります。それは嘘ではなく、物語と呼ばれます」。細かい台詞は忘れたけど、たしかそんなだったと思います。その女の子はそれを聞いて「私は作家になろう」と決心します。僕がとても好きなシーンです。 ~中略~ 小説家といわれる人はそのようにして「真実を伝えるために必要な嘘」をリアルに立ち上げていくことができるのです。」
(村上さんのところ /村上春樹 著 より 抜粋)
reverb.
イメージ(image)には”映像”という意味もあるけれど”根源”という意味もあります。イメージアルバム♪
*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number]
このコーナーでは、もっと気軽にコメントやメッセージをお待ちしています。響きはじめの部屋 コンタクトフォーム または 下の”コメントする” からどうぞ♪
Posted on 2020/01/20
映画『千と千尋の神隠し』公開にあわせて出版された特集本です。映画の見どころ解説から、宮崎駿監督・鈴木敏夫プロデューサーのインタビューはもちろん、声を担当したキャストインタビューも収められています。またスタッフインタビューでは、音楽を担当した久石譲はじめ、作画・美術・音響スタッフなどのインタビューもたっぷり収録されています。
「毎回、挑戦の連続です」
音楽 久石譲
『風の谷のナウシカ』以来、宮崎作品の音楽を一貫して担当。北野武監督らの映画にも音楽監督として参加する。
ートラックダウン作業中だそうですが、今、作業されていたのは、どんな場面ですか?
久石:
映画の冒頭に近い、人気のない街を千尋がさまようシーンで流れる曲です。
ーずっと同じフレーズが流れているようんですが。どういう作業なんでしょう。
久石:
その一つ一つが微妙に違うんですが、わかりますか?
ー実はあまりよくわからなかったんですが(笑)。
久石:
木管楽器の音をほんのわずかだけ出し入れしていたんです。今回はコンサート用のホールで、管楽器も弦楽器もそれぞれにマイクを立てて、同時に演奏して収録したんですが、管楽器のマイクにも弦楽器の音がわずかに漏れて入っている。そのために、例えば木管楽器の音を大きくすると、別の楽器の音も若干大きくなってしまう。だから、微妙な調整でベストのバランスを探していたんです。
ー全部の楽器を別々に録音しておけば、そうならないわけですね。
久石:
でもそうすると、ホールの音の響きの良さが失われてしまう。今回は響きの良さを選択したわけです。なんとなく聞いているだけでは、気が付かないことですが、こうしたことの積み重ねが、最終的な音楽の仕上がりを決定するんです。
ー宮崎監督とのコンビはこれで7作目。
久石:
毎回、挑戦の連続です。今回は、ガムランやエスニックな打楽器など、とてもオーケストラといっしょに奏でるようには思えない楽器を大胆に使っています。それに6.1チャンネルのドルビーサラウンドという、従来の5.1チャンネルよりもさらに進歩した、アニメ映画では初めての試みにも挑戦しているんです。
ー昨年、音楽映画『Quartet/カルテット』で、監督を経験されましたね。
久石:
実は何年も前から映画制作のオファーはあったんですが、中途半端なものを作ることはできないと思い、ずっと躊躇していたんです。でも、音楽だけでは表現しきれないものを自分の中に抱えていた。それが’98年に長野パラリンピック開会式を演出したことなどで、演出という仕事に手ごたえを感じるようになり、監督をやることになりました。
ー監督という仕事を経験したことは、その後の映画音楽作りに影響しましたか?
久石:
何よりも、監督という立場の気持ちがすごくよくわかるようになった。『千と千尋』でも、このシーンからこのシーンまで音楽が入るという指示があるとしますね。これまではその中で、いかに映像と音楽がカッコよく結びついているかという見方だった。それがこのカメラアングルが意味するものは、とは、なぜ人物がこの方向から入ってくるのかといった意図が、とても良くわかるようになったんです。そうなると、このシーンでは監督の意図を妨げないように、曲想を押さえ気味にしようとか、ここはさらに盛り上げようとか、そういう、より繊細な映画のための曲作りができる。監督を経験したことは、音楽家としてとてもプラスになったと思います。
ー『千と千尋』の作業の後は何を?
久石:
福島で7月20日から開催される「うつくしま未来博」で、大スクリーンを使って上映される、日本初フルデジタル撮影の実写映画『4 MOVEMENT』の公開準備に入ります。
(千と千尋の神隠し 徹底攻略ガイド 千尋と不思議の町 より)
Posted on 2020/01/15
ふらいすとーんです。
「映像から音を削る 武満徹 映画エッセイ集/武満徹 著」、なんとも魅力的なタイトルで手にした本です。おもしろくてぐいぐい惹きこまれてしまい、もっといろいろ読んでみたいと「武満徹著作集〈1〉~〈5〉」各500頁近くある分厚い書籍も読破し、著作集からもれるエッセイや対談本などを片っ端から読みふけっていました。出版されている本も多く15冊は超えるくらい読んだ結果、最終的にこの本が一番”映画音楽”については凝縮されていたと思います。
当たり前ですよね、”映画エッセイ集”とある、いろいろな書籍からまとめたものになっているわけです。それでもほかの本を手にとったのは、武満徹さんの映画音楽とオリジナル音楽(自作)の関係性や、いろいろな著名人との対談から語られるエピソードも知りたかったからです。
音楽を聴くよりも言葉を読むほうが多い作曲家、珍しい接し方になりました。音楽のほうはプールの水を両手ですくうほどしか聴いていないので、語るにおよびません。気になった映画音楽ですら現在では聴けないものが多いということもありますが。
今回は世代の違う作曲家、武満徹の映画音楽論を掘り下げることで、久石譲の映画音楽論と共鳴するもの、それぞれに違うもの、そんなことが見えてきたらいいなとご紹介します。取り上げた文章を読んでいくなかで、久石譲ファンなら「こんなこと久石さんも言ってたな」とすぐにつながることもあるでしょう。ただ、ピックアップしたセンテンスごとに、【久石譲もこう言っている】【宮崎駿監督、高畑勲監督もこんなこと言っていた】という部分的な照らし合わせはしていません。まずは、ゆっくりじっくり武満徹の言葉に耳を傾けてもらえたら幸いです。
映画音楽
映画音楽については、さだまった法則というものはないと考えます。それは、映画が、時代社会の動きにしたがって絶えず新しく生まれかわるものだからであります。映画音楽は、映画を離れて無い。この原則を一言にして語れば、映画にあって、音楽は、かならず演出されなければならないのです。たんに、映画のもつ雰囲気を誇張するほどの役割としてではなく、主題をいっそう具体的なものに表すべく、その表現をもたなくてはなりません。
~中略~
私は、ひとつの嘘を真実たらしめるための役割を、音楽によって担いたいと思っています。台詞はあくまで観念であって、音楽は、それを官能的な次元に置き換えて、直接に働きかけねばなりません。音によって、言葉の観念は、肉化されるのであります。もちろん、映画は、あくまで映像の芸術でありますが、音楽は台詞と同様に、あるときは、それ以上の役割を背負うものだと思っています。
~中略~
よく謂われることですが、音楽の体位的な直接用法によって、映画表現は、相乗された効果をもち得ました。これによって、描かれているものをさらになぞるということは、表現を稀薄にする以外のなにものでもないことがわかりました。
殺人の場面で、明るい自動ピアノを鳴らした『望郷』は、映画音楽における一つの典型のように言われています。『野良犬』の結びちかくにも、こうした体位的手段が活かされている。そして、今日では、こうした方法は常識となり、パターン化しつつあります。体位的手段は、その表れてくるところの異常さによって人をひきつけ、緊迫した効果をうむが、図式的な処理と、常套化した繰り返しに従うなら、たんに場面の効果をうむのみに留まってしまうのです。それが主題と深く関わらずに完結したのでは、ひとつの自立する芸術として、音楽が映画に参加する意味はない。それは、ネガティヴに映像をなぞることでしかないからです。全体的な表現に参加することが大事だと思います。
~中略~
(映像から音を削る 武満徹 映画エッセイ集「映画音楽」項より 抜粋)
映像とその音響
映画音楽には定まった方法論が無いと書きましたが、映画音楽が映画に附帯するものである以上、それはたえず新鮮な方法でなされるべきです。
私はこれまでに幾つかの映画のために音楽を書いてきましたが、そのスタイルはさまざまです。映画音楽の作曲家は、ある点では俳優と似たところがあって、演出家、あるいはその映像から思いがけない自分をひきだされるものです。また、そうした影響力の強い映像に接することが作曲家に新しい勇気と意欲をあたえます。
~中略~
私は映画音楽を書く時、映像に音を加えていくというよりも、映像からいかに音を削っていくかということについて考えます。映像自身が響いているという言い方は奇妙かもしれないが、この仕事にたずさわった人には容易に理解してもらえる事柄であろうと思います。映像自身が固有にもっている響きを平面的になぞることは、映像の空間を狭めることになります。すると、映画はたんに物語を運搬するセルロイドの帯でしかなく、映像が試みているモンタージュは、音響によってその意味を失います。映画における音楽と音響の役割には求心と拡散に両方の面があると思いますが、それがどうあるべきかを規定する尺度はありません。映画の主題だけがそれを決定します。映画が時間芸術であるかぎり、個々の独立した場面によって音の設計を考えるべきではないと思います。全体として個々の効果が大事なのです。そうすることが個々の場面をいかすことになるでしょう。
(映像から音を削る 武満徹 映画エッセイ集「映像とその音響」項より 抜粋)
私の受けた音楽教育
それではなぜ、映画音楽をやっているのかと申しますと、私は小さな自分の仕事部屋で作曲をしていて、時にはピアノを使ったりしながら、かなり自己完結的な仕事にたずさわっているわけです。具体的にいえば、自分の肉体の癖というようなものが作曲の際に出てしまって、むろん人間の肉体性、音楽の肉体性ということは何よりも大切ですけれども、それとまるで違った、たんなる肉体的習慣に身を委ねてしまうようなことがあるのです。ピアノを弾く手の癖とかですね。そういう時に、いろんな違う人たちと仕事をする、例えば映画音楽もそうですが、そうすると、自分のうちの未知なるものというか、思いがけない自分を発見することがあるのです。
映画音楽には特別に決まった方法論というものはなくて、映画というものがそうであるように常に現実と結びついたものです。映画音楽の場合は、ある映画の効果を高めるということだけでなくて、他にたいへん大事な意味をもっています。それは優れた映画監督と仕事をする場合、俳優や女優が、普段はかなり大根役者だと思われていたのに、思いがけなく、いい芸をするというようなことがありますが、それと同じように、私自身も、いい映画監督と仕事をすると、思いがけない自分というものが引きずり出されることがあります。
そのことは、自分の書斎にもどって音楽を作るのにも非常に役立ちます。しかもシンフォニーを作曲し、それが日比谷公会堂で演奏され満員になったとしても、千数百人の聴衆が聴くだけですが、映画の場合は一本の映画ではるかに多くの人々が私の音楽を耳にするわけです。
それに、映画の場合は、あ、あれは武満が作曲したものだ、というような意識は見るひとにあまりないでしょう。そのことは私にとってたいへんうれしいことです。
(映像から音を削る 武満徹 映画エッセイ集「私の受けた音楽教育」項より 抜粋)
映画音楽 音を削る大切さ
映画がひとに語りかけるのは、かならずしも、単一の事柄ー物語や主題ーに限らず、また、もし映画がそれだけのものにすぎないとすれば、面白味も薄く、そこでは音楽の役割も単なる伴奏の域に留まるしかないだろう。フィルムのフレームにきりとられた現実は実際とは異なったリアリティをもつものであり、映像に音楽が付けられることで、(映画)全体としての心象は、また別のリアリティを得る。相乗する視覚と聴覚の綜合が映画というものであり、映画音楽は、コンサート・ホールで純粋に聴覚を通して聴かれるものとは、自ら、その機能を異にする。あくまでも、映画音楽は演出されるものであり、そこには、常に、自立した音楽作品とは別の、抑制が働いていなければならない。
~中略~
もちろん、映画音楽は、独立した楽曲として鑑賞に耐え得るだけの、質的にも高いものであるにこしたことはないが、それ以上に映画音楽の需要さは、音楽が映画全体のなかでどのように演出され、使われるかということだ。そのために、音楽の扱いには、常に、冷静さと抑制を失ってはならないはずだ。だが少なからず最近の映画音楽は、抑制を欠いた、無神経なものが多い。こけ脅しの誇張や説明過剰が概ねであり、観衆の想像力を少しも尊重することがない。また、いつの間にか観衆もそれに慣らされてしまっている。
~中略~
私は、自分が考えている映画音楽というものについて、説明を試みる。
「時に、無音のラッシュ(未編集の撮影済みフィルム)から、私に、音楽や響きが聴こえてくることがある。観る側の想像力に激しく迫ってくるような、濃い内容を秘めた豊かな映像に対して、さらに音楽で厚化粧をほどこすのは良いことではないだろう。観客のひとりひとりに、元々その映画に聴こえている純粋な響きを伝えるために、幾分それをたすけるものとして音楽を挿れる。むしろ、私は、映画に音楽を付け加えるというより、映画から音を削るということの方を大事に考えている」
私なりの映画音楽の方法論を語ると、ハリウッドのひとたちは、なんとも不思議なものに接したような驚いた表情で、大仰に、Very interestingを連発した。そして、「アメリカの作曲家は一曲でも多く音楽を挿れたがるのに、あなたはまるで反対を言う。音楽を沢山挿れた方がそれだけ利益に結び付く機会も増すはずなのに。おかしなことを言うひとだ」と言って、またもや感慨深げに、Very interestingを繰り返した。
(映像から音を削る 武満徹 映画エッセイ集「映画音楽 音を削る大切さ」項より 抜粋)
ひとはいかにして作曲家となるか
~中略~
演奏技術は教えることができるし、その教育の必要です。しかし、作曲を教えることはできないと思います。ソナタ形式とか、交響曲とか、西洋音楽が歴史的に創り上げた形式の概観を教えることはできるでしょうが。作曲家にとって一番大切なことは、どれだけ音楽を愛しているかであり、また自分の内面に耳を傾け何かを聴き出そうとする姿勢だと思います。こういうふうに楽器を重ねれば美しい響きが作れるという原則を教えることはできますが、それは最低限必要な技術に過ぎません。そんな表面的な技術ではなく、その人なりの美しい音があるはずです。モーツァルトやベートーヴェンは、そういった「自分の声」を持っていたひとたちです。
~中略~
いまだに外国で「日本人なのになぜ西洋音楽をやるのか?」と質問されて、よく居心地の悪い思いをします。日本人が「能が外人にわかるわけがない」と言うのと同じです。でも、日本人だって能を観てもわらからない人もいれば、フランス人だってドビュッシーがわからない人もたくさんいます。
「『わかる』とは一体何か?」が問題です。例えば同じブラームスの曲を聞いて、僕とドイツ人では理解が違うかもしれない。ただ、自分が感動する点では同じです。逆に、違った感動を味わってもいいわけです。これだけ情報化の進んだ現代でも、日本人と外国人との間にはいまだに誤解がたくさんありますが、このことを否定的にとらえる必要はない。もっと積極的にお互いの違いを確かめていくことが大切です。誤解は、物事を正すのに少しは役立つ可能性があります。浅薄な理解よりもましというものです。
~中略~
ある外国の友人に、「君が日本の楽器を使って書いた作品より、オーケストラを使って書いた作品の方に『日本』を感じる」と言われたことがあります。心あたりと言えば、同じ楽器を使ってもその使い方によって創り出している響きが違うんだろうということです。西洋人にとってはありきたりな楽器でも、自分にはその使い方の基礎的な知識がない。もしかしたら、そのことが僕の個性をつくり出しているのかもしれない。
~中略~
僕の考えでは、映画は監督のものです。つまり、作曲家も俳優と同じように監督に使われる存在です。だから映画音楽も音楽作品として優れていることより、映画の中での効果の方が優先します。「音楽が演出される」わけです。映像があって、ある一つの響きが聞こえるだけでも、映画音楽として成り立ちます。
僕は優れた監督に、自分の中の未知のものを引っぱり出して欲しいと思っています。実際、ふだんなら絶対書かないような音楽を、いい監督と出会ったために書かされたというか、書いてしまったこともあります。後になって、自分の変化がわかるんです。
シナリオを読んで発想が浮かぶことがあれば、最終段階までプランが決まらないこともある。映画音楽を作る体験は一本一本違った体験です。
楽譜はかなり細かいことまで書き表わせ、指示出来るとはいえ、やはり不完全なものです。だから最初の演奏にはできるだけ立ち会うように心がけています。初演の前のリハーサルの際に、作者として介入します。
僕は自分の音楽をよくわかってくれる人のために曲を書いています。例えば指揮者では小澤征爾や岩城宏之のために書く。ピアノ曲だとアメリカのピーター・ゼルキン、フルートなら誰々というふうに。室内楽のような小さい編成のものを書く時は、いつでも頭の中に演奏者の顔が浮かんでくるぐらい彼らと近い状態にあります。いわば彼らへの個人的な贈り物のつもりで曲を書いています。そういう人たちの演奏には介入しません。僕自身以上に僕を理解してくれているから。期待しながら演奏に耳を傾けます。
(映像から音を削る 武満徹 映画エッセイ集「ひとはいかにして作曲家となるか」項より 抜粋)
読みごたえのある本です。ぜひまるまる一冊手にとってほしいです。
また同じような内容は他の書籍などでも語られています。
「普通”音楽を入れろ”と言われます。しかし、そういう場面では音楽が入っていなくても、誰でも自然に心の中に美しい音楽が流れるのをきけます。そういう時には音楽は余計なものとなってしまいます。」
(武満徹著作集1より)
目次
第一章
映画界は滅びても”映画”は滅びない
ひきさかれた『女体』の傷は殺された牛よりもいたたましい──恩地日出夫への手紙
「青年プロダクション」に抗議する
ショスタコーヴィッチの逆さの肖像
子供番組と音楽
生活と仕事と生活
映画界は滅びても”映画”は滅びない──不況とは無関係な芸術性こそ問題
映画音楽
日録
清瀬保二と早坂文雄 〈日本〉と二人の作曲家
夢
第二章
テキサスの空、ベルリンの壁
「シネ・ジャップ」によるインタヴュー
映画人
廃墟の音
テレヴィと聴衆
映画とその音響
ラジオの思想性
音とことばの多層性
私の受けた音楽教育
映画
”伝達のされ方”が分岐点
瀧口修造展に寄せて
『アレクサンダー大王』について
『オーケストラ・リハーサル』について
テキサスの空、ベルリンの壁──ヴィム・ヴェンダース
仲代達矢素描(スケッチ)
小林正樹と映画音楽
第三章
映画音楽 音を削る大切さ
タルコフスキーは最後までみずみずしい耳を持っていた
人間への眼を欠くヴィデオ時代の映画
仏映画に不思議な懐かしさ──『めぐり逢う朝』を観る
映画音楽 音を削る大切さ
「創造」としての蒐集(コレクション)
川喜多和子さんの突然の死
人間の「存在」について
私たちの耳は聞こえているか
地球の一体化と文化の多様性
感嘆した映画音楽祭
ひとはいかにして作曲家となるか
芥川也寸志と映画音楽
忘れられた音楽の自発性
編集あとがき 高崎俊夫
今回取り上げた文章たちは、そのほとんどの初出が1990年代に書かれたものです。時代を越えて映画に携わるプロたちの普遍的な映画論・映画音楽論というものが見え隠れしてきます。
ここからはスタジオジブリ作品、宮崎駿監督・高畑勲監督・鈴木敏夫プロデューサー、そして久石譲の語ったことを、幾多ある本やインタビューから少しだけご紹介します。
「アニメの世界は”虚構”の世界だが、その中心にあるのは”リアリズム”であらねばならないと私は思っている。ウソの世界であっても、いかにほんとうの世界とするかが大切だろう。言葉をかえるなら、みる人に「そういう世界もあるな」と思ってもらえるウソだ。たとえば、ムシからみたムシの世界を描くとする。それは人間が虫メガネでみた世界ではなく、草がすごい巨木となり、地面が平らではなくデコボコ、雨や水滴などの水の性質も人間が考えるものとはまったく異なってくる。こうして描けばおもしろい世界になり、ほんとうらしくなるだろう。アニメとは、そういう特性をもっており、しかも、それを絵にしてみせることができるすばらしさをもっているのである。」
(「出発点 1979~1996」/宮崎駿 著 より抜粋)
「ナウシカ」について言えばね、最初にイメージ。レコードっていうのを作ろうということで、久石さんていう人に頼んで作ってもらったんですね。そしたらなかなか面白い曲がその中に含まれていた。で、いろいろ経緯はあったんだけど、映画の音楽も久石さんにやってもらおうということになった時にね、その面白い曲が含まれていたものの、それがどういう風に使われるかということは何の関係もなく作られているわけですね。それは溜め録りと同じことなんでね、ある意味で言えば。それをどういう風に設計しようかっていうことで考えたわけです、あれはね。ま、あの場合三曲がテーマとして何度も使われているわけだけど。それを中心に据えてやっていくってことでね、むしろかえって上手くいったかもしれない。その、のっけからね、劇伴として「ここはこういう感じなんです、音楽入れてください」って書いてもらうよりね、その人が全力をあげて書いたものです。要するに久石譲という人にとって、映像に劇伴としてつけるんじゃなくて、原作を読んで想像力を駆使して、独立した音楽として聞かせるつもりで全力をあげて書いたもんでしょ? その魅力を全面的に発揮させるように後で音楽設計をする。一種の溜め録りですね。久石さんの初めに書かれた曲が全部良かったと別に思うわけじゃないけれど、その中で「これはイケル!」と思ったものがあった。それをどういう風に扱うか……要するに、曲はいいかもしれないけれど、使えないかもしれないですね。でしょ? 「ナウシカ」の場合でもそう思ったんですよ、実は。出来上がったものを聞いて「これとこれがイイ!面白い!……面白いんだけど、さて、どういう風に使えばいい?……久石さんの力は示してもらったけど、映画用にはやはり改めて書いてもらわないといかんかなあ?」ということを一時は思ったりした位で。だけど、いろいろ行きつ戻りつ考えて、ある所に落ち着いてね、で、出来上がってくると、もうそれしかなかった様に思えたりね(笑)、その、「感じ」っていうのは出て来るわけだからね。どれだけ聞かせてくれる音楽が書かれてるかであってさ、「いかにも劇伴でござい」っていう音楽は使い途がないんですよ、土台。」
(「映画を作りながら考えたこと」/高畑勲 著 より抜粋)
一方、久石・宮崎・高畑の間で解釈が異なり、議論で衝突したシーンもあった。まず、導入部の旅客船襲撃シーンについて、高畑は音楽なしを提案したが、久石は「入れたい」と希望。結局入れることに決まり、ギリギリの7月中旬に曲が書かれた。これとは逆に、ムスカがドームから軍の兵士を落下させる残酷なシーンについては、宮崎から「音楽を」と要請があったが、久石が「残酷さが強調された方が、シータとパズーの優しさや人間愛が胸を打つ」と音楽ナシを主張し、これが通った。ラピュタ崩壊シーンで流れる少女の合唱についても、高畑は「途中で止めるべき」、宮崎は「流し続けたい」と論議があったというが、高畑案が通ったようだ。
(「宮崎駿全書」/叶精二 著 より抜粋)
「映画監督にはそういうところがあるものですが、一番大事なシーンに音楽を挿れずに画だけで見せたがる。『となりのトトロ』でサツキがトトロに出逢う雨のシーンがそうでした。子どもはトトロの存在を信じてくれるけど、大人まで巻き込むにはどうしようかと考えて、あのバス停のシーンが重要だと。それなのに宮さんは「画だけで」と言って。それを聞いた久石さんも「ハイ」と答える。
そこで、トトロの横で『火垂るの墓』を制作中の高畑さんに相談。音楽にも久石さんのことも詳しい彼は「あそこには音楽があったほうがいいですよ。ミニマル・ミュージックがいい。久石さんの一番得意なものができる」とアドバイスしてくれました。その高畑さんが言ったことは内緒にして久石さんに頼みに行きました。「でもここは宮崎さんはいらないって言ったけど、そんなことしてイイの?」と言う久石さんに、僕は言いました。「宮さんは、いいものができれば気が付かないから」。そして作曲してもらった。ジブリで完成した曲を聞く日、宮さんは「あっ、いい曲だ!」と喜び、あの幻想的なシーンが完成しました。僕は思うんですけど、久石さんはそんな綱渡りの状態のほうが、かえって名曲を生み出してくれるんです。」
(鈴木敏夫 談)
(Blog. 「オトナの!格言」 鈴木敏夫×久石譲×藤巻直哉 対談内容紹介 より抜粋)
「初めて高畑さんと久石さんが組んだ『かぐや姫の物語』でも、同じように音楽の直しの指示を幾度も入れていた。そして気がつかないうちに久石さんの創る音楽がどんどん高畑さんの表現したい世界に近づいて行くんです。その裏で、「久石さんという人は、これだけの人じゃない。もっと出せるはずだ。このまま世に出したら、悔いが残るに違いない」、こんなふうに話していました。」
(鈴木敏夫 談)
(Blog. 「オトナの!格言」 鈴木敏夫x久石譲x藤巻直哉 対談内容紹介 より抜粋)
「生のストリングスなどを使って、アコースティックな音に仕上げたいと考えたんです。きれいな音をつけてあげたい。かわりに暴力シーンには音楽はいらない。主人公と奥さんの関係、そして銃で撃たれて車椅子生活をおくっている主人公の同僚、その2つの関係を中心に音楽をつくっていこうと。全体的にあまりムーディーにならないようには心がけました。本当のメインテーマは最後の方に出てくる。音を抜くときいは思いっきり抜くことで次第に、後半に行くに従って情感が増してくるんです。この作品に限らず、沈黙をつくるのも、映画音楽の大事な仕事です」
(Blog. 「ゾラ ZOLA 1998年2月号」 久石譲インタビュー内容 より抜粋)
「久石さんは少しおおげさにおっしゃっています(笑)。でも主人公の悲しみに悲しい音楽というのではなく、観客がどうなるのかと心配しながら観みていく、その気持ちに寄り添ってくれるような音楽がほしいと。久石さんならやっていただけるなと思ったのは『悪人』(李相日監督)の音楽を聴いたからです。本当に感心したんですよ。見事に運命を見守る音楽だったので。」
(高畑勲 談)
「日本の映画で言ったら「野良犬」のラストが典型的ですよね。刑事と犯人が新興住宅地の泥沼で殴り合っている時に、ピアノを弾いている音が聞こえてくる。当時ピアノを持っている家はブルジョワなわけで、若奥さんが弾いている外の泥沼で刑事と犯人が殴り合いをすることで、二人とも時代に取り残されている戦争の被害者だということが浮き彫りになる。天上の音楽を悩みのないものとして描くのも同じアプローチの対比ですよね。」
(久石譲 談)
「自分にとって代表作になったということです。作る過程で個人としても課題を課すわけです。これまでフルオーケストラによるアプローチをずいぶんしてきたのが、今年に入って台詞と同居しながら音楽が邪魔にならないためにはどうしたらいいかを模索していて、それがやっと形になりました。」
(久石譲 談)
(Blog. 久石譲 「かぐや姫の物語」 インタビュー ロマンアルバムより 抜粋)
「それまでの僕のやり方は、もう少し音楽が主張していたと思います。それに対して、『かぐや姫』以降は、主張の仕方を極力抑えるようになりました。音楽は観客が自然に映画の中に入っていって感動するのをサポートするぐらいでいい。そう考えるようになったのです。ただし、それは音楽を減らすという意味ではありません。『かぐや姫』では引いていながらも、じつはかなりたくさんの音楽を使っています。高畑さん自身、「こんなに音楽を付けるのは初めてです」とおっしゃっていたほどです。
矛盾するようですが、僕は映画音楽にもある種の作家性みたいなものが残っていて、映像と音楽が少し対立していたほうがいいと思うんです。映像と音楽がそれぞれあって、もうひとつ先の別の世界まで連れて行ってくれる──そういうあり方が映画音楽の理想なんじゃないでしょうか。そういう僕の考えを尊重してくれたのは、高畑さん自身が音楽を愛し、音楽への造詣がものすごく深い方だったからかもしれません。」
(Blog. 「ジブリの教科書 19 かぐや姫の物語」 久石譲 インタビュー内容紹介 より抜粋)
「基本的に、映画音楽って音楽を状況につけるか心情につけるかのどちらかです。でも、今回はそのどちらもやっていません。主人公の気持ちを説明する気も全然なかったし、海で起こる状況にもつけなかった。すべてから距離をとる方法をとっているんです。やっぱり、音楽が映画と共存するためには、そういう考え方を持っていないと、劇の伴奏のようになってしまってつまらなくなります。走ったら速い音楽、泣いたら哀しい音楽なんて、効果音の延長のようじゃないですか。」
(Blog. 「海獣の子供 公式ビジュアルストーリーBook」 久石譲インタビュー内容 より抜粋)
「今なんか、もうこういう電気機材がすごい発達してるから、もういくらでも細かくやってほとんど音楽がハリウッドでもそうですけど効果音楽になっちゃってるからね、効果音の延長になっちゃってるからね。そのてのつまんないものはね、やっても仕方がないんで。自分が想像してる以上に、世界はソーシャルメディアで変革されてきすぎっちゃってるんですね。そういうなかで結局、映画という表現媒体のなかで、アニメーションというものが持ってるものと、例えばゲームとかね、そういうものが持ってる力を、もう過小評価してはやっていけないだろうと。表現媒体に対する制作陣が昔のイメージで凝り固まって、作品とはこんなもんだっていうことで作っていくやり方が、もう時代に合わない。やはりアニメーションというのはある種の可能性があるわけだから、それをもっと若い世代の人とやっていく、あるいはその時に自分も今までの音楽のスタイルではないスタイルで臨む、今回みたいにミニマルで徹するとかね。そういう方法で新しい出会いがあるならば、これは続けていったほうがいいなあ、そういうふうに思います。」
(Info. 2019/06/14 映画『海獣の子供』久石譲メイキングインタビュー 動画公開 より抜粋)
時代もジャンルも異なる映画の世界のなかで、それぞれのプロフェッショナルの思考や信念を交錯させながら、自分なりに考えてみることはとてもおもしろいことです。久石譲も、その時代ごとにその作品ごとに、アプローチも語ってきたことも変化しています。一方では、一貫して変わらないスタンスというものも見えてきます。
ここでは、武満徹の言葉たちに共鳴する部分を主にピックアップしながら、久石譲の言葉たちは、わりと直近のものからご紹介しました。これまでの久石譲著書や久石譲インタビュー内容からは、もっと多くのことがより具体的につかむことができると思います。ぜひ手にとってみてください。
ウソとマコト I で伝えたかったこと、それは《映画は音楽によって真実に近づく》です。なぞるような音楽、効果音のような音楽、煽るような音楽、いろいろな映画音楽の問題も抱えながら、ひとつの作品としっかり向き合いながら監督や作曲家が、観客に真実を伝えるためのアプローチ。ウソの世界をマコトの世界にするために、音楽は映画にとって必要なもの。
逆に、《◇◇は音楽によって真実から遠ざかる》、このことは ウソとマコト II で掘り下げていきたいと思います。
それではまた。
reverb.
武満徹さんは新しい作品を書くときに、いつもバッハのマタイ受難曲を聴いてから取りかかったそうです。一種禊のような──と書籍にありました。
*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number]
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2020年1月8日 DVD/Blu-ray発売 1000753472
2019年公開映画『二ノ国』
監督:百瀬義行
製作総指揮・原案・脚本:日野晃博
音楽:久石譲
日本を代表するドリームメーカーが集結!新たな青春ファンタジーの傑作、ここに誕生!
現実と隣り合わせなのに全く違う“もう1つの魔法の世界”――二ノ国。高校生のユウと親友ハルは、幼なじみのコトナを巡る事件をきっかけに、2つの世界を行き来することに…。この美しく不思議な世界で、2人はコトナにそっくりなアーシャ姫と出会う。どうやら二ノ国には、一ノ国と命が繋がっている“もう1人の自分”がいるらしい。現実と二ノ国、2つの世界で大切な人に命の危険が迫るとき、ユウとハルに突きつけられる”究極の選択”。彼らが最後に選んだものとは――。
【キャスト】
ユウ:山﨑賢人
ハル:新田真剣佑
コトナ・アーシャ姫:永野芽郁
ヨキ:宮野真守
サキ・ヴェルサ:坂本真綾
ダンパ:梶裕貴
ガバラス:津田健次郎
バルトン:山寺宏一
フランダー王:伊武雅刀
お爺さん:ムロツヨシ
<プレミアム・エディション/封入特典>
◆百瀬監督による描き下ろしアウターケース
◆完成台本(172P)
◆特製ブックレット(40P)
本編ブルーレイディスク+映像特典ブルーレイディスク(2枚組)
<プレミアム・エディション/映像特典> 約140分
◆撮り下ろし!声優ドリームチーム プレミアム座談会
◆アフレコ&インタビュー映像集
◆Making of Soundtrack by 久石譲
◆イベント映像集(製作&主演発表会見/アニメジャパン/ジャパンプレミア/声優登壇試写イベント/公開記念舞台挨拶)
◆主題歌:須田景凪「MOIL」-映画版- MV
◆公開記念特番 ~豪華キャスト大集合!『二ノ国』ジャパンプレミア密着SP!~
◆プロモーション映像集(キャラクター動画集/1分で分かる『二ノ国』/予告編・TVスポット集)
映像特典ディスク収録「Making of Soundtrack by 久石譲」について。
インタビューとレコーディング風景をまじえた約11分の映像。インタビューに関しては映画公開当時にいくつかの媒体で掲載されている内容と同旨となっている。そのことはすでに紹介しているので内容ふくめてご参照ください。
レコーディング風景は、演奏の細かい指示がわかったり、オーケストラの編成も見えるのでとても貴重な記録といえる。録音を垣間見ることができたのは以下の3楽曲。
13.空のランデブー
「頭のフルートとクラリネット、ちょっと抑えよう。mfってなってるけどmpぐらいにしてもらって。8小節目からはmfにしてもらってかまわない」(久石)
「ヴィオラのメロディ少し大きくしてくれる。そうすると太くなる。そうすると上(ヴァイオリン)がのっかって豊かになる」(久石)
33.決着のとき
サウンドトラック盤同様に冒頭からシンセサイザーの音も聴かれたけれど、これは映像の編集で音を重ねたものではないかと思われる。録音時にシンセサイザーパートは、少なくとも奏者には同時に流れていないのではないかと思う。
16.仕組まれた入場
「テンポがあがった分だけザン・ザンを短めにしてもらって」(久石)
おそらくこれは、「8.エスタバニア城」と同じモチーフの曲なので、続けて録音したかどうかはわからないが、それと比較してテンポが早くなっているから、という演奏の指示だと思う。
このように、全楽曲とはいかないけれど、作曲家として久石譲が楽曲ごとにポイントをおいている箇所や、明確な意図やイメージをもった細かい指示を垣間見ることができるのは、レコーディング風景映像ならでは。上の3楽曲だけでも、久石譲がレコーディング時にオーダーした内容を思い浮かべながら、あらためて聴きなおしてみるのもおもしろい。
なお、発売記念として「Making of Soundtrack by 久石譲」の冒頭2分間が1月8日に公開されている。
BD/DVD/デジタル【映像特典】『二ノ国』2020.1.8ブルーレイ&DVDリリース、デジタル先行配信中
from ワーナー ブラザース 公式チャンネル YouTube
同時発売「二ノ国 ブルーレイ(1枚組)」「二ノ国 DVD(1枚組)」には収録されていない。
Posted on 2020/01/08
雑誌「家庭画報 1998年4月号」に掲載された久石譲インタビューです。長野パラリンピックの内容になっています。
ライブな男たち 第4回
久石譲 作曲家
長野パラリンピックに次代の「希望(HOPE)」を見る
この記事が出るころには、すでに長野パラリンピックは終演している。しかし、ある人はこんなことを言っていた。
「オリンピックよりもパラリンピックのほうがはるかに面白いですよ」
「えっ?」
「薬物を使うという嘘がそもそもないし、僕には二本足で滑降するよりも、一本足で速く滑降することのほうがよっぽどすごいことに思えてしまう。一度、目の当たりにしてごらん、本当にすごい迫力だよ。あの情熱といい、あの純粋さといい、オリンピックのようなコマーシャリズムとも無縁だし、スポーツの本来あるべき姿を見る思いだね」
そのパラリンピックが今、まさしく幕を開けようとしている。パラリンピックは体に障害をもつスポーツ選手のオリンピックで、下半身麻痺という意味の英語、パラプレジアとオリンピックをあわせた造語である。そもそもパラリンピックと名称され、オリンピックと同じ場所で開催されるようになったこと自体が近年のことで、1988年の夏季ソウル・オリンピックが最初だった。しかし、歴史が浅いからなのか、パラリンピックの認知度はおそろしく低い。
「三年前、パラリンピック組織委員会から話があって引き受けたとき、僕の周囲はそういう大会があるんだといった表情でした。決して世に知られた大会ではないので話題にも上らなかった。総合プロデューサーになってからは、少しでも知ってもらえるように、とにかく知名度を上げることに努力してきました」
久石譲さんは作曲家だ。宮崎駿監督の『もののけ姫』、北野武監督の『HANA-BI』、それに大ベストセラーになった瀬名秀明さんの小説を映画化した『パラサイト・イヴ』、いずれの映画も久石さんが作曲した。彼が携わる映画は次々に大ヒットしているが、別に映画音楽中心の作曲家ではない。アーティストとしてソロアルバムをコンスタントに出しているし、今年は弦楽四重奏とのアンサンブルによるコンサートツアーも予定している。
その久石さんが、今回は長野パラリンピックの総合プロデュースをしている。具体的には、テーマ曲の作曲、開会式、閉会式、各競技の表彰式、そして開会式の前、二日間にわたって催す前夜祭コンサート。こうした仕事は初めてだ。
「実は、最初は長野パラリンピックのテーマ曲の作曲という依頼だったんです。その時に、あっ、これはちょっと、ただいい曲を書けばいいっていう問題じゃないと思い、しばらく考えさせてほしいと返事したんです。半分断ろうと思っていたくらいでした。それまで地道にボランティア活動をしていたわけではないし、いきなり障害者のスポーツに関わるには、ちょっと重かった。三か月ぐらい悩みましたね。自分がやるべきかどうか考え抜きました。でも、パラリンピックのビデオを見ているうちに、僕も含めてですが、何かこう、垣根があることに気づいたんです。つまり、体に障害を持つ人と持たない人との間の垣根。その垣根は、自分の意思で越えていかなければいけない、越えることがいかに大切かということに気づいたんです。それまでの僕の生活は、障害を持つ人とあまり関わりがありませんでしたから、まず慣れていない。慣れていないから、障害者を神棚に上げるように、逆に大事にしすぎてしまう。それは障害者だけではなく高齢者に対しても同じことがいえると思うんです。生活を分離させてしまう。でもそれは、嫌いだからというのでも、見たくないからというのでもなく、どういうふうに付き合えばいいのかわからないというのが正直な気持ちだと思うんです。この仕事を通して、自分が変われるかもしれない、そんな期待を抱いて、迷いにピリオドを打ちました。また、僕の仕事への考え方は、オール・オア・ナッシング。つまり中途半端な関わり方はしない、するなら完璧にきちっとするし、しないなら何もしない。だから引き受ける時は、テーマ曲をつくるだけではなく、スタッフとして参加しますと返事をしたら、ぜひプロデューサーをと言われて、僕にできることでしたら引き受けますとなったわけです」
総合プロデューサーになり、まず取りかかったのは、大会を演出する上でのコンセプトづくりだ。何を伝えるのか、それを伝えるためにはどうしたらいいのか。最後には、ひとりひとりの気持ちの中に愛や平和といったものを感じてもらえればと考えた。そしてつくったコンセプトが「HOPE(希望)」だった。六年前、ロンドンに住んでいた久石さんが、絵画の殿堂テート・ギャラリーで見た19世紀の英国の画家、ジョージ・フレデリック・ワッツの『HOPE』という絵画をモチーフにしている。沈んだ色調のブルーとグリーンの宇宙空間の中に地球が描かれ、少女が打ちひしがれた姿で地球に腰掛けている。少女の目には包帯が巻かれ、手には一本の弦だけをかろうじて残したくたびれた竪琴がある。
誰がどう見ても絶望的な状況なのに、絵画の中の少女自身は希望を失くしていない。生きているその姿が希望なんです。
「11枚目のソロアルバム『地上の楽園』のコンセプトを探していたときに出会ったのが最初でした。その頃、日本はバブルの絶頂期でした。初めて見た時、随分暗い印象でしたが、何か自分の中に響くものがあったんです。最初は警鐘の意味もあって、自分の気持ちの中で大きかったんですが、今はここまで日本が暗くなってしまい、むしろ絵画からは前向きさを感じるようになりました。これは決して絶望の絵画ではありません。絵画の下には、絵画自体が希望を表わしているのではなく、この少女自身が希望であるというコメントが付記されています。目が見えず、しかも切れそうな細い一本の弦。果てしなく絶望的に見えるけれども、最後まで希望を求めている。この少女自身が希望というコメントに、受動的ではなく能動的なものを感じたんです。誰がどう見ても、悲劇的な状況なのに、少女自身は希望を失くしていない。あの姿で生きていることが希望なんです」
久石さんは、この絵画のブルーとグリーンの色を開会式の基本色に選んだ。そして、この絵画のコピーを持ってアーティストひとりひとりに会い、パラリンピック支援アルバムづくりへの参加を頼んだ。
「この絵画を共通項にして、絵画から感じることをそれぞれに表現してもらいました。ただ、これはあくまでもトリビュート、応援歌ですから、デカダンスになったり、後ろ向きにだけはなってほしくないとお願いしました。昨年の10月末にアルバムづくりを思い立ち、ツアーの合間に交渉。レコーディングは12月1日に始まり、今年の1月の中旬に仕上げましたから、時間はまるでなかった。僕は基本的に音のプロデュースだから、レコード会社をどこにするとか、資金集めはどうするかとか、すべてをプロデュースしたのは今回が初めてでした。すさまじい労力でしたね。ただ、予想していた以上に皆さんが協力的で、前向きに参加してくれたのがすごく嬉しかった。日本でトリビュート・アルバムをつくるのはすごく難しいんです。所属のレコード会社のことや契約のことがあって、昨年の春先に別の企画で一度試みたことがあったんですが、つぶれてしまいました。でも一音楽家としてどうしてもやり通したいと思うようになったんっです。というのも10月だったんですが、ツアー先でたまたまある晩、テレビのドキュメンタリー番組を見ていたら、清水一二さんという、20年間もボランティアでパラリンピックを撮り続けているカメラマンを取り上げていたんです。僕もよく知っている人なんですが、その彼の姿にすごく共鳴したんです。ここまで力を尽くしているのかと……。僕なりに3年間積み重ねてきましたが、まだ100%やりきれていないという思いがよぎって、何とか形にしよう、それが動機でした」
こうして「HOPE」という名のアルバムが誕生した。猿岩石、加藤登紀子、上田正樹、和太鼓の林英哲、ジャズの近藤等則、カウンターテナーの米良美一、チェロの藤原真理、ドリアン助川など、ざっと16名のアーティストたちの力が結集してできあがった。音楽のジャンルもポップスからクラシックまで、両方に精通している久石さんならではの、さまざまな試みがなされたプロデュースである。しかもアルバムは、実費を除いては全額寄付することになっている。障害者のスポーツ用具にあててもらいたいのだ。一枚のアルバムがより多くの人々にパラリンピックを知るきっかけになってほしい。アーティストたちにとっても、参加してよかったと思えるような結果になってほしい。そんなことを願っているという。
「『HOPE』をつくっている時ですが、何か見えない力みたいなものを感じましたね。もし自分の中に、野心や何かの思惑があったら、成功しなかったと思う。ひたすらやり遂げることだけを考えて、ピュアな気持ちで周囲にぶつかっていった。そしたら、周囲の人たちもそれに応えてくれた。ある時期を境に、いろんな人たちがどんどん手を挙げて参加してきてくれて、それにつれてテンションもどんどん上がっていった。何かの力が作用したんじゃないかと思った瞬間がありました」
今回の長野パラリンピックには、32か国から選手・役員を含めて1200名が参加する予定になっている。大会の運営に携わるボランティアの延べ人数は2500名。競技は、アルペンスキー、クロスカントリースキー、バイアスロンのほかに、パラリンピックならではのアイススレッジスピードレースとアイススレッジホッケーの合計五競技で、さらに障害ごとに細かく分かれて34種目を数える。
「21世紀はもう物とか金とか、物質的なことでは幸せになれないだろうと思うんです。こうして今、社会が抱えているさまざまな矛盾や問題は、大概が解決がつかないままに持ち越されていくのだろうけれども、私たちはそうした矛盾を抱えたまま生きていくしかないわけです。でも、受け身ではなく、自分から探しにいくと思うか思わないかで生き方は変わると思う。オリンピックは何だか21世紀にはつながらないような気がするんです。むしろパラリンピックが、これから自分たちが成熟していく上で必要な体験をさせてくれるいいきっかけの場になっていくのではないかという気がします」
(「家庭画報 1998年4月号」より)
Posted on 2020/01/02
2019年大晦日「久石譲 ジルベスターコンサート 2019 in festival hall」が開催されました。2014年から6年連続になります。
今回のプログラムはまさにアメリカン・プログラム。アメリカ合衆国の音楽史をたどるような、アメリカの作曲家、アメリカで生まれた音楽、アメリカの歴史とともに演奏されてきた作品たち。そして、久石譲の音楽とも共鳴しあうような作品たちが選ばれています。 “Blog. 「久石譲 ジルベスターコンサート 2019 in festival hall」 コンサート・パンフレットより” の続きを読む