Overtone.第80回 長編と短編と翻訳と。~村上春樹と久石譲~ Part.5

Posted on 2022/10/20

ふらいすとーんです。

怖いもの知らずに大胆に、大風呂敷を広げていくテーマのPart.5です。

今回題材にするのは『村上さんのところ/村上春樹』(2015)です。

 

 

村上春樹と久石譲  -共通序文-

現代を代表する、そして世界中にファンの多い、ひとりは小説家ひとりは作曲家。人気があるということ以外に、分野の異なるふたりに共通点はあるの? 村上春樹本を愛読し久石譲本(インタビュー記事含む)を愛読する生活をつづけるなか、ある時突然につながった線、一瞬にして結ばれてしまった線。もう僕のなかでは離すことができなくなってしまったふたつの糸。

結論です。村上春樹の長編小説と短編小説と翻訳本、それはそれぞれ、久石譲のオリジナル作品とエンターテインメント音楽とクラシック指揮に共通している。創作活動や作家性のフィールドとサイクル、とても巧みに循環させながら、螺旋上昇させながら、多くのものを取り込み巻き込み進化しつづけてきた人。

スタイルをもっている。スタイルとは、村上春樹でいえば文体、久石譲でいえば作風ということになるでしょうか。読めば聴けばそれとわかる強いオリジナリティをもっている。ここを磨いてきたものこそ《長編・短編・翻訳=オリジナル・エンタメ・指揮》というトライアングルです。三つを明確な立ち位置で発揮しながら、ときに前に後ろに膨らんだり縮んだり置き換えられたり、そして流入し混ざり合い、より一層の強い作品群をそ築き上げている。創作活動の自乗になっている。

そう思ったことをこれから進めていきます。

 

 

今回題材にするのは『村上さんのところ/村上春樹』(2015)です。

期間限定サイトに寄せられた読者からの質問や相談に村上春樹が回答する、そのやりとりをまとめた本です。たしか受付期間は約2週間、それから3ヶ月半の開設期間のなかで、ご本人がすべて回答しています。そこから選ばれた書籍版とコンプリートした電子書籍版とあります。

 

”春樹さん、こんなことも聞いていいですか? 世界中から集まった質問は何と3万7465通。恋愛・人間関係・仕事など悩ましい人生のモンダイから小説の書き方、音楽や映画、社会問題、猫やスワローズまで、怒濤のメール問答は119日間、閲覧数1億PVに及んだ。可愛くてちょっとシュールなフジモトマサルのイラストマンガを多数加え、笑って泣いて励まされる選りすぐりの473通を収録する!”

(書籍版 作品案内より)

 

”村上作品に関する素朴なクエスチョンから、日常生活のお悩み、ジャズ、生き方、翻訳小説、社会問題、猫、スワローズ、そして珍名ラブホテルまで――。期間限定サイト「村上さんのところ」に寄せられた37,465通の質問・相談メールに、村上春樹が3か月半にわたって続けた回答は、3716問!そのすべてを完全収録し、ウェブサイト掲載時と同様の横組みスタイルで再現。単行本8冊分の愉しみを、スマホやパソコン、タブレットや電子書籍端末にダウンロードして、手軽にたっぷり楽しめるコンプリート版!”

(電子版 作品案内より)

 

自分が読んだあとなら、要約するようにチョイスチョイスな文章抜き出しでもいいのですが、初めて見る人には文脈わかりにくいですよね。段落ごとにほぼ抜き出すかたちでいくつかご紹介します。そして、すぐあとに ⇒⇒ で僕のコメントをはさむ形にしています。

 

 

 

”翻訳された海外の小説は、どうしても文章が「普通の日本語の文章」とは少しずれたところに落ち着いてしまいます。地の文章もそうですし、会話もそうです。できるだけ普通の日本語に近づけようとしますが、やはり超えられない一線みたいなものがあるようです。原文に忠実にあろうとすると、どうしてもそうなってしまいます。「だから海外の小説は読まないんだ」という方も数多くおられると思います。

でも僕はそのような「ずれ」の中に、けっこう大きなポテンシャルが潜んでいるのではないかと思うんです。そういう「ずれ」が、逆に日本語に新しい可能性のようなものを与えているのではないかと。ですから、そういう意味で、翻訳をしていくことは、僕にとってとても良い勉強になっています。

僕が苦労した翻訳はたくさんありますが、いちばん大変だったのは去年の三月に出したサリンジャーの『フラニーとズーイ』(新潮文庫)です。サリンジャーの練りに練られた、凝った強固な文体を日本語に置き換えていくのは、実に至難の業でした。サリンジャーが『キャッチャー~』を乗り越えるために、どれくらい念入りに自分の文体を再構築していったか、訳しているとそれがひしひしとわかります。まさに力業です。訳するのはむずかしかった。でも面白かったなあ。”

~(中略)~

⇒⇒⇒
”「ずれ」の中に、けっこう大きなポテンシャルが潜んでいるのではないか” すごく印象的で深く残りました。英語から日本語に置き換えるときに発生する言語的ずれ。オリジナルテキストから翻訳者が介入するときに発生する表現的ずれ。これは音楽においても、原典のスコアから読み解くときに起こる「ずれ」と共通するかもしれないと思ったからです。

西洋音楽(精神性・人種性・文化性)を日本人が置き換えるときに発生する潜在的ずれ。指揮者が介入するときに発生する表現的ずれ。久石譲もまた「ずれ」をポテンシャルと捉えているからこそ、現代的・ソリッド・リズム重視といったアプローチで臨んでいるともいえます。ヨーロッパのオーケストラだからこそできること、日本のオーケストラだからこそできる可能性。言語面はポップスでも花開くことたくさんあります。映画『アナと雪の女王』主題歌「Let it go」から「ありのままの~」なんてポテンシャルが最大限に発揮されて新しい魅力を輝かせたいい例でした。

 

 

”言語レベルでつきあわせていくと、オリジナルのテキストと翻訳されたものとのあいだには、やはりある程度の落差は生じます。これはもう原理的に仕方のないことです。しかしその表層を一枚剥いだ物語レベルにおいては、ほとんどそのままの内容が伝達可能であるはずだと、僕は考えています。作家としても、翻訳家としても、そう考えています。つまり物語性が強い小説であればあるほど、それは翻訳による転換に耐える体質をそなえているということになると思います。物語というのはいわば、世界の共通言語としての機能を果たしているわけです。僕としてはそういう物語の本来的なパワーを信じたいと思っています。言語レベルにおいても翻訳家のぎりぎりの努力が必要とされることは言うまでもありませんが。”

~(中略)~

⇒⇒⇒
クラシック音楽でいうと、ベートーヴェンもモーツァルトも、いろいろな解釈や演奏があったとしても、作品そのものの価値を失うことはありません。多少つまらない演奏と評されてもだからといって作曲家まで評価を落とすことはない。また一方では、いい作品というのはいい作品たらしめる再現性も極めて高い、そんなことも思ったりします。久石譲のスタジオジブリ交響作品、公式スコアによる演奏会はますます増えています。素晴らしい作品というのは、素晴らしいパフォーマンスを引き出すし、いかなる演奏でもある一定のクオリティは担保されている。そして観客が求める感動水準を約束してくれる。そんなようなこと。くだけて言うと「久石譲指揮で聴いてほしいけど、聴けるチャンスあるなら、生演奏で聴いてみて、オーケストラの迫力を体感してみて、全然違うから、行ってよかったってなると思うよ」。

 

 

”そうですね。僕の文章にとって、音楽の影響はとても大きいように思います。文章を読み返しながら、リズムや響きや流れみたいなものをいつも頭の中で点検しています。声に出して読んでみることもたまにあります。文章の書き方について、僕は多くのことを音楽から学んだかもしれません。

僕が音楽性を感じる文章を書く人としては、ポール・オースターがいます。ただ彼の音楽性は僕のそれとはずいぶん違います。彼の奏でる音楽はとても構築的で、バッハのフーガなんかに通じるところがあります。対位法的に整ったところがあって、読んでいて気持ちがいいです。僕の場合は「構築的」というのはないですね。フリー・インプロビゼーションの方に近いかもしれません。楽器はたぶんピアノだと思います。”

~(中略)~

⇒⇒⇒
ポール・オースターの小説を手にとってみました。たしかに読みやすい。つまずくことなく流れていくし、構築的というのもなんとなくわかる気がする。文章の組み立て方の印象というかもちろん素人感覚です。ただ、そう感じたこと自体が不思議だったりします。だって翻訳された日本語で読んでいるから。村上春樹さんは原文の英語で読んでいて感じたことです。でも、日本語で読んでも程度の差こそあれ同じように感じられたところがある。不思議です。

 

 

”オリジナル・テキストのアップデートは不要です。それは時代性を含んで成立しているものですから。言葉が古くなっても、表現が古くなっても、事情がかわっても、人の考え方が変わっても、それは普遍のオリジナルとして、永遠の定点として存在します。それが芸術というものです。

しかし翻訳は時代とともに更新されていく必要があります。なぜなら翻訳は芸術ではないからです。それは技術であり、芸術を運ぶためのヴィークル=乗り物です。乗り物はより効率的で、よりわかりやすく、より時代の要請に添ったものでなくてはなりません。たとえば古い言葉は更新されなくてはなりませんし、表現はより理解しやすいものに変更されなくてはなりません。それから、以前にはわかりにくかった様々な情報が、今ではわかるようになったということもあります。

例をひとつあげますと、フィッツジェラルドの某長編小説の旧訳に「フランス大旅行団」という言葉が出てきました。目の前を「フランス大旅行団」が通り過ぎていく。僕はこの「フランス大旅行団」が何のことだかわからなくて原文をあたってみたのですが、なんとこれが「Tour de France」なんですね。ツール・ド・フランス、もちろん自転車レースです。ツール・ド・フランスの車列が目の前を通り過ぎていったのです。この翻訳がなされた当時の日本では、ツール・ド・フランスが何かを知る人はあまりいなかったのでしょう。だから翻訳者は適当に想像して、「フランス大旅行団」と訳してしまった。今ならまずあり得ない間違いです。

チャンドラーの古い訳書に、グレープフルーツを「アメリカざぼん」、ブラジャーを「乳バンド」と訳しているものもありました。これはいくらなんでも更新しないとまずいですよね。そういうことが他にもたくさんあります。

優れたオリジナル作品は古びませんが、翻訳は古びます。どんな翻訳だって、多かれ少なかれ古びます。僕の翻訳だっていつか古びます。翻訳は原理的に更新されることが必要なのです。”

~(中略)~

⇒⇒⇒
なぜオリジナルは古くならないのか。なぜ翻訳はアップデートが必要なのか。とてもわかりやすい内容です。ベートーヴェン:交響曲第9番《第九》も複数のスコア版が存在したり、画期的な改訂版が登場したりと、たえずそこに歴史的研究や発見がくり返されています。膨大なスコアの音符のなかから、ここはレかシか、そんな一音をもって論争進行中そんな作品もあります。

演奏においてもそうですね。オーケストラの大きさ・フォーメーション・楽器・奏法など、時代とともに変化してきた部分と作曲当時との研究や比較。そのようにして、時代ごと・作品ごと・作曲家ごとに、今もっともふさわしいと思う一定の成果のもと、さらに新しい追求をつづけるバリエーション豊かな演奏が世界中で響いています。

翻訳は古びる。ひとつの真理なのでしょう深すぎる。中途半端に触れれない。いい作品は翻訳が時代ごとに更新されているし複数の訳版もある。そのときの時代の空気を吸うからまた未来に架け渡すことにもなる。さて、クラシック音楽は。今の時代の空気に触れて響かせることが、もしかしたら久石さんの言う「古典芸能になってはいけない」にもつながるのかもしれません。

 

翻訳の更新について、よく語られる内容で同旨あります。

 

 

”「いわゆる翻訳調のような日本語」に置き換えるところから翻訳はだいたい始まるものです。次にそれをほぐして解体し、もう一度自分の文章として並び替えます。原文の意味や味わいをできるだけ損なうことなく、生きた日本語に再構築していくわけです。それが翻訳の醍醐味であり、翻訳者の腕の見せ所になります。僕も何度も何度もその作業を繰り返します。納得がいくまで繰り返します。そのときに「原文の声に耳を澄ます」という作業が必要になってくるわけです。それから自分自身の文体みたいなものも必要になってきます。声を聞き取る音感と、言語的センスはもちろん必要です。”

~(中略)~


何が言いたくて抜き出したのか忘れてしまったけれど…すべての道に通じる。

 

 

少し追加します。

テーマからは横道になりますけれど、とても印象に残っているページです。

 

”僕は素晴らしい音楽を聴いたら、その素晴らしさをなんとか文章のかたちに置き換えてみたいといつも思います。それはとても自然な欲求なのです。そしてその文章を誰かが読んで、「ああ、この音楽を聴いてみたいな」と思ってくれたら、それに勝る喜びはありません。でも音楽を文章で表すのって、ずいぶんむずかしいです。僕はそれを自分にとっての大事な文章修行だとみなしています。音楽を聴くことと、音楽についての文章を読むことは、お互いを助け合う行為だろうと僕は考えていますが、直感と思索は互いを支え合うべきものなのです。”

~(中略)~


ほんと魅了されていくつその音楽を聴いてきたことか。村上春樹さんの音楽について書いた本や文章はけっこうたくさんあって、惹き込まれるし魅力的です。ついつい活字が止まって音楽を探しはじめてしまう。運良く見つけられたら一緒に聴きながらまた読んでみる。そうやって共感の信頼感みたいなものが生まれてくるのかもしれません。

おすすめしたい音楽を伝えられる文章力がほしい。音楽好きなら誰しも思います。村上さんここさらっと書いてますけどほんととても難しい。その音楽の素晴らしさを伝えるためには、文章力もいるし音楽を感じとる力もいる。だから、技術も感性もどちらも磨かないといけない。だから、ほんととても難しい。できるところから磨いていくしかない。前よりも磨けてるかもって少しでも思えた日にはうれしいものね。

 

 

”気持ちはよくわかります。でも僕は思うんだけど、積極的に常に新しい音楽を聴き続けるという努力(かなりの努力です)をしていかないと、耳は確実に衰えます。だから僕はがんばって新しい音楽をなるべくたくさん聴くようにしています。よいものに巡り合える確率はかなり低いです。でも人間が生きていくというのは、確率の問題じゃないんです。がんばってください。”

~(中略)~


-共通むすび- にあるセンテンスまるごとです。

 

(以上、”村上春樹文章”は『村上さんのところ』より 引用)

 

 

 

今回とりあげた、『村上さんのところ/村上春樹』。多彩なテーマについて質問・回答が繰り広げられています。読者のなかには、ちょっとしたスキマ時間にいい、というレビューも多かったりよくわかります。ひとつの一問一答であれば1-3分で読めるし、ちょっと空いた10-30分くらいなら平気で埋めてくれます。サクサクっと読めて頭をリフレッシュみたいに、ちょっとしたブレイク的な読み方もできたりします。おすすめの一冊です。

電子書籍コンプリート版を読破しようと思ったら……たぶんそうだな…1ヶ月以上はかかる(1日1時間)と思ったほうがいいかもしれません。でもね、そんなに急いで読むこともありません。半年一年かけてじっくり読む、少しずつ味わったほうが楽しいです。今年はこれ読んだなあ!そんな満足感はきっとのこると思います。ときおりまた読みたくなる。コンプリート版はテーマ別(音楽・映画・仕事とか)にも読みすすめることできる、そうセグメントができるデジタルの強み、かなりおすすめの一冊です。

 

 

-共通むすび-

”いい音というのはいい文章と同じで、人によっていい音は全然違うし、いい文章も違う。自分にとって何がいい音か見つけるのが一番大事で…それが結構難しいんですよね。人生観と同じで”

(「SWITCH 2019年12月号 Vol.37」村上春樹インタビュー より)

”積極的に常に新しい音楽を聴き続けるという努力をしていかないと、耳は確実に衰えます”

(『村上さんのところ/村上春樹』より)

 

 

それではまた。

 

reverb.
翻訳/指揮する現在と、翻訳/指揮される未来。時代は流れています♪

 

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

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Overtone.第79回 モチーフ「ジャッキー・チェン」

Posted on 2022/10/09

ふらいすとーんです。

Overtone モチーフ です。

きれいに考えをまとめること、きれいに書き上げることをゴールとしていない、メモのような雑文です。お題=モチーフとして出発点です。これから先モチーフが展開したり充実した響きとなって開けてくる日がくるといいのですが。

 

モチーフ「ジャッキー・チェン」

久石譲はジャッキー・チェンの映画音楽を手がけていた! 知らないですよね、ビックリですよね、わりとそんなものです。説明を手抜きして、

 

補足

映画は1970年代後半に香港公開されている。オリジナル版では既成曲を多数拝借しており、日本公開に際して権利の問題が生じるため、日本公開版用に音楽を新たに制作しているという時代的経緯がある。下記日本公開日を念頭に、1980年代前半にかけて手がけた久石譲の仕事である。

映画「スネーキー・モンキー蛇拳」 日本公開日 1979年12月1日
映画「蛇鶴八拳」 日本公開日 1983年2月19日
映画「キャノンボール2」 日本公開日 1983年12月17日
映画「ドラゴン特攻隊」 日本公開日 1983年12月17日
映画「プロジェクトA」 日本公開日 1984年2月25日
映画「成龍拳」 日本公開日 1984年5月12日

from Disc. ジャッキー・チェン 『成龍拳 オリジナル・サウンドトラック』 ほか

 

サントラがあるもの・ないものあります。そこへきて近年の動画配信サービス(VOD)の充実です。そうだ、映画だけでも見れるかもしれない、そこで音楽が聴ければラッキー、そんなことを思った秋の夜長。

例えば、Amazon Primeかつ無料で観ることができたのは、「蛇鶴八拳」「ドラゴン特攻隊」「プロジェクトA」「成龍拳」なんかです。レンタル料金を払えばもっと観れる映画は増えるかもしれません。〈字幕版〉〈吹替版〉とあるものも音楽は同じく日本公開版用です。

おそらく複数の作曲家が分担で仕事をしているので、久石さんが単独で音楽をつけているわけじゃないと思います。そんな作品もあるのかな?このへんの情報は正確さに欠けます。「成龍拳」はサントラがあるからどの曲が久石譲作曲かはクレジットされています。

「プロジェクトA」おもしろかったです。22:50からの10秒くらい、28:00あたり、けっこう序盤から久石さんっぽいと思ったところをメモしていたら、この映画はその量が多かった。この時代、まだ久石スタイルを確立する前だけど、これは久石さんじゃないかなと思うコミカルな曲調が多かったりします。「はじめ人間ギャートルズ」や「効果音楽ライブラリー」にあるようなテイストといったらいいのかな。時代的にも同じ1978年から1984年ナウシカ前まで。ナウシカで久石スタイルは花開く。

 

 

 

 

 

久石譲が音楽を担当した映画をまとめたサイトもあります。どの動画配信サービスで提供しているかもわかるというすぐれもの。これは便利ですね。とても良心良質なページでうれしい。

久石譲の映画作品|MOVIE WAKER PRESS
https://moviewalker.jp/person/84145/

 

サントラもない映画・サントラ現在入手の難しい映画、もっとも映像でも見ることすら難しい映画。映像配信サービスのおかげで、これから触れるチャンスが巡ってくるかもしれない。期待は薄くても可能性はゼロじゃない。ひょっと「釣りバカ日誌2」「タスマニア物語」の久石譲サントラが配信リリース・サブスク開始されるみたいに。過去の作品って無言でひょこっと現れるから、このサイトも定期的にチェックしてみるといいかもしれないとブックマーク。

 

そんなモチーフでした。

それではまた。

 

reverb.
ジャッキー・チェン×久石譲のサントラ情報あったらお待ちしています!

 

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

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Overtone.第78回 モチーフ「効果音楽じゃない」

Posted on 2022/10/04

ふらいすとーんです。

Overtone モチーフ です。

きれいに考えをまとめること、きれいに書き上げることをゴールとしていない、メモのような雑文です。お題=モチーフとして出発点です。これから先モチーフが展開したり充実した響きとなって開けてくる日がくるといいのですが。

 

モチーフ「効果音楽じゃない」

2021年映画『DUNE/デューン 砂の惑星』です。ちょうど映画館に足を運びにくい時期に公開されて、あとからサントラや映像に触れて、ぜひ映画館で大迫力に体感したかったと思った作品です。最初聴いたときに、音響がすごいな!と思って重厚なサウンドの渦に圧倒されました。でも、一聴して終わってたんです。ふだん聴いている好きなテイストとは違ったから。ん?なんか気になる、引きずるものがある。ちょっと時間を置いてまたサントラに手がのびる。

いやあ完敗でした。ずいぶん反省もしました。こうやって聴き流して聴き逃しているものがあるんだろうなって。ポイントは先に書いたふだん聴いている好きなテイストとは違ったから。そのせいでフィルターに引っかからずにこぼれ落ちてしまったものが多かった。

 

The Dune Sketchbook (Music from the Soundtrack)

 

Dune (Original Motion Picture Soundtrack)

 

軽く調べた範囲でいうと、音楽を担当したハンス・ジマーはスケッチブックまで制作してたんです。これはスタジオジブリ作品のイメージアルバムにあたる、なんという気合いの入れよう。とにかく思い入れが強いようで、もしこの作品が映画化されるときにはぜひ自分が音楽をやりたいと常々言っていた。それを裏付けるかのように、これまで数々のコンビを組んできた盟友クリストファー・ノーラン監督の新作『TENET テネット』を蹴ってまでこの作品を選んだ。制作時期が重なってしまった。『TENET テネット』も大ヒットしましたからね。さらには、近年共同制作のかたちをとることの多いハンス・ジマーの音楽です。『トップガン マーヴェリック』もそうです。でも、この作品は一人だけでやった。ほかの誰にも触らせなかった。いくつかのピックアップエピソードだけでもその気概がびしびし伝わってきますね。

 

長くなりそうな文章の書き方になってきてる…簡潔にいきたい。強く言いたいのは、これは効果音楽じゃない! こういう映像音楽のあり方もある!ということを再認識しました。

メロディがはっきりしない、ABCメロと発展していかない、音響にこだわっている、雰囲気のような曲想、鼻歌できるようなキャッチーな曲がない、つかみどころがない。……なんだか言いたい放題の辛口のようですが、ふだんこの逆のもの(ポップス/インスト)を聴きなじんでいると、この第一印象に陥りやすいかもしれません。だから反省もした。

このハンス・ジマーの音楽は、聴けば聴くほどこの作品の世界観そのものです。登場人物のひとり、作品のカラーを決定している、表現的には足りないもっと大きなもの。存在感、圧、気配、得体の知れない、理解を越えた、生き物、洗脳、とそんなメモを残しています。のみこまれそうになります。ボイスやエスニックな音階も使っていて、でもそういうので雰囲気出しましたとはだいぶん異にする根本的に圧倒されるものがあります。かなり深いところに降りて作ったんだろうなと。

最初はうわっクセ強いな、と思ってしまうけれど、聴けば聴くほど存在感があるというか説得力をもって迫ってきます。こういう音楽のあり方もある。まあ、日常にリピートするほどの好みじゃないです。でも、きっとコアなファンはいると強く納得できます。

 

DUNE Official Soundtrack | Armada – Hans Zimmer | WaterTower (約5分)

from WaterTowerMusic Official YouTube

メインテーマではないですけれど、この1曲だけを聴いても百聞は一見にしかず。中盤に曲想が変わってバグパイプの印象的なメロディが登場します(2:15-)。とても躍動的でこのサントラ随一?唯一?のキャッチーさかもしれません。20秒ほどで終わってしまうんですけれど(笑)

 

Dune Sketchbook Soundtrack | House Atreides – Hans Zimmer | WaterTower (約14分)

from WaterTowerMusic Official YouTube

これがスケッチブックにかかると約7分にわたって聴くことができます(03:30-10:30)。転調したりいろいろなパターンを試したりと充実しています。本気度がすごい。もっというと、曲頭と曲後の伸びやかなヴォーカルパートも、旋律は同じものからのバリエーションなので、この曲まるまる一曲そうです。だからイメージアルバム…違ったスケッチブック14分の曲がサントラ20秒に凝縮された。全力すぎる。

 

 

この作品は、『スター・ウォーズ』や『風の谷のナウシカ』にまで影響を与えたとも言われているほどの強い古典です。それは映画を見たらなんとなくすぐわかると思います、設定とか世界観とか。映画化もたびたびリメイクされているようで、このたび2021年に最新映画化され今後シリーズ化も決定している『DUNE/デューン 砂の惑星』です。ハンス・ジマーの音楽もスケッチブックから使われていない曲もあってシリーズが進むなかで登場してくるかもしれません。音楽的にどう発展していくのかとても楽しみです。

 

……

どうしても久石譲ファンとしては「効果音楽のようなもの/劇伴のようなもの」というのが染みついてしまっているところがあります。でも、なにが効果音楽みたいでつまらないかを聴き分ける力は自分次第です。映像音楽の多様性というか、どう映像とコミットしている音楽なのか、を幅広いものさしで聴き取れるようになりたい。

世代の若い作曲家は「劇伴」という言葉をあまり否定的な意味合いを含まない、フラットに名札のように使うことも多いです。久石さんファンからすると劇伴と聞くだけでマイナスな印象、その音楽を線引きしてしまいそうにもなってしまいます。でも、ほんとうにそれは”久石さんが意味するところの劇伴”なのか、そうじゃないかもしれない、ちゃんと相乗効果を発揮している、別のタイプの映像音楽なのかもしれない。そうやって、ひとつひとつの作品ごとにまっさらにリセットした心持ちで聴いていきたい。

 

そんなモチーフでした。

それではまた。

 

reverb.
ネットで検索して熱く語られているサントラレビューはそれなりに理由があると思う参考にしてる

 

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

このコーナーでは、もっと気軽にコメントやメッセージをお待ちしています。響きはじめの部屋 コンタクトフォーム または 下の”コメントする” からどうぞ♪

 

Overtone.第77回 長編と短編と翻訳と。~村上春樹と久石譲~ Part.4

Posted on 2022/09/20

ふらいすとーんです。

怖いもの知らずに大胆に、大風呂敷を広げていくテーマのPart.4です。

今回題材にするのは『村上春樹 雑文集/村上春樹』(2011)です。

 

 

村上春樹と久石譲  -共通序文-

現代を代表する、そして世界中にファンの多い、ひとりは小説家ひとりは作曲家。人気があるということ以外に、分野の異なるふたりに共通点はあるの? 村上春樹本を愛読し久石譲本(インタビュー記事含む)を愛読する生活をつづけるなか、ある時突然につながった線、一瞬にして結ばれてしまった線。もう僕のなかでは離すことができなくなってしまったふたつの糸。

結論です。村上春樹の長編小説と短編小説と翻訳本、それはそれぞれ、久石譲のオリジナル作品とエンターテインメント音楽とクラシック指揮に共通している。創作活動や作家性のフィールドとサイクル、とても巧みに循環させながら、螺旋上昇させながら、多くのものを取り込み巻き込み進化しつづけてきた人。

スタイルをもっている。スタイルとは、村上春樹でいえば文体、久石譲でいえば作風ということになるでしょうか。読めば聴けばそれとわかる強いオリジナリティをもっている。ここを磨いてきたものこそ《長編・短編・翻訳=オリジナル・エンタメ・指揮》というトライアングルです。三つを明確な立ち位置で発揮しながら、ときに前に後ろに膨らんだり縮んだり置き換えられたり、そして流入し混ざり合い、より一層の強い作品群をそ築き上げている。創作活動の自乗になっている。

そう思ったことをこれから進めていきます。

 

 

今回題材にするのは『村上春樹 雑文集/村上春樹』(2011)です。

”デビュー小説『風の歌を聴け』新人賞受賞の言葉、伝説のエルサレム賞スピーチ「壁と卵」(日本語全文)、人物論や小説論、心にしみる音楽や人生の話……多岐にわたる文章のすべてに著者書下ろしの序文を付したファン必読の69編! お蔵入りの超短編小説や結婚式のメッセージはじめ、未収録・未発表の文章が満載。素顔の村上春樹を語る安西水丸・和田誠の愉しい「解説対談」付。”

とBOOKデータベース紹介のとおり、あらゆるところから雑多に集めた、カテゴリーごとにきれいに腑分けされた本です。ずいぶん前に、音楽について書かれたものからOvertoneで取り上げたことあります。

 

自分が読んだあとなら、要約するようにチョイスチョイスな文章抜き出しでもいいのですが、初めて見る人には文脈わかりにくいですよね。段落ごとにほぼ抜き出すかたちでいくつかご紹介します。そして、すぐあとに ⇒⇒ で僕のコメントをはさむ形にしています。

 

 

 

”自分の作品が他言語にトランスフォームされることの喜びの一つは、僕にとっては、こういうふうに自分の作品を別の形で読み返せるというところにある、と言ってもいいでしょう。日本語のままでならまず読み返さなかったはずの自作を、それが誰かの手によって別の言語に置き換えられたことで、しかるべき距離を置いて振り返り、見直し、いうなれば準第三者としてクールに享受することができる。そうすることによって、自分自身というものを、違った場所から再査定することもできる。だから僕は、僕の小説を訳してくれる翻訳者たちにとても感謝しています。たしかに僕の本が外国の読者の手に取られるというのも、非常にうれしいことなのだけれど、それと同時に、僕の本が僕自身に読まれる──これはいまのところ残念ながら英語の場合に限られているのだけれど──のも、僕にとってはなかなかうれしいことなのです。

すぐれた翻訳にいちばん必要とされるものは言うまでもなく語学力だけれど、それに劣らず──とりわけフィクションの場合──必要なのは個人的な偏見に満ちた愛ではないかと思う。極端に言ってしまえば、それさえあれば、あとは何もいらないんじゃないかとさえ、僕は考えます。僕が自分の作品の翻訳に、何をいちばん求めるかと言えば、まさにそれです。偏見に満ちた愛こそは、僕がこの不確かな世界にあって、もっとも偏見に満ちて愛するものの一つなのです。”

~(中略)~

⇒⇒⇒
久石譲作品もまさに近年翻訳される機会がますます増えています。原典となる公式スコアの提供環境さえ整えば、自らの手を離れて指揮される側になります。村上春樹作品が翻訳されることで自身の小説を再査定することができるように、指揮されることで距離をおいて見えてくることも多いのだろうと思います。あるいは、以前に「僕よりもうまくとなりのトトロを指揮していた」そんなことをユーモアに語っていたこともあります。

テーマにそって翻訳=指揮としていますが、もちろん一般的なトランスクリプション(楽器の置き換えによる演奏や編曲)もありますね。なによりも村上春樹さんが”偏見に満ちた愛”と語っているとおり、その作品への愛情表現のかたちです。多いほど深いほど、その作品は残っていくことになります。

 

 

”優れた古典的名作には、いくつかの異なった翻訳があっていいというのが僕の基本的な考え方だ。翻訳というのは創作作業ではなく、技術的な対応のひとつのかたちに過ぎないわけだから、さまざまな異なったかたちのアプローチが並列的に存在して当然である。人々はよく「名訳」という言葉を使うけれど、それは言い換えれば「とてもすぐれたひとつの対応」というだけのことだ。唯一無二の完璧な翻訳なんて原理的にあり得ないし、もし仮にそんなものがあったとしたら、それは長い月日で見れば、作品にとってかえってよくない結果を招くものではないだろうか。少なくとも古典と呼ばれるような作品には、いくつかの alternative が必要とされるはずだ。質の高いいくつかの選択肢が存在し、複数のアスペクトの集積を通して、オリジナル・テキストのあるべき姿が自然に浮かび上がってくるというのが、翻訳のもっとも望ましい姿ではあるまいか。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は既にそのような「古典」の範疇に入っていると僕は考える。野崎氏の訳は言うまでもなく優れた訳だが、野崎氏が訳されてから長い歳月が経過しているし、日本語自体もそのあいだに大きく変化している。我々のライフスタイルも変化した。そろそろ新しい見直しがあってもいいはずである。伝え聞くところによると、野崎氏自身も既訳に自ら手入れすることを考えておられたようだが、惜しむらくはその前に亡くなられてしまった。そこで僕が及ばずながら、僭越ながら、いまひとつの選択肢を提供することになったわけだ。

ただ中高年世代にとって、野崎氏の翻訳『ライ麦畑でつかまえて』は、既にひとつの「定番」となっており、いわば「刷り込み」として機能しているところがある。ある程度それは覚悟していたのだが、そういう刷り込みの深さは、こちらの予測を遥かに超えたものだった。そのような世代にとって(実を言えば僕もそのうちの一人なのだが)、僕の新訳は極端にいえば「聖域侵犯」みたいに感じられたようだ。そういうところからくる心理的反撥みたいなものは、正直言って少なからずあった。もちろんこれは野崎氏の翻訳が素晴らしいから生じる現象なのだが、考えようによっては、これは──ひとつの翻訳とオリジナル・テキストが長年のあいだにここまで一体化してしまうというのは──いささか恐ろしいことであるかもしれない。僕としても(一人の翻訳者としても、また自分の作品が外国語に翻訳される小説家としても)、いろいろと考えさせられるところはあった。”

~(中略)~

⇒⇒⇒
具体的でわかりやすいです。複数の翻訳が存在することの意義や魅力、一方ではひとつの翻訳しか存在しないことの功罪。ここはとても興味深かったです。聖域化されてしまったものは、新しい挑戦や解釈も生まれることなく、そのまま化石化の一途をたどります。なぜ、時代とともに新しい風を送りつづけるのか。今という時代の風のなかで触れてほしいからこそ、翻訳される指揮される作品があって、だから心を打つ。変えてはいけないものと、変えなくてはいけないもの。社会も政治も文化も人も、まことにむずかしい。

 

 

”僕は翻訳というものは家屋にたとえるなら、二十五年でそろそろ補修にかかり、五十年で大きく改築する、あるいは新築する、というのがおおよその目安ではないかと常々考えている。僕自身の翻訳についても、二十五年目を迎えたものは少しずつ補修作業に入っている。もちろん家屋と同じように、それぞれの翻訳によって経年劣化に多少の差があるのは当然だが、五十年も経過すれば(たとえ途中でいくらかの補修があったにせよ)さすがに、選ばれた言葉や表現の古さがだんだん目につくようになってくる。

言葉ばかりではなく、翻訳の方法そのものをとってみても、そこには大きな変遷がある。翻訳技術も着実に進化している。またインターネットの登場以来とくに顕著に言えることなのだが、他文化や他言語についての情報量も、また作家や作品の背景についての情報量も、昔と今とでは圧倒的に違う。そういう意味では、僕がこんなことを言うのは僭越に過ぎるかもしれないが、この『ロング・グッドバイ』の新しい訳を世に問うには、今はまず妥当なタイミングであると言えるかもしれない。具体的な経緯を述べるなら、二年以上前のことになるが、早川書房編集部から本書を翻訳してみる気持ちはないかという打診があり、僕としても前々からやりたいと思っていたことなので、二つ返事でお引き受けした。

もうひとつ、僕があえて再訳に挑戦してみたいと思った理由として、清水氏の翻訳『長いお別れ』ではかなり多くの文章が、あるいはまた文章の細部が、おそらくは意図的に省かれているという事実がある。これは、長年にわたって、チャンドラーの小説を愛好する多くの人が、少なからず不満とするところでもあった。清水氏がどのような理由や事情で、細かい部分をこれほど大幅に削って訳されたのか、僕にはその理由はもちろんわからない。それが出版社の意向であったのか、あるいは訳者自身の意向であったのか、それも知るところではない。しかし一九五八年に時点においては(アメリカでの刊行後まだ四年しか経っていない)、文章家としてのチャンドラーの価値が、少なくとも日本では、まだじゅうぶんに認められていなかったし、そのことがおそらくは「文章が全体的に短く刈り込まれた」ひとつの大きな要因になっているのではないかと推測される。あるいはもっと一般的な意味で、「ミステリ小説はそれほど細かいところまで正確に訳す必要はない、筋と雰囲気さえちゃんとわかればいい」という通念が当時はあったのかもしれない。半世紀を経た今となっては、そのへんの事情は謎に包まれている。

ただ、清水氏の名誉のために声を大にして言い添えておくなら、清水訳が「たとえ細部を端折って訳してあったとしても、そんなこととは無関係に、何の不足もなく愉しく読める、生き生きした読み物になっている」ということは、万人の認めるところだし、氏の手になる『長いお別れ』が日本のミステリの歴史に与えた影響はまことに多大なものがある。その功績は大いにたたえられて然るべきものだし、僕としても先輩の訳業に深く、率直に敬意を表したい。なにしろ僕も清水さんの翻訳で初めてこの小説を読んで感服してしまったわけなのだから、個人的にも感謝しないわけにはいかない。いずれにせよ、古き良き時代ののんびりとした翻訳というか、あまり細かいことに拘泥しない、大人の風格のある翻訳である。

しかしそれはそれとして、今日におけるレイモンド・チャンドラーという作家の重要性を考慮するとき、そして彼の作品群の中におけるこの作品の位置を考えるとき、「完訳版」というべきか、いちおうひととおり細かいところまで訳され、現代の感覚(に近いもの)で洗い直された『ロング・グッドバイ』が清水訳と並行するかたちで存在していいはずだし、また存在するべきであろうというのが僕の考え方である。基本的なことを言えば、同時代作品としていきおいをつけて訳された清水訳と、いわば「準古典」としてより厳密に訳された村上訳という捉え方をしていただいてもいいかもしれない。言うまでもないことだが、「できることなら完全な翻訳を読みたい」と考えるか、あるいは「多少削ってあっても愉しく読めればいい」と考えるかは、ひとえに個々の読者の選択にまかされている。あるいは両方の翻訳を併せて楽しみたいという熱心な読者も中にはおられるかもしれない。実際にそうしていただければ、僕としてはとても嬉しいのだが。”

~(中略)~

⇒⇒⇒
かなり長い引用になってしまいました。翻訳業界で過去に起こってきた一連がとてもわかりやすいので、そのままたっぷり引用させてもらいました。そういえば、『ラフマニノフ:交響曲第2番』も1950年代は冗長すぎるとカットされた短縮版が主流でした。1970年代にアンドレ・プレヴィンが全曲完全版を演奏して以降、一気にこちらが主流となります。今日録音されるほとんどすべての盤は完全版です。なぜカットされていたのか? いつぞやの指揮者の改変がずっと尾を引いていたのか? ついに完全版が存在することも忘れられていたのか? 同じような時代背景が見え隠れしてくるようです。文化の成長、人々の文化への理解の歩みあってこそ、今僕たちが受け取ることができているものは多いです。

改悪のことはまた最後に。

 

 

”これまでずっと翻訳をやってきてよかったなあと思うことは、小説家としていくつかある。まず第一に現実問題として、小説を書きたくないときには、翻訳をしていられるということがある。エッセイのネタはそのうちに切れるけれど、翻訳のネタは切れない。それから小説を書くのと翻訳をするのとでは、使用する頭の部位が違うので、交互にやっていると脳のバランスがうまくとれてくるということもある。もうひとつは、翻訳作業を通して文章について多くを学べることだ。外国語で(僕の場合は英語で)書かれたある作品を読んで「素晴らしい」と思う。そしてその作品を翻訳してみる。するとその文章のどこがそんなに素晴らしかったのかという仕組みのようなものが、より明確に見えてくる。実際に手を動かして、ひとつの言語から別の言語に移し替えていると、その文章をただ目で読んでいる時より、見えてくるものが遥かに多くなり、また立体的になってくる。そしてそういう作業を長年にわたって続けていると、「良い文章がなぜ良いのか」という原理のようなものが自然にわかってくる。

そしてまたある時から、僕にとっての「翻訳」は両方向に向けたモーメントになっていった。僕がほかの作家の作品を日本語に翻訳するだけではなく、僕の書いた小説が多くの言語に翻訳されるという状況が生まれてきたからだ。今では四十二の言語に翻訳され、僕の作品を外国語で読む読者は驚くほど増えている。外国を旅行して書店に入り、自分の作品が平積みにされているのを目にすることも多くなった。それは本当に嬉しいことだ。もちろんどんな作家にとってもそれは嬉しいことであるに違いないが、とりわけ翻訳というものに深く携わってきた僕のような人間にとって、自分の本が「翻訳書」としてそこに並んでいるのを目にするのは、実に感慨深いものがある。

まだまだ先は長いし、翻訳したい作品もたくさん残っている。そしてそれは、小説家としての僕にとってもまだまだ成長する余地が残されている、ということでもあるのだ。”

~(中略)~

⇒⇒⇒
実際にやってみて気づくこと、実際に体験してみないとわからないことってあります。久石譲の曲を聴いて、久石譲の演奏している姿を見て、自分もピアノを弾きたいと思った人や習うきっかけになった人は多いと思います。聴いていただけのときよりも、難しさがわかったり、弾けるけど同じようには弾けなかったり、片手だけ弾いてみたら気づいたことあったり。どんな道にも、やってみてその奥深さがわかります。……聴くだけもそうですね。聴くことにゴールってありません。いつまでもどこまでも深く味わっていける。

話を戻して。もし同じように、久石譲の作品が(たとえば久石譲交響曲が)四十二のバラエティに富んだ録音盤が並ぶような日がきたときには、感慨ひとしおです。

 

 

”そのときに思ったのは、「もし音楽を演奏するように文章を書くことができたら、それはきっと素晴らしいだろうな」ということだった。

小さい頃にピアノを習っていたから、楽譜を読んで簡単な曲を弾くくらいならできるが、プロになれるような技術はもちろんない。しかし頭の中に、自分自身の音楽のようなものが強く、豊かに渦巻くのを感じることはしばしばあった。そういうものをなんとか文章のかたちに移し替えることはできないものだろうか。僕の文章はそういう思いから出発している。

音楽にせよ小説にせよ、いちばん基礎にあるものはリズムだ。自然で心地よい、そして確実なリズムがそこになければ、人は文章を読み進んではくれないだろう。僕はリズムというものの大切さを音楽から(主にジャズから)学んだ。それからそのリズムにあわせたメロディー、つまり的確な言葉の配列がやってくる。それが滑らかで美しいものであれば、もちろん言うことはない。そしてハーモニー、それらの言葉を支える内的な心の響き、その次に僕のもっとも好きな部分がやってくる──即興演奏だ。特別なチャンネルを通って、物語が自分の内側から自由に湧きだしてくる。僕はただその流れに乗るだけでいい。そして、最後に、おそらくいちばん重要なものごとがやってくる。作品を書き終えたことによって(あるいは演奏し終えたことによって)もたらされる、「自分がどこか新しい、意味のある場所にたどり着いた」という高揚感だ。そしてうまくいけば、我々は読者=オーディエンスとその浮き上がっていく気分を共有することができる。それはほかでは得ることのできない素晴らしい達成だ。

このように、僕は文章の書き方についてほとんどを音楽から学んできた。逆説的な言い方になってしまうが、もしこんなに音楽にのめり込むことがなかったとしたら、僕はあるいは小説家になっていなかったかもしれない。そして小説家になってから三十年近くを経た今でも僕はまだ、小説の書き方についての多くを、優れた音楽に学び続けている。たとえば、チャーリー・パーカーの繰り出す自由自在なフレーズは、F・スコット・フィッツジェラルドの流麗な散文と同じくらいの、豊かな影響を僕の文章に与えてきた。マイルズ・デイヴィスの音楽に含まれた優れた自己革新性は、僕が今でもひとつの文学的規範として仰ぐものである。

セロニアス・モンクは僕がもっとも敬愛するジャズ・ピアニストだが、「あなたの弾く音はどうしてそんなに特別な響き方をするのですか?」と質問されたとき、彼はピアノを指してこう答えた。

「新しい音(note)なんてどこにもない。鍵盤を見てみなさい。すべての音はそこに既に並んでいる。でも君がある音にしっかり意味をこめれば、それは違った響き方をする。君がやるべきことは、本当に意味をこめた音を拾い上げることだ」

小説を書きながら、よくこの言葉を思い出す。そしてこう思う。そう、新しい言葉なんてどこにもありはしない。ごく当たり前の普通の言葉に、新しい意味や、特別な響きを賦与するのが我々の仕事なんだ、と。そう考えると僕は安心することができる。我々の前にはまだまだ広い未知の地平が広がっている。開拓を待っている肥沃な大地がそこにはあるのだ。”

~(中略)~

⇒⇒⇒
よく語られる内容で同旨あります。

 

(以上、”村上春樹文章”は『村上春樹 雑文集』より 引用)

 

 

 

翻訳の改悪について。

本書にもあったとおり、オリジナルテキストをカットしてしまうこと。ほかにも、わからないところはみんなそっくり省いてしまったり、勝手に作り替えてしまったり、物語の流れから必要ないと勝手に判断されてしまったりと。

 

指揮の改悪について。

上に書いたオリジナルスコアをカットしてしまう短縮版があります。勝手な作り替えってあるんでしょうか? 答えは、あるようです。ここはティンパニを足したほうがより迫ってくるとか、この楽器だけじゃ弱いからあの楽器もかぶせちゃえとか。スコア版による違いではなくて、まあ、指揮者の独断とその連鎖(右にならえ)による。今はそんなこともあまりないようです。

 

演奏の解釈について。

作曲家は、テンポだったり強弱だったりこう演奏してほしいという思いを譜面で記号に託しています。久石譲は楽譜に書かれてあるとおり提示部をくり返します。「ドヴォルザーク:交響曲第9番《新世界より》」も「ブラーム:交響曲第1番」も、第一楽章の提示部を(決して短くはない3~5分ほど演奏時間が変わるひとパート)まるまるくり返します。

この譜面にあるくり返しをしている演奏って、あまりないんです。CDを10枚聴いたとしても1,2枚見つけられるかくらいかもしれません。たとえばこの2作品では。指揮者の判断に委ねられてきた部分が大きくくり返さない派が今の主流です。

くり返さない派…必要性を感じない、ソナタ形式の慣習化や形骸化からくるリピートで必然性はない、流れがとまる、リピートして戻ったときに唐突な調性の変化になってしまって自然じゃない etc

くり返す派…必要性・必然性がある、展開部や次楽章に広がっていくまえに何回か聴いて覚えてもらう、印象が薄くなってしまう etc

さすがに、演奏時間が長くなる・間延びするからという意見は見なかったです。それを言ってしまったら大変なことになります。「ベートーヴェン:交響曲 第3番《英雄》」は演奏時間としても長大な作品です。しっかり提示部のリピート指示もあるしカットされたこともない。…作品ごとに吟味したのか、神格化された作曲家との扱いに差があるのか…文化ってむずかしい。

 

久石譲が作曲家として、作曲家が譜面にそう書いているからくり返すと尊重することは自然です。村上春樹が小説家として、小説家が書いたものはカットしたり改悪したりすることなくオリジナルテキストに忠実に翻訳したいと尊重することと同じです。

クラシック音楽も、自筆譜や歴史的資料の発見や研究で新しくアップデートされる名曲たちもたくさんあります。ときには、作曲家じゃない手によって変更がかかっていたものを原典に戻したりなど。また、音楽も小説もひとつの作品だけじゃなくて、系譜的に作品を並べてみたときに、その作家のスタイルがわかってきて、それが細かい修正の説得力につながってくるなんてこともあるのかもしれません。この人はこういうことするとかしないとか…あの作品での手法と同じように捉えるべきだとか…。翻訳も指揮も、時代ごとに検証されることって大切なんですね。人によって文化は成長する、はたまた、文化によって人は成長する。

 

 

今回とりあげた『村上春樹 雑文集/村上春樹』。目次をながめると、【序文・解説など】【あいさつ・メッセージなど】【音楽について】【『アンダーグラウンド』をめぐって】【翻訳すること、翻訳されること】【人物について】【目にしたこと、心に思ったこと】【質問とその回答】【短いフィクション】【小説を書くということ】とまとまってカテゴライズされています。

本文から引用したものは、そのほとんどが【翻訳すること、翻訳されること】項からだと思います。ほかのカテゴリーも読みごたえおもしろさ満載な一冊です。

 

 

-共通むすび-

”いい音というのはいい文章と同じで、人によっていい音は全然違うし、いい文章も違う。自分にとって何がいい音か見つけるのが一番大事で…それが結構難しいんですよね。人生観と同じで”

(「SWITCH 2019年12月号 Vol.37」村上春樹インタビュー より)

”積極的に常に新しい音楽を聴き続けるという努力をしていかないと、耳は確実に衰えます”

(『村上さんのところ/村上春樹』より)

 

 

それではまた。

 

reverb.
久石譲公式スコアによる演奏会とそうじゃないもの…それはまた別の論争♪

 

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

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Overtone.第76回 モチーフ「無調がルーツ」

Posted on 2022/09/11

ふらいすとーんです。

Overtone モチーフです。

きれいに考えをまとめること、きれいに書き上げることをゴールとしていない、メモのような雑文です。お題=モチーフとして出発点です。これから先モチーフが展開したり充実した響きとなって開けてくる日がくるといいのですが。

 

モチーフ「無調がルーツ」

調性のない音楽を無調音楽といったりします。20世紀のはじめシェーンベルクらによる調性の崩壊は、今も現代音楽のなかで脈々と受け継がれています。おそらくあの時代には通らないといけなかった調性の解放。今聴ける作品たちのなかにその意志や継承はあるのか、はたまた単なる調性の放棄か。

ジョン・ウィリアムズは近年意欲的に自作品を録音しています。これはとてもうれしい。やっぱり映画音楽だけじゃなくてオリジナル作品もしっかり残してこその相乗効果ってあります。作品群の幅が深さが際立ってくる。そう思って楽しみにしていたアルバムなんだけど……なかなかしっくりこなかった第一印象はうまく受けとめられなかった。

 

ギャザリング・オブ・フレンズ
ジョン・ウィリアムズ、ヨーヨー・マ、ニューヨーク・フィルハーモニック

 

ムター・プレイズ・ジョン・ウィリアムズ
ジョン・ウィリアムズ、アンネ=ゾフィー・ムター、ボストン交響楽団

 

それぞれにオリジナル作品と自身が手がけた映画音楽が収録されています。そのあたりの詳細は飛ばします。映画音楽もチェロのための/ヴァイオリンのための選曲と新アレンジは絶品さすがです。

「チェロ協奏曲(2021年改訂版)」も「ヴァイオリンと管弦楽のための協奏曲 第2番(新作)」も最初聴いたときの印象は、こむずかしい、煙に巻いたような感じ、流れがとまる、もうひと越えしない、眉が寄る。散々ですけれど、とっつきにくかったということです。そうしてCDライナーノーツをみてみたら、作品解説のなかに無調音楽というキーワードが出てきて、そうかそうか。

すっきり。説明されるとそうなんだとすっと音楽も入ってくるから不思議です。なんでこんなことになってるの?なんでこんな展開するの?と勝手に喧嘩腰の態度もあらたまり、勝手に仲直りした気分になります。これで難しい顔をして聴かなくてすみます。こういう音楽なんだと受けとめOKです。少し味わい方もわかるというもの。

久石譲とジョン・ウィリアムズの共通点といえば映画音楽です。そして交響曲や協奏曲といった自作品もある。もしこのことでリスナーと距離ができてしまうとしたら、映画音楽でやっていることをわざわざふんだんに自作品でやる必要のない。この線引きはしょうがない。モーツァルトもベートーヴェンもブラームスも甘美で映画音楽的なメロディや曲想もある。商業音楽と純音楽を並走して活動するふたりの時代には、キャッチーなメロディや曲想はエンターテインメントで存分に発揮されるぶん、自作品では別の方向性を追求する、これはしごく自然なこと。

ジョン・ウィリアムズのルーツはジャズだったり無調だったり。久石譲のルーツはミニマル・ミュージック。久石さんも語るとおり、ミニマルにはリズムも調性もある、だから二人の自作品を比べたら聴きやすいともいえる、すべてじゃない。ミニマルは小さな音型の反復やズレからなるけれど、音型の時点である和音の構成音にもなっているのでおのずとハーモニーも生まれやすい。「フィリップ・グラス:Two Pages」はコードCmの音というように。久石さんの場合、ミニマル音型を単音ではなくハモらせたりすることでハーモニーを複雑にしていたり、別の音型をぶつけることでハーモニーを散らしたりしている、と思う。

そんなこんなで作曲家のオリジナル作品には、ルーツが出るからおもしろい。また創作活動というものは切り離されることはないので(切り離される必要もないので)、一瞬のぞかせる映画音楽的な部分にぐっとくる。一瞬、それ以上を求めてはいけない。一瞬、創作活動の点と点が線でつながっていることを感じさせてくれる。この塩梅は、両軸でオリジナリティを確立していないと出せない妙味。

ジョン・ウィリアムズの映画音楽には無調の要素も登場するし、久石譲の映画音楽にはミニマルの要素も登場する。はじめに戻って、おもしろいなと思うのは、映画音楽的なキャッチーなメロディや曲想を回避するために、ジョン・ウィリアムズは無調を選び、久石譲はミニマルを選んだ。無調を導入することでキャッチーさは遠のくし、ミニマルを導入することで甘美なメロディが進み生まれるのを制御する。おもしろいなと思います。

ジョン・ウィリアムズの自作品に触れることで、無調音楽から継承したものを味わうことができる。無調もミニマルも語法として音楽史をつないでいる。そして、間違いなく映画音楽もひとつの語法と言われていくようになるでしょう。そのうち「この作品には映画音楽的手法、すなわち華やかさや高揚感といっためまぐるしい場面転換で緩急自在に音楽が進行していく」こんな未来のクラシック解説もうまれそう。映画音楽と現代作品の垣根の崩壊は今すでに起きています。「その先導者こそジョン・ウィリアムズや久石譲だった」、いつかきっとそう言われるような気がします。

 

そんなモチーフでした。

それではまた。

 

reverb.
ジョン・ウィリアムズ×久石譲 自作品演奏会とかいいな~!

 

 

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Overtone.第75回 モチーフ「春の祭典あれこれ」

Posted on 2022/09/04

ふらいすとーんです。

Overtone モチーフ です。

きれいに考えをまとめること、きれいに書き上げることをゴールとしていない、メモのような雑文です。お題=モチーフとして出発点です。これから先モチーフが展開したり充実した響きとなって開けてくる日がくるといいのですが。

 

モチーフ「春の祭典あれこれ」

久石譲第二回監督作品『4 MOVEMENT』(2001)です。このなかにとてもおどろおどろしいシーンがあって、なかなか強烈に印象にのこります。僕は当時観て動悸が…僕は当時観てとても理解追いつかない。だいぶん経ってから(というか最近)ふと思ったこと。これは久石さんのなかで『春の祭典』からイメージしたものかもしれないと。バレエ春の祭典にはこのCDジャケットのようなシーンがあって、それが4MOVEMENTのシーンとつながりましした。

 

 

『NHKスペシャルドラマ 坂の上の雲 オリジナル・サウンドトラック』(2009)の「11.戦争の悲劇」には、『ストラヴィンスキー:春の祭典』のTrack5,6に聴けるようなモチーフが登場しています。この作品はのちの作曲家たちのバイブルといっていいほど多くの影響を与えています。ジョン・ウィリアムズも映画『ジョーズ』などで春の祭典からインスパイアしたとわかる曲を残しています。

ウィキペディアだったかな?「多くの民謡を引用しているが、大部分は原型をとどめないほど変形されている」「ロシア民謡などからもいくつかの素材を借りているらしい」とある春の祭典です。坂の上の雲もロシアは舞台のひとつ。そして、戦争、生贄、犠牲者。

 

久石譲 『坂の上の雲 オリジナル・サウンドトラック 1 』

 

 

『4 MOVEMENT』に戻って。DVDパッケージを手にとってみると。

【メッセージ】

この物語は、主人公のミオが5歳、10歳、20歳と成長していく、4つの楽章(MOVEMENT)から成り立っている。ひとりの人間の心の中には様々な顔があり、とてもやさしい部分と、人にはいえない暗い部分とを皆んなが持っている。ひとりひとりの中にあるものは小さくても、世界中の人間の、つまり60億分ものエネルギーとなると、それが戦争や、憎しみといった世の中の様々な問題を起こしているのではないか。ひとりひとりの中にある問題が連鎖拡大されて戦争が起こったりする。それを解決するのは、自分自身であって、問題は自分の外にあるのではなくて、自分の中にある。「心の中の闇に生まれたもうひとりの自分とどう向き合っていくか」がこの作品の大きなテーマである。  -久石譲

 

人がもつダークサイドな一面と、それが集まり肥大化していったときの戦争、生贄、犠牲者。『4 MOVEMENT』『春の祭典』『坂の上の雲』、演出面や音楽面でつながるところが(それぞれに)あるような気がしてきます。

ほんとうは、すぐに口をついて出ないといけない感想はすっ飛ばしました。ゾクゾクするミニマル曲だったり、同時期にあたる『千と千尋の神隠し』に通じるような曲想があったりと。もしDVDを入手できることができたら、ぜひ見てみてほしい作品です。サウンドトラックCD付きです。

 

久石譲 『4 MOVEMENT』

 

作曲家・久石譲も多くの影響を受けている作品『春の祭典』。指揮者・久石譲も多くの演奏会でプログラムする作品『春の祭典』です。ちょっと昔は苦手だった、でも今は、とてもコンサートで聴けるのを楽しみにしている作品です。

コンサート予定

2023年2月16日
特別演奏会 九響×日本センチュリー響
福岡・アクロス福岡 シンフォニーホール
九州交響楽団/日本センチュリー交響楽団(合同演奏)

2023年2月17日
日本センチュリー交響楽団 定期演奏会 #270
大阪・ザ・シンフォニーホール
九州交響楽団/日本センチュリー交響楽団(合同演奏)

2024年2月16,17日
新日本フィルハーモニー交響楽団 すみだクラシックへの扉 #20
東京・すみだトリフォニーホール
新日本フィルハーモニー交響楽団

 

そんなモチーフでした。

それではまた。

 

reverb.
久石版『春の祭典』はクラシック通の評判もすこぶるいい!!

 

 

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Overtone.第74回 モチーフ「ネームの付け方」

Posted on 2022/09/01

ふらいすとーんです。

Overtone モチーフ です。

きれいに考えをまとめること、きれいに書き上げることをゴールとしていない、メモのような雑文です。お題=モチーフとして出発点です。これから先モチーフが展開したり充実した響きとなって開けてくる日がくるといいのですが。

 

モチーフ「ネームの付け方」

とてもくだらない話です。「ふらいすとーん」という名前です。由来が「飛行石」からきていることはOvertone.第1回でご挨拶しました。ネームっていろいろ言い方あってどれが適切なんだろうと思って調べてみたら、【ニックネーム(あだ名)】【ペンネーム(雑誌投稿や文書)】【ハンドルネーム(インターネット上)】、いろいろ使い分けもあるようでいろいろ境界線なく合流していたりもするようです。

これは本当100%の話なんですけれど、自分で口に出して言うことも、人に呼ばれることもまったく想定していませんでした。ネームを付けたのはサイト運営上必要だったからです。名無しというわけにもいきませんから。ぱっと浮かんで雰囲気でいいかなと思ってしまった。

だから、「ふらいすとーんさん」と呼ばれるたびに、いつも心のなかでごめんなさいっ!って思っています。だって言いにくいでしょ。1)ふらさん?ふらいさん?ふらいすさん?ふらすとさん?略すこともしにくい。2)7文字ですよ、姓名フルネームと同じほどある。3)横棒あるからさらに長く感じる。4)呼び捨てにできない+さんで9文字になる。5)英語表記・略号もしにくい。

もうほんと欠点しか見当たらない(苦笑)。ツイッターをやるようになってなおさら思います。ひらがなでこうとしか書けない。人と交流するようになってなおさら思います。文字数とるし発音するのもちょっと尺とるし。本気で改名しようかなと思ったこともあるくらい。でも、なんぼのもんじゃいってね、そうなります。

だから、ネームを付けるときは、もしかしたら自分が名乗る機会があること、相手から呼ばれる機会があることを想定して付けてくださいね。ふつうはそうするのかな、ふつうはそうだよね。これからも諦めてどうぞ「ふらいすとーん」と呼んでください。よろしくお願いします。

 

そんなモチーフでした。

それではまた。

 

reverb.
呼びやすいネームってほんと憧れる。

 

 

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Overtone.第73回 長編と短編と翻訳と。~村上春樹と久石譲~ Part.3

Posted on 2022/08/15

ふらいすとーんです。

怖いもの知らずに大胆に、大風呂敷を広げていくテーマのPart.3です。

今回題材にするのは『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集 1997-2011』(2010/2012)です。

 

 

村上春樹と久石譲  -共通序文-

現代を代表する、そして世界中にファンの多い、ひとりは小説家ひとりは作曲家。人気があるということ以外に、分野の異なるふたりに共通点はあるの? 村上春樹本を愛読し久石譲本(インタビュー記事含む)を愛読する生活をつづけるなか、ある時突然につながった線、一瞬にして結ばれてしまった線。もう僕のなかでは離すことができなくなってしまったふたつの糸。

結論です。村上春樹の長編小説と短編小説と翻訳本、それはそれぞれ、久石譲のオリジナル作品とエンターテインメント音楽とクラシック指揮に共通している。創作活動や作家性のフィールドとサイクル、とても巧みに循環させながら、螺旋上昇させながら、多くのものを取り込み巻き込み進化しつづけてきた人。

スタイルをもっている。スタイルとは、村上春樹でいえば文体、久石譲でいえば作風ということになるでしょうか。読めば聴けばそれとわかる強いオリジナリティをもっている。ここを磨いてきたものこそ《長編・短編・翻訳=オリジナル・エンタメ・指揮》というトライアングルです。三つを明確な立ち位置で発揮しながら、ときに前に後ろに膨らんだり縮んだり置き換えられたり、そして流入し混ざり合い、より一層の強い作品群をそ築き上げている。創作活動の自乗になっている。

そう思ったことをこれから進めていきます。

 

 

今回題材にするのは『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集 1997-2011』(2010/2012)です。

インタビューごとに、その時書き上げた本・翻訳した本などが話題の中心になっています。それだけにピンポイントに深い内容です。約20本近く収録されていますが、海外インタビューが半数以上を占めているのも特異です。日本ではあまり質問されないような角度(聞きにくいこと出てこない視点など)で飛び交っているのもおもしろいです。

いろいろなインタビューをわざわざまとめて一冊の本にする、多方面に拡散されたものを集める、親切だなと思います。そのニーズがたしかに存在する、すごいことだなと思います。2012年文庫化の際にインタビューが1本追加収録されているので、単行本とはタイトルの年表記が異なっています。

 

自分が読んだあとなら、要約するようにチョイスチョイスな文章抜き出しでもいいのですが、初めて見る人には文脈わかりにくいですよね。段落ごとにほぼ抜き出すかたちでいくつかご紹介します。そして、すぐあとに ⇒⇒ で僕のコメントをはさむ形にしています。

 

 

 

”それ以来僕の小説はどんどん分厚くなっていきました。そしてストラクチャーはどんどん複雑になっていった。新しい小説を書くたびに、僕は前の作品のストラクチャーを崩していきたいと思います。そして新しい枠を作り上げたいと。そして新しい小説を書くたびに、新しいテーマや、新しい制約や、新しいヴィジョンをそこに持ち込みたいと思います。僕はいつもストラクチャーに興味があるんです。ストラクチャーを変えたら、それにつれて僕は自分の文体を変えなくてはなりません。文体を変えたら、それにつれて登場人物のキャラクターをも変えなくてはなりません。同じことばかりいつまでもやっていたら、自分でも飽きてしまいます。僕は退屈したくないのです。”

~(中略)~

⇒⇒
ある創作家にとっては、自分のオリジナリティその一点を極めていくという道もあると思います。村上春樹さんのように、ある意味で自分の作家性をどんどん解体していくことで、より新しく多くのものを取り入れ強固なものにしていく。久石譲さんもまたこれと同じような道、そんな気もしています。たぶん、変化を希求しているし、変化することは自然なことなんです。

 

 

”翻訳って、手を入れれば入れるほどよくなるものだから、改訳できる機会があるというのは、翻訳者にとってはありがたいことなんです。単行本と文庫と全集とで、少しずつ訳が変わっているものもあります。三十代のときに訳したものは、僕もけっこう若いし、今読み返してみると、訳文にも不思議な若々しさみたいなものがある。カーヴァーの全体像がまだよく見えていないので、ちょっとニュアンスが違っているところもあって、それはそれで面白いんだけど、全集というかたちになると、やはり統一感みたいなものは必要になってきますよね。これからもまた機会があれば少しずつヴァージョンアップしていきたいと思います。”

~(中略)~

⇒⇒
これを読みながら、多くの指揮者が年齢を重ねるごと同じ作品に向き合いなおしていること、少し理解が深まりました。たとえばカラヤンも40代の頃と70代の頃の指揮とではずいぶん違います。あるいは、指揮者がベートーヴェン交響曲の中からひとつを扱っていた頃と、全集としてまとめあげるようになった頃とでは、経験と解釈も変わっていてしかり。そんなことも思いました。作曲家の作品を順番に追っていくことで見えてくることもあるのかな、とか。

訳が若い、指揮が若い、ピアノ演奏が若い。たしかにそういうふうに感じることってあります。不思議です。そこへ年齢を重ねた新テイクも並んで、溌溂と円熟を比べることができることの幸せってたしかにあります。

 

 

”僕はそれは非常にありがたいことだと思うんですよ、実際の話。そんなふうに同じ本を二度三度くり返し読んでくれる人って、今の世の中にそんなにいないですからね。情報が溢れかえったこんな忙しい時代に。作者としてはただもう感謝するしかない。しかし、僕がこんなこと言うのはなんだけど、何度読み返したところで、わからないところ、説明のつかないところって必ず残ると思うんです。物語というのはもともとがそういうもの、というか、僕の考える物語というのはそういうものだから。だって何もかもが筋が通って、説明がつくのなら、そんなのわざわざ物語にする必要なんてないんです。ステートメントとして書いておけばいい。物語というかたちをとってしか語ることのできないものを語るための、代替のきかないヴィークルなんです。極端な言い方をすれば、ブラックボックスのパラフレーズにすぎないんです。

僕はだからこそ、できるだけ読みやすい文章で小説を書きたいと思うんです。そしてできることなら時間を置いて読み返してほしい。それだけの耐久性のあるタフな文章を僕は書きたいと思っています。

このあいだブライアン・ウィルソンが日本に来て、『スマイル』ツアーをやって、聴きに行ったんだけど、僕はライブで、『スマイル』というアルバムが目の前で、頭から順番通りに実際に演奏されるのを見て、それで初めて「そうか、うーん、『スマイル』というのはこういう音楽世界だったんだ!」と理解できたところがあったんです。はたと膝を打つところがあった。一九六六年くらいに基本的に作られたアルバムで、これまでにいろんなかたちでずいぶん繰り返し聴いてきたんだけど、でも全体像が僕なりに正確に理解できるまでに、結局四十年くらいかかってるわけです。そういうのってすごいことですよね。『ペット・サウンズ』にもそういうところがありますよね。これも理解できるまでにずいぶん歳月がかかりました。僕は『ペット・サウンズ』とか『スマイル』の中の曲の多くも、出てきたときにリアルタイムで聴いているわけだけど、それから四十年近く、実人生をかけて少しずつ理解できていたという実感があります。そういう意味合いでは、ブライアン・ウィルソンという人の提出する「物語性」の強烈さというか、「文体」の強靭さ、その奥行きの深さに、同じ表現者として感じるところはあります。”

~(中略)~

⇒⇒
ちょっと長い引用になってしまいました。とても気に入っているところです。”物語というかたちをとってしか語ることのできないものを語るための~”。ということは、同じく「音楽というかたちをとってしか語ることのできないものを語るための~」になりますね。たしかに。

もうひとつ、アルバムを理解できるまでに40年近くかかったという実体験のお話。これ、好きなアーティストあるあるエピソードだと思います。久石譲アルバムもそう。今になって初めて気づくことってたくさんあります。

 

 

”そうですね。音楽はいろんな意味で僕を助けてくれます。二十代のときにはジャズの店を経営していて、来る日も来る日も朝から晩までジャズを聴いていました。音楽は僕の身体の隅々まで染み込んでいたと言っていいかもしれません。そして今もそこに留まっています。二十九歳のときに小説を書こうと思ったとき、僕には小説の書き方がわかりませんでした。それまで日本の小説をあまり読んだことはなかったし、だからどうやって日本語で小説を書けばいいのか、見当もつきません。でもあるとき、こう思ったんです。良い音楽を演奏するのと同じように、小説を書けばそれでいいんじゃないかと。良き音楽が必要とするのは、良きリズムと、良きハーモニーと、良きメロディー・ラインです。文章だって同じことです。そこになくてはならないのは、リズムとハーモニーとメロディーだ。いったんそう考えると、あとは楽になりました。そして『風の歌を聴け』という作品を書き上げました。楽器を演奏するのと同じような感じで書いたんです。僕の文章にもし優れた点があるとすれば、それはリズムの良さと、ユーモアの感覚じゃないかな。それは今に至るまで、僕の文章について基本的に変わらないことだという気がします。”

~(中略)~

⇒⇒
小説の書き方が音楽にあるっておもしろいですね。さらっと読むと、よくわかるとも思うんですけれど。じゃあ説明してと言われたら実はすごく難しい。たぶん、とても深いことなんです。

 

 

”人称による書き分けというのはとても大事なので(少なくとも僕にとっては大事なことなので)、短編小説でいろいろと試してみます。そして長編小説で何をすればいいのか、どんなことができるのか、と考えます。いわば実験台のようなものです。ヴォイスのあり方や、視点の動きを、あれこれと実地に試験してみます。喩えは物騒だけど、軍隊が局地戦で兵隊の性能や、戦略の有効性を実地に試してみるのと同じように。僕の場合は、短編小説でまず何かを試し、中編小説でそれをさらに進展させ、最後に万全のかたちで長編小説に持ち込みます。はっきり言ってしまえば、長編小説が僕にとっての主戦場なのです。だから短編小説を書くときには、そのたびにテーマを決めて、いろんな新しいことをやってみます。短編小説で失敗しても傷は小さいけれど、長編小説で失敗すると命取りになります。”

~(中略)~

⇒⇒
よく語られる内容で、同旨Part.1にもあります。

ちょっと見方を変えて。ということは、短編小説での実験はある種むき出しでもある。万全に扱えるようになった長編小説のときには、きれいに整えられ巧みに隠さたりもしている。習得極め操れるようになる前の短編小説には、ありありと刻まれたさまや勢いのようなものがあるのかもしれない。

久石譲のMFコンサートで意欲的に発表される中規模の新作しかり、自らのシステムで進化させる単旋律(Single Track Music)手法しかり。小さな曲や小さな編成から試されながら、手応えと磨きあげをもって交響作品にまでなっています。逆方向から見ると、シンプルなSingle Track Music手法は中規模作品でありありとむき出しに刻まれている、に等しいです。うん、すごくよくわかる。

 

 

”僕は二十九歳になるまでまとまった文章を書いたことがありませんでした。ただ音楽を聴いて、本を読んでいました。自分で何かを書きたいとは思っていませんでした。でも二十九歳になって突然に、何かを書きたくなったのです。書き方なんて分かりませんでした。どうやって小説を書けばいいのか分からなかったのです。それで考えたのが、音楽を演奏するみたいに書けるのではないか、ということでした。僕はピアノを弾きましたから。僕に必要だったのは、リズムとハーモニーと即興性(インプロヴィゼーション)でした。即興性ということから僕は多くを学んだと思います。ちょうどメロディーを即興で演奏するように、僕は物語を書きます。僕はジャズが大好きですが、ジャズというのは即興の音楽です。僕にとっては、書くことも即興の一種です。自分が自由でなくてはなりませんから。だから、もしあなたが僕の本を読みながらそこに音楽を聴きとってくれるとしたら、僕はとてもうれしいです。多くの人から音楽について、僕の作品のテーマであるとか作品の意味を表しているとか言われますが、僕はテーマにせよ意味にせよ、何かの目的を持って音楽のことを書いているわけではありません。テーマや意味はそんなに重要な問題ではありません。僕にとって大切なのは、僕の物語を通じてあなたが音楽を聴きとってくれることなのです。

そうです。音楽がなくてはいけません! もしその文章にリズムがあれば、人はそれを読み続けるでしょう。でももしリズムがなければ、そうはいかないでしょう。二、三ページ読んだところで飽きてしまいますよ。リズムというのはすごく大切なのです。”

~(中略)~

⇒⇒
よく語られる内容で同旨あります。

 

 

少し追加します。

テーマからは横道になりますけれど、とても印象に残っているページです。

 

”バッハとモーツァルトとベートーヴェンを持ったあとで、我々がそれ以上音楽を作曲する意味があったのか? 彼らの時代以降、彼らの創り出した音楽を超えた音楽があっただろうか? それは大いなる疑問であり、ある意味では正当な疑問です。そこにはいろんな解答があることでしょう。

ただ、僕に言えるのは、音楽を作曲したり、物語を書いたりするのは、人間に与えられた素晴らしい権利であり、また同時に大いなる責務であるということです。過去に何があろうと、未来に何があろうと、現在を生きる人間として、書き残さなくてはならないものがあります。また書くという行為を通して、世界に同時的に訴えていかなくてはならないこともあります。それは「意味があるからやる」とか、「意味がないからやらない」という種類のことではありません。選択の余地なく、何があろうと、人がやむにやまれずやってしまうことなのです。

二十世紀の末から、二十一世紀の初めにかけて、僕が一連の小説を書いたことにどのような意味があったのか、それは後世の人が判断することです。時間の経過を待つしかありません。ただ僕としては、意味があるにせよないにせよ、「書かないわけにはいかなかったんだ」ということなのです。”

~(中略)~

⇒⇒
正座して読みたい。かぶせるコメントもない。

「クラシックで音楽は完成してるからそれしか聴かない」「ロックはあの時代がピークだからそれだけ聴いておけばいい」なんて人もいるようで。今の時代を生きているのに、ほんともったいない。

 

 

”小説に関しても、他のことに関してもそうだけど、「誤解の総体が本当の理解なんだ」と僕は考えるようになりました。『海辺のカフカ』に関して読者からたくさんメールをもらって実感したことは、そこにはずいぶんいろんな種類の誤解やら曲解やらがあるし、やたらほめてくれるものもあれば理不尽にけなすものもあるんだけど、そういうものが数としてたくさん集まると、全体像としてはものすごく正当な理解になるんだな、ということでした。そこには、ちょっと大げさにいえば、感動的なものがありました。だから逆にいえば、僕らは個々の誤解をむしろ積極的に求めるべきなのかもしれない。そう考えると、いろんなことがずいぶんラクになるんですね。他人に正しく理解してもらおうと思わなければ、人間ラクになります。誰かに誤解されるたびに、見当違いな評が出るたびに、「そうだ。これでいいんだ。ものごとは総合的な理解へと一歩ずつ近づいているんだ」と思えばいいんです。逆にいえば、小説家というのは、あるいは小説というのは、そんなに簡単に正確にぴっと外から理解されてしまっては、むしろ困るんじゃないかと。そんなことになったら、僕らはもうメシを食っていけなくなるんじゃないかと。”

~(中略)~

⇒⇒
一つの正解を求めるのとは別ものです。ここで語られているのは、答え合わせじゃなくて理解を深めるということ。たった一つの意見が一般論になってしまう危険性を対にみたときに、相当数の意見があってこそ総合的に複合的に立体的にその解はつくられていく。たとえ誤解が含まれていたとしても、意見の数が多いということはとても大切なことなんです。

多くの人に愛されているスタジオジブリ作品。見た人の数だけ受けとめ方があって、それが飛び交ってぶつかって磨かれて。だから、今多くの人たちが共有して理解を深めることができている。そういう感じのことだと思います。だからね…音楽だって語らなければ理解は深まらない、いかに言葉にすることが難しい芸術だからといって…諦めてはいけない。

 

(以上、”村上春樹文章”は『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集 1997-2011』より 引用)

 

 

 

今回とりあげた『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集 1997-2011』。村上春樹さんの作家としての姿勢や人となりを見てとれる内容です。本書あとがきには、”作家はあまり自作について語るべきではないと思っている” と書かれています。でもやっぱりファンとしてはいろいろ知ってより深く楽しみたい。

”あるいはまたその物語が生まれた事情や経緯に、多くの読者は興味を抱かれるかもしれない。執筆に関わるちょっとしたエピソードを披露して、それなりに楽しんでいただけるかもしれない。しかるべき時期に、そのような付随的なことがら、あるいは周辺事情を著者が気軽に語ることも、作家と読者との関係の中で、ある程度必要であるかもしれない、とも思う。それも僕がインタビュー依頼に応じる理由のひとつだ。”

あとがきにはこうもありました。さすがよくわかってらっしゃる!長いキャリアのなかファンをつかんできた秘訣はここにもありそうです。

 

 

-共通むすび-

”いい音というのはいい文章と同じで、人によっていい音は全然違うし、いい文章も違う。自分にとって何がいい音か見つけるのが一番大事で…それが結構難しいんですよね。人生観と同じで”

(「SWITCH 2019年12月号 Vol.37」村上春樹インタビュー より)

”積極的に常に新しい音楽を聴き続けるという努力をしていかないと、耳は確実に衰えます”

(『村上さんのところ/村上春樹』より)

 

 

それではまた。

 

reverb.
ある目的をもって再読すると読むごと新しい発見がありますね。

 

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

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Overtone.第72回 「久石譲&ワールド・ドリーム・オーケストラ 2022」コンサート・レポート by ふじかさん

Posted on 2022/08/03

7月23~29日開催「久石譲&ワールド・ドリーム・オーケストラ 2022」です。今年は国内5都市5公演&国内海外ライブ配信です。予定どおりに開催できることが決して当たり前じゃない今の状況下、出演者も観客も会場に集まることができた。まだまだ足を運べなかった人もいます。昨年に引き続きの開催&ライブ配信に喜んだファンはいっぱいです。今年も熱い夏!

今回ご紹介するのは、おなじみふじかさんです。ご紹介するバリエーションが尽きてしまうくらい、いつもありがとうございます!さすが多彩な久石譲コンサートに足を運びつづけている、体感するものや感想がよりパーソナルなものになっていると感じてきます。ぐっと深く広がりをもった宝物の音楽体験。初めての久石譲コンサートから13年か、こちら26年くらい。ポテンシャルの差を感じてしまう(苦笑)こんなにたくさんのこと聴けないと思っている人も大丈夫ですよ。これから少しずつ一歩ずつ触れていけば、きっと音楽は豊かに響いてくれます。

 

 

久石譲&ワールド・ドリーム・オーケストラ 2022

[公演期間]  
2022/07/23 – 2022/07/29

[公演回数]
5公演
7/23 東京・すみだトリフォニーホール 大ホール
7/25 広島・広島文化学園HBGホール
7/26 愛知・愛知県芸術劇場 コンサートホール
7/28 静岡・アクトシティ浜松 大ホール
7/29 大阪・フェスティバルホール

[編成]
指揮・ピアノ:久石 譲
管弦楽:新日本フィル・ワールド・ドリーム・オーケストラ
バンドネオン:三浦一馬
ソロ・コンサートマスター:豊嶋泰嗣

[曲目]
久石譲:水の旅人
久石譲:FOR YOU

久石譲:My Lost City for Bandoneon and Chamber Orchestra
Original Orchestration by Joe Hisaishi
Orchestration by Chad Cannon

—-intermission—-

久石譲:MKWAJU
久石譲:DA・MA・SHI・絵

久石譲:交響組曲「紅の豚」
Symphonic Suite Porco Rosso
Original Orchestration by Joe Hisaishi
Orchestration by Chad Cannon

—-encore—-
One Summer’s Day (for Bandoneon and Piano)
World Dreams 

[参考作品]

My Lost City 久石譲 『紅の豚 サウンドトラック』 Dream Songs: The Essential Joe Hisaishi Songs of Hope: The Essential Joe Hisaishi Vol. 2

 

 

WDO2022浜松公演の様子をレポートさせて頂きます。

2022年7月28日 アクトシティ浜松 大ホール 18:30開演

 

今年のWDOは『My Lost City』と『紅の豚組曲』の2本柱を軸にプログラムされました。4月にコンサート情報が発表になった際は、久石さんファン界隈の中では驚きと喜びに溢れました。そしてようやく待ちに待った公演の7月。

今回は初日の東京公演の様子が配信されました。そのため、7月23日の東京公演の様子を配信でじっくりとチェックした後、7月28日の浜松公演を実際に行って公演を観るといういままでにない楽しみ方もすることができました。

久石さんの長年のキャリアの中で、音楽の街である静岡県浜松市でのコンサートは初だったのではないでしょうか? 新日本フィルとしては、5月に50周年記念ツアーにて、同じくアクトシティ浜松での演奏会が実施されていたようです。

 

チケットもぎりを通過し、会場内へ入るとステージにはすでにピアノがセッティング済み。いままでのコンサートは指揮台すぐ横のやや上手よりに鍵盤が来るように置かれることが多かったですが、今回はステージのほぼ中央にピアノが置かれていた印象があります。

座席につくと、ピアノの高橋さん用のピアノの調律中でした。調律が終わり、しばらくするとオーボエの神農さんがステージで練習されており、『漂流者』のメロディが時折聴こえてきて、その時点で期待でワクワクが止まりませんでした。

18:30すぎに続々と楽団メンバーも集結し、いよいよチューニングがスタート。暫しの静寂ののちに、久石さんが登場しました。ちなみにアクトシティ浜松の大ホールの下手には扉が二つあり、奥側の扉はコントラバス群で通り抜けが難しいこともあってか、久石さんは、客席に近い扉から出入りをする形なり、そちらの扉にはスポットライトも当たっていました。

 

 

Joe Hisaishi『Watar Traveller』

ピアノとハープのイントロのち、フルートが加わり、その後炸裂する大迫力のオーケストラの音色。コンサートの1曲目には相応しい祝典序曲のような力強さもある大迫力の楽曲からスタートです。WDOでは2014年以来、8年振りに披露されました。

テンポは少し速めで、全体的にキレがあり、とてもカッコいい演奏に仕上がっていました。サビの主旋律のメロディももちろん、同時に流れるホルンの副旋律も壮大で本当に好きな楽曲の一つです。中間部での野津さんによる美しいフルートソロには本当にうっとり。弦楽のパートでは、各パートに「さあここだよ!」という感じに次々と指示を飛ばす久石さんの姿もありました。終盤では銅鑼が加わり壮大に元気よくフィニッシュ!

この曲、私が初めて久石さんのコンサートに行った時の「ミニマリズムツアー2009」の時も演奏されていました。その時は、音源を持っていなくて(※メロディフォニーもまだ出ていません)まったく知らない曲でしたが、その力強さに圧倒されたのを今でも覚えています。その当時は導入のピアノソロを久石さんが演奏していた時代でもありました。初めての久石さんのコンサートに参加したときの楽曲を13年経て、再び堪能できるということも感慨深かったです。

 

Joe Hisaishi『FOR YOU』

前曲と同じく映画『水の旅人』より選曲。ホルンの導入からフルートの美しいメロディ、そしてチェロがそのメロディをさらに紡いでいきます。冒頭のフルートソロは、野津さんではなく渡辺さんが演奏されるところも見どころの一つだと思います。サビではヴァイオリンのメロディが花開き、本当に美しい久石さんのメロディを堪能できます。音色の使い方から、なんとなく印象派的な感じも受けるこの楽曲。今年4月に行われた新日本フィルとの「すみだクラシックへの扉」での印象派クラシックの指揮の成果も出ているような、本当に彩豊かな演奏でした。

浜松公演では拍手が鳴りやまず、ここで久石さんは再度袖から登場。普段とは違う出入り口から登場する久石さんも少し照れたのか、頭をポリポリと掻きながら再度ステージに登場されていました。

 

次の楽曲へしばし舞台替えとなります。

 

 

Joe Hisaishi『My Lost City』

いよいよ今回の2本柱のひとつ、『My Lost City』の始まりです。拍手喝采の中、バンドネオンの三浦さんと久石さんが登場しました。

『Prologue』
朧げなストリングの音色で一気に『My Lost City』の世界へと誘います。ヴァイオリンの乾いたような高い音色から、渦巻くような弦の旋律。スーッと伸びていく和音の先に響く音色は…

『漂流者~Drifting in the City』
バンドネオンのソロが、寂し気なメロディを紡いでいきます。もう本当に美しかった。原曲ではピアノの音色が印象的で、個人的にはどこかピアノの音色は俯瞰するような形で聴こえていました。それが今回はバンドネオンに置き換わることによって、リアルで、その物語の主人公が鼻歌で歌っているような雰囲気も感じました。それにしてもピアノの旋律しか似合わないと思い込んでいたこのメロディが、こんなにバンドネオンがはまることも衝撃的でした。

『Jealousy』
ここでまさかのこの曲!確かに原曲でもバンドネオンがフィーチャーされてましたが、まさか生で聴けるとは!!ピアノの高橋さんによるジャージーなメロディも堪能できました。バンドネオンの三浦さんはうっとりとした表情で時折笑顔で演奏されていたのも印象的でした。クラリネットのマルコスさんの音色も色っぽくてとっても素敵でした。曲の終わる部分では久石さんの指揮台を降り、ピアノの前で指揮をしていました。

『TWO OF US』
久石さんのピアノの伴奏に合わせ、バンドネオンの三浦さんがメロディを奏でていきます。続いてはコンマスの豊嶋さんによるヴァイオリンソロ。どちらも甲乙つけがたい美しさ。そして、バンドネオンとヴァイオリンが絡みつつ演奏していくシーンでは、豊嶋さんと三浦さんがアイコンタクトで息を合わていました。まるで「すみだクラシックの扉」でのコンマスのチェさんとソリストのリーウェイさんがアイコンタクトを取っているのを彷彿とさせる瞬間でした。

『Madness』
こちらもバンドネオンがメインメロディへと進化をした『Madness』。武道館や世界ツアーでの構成を元にしたショートバージョンのアレンジでしたが、より濃密な構成になっていました。

『冬の夢』
まさかこの曲も聴けるなんて思っていませんでした。原曲ではチェロがフィーチャーされているので、構成から外れるのではないかと予想していましたが、どんどん予想を裏切っていきます。中盤のバンドネオンソロになる箇所では、2ndVnかピアノはわかりませんが、音量を抑えて抑えて!と二度ほど指示する久石さん。その後の盛り上がりでは大きく!新たに指示もされていました。

『Tango X.T.C.』
もともとバンドネオンがフィーチャーされているので、力強さ、色気に圧倒されました。ここでも三浦さんが笑顔で演奏されているのも印象的でした。中間部でのピアノの高橋さんによるスケール的なピアノ伴奏も美しくて、カッコ良かったです。終盤ではパーカッションも入り、ジャージーなパートへ。

『My Lost City』
組曲の最後の曲は、原曲CDでも最後を飾るこの楽曲。東京公演では久石さんのピアノで始まっていましたが、浜松公演では豊嶋さんソロヴァイオリンに差し替えられていました。その後、冒頭の『Prologue』と同じパートを回想し、バンドネオンが音色を加えながら、静かに楽曲が終わりました。

 

改めて8曲で構成された今回の組曲の完成度は本当に高くて、本当に感動しました。なんとも贅沢な時間で、体感時間は本当に数分だった気がします。今回、このような形で改めて作品として残されたことにより、今後のコンサートでの演奏機会が増えることを期待するとともに、この感じでいけば、『Etude』もソリストを迎えて、新たな久石流ピアノコンチェルト作品も再現可能では?と妄想も膨らみました。

 

 

ー休憩ー

 

 

Joe Hisaishi『MKWAJU 1981-2009』

国内演奏ではこちらもかなりお久しぶりになる楽曲。2010年のアジアツアー以来でしょうか? 2台のマリンバの導入のちに、マルコスさんによるバスクラの音色。そこから始まるズレてズレて、たまに合って、またズレにズレまくる同じ旋律がぐるぐると円を描いてくような演奏。もう本当に聴いていて楽しい!ヴァイオリンの掛け合いになるパートも対向配置になっているため、右、左とヴァイオリンの音色が行ったり来たりするのも楽しいです。各パートもどんどん折り重なっていき、最後はダンッ!とフィニッシュです!

 

Joe Hisaishi『DA・MA・SHI・絵』

ここ数年、よくプログラムに組まれることが多くなったこの楽曲。新日本フィルとは3月4月の演奏会でもセットリスト入りしていました。今回は座席が3列目だっとこともあり、久石さんの指示が細かく各パートへ手の先から飛んでいくのもしっかりとみることができました。3月4月でも演奏してきた甲斐があってか、今回の完成度もさらにグッと高まっている気がしました。テンポは3月に比べて速かった感じがします。

個人的な話になりますが、先日「Just ear」というソニーのオーダーメイドイヤホンを購入しました。耳の型を取る前にどういう音の構成にするかを決める段階があるのですが、そこでの視聴をこの『DA・MA・SHI・絵』をチョイスしてみました。コンサートで実際にこの曲を聴くと、ステージのあちらこちらからそれぞれの音色が、立体的に渦を巻くように聴こえてきます。その生で聴いた感じが近い音のプリセットを選ぶのにこの曲を試しに聴いてみた…というこぼれ話です。

 

Joe Hisaishi『Symphonic Suite Porco Rosso』

2本柱のうちのもうひとつ。いよいよ『紅の豚組曲』の登場です。

『帰らざる日々(イントロピアノソロ)』
次の曲の『時代の風』から楽曲がスタートするかと思いきや、久石さんのピアノソロからの導入でびっくりしました。ノスタルジーを感じる印象的なピアノソロで『紅の豚』の世界へと誘います。

『時代の風~人が人でいられた時~』
ピアノを弾き終わって、ミニマルを感じさせる弦楽の音色に、力強い低弦の刻み。木管の愉快なメロディ。サントラでしか聴いてこなかった曲がどっと、目の前に押し寄せてきました。生で聴くと、体に伝わってくるドンドンドンドンという音色に圧倒されました。

『Flying Boatment』
チューバの佐藤さんによる力強い前奏に続き、トランペットのメロディが、あの少し間抜けな空賊の様子をいきいきと表現しています。途中の渡辺さんによるピッコロのソロも美しく、楽しげです。

『Fio-Seventeen』
フルートの野津さんによる導入から始まります。原曲ではここにマンドリン的なメロディが入っていましたが、今回の組曲ではその音色をなんとハープで表現。ハープでこんな再現の仕方ができるんだとびっくりしました。中盤のホルンとストリングが絡む部分は久石さんの雄大で伸びやかなメロディを堪能できます。終盤はテンポアップし、少しスリリング若干タンゴを感じさせるような雰囲気で終わります。

『セリビア行進曲』
こちらも賑やかな行進曲。大股でずんずんと歩くような2拍子に金管やパーカッションの音色が彩りを添え、愉快な一曲です。

『Doom~雲の罠~』
前曲の雰囲気とは一変、暗い雰囲気の導入から始まります。その後はハバネラを感じさせるような舞曲のような雰囲気。二ノ国のサントラの『水の都』に近い雰囲気があります。

『アドリアの海へ』
マルコスさんの伸びやなかなクラリネット音色に終始うっとり。日常を感じさせるようなさわやかで明るい雰囲気のこの曲も組曲に取り込まれたこともうれしく思いました。ワルツ調の3拍子の曲ですが、浜松公演では明らかに伴奏の3拍目を弱く演奏しているような感じでした。なにかの意図があるのでしょうか?

『Friend(後半)』
ハープから始まってストリングスが入り、少し暗い雰囲気を感じさせるこの曲は、『風立ちぬ』のサントラより、『菜穂子(会いたくて)』を連想してしまいます。

『Madness』
前半の『My Lost City』内ではバンドネオンメロディで演奏されていたものが、こちらでは満を持して久石さんのピアノにて披露されてました。東京公演の配信時では、若干オケとのズレもあり心配な箇所もありましたが、浜松公演ではピタリと演奏されていてとてもカッコよかったです。中盤のピッコロとオケとの掛け合いの部分も聴いていて楽しいんですよね。後半では再度久石さんがピアノに戻り、オケとの掛け合いへ。

『帰らざる日々』
冒頭のイントロ同様に久石さんのピアノがメインに、今回は優しくストリングスが包み込むようなアレンジに。浜松公演では久石さんのソロパートに、金管・木管メンバーによるフィンガースナップが追加されていました。前半の構成はWDO2015の際のものと類似していたと思います。

久石さんが指揮台へ戻ると、今度は転調し、ジャズパートへ。こちらは『Piano StoriesⅢ』の『il Porco Rosso』の後半を元にアレンジされていたと思います。フリューゲルホルンやトランペットがジャージーなメロディを次々とバトンをつなぐように演奏していました。盛り上がりのピークを迎えたのちに、再度『帰らざる日々』のメロディが顔を出し、久石さんが再度ピアノへ。

アウトロを久石さんが演奏するとともに、ピアノを包み込むように、まるでポルコの魔法が解けるかのような繊細なストリングスが浜松公演では追加されていました。

 

 

演奏が終わると拍手喝采。ここで何度かのカーテンコールのちに、恒例となった各楽器担当への拍手タイム。そして、Encoreへと移ります。

再度バンドネオン演奏用の椅子と譜面台が用意されたのち、三浦さんと久石さんが登場。久石さんが長く息を吐きながら、ピアノへ向かい譜面を用意しているのが印象的でした。

 

 

Encore1『One Summer’s Day』

アンコール1曲目は、バンドネオンとピアノによるスペシャルバージョンな『One Summer’s Day』。イントロからしばらくは久石さんのソロが続きますが、そこから三浦さんバンドネオンが入り、ピアノとバンドネオンが代わる代わる音色を紡いでいきます。中間部ではテレビ放送内で披露された「ラミレラーミレミ」というメロディがこちらでもしっかりと継承。

2番では久石さんは伴奏に徹し、三浦さんがソロのメロディを奏でていきました。終盤では再度久石さんによるアウトロのピアノソロ。最後はバンドネオンがスーッと息の長い音色とピアノが絡んでとても美しかったです。

 

Encore2『World Dreams』

WDOコンサートに来たら、この曲は絶対外せません。今回も最後のアンコールに披露。もう何回も何回もコンサートで聴いてきたのに、毎年変わる世の中の情勢に合わせて、この曲の聴こえ方もまったく変わってきます。

今年の演奏はより「世界の夢」を表現しているような感じがして、よりグッとくるものがありました。最後のチューブラーベルズの音が、より希望へ、平和へと歩みを照らす鐘の音に響いたように聴こえたのは私だけではないはずです。来年もこの曲が聴けますように。

 

 

演奏が終わると拍手喝采。その後の恒例の弦楽の皆様との腕合わせは、浜松公演では豊嶋さんと1st Vnの方のみで省略バージョンで終わりました。割と早めに楽団の皆様も退場しましたが、その後久石さんが再度豊嶋さんと三浦さんの三人で再登壇。

会場は一気に盛り上がり、スタンディングオベーションへ。ここのホールは4階席までありますが、すべて総立ちになるととても迫力がありました。お三方が深々と礼をしたのちに、ステージを後にしました。

大盛り上がりの浜松公演も無事に終了しました。

 

2022年8月1日 ふじか

 

曲ごとに丁寧でわかりやすい感想はすでに周知のとおりですね。WDO2022は初日から最終日に進むなかで修正が加えられている珍しいパターンです。ライブ配信では聴けなかった箇所があります。大きくは3つ、『My lost City』終曲のピアノからヴァイオリンへの変更、『Porco Rosso』終曲のピアノソロでのフィンガースナップ追加と、同曲アウトロでの弦楽追加です。そのあたりにも注目しながらもう一度読み返してみるとおもしろいですよ。

それから。

『漂流者』”その物語の主人公が鼻歌で歌っているような雰囲気”!なるほどとても新鮮でした。そんな発想のセンスなかったから、ぐっと物語が立ち上がってきますね。『アドリアの海へ』そうでしたね、テンポもゆっくりになって抑揚がついていましたし、後ろ髪をひかれるような、後ろにもたれかかった3拍子になっていました。軽快にワルツのリズムをキープしていた東京公演とは変わっていたと思います。カーテンコールの肘タッチはどの公演もコンマスとだけだったかもしれません。プログラム2時間いっぱいいっぱいでしたもんね。スタオベになる瞬間は肘タッチのときかご三人再登壇のときか、このあたりは総立ちタイミングが会場ごとに違ったかも。僕も肘タッチコーナーがつづくと思ってたから立ち上がるタイミング出遅れ組になってしまった。イヤホンうらやましいです。新しいオーディオ装置を買ったとき、初めての車を運転するとき、ここぞと選んでしまう曲のエピソードよくわかります。スマホを替えたときとかはもうそんな儀式的なことしなくなったけど。パーソナルなお返事のように書いてしまいました。みなさんもリプでどうぞ(笑)

 

 

静岡公演

 

 

こちらは、いつものコンサート・レポートをしています。

 

 

 

「行った人の数だけ、感想があり感動がある」

久石譲ファンサイト 響きはじめの部屋 では、久石譲コンサートのレポートや感想、いつでもどしどしお待ちしています。応募方法などはこちらをご覧ください。どうぞお気軽に、ちょっとした日記をつけるような心もちで、思い出をのこしましょう。

 

 

みんなのコンサート・レポート、ぜひお楽しみください。

 

 

reverb.
コンサートレポートはいつでも大歓迎です!書いてみようかなと思ったらお待ちしています!

 

 

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Overtone.第71回 「久石譲&ワールド・ドリーム・オーケストラ 2022」コンサート・レポート by tendoさん

Posted on 2022/08/02

7月23~29日開催「久石譲&ワールド・ドリーム・オーケストラ 2022」です。今年は国内5都市5公演&国内海外ライブ配信です。予定どおりに開催できることが決して当たり前じゃない今の状況下、出演者も観客も会場に集まることができた。まだまだ足を運べなかった人もいます。昨年に引き続きの開催&ライブ配信に喜んだファンはいっぱいです。今年も熱い夏!

今回ご紹介するのは、韓国からライブ・ストリーミング・レポートです。1-2週間ぶり!?(FOC Vol.5)の登場です。コンサート鑑賞のアングルとユーモアに拍車かかっています。楽しみにしている人きっと多いんじゃないかなと思います。僕もまだ答え合わせできていない箇所あるくらい…どうぞお楽しみください!

 

 

久石譲&ワールド・ドリーム・オーケストラ 2022

[公演期間]  
2022/07/23 – 2022/07/29

[公演回数]
5公演
7/23 東京・すみだトリフォニーホール 大ホール
7/25 広島・広島文化学園HBGホール
7/26 愛知・愛知県芸術劇場 コンサートホール
7/28 静岡・アクトシティ浜松 大ホール
7/29 大阪・フェスティバルホール

[編成]
指揮・ピアノ:久石 譲
管弦楽:新日本フィル・ワールド・ドリーム・オーケストラ
バンドネオン:三浦一馬
ソロ・コンサートマスター:豊嶋泰嗣

[曲目]
久石譲:水の旅人
久石譲:FOR YOU

久石譲:My Lost City for Bandoneon and Chamber Orchestra
Original Orchestration by Joe Hisaishi
Orchestration by Chad Cannon

—-intermission—-

久石譲:MKWAJU
久石譲:DA・MA・SHI・絵

久石譲:交響組曲「紅の豚」
Symphonic Suite Porco Rosso
Original Orchestration by Joe Hisaishi
Orchestration by Chad Cannon

—-encore—-
One Summer’s Day (for Bandoneon and Piano)
World Dreams 

[参考作品]

My Lost City 久石譲 『紅の豚 サウンドトラック』 Dream Songs: The Essential Joe Hisaishi Songs of Hope: The Essential Joe Hisaishi Vol. 2

 

 

はじめに

今年の夏もWDOがやってきた!FOCコンサートの一週間後にまたコンサートを見ることができるようになった!WDO2022コンサートもリアルタイムでストリーミングされ、韓国をはじめ世界中で楽しむことができた。コンサートの余韻が消えない。到底我慢できない!それで、今回のコンサートも自然にレビューすることになった。

 

W.D.O.の紹介

World Dream Orchestraは、久石譲の最も代表的なコンサートシリーズだ。韓国にも来韓して素敵な演奏を披露したことがある。(W.D.O.2017) 特に2008年の「久石譲 in 武道館」をはじめ数多くの公演を行い、2015年から新しいプロジェクトでスタジオジブリアニメーション音楽を交響組曲として進行している。2022年の交響組曲は紅の豚だ!

 

 

今回のコンサートは何度も嘆声をあげた。最初の嘆声は、舞台セッティングを見た時だった!

 

はじめから久石譲のメインピアノがセットされた!ということは、交響組曲ではない曲でも久石譲のピアノパートがあるということなのか?

落ち着こう···まだ下手な判断は早い。舞台のスペースが足りなくて先にセッティングされた場合もある。ピアノ演奏があるならピアノに楽譜を置くんじゃないかな?

 

 

楽譜を置いた!! しかも結構分厚いね!!まだチューニングも始まる前なのに、そうやってもう2回も嘆声をあげた。

 

 

Joe Hisaishi:Water Traveller

 

久石譲の以前のコンサートプログラムを見ると、「Water Traveller」と「FOR YOU」で始まる場合も多かった。オープニング曲にぴったりの素敵な曲だ。特に金管楽器の音が魅力的だった。久石譲がオーケストラに向けて連続で力強くパンチを放って締めくくり。曲が終わった後の静寂が本当に良かった。

 

Joe Hisaishi:FOR YOU

 

「水の旅人 侍KIDS」の主題歌の器楽バージョンとなる曲だ。メロディーメーカーの久石譲らしい本当に素敵な曲だ。「WORKS・I」または久石譲ベストアルバムVol.2(Songs of Hope)に収録されたものと似たバージョンだが、今回のコンサートのために金管楽器のフレーズが少し追加されたことが分かった。

今回のコンサートには、私が大変な時期を過ごした時に慰めになった大切な曲がたくさん演奏されたが、この曲のEnglishバージョンである「MELODY Blvd.」アルバムの「I Believe In You」も力になる素敵な曲の一つだった。

「水の旅人 侍KIDS」は、久石譲と親しくしていたAbey Road StudiosのミキシングエンジニアMike Jarratt氏と最後に一緒にした作品だったというエピソードがある。「My Lost City」も彼と一緒にしたアルバムなので、つながる面があるようだ。「地上の楽園」アルバムも大変だった時に大きな慰めを与えてくれたアルバムだが、このアルバムの「HOPE」という曲にも「Water Traveller」のいくつかのメロディーが入っている。

 

 

Joe Hisaishi:My Lost City for Bandoneon and Chamber Orchestra

 

「My Lost City」は1992年発売された久石譲のソロアルバムだ。宮崎駿がこのアルバムを聴いて「紅の豚」に数曲使ったというのは有名なエピソードだ。私が一番好きなアルバムだが、すでに生産中止となり、ストリーミングでも聴くことができない。(まだ中古市場で手に入れることはできる。)

今回のコンサートのためにバンドネオンを中心にアルバムが再構成された。バンドネオンの演奏者はMFコンサートで「The Black Fireworks」を完璧に演奏した三浦一馬さんだ。はじめに弦楽を中心に演奏される曲は「PROLOGUE」。 続いて演奏される曲は「DRIFTING IN THE CITY」だ。

暖かい音色のバンドネオンの雰囲気が本当に素敵だった。Chamber Orchestraでオーケストラの規模を縮小したのは、バンドネオンを際立たせるためではないかと考えた。

 

 

続いて演奏された曲は「JEAROUSY」。アルバムでも元々バンドネオンがメインになる曲で、コンサートで演奏されたことはほとんどない。バンドネオンのビブラート奏法が印象的だった。 うん?!演奏が終わって、急にピアノに向かう久石譲さん?!

 

 

続いて演奏された曲は、私の涙腺を刺激するその曲。「TWO OF US」です。WDO2017の韓国公演でも涙を流した曲だ。ピアノとバンドネオンの音色が本当によく似合っていた。

 

 

コンサートのマスター豊嶋泰嗣さんのヴァイオリンまで乗せて本当に幻想的だった。ヴァイオリンとバンドネオンの合奏もとても素敵だった。

そして次の曲は、Madness?!

やっぱり意表を突く久石譲だ。「紅の豚」でも演奏されるので除外されると思っていたが、「My Lost City」でも欠かせない「Madness」だと思っていたのだろうか。少し短いバージョンだったが、バンドネオンバージョンの「Madness」が演奏された。

 

 

「Madness」の演奏が終わってピアノを弾くために降りてくる久石譲?!一歩下がって再び指揮台に立ち、次の曲である「WINTER DREAMS」が演奏される。なぜこのような間違いが発生したのかは、後に「Symphonic Suite “PorcoRosso”」でわかりました。😂

「WINTER DREAMS」もピアノの伴奏が変化する部分がある。コンサートでアルバムとの違いを見つける楽しみ!これがコンサートの魅力だ。

 

 

次の曲は「Tango X.T.C.」この曲も大変な時にたくさん慰めになった大切な曲だ。 XTC、すなわちecstasy、恍惚そのものである曲だ。バンドネオンが演奏する「Tango X.T.C.」をコンサートとして見ることができてとても幸せだった。

シンバルが演奏する部分からが個人的に一番好きな部分だ。この曲が終わる最後の部分にマリンバが追加されている。 気づきましたか?!

 

 

そうやって終わるようにみえたが、予想外にまたピアノを弾き始める久石譲!「My Lost City」アルバムの最後の曲でタイトルとなる曲「MY LOST CITY」をピアノで演奏する!

「JEAROUSY」と同じくコンサートで演奏されたことが非常に稀な曲だった。短いバージョンだったけど、本当にびっくり選曲だった。(ピアノ楽譜が分厚い理由があった…)

そうして1992年に生まれたアルバム収録曲がバンドネオンに合わせて選曲、再構成され、まるでアルバム全体が一曲だったかのように生まれ変わった。

WDOコンサートでは「Asian Symphony」、[Woman]、[Hope]、[mládí] など過去のアルバムの名曲がコンサートプログラムに引き続いて登場している。これからもこのようなコーナーが続いたらいいな。例えば、Piano Stories シリーズはどうですか? 😊

 

 

Joe Hisaishi:MKWAJU

 

インターミッションが終わって最初の曲は本当に久しぶりに聴くミニマル曲「MKWAJU(ムクワジュ)」!久石譲の原点となる重要な曲である。以前、TENDOWORKでレビューしたことがある。

参照:히사이시조 – MKWAJU :: TENDOWORK

 

「MKWAJU」は2台の爽やかなマリンバで始まる。サックスは最近あまり編成しないため、バスクラリネットに置き換えられている。暑い夏を涼しくするミニマルサウンド!対向配置で聴くMKWAJU!

この曲もアルバムと違って聞こえる部分がある?トライアングルが追加された部分があります。見つけることができますか? 😂

 

 

ここでまたハプニングがあった。次の曲である「DA・MA・SHI・E」の楽譜が用意されていなかったこと!突発的な状況だったが、楽譜を受け取って拍手を誘導する久石譲だった。2011年の韓国公演で通訳が緊張しすぎて泣きそうな声を出した時を思い出した。このような場面がすべてライブコンサートの醍醐味ではないだろうか。(私はリアルタイムストリーミングだが。本当にリアルタイムという体感ができた。)

 

 

Joe Hisaishi : DA・MA・SHI・E

 

オランダの画家エッシャーのだまし絵をモチーフに作曲された曲だ。(タイトルのDA・MA・SHI・Eもだまし絵を日本語ローマ字表記にしたものだ。)だまし絵がどこに目を置くかによって同じ絵なのに別の絵に見えるように、この曲も耳を傾ける部分が低い音なのか高い音なのかによって、その時その時違うように聴こえるのが魅力だ。後半部の金管楽器が噴き出す部分はいつ聴いても本当にかっこいい!

「Water Traveller」はアルバム「Melodyphony」の初曲として収録された曲、「MKWAJU」と「DA・MA・SHI・E」はアルバム「Minima_Rhythm」に収録された曲。どちらもロンドンのAbey Road Studiosで録音されたアルバムだ。今回のコンサートの序盤にどこか暗い雰囲気が感じられるのはそのような理由からだろうか。

そして次は今日のハイライト、Symphonic Suite “PorcoRosso”!

 

 

Joe Hisaishi:Symphonic Suite “Porco Rosso”

この曲はいくつかの印象的な場面を中心にレビューしようと思う。

 

始まりと同時にピアノに座る久石譲!「Bygone Days」のテーマとなる「Il Porco Rosso」の導入部がピアノソロで演奏される。最初からピアノ演奏だなんて!すごく良かった!

 

 

しかし、曲がこれ以上長く続くことはなかった。この重要な曲がこんなにすぐ終わるの? 物足りなさを後にして、「紅の豚」の最初のトラックにつながる。この曲は「My Lost City」の「1920~AGE OF ILLUSION」から変形した曲で、私が大好きな曲の一つだ!

実は「1920~AGE OF ILLUSION」が原曲になるという事実を知って、勢い購入した中古CDを皮切りに本当に本格的な久石譲のファン活動が始まった。だから個人的に意味のある曲だ。

その後はサウンドトラックの中から数曲が選曲されて演奏される。サウンドトラックより短くなったり、順番が少し変わる部分もあるようだが、サウンドトラックで聴く時とは異なり、曲の間に柔らかく自然につながっていてとても良かった。

 

 

「紅の豚」の6番目のトラックである「セルビア行進曲」には、ピッコロにサウンドトラックとは異なるフレーズが追加されているが、とても軽快で溌溂としていて笑みがもれた。

 

 

そしていよいよ始まった「Madness」演奏!久石譲が「Madness」のピアノ・スタッカート部分を演奏する!WDO2015の時との楽曲と似ているが、タンタン-タタ!と演奏する部分のハーモニーが変化していた。オーケストラとピアノがやりとりするシーンは本当に好きなシーンだ。かつて、どれだけ「Madness」に心酔していたか分からない。この曲をライブで聴けてとても良かった。

 

 

そうして、Symphonic Suiteが仕上がると思ったが、再びひねった! また久石譲がピアノに向かう!そして「Il Porco Rosso」を再び演奏する。最初に短く演奏したのが終わりではありませんでしたか? さすが!

「My Lost City」での久石譲の勘違いがまさにこの部分のせいだったのだろう。「Madness」は今回のコンサートで2回演奏される。リハーサルの後半で「紅の豚」の「Madness」に続けて「Il Porco Rosso」を演奏したはずの久石譲だ。だから勘違いしたに違いない。 😂

今回の「Il Porco Rosso」はしっかりと演奏が続く。ヴァイオリンが空を突くように高い音を出す部分があるが、本当にとても良かった。ここからが本当のハイライトだ。

 

 

フリューゲルホルンがメインメロディーをかっこよく演奏し、コンサート会場は巨大なジャズバーに変わった。この部分からは曲を新しく書き込んだ部分のようだった。本当に素敵でエレガントな雰囲気を出している。隣のトランペットも立ち上がって演奏し、再びフリューゲルホルンが受け継いで演奏するが、オーケストラの演奏が尋常ではなかった。

生まれて初めて聴くメロディーが登場し、慌てながらもうっとりしているが、急激に拍子が速く変わると、再び雰囲気が変わった。

 

 

ピアノがメインテーマをまた演奏するのに、久石譲が動きだし、拍子がだんだん遅くなって···。

 

 

またピアノに向かう!!!
今日は本当にどうしたの!!!

続いて「Il Porco Rosso」の最後の部分をピアノで演奏する久石譲。冒頭の演奏と首尾一貫した。ここでは泣き出してしまった。「Spirited Away Suite」のときと似た演出だったが、全く予想できなかった。とても素敵な演奏だった。演出と構成もとても良かった。特に、最後のハイライトの瞬間は本当に素敵で華やかでした。

ベートーヴェン、ブラームスの交響曲を指揮し、自身の交響曲も3曲も作曲したおかげだろうか。ますます完成度が高くなり感情を掘り下げるように構成も緻密になるようだ。以前の交響組曲とは異なり、サウンドトラックから多くの変化が起き、新しく付け加えたりもしたのも印象的だった。

実は、WDO2021をはじめとする最近のコンサートでは、久石譲のピアノの比重が減り続けていた。残念ながら久石譲の年齢と指の負傷のお知らせのため理解するしかなかったし、短くても演奏してくれたことにも感謝していた。そんな状況で「My Lost City」をはじめ「Madness」「Il Porco Rosso」まで、ファンを十分に満足させる久石譲の演奏は本当に感激した。

 

 

Encore

 

アンコールは「One Summer’s Day」と「World Dreams」だった。それなら…公演前に見たツイッターはやっぱりネタバレだったのだろうか! 戸惑って少し裏切られた感じが…(今は削除されたツイートだ。)

「One Summer’s Day」はふだんコンサートでアンコールでよく演奏される曲だが、バンドネオンが添えられて本当に違う雰囲気になった。アンコールも久石譲のピアノって!とても幸せでした。

「World Dreams」は、WDOのテーマとなる重要な曲。WDOの毎公演ごとに欠かさず演奏される曲であるうえ、最近はアルバムごとに該当年度のライブ音源をきちんと収録している。ここで鳴るチューブラーベルが本当にいい。

最後のアンコールでこの曲が演奏されるとさよならを告げる惜しい感じだが、初期の頃にいつも最初の曲として演奏されたように、次の出会いを約束する曲かもしれない。

 

今回のコンサートは、長く記憶したい最高のコンサートだった。往年の名曲が一堂に会したうえ、コンサートで聴くことができないと思っていた曲をたくさん聴くことができて良かった。何よりまた久石譲のピアノが多くなってよかった!何度もびっくりしてコンサートが終わった後も落ち着くのが本当に大変だった。

来年には必ず韓国で直接聴くことができれば良いと思う。ぜひお越しください…!!

 

2022年7月29日 tendo

 

出典:TENDOWORK|히사이시조 & 월드 드림 오케스트라 2022 콘서트 리뷰
https://tendowork.tistory.com/89

 

今回もテンション高めおもしろかったですね!tendoさんのコンサート・レポートはいつも完成が早い。WDO2022は初日公演がライブ配信されて最終日まで一週間ほどの時間がありました。ツアー完走したらレポートを公開するという気配りも忘れないなか…早々と書き上げたtendoさんはたぶんコンサートが終わる時間を見計らって予約投稿してたんです(笑)待ちきれなかったでしょうね!

ライブ配信をリアルタイム視聴している瞬間に思ったことや気づいたことそのまま、まるで瞬間冷凍したように高い鮮度で封されている。だから臨場感あってホットに楽しめるんだろうなと思います。視聴しながらメモしてるのかな? 体感したテンションのままキープして文章に出せるってうらやましい。

本公演も楽曲の変化のことからステージでの微細な気づきまでアンテナMAXでした。僕も訳しながら驚きながら後でチェックしようととても忙しい。楽しい悲鳴です。もしも、WDO2022コンサートに行けなかった人やライブ視聴できなかった人が、これから先このレビューを見る日がきたら、きっと残念!悔しい!を連発するでしょうね。魅力をたっぷり詰めこんだコンサート・レポートありがとうございます!

tendo(テンドウ)さんのサイト「TENDOWORKS」には久石譲カテゴリーがあります。そこに、直近の久石譲CD作品・ライブ配信・公式チャンネル特別配信をレビューしたものがたくさんあります。ぜひご覧ください。

https://tendowork.tistory.com/category/JoeHisaishi/page=1

 

 

東京公演/Live Streaming

 

 

こちらは、いつものコンサート・レポートをしています。

 

 

 

「行った人の数だけ、感想があり感動がある」

久石譲ファンサイト 響きはじめの部屋 では、久石譲コンサートのレポートや感想、いつでもどしどしお待ちしています。応募方法などはこちらをご覧ください。どうぞお気軽に、ちょっとした日記をつけるような心もちで、思い出をのこしましょう。

 

 

みんなのコンサート・レポート、ぜひお楽しみください。

 

 

reverb.
これからもライブ配信の機会が増えるといいですね!

 

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

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